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宇多丸、映画『マネー・ショート 華麗なる大逆転』を語る! by「週間映画時評ムービーウォッチメン」2016年3月12日放送

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「映画館では、今も新作映画が公開されている。
 一体、誰が映画を見張るのか?
 一体、誰が映画をウォッチするのか?
 映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる――
 その名も、“週刊映画時評ムービーウォッチメン”!」

毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送でお送りしている
TBSラジオ AM954+ FM90.5
『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。

その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸による渾身の映画評
「週間映画時評ムービーウォッチメン」(毎週22:25〜)
の文字起こしをこちらに掲載しています。
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今回紹介する映画は『マネー・ショート 華麗なる大逆転』(日本公開2016年3月4日)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

**************************************************

宇多丸:
今夜、扱う映画は先週、ムービーガチャマシンを回して決まったこの映画。『マネー・ショート 華麗なる大逆転』

(BGM:レッド・ツェッペリン『When the Levee Breaks』が流れる)

はい。これ、最後に流れるレッド・ツェッペリンの『When the Levee Breaks』という、ヒップホップの古典的ブレイクビーツとしても知られているあれですけども。この歌詞の内容がシンクロしているということですね。訳すと、「堤防が決壊する時」。意味深ですね。アメリカを代表するベストセラー作家、マイケル・ルイスのノンフィクション小説『世紀の空売り−世界経済の破綻に賭けた男たち』を映画化。世界中を襲った世界金融危機の裏側で一世一代の大勝負に挑んだ4人の男たちを描く。 

監督は『アザー・ガイズ 俺たち踊るハイパー刑事!』などコメディー映画を数多く手掛けてきたアダム・マッケイ。まあ、過去5本ですね。出演はクリスチャン・ベール、スティーブ・カレル、ライアン・ゴズリング、ブラッド・ピット。非常に豪華なキャスティングとなっております。今年のアカデミー賞、賞レースでも非常にあちこちにノミネートなんかされておりました。脚色賞を取りましたしね。ということで、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』、これをもう見たよというリスナーのみなさま、ウォッチメンからの監視報告をメールなどで頂いております。ありがとうございます。

メールの量は……まあ、普通という。アカデミー賞、脚色賞止まりだったということもあるんですかね? 賛否で言うと、賛が6割。否、「あんまり良くなかった」とか、「面白かったけど不満もある」が4割。「予想と違ったけど最後まで飽きずに見られた」「専門用語がたくさん出てくるが、劇中の説明で最低限はわかる。完璧に理解できなくても十分楽しめた」などが主な褒める意見。それに対して、「出てくる用語がわからず、劇中で何が起こっているのか全くわからない」「どのキャラクターにも感情移入できず、退屈だった」が主な否定的意見。

また、賛否どちらの人も「あのサブタイトル『華麗なる大逆転』や予告編は詐欺だ」という意見が本当に多かったということなんですけどね。

(中略〜メールの感想読み上げ)

……はい、ということで行ってみましょう。『マネー・ショート 華麗なる大逆転』、私も、要はね、やっぱりたしかにね、一度では理解しきれないところも多かったため。あと、原作を読んでからとかいろんなセッティングを試すためにですね、三度ほど見てまいりました。まあね、この邦題『マネー・ショート 華麗なる大逆転』。こういう日本題をつける気持ちはわかるけれども……たしかに誤解を与えやすい感じだな、という。原題は『The Big Short』。『マネー・ショート』っていうと「なんかお金が足りないのかな?」みたいな。そんな話に思えちゃうけども。

「ショート(Short)」は金融業界とかああいう業界用語。ウォール街で言う「売り」。「買い」が「ロング(Long)」で「売り」が「ショート」っていう、そういうことらしいんですよね。マイケル・ルイスさんが書いた原作のノンフィクション。『マネーボール』の原作者ですね。『マネーボール』は僕、2011年11月26日に映画評をしましたけども。ノンフィクションの日本題が『世紀の空売り』。『The Big Short(巨大な売り、デカい売り)』っていうことですね。『世界経済の破綻に賭けた男たち』という、文春文庫から出ておりますが。

で、改めて言うならば、2007年から始まる、2008年にかけてクライマックスを迎える世界金融危機。その後も、もちろん余波があるわけですけど。いわゆるサブプライム住宅ローン危機からリーマン・ショックみたいなところに行く時にあったことが題材。それを元にしたフィクションということですね。で、僕ももちろん世界金融危機。スーパー大事なのはもちろんわかっているつもりだったけど、じゃあ実際にどういうことなのか?っていうことについては本当になんとなくしか分かってない。「リーマン・ショックっていうんだから、リーマン・ブラザーズがなんかやったんでしょ?」みたいな。

やったんだけど、別にリーマン・ブラザーズがたとえば主犯格的な役割とか、そういうことじゃないんだよ、みたいなね。そういう誤解をしている人、ぼんやりした誤解をしている人、いると思うんですけど。で、今回の映画を見て、原作のノンフィクションを読んで。あと、アカデミー賞も取ったドキュメンタリーで『インサイド・ジョブ』。これはまさに金融危機を描いていますけども。を、見てみたりなんかして、ようやくまあ、ビギナーレベルで。ビギナーレベルね。僕より知らない人になんとなく、たとえ話とか使って説明できる程度には理解したかな? 理解したつもり、ぐらいの感じですけども。

で、非常にシリアスかつ、ややこしい題材なわけですが、それを脚本化・監督したのが、映画ファンとしては「おっ!」となるところ。アダム・マッケイっていうね。驚きではあるんだけど、実は納得の人選と。まあ、ご存知の方も多い通り、もともとは完全にコメディー畑の人ですね。先ほども説明がありました。『サタデー・ナイト・ライブ』の作家出身という。で、その『サタデー・ナイト・ライブ』で仲間になった、僕、本当に大ファンなんですけども、ウィル・フェレル。もうウィル・フェレルが出ている映画は全部見ているというぐらい、ウィル・フェレル大好きなんですけども。

ウィル・フェレルと組んで数々の超ナンセンスコメディー映画の傑作を作ってきた。代表作はやっぱり『俺たちニュースキャスター(Anchorman)』というのがありますよね。あと、『タラデガ・ナイト オーバルの狼』なんていうレースが舞台のやつとか、『俺たちステップ・ブラザース −義兄弟−』。思い出すだけでちょっと吹き出しちゃう大バカコメディーの数々、傑作を撮っています。ただ、2010年。つまり金融危機の後に作られた『アザー・ガイズ 俺たち踊るハイパー刑事!(The Other Guys)』。『その他のやつら』っていうタイトルですね。刑事もの。が、ちょっとターニングポイントになっている。この作品も素晴らしいんですが。

特にエンドクレジットでですね、割とストレートに。それまではもう大バカコメディー、ナンセンスコメディーなわけですよ。すげーバカなギャグをやっている、そういう映画ばっか作っていたんだけど。『アザー・ガイズ』もそうやって進むんだけど、金融詐欺が題材になって、エンドクレジットでまさに俺がさっき、『あいつら、罰されてねえんだよ!』みたいなのとかも含めて、初めてそういう金融界とかの社会的不正義に対する怒りを、結構ストレートに叩きつける作品になっていて。ここがターニングポイントになる。

その後、たとえば2012年。原案と脚本を書いた『俺たちスーパー・ポリティシャン 目指せ下院議員!』。これもウィル・フェレル主演のやつですけども。これなんかも、メッセージの着地はすごく真面目だったっていうね。っていうかそもそも僕、パンフレットのバイオグラフィーでこれを初めて知ったんですけども。アダム・マッケイさん。『マイケル・ムーアの恐るべき真実 アホでマヌケなアメリカ白人』シリーズ。テレビでやっていたドキュメンタリーシリーズ。これの企画・制作とかをやっていたということなんですね。だから、もともとそういうポリティカル志向はあったということですけどね。

今回の『マネー・ショート』もですね、原作者のマイケル・ルイスさんの弁によればですね、『俺たちニュースキャスター』の続編。2013年の『俺たちニュースキャスター 史上最低!?の視聴率バトルinニューヨーク』という、これがもう輪をかけてくっだらない、もうくだらねえにも程があるっていうギャグが連発するのがあるんですけど。これも大好きなんだけど。これを作るかわりにスタジオから、「絶対に儲かる『俺たちニュースキャスター』の続編を作るんだったら、『マネー・ショート』っていう小難しいやつも作っていいよ」みたいな。そういうバーターで……っていう噂を原作者のマイケル・ルイスさんがおっしゃっておりますが。

で、それだけアダム・マッケイ監督的には社会派メッセージ路線っていうのは大マジっていうことですね。もうこれで行くぞ!っていう。で、その大バカ、ナンセンスの極みみたいな『俺たちニュースキャスター』の続編もですね、同時に劇中、近年のアメリカにおける報道倫理の変化みたいなものを歴史的に俯瞰する、言ってみればジャーナリスティックな視点みたいなものも入っている。

もともと、たとえば『ニュースキャスター』の一作目で非常に性差別ネタがあったりとか。二作目だと人種差別ネタがあったりとかっていうのも、まあ『サウスパーク』とかもそうなんだけど、実は非常に知的な批評性があって初めて笑えるんだよ。もともと、大バカなんだけど知性がベースになっているタイプのコメディーではあったということですね。で、そんなアダム・マッケイさんがですね、初の、ウィル・フェレル主演じゃなくて。ウィル・フェレルが今回出ると、さすがにちょっと……(笑)。どこで脱ぎ出すんだろう? とかね、暴れたりするんだろう? みたいになっちゃうけど。初の非コメディー。でも、スティーブ・カレル。立派にね、コメディアンなわけですけど。

初の非コメディーというか、この『マネー・ショート』も本当にあった笑うしかない、あまりにもすごすぎて、もはや笑えない不条理な事実を扱った、広い意味でのコメディーとは言えると思うんだけど。とにかく事実ベースの非ナンセンスコメディー。事実がベースのというのは初めてで。それでアカデミー賞で一気に脚色賞をゲットしましたし。作品賞ノミネート。ねえ。『俺たちニュースキャスター』は絶対に作品賞はノミネートされないですからね。それは、どんなにベースに知性があろうが何をしようが。大出世と言えるんじゃないかと思いますけども。

ただですね、予備知識ない未見の方にやっぱり、一応断っておかなきゃいけないのは、たとえば日本版のタイトル『華麗なる大逆転』。あるいは、日本版のポスターから当然受ける『オーシャンズ11』シリーズ的な印象。要は、悪いやつらに腕っこきチームが知恵を使って一泡吹かせるみたいな、そういう『オーシャンズ11』シリーズ的な印象とは根本から全く違う映画です!っていうことですね。そもそも、とても華麗に大逆転したって、そんな「華麗」なんてとても言えないような。「大逆転って言うのか? してないよね?」っていう、そういう話だし。

あと、そもそもポスターのあの4人。一組除いてチームじゃないどころか、会ってもいないっていうね。顔を合わせてもいないっていう、そういう話なんで。むしろ、そういうエンターテイメントとしてのわかりやすさとかカタルシス。スカッとする感覚。わかりやすさとかカタルシスの逆を行くような、それを狙っている作品なわけです。つまり、はっきり言うと、わかりづらいし、見終わっても全くスッキリしないっていうことですね。だから先ほどの否定的な意見も全くその通りっていうか。そういう風に作ってある作品ですね。

ただ、これも同時に、これは僕の見方として念を押しておきたいのはですね、そのわかりにくさとか、スカッとしなさ、カタルシスのなさっていうのは世界金融危機というこの題材に対する必然的アプローチ。もっと言えば、倫理的に唯一適切なアプローチという風に作り手が作って選んだやり方だと思うんですよね。つまり、たとえばですね、この物事。金融危機が起こった構図を過度に単純化してわかりやすくしすぎたり、あるいは善側にいる主人公が悪いやつらを倒すというような安易なお話的カタルシスを創作したりすると、これは全然違うことになってきちゃう。

つまり、金融危機っていう出来事の本質を歪めて、見誤らせてしまうことになる。そういう意図がはっきりあった上での、この作りなんだと思うわけですよね。まず、これも先ほどの最初のメールにあった通りだと思います。劇中でも言われている通り、現代の金融界。債権市場。これが破綻を招く元にもなったんだけど、その市場自体がまさにその「わかりづらさ」。難解そうな見かけっていうのを隠れ蓑に好き放題やってきたっていう事実が、これ、劇中でも言われているわけですよ。

しかも、完全に抽象的な商取引の世界ですからね。なので、原作のノンフィクションでさえ、わかりやすく説明はすごくしているんだけど、途中で何度も、「いやー、わかりにくくてすいませんね」って。脚注とかで「こんな話、よくここまで読み続けてくれて。すいませんね」みたいなことをエクスキューズが入ってくるぐらい。ということで、とてもじゃないけど、原作者のマイケル・ルイス自身も、「とてもじゃないけど映画化なんてできるわけがねえだろ? 『マネーボール』ならわかるよ。まだ、野球だから」って。あれだって、でも野球の試合のところは出てこない、変な野球映画だったわけですけども。

ただ、それをですね、監督アダム・マッケイさんはですね、それこそナンセンスコメディー畑ゆえの、非常に自由な発想とアプローチで、ものすごくポップに語ってみせることでですね、要は金融のプロたちがですよ、「まあ、素人さんにはわかんないと思いますよ」って言って煙に巻いて好き放題やってきたっていうのを、「って言っても、そんなご立派なもんじゃないんだぜ」っていうことを暴くがごとく、批評的に観客に伝えるために、非常にポップなアプローチを取っている。

具体的には、たとえば登場人物が、やおらこちら側に向かって話しだす、そういうメタな作りであるとか。あるいは、登場人物どころじゃない。実在の著名人が本人役で出てきて、こちら側に向かって話しだす。そういう、何重にもメタになった作りであるとかですね。様々な現実の映像ソースのコラージュ。ミュージックビデオから、報道からね、スチール写真から。あの時代をパパパッて表す時のスチール写真の選び方のセンスがすごいアダム・マッケイ、いいなと思いましたね。

「LL・クール・Jの『Mama Said Knock You Out』。『ババァ、ノックしろよ!』の途中のテーマでかかる、『Mama Said Knock You Out』の年だ」「あ、2パックとか出てきた頃だ」みたいなね。あと、最初にブルース・ブラザーズが出るのは、さすが『サタデー・ナイト・ライブ』出身っていうことかもしれませんけどね。まあ、そういう映像コラージュであるとか。あるいは、BGとして流されるポップミュージックと内容の、歌詞的なシンクロであるとかですね。もちろん独白ナレーションとか字幕など。とにかく映画として使える手段は、リアルと虚構のレベルとかそういうのを問わず。もう手段を問わず、全てブチ込むというやり方でやっている。

この情報量とスピードだけで、僕は十分もう、全然楽しいっていうか。超楽しいと思って見るわけですけども。いちばん映画の作りとして近いのはですね、もちろん、マーティン・スコセッシが大傑作『グッドフェローズ』である種開発した手法をさらに自ら発展させてみせた2014年。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』が非常に題材そのものも近いですし、アプローチも非常に近いですし。そして、まさにそれを連想せざるを得ないぐらい、同じマーゴット・ロビーさんが出てきてね、しゃべったりなんかするわけですけども。

ほとんど、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のあの奥さんが出てきて、風呂入ってしゃべっているような感じだよね。ただ、ぶっちゃけ、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』がものすごいシンプルな話だったように思えてくるぐらい、やっぱりあれよりもさらに何倍も複雑怪奇な世界というか。はっきり言って、犯罪的。金融犯罪というか、そういうことで言えばもう規模が違うんで。規模も複雑さもケタ違いなので。やっぱり正直言って、この映画だけを一度見ただけで、全てを理解するというのは、僕も含めて普通の観客は難しいっていうか。はっきり言って無理だと思いますね。

おすすめは、映画を1回見て、次に原作を読むんです。そうすると、理屈がよりスッとね、具体的な画を伴ってフッと入ってきやすいですし。あと、原作の実際にあったノンフィクションの起こったことと、今回の映画版がどうアレンジしているのか? みたいな。そういう違いも明確にわかったりなんかする。たとえば、マーク・バウムっていう名前の人は元の本には出てこないんだけど、それに当たる人が、映画だとお兄さんを亡くされているというのが心の傷として設定されていたけど、実物はあれ、お子さんを亡くされているんですね。

みたいな、そういうアレンジも含めて、映画を見てから原作のノンフィクションを読むと理屈がポンポン入ってくるでしょうし。で、もう1回、映画に戻ると……僕、実際にそれをやったんですよ。映画を見て、ノンフィクションを読破して、映画に戻ると、あら不思議! なんちゅうわかりやすい映画なんだ。この映画、めちゃわかりやすいよ!っていう。むちゃくちゃわかりやすく映画化していると。いろんな情報とかが、本当に過不足なく入って、とってもわかりやすい映画だという、印象がガラッと変わるようになっておりますので。ぜひ、この順番をおすすめしたい。

まあ、そんな手間はかけられないよという方もですね、初見でも、ちゃんと頭をフル回転させてついて行こうとすれば……っていうかこのね、劇中で与えられる情報に頭がフル回転してついて行こうとする感覚そのものが、僕はこの映画の結構大きな魅力だと思っていて。「あっ、こういうことか。こうか、こういうことか!?」って、普通使わないような頭の使い方をするという。これも魅力の部分だと思うし、途中の部分。それこそ著名人が、セリーナ・ゴメスとかが出てきてですね、いろんなたとえを使って説明する。

まあ、ジェンガだとか、レストランの料理だとか、ベガスのブラックジャックなどを使った解説で、最低限、だいたいこういうことですよっていう。お話の展開上、必要レベルの情報は与えられるようになっているとは僕は思っております。ただ、敢えて言えばさっき言った、最初にね、マーゴット・ロビーさんという非常にきれいなブロンドの女性が出てきて、サブプライムローンとは何か? とか、それについてかける実質、保険ですね。クレジット・デフォルト・スワップとは何か?っていう説明をするという。

要は、一発目なんでここはギャグ効果なわけですね。「こんな小難しい話を聞くのは退屈でしょうから、美女のお風呂姿でも見てください」っていうのでやるんだけど、ここだけね、わかりやすいたとえみたいなのを使わずに説明している。要するに、ギャグとしてのみ機能させているため、しかも、サブプライムローンの危なさの説明とか、そのクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)の説明は結構根幹に関わることだから、ここはもうちょっと、後半と同じようにわかりやすいたとえをしておいた方がよかったんじゃないかな? とはちょっと思わなくもないということなんですけどね。

で、まあ何よりもですね、我々のような観客全員が、登場人物の誰よりも、見ながら「専門用語わかんないな」とか、「すごい頭のいい人たちが勝手になんかいろいろやっているような話だな」なんて思うかもしれないけど。我々は、その登場人物の誰よりも知的優位に立つ、圧倒的なある一点があるんですよ。それは何か?っていうと、冒頭でも示される通り、我々は事の顛末を知っているっていうことですよ。誰の言っていることが結果的に正しかったかっていうのを、我々だけが知っているんだから。で、それを基点に見ていけば、多少金融市場の概念とか用語がわからなくても、少なくともお話的顛末っていうのには、それほど混乱はきたさないっていう作りになっているはずです。と、思います。

ただ、ここがこの『マネー・ショート(The Big Short)』。ひいてはその世界金融危機という話の厄介なところなんだけど。まず、あまりにも舞台となる金融市場の理屈が、あまりにも不条理な状態が進行しすぎていて、まともに考えたらそれこそ、「華麗なる大逆転」となるような局面でも、それが始まってもですね、何も変わらない。どころか、逆行する現象すら起こるっていう。要は登場人物たちも、「えっ、どうなってんの、これ。おかしくない?」みたいな。全く登場人物たちでさえ納得できない、わからない展開に後半、突入するわけですよ。

つまり、現実がもうおかしすぎて、「なんだよ、わかんないよ!」っていうことになる。それ故、お話としてはどんどんわかりづらくなるし、カタルシスがどんどん減っていくということになる。せっかく大仕掛けしたのに、「えっ、意味ないの?」みたいな。ひどすぎて……みたいな。しかもですね、その主人公たちの正しさが証明された時というのは、要は一旦、落ち込むわけですよね。「おかしいな。こんなはずじゃないのにな」って落ち込む。それは、後にクライマックスで、たとえば主人公たちの正しさが証明された瞬間のカタルシスを倍増させる、お話上の効果的な負荷……とは、扱われないということなんですね。

ここでグーッと下がったんだから、「やっぱりわかったか。ざまーみろ!」とは、ならない作りになっている。っていうのも、我々がつい、我々と同じように、劇中にある若者が出てくるんだけど、若者たちが調子をこく。「これで俺たちの勝ち、間違いない!」って。実際に彼らがいちばん最後に乗ってきた分、いちばん儲けるんですけど。あの2人が。劇中、ブラッド・ピットの口を借りて言われる通りですね、その主人公陣の正しさが証明されるということは、イコール、社会システムが崩壊して大量の被害者。なんなら、現実に死者が大量に出るというような事態を意味する。

しかも、主人公たちの勝利っていうのは別に、システムそのものを全体に正すわけじゃないわけですよ。むしろ、システムの隙を掠め取るだけだから。たとえて言うなら、こういうことですね。火事が起こりつつあるのに、まだ誰も気づいていない建物に火災保険をかけて。で、実際に傍目から見ても明らかなぐらい火の手がボーボー上がって、被害者も出て。なんなら、死人も出たような状態になって初めて、大金を得るっていう。もう、火事場泥棒なわけですよ。言っちゃえば。

だから、途中でね、「格付け機関が全くちゃんと格付けしていないから、市場がちゃんと動いてないじゃないか!」って文句を言いに行くところがある。後半で。格付け機関の女性。彼女は立場的に、物語上は明らかに悪の立場にいる人なんだけど、非常に象徴的な黒い眼鏡を外す。つまり、最初はね、何も見えてない人。何もわかっていない人風なんだけど、やおら黒眼鏡を外す。つまり、「私も本当は見えて、わかっているのよ」と。で、彼女がやおら、彼女のことを追求しているスティーブ・カレル演じる怒れるヘッジファンド・マネージャー——このスティーブ・カレルの役が観客の感情移入をさせるいちばんの器だと思うんですね。つまり、「こんな不正が許されるのかよ!?」っていう怒りがベースな人。まあ、怒りすぎなんだけど。ちょっと(笑)。あと、空気読まなすぎの件。あれ、全部本当らしいからね。講演の最中に「はいはいはーい!」ってやってね——まあ、それはいいんだ。スティーブ・カレルは正義の立場から格付け機関の女性をこうやって追求しているはずなのに、その彼女がフッと眼鏡を外して、「私だってわかっているのよ。バカのふりをしているぐらいなのよ」みたいな感じなんだよね。取って、「『格付けを下げろ』って? それで何をするの? CDSの格付けが下がって、めちゃくちゃになって、あなたたちは儲けようとしてるんでしょ? ……偽善者」って言うというね。

つまり、そういうのを突きつけてくるわけですよ。気持よく勝たせてくれないわけですよ。つまり、どうしたってカタルシスなどないし、そもそも、この件をたとえ主人公たちの読みが歴史的には正しかったとしても、気持ちをさ、カタルシス。スカッとした勝ちとして描いてはいけないっていう、そういう倫理が強くベースにある話だということなんすね。しかもですね、その結果、せめてあからさまに大きな不正を働いた中枢のやつらとか、失敗したやつらみたいな。そのせいで、いろんなところに迷惑をかけたやつらはどうなったか? そいつらが正されたか? 罰されたか?っていうと、後味最悪……!っていうね。

つまりですね、こういうことだと思います。アダム・マッケイさんが今回の脚本も書いています。後から脚色しましたけど。監督がどういうことを伝えたかったのか? つまり、今回の映画、ハリウッドエンターテイメントの作品だけを見て、なにかをわかったような気にさせて、お話的にめでたしめでたしで安心して。安心して観客を映画館から送り出すなんて気はさらさらなく。そうじゃなくて、「この事態の見かけのわかりづらさから逃げるなよ、お前ら! 見かけのわかりづらさから逃げていたら、また繰り返すぞ、これ。何も解決されてない。現実には。わかってんのか、お前ら!?」と。

つまり、観客に「そういうものに向き合え」っていう風に促すような作りになっているわけですよね。たとえばこれね、アメリカの金融市場に限らないと思うんですよ。現代の巨大で“複雑に見える”システムなら、なんでもメタファーとして当てはめられることだと思う。それこそ先ほどね、日本の金融市場である、本当に日本のさ、借金があんだけ膨れ上がって。どうすんの、これ。破綻手前じゃないの?っていうね。それこそ、賭けているやつ、いるかもよ。日本の負けにさ。

だし、原発事業とかでもいいですよ。根本的な危険が内包されているのを指摘もされていながら、個々のパートに属している人は、誰も全体像を知らないから責任を取らない。『悪の法則』のあのね、売人たちのシステムみたいなもんですよ。でも、現場を見ると、問題が明らかに山積していたりとかして。で、一旦システムが文字通りメルトダウンし始めると、その被害の広がりは元の事業責任者がもう取れる責任をはるかに超えて……っていうか、どこまで責任が広がっているか、CDSもそうなんですけど、どこまで行ってるかわからない。総量が把握できない。似てるね、みたいなね。そういう風なメタファーとして取ることもできる。

だから非常に普遍的な話を問うてもいると思います。ラストにレッド・ツェッペリンの『When the Levee Breaks』。ヒップホップの超古典的定番ブレイクですけど。「堤防が決壊する時」という歌詞とのシンクロに非常にワーッと戦慄するということでございます。BGMとのシンクロという意味ではですね、最高なのはベガスの日本料理屋『Nobu』という店でですね、CDO(債務担保証券)マネージャーという……「CDOの何をマネージしてんの、お前は?」っていう。要は非常に危ない商品をメリルリンチのあれに従って作っているだけの男とスティーブ・カレル。さっきの怒れるファンドマネージャーが対峙して、そのCDOっていうのがいかに不正に膨らませられた代物か?っていうのをマーク・バウムがはっきりと認識するシーンですね。ここで流れるBGMが、こちら!

(BGM:徳永英明『最後の言い訳』が流れる)

徳永英明『最後の言い訳』っていうね。間違いなくこれ、アダム・マッケイが「日本料理屋で流れる日本語の歌で、なんか『言い訳』とかそういうの、ない?」みたいな(笑)。たぶんそれで選んでいるのは間違いないと思う。このシーンに限らず、スティーブ・カレル演じるマーク・バウムさん。サブプライムに関わる調子コイたやつらの弁舌を前に、一応ね、調査しているから我慢して聞いてるんだけど。もう、顔が怒りにゆがんで、その表情がもうスティーブ・カレル、最高なんですけど。『フォックスキャッチャー』の真逆というかね。すごい役者だなと思いますけども。

特にこのいま言った日本料理『Nobu』のシーンはですね、鉄板がジューッと焼ける音。これが彼の怒りが沸騰しているぞというのを半分漫画チックに盛り立てもするし。ここがすげーなと思うんだけど。要は、ひどすぎて笑っちゃうコメディー。さっき言った広義のコメディーであることの非常にブラックな証として、シットコム(シチュエーションコメディー)のような、足し笑いがコラージュされるんだよ。あの場面ね。

相手の人がなんか言って、「なんだ、それ? なんだ、その仕組み!?」ってなると、「ワハハハハッ! ワハハハハッ!」って。……ひどすぎるでしょ?っていう(笑)。すごい、そういう作りになっていて、このあたり、バリー・アクロイドさんというカメラマン。ドキュメンタリックな撮影だったり、ハンク・コーウィンさんの非常にキレッキレな編集も相まって、僕は今回の『マネー・ショート』、白眉となるシーンだと思いますね。『Nobu』のシーンね。

一方、他の登場人物と全く絡まない。どころか、ほとんどオフィスの部屋も出ないし、人と話している時も同一画面に収まることがないという。つまり、本作における絶対的な孤独を体現するクリスチャン・ベール演じるマイケル・バーリという天才的な数字読みがいるわけですけど。クリスチャン・ベールは義眼をしているっていうね。マイケル・バーリさんはそういう設定なんだけど。なんとあれ、コンタクトレンズどころではなく、純肉体演技だそうです。その演技を含め、クリスチャン・ベール。要はアダム・マッケイの非常に即興を多用してドキュメンタリックに押さえる演出も相まって、なにかこう、圧倒される迫力がある演技ですね。すごかったですね。クリスチャン・ベールもね。

あと、軽薄そのものに今回は徹したライアン・ゴズリング。軽薄な債権トレーダーに徹したライアン・ゴズリング。あと、無表情。今回も脇に徹して、持たざる若者を引き立てるブラピもすごくいいし。あと、脇に至るまで、キャスト全員が最高。たとえば、サブプライムローンの仲介業者のあの2人の、ザ・DQNぶり(笑)。絵に描いたようなDQNぶり。最高です。基本、笑える話なんです。僕、今ちょっと重たい話をしましたが、基本、随所で笑える、ブラックな笑いがある話です。

決して万人向けとは言いがたいが、本当は万人が見て、頭を抱えるべき。これは本当に力作だと思います。なにより、「よくこれを映画にしようと思ったし、実際にしたよね」っていうだけで、僕は5億点差し上げたい。本当にこの心意気に。アダム・マッケイ、感動した! 『マネー・ショート』、ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(中略〜来週の課題映画は『マジカル・ガール』に決定)

以上、週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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宇多丸、映画『マジカル・ガール』を語る! by「週間映画時評ムービーウォッチメン」2016年3月19日放送

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「映画館では、今も新作映画が公開されている。
 一体、誰が映画を見張るのか?
 一体、誰が映画をウォッチするのか?
 映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる――
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今回紹介する映画は『マジカル・ガール』(日本公開2016年3月12日)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

******************************

宇多丸:
今夜、扱う映画は先週、ムービーガチャマシンを回して決まったこの映画。『マジカル・ガール』

(BGM:長山洋子『春はSA-RA SA-RA』が流れる)

何かな? と思った人はね、映画のことをご存知でない方はびっくりしたと思いますが。長山洋子さんのデビュー曲『春はSA-RA SA-RA』という曲が劇中で、非常に印象的に使われているということでございます。白血病で余命わずかな娘のため、彼女が好きな日本の魔法少女のコスチュームを手に入れようと、父ルイスが奔走。その過程で心に闇を抱える女性バルバラと、訳ありの元教師ダミアンを巻き込み、事態は思わぬ方向へと向かっていく……。スペインの新鋭監督カルロス・ベルムトの劇場長編デビュー作。長編としては二作目だけど、劇場公開はこれが初めてということでございます。

ということで『マジカル・ガール』、この映画をもう見たよ! というリスナーのみなさんからね、監視報告、メールなどでいただいております。メールの量はちょい少なめ。まあ、劇場公開がね、東京で二軒ぐらいしかやっていないんで。多くないんですけども、非常に評判は高い作品なので、賛否で言うと、賛がおよそ9割。残りも、「思っていた映画とは違った」といったもので、完全に否定的な意見はひとつもなかった。「先が全く読めないストーリーで驚いた」「省略と、あえてボカすような表現がとても上手い」などなど、とにかく感心したという意見が多かった。また、ラストの解釈については意見が分かれる様子でしたね。

(中略~メールの感想読み上げ)

……はい、ということで『マジカル・ガール』、みなさんメールありがとうございます! 私もヒューマントラストシネマ有楽町などで――結構前にちょっと見ていたんで――計3回も見てます。昨日なんか特にもう、有楽町。ほぼ満席でしたね。ところどころ笑いも漏れるような、非常にホットな雰囲気の劇場でございました。先ほどのメールにもありますけど、この作品についてね、「先の読めなさ」っていうのが僕はですね、映画における面白さとか価値の中で、先が読めないっていうのが絶対的に大事なものとは、全く思っていないんですが。

それでもやっぱり、本当によく出来た先の読めない話っていうのはまあ、楽しいのはたしかだなということで。とにかく本当に、もう、もう……これ以上は言いたくないぐらいです。ストーリーの先が読めないという点では、近年、僕がいろいろ見た映画の中でも、間違いなくトップクラスですね。それだけに、正直、もうここで止めたいです。はい。長山洋子がかかることさえも、本当はあまり言いたくなかったぐらいのね。そんぐらい白紙で行った方がいいんじゃないですかね? びっくりしていただいた方がいいと思います。できるだけ、ネタバレはしないようにしますがね。今日はね。

予備知識を入れなければね、本当に最初のうちは映画としてのジャンルというか、どういう方向の作品か? というのさえ、よくわかんないはずですよね。それこそ、余命いくばくもないと思われる娘のために、お父さんががんばるハートウォーミング・ストーリーかな?って思いはじめても、全然おかしくない始まりなわけですからね。ただ、それがまあだんだんとお話のパズルのピースがはまっていくに従ってですね――ここはもう、宣伝とかでも出ちゃっている言葉なので言ってしまうけど――「ああ、実は割とはっきり、映画ジャンルとしての<フィルム・ノワール>なんだ」って。まあ、犯罪映画で。

特に、思いっきり「ファム・ファタール」(運命の女・魔性の女)が出てきて、それに、特に男が運命を狂わされていくというフィルム・ノワールの定石的な展開があるわけなんですけども。「あ、フィルム・ノワールなんだ。思いっきり、ファム・ファタールものなんだ」っていうことが最終的には、はっきりしていくんですけれど……ということだと思います。言ってみればですね、先ほど出てくるバルバラっていう女性キャラクター、石井隆作品で言えば「名美」であり、そしてダミアンはじゃあ、「村木」かな? みたいなね。まあ、そんな感じでわりとファム・ファタールものとしてはわかりやすい構図があったりするんですが……。

『マジカル・ガール』という映画はですね、これもみなさん、メールで書かれている通りです。全体がですね、たとえば非常に余白が多い。要するに、敢えて具体的な説明をしないストーリー運び。ストーリーの語り方とかもそうですし。あるいは、画面の構成の仕方。何を見せて、何を見せないのか? というのがすごく周到に計算された画面の構成の仕方に至るまで、お話部分も明かさない部分が多いし。カメラも、「敢えてそっちには今、向けません」みたいなのが多い。あと、「ここは敢えて顔は切っています」みたいなのがあるんですけども。

要するに、肝心な部分を敢えて見せない、語らない。非常に大胆かつ精密な省略話法・語り口というのが特徴でもあると。まあ、でもこれ、すごく俗っぽい評価の仕方をすればですね、ヨーロッパのアート系映画祭受けしそうなタッチっていうか。感じだと思いますけどね。まあ、いろんなそういう映画の作り、あるんですけども。近年で言えば、僕が連想したのはですね、同じくスペイン語圏っていうこともあるんだけど、2013年のメキシコ映画で、同じように父と娘の関係性を軸に、非常に静謐なタッチなんだけど、実は超バイオレントな世界っていうのを絶妙な省略とか、絶妙な「見せなさ」で描いた『父の秘密』っていう映画がありましたけどね。あれあたり、非常に通じるものがあるなという風に思いましたが。

まあ、今回の『マジカル・ガール』という映画の場合ですね、そのばっさり省略された部分に浮かび上がってくるもの。要は、観客が想像してしまうものですね。が、ですね、とてつもなく禍々しいというかですね、ちょっと常人の理解を超えたおどろおどろしい変態性っていうのを強烈に感じさせる。ここが、この『マジカル・ガール』という作品のキモだと思う。「変態的」っていうことですね。もちろん、直接的には映されていない、語られていないにもかかわらず、最終的にはものすごいバイオレントなものを見たという印象が残るという風になっている。

このあたりですね、超日本通だというこの監督、脚本カルロス・ベルムトさんが好きだという江戸川乱歩的っていうかね。おどろおどろしさ。超変態性みたいな。劇中でもですね、ラストに『黒蜥蜴』っていうね、映画化を何度かされていると思うけど、美輪明宏さん版の『黒蜥蜴』の主題歌のカバーバージョンが流れるわけですね。『黒蜥蜴』の歌の歌詞が完全にファム・ファタール宣言みたいな歌詞なんですけど。まあ、最後に高らかにファム・ファタールものです!ってうたうような『黒蜥蜴』のテーマが流れたりするわけですけど。

あと、あれだね。途中で検索サイトが「RAMPO!」っていう検索サイトだったりしましたけどね。まあ、そんな感じですかね。とにかくですね、ストーリー運びもそうですし、登場人物たちの行動原理も、すべては説明され尽くさない。たとえば、全体が3つのパートに分かれている。これ、「カトリックの教え上、魂の3つの敵とされている」という監督の説明なんですけども、「世界」「悪魔」「肉(肉欲)」。この3パートに分かれていて。で、一応パートごとにメインで感情移入させるような主人公的な登場人物。それが移りかわっていくというような構成なんだけど。

でも、その登場人物。一応途中まで感情移入できるように見えているんだけど、それぞれ内側に抑えこんでいた闇にだんだん飲み込まれていって。ついには観客の理解を超えた領域に入っていってしまう。まあ、大きく言ってフィルム・ノワールの主人公はいつもそういうものだとも言えるんだけど。とにかく、万人にオートマチックに、いわゆる<共感>されるようなわかりやすい主人公みたいなのが出てくる話じゃないわけですよ。なので、映画の評価基準に<共感>をかならず置くような人は、正直、お呼びじゃない可能性がありますけどね。はい。

でも、それでいてですね、ちょっと誤解してほしくないのは、この『マジカル・ガール』という映画、決してね、いわゆる難解な映画というわけじゃないです。もちろん、余白が多いし、想像するところもありますし、ラストの解釈が分かれるというのもあるけども。話が難しい映画では、全くないです。むしろさっき言った、先の読めない展開に頭をグラングランさせるような感覚っていう意味では、むしろ、僕は面白さっていう意味ではわかりやすい作品だと。その面白さの先に作品が示そうとしているものには深みがあるとしても、面白さそのものは決して難解ではないと思うという。

話そのものとしては、それこそ先週の『マネー・ショート』とか、あと『スティーブ・ジョブズ』とかより、ぜんぜんわかりやすい映画だと思うんですけどね。で、先程から言っているように、フィルム・ノワール。特にファム・ファタールものとしては、最終的にド直球と言ってもいいぐらいかな? という風に思いますし。あと、魔法少女もの。マジカル・ガールは魔法少女なわけですよね。日本の魔法少女アニメに憧れる少女が……というあたり。

Yahoo!レビューで「魔法少女もの要素を期待して見ていたら裏切られた!」みたいな。あの……申し訳ないけど、自分のリテラシーの低さをここまで堂々と作品のせいにできるのはすごいな!って感心するようなレビューとかあったりするんだけど。いやいや、でも、魔法少女ものとして見ても、結構……つまり、監督がですね、今回の『マジカル・ガール』を作るにあたって影響を受けたという、みなさんご存知、『魔法少女まどか☆マギカ』。この番組でも『劇場版[新編]叛逆の物語』。2013年11月9日に取り上げましたけども。

『まどマギ』。はっきりこれ、『まどマギ』的ですよ。なんなら! なんならもう、『まどマギ』の実写版! いや、それは言いすぎだけど……要は、少女の無垢な願いっていうのが反作用としてこの世の邪悪が詰まったパンドラの箱を開けてしまうっていう話だし。魔法少女の成長した姿としての魔女っていうのが出てきて……みたいなこととかね。で、その願いが叶った報い、因果っていうのが返ってきてしまうって。えっ、『まどマギ』じゃん? 完全に『まどマギ』じゃん? 濁ったソウルジェムの話ですよ、だから。

だから、『まどマギ』の実写映画化と言っても過言では……過言ではある(笑)。けど、まあ全然『まどマギ』的な、テーマ的にも一貫性があるなという風に思ったりもします。ということでですね、はっきり言って僕はやっぱりこの作品に関して、あんまりネタバレとかもしたくないし。場面のそういう話とか、あんまりできないので。こっから先は、「後々に見ながらパズルがはまっていく時に、ここを気をつけて見ておくと、より味わいが深いよ」という、映画上のディテールの話をいくつかしていこうかと思っております。

たとえばですね、先ほどから「パズルのピース、パズルのピース」って言っていますが、この映画、実際にジグソーパズルが小道具として出てくるんですね。劇中、非常に象徴的な使われ方をするジグソーパズル。ダミアンという……この「ダミアン」っていう名前がまた象徴的だったりしますよね。「悪魔の子なのか?」みたいなことですけどね。まあ、登場人物みんなそうではあるんだけど、要は訳ありなわけですね。訳ありの老人です。この方、ダミアンがですね、何とか人間的理性を、そしてその人生を組み直そうとするその象徴としてジグソーパズルはあるわけです。

どうやら、少女時代のバルバラという女性と何かがあって、決定的に人生が……まあ重大な罪。長い間刑務所に入るような罪を犯した。まあ、殺人以上の何かでしょうね。で、それを立て直す。で、理性を取り戻すための、医者から渡された、人間社会とつなぐ綱としての、象徴としてのジグソーパズル。ところが、組み上げていくんだけど、最後の1ピースがどうしても見つからないというのが、先ほどね、3パートに分かれているという3パート目。ダミアンがほぼ実質主役となる「肉欲」というパートになって出てくるんですけど。

この最後の1ピース、どこに行ったんだ?ってダミアンは探しているわけですけど。映画を注意深く見ている人ならですね、そのパズルの1ピースと思われるもの。実は序盤中の序盤で、本当にものすごーくさり気ない形で一瞬出てきますよということですね。で、この映画は全体にそうなんですけど、重要な、その後の伏線になるような、あとでそのパズルの1個がここに……あっ、あのピースがはまるんだ! みたいなものがフッと示すんだけど、その直後に、少なくともその場ではお話上もっと印象の強いことが間髪を入れず始まるので。伏線として、要するにわざとらしくないというか、印象に残りすぎないというテクが全編に出てくるという。こういう意味でね、非常に油断ならないんですよね。

登場人物のそういうちょっとした仕草1個1個に全部、実は意味があったりするっていうことなんですよね。序盤、そのパズルのピース。出てくるところ、つまり、とにかくそのパズルの1ピースが序盤ですよ。どこに落ちていたのか?っていうのを考えるとですね、後からですよ。見ている時はわかんない。その場所が何を意味するのか。その直後に非常に印象的なね、宝石屋さんというところで、店員との視線のやり取り。まあ、示すものは非常に明らかな場面が起こるんだけど。

後から考えると、そういうことは、あそこは……ということなんですよね。で、なぜ、そのパズルの1ピースがそこにあるかは、わかんないんですよ。わかんないんだけど、要はこういうことですよね。同時にダミアンはジグソーパズルをこうやって積み上げて。過去、少女時代のバルバラとあった過去と断ち切ろうと。人間的な理性を取り戻そうとしていたんだけど。そもそもファム・ファタール、バルバラからは逃げられなかった! ということですよね。

で、しかもそう考えるとですね、冒頭に、あるセリフが流れるわけです。これは昔、教師だった頃のダミアンが、しかも初めて運命の女である少女時代のバルバラと出会う瞬間のセリフ。こんなことを言うわけですね。「2+2=4だ。それはどんなことがあろうと、2+2=4なんだ。完全な真実は絶対に変わらないものなんだ。何があろうと、見方を変えようが何をしようが変わらないんだ」っていう。つまり、まさに……しかも彼はまさにこの言葉を発した瞬間、バルバラと出会い、人生が狂ってしまう。もしくは、狂ったと言うべきか、この映画の結末に至るように運命がまさに完全な真実であるかのごとく、運命付けられてしまったってことじゃないですか。

だから、そのパズルの1ピースっていうのが序盤でどこにあったのか?っていうのを思い出すと、「うわ~……こわーい!」っていう風に、後からなったりするっていう仕掛けになっているということですね。あとですね、バルバラさん。ファム・ファタール的なって言うけど、最初は別にどういう人か、わかんないわけですよ。「全然、普通の暮らしをしている人なのかな? 美人だな」なんて思って見ているわけですね。で、後からどんどん、実はかなりエグかったっぽい過去が……「エグかったっぽい」程度なんですよ。そんな、明らかになんない。何があったか? なんてわかんないんですよ。

エグかったっぽい過去が明らかになっていくバルバラさんっていう女性がいる。非常に美人の。でも、その普通っぽい暮らしをしている時点の描写っていうのも注意して見ていると、これはなかなかに味わい深いと。まあ、第二部「悪魔」っていうパートがあるんですけども。そこでバルバラさんが事実上の主人公として進んでいくんだけど。まあ、旦那は精神科医で、非常に裕福な暮らしをしている。結構なことじゃないですか。で、旦那のことは大好きっていうことらしい。で、まさに旦那への愛ゆえに、いろんなことを重ねていくっていう話でもあるんだけど……。

だけども、この2人、そもそもバルバラさんは精神のバランスを崩しやすい方であるらしいっていうのが会話の中から浮き上がってくるわけで。たぶんだけど、この2人、最初は患者と医者だったんだろうなと。精神科医と、それにかかっている患者だったんだろうなという風に思わせるわけなんだけど。この2人の関係性がもう出てきた途端に、ちょっといびつな、非対称な関係というか。非常にいびつな関係だなっていうのが、もうパッと出てきた瞬間に。たとえばですね、旦那の靴をひざまずいて結んであげている。それ自体が超異常っていうわけではないんだけど。ひざまずいていると。

で、まあ会話を交わす。でも、その会話の途中で旦那がせっかく美人の奥さんの顔をグッと掴んで……まあ、ちょっと顔でね、ブーみたいな顔を作って遊ぶことってあると思うんだけど。なんか、それとは違う、ある種のなんて言うか、顔をいじりだしてですね。で、「お前はバカだよな。バカなんだよな」みたいな。完全に支配関係にあるようなものをやると。で、その後ですね、彼はやおら立ち上がって薬と水を取ってくるんだけど。ここでもう、奥さんは完全にひざまずき、かしずいた状態で。旦那は顔も見えない。カットの中で、見えない中で、まるで餌を与えるように薬を半強制的に飲ませるというくだり。

あるいは、その後、もう1回薬を飲ませるくだりで、今度は指を口の中に突っ込んでチェックみたいな、その仕草。1個1個の仕草であるとか構図。それが一々、この一見裕福で、愛し合っていますよという夫婦に漂っている、言っちゃえばSM的な主従関係。非常に不健全な匂いっていうのを、さり気なく、嫌な感じで漂わせていると。故に、その後ですね、ある理由からお金を稼がなきゃいけないっていうので、はまり込んで。まあ、帰っていってしまう世界。彼女が元いたのであろう世界というのが、全然この段階で引きずってるんじゃん! と。

彼女、全然そのままの暮らしじゃない!?っていうのが、実は後から考えるとそれが浮かび上がってくるとかですね。あと、個人的によく考えると味わい深いなと思っているのが、最初の方でですね、魔法少女アニメに憧れる余命いくばくもないっぽい娘のアリシアという少女がですね、お父さんのルイス。このルイスっていうのは、ルイス・キャロルから取っているわけですから。アリシアもきっと、アリスなんでしょう。で、「なんでも願いが叶えられるなら、お父さん、何になりたい?」って言って、お父さん側は「透明になる。人から触られなくなる」。で、娘側は「私は誰にでもなれる。その能力を身につけたい」って言うんだけど。

「透明になる」「触られなくなる」。そして、「誰にでもなれる」。これ、両方とも、我々映画の観客の視点の話ですよね。これね。だからこそ、このところこのコーナーでよくしてますけども。「『見る/見られる』っていう関係の逆転こそ、映画というメディアの特性上、いちばんドキッとする瞬間だ」なんて話を最近、ちょいちょいしますけども。冒頭シーンと緩やかな円環構造をなすラスト場面でですね、まあバルバラが、もう目しか見えないぐらいの状態なんですけども。なにを思い、目に涙をためているのか? 我々観客は、そのバルバラの心境に思いを馳せるわけです。

つまりこれは、誰にでもなれる能力なわけですね。で、一方でその表情をずっと見つめて瞳孔を見て……つまり、透明な存在として見ているわけですよ。誰にでもなれて、透明にもなれる存在がずーっと彼女の表情を追っていると、虚を突くように最後の瞬間……「見るな! こっち見るな! ドキーッ!」っていう、あれが待っている。で、「こっち見るな!」っていうその気持ちは同時に、その直前のシーンでダミアンが言うセリフでもありますよね。「こっちを見るな!」。つまり、自分の罪とか、何なら欲望まで見透かすような少女の視線に「見るな!」と思わず言ってしまう老人ダミアンのうろたえの、我々の気持ちは再現なわけですよ。

つまりラスト、ラスト、ここに至って魔女であるバルバラと魔法少女であるアリシアがイコールで繋がる。見る側の存在。そして、見られる側で「やめろ! 呪いをかけるな!」っていうダミアンと我々観客の関係が、まさに「2+2=4」っていうごとく、完全な真実としてこのラストで固定されてしまうような感じがするから、「やめて! 怖いからやめて! 見ないで! 見ないで!」っていう感じがするというね。そう考えると、ねえ。そもそもじゃあ、アリシアの願いっていうのは無垢と言っていいようなものだったのだろうか? とか、いろんなことを考え出しちゃったりすると。

その訳あり老人ダミアンがフラメンコ曲。日本で言えばド演歌みたいなことでしょう。『炎の少女』をバックに戦闘モードでキメるダミアンが笑っちゃうかっこよさ。ちなみにその前に銃を調達してくれるムショ仲間に会いに行くんだけど。ペポさん。あいつの体型とか、ハンパねえ! みたいなね。体型一発でもすごく味わい深かったりするんだけど。なんだけど、とにかくその訳あり老人のダミアンが最終的に、本当にキレる理由。なんで彼は、最後の最後で本当にキレたのか? これも想像すると味わい深い。

ちなみにこのキレる瞬間。キレられる側の視点しか見せない。このあたりも、この映画の視点の面白さですけど。たぶんね、僕が想像するにダミアンは、「そんなことはわかっている。わかっているけど……わかるわけにはいかんのだ!(ドンッ!)」ってことだと思うんですよね。島本和彦『無謀キャプテン』から名ゼリフを引用させていただきましたけどね。

あるいはね、バルバラが自らの魔を起動させる。意識的に起動するかのように鏡をこう……向こうの世界にガリッ! と入ろうとするようなあの感じとかですね。とにかくですね、一々そういうディテールに仕込まれた余白の部分。それこそ、蜥蜴部屋のプレイって実際どんなん?って。ねえ。1日こっきり、挿入なし、たぶん200万以上ぐらいって、どんなプレイ!? みたいな。想像するだけでとっても楽しい映画です。はっきり言って。脚本、監督カルロス・ベルムトさん。元はコミックアーティストとして成功していたという方ですけど。これが長編二作目。前の『ダイヤモンド・フラッシュ』っていうのはネットでも見れる、オンライン配給みたいですけど。

こっちもノワールです。で、これが劇場デビュー。非常に腕があるし、発想がとにかく独創的で。これからも間違いなく面白いのをいっぱい撮る人だろうという風に思います。あと、あんまりいまのスペイン映画界、詳しいわけじゃないけど。もう撮影から編集から、とっても隅々までレベルが高い作品でございます。超クールなタッチなのに、後味は超キモい。非常にナイスノワール。ノワールの最新傑作としてですね、僕は文句なく、面白かったです。ぜひぜひ、劇場で楽しんでいただきたいと思います!

(中略~来週の課題映画は『ヘイトフル・エイト』に決定)

以上、誰が映画を見張るのか?週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした!

The post 宇多丸、映画『マジカル・ガール』を語る! by「週間映画時評ムービーウォッチメン」2016年3月19日放送 appeared first on TBSラジオ AM954 + FM90.5~聞けば、見えてくる~.

宇多丸、映画『ヘイトフル・エイト』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年3月26日放送

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ヘイトフルエイトポスター

宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送でお送りしているTBSラジオ AM954+ FM90.5『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。

番組の名物コーナー、ライムスター宇多丸による渾身の映画評「週刊映画時評ムービーウォッチメン」(毎週22:25頃から)。

毎週、「ムービーガチャマシン」(カプセルトイのガチャ)の中に入った新作映画カプセルを、“シネマンディアス宇多丸”がランダムにセレクト。映画館で自腹を切ってウォッチした“監視結果”を、約20分に渡って評論する映画時評コーナーです。こちらではその全貌を文字起こしを掲載しております。

今週評論した映画は、クエンティン・タランティーノ監督の新作『ヘイトフル・エイト』(日本公開2016年2月27日)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

★ポッドキャストもお聞きいただけます。

宇多丸:
今夜、扱う映画は先週、ムービーガチャマシンを先週、回して決まったこの映画。『ヘイトフル・エイト』

(BGM:『ヘイトフル・エイト』メインテーマが流れる)

猛吹雪の中、山小屋に閉じ込められた賞金首の女と立場の異なる7人の男。それぞれの思惑を秘めた8人の行動がやがて陰惨な事態を引き起こしていく。監督は、今作が8作目の監督作となるクェンティン・タランティーノ。もう最初にね、バーン!と「クェンティン・タランティーノ第8作目」ってデカデカとテロップが出る、そんな映画監督いるか!?っていう。出演はサミュエル・L・ジャクソン、カート・ラッセル、ティム・ロスなど。ジェニファー・ジェイソン・リーがアカデミー賞助演女優賞ノミネート。70ミリフィルムによる撮影なども話題になったということで。65ミリで撮って、70ミリで……という、特殊な方式でね、やっているんですけどもね。

と、いうことで『ヘイトフル・エイト』。まあ、タランティーノの新作を見に行かないってことがあるんでしょうかね?ってことで、リスナーのみなさんね、当然見に行っているということで。この映画を見たという方の感想をメールなどで監視報告いただいております。『ヘイトフル・エイト』、メールの量は……普通! ええーっ? まあ、公開規模がね、やっぱり回しが長いのもあってあんまりないのもあるけど。公開規模があんまり大きくなくてね。ええーっ? 賛否で言うと、賛が6割。「楽しかったけど、ちょっと長かった」「過去作と比べると物足りない」「テンポが良くない」などの意見が4割。

全面的に否定する意見はごくわずかしかなかった。まあ、タランティーノの映画だから、それはもうタランティーノ的なるものがどの程度出てくるかってね、覚悟して行くわけですからね。褒めるポイントとしては、「映像がすごい。大迫力」「タランティーノの集大成。長い会話もやはり楽しい」「最後に伝わってくるメッセージにタランティーノの成熟を見た」などなどでございました。代表的なところをご紹介いたしましょう。

(メールの感想読み上げ、中略)

……はい。ということで、『ヘイトフル・エイト』。私も、後ほど言いますが、日本では本作をベストな状態で見ることができない! それができる映画館が現状、存在しないので。せめて、これだけはちょっとシネコン以前の、大型劇場の雰囲気を残している劇場で、都内上映館の中でかろうじて残しているところで見たいということで。要は、傾斜が斜めに下がっていくのじゃなくて、比較的平らな感じの席で、見上げる感じの大きいスクリーンのところで見たい、と思いまして。丸の内ピカデリーで3回見てまいりましたってことでございます。

しかもですね、3回とも、あんまり入ってなかったですね。正直ね。非常に私は残念でございます。嘆かわしい事態だと思っております。と、言うのもですね、タランティーノ。作品を取り上げるたびに僕、言っていることかもしれませんけども。自らですね、こんなことを言ってますよ。「オレは常にヒップホップの精神にのっとって映画を作っているんだ」って、インタビューなどで公言しているぐらいです。サンプリング世代。ヒップホップ世代的な、いわゆるポストモダン的なってことですかね。クリエイターの代表格なのは間違いないんですけど。まあ、「ストリート版ゴダール」なんて言い方もしてますけど。私ね。

まあ、凡百の、はっきり言わせてもらえば見下げ果てたタランティーノフォロワーとは、当たり前のことながら根本の格が違っておりましてですね。そのサンプリングというのがですね、小手先のギミック的な目配せとか、そういうレベルのことがやりたい人じゃないわけです。もちろん、たとえば元ネタを指摘したり、あとは「ここがナントカなんじゃないの!?」みたいな、元ネタの指摘とか発見みたいな楽しみは、もちろん今回の『ヘイトフル・エイト』を含めて、タランティーノ、新作が出るたびに間違いなく、ものすごくある。

それが楽しいタイプの作品を作っているのは間違いないんだけど。ただ、ここで大事なのはですね、元ネタを知ってるか、知ってないかとかじゃないんですよね。元ネタは知らなくたっていいんです。っていうか、知らない方がいいぐらい。っていうのは、こういうことです。かつて、たしかにこういう野蛮でパワフルでブッ飛んだ映画のあり方、楽しまれ方っていうのが確かにかつてあったんだ、というこの感覚をね、タランティーノの映画は元ネタを知らないはずの観客——たとえば知らない若い観客——も、「あっ、かつてこういう映画の楽しみ方が、ああ、たしかにあったんだ!」って思い出す。

わかる? 元ネタを知らないのに<思い出す>感覚っていうか。これがタランティーノの作品の独特、かつ、すごいところだという風に私は思っておりまして。あるジャンルの映画を見るという体験。その感覚ごと蘇らせようとしている。そういう作品ばかり作っていると言える。サンプリングの果てに……サンプリングっていうのは言ってみれば、まあ偽物なわけですけど。偽物の集積の果てに、いつか本物の映画にタッチしようとする。そういう志に常に貫かれている。これがタランティーノ。このスタンスがまた、僕は正しくヒップホップ的だなと思ったりするんですけど。

で、たとえばですね、わかりやすいところで言えば、僕は間違いなく彼のフィルモグラフィー上でも突出した最高傑作だと思っている、『デス・プルーフ』を含む『グラインドハウス』。まあ、『デス・プルーフ』か、『イングロリアス・バスターズ』のチャプター1でしょうね。彼の突出した最高傑作はね。『デス・プルーフ』を含む『グラインドハウス』。あれなんかはまさにですね、かつてあったB級映画2本立て、3本立ての劇場の興行スタイルとかの上映形式ごと、現代に再現するっていう。で、その時代とかその劇場とかに行ったことがない、その時代のそういう映画を見たことがない観客にも、「ああ、こういうタイプの映画の楽しみ方、楽しまれ方っていうのがあったんだ!」と思い出させるという試み。『グラインドハウス』はまさにそうでしたね。

で、この『グラインドハウス』はしかしですね、残念ながらここ日本ではですね、ロバート・ロドリゲスの『プラネット・テラー』とタランティーノ監督の『デス・プルーフ』。その合間に、嘘予告編が入って。あと、変なお店の宣伝みたいなのが入る、みたいな。そういう全体の形式込みの、要は本来の『グラインドハウス』オリジナルバージョンの上映は、日本では限定的にしかされなかったですね。当時もね。後にDVDに収録されたりとか、あとタマフル映画祭で1回ね、やったりなんかもしましたけども。基本的にはちゃんとされずに、バラで1本ずつの公開となったと。そういう意味で、ちょっと残念な公開のされ方をされちゃったんですけど。

その意味で言うと、今回の『ヘイトフル・エイト』はその『グラインドハウス』よりもさらに残念な状況での公開と言わざるを得ない。つまりですね、『グラインドハウス』はB級、C級、Z級というか、本当に下の下の映画たち。本当にクズみたいな映画たちの中にあるお宝みたいな。そんな感じのだったんだけど、『グラインドハウス』とは対称的に今度は、映画というものの興行、上映形態としてある意味、最も豪華。最もリッチなスタイルの再現というね。

要するに、さっき言った興行スタイル、上映形式ごとの再現なんだけど、今度はものすごいリッチな方に行ったのが今回の『ヘイトフル・エイト』と。まあ、詳しくはですね、劇場パンフレットなどを当っていただきたいんですけど。すごく劇場パンフレット、充実してるんで。とにかく今回、オープニングでも非常に誇らしげにクレジットで出てきますけども。『ウルトラ・パナビジョン70(Ultra Panavision 70)』というですね、これはなかなか耳慣れない方式。とにかく、60年代に一部の超大作映画で使われていた撮影・上映方式。

たとえば『ベンハー』であるとか、『バルジ大作戦』とか、『戦艦バウンティ』とかですね、一部の超大作で使われていた。で、66年の『カーツーム』という作品を最後に使われなくなってしまった撮影・上映方式っていうのを、本作のためだけに復活させているっていうことなんですね。しかもそれが、今回の『ヘイトフル・エイト』。事前に脚本の第一稿が早い段階でネットにリークされてしまって。タランティーノが激怒して、「今回のは作らねえ!」って一旦は言ったという、そういう展開がありましたけども。その初稿から、もう70ミリのこれで撮られて……っていう風に書いてあるんで。もう最初のビジョンに入っていることなんです。ウルトラ・パナビジョン70を使う、70ミリフィルムで上映するっていうのは。

で、アメリカとか欧米ではですね、ベテラン上映技師をもう1回、改めて引っ張りだして来てまで、70ミリフィルムでの上映バージョン。いわゆるロードショーバージョンっていうのを決まった劇場では上映しているわけですね。入場者全員にプログラムが配られ、そして、本編のスタート前に、日本だったら「ベッベッベッベッ……♪」みたいなさ、映画泥棒みたいなのがやっている、あのところじゃなくて本編のスタート前に、先ほど『ヘイトフル・エイト』ってバッと言った時に後ろで流れていたエンリオ・モリコーネによるオーバーチュア(序曲)が流れて。

要するに、映画が始まる前に音楽がずっと流れていて。映画までの気分を高めるわけですよね。で、いくつかのショットは、いま日本で見られるデジタル上映版よりも長いそうなんですよね。で、途中、これはたぶんチャプター3。『ドミニクには秘密がある』っていうあの章の前ですね。あの章の前に、ある衝撃的な出来事が起こりますよね。あの、ある衝撃的な出来事が起こったその後に、15分間のインターミッション(休憩)が入るという、そういう形式なわけです。

これ僕、いま46才ですけど。僕でギリ、『2001年宇宙の旅』のリバイバルを79年かな? に、した時に、こういう序曲がずっと劇場に流れていて、インターミッションが入って……っていうのをギリ、それは「ああ、ああいう感じかな?」って想像がつく感じなんだけど。なので、今回ね、実際に映画を見た方はわかると思うんだけど。チャプター3の頭。要するに、途中でものすごい大きい事件がドーン!って起こった後、一旦話がひと区切りしてですね。いきなり、唐突にタランティーノ自身によるナレーションで、この15分間、劇中の舞台で何が起こったか? みたいなことを説明するという下りがあるんですけど。

あれはまさに、その15分間、衝撃的なことが起こって、はい、休憩です!ってなって。15分後、みんなおしっこに行ったりして、ガヤガヤガヤッて席について、さあ、始まりますよ。15分後、始まると「この15分間、何があったか?」っていうそういう説明がつくという軽いギャグになっているってことなんですね。とにかく、そんな諸々込みでの187分版。要するに現在日本で見れるデジタル版より20分長い。その20分の内訳っていうのはさっき言ったように序曲が3分。そしてインターミッション15分ということで、残り2分だけ中身が長い。で、どうやらこれは、いわゆる70ミリ画面を活かしたロングショットですね。基本的には室内の映画ですけども、馬車が走っているようなロングショットがたぶん長くなっているっぽいんだけど。

ということで、そういう、要するに序曲が流れて、すごい気分を高めて。何か特別な体験をしに来るぞっていうことですよね。なんなら、着飾って来て。で、余裕を持って休憩も挟んで、みたいな。そういう時間の贅沢な使い方。異常にリッチな映画体験というもの全体の再現。これ自体が今回の『ヘイトフル・エイト』の非常に、語られている物語と同じぐらい重要なコンセプトなわけですよ。今回のこれは。まあ、さっきから言っているように、初稿にすでに書かれているわけですから。もう、コンセプトそのものと不可分なことなわけですね。この上映形態とかってことが。

にもかかわらず、日本では現在要するに、70ミリ上映をできる映画館が物理的にないっていう。不可能なわけです。物理的に。このあたりの経緯は『映画秘宝』、岡村尚人さんかな? による記事が非常に詳しい。普通に計算していって、いまから70ミリ上映をできる環境を整えていくと、ざっと概算して60億円いるっていう(笑)。だから、先ほどメールにもあったように、「新宿ミラノ座がまだあれば、ギリギリ、目はあったのか?」みたいなことを考えちゃうんですけど。とにかく、日本では70ミリ上映はできない。

で、それにタランティーノ。非常に日本びいきな人なのに、日本では70ミリ上映できない。つまり、この『ヘイトフル・エイト』に関しては自分の意図したものが伝わるような上映の仕方をできないっていうことにいたく失望して、今回はプロモーション来日もしていないというですね、いかに本作が撮影から配給に至るこの形式まで含めての作品であるか、っていう証だと思うんですよね。

ということで、本当に申し訳ないんですが、僕も本当はね、こうやって批評とかするんであれば、この1週間でアメリカなどに飛んで70ミリバージョンを見て来るべきではありましたが……申し訳ないです! すいません! ちょっとその時間、ありませんでした。他の仕事もあったもんで、申し訳ございません。できませんでした。ということで、僕が見てきたのはあくまで、この日本で見られる——敢えて言いましょう——「不完全な状態」。デジタル版167分を見て、本チャン上映スタイルを頭に思い浮かべながら。サントラも買いましたからね。オーバーチュア(序曲)を事前に聞いて、気分を高めて。で、チャプター2とチャプター3の間は、「はい! いま15分休んだ! はいっ!」っていう、そういう気分を思い浮かべながら、ということをちょっとね、お断りしておきたいと思います。

でも、この167分バージョンでもですね、今回タランティーノが作品に込めようとした、要はこういうことです。映画を見るということの豊かさ、贅沢さっていうのを、それをもういまの観客は忘れかけているわけですよね。もう、知らない世代もいる。タブレットで見るのが映画だと思っているかもしれない。そういう世代に思い出させるっていうことは十分にできる作品になっているという風に思うわけですよね。

たとえば、まずもうオープニングですよ。オープニング。エンリオ・モリコーネによるオリジナルスコア。タランティーノ、いままでエンリオ・モリコーネの曲をそれこそサンプリング的には使ってきたけど、ついにサンプリング手法の後に、それこそ本物にタッチした瞬間っていうことですね。言っちゃえば、ダフト・パンクがナイル・ロジャース本人を呼んできて『Get Lucky』を作ったみたいな、そんな感じですよ。聞いてください、これ。

(BGM:エンリオ・モリコーネ『L’Ultima Diligenza di Red Rock』が流れる)

もう、もう……わくわくでしょ! もう、なにが起こるの? フォーッ! なに? なに? なにが起こるの!? これが流れだす。そして、画面はですね、通常のシネマスコープよりもさらに横長。縦1に対して横2.76という超ワイド画面。これに流れ出して。で、雪にまみれたキリスト像のアップですね。ちょっと『最前線物語』あたりのオープニングを彷彿とさせるようなオープニング。アップからゆっくりゆっくり、カメラが本当にゆーっくりゆっくり動いて。遠くから、6頭立ての駅馬車。6頭立てってことは普通に僕らが考える馬車よりも、馬が長く連なっているわけですよね。

これも当然、ワイド画面が映える、この6頭立ての馬が向こうから、遠くの方からゆっくりゆっくりカメラが動いて。向こうから撮ってくるこのファーストショットからして、作品全体のリズム、語り口のテンポをもうすでに提示しているっていうか。要はね、「さあ、これからとっても贅沢な時間が始まりますよ。せっかく映画を見るんですから。せっかく映画館に来て、映画という贅沢な時間をすごすんですから、まあ、せかせか先を急がず、腰を据えてゆっくり……順に話していきますからね。ゆっくり楽しんでね。それが70ミリで撮ったこういう本物の映画というものの楽しみ方ですよ」と宣言するようなファーストショットということですね。

で、実際にこの映画、オープニングテーマから始まって最初の1時間たっぷりかけてですね——これはこの間、高橋ヨシキさんもこんなことを言ってましたけども——とにかく、本題の前のセッティングのために1時間たっぷりかけるわけですね。具体的には、いかにもタランティーノらしいクドい会話劇が一見ダラダラと続くんですけど。ただですね、そのタランティーノのトレードマークである延々続く駄話タイムっていうのは、これ、はっきり実はフィルモグラフィー上、ちょっとネクストレベルに行った。いまはもうとっくにネクストレベルに入っていて。

要は、『イングロリアス・バスターズ』以降ははっきりと、ただ駄話タイムっていうのが独立してあるのがタランティーノ作品だったんだけど、ドラマ上のサスペンス、緊張感と駄話が実は結構直接シンクロする作りに、もうはっきりとシフトしてるんですよね。『イングロリアス・バスターズ』。そして前作『ジャンゴ』。そして今回の『ヘイトフル・エイト』。つまり、エンターテイメントとしてはよりわかりやすくなってきている。ブラッシュアップされているという風に言えるんですけど。今回も、『イングロリアス・バスターズ』以降のタランティーノ会話劇の延長線上。というか、進化系。たしかに集大成というのも僕はわかる気がします。

というのは、序盤から延々と続く、一見駄話。でも、その会話の1個1個のパーツは実はほとんど全て、後でほぼ全て意味を持って回収されるんですよ。タランティーノ脚本史上でも、珍しいほどものすごい無駄がないです。実は、会話の全てが。「あ、すごい! いわゆる良く出来た脚本じゃん!」みたいな感じになっていると思います。そしてもちろん、たっぷり時間をかけた贅沢なセッティングという。これが完了してからはですね、もう圧力釜の中身のようにってことだと思う。みるみる会話劇の……映画の半分は1時間30分なわけですけど、1時間かけて、さあ、セッティング完了。そっから30分でグーッと会話の圧が高まっていく。危険な領域に高まっていく。

で、高まっていくに従って、カメラのサイズもそれこそセルジオ・レオーネ風のですね、顔のどアップとかでどんどんどんどん圧迫感が高まっていく。で、グーッと高まったところで、バーン!(と、テーブルを叩く) 一瞬で恐るべき惨劇が起こるという。これはもう、タランティーノ十八番の語り口が堪能できるんじゃないでしょうかね。特に今回の『ヘイトフル・エイト』は、たぶん本当に『パルプ・フィクション』のジュールス役以来と言ってもいいぐらいですね、サミュエル・L・ジャクソン・オンステージですね。今回はね。もう、サミュエル・L・ジャクソンがすごい。

まずね、北軍(ヤンキー)の黄色とネイビーのコートにマフラーというあの衣装が異様にかっこいい。衣装をやっているコートニー・ホフマンさん、タランティーノのいまの恋人らしいですけど。ねえ。もう登場した瞬間からかっこいいんですけど。たとえばこのサミュエル・L・ジャクソン演じるウォーレン少佐がですね、相手を追い詰める時に、たとえ話を出す。もう、たとえ話を出すのがすごいタランティーノ話術なんだけど。タランティーノ、たとえ話を出して相手を追い詰める時に、いちいち、何個も同じたとえを並べるというこのテクニック。

「おふくろのシチューの味……それはいつも同じだった。チャーリーの作ってくれたシチューの味……それもいつも同じだった。そして今日食ったミニーのこのシチューも……同じ味だ!」って。この3つも同じ例を重ねるというこのクドさ。クドさゆえの圧の高まり。これこそがタランティーノ的。そしてサミュエル・L・ジャクソン的圧迫話術。まさに圧迫話術のキモ。基本的にタランティーノ作品は話術がある奴、つまり、話でその場を制することができた奴が、少なくともその場ではいちばん強いという構造を常に持っているため、いかにもタランティーノ的なカタルシスじゃないでしょうかね。

「圧の高まり」という意味では、対照的に、セリフじゃなくて、事前にこれから何か大変なことが起こるよと一旦示しておいて、延々それを引き延ばす、文字通りのサスペンス。そして何かことが起こる瞬間まで圧が高まっていくという中盤のある展開。ちょうどですね、エンリオ・モリコーネの『遊星からの物体X』のサントラより『Bestiality(獣性)』。これが流れだす。ラスト近くにももう1回、流れるんだけど、ここなんか、もう最高ですね! こう、舞台上は何も起こってないように見えるんだけど、「キョロキョロ……まだ起こらない。キョロキョロ……まだ起こらない」みたいなね。もう、これを聞くだけでわくわくしてきますけども。

というのも、この場面の手前のところでサスペンスのネタ振りのところ。画面の左奥で、奥の方で進行している事態と、画面右側手前の方でギターを弾き語りしている、本作最大のトリックスターと言っていいジェニファー・ジェイソン・リーがですね、この歌の内容も物語の進行とレイヤードされてますから。画面の奥の方と手前の方。そしてこの歌っている内容とレイヤーが3つ重なっている。で、その奥の方と手前の方が交互にピントを合わせてっていう。要は、超ワイド画面ならではの情報量と見せ方っていうのをいちばんわかりやすくダイナミックに見せる。

要は、「室内劇、会話劇なのに70ミリ。スペクタクルなのに、なんで室内劇なんですか?」っていう疑問に対してタランティーノは、「いや、この空間の中で十分、70ミリ的スペクタクルは見せられるぜ」っていうね、そういう勝算があったと思うんですね。ウルトラ・パナビジョン70で撮影するという大挑戦に当って、たぶんタランティーノはCGとか絶対に使いたくなかったでしょうから。現実的に、自分がコントロールできる範囲に舞台を限定するという、そういう計算もあった上での、密室だけど70ミリワイドっていうのだと思うんだけど。

で、実際にこの映画は、まさに日本が世界に誇る美術監督、種田陽平によるミニーの店のセットの中だけで、非常に計算された、そして大胆な画面構成と演出の積み重ねで、ちゃんと豊かな、十分豊かなひとつの世界っていうのを浮き上がらせている。それぞれの登場人物が距離を、距離感を制したものが勝つというゲームを見事に演出している。で、それはもちろん、いわゆる2つのアメリカというものの縮図にも見える。そういうメタファー的な作りにもなっているんだけど。同じ人種差別問題に触れた西部劇としてもですね、前作の『ジャンゴ』。要するに、『イングロリアス・バスターズ』に続く人類史の暗部にジャンル映画的な落とし前をつける『ジャンゴ』。

だから『ジャンゴ』はタランティーノ作品としては例外的に、明快な主人公、ヒーローが設定されていましたけど。今回はちょっとモードが違う。たとえば、サミュエル・L・ジャクソンのウォーレン少佐はですね、「レイシストに逆襲だ!」という『ジャンゴ』的なカタルシスをもたらしてもいいような——元は『ジャンゴ』で描いていたらしいんだ。このキャラクターは——なんだけど、要は、「逆襲って言うにはちょっと引くんですけど……」っていう、ドン引き必至の冷酷さを発揮するし。まあ、我々が画面上で見ているあの光景が本当に起こったかどうかはわからないという、そこのグレーさも残しているわけだけど。で、あと、北軍からも追われる身であるという設定もあって。

つまり、善悪は敢えてグレーにしているし。他のキャラクターも、要するに善悪は敢えてグレーになるような描き方をしている。レイシスト丸出しな南軍チームだって、ちょっとグレーな描き方になっている。何より、お話の始まりの時点と終わりの時点で最もはっきり成長する、これはネタバレしないように「あいつ」って言っておきますけども。彼の成長譚として見ると、非常に感動的だったりもする。ということで、とにかく一方的に善が悪を断罪するタイプの話では今回はなくて。立場の違いから生じるヘイト(憎しみ)同士のぶつかり合いによる破滅。

それでも、立場の違いを乗り越える可能性はゼロではないという、ギリギリのかすかな希望。これを示す、非常にアダルトな今回はメッセージの作品だと思います。そしてそのメッセージの幅もまた豊かさのうちですね。ということで、時間の使い方、画面の使い方、メッセージの込め方、幅。全てが贅沢さ、豊かさ。そういうところを味わうべき作品ではないでしょうか。結果そして、誰も見たことのないタランティーノ映画にちゃんとなっているということで、偉い! ぜひ、劇場で、まあデジタル版でも十分です。見てください!

(ガチャ回しパートは中略〜来週の課題映画は、『ちはやふる 上の句』に決定)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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宇多丸、映画『ちはやふる 上の句』を語る! 「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年4月2日放送・テキスト版

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ちはやふる上の句

宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
    一体、誰が映画を見張るのか?
    一体、誰が映画をウォッチするのか?
    映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる−−
    その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

22:00-24:00(土)、TBSラジオ AM954 + FM90.5『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。当番組の名物コーナー、ライムスター宇多丸の映画評「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。

毎週、「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)に入った新作映画の中からランダムに選んだ作品を、“シネマンディアス宇多丸”が自腹でウォッチング。その“監視結果”を喋り倒す映画時評コーナーです。

今週評論した映画は、競技カルタを題材にした大人気コミックの実写映画化、『ちはやふる 上の句』(2016年3月19日公開)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

*  *  *  *  *  *

宇多丸:
今夜扱う映画は、先週ムービーガチャマシンを回して決まったこの映画! 『ちはやふる 上の句』。

(BGM Perfume『FLASH』が流れる)

そうですね。エンディングに流れるのが、このPerfumeの『FLASH』ということでございました。競技かるたに打ち込む高校生たちの青春を描いた大人気コミック『ちはやふる』を実写映画化。二部作の前編となる本作では、主人公・綾瀬千早が競技かるた部を設立し、大会に出場するまでを描く。出演は広瀬すず、野村周平、真剣佑。真剣佑、すごい名前ですね。千葉真一さんの息子さん。びっくりしましたね。監督・脚本は『ガチ☆ボーイ』とか、『カノジョは嘘を愛しすぎてる』の小泉徳宏さんということでございます。

ということで、この映画をもう見たよというリスナーのみなさま、ウォッチメンからの監視報告をメールなどでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、多め。ああ、そうですか。うん。評判がね、やっぱり結構高いという。賛否では、8割以上が褒めている。「原作を読まずに行ったけど、まさか泣かされるとは」「青春映画の傑作。熱いし、泣ける」「広瀬すずのアイドル映画としてもすごい」など、熱い賞賛の言葉の言葉が並ぶ。とにかく「軽い気持ちで見に行ったら予想以上によかった」という人が多い様子。

否定的な意見としては、「コメディーっぽい演出がダサいし、話もキャラもありきたり」という意見がいくつかあったということでございます。代表的なところをご紹介いたしましょう……。

(メールの感想読み上げ、中略)

……ということで、『ちはやふる 上の句』。私もTOHOシネマズ日本橋で2回、見ましたね。特に1回目は、なんか会場全体から自然に笑いがあちこちから漏れる感じで、とてもいい雰囲気の劇場でございました。まあ、ざっくり言って、いわゆる『がんばれベアーズ』型ですよね。『がんばれベアーズ』型チームスポーツもの映画。もう、ひとつの明快なジャンルですね。弱小チームががんばって勝ち上がっていくという、定番ジャンルです。

プラス、特に日本映画界ではですね、近年、さらにもうひとつ要素が加わって。要はそのスポーツが世間的には比較的マイナー競技だっていうこういう要素込みで。元はやっぱり学生相撲の『シコふんじゃった。』であるとか、男子シンクロの『ウォーターボーイズ』あたりの成功以降、割と定番化していった、完全にジャンル化している。要するに『がんばれベアーズ』型プラス、そのスポーツがマイナースポーツであるというのが日本映画界ではジャンルとして定着している。

この番組でも前に扱った『書道ガールズ!!』なんかもまさにそうですよね。ただ、ジャンルとして、いまやすっかり定型化した分ということなんでしょうかね。正直僕、このジャンル、上手くやればすごく普通に面白くなるはずなんですよね。いろいろ物語上の定石がいっぱいあるわけなんだけど、定型化した分、正直安易な作品も多いなという風には思っていてですね。と、いうことで今回の『ちはやふる』、どうなのかということなんですが。プラスね、今回の『ちはやふる』は漫画映画化。で、二部作公開という、これまた最近の日本映画界流行りのフォーマットを取っていることも含めですね、正直言って僕は事前には全くノーマークでした。申し訳ないけど。

いろいろ見る映画がある中で、割と後回しにしちゃうタイプの映画にはなっていたと思うんですね。期待もしてなかったんですけど。ただ、結論から言うとですね、もちろん映画として何かとても新しいことをしているとかじゃないです。もちろん、競技かるたを扱うというのは新しいにしても、何か新しい表現がありますよとか、そういうことではないですし。後でちょっと言うかもだけど、ところどころ僕の好みに合わないというか、今時の日本映画にこういうところは多いなという瞬間もまあ、あるはあるんだけど。だから諸手を上げて「完璧だ!」とは言いませんが、そういうのはとりあえず置いておいても、僕はこの手のジャンル映画としてこのレベルまで達していれば、申し分ない。

まあ、いまの基準から言ったら、なんなら「傑作」って言い方をしてもいいぐらいの出来だと思うっていうぐらい、僕は大好きになっちゃいました。すいません。はい。超面白かったっす! すごい楽しかった。で、1回目は僕、原作漫画を全く読まずに見に行ったんですが、全く何の問題もありませんでした。全く何の問題もなく理解できるし、入り込めるという作りにもなっていましたし、原作漫画を30何巻出ているんですけど、今回の映画で扱われているようなぐらいのところまで読んで。9巻目。もうちょっと前かな? でも9巻目まで読んだんですけど。すごく面白くて。やっぱり。その後もめちゃくちゃ読みたくなったんですけど。素晴らしいと思います。漫画もね、さすが。

原作を読んでから、もう1回見たらですね、今度は、ああ、なんて見事に原作を再構築しているんだろう。原作のいろんな要素であるとかセリフとかを上手く意味的に生きるように置き換えていたりとかですね。あと、ここも見事だなと思ったのは、今回前編・後編、2本公開なわけですよね。いま「非常に多いフォーマット」ってさっき言いましたけども。今回の『ちはやふる』はちゃんと今回の『上の句』、前編のみで1本の物語的な起承転結とカタルシスがある作品として、きっちり成り立たせる構成になっていて。とかも含めて、ああ、すごくよく出来た脚本。すごい構成がちゃんとしているな! という風に、改めてうならされたという感じでございます。

監督の小泉徳宏さんね、いままでこの番組で作品を扱ったことはなかったですけど、ロボット所属の監督さん。劇場デビューは歌手のYUIさんの『タイヨウのうた』ってありましたよね。後に、沢尻エリカさんでテレビドラマやりましたけどもね。とか、『ガチ☆ボーイ』とか『FLOWERS -フラワーズ-』とか『カノジョは嘘を愛しすぎてる』とかですね、まあ正直、僕は積極的に評価するタイプの作品ではないフィルモグラフィーが続いて。特に今回の『ちはやふる』と『ガチ☆ボーイ』を比べると、学生プロレスをマイナースポーツというところに置くならば、その題材に対するアプローチの誠実さみたいなのがちょっと段違いというかですね。

『ガチ☆ボーイ』はそういう意味で僕、ちょっとすごく難がある作品だと思っているんですけど。今回の『ちはやふる』は、この小泉徳宏さん自らが脚本を手がけられていることも非常に大きいのかもしれません。とにかく、いままでのフィルモグラフィーの中でも段違いです。段違い。生き生きしているし、完成度も高いです。一皮むけたというか、たぶんご本人的にも相当手応えがある作品なんじゃないのかな? ということだと思います。でね、どっから褒めようかなっていうのをちょっと迷うぐらいなんですけど。

どの映画でもね、映画にとって非常に大事なポイントだけど、特に青春映画はここが大事というところで、やっぱり、キャスティングのマジックが起きているかどうか? というところでですね、誰もが言うところでしょうけど。このキャスティングね、主人公の千早こと広瀬すずと太一というね、一応イケメン役ですけども、野村周平さんだけ事前に決まっていて、後はオーディションで決まったということなんだけど。まず、誰もがもう、この映画に関しては、「強えな、圧倒的だな!」っていう。これはもう、ちょっと理屈じゃない部分ですけど、言わざるを得ないのがやっぱり広瀬すずでしょうね。

『海街diary』のね、すずちゃん役も非常に良かったですけど。『海街diary』はやっぱり、なんて言うんですかね、内側に秘める役柄でしたけども、あれとは全く違った、一言で言えば「抜けのいいバカキャラ」っていうね。さっきさ、『書道ガールズ!!』って出したけど、その時に同時にやった『武士道シックスティーン』でさ、桜庭ななみさんがやったキャラがちょうどこういう抜けのいいバカキャラだったなって思い出したりしましたけど。まあ、すっごい美少女なんだけど、ちょっとまだ性的に未分化な感じを残しているというか。まだ少年っぽいところも残しているような感じ。そのバランスを、ちょっとこれ以上ないほど振り切った、本当にバカ演技で。

最初にね、リスナーメールで来たやつもね、「広瀬すずの度を越したバカ演技」ってあって。「どういうことなんだろう?」って思ったけど、これは本当で。振り切った演技で、非常にパーフェクトに。ともすると、実在感……「すごい美人なのに色気はない」とか、ともすると非常に、なんて言うんですかね? 欺瞞に満ちたキャラクターになりかねないところを、嫌味なくパーフェクトに体現する広瀬すず。これ、いまの広瀬すずの勢いがあってこそじゃないでしょうか。

この広瀬さん。お姉ちゃんが広瀬アリスさんっていう、やっぱり女優さん、モデルさんで。今回も一瞬、雑誌の表紙に写ってらっしゃいましたけども。『銀の匙』なんかもね、非常によかったですけども。お姉さん、みなさんコンタクトレンズのコマーシャルで、この広瀬アリスさん。お姉さんがすっごい美少女なのに、目が悪くてすっごい人相が悪くなるというCM。コンタクトレンズのコマーシャル、記憶されている方もいると思いますけど。あれを見て、あ、すげえ。こんなに美人だからこそ、やっぱりこういうコメディーセンスがある人がやるとめっちゃ面白いな! と思って見ていたんですけど。まさにあのお姉ちゃん譲りの目のコメディエンヌ・センス。

特に、美少女ゆえの目を使ったギャグね。今回、見た人はわかりますけども、とにかくあの白目ネタね。あの見事な白目ネタ、最高。白目をむいて動かないのって、結構大変なんですけどね。白目ネタ、最高。最高バカっすね、あいつね(笑)。あいつ、最高バカっすね、本当ね。これ、褒めてますけども。あと、スカートの下にジャージ履いている時の、「あっ! あーあ……」っていう(笑)。「どこの業者の方ですか?」ってね、あれよかったですけどね。熊谷さんのセリフも。ああいう時の「パッと見て美少女だけど残念」みたいなのが嫌味なく体現できる。これはなかなかね、ないことだと思うんですよね。

この映画全体にですね、ちょっとお話というか空気がウエットな方に行き過ぎそうになると、すかさずそういうちょっと超くだらないギャグとかやり取りを含めて、ちゃんと笑わせてバランスを取るというようなコメディーセンス。それも映画的コメディーセンスが非常にたしかなものがある。それが本作の大きな魅力となっていると思います。たぶん、小泉徳宏さんがですね、もともとコメディーが向いている人だったんじゃないか?っていう。だから、いままでのちょっと、割とウエットな作品を職業的に受けられてましたけども。コメディーセンスがある人だっていうことなんじゃないかなと思いました。

あと、広瀬すずに関しては加えてですね、『海街diary』で一部観客をもう騒然とさせた、抜群のサッカーセンス。ねえ、見せていましたけども。然りですね、要は基礎的な身体能力はたぶんこの人、めっちゃ高いんですね。あと、動きのセンスとか、めちゃくちゃいいんですよ。体技的なことね。体がもういいわけですよ。動きが。ということで、競技かるたというのが非常に激しいスポーツである。「畳の上の格闘技」と言われるような……「畳の上の格闘技ってそれ、柔道だろ!」っていう感じするけど。でもまあ、柔道的にバーン!ってこう、受け身を取ったりする。

スポーツとしての競技かるた。その真剣度。なんなら、殺気ですよね。殺気さえ帯びているようなその真剣度っていうのを、この広瀬すずが最初のところでやってみせる。そこで彼女が「ウラーッ!」っていうところのバーンッ!っていう一発で納得させる説得力がやっぱり、体技含めてあるわけですね。あそこがショボかったら、もう全部成り立たないですね。とかですね、もちろん、他のキャストを含めてしっかり事前のかるた訓練をちゃんと積ませて、競技かるたという題材をしっかり描くという。

さっき言った、マイナースポーツ版ベアーズというジャンルでここ、絶対に外しちゃいけないところ。勘所なのにもかかわらず、ここを適当にやっている作品も少なくない。その、あるスポーツを描こうっていうのに、そのスポーツをちゃんと描く気ないでしょ?っていう風になっちゃっている作品が多い中で、当たり前なんだけど、競技かるたをちゃんと演者たちに叩き込んで。で、完全に上手いところまで持って行ってやるというですね、当たり前だけど日本映画でできていないのも多いですよというようなことをちゃんとやっている。これも本当に大きいあたりだと思います。あの、先ほどちょっと苦言を言った『ガチ☆ボーイ』という作品が、そもそもプロレスっていうものを錯誤していないか、この話は?っていうのに対して、もう雲泥の差だと思います。これは、アプローチはね。

で、とにかくですね、いまの広瀬すずがすげえ! とにかく、神がかり的魅力。これ、ちょっと言いすぎだっていう方もいらっしゃるかもしれませんが、僕、いまの広瀬すずは、「10代の頃の宮沢りえ」の陽性の部分と、「10代の頃の薬師丸ひろ子」の陰性の部分を併せ持つ、ちょっとデカいタマ、来たよ! ちょっとこれ、大きいタマ来たよ!っていう感じになっていると思います。

とにかくその広瀬すずの、説明不要ですね。とにかく説明不要の……説明不要の魅力です。すいません。もう、女優の魅力ってこれ以上言葉にできません。説明不要の魅力が中心として真ん中にドスンとある。で、物語的にはむしろその千早っていうのは中心にある、太陽的なというか、資質的にも天才なわけですから。少なくともこの『上の句』では一応、無意識過剰な天才としてドンといる。なんだけど、物語上は千早の幼なじみ。で、さっき言ったイケメンで金持ちなんだけど、実は非常に切ない思いを抱えている。千早に対しても切ない思いを抱えているし、かるたの才能ということに関しても切ない思いを抱えている太一というキャラクター。これ、野村周平さんが演じている。この彼の視点から見るという構成にしている。

で、彼や他のサブキャラクター。特にその机くんっていうね、ガリ勉のキャラクターが彼女という中心的な太陽を通して少しだけ成長するという話として話を再構成。この前編は構成している。これも大正解だと思いますね。太一を演じる野村周平さん。内藤瑛亮監督の『パズル』でニキビをプチプチつぶしていた子だ、とか。あと、入江悠監督の『日々ロック』の主演の子ですよね。こっちこそ、本当に抜けのよすぎるバカ役じゃないですか。全然、毎回違うように見える。非常に芸達者な方なんだなと思います。

今回、その太一というのが原作よりちょっとだけ親しみやすい目線。つまり、やっぱりさっき千早を中心にすると、結局彼はイケメンで金持ちだって言うんだけど、実は“持たざるもの”。凡人サイドなわけですね。凡人側の視点としての太一像っていうのを上手く、いいバランスで演じられているんじゃないかなと思います。個人的にはね、細かいところなんですけど、寝てしまった千早、広瀬すずをおんぶして帰る夜道で、「あ、あそこマンション建ったんだ……」ってボソッと言うじゃないですか。こういう瞬間を自然に切り取っているだけで、青春映画として、「ああ、これはいい映画だな」っていう風に確信する瞬間だったりします。

で、それに対するですね、『上の句』。今回の前編ではあまり出番が少ないんですけども。それゆえにミステリアスな存在感。新(あらた)というね、こちらは本当に天才の役でございます。真剣佑さん。千葉真一さんの息子さん。これ、まだちょっとわかんないですけど、存在感の、端正だけどミステリアスな、でもなんか持ってるんだろ、こいつ!? みたいな。とっても体現されていて、これもいいチョイスなんじゃないかなと思いますし。あと、他のかるた部員3名。3名ともですね、見た目はちょっと原作とかと設定とか、だいぶ違うんだけど。今回の映画の中では完璧にハマッているなとは思うね。

むしろ、たぶんアンサンブル的なところを生かしたのかもしれないですけどもね。『舞妓はレディ』のね、上白石萌音さんとかですね、今回はコメディーリリーフに徹してましたけども、西田という役をやっている矢本悠馬さん。あと、何しろ今回おいしいのは、机くんというね、ガリ勉的なキャラクターを演じている森永悠希さん。これも原作とちょっとね、バランスは違うんだけど、非常に納得のバランスというか。彼のエピソードの、サブキャラクターでサブエピソードなんだけど、持たざるものの成長っていうのがさっき言ったメインキャラクター。事実上の今回の『上の句』の主人公・太一の目線と重なって、非常に比重が大きい、おいしいキャラクターなわけですけど。

特にやっぱり、彼が落ち込んだところから復活する時にある回想をするわけですけど。その回想のショットが、先ほどメールにもあった通り、ある場面を彼の視点。つまり彼はその時、こう見えていたっていう彼からの視点で、ある場面を別のショットでパッと出してくる。そのポンッていうショットの入れ方が不覚にも、「おっ!」って来る。「上手い! 虚を突かれた!」っていう。というのは、山登りの場面なんですけど、そこで彼が手を伸ばしてもらって手をつなぐ時に彼側の視点。「あ、カットが変わるのかな?」と思わせる間というか、あれがあるんですね。

「あ、変わんないんだ」っていう。やっぱり観客は無意識でそれを覚えているから。その後で、彼が見ていた光景っていうのをポンッて見せられると、ドン!って来るというですね。映画っていうのはやっぱり前に起こったことを思い起こして、「ああ、そうか」って思い起こした時に感動するっていうね、そういう機能がございますね。あと、ライバル校の2人もよかったね。「ドSのS」の須藤。清水尋也さん。これね、特に『ソロモンの偽証』でいちばんおいしいところを持っていった方ですね。今回もね、見た目も漫画とそっくりだし、ドSが似合います。あと、あの首から肩のラインの、あの年頃の男の子にしかないラインがいんだよな。あれな。

あと、今回は名前も呼ばれてなかったけど、ヒョロくんっていうキャラクターの役をやっている坂口涼太郎さん。今回は役として決して多くはない。セリフも出番も多くはないのに、しっかりと存在感を残している。非常に素晴らしい。あと、最近の青春映画で大人の比重が非常に低いのは今っぽいけど、國村隼さん。抑えめだけど非常にいい感じだったんじゃないでしょうか。ということで、ちょっと役者さんの名前を並べすぎちゃいましたけど、青春映画においてはやっぱりこのね、「あいつら」っていうのがたしかにそこにいて、その時間を過ごしたんだという実在感。これが本当に大事なんですね。

だからこそ、「あいつらにまた会いたい、あいつら、どうしてるかな?」っていう、この考えが起きる。その意味で、今回は若い役者さん同士のアンサンブル。相性も含めてですね、もちろんそれを生かすように確かな演出をしていることも含めですね、これが最高にうまく行っているんではないかと思います。あと、やっぱり脚本がとてもよくできている。百人一首と物語のシンクロのさせ方。原作とは違うところ、違う場所にあるんだけれど、とてもハマッている。あの「うっかりハゲ」っていう使い方とか、まあ私は若干イラッとしつつ、二度目にそれが出てきた時、「あっ、うまいな! うまいハメ方するな」みたいな。

一事が万事、百人一首のシンクロのさせ方もうまいですし。あと、これもうひとつ。これがいちばん大事なところ。本作最大の魅力はですね、試合の勝敗に常に明快なロジックがあるということですね。これができていない作品が本当に多い。競技かるた、勝負は一瞬のために、要はハイスピード撮影であるとか、ある種の説明ゼリフ、心理独白ナレーションみたいなのに頼らなきゃいけないのでバランス取りは難しかったと思いますが、やりすぎないように気をつけつつ、特にクライマックス。最後の最後の勝負はですね、要は先ほど言った、かるたに関してはむしろ持たざるものである太一のドラマ的なところの着地にもなるわけですけども。

彼が自分の見出した勝つためのロジックで自らの運命を切り拓いていくという展開。これが、さっき「千早をつかみ取るんだ」という、二重のドラマ的……和歌とドラマのシンクロという、試合のロジックとドラマのロジックの二重の重なるところがあって。しかも、その決着が意外かつ、やっぱり「ああ、なるほど!」と膝を打つ、見事な決着の付け方を含め、対する敵のヒョロくんのナイスな、もう見事なリアクションも含め、本当にグッと来る名場面になっていると思います。

あえて言えばね、たとえばしんみりした場面の音楽演出とか。これ、別にこの映画に限らず、最近の日本映画はなんかピアノが「ポロン……」みたいな。なんか単調で他のやり方、ないのかなぁ、とか。あと、やっぱり先ほどのメールにもあったけど、やっぱり上手い子役の使い方って諸刃の刃だな、とかね。そういうことは思わなくもなかったが、ただまあ、あんまり全体としては文句をつける気がしないぐらいですね、魅力的な、旬のキャストの相性最高のアンサンブルと、かるたシーンの本当に真剣な本物の体技。体の力、体の魅力。そして巧みにロジカルに構成された脚本と、絶妙な笑いのセンスなどなど、全てがこのジャンルムービーとして申し分ないレベルではないでしょうか。

最後に『下の句』。この続編、後編の映像が付くんだけど、僕はもう早くあいつらに会いたい。「えっ、もうそんなに早く会えるの!?(笑顔)」っていうか、次に会ったらもう終わり……、ぐらいの感じになっちゃっています。『下の句』の出来次第ではあるけども、これは意外と日本青春映画史上に残っていくことになる作品かもしれないと。それぐらい、なかなかの出来でございました。『ちはやふる 上の句』、おすすめです。ぜひ、劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート、中略 〜 来週の課題映画は『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

★ポッドキャストもお聞きいただけます。

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宇多丸、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』を語る! 〜「週刊映画時評ムービーウォッチメン」テキスト版(2016年4月9日)

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宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる−−
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

22:00-24:00(土)、TBSラジオ AM954 + FM90.5『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。当番組の名物コーナー、ライムスター宇多丸の映画評「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。

毎週、「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)に入った新作映画の中からランダムに選んだ作品を、“シネマンディアス宇多丸”が自腹でウォッチング。その“監視結果”を喋り倒す映画時評コーナーです。

今週評論した映画は、『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』(2016年3月25日公開)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

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宇多丸:
今夜扱う映画は、先週ムービーガチャマシンを回して決まったこの映画! 『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』

(BGM:『バットマン vs スーパーマン』テーマ曲が流れる)

アメコミを代表するヒーロー、スーパーマンのリブート作である2013年の映画、『マン・オブ・スティール』の続編。同じくアメコミを代表するヒーロー、バットマンとスーパーマンが対決する。主人公のクラーク・ケントことスーパーマンを演じるのはヘンリー・カビル。ブルース・ウェインことバットマンを演じるのはベン・アフレック。また、イスラエル出身のガル・ガドットがワンダーウーマンに扮している。監督は『マン・オブ・スティール』に続いてザック・スナイダー、ということでございます。この映画『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』を見たよというリスナーのみなさん、ウォッチメンからの監視報告、メールでいただいております。ありがとうございます。

やはりですね、非常に大作というか注目作でございますので、メールの量は非常に多いです。今年最多クラスでございます。言いたいことがいろいろ出てくるっていうのがあると思いますけどね。賛否で言うと、賛が2割。まあまあが3割。そして残り半分が否定的な意見ということでございます。「とにかく画面がかっこいいし、ヒーローたちの造形もばっちり」「アメコミファンとして大満足」「前作『マン・オブ・スティール』からつながるテーマ設定がいい」などが主な褒める意見。

対して、「いくらなんでも長すぎる」「冗長、退屈」「登場人物全員バカだし暗い」(笑)。「登場人物全員バカだし暗い」って、キレがいいですね(笑)。など、否定的な意見はこんな感じが多数を占めた。ただし、多くの人が「ワンダーウーマンは良かった」という。まあ、正直ね、「ワンダーウーマンを出す」って聞いた時に、「えっ、大丈夫か? ワンダーウーマンなんか出して」って思ったんですけど、そのあたりは非常に好評な意見が多いということでございます。代表的なところをご紹介しましょう……。

(メールの感想読み上げ、中略)
……ということで、いってみましょう。『バットマン vs スーパーマン』、私もTOHOシネマズの2D字幕、あとバルト9の2D字幕と109シネマズ二子玉川のIMAX3Dで見てまいりました。『マン・オブ・スティール』、このコーナーでも2013年9月29日にやったものの直接的な続編にして、いわゆる──こう呼ぶことになったみたいです──「DCエクステンデッド・ユニバース(DC Extended Universe)」。要するに、映画においては──もちろん、コミック界においてはDCの方が先輩なんですけど──映画界においては、マーベルが先に進んだですね、「マーベル・シネマティック・ユニバース(Marvel Cinematic Universe)」が先行して大成功しているのの同種の試み。

要するに、個々のDCコミックスのヒーローたちを個々の単体で映画化するだけではなくて、互いにクロスオーバーさせて、集結・大集合映画とかを作って、『アベンジャーズ』的な作品世界に広がるスケール感を持たせて、さらに大ヒットで大儲けしたいという計画の、今回『ジャスティスの誕生』というぐらいですから、本格的スタートでもあるということですね。もちろん、コミックでは『ジャスティス・リーグ』の方が先なんですよ。DCの方が先輩にあたるわけなんですけど。映画では、ちょっと後塵を拝していると。

で、原題だと、『BATMAN V SUPERMAN: DAWN OF JUSTICE』ですけどね。タイトルがある意味、全部言っちゃっている。要するに、バットマンとスーパーマン、言わずと知れたDCコミックスの二大ヒーローが、あれでしょ? いろいろあって、対峙・対決せざるを得なくなるんでしょ? で、まあ世紀の対決を経て、とは言えお互いヒーロー同士だから、いろいろあって、まあ和解するんでしょうね。なんかあってね、和解するんでしょう。

で、最終的には、後に『ジャスティス・リーグ』。映画界においてはマーベルの『アベンジャーズ』みたいなもんだと思ってください。『ジャスティス・リーグ』というスーパーヒーローチームが結成されるきっかけが生まれるんでしょ? まあ、そういう話なんでしょうね。うん。タイトルがそういうタイトルですからね!って。で、実際に本当にそういうだけの話です、ということなんですね。

もうちょい細かく言うと、こういうことですね。監督のザック・スナイダーさんをはじめ、作り手のみなさんとしてはですね、特にザック・スナイダーの思いとしては、本音を言えば、フランク・ミラーさんという方──ザック・スナイダーは以前、フランク・ミラーのアメコミというか、グラフィック・ノベルの作品化としてひとつの正解みたいなものを見せた『300』という見事な作品がありましたけども──フランク・ミラーによるアメコミ史上最高傑作とも言われている『バットマン:ダークナイト・リターンズ(Batman:The Dark Knight Returns)』という……これ、「ダークナイト」とついているから勘違いしないで欲しいんですけど。クリストファー・ノーランの映画じゃございません。

むしろ、ノーランを含め、ティム・バートン版も含めてですけど、ティム・バートン版以降全ての映像化バットマンに多大な影響を及ぼしているアメコミの名作中の名作、『ダークナイト・リターンズ』を本当は映画化したいはずなんですよ。たぶん、本当は、そのまんましたいんですよ。『ダークナイト・リターンズ』をね。それがおそらく本音なんだけど、ただ超大作商業映画としての企画上マストな条件っていうのがやっぱりありまして。ザック・スナイダーも大人ですから、そこは。「私も大人ですから」っつって。

要は、『マン・オブ・スティール』の続編であることですね。つまり、“『マン・オブ・スティール』に出てきたスーパーマン”が出る話じゃないといけない。『ダークナイト・リターンズ』のスーパーマンをまんまやろうとなると、要するにあのスーパーマンとは同一人物ではいられなくなってしまうという件があるのと、あと、さっき言ったDCエクステンデッド・ユニバース。具体的には『ジャスティス・リーグ パート1』へのブリッジ。そこにつなげるような話にしないといけない。要するにこれからいろんなスーパーヒーローが出てきますよ、というようなことをちゃんと予告するような内容にしておいてね、という、この2つの条件は外せないわけですよ。映画を作るにあたって。

なので、見ていてですね、「ああ、ここはもろに『ダークナイト・リターンズ』のまんまだな」というところを要所要所に残しつつ、たとえば、おなじみのブルース・ウェインがバットマンになるきっかけ。両親を殺されてしまう場面の描き方とか、映画館から出てきて、っていうところ。映画館のポスターが、ゾロのポスターがあるわけですね。ゾロっていうのはもう、まさにバットマンのルーツにあるようなキャラクターで。だからこそ、原作でもゾロのポスターが貼ってある。

今回の映画だと、時代的な設定上、1981年ということですから。「ジョン・ブアマンの『エクスカリバー』が次週水曜日から上映」みたいなのが看板についていたりですね。『エクスカリバー』の映画のラストが今回の『バットマン vs スーパーマン』のラストのとある結末を暗示していたりもするんですけど。とにかく、『ダークナイト・リターンズ』を踏まえた展開。あるいは、お母さんが撃たれて真珠がボーンと散る。あれはもう、「はい、『ダークナイト・リターンズ』、やりたかったのね。よかったね、よかったね〜。ザック・スナイダー、よかったね〜」って。あと、核ミサイルでスーパーマンがしなびちゃうっていう展開とか(笑)。

で、もちろんバットマン vs スーパーマンのあの戦い。特にアーマーをつけたバットマンの戦いっていうのはかなり、流れも含めて結構まんまだったりするんですけど。そもそも、今回のバットスーツのデザイン。後ほど言いますけどね、ちょっと角ばった感じのバットマンのデザインがもうすごく、フランク・ミラーのコミック寄りだなという感じになっているというのがあると。なんだけど、それを要所要所に、元は『ダークナイト・リターンズ』をやりたいんだろうな、ほとんど『ダークナイト・リターンズ』が原作と言ってもいいぐらいな……アルフレッドのセリフとか、まんまのところもありますし、ですね。

なんだけど、同時にさっき言った条件……DCエクステンデッド・ユニバースに向けた布石として、「じゃあワンダーウーマンを出しましょう」と。あと、後の展開を暗示する、正直これはどんだけのファンが見ても明らかに唐突な、幻視シーンというかですね、未来の予言を見てしまうようなシーンがあるわけですね。ダークサイドっていう悪役が出るのかな? ダークサイド軍団のあれなのかな?っていうのが、バシャーッと空からやって来て……とかね。まあ、フラッシュなんでしょうね。「俺、速すぎた?」っていう(笑)。説明的だな!っていうね、「俺、速すぎた?」っていう、フラッシュっていう別のヒーローがタイムリープ能力みたいなのを活かして、みたいな。フラッシュ・ポイント的な展開なのかな? みたいなものを見せつつ……という。

あと、もちろん『マン・オブ・スティール』の続きなので。『マン・オブ・スティール』っていうのはゾッド将軍っていうのを出しちゃっているわけですね。前のリチャード・ドナー版というか、クリストファー・リーブ版だと、2作目でやったゾッド将軍との戦いを1作目でやっちゃっているんで。ゾッド将軍っていうのはスーパーマンと同等の力があるわけですけど、ゾッド将軍より強い敵っつったら、もうこいつぐらいしかいないだろうっていう。で、名前を出すだけでちょっとネタバレになってしまう、ある敵が今回のラスボスとして出るんだけど。

で、このラスボスが出るっていうことは、当然戦いの結果はこうなるしかないという、あるオチがつくわけです。人によってはあれ、衝撃的なオチっていう風に思うかもしれないけど、もうそのキャラクターが出てきた瞬間に、っていうか出るって聞いた瞬間に、「はい、じゃあそういうことになるのね」っていう、ある展開があるわけですね。もう、名前を言うだけでもちょっとネタバレになっちゃうんで言いづらくてすいません、そういう諸々の要素。とにかく、いろんな諸要素をがんばって全部入れ込んでみましたっていう作品なわけですよ。

で、その結果ね、良くも悪くもそういう諸々の事情を改めて汲み取っている、汲み取ることができる、なんなら、汲み取る気満々なアメコミファンとか、アメコミヒーロー映画ファンは、「ああ、まあそういうことがやりたいのね。そう来るのね。次回作以降はこういう流れなのね」っていう風にそこそこ納得したり、今後にそこそこワクワクできたりする要素が多い。そういう要素が多い作品になっていることは間違いないと思います。なので、ある程度満足したっていう人がいるのは当然だと思う。

ただ、本作最大の問題はですね、僕がいま言ったような諸条件、諸要素から事前に予想がつくというような範囲っていうのがあるわけですよ。さっき言った「ラスボスでこの敵が出てくるなら、ケツはこうなるだろう」とか。「バットマンとスーパーマンの戦いが『ダークナイト・リターンズ』に則しているのであれば、っていうかスーパーマンを倒すのであれば、当然クリプトナイトを使うのであろう」とか。そういう予想の範囲を超えるような事態が、1個も起こらないんです。

その割に、まあ良くも悪くも「神話的な」語り口。これね、たぶんね、そこにすごく、「深遠なテーマを語っている」とか言う人、いますけども。いや、違うでしょう。テーマとして深遠なものを語っている風なことと、作品そのものが深遠であることは別なんで。たぶんこれ、ザック・スナイダーとか、特に脚本のデヴィッド・S・ゴイヤーさん。クリストファー・ノーランの『バットマン』シリーズとかですね、コミックの方も手掛けられたりしてますけども。脚本のデヴィッド・S・ゴイヤーさんたちにとって、単純にアメコミ、グラフィック・ノベルにおけるかっこよさっていうので、絵的なかっこよさっていうのがあるわけですね。まあ、ザック・スナイダーがいちばん得意としているところですよね。

グラフィック・ノベルを絵的に完全に映像的に再現しましたというのと同じように、グラフィック・ノベルのかっこよさを示すのの大事な要素として、神話的。なにか重々しい語り口、みたいなのがある。つまり、「超かっこいいキメ画と同レベルでの、神話的な語り口」っていうのが俺はあると思っているんですよ。たとえば、スーパーマンがアメリカの議会の公聴会に呼ばれてくるっていうあの絵面、『キングダム・カム』っぽくね? 『キングダム・カム』っぽくて、かっこよくね? みたいな。そういう割と無邪気な動機から来ていることだと思うんですね。

で、とにかくいちいち語り口が重々しいためですね、ほぼ事前に想像がつくストーリー展開のまま進んでいくだけなのに、やたらと尺は長くなる。つまり、比較的想像通りのことしか起こらないのに、ダラダラ勿体をつけるっていうことで、率直に言えば、やっぱり退屈な場面が多いんですね。というのが最大の問題だと思います。しかもその大仰なテーマ風なことは掘り下げる気があまりないどころかですね、最終的にはものすごくグダグダ、うやむやにされていくというあたりもまあ、「あ〜あ……」というあたりじゃないでしょうかね。

順を追って見ていくとですね、まず『マン・オブ・スティール』の続編ということで。僕もその時、この番組のムービーウォッチメンの時評で言いましたけど、クライマックス、メトロポリスという都市でスーパーマンとゾッド将軍、要するに同じクリプトン星で生まれた人なので、力は同じ。しかも、向こうの方が数は多いというようなね。まあ、ゾッド将軍は仲間たちがみんな死んだ後で、ゾッドと一対一の戦いがあるわけですけども。まあ、スーパーすぎる戦いがあるわけです。もう人間的物理法則、地球の物理法則を完全に無視したすさまじい戦いで。

あんまりスケールがデカすぎて、「この後にバットマンと戦うって、無理でしょ?」って誰もが思うようなすさまじい戦い。で、僕はその時の評論で、「最後に『人命を救うために』みたいなことを言うんだけど、いやいやいや、これはどう考えてもさっきの戦いの背景でむちゃくちゃ人、死んでるでしょ!」って指摘しましたよね。で、実際に多くの観客からそういう指摘や批判が多かったみたいなんですよ。で、明らかにそれを踏まえた作り。今回の物語の発端はまさに、そのドッカンドッカン、ゾッドとスーパーマンが人間なんか関係ないやのレベルの戦いを繰り広げている、その背後ではこんなことがあったという、視点の転換が今回の物語の発端になっている。

で、これ、発想として非常に近いのはですね、ズバリ、1998年の日本映画『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』ですね。要は、ガメラの場合は1作目でガメラがギャオスという怪獣と戦ったその戦い。それは非常にヒーロー的な戦いをするわけですけど、前の作品でのヒーロー的な活躍のその裏側では、こんなに犠牲者が出ていた。で、その犠牲者の視点から、要はこういうことです。ヒーローを<相対化>するという、そういう仕掛けの作品でした。『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』は。

加えてですね、『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』、ここも近いんだけど。後に最大の敵としてガメラに立ちはだかるのがですね、前の作品で倒した宿敵ギャオスの血脈と通じるような化物と、ヒーローであるガメラへの怨念にとらわれた人間とが融合したやつなんですよね。それが邪神(イリス)なんですよ。しかもそいつは、外からの攻撃を吸収してどんどんバージョンアップしていくっていう、そういう設定まであるんですよ。これ、完璧に今回の『バットマン vs スーパーマン』のラスボスのアイツと非常に重なると思いますね。

まあ、作り手が直接的にこの『ガメラ3』を参考にしたという証拠は何もない。そんな発言もないんですが、ただまあこの間のね、ハリウッド版『ゴジラ』が完全に平成『ガメラ』の1作目風だったのを考えると、まあちょっと見比べてみると興味深いものがあったりするかもしれませんね、と思ったりしました。とにかく、いいです、目の付け所自体は悪くないです。ヒーローの相対化。特に、前作でヒーローがやったことの相対化。ただ、こういうヒーローの相対化みたいなのが効果的なのは、ヒーローのヒーローらしさが十分に描かれた後だからこそ、ショッキングだったり問題提起として意味があるテーマであって。『マン・オブ・スティール』は1作目の中ですでに、ヒーローの相対化っていうのをさんざんやっちゃっている作品なんですよ。

なので、僕、ヘンリー・カビルが演じるスーパーマンはすごく好きなんですけど、なんかこの人、相対化ばっかりされていてかわいそうっていう。全く颯爽としたところがない。ようやく今回、中盤である種シンボリックな「神話的な」描かれ方ではあるけども、普通にいわゆる人命救助を──僕はヒーローものはかならずやった方がいいですよという−−要は普遍的善としての人命救助をしている場面が出てきたりするので。まあ、そこは「よかったね。ようやくいいことをしているところが出たね!」みたいな感じなんですけど。

なので、ちゃんとそういうのを描いてから、こういう相対化をやんなきゃいけないのに、『マン・オブ・スティール』ってそういう映画だっけ? と。加えてですね、同じく重々しく語られる「神 対 人間」という、「テーマ」ですね。そのテーマの置き方自体はわかります。スーパーマンっていう存在を突き詰めていくと、当然神にも近い存在と人間っていうテーマになっていくのもわかる。神にも等しい力を持つ存在に対して、知恵を武器に、つまり、人間の存在証明として知恵を武器に、神殺しに挑む人間たち。特にその中でね、ジェシー・アイゼンバーグが今回、現代IT長者風というか、はっきり言ってADHD風というか、のレックス・ルーサーを演じて言う通りですね、「ゼウスとプロメテウスだ」と。

プロメテウスが神の火を手にして、神は怒って雷を……と。で、神はひどいぞという。まあ、プロメテウス的なテーマであるとか。あるいは、アポロ VS オデッセウス的というか。とにかくまあ、いろいろとたとえはできると思うんですけどね。実際にさっきから何度も言っている『ダークナイト・リターンズ』、フランク・ミラーの原作はまさにそういうテーマ。『ウォッチメン』とも通じますけども、要するに、「神にも等しい存在って言うけど、お前を誰が抑止するんだよ?」という問いかけ。この問いかけとかテーマ設定自体は妥当性があると思いますよ。興味深いと思いますよ。

ただ、まずその『マン・オブ・スティール』の続編として真面目に考えていくとですね、僕、『マン・オブ・スティール』も何度も見直しましたけど、前作の結末ってね、神話なりそういう話っていうのと──あ、ちなみにその神話的っていうのだと、今回ご丁寧にロンギヌスの槍とかを出してきてね、結末はモロに完全にキリストっていうような終わりだったりするわけなんですけど──『マン・オブ・スティール』のことを考えてください。じゃあそのキリストって言うならですよ、バイブル、聖書的な話をするならですよ、前作の結末ってあれは要は、じゃあカインとアベルなわけじゃないですか。

要するに、同族殺しなわけですよね。カインがアベルを殺して、人類最初の殺しをしてしまうという原罪。罪を背負ってしまう。つまり、スーパーマンが同族殺しをすることで、むしろ人間的なものに相対化されてしまう。人間的原罪を背負ってしまう。スーパーマンが人間になるという着地の話だと思うんですよ。好き嫌いとか評価するしないは別にして、間違いなくそういう話でしょ? 『マン・オブ・スティール』の結末は。

だし、普通に考えてもですね、スーパーマン単体で地球上でワーッて活躍していたら、それは神のごとく振る舞うものとして、そういう風に置いてもいいかもしれないけど。でも、そういう風なものを一般大衆が目にするはるか手前の時点で、もういきなりあのゾッド将軍の軍団が来ちゃっているわけですよ。つまり、エイリアンがいっぱい来ちゃって。で、エイリアン同士の内輪揉めを始めるわけですよ。人類が見ているのはそれなんですよ。だから、スーパーマンは単にエイリアンの生き残りじゃないですか。だからその、神的な単一性、唯一性みたいなものはもうすでにないわけですよ、普通に考えて。

だから、少なくともさっき言った理由も含めて『マン・オブ・スティール』の流れで考えると、あんまり単一の神性みたいなところの議論に乗せる流れだっけ? みたいな感じはしちゃうわけですね。百歩譲って、本作の中ではそういう、ある意味本来のスーパーマンらしさ、スーパーマンの存在意義にも近い、「神にも等しい男」という存在感に改めて前提を立てなおしての今回の話です、っていうなら、まあ、じゃあわかった。それでもいいけども。

だとしたらですね、ここですよ。たとえば今回、クライマックス。バットマン 対 ホニャララ戦。バットマンが絶体絶命のその瞬間、ハンス・ジマーとジャンキーXL、師弟コンビによるこんな音楽が流れだす!

(BGM:『Is She With You?』が流れる)

これね、シーラ・Eとかいろんな名ドラマーたちを何十人も集めて結集した「ドラムオーケストラ」。ダーンダーンダーン! もう超熱いドラムオーケストラ。これ、前回の『マン・オブ・スティール』でもサントラに使われましたけども。と、ちょっとこのメロディーがレッド・ツェッペリンの『移民の歌』を連想させる、ギターかと思いきや、エレクトリック・チェロという楽器らしいんですけど。この超燃えるテーマ曲に乗ってですね、ワンダーウーマンがバーン!って、助っ人に参戦するわけですよ。これ、演じてるのは、ガル・ガドットさん。

『ワイルド・スピード』に出てましたよね。ハンっていうアジア系のキャラクターと恋仲になる。で、彼女が死んじゃったからハンは東京に隠居するというですね。で、すっごくキレイだなと思っていたんだけれども、今回ももう本当に素晴らしい存在感! キレイな人で、最高なんですよね。イスラエルの人で、兵役行ったことがあって一児の母って、どんだけワンダーウーマンなんだっていうね。で、間違いなくこのワンダーウーマンがバーン!って出てくる。キターッ! まあ、本作の白眉ですよね。間違いなく、誰もがいちばんいいところ、アガるところだと思うんですよ。やったー!って。

でもみなさん、冷静に考えてください。この瞬間、少なくともスーパーマンを巡る「神 対 人間」っていうテーマは全部吹っ飛ぶよね(笑)。なぜなら、ワンダーウーマンもまた神様みたいなもんだからですよ。えっ、さっきまでのあれ、全部じゃあもう、なし? なし!っていうね(笑)。だからすごくアガるんだけど、同時に残念っていう瞬間でもあるっていうね。事実ですね、要はさっきから言っている「抑止不能な力を野放しにしていると危険だ」っていう、それ自体はそれなりに説得力がある、「誰がウォッチメンをウォッチするのか?」という、それなりに説得力のあるバットマン側の当初の言い分。最後は、完全にウヤムヤになってます。

「オレは考え方を変えた」とかも言わない。「オレが間違っていました」とかも言わない。なんか、すげーシレッと方向を180度転換してるんですよ、あいつ(笑)。俺、だからあの、「いや、チームを集めようと思うんだよね」っていうところでワンダーウーマンは蹴っ飛ばしてもいいと思うんだよね。「っていうか、なんでお前が?」っていう(笑)。まあ、要するにね、深遠なテーマ風に見えるものは、さっきも言ったようにかっこよさの一部なんだとしてもですよ、それが結局燃えるヒーロー大集合に吹っ飛ばされるというこの流れも、じゃあそれはそれで痛快でいいじゃねえかってことなんだとしてもですよ。

じゃあ、そうだとしよう。だとしても、今回の『バットマン vs スーパーマン』、ところどころお話や登場人物の行動がいくらなんでもアホらしすぎ。なにこれ?っていうところが多すぎる。たとえば、ブルース・ウェインがレックス・コープから情報を盗むっていうところがあるんですけど。こんなにザルな会社は見たことがない!っていうね。まず、大事なサーバー室みたいなのが厨房横みたいなところにあってですね。で、コネクターみたなのがむき出しであって。そこに雑な装置をくっつけて。しかも、「はい、あんた、はいはい。なにやってんの?」って見咎められているのに、その装置は放置されたまんま。

で、いったん離れて戻ってきたら、「うわー、取られちゃった!」って言うんですよ。で、取ったのはワンダーウーマンなんだけど、ワンダーウーマン側も「いや、でも取ったのはいいんだけど、なんかちょっとファイルがロックかかっていて、見られなかったから返すわ」って。なんだ、お前ら! コンピューター音痴の中学生同士のUSBのやり取りか!? みたいな。まあ、ザック・スナイダーはつくづくですね、コミックを再現することには情熱を燃やしても、スパイ映画とかマジで興味ねえんだなっていうのがわかる雑なシーンでございました。

あと、たとえばね、レックスがスーパーマンを倒すためのクリプトナイトを輸入した。で、それをバットマンが奪おうとするくだり。バットモービル大活躍のシーンなのはいいけど、その車に発信機を取りつけているんですよ。で、その行き先は、いいですか? レックスが輸入したってわかっているものに発信機をつけたその車の行き先は、レックスの研究所なんですよ。で、ああ、そりゃそうだろうねっていうところにしか行かないんですよ。そうだよねっていう。しかも後から、その研究所から強奪するんですよ。石を。っていうことはさ、さっきの途中のカーチェイス、丸ごといらないじゃん? 発信機、意味ねえじゃん! お前、途中でワーッてやってさ(笑)。超警戒するよね。

で、そもそもバットマンとレックスが本来、立場的にも思想的にも非常に近いところにいるところでスーパーマンに反感を抱いているんだから、せっかくその対照が面白い置き方なのに。だから、途中で協力しあうとか、そういうのがあるのかな?って思ったら、お互いにどう思っているのかわからないまま話が進むため、たとえば途中で議会であるテロ事件が起こるんですけど、犯人が誰かもバットマンは知っているのに、まだスーパーマンが悪い、悪いっていう説に取りつかれているのが何か不自然すぎてバカにしか見えないっていう感じにもなっている。

で、肝心の対決シーン。『ダークナイト・リターンズ』に近い感じで、そういうのはいいんだけど。『スーパーマン 冒険編』のオマージュもあったり(※宇多丸訂正:『スーパーマン ディレクターズ・カット版』と言い間違えました、すみません!)。あと、バットマンが、(戦いの途中で)スーパーマンが回復してきて、「あっ、ああー、ちょっと待って、待って!」って。あそこも笑えて。楽しめるんだけど。まず、バットサインを出せばスーパーマンが来る!って雨の中を待っているんだけど……うん、いつ来るかわかんないよ! だし、まあスーパーマンは対話する気だから来るのはいいとして、でも本気で戦う気のバットマンがああやっていたらさ、本当にスーパーマンがやる気だったらさ、上からドーン! でお終いじゃん、みたいなね。なんなの、お前?っていう感じがありますしね。

あと、スーパーマンがレックス。敵にね、屈する理由が「えっ、オマエ、意外とこういうことで簡単に屈するんだ」みたいなのもありますけども。しかもそれはバットマンが後でひとりで解決できる程度のことだった、みたいなのもありますけど。で、その後ね、バットマンがスーパーマンへの怒りを鎮める理由が、「えっ? お母さんの名前、一緒なんだ!?」っていう。これ、みんなずっこけたと思うんですよね。まあ、お前も人の子かっていうのは理由としてはわからないじゃないけど。で、その後にいわゆるロンギヌスの槍。スーパーマンを殺せる槍が捨てたり拾いに行ったり溺れたりのグダグダしたくだりとか、本当にイライラすると思うんですけども。

で、いろいろあるんだけど、はい、よかったところ。バットマンのデザイン。割とコミック寄りというか。最近のヒーローものがなんかみんな似たようになっている、表面がテラテラしたあれじゃない、フランク・ミラー風のデザイン。あれはよかった。トレンチコートのスタイル、あれもよかった。とかですね、ワンダーウーマンもよかったとか。ヘンリー・カビルのスーパーマンはいつも悪くないんだけど、みたいなのもあります。あのクライマックス前にロイスを救出するシーン。で、サーッと一瞬2人で、一瞬のランデブーをしますよね。ああいうところをもうちょっと入れてほしいですよね。あれはすごく美しいショットだったなと思いますね。ということでございます。

あの、ワンダーウーマンの参戦シーンがグッと来るのは、やっぱりアメコミヒーローもの、堂々と、ぬけぬけとこれをやるんだっていう瞬間にグッと来るところがあるんで。やっぱりちゃんとやった方がいいんじゃないかなと思ったりいたします。ストレートに、シンプルに行くのを怖がる最近の映画の……要するに、だから“盛りすぎる”という最近の娯楽映画のいろんな問題点も入っている作品じゃないでしょうか? とはいえ、僕はね、やたらとかっこつけているくせに、結局割とバカっぽいというそのバランスをもかわいく取れる程度にはなってきました。かわいい! ということでございます。ぜひぜひ、劇場でウォッチしてください。
(ガチャ回し前の補足)

 

……あの、悪夢のシーンに出てくるトレンチコート・バットマン、ちょっと『バットマン・アンド・サン(BATMAN AND
SON)』風の、あのバットマンのフィギュアだったら買ってもいいかな〜、というぐらいには、結構楽しみましたよ!
はい、ということで、来週のムービーウォッチメン、候補の6作品を紹介します!

 

(ガチャ回しパート中略 〜 来週の課題映画は『ボーダーライン』に決定!)

 

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

The post 宇多丸、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』を語る! 〜「週刊映画時評ムービーウォッチメン」テキスト版(2016年4月9日) appeared first on TBSラジオ AM954 + FM90.5~聞けば、見えてくる~.

宇多丸、映画『ボーダーライン』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年4月16日放送

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ボーダーライン・ポスター02
「映画館では、今も新作映画が公開されている。

 一体、誰が映画を見張るのか?
 一体、誰が映画をウォッチするのか?
 映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
 その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送でお送りしているTBSラジオ AM954+ FM90.5『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。
その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸による映画評「週刊映画時評ムービーウォッチメン」(毎週22:25〜)の文字起こしをこちらに掲載しています。

今回紹介する映画は、『ボーダーライン』(日本公開2016年4月9日)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

▼ポッドキャストもお聞きいただけます。

宇多丸:
今夜扱う映画は、先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して決まったこの映画! 『ボーダーライン』(2016年4月9日公開)

(BGM:『ボーダーライン』テーマ曲が流れる)

……このヨハン・ヨハンソンさんの音楽もいいですよね。怖いよね。アメリカとメキシコの国境地帯で繰り広げられる麻薬戦争を描いたクライムアクション。メキシコの麻薬カルテルを殲滅するために送り込まれたFBI捜査官ケイトは凄惨な現実を目の当たりにし、やがて善悪の境界線が揺らいでいく。監督は、『プリズナース』『複製された男』のドゥニ・ヴィルヌーブ。主演はエミリー・ブラント。共演に、ベニチオ・デル・トロ、ジョシュ・ブローリンなど。

この映画をもう見たよ、というリスナーのみなさま、通称“ウォッチメン”からの監視報告も多数頂いております。メールの量は、「普通」ということでございます。まあでも公開館数、そんなに多くないですからね。たぶんうちの番組のリスナー的には注目度が高かったんでしょうか。そして賛否で言うと、8割以上が「賛」。否定的な意見は数通で、全体的にかなりの高評価ということでございます。「とにかく緊張感がすごい!」「見終わった後も引きずる苦いラスト」「ベニチオ・デル・トロの怪演。彼の代表作になるのでは?」などの意見が並んだということでございます。

(メールの感想読み上げ、中略)

……ということで『ボーダーライン』、私も角川シネマ有楽町で2回、見てまいりました。まずこのね、なかなかこういうことに触れる機会がないんで最初に言っておくと、メインアートワーク、すごくいいですよね。パンフレットとかの表紙になっている、コラージュなんですけど、昔のアクション映画風味もありつつ、なんか今回の本作の内省的な雰囲気みたいなものも表現していて、非常に素晴らしいアートワーク。アメリカとメキシコの国境間の麻薬組織の戦いで、『ボーダー○○』なんてタイトルが付いていると、僕世代はたとえばウォルター・ヒル監督の『ダブルボーダー』なんていう映画を思い出したりなんかもするんですけど。

まあ、『ボーダーライン』も『ダブルボーダー』もどっちも日本タイトル、邦題なわけですね。今回の『ボーダーライン』、原題は『Sicario』。その意味は冒頭にテロップで説明が出るんですけど、要はヒットマン、殺し屋、暗殺者。で、僕も映画を見る前は、なんとなくそういう怖い感じなのかな?って思ってたんですが。でも映画を見終わってみると、ああ、なるほど、これはまさしくヒットマン、暗殺者の話だったんだ!っていうことが完全に納得できる作品ですよね。

だからこそ、この映画に関しては、最近流行りではあるけども、本編ラストにだけタイトルが出るという作りが非常に効果的。特にその「殺し屋」「暗殺者」っていう文字が最後に出るラストシーンで重なる光景との、恐ろしく苦い皮肉な相乗効果も相まって、非常にドスンと来る余韻を残すということでございます。でもですね、『ボーダーライン』という日本タイトルも内容にはすごく合っていると思いますね。

『ダブルボーダー』同様ですね、国境をめぐる話であるっていうのはもちろんですし。特に、一応の主人公であるエミリー・ブラント演じるケイトという主人公の視点からすれば、守られるべきルールとか善悪、倫理のボーダーラインが揺るがされ、いずれ無化されてしまう話であるからということですね。そして、いま、「一応の主人公・ケイト」なんていう、非常に持って回った言い方をしたのはですね、この『ボーダーライン』という映画は、実は非常に変則的な構成がキモになっている作品なんですね。

どこまでこの場で言っていいかは悩むところなんですけども……とにかく、物語上進行していく事態に対して、これほど蚊帳の外に置かれたままの主人公も珍しい。完全に蚊帳の外。ただし、この蚊帳の外状態は本作においてはもちろん意図的なものですね。非常にテーマと密接に関わっている。というのは、同じくメキシコ麻薬カルテルもの——メキシコ麻薬カルテル、麻薬戦争に関してはですね、詳しくは前にこの番組の推薦図書特集で僕がご紹介した本、ありましたね。現代企画室という出版社から出ている『メキシコ麻薬戦争』という本、こちらをぜひ読んでいただきたい——とにかく、度を越した凶悪さとか、あるいは独自の文化のあり方などで知られるメキシコ麻薬カルテル。ナルコ・コリードなんていう、ギャングを称える歌手たちがいるなんて文化圏があるわけですけども。麻薬カルテルを題材にした作品、最近多いわけです。『ブレイキング・バッド』もそうですしね。Netflixの『ナルコス』とか、ありますよね。あと、近年だとたとえば『悪の法則』とかね。『エンド・オブ・ウォッチ』もまあ、メキシコ麻薬戦争に触れてしまう話だったりしましたけど。

同じデヴィッド・エアー監督だと、『サボタージュ』は、事後の改変によってちょっと甘い出来になっちゃったっていうのもあるけど、あれもメキシコ麻薬戦争でしたし。あと『ノーカントリー』だってそうですね。あれもメキシコ麻薬カルテルが出てくる話。とにかく、そのあたりの作品同様……特に『悪の法則』ですかね。『ノーカントリー』も近いかな。要は特質として、「主人公ひとりごときの視点からは事の全貌などわからない」というのがあります。

要は、普通の娯楽映画だったら、いろんな登場人物の視点にどんどんどんどん変わっていって、観客だけが神のごとき超越した視点から物事を見て全てをわかった気になって……って、普通の娯楽映画ならこうなわけですよ。なんだけど、そういうわかった気になど、さらさらさせない。このわからなさ、全貌のつかめなさこそがキモ。メキシコ麻薬戦争という現実に進行しつつある大問題、解決の糸口すら見えない大問題に対して、外部の視点から劇映画化する際の、ある種唯一の誠実なアプローチとも言えると。外部から見る限りはよくわかんないっていう方が、むしろ誠実であると。というのは、全体をわかっている人間なんていないから。だから、この『ボーダーライン』という作品ではですね、もちろん冒頭、つかみとして、畳みかけるようにびっくりするようなことが次々と起こる。

FBIによるメキシコ麻薬カルテルのアジト急襲シーンがあるわけですね。で、この時点ではたとえばね、僕は最初、こんな感じかなと思っていたんです。要は、『ゼロ・ダーク・サーティ』みたいな感じかなと思ってたわけですよ。優秀な女性捜査官が、その優秀さゆえに、どんどん過酷な状況、世界の闇に足を踏み入れていかざるを得なくなる、的な映画なのかなという風に思って見ているわけですよ。ただまあ、その冒頭つかみのFBI急襲シーン。もうね、踏み込み方からしてびっくりしますけどね!

ここからしてもですね、彼女を含めFBI側は実は、起こったことに慌てて対応したり、対応しきれなくて呆然としてるだけだったりするんですけどね。よく見るとね。そんなFBI捜査官がメキシコ麻薬カルテルの捜査に駆り出されて。で、純粋で真っ直ぐではあるが未熟な主人公が、当初は反発を感じてはいたものの実は頼れるメンター的な存在と出会い……たとえば、今作で言えば、ベニチオ・デル・トロが本当に250%のハマりっぷりを見せる謎の男、アレハンドロ。この謎の男アレハンドロが最初に登場するショットの、もうちょっと不安になるような素っ気ない「見切れ」っぷり! 最初に、飛行機の羽根の横っちょにチラッと映るだけなの。最初に映る瞬間は。えっ? これっぽっちしか見切れないっていうのが逆に怖いんだけど! そっちに人いたじゃん? いま、人いたじゃん!? 誰、誰!? みたいな感じがする、あのベニチオ・デル・トロのアレハンドロであるとか。

あるいは、いかにもジョシュ・ブローリンが演じそうな、ゲスの極み感がたまらない、チームリーダーのマット。このあたりが実は頼れるメンターで。彼らにだんだん感化されてゆき、次第に真のタフでクレバーな一人前の、まあ言っちゃえば“兵士”に成長する的な話なのかな? そういう映画だったらわかるよ。なんかこれ、見たことあるよ、というね。

でもですね、今回脚本はテイラー・シェリダンさんという方。前に『バウンド9』っていう、モロに『ソウ(SAW)』のエピゴーネン的なのを1本、監督しているだけの人で。どっちかって言うと、脚本家としてこれから名を上げていきそうな人。まだ全然新しい人なんですけどね。そのテイラー・シェリダンさんが脚本をやっているんだけど、まあ、監督がなにしろドゥニ・ヴィルヌーブさん。このコーナーで扱うのは初めてですけど、ドゥニ・ヴィルヌーブさんがね、そんな普通のストーリーテリングをするわけがないわけですね。

カナダの監督さんなんですけども。たとえば、2000年に撮った『渦』っていう映画であるとか。2013年にジェイク・ギレンホールで撮った『複製された男』みたいに、ちょっとシュールレアリズムな感じっていうか。すごくシュールレアリズム文学的なタッチの作品。たとえば『複製された男』なんかね、公開当時、ラストにみんなキョトーンとして出て行ったらしいけど。

僕はあのラスト、みんな「ええーっ?」ってなっているけど、俺はあのラストを見て、「この人、楳図かずおの『蟲たちの家』を読んだんじゃねえの?」みたいに思ったりして。なんかすごい、「あははははっ」っていう感じだったんですけどね。まあそういう、割とわかりやすい意味でシュールレアリズム。ざっくり文学的なタッチの作品から、世界的に名声を得た2010年の作品『灼熱の魂』とか、前作にあたる『プリズナーズ』みたくですね、凝りに凝ったストーリーテリングそのものをストレートに堪能できるミステリー、スリラーまでですね、ジャンルとしてはいろいろ撮っている風なんだけども、完全に作風としてはひとつ一貫してます。

要は主人公が、最初に世界はこういうものだと思い込んでいたようなものとは、実際の世界は全然、なんなら180度違うものだった、ということがドーン!と、もしくはジワーンと突きつけられる話という。ここが一貫している作家さんだと思います。で、それがですね、最もイヤ〜な感じで——これ、褒めてますけど——最もイヤ〜な感じで出る場面。これ、ドゥニ・ヴィルヌーブ作品には頻出するモチーフ。彼のオブセッション的なモチーフと言ってもいいかもしれないんだけど、ほとんど毎回に近いぐらい、肉体関係を持った相手は実は……的な展開があるんですよね。

『Sleeping with the Enemy(愛がこわれるとき)』なんて映画が昔、ありましたけども。まさに文字通り、「Sleeping with the Enemy」。“敵と寝ていたんだ”みたいな。今回の『ボーダーライン』もね、細かいことは言いませんけども。しかもね、このドゥニ・ヴィルヌーブさんが上手いのは、たとえば肉体関係を持った相手が実は、というような、まあ、それだけに限らずですけど、主人公が思っていたのとは違う世界の真実がガーンと明らかになる、その肝心なところの“手前”が上手いんですよね。

まだなーんにも起こっていないはずの段階で、でも、なんか知らんけど不穏な予感だけはするみたいな。予感をさせる演出なんて、これ、なかなか難しいもんだと思うんですけど。今回で言えば、たとえばヨハン・ヨハンソンさんのさっきの重低音で、「ブーーーン」の繰り返し。あとは鼓動がずっと鳴っているような、あれの繰り返しのなんか嫌な感じ。あと名手、撮影監督のロジャー・ディーキンスによるカメラも、なんか、「えっ、なんでここカメラがここで寄るの? 怖い怖い怖い!」とかさ。非常に微妙に動いていたりとか。

あと、今回すごく印象的なのは、極端な俯瞰の空撮。俯瞰っていうのは物事をわかりやすく見るショットな感じがするけど、極端に離れた俯瞰の、幾何学的に物が見えるような俯瞰のショットって、逆に物事ってよくわかんないっていうか。全体像、全体を見ても離れすぎていてよくわかんない。で、たとえばメキシコのフアレスという、非常に危険な町っていうのを見ると、この町全体から見られているような、というか。把握できない感じがして怖いという。そういう不穏な予感の漂わせ方と、なにかが起こる時のドン!っていうの対比が本当に上手い。

とにかく、この『ボーダーライン』でもですね、主人公が「こうだ」と思い込んでいた世界のルール。善悪の一線。主人公が思い込んでいる世界の方が正しいんだけど、それは麻薬戦争の第一線に近づくに従って、ことごとく揺るがされ、なんなら無意味化、無化されてしまう。それこそがテーマなわけですね。ということで、主人公目線のわかりやすいカタルシスはない作品なわけですよ。主人公には、何も解決し得ないわけですね。

その代わり、よくわかんないけど超怖い状況に放り込まれ、為す術もなく全てを目撃させられてしまう、そういう地獄めぐりライド感覚。これを楽しめる。で、ですね、この「為す術もなく全てを見てるしかない」って、これは映画の観客の特性そのものなんです。だから実は、いい映画とか、怖い!っていうような映画は実は、為す術もなく見せられるっていう登場人物のシチュエーションを上手く作って、それを観客のエモーションと一致させたりするわけですけど。だからこそ、ここんところこれもよく言ってますけども、劇中のちょうど上映時間の真ん中ぐらいで訪れる、見る/見られる関係の逆転。今回も起こりますよね。

あるポイントで、主人公がずーっと為す術もなく見せられている、こっちが見ていると思っていたのに、いや、見られている、迂闊にも! という。それでドキッとする。ここは非常に、映画の構造もよくわかってらっしゃる見せ方なんじゃないでしょうか。あと、主人公の視点。これ、右も左もわからないって言うけど、実はこれね、だからといって、お話として飲みこみづらくならないように。全然、お話としてわからなくなったりしない。これはなぜかと言うとですね、非常に実は親切設計されている映画なんですね。この映画ね。

たとえば事前に主人公とか観客に、「この後、概ねこういうことが起こると思いますよ」ってことを結構丁寧に、実はちゃんと説明してくれているんです。ところが主人公は「はぁ、なに言ってんの?」みたいな感じでちゃんと聞いてなかったりする。でも、本当にその通りになる。なので、見ている側はそんなに混乱しないで済む。たとえば、前半最大の見せ場。メキシコからカルテルの大物をアメリカ側に移送するという作戦がある。そこでブリーフィングの場面があるわけですね。「こういう風な作戦でいきますよ」と。で、その場面でも言うし、その後でも繰り返しこういうことを言うわけです。「危険なことが起こるとしたら、国境の橋ですよ」。しかもですね、「渋滞で足止めされがちですよ」っていうのも映像とか、ある展開で何度も何度も確認させられるわけです。そして、なおかつこんなことも言う。「メキシコ警察も大半買収されているから、気をつけて。むしろ敵ぐらいに思っていて」って。で、本当にその通りのことが起こるわけですよ。だから見ている側は、よくわかんない状況に放り込まれているんだけど、言われた通りのことが起こるから物語上、混乱はしないという風になっている。

もっと言えば、これはパンフレットで宇野維正さんが解説でもまさしく指摘されていましたが、さっきのブリーフィング。こういう作戦をやりますよという場面。ベニチオ・デル・トロが——ちなみにベニチオ・デル・トロ、作戦会議のメインのところではそっぽを向いているという、ここもいいですね——で、彼が主人公のケイトにこんなことを言う。『お前らアメリカ人には何も理解できないだろう。我々のやること全てが疑わしく見えるだろう。でも最後にはお前にもわかるよ」って言うわけですよ。

これ、宇野さんも指摘されている通り、この『ボーダーライン』という映画全体のお話の構造そのままなわけですよね。だから非常に親切構造。あるいはさっき言った、「こいつが実は思っていた人と違った」っていうところを示す場面で、その示す記号をご丁寧に何度も何度もアップにして見せたりして。むしろそういうところは説明的なぐらい繰り返し見せていたりするという作品でございます。

で、ですね。この『ボーダーライン』という映画、実はこっから先が非常に独特でございまして。ここまではたとえば、メキシコ麻薬戦争を扱う時に、さっき言った「わからなさ、把握できなさ」みたいな。これは『悪の法則』なり『エンド・オブ・ウォッチ』なりにもあったことですけど。この『ボーダーライン』、さらにちょっと変わった特徴を持っておりまして。なおかつ、それが非常にこの映画特有の魅力になっているところなんですけども。

クライマックス。メキシコの麻薬カルテルの隠しトンネルを急襲するわけですね。攻撃するわけですよ。で、夜なんで、『コール オブ デューティー』風の暗視カメラであるとか、サーマルカメラであるとか。あるいは、衛星で上から見た視点みたいな。まあ、暗視カメラのPOV視点であるとか、人工衛星からの映像とか。端的に言えば『コール オブ デューティー』的な、ゲーム的な画面がいっぱい出てくるんだけど。この映画だと、クライマックスの襲撃場面で、これが映画としては非常に変わったというか、非日常的なというか、現実と違うフェイズの画がずーっと続く。

言ってみれば、『2001年宇宙の旅』で言うスターゲート的な効果。「こっから先はこの世ならぬ領域です」って感じがする効果をあげている。そこからまあ、クライマックスに行くわけですけど。さっき言ったね、ベニチオ・デル・トロ演じるアレハンドロというキャラクター。謎の男ですよ、ずっと。でも過去に、そのカルテルと何か因縁があるらしい。「最後にはどういうことなのか、お前らにもわかるよ」っていう場面。いきなり視点が、この映画全体、ずーっと主人公ケイトで、なにもわからぬ視点。「観客はなにもわからない視点で見ている」って言いましたね。ライド視点。

このライド視点からいきなり、ガッシャーン!って変わっちゃうんです。主人公ケイトから視点が離れて。要はそれまで蚊帳の外だったのが、一気に蚊帳の中に入る。さっき言った、神のごとき超越視点になるわけですよ。「これ、誰の視点?」っつったら、誰の視点とも言えないところに行くわけです。まあ、言ってしまえばアレハンドロ視点なんだけど。ここだけ映画の作りとして、急にエンターテイメント映画度が上がるというかですね。『イコライザー』度が上がるというかですね。

インタビューなどで出演者たちがジャン=ピエール・メルヴィルのフレンチノワール、『仁義』とか『サムライ』とかを挙げていたりしますけども。ノワールとかハードボイルド映画調になるというか。明快にヒーロー的な存在が出てくるわけですからね。ただ、それでいてもちろん、その真の主人公の彼、殺し屋も含めた殺し屋たちの最大かつ一方的な被害者である子供っていうのが常に、この物語のいろんな軸に入っているわけです。

その子供っていうのを軸に考えれば、ラストも子供なわけですけど。もちろん、胸のすく結末とはとても言いがたい余韻を残す。そしてもちろんこれね、話全体が、アメリカという国がそもそも他国で軍事力なり力を行使するということ全体のメタファーにもなっている作品なので、もちろん、胸がすく結末などにはなっていないということですね。ただ、その国家とか組織には本質的には属していない男が神の視点で出てくるところで、ちょっとこの映画、シフトが最後にモードが変わると。これが独特だし、忘れがたい「おっ!」感があるという感じじゃないでしょうかね。

個人的にはね、ドゥニ・ヴィルヌーブさん。いわゆる露骨にシュールレアリズム路線の『渦』とか『複製された男』もいいんですけど、描いていることは写実的なのに……つまり、わかりやすくシュールな感じとかは別にないのに、あと、ジャンルとしてはむしろスリラーっていう風に普通にカテゴライズされやすいのに、作品として表現されているものの深みとか射程はググッと伸びているここ2作。つまり、『プリズナーズ』とこの『ボーダーライン』。この2作で、ちょっと作家としてネクストレベルというか、さらに高いレベルに来たな!っていう風に思います。僕はどんどんすごくなっていると思う。

『灼熱の魂』とかもめっちゃ面白いんですけど、ストーリーのエグさはもう、パク・チャヌクを超えているっていう。めっちゃ面白いんですけどね。けど、作り手としてのレベルはさらに、ここ2作で上がっているなという風に思います。なおかつ、本作は、とにかくやっぱりベニチオ・デル・トロです。ベニチオ・デル・トロはですね、わざわざこのキャラクターのセリフを脚本から削らせて、演技、存在感だけで全てを表現しようとしている。ある意味、このキャラクターの背景とか全てを説明しきるような感じの演技。彼の存在がこの作品の価値を大幅に高めていることは明らかなんじゃないでしょうかね?

メキシコ麻薬戦争ものに外れなしの法則、またしても更新されてしまったということですね。まもなく、5月かな? ドキュメンタリーの『カルテル・ランド』。これもすごく評判が高いので、こちらも見たいと思っております。そしてやはりね、メキシコ麻薬戦争ものというのはですね、現在進行形のお話であるからこその迫力というか怖さがあったりしますんで。いま見ないといけない。ちなみに、舞台になったフアレスっていう街は、いまだとメキシコ麻薬戦争のメインの舞台じゃないらしいですから。そのぐらい、物事の移り変わりが早いシーンだったりしますので。ぜひ、いま劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 〜 来週の課題映画は、『ルーム』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

The post 宇多丸、映画『ボーダーライン』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年4月16日放送 appeared first on TBSラジオ AM954 + FM90.5~聞けば、見えてくる~.

宇多丸、映画『ルーム ROOM』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年4月16日放送

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宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送、TBSラジオ AM954+ FM90.5『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸による映画評「週刊映画時評ムービーウォッチメン」(毎週22:25〜)の文字起こしを掲載しています。

今回紹介する映画は、『ルーム』(日本公開2016年4月8日)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

▼ポッドキャストもお聞きいただけます。

 
宇多丸:
今夜扱う映画は先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を2回まわして——つまり1万円を支払って、そしてこれは義援金に回りましたので、非常に有意義に使わせていただきました——2回とも当たったこちらの映画、『ルーム』(2016年4月8日公開)。

(BGM:『ルーム』テーマ曲が流れる)

アイルランド出身の作家、エマ・ドナヒューのベストセラー小説『部屋』を映画化。監禁された女性と、そこで生まれ育った息子が、長年断絶されていた外界へと脱出し、社会へ適応していく過程で生じる葛藤や苦悩を描く。第88回アカデミー賞で作品賞ほか4部門にノミネートされ、母親を演じたブリー・ラーソンが主演女優賞を受賞。監督は『FRANK-フランク-』のレニー・アブラハムソン。

ということで『ルーム』、非常に評判も高い作品でございますし、アカデミー賞でも賞をとったということで、注目度の高い作品なんですが、この作品を見たよというリスナーのみなさま、“ウォッチメン”からの監視報告メールは、残念ながら少なめでございます。あれかね? 評価の高さが行き渡りすぎちゃって、ということもあるかもしれないですけどね。「俺が応援せんでも」みたいなところがあるのかもしれない。

ただ、感想はやはりですね、ほぼ賞賛メールばかり。否定的な意見はわずか数通というパーセンテージ。「重い題材なのに見終わった後は爽やか」「感動した」「子供が世界に触れて成長していく姿を追体験できた」「お母さんを演じたブリー・ラーソンがすごい」「子供を演じたジェイコブ・トレンブレイくんはもっとすごい」などなどの感想が多く寄せられました。

(メールの感想読み上げ、略)

……ということで、『ルーム』。私もTOHOシネマズ六本木とTOHOシネマズ新宿で2回、見てまいりました。特にTOHOシネマズ新宿で見て、見終わって出てくる時に、同じ回を見ていたと思しき若い男性2人が僕の前を歩いて話している会話が耳に入ってきたんですけど、「こういう映画だと思わなかったよね」なんて。「もっと脱出がメインだと思ってたよね。脱出が最後、クライマックスに来るのかと思ってたよ」っていうのを、決して否定的ではないニュアンスで話し合っている若い男性の会話を耳にしまして。

いや、全くその通りでございます。この映画、たしかに監禁部屋からの脱出というのが中盤の大きな見せ場。本当に文字通り、手に汗握る……言っちゃえば、エンターテイメント的に、この言い方は題材の重みからすれば不謹慎だけど、「普通に面白い」展開ではあるんですけどね。たとえば、その脱出のシークエンスで言っても、逃げる男の子と、監禁部屋に取り残されたお母さんが助かるか、もしくは助からないのかという、お話上のハラハラ、サスペンスですよね。それはずっと進行してはいるんだけど、この『ルーム』という映画にとっては、実はそれ以上に重要なポイントというのがある。お話上の助かるか、助からないかより、もっと重要なポイント。それは、その脱出という過程の中で、それまで閉ざされた空間、監禁部屋の中が全てだった5才の少年が、その外側に広がる本物の世界というのを初めて目の当たりにする、まさにその瞬間。

具体的には、走るトラックの荷台の上で、彼がずっと隠れていた絨毯から抜け出て、初めて本物の空の広がりをいきなり、ウワッと見ちゃて。うわわわわわっ、うわーっ! なんだ、こりゃ!? うわーっ! やばい、やばい、やばい!ってなっている、この瞬間。つまり、<世界>に初めて触れた瞬間っていうことですね。その瞬間、まだまだお話上は助かるかどうかの瀬戸際。さっき言ったサスペンス的なお話上の瀬戸際で、本当はそれどころじゃないはずなんだけど……と、同時にでもそれは、身も蓋もないことを言えば、この映画を見る人の90%以上は、「助かる話だ」っていうのは知って見に来るわけですから。それよりも、彼が味わっている「これが世界というやつか!?」という、恐怖と喜びが入り混じったような、その圧倒的感覚。それを観客も思わず共有してしまうこと。それこそがこの『ルーム』という作品の肝なんですよね。「助かるか、助からないか」よりも、そこだっていうことなんですね。

つまりね、ちょっと僕自身の感覚に引き寄せてお話をさせていただくと、こういうことかなと。僕自身はね、46才で結婚しているけど、子供はいないんですが。知人・友人の子供たちと触れ合う機会っていうのは、ここ何年かで非常に増えたんですね。で、その増えた中で、子供と遊びながらひとつわかったことがあって。要は、子供が我々が生きている、この世界全体を様々な形で認識していくプロセスっていうのは、面白いなと。超面白いし、なんならそれ自体がすげー感動的だな、みたいなことを思った。

なぜなら、それを見る我々大人たち自身もまた、彼らのそのフレッシュな思考プロセスを通じて、つまり「ああ、こういうことに驚くんだ」とか、「これを最初に見た時に、こう感じて驚くんだ」「ああ、たしかにこれはこういう風に見えるな」とか、改めて私たち自身も世界を再認識、再発見できる。すなわち、成長できるっていう。子供と触れ合うことで、こっちも驚いて成長できるっていうことだなっていうのがわかったわけですよ。あのクソガキどもと遊んでいてですね。

それこそ、小島慶子さんところのお子さんと遊んで、小島さんと「いやぁ小島さん。子供、面白いな!っていうか、こいつら面白いだろ?」っつって。「いや、本当よ」なんて話もね、ちょいちょいしていたんですけど。とにかく、大雑把に言ってそういう作品です。そういう、僕がいま言ったような驚きと感動がある作品ということで間違いないと思う。元はエマ・ドナヒューさんという方の小説が原作でございます。『部屋』というタイトルで、日本では2011年に刊行されておりますが。今回、そのエマ・ドナヒューさん自身が映画版の脚本も手がけているということで、お話全体の構成みたいなものは、実はかなり本に忠実です。やっぱり作者が作っているだけあって。

ざっくり分けて前半はインサイド、後半はアウトサイド。前半は部屋の中。で、脱出して後半はそこから世界に適応していく話という構成はほぼ忠実。ただ、この原作小説『部屋』は、監禁部屋で産み落とされて5才まで育った少年ジャックの視点100%で進む。具体的には、小説ですから、『アルジャーノンに花束を』とかじゃないですけど、文体自体が5才児なりの文法、とても賢くはあるが、やっぱり5才児なりの文法間違いもあるような文体を含めて、彼の主観で全編貫かれている。それが元の小説版ですね。

一方、今回の映画版『ルーム』。そのへんをどう表現、もしくは変えているのかというと、基本はやっぱり少年の視点に寄り添って話が進んでいくわけです。なので、要するに少年に理解できないこととか、少年があえて目を背けていることであるとかは直接的には描かれないため、起っている事態に対して本当にエグい直接描写みたいなものは、省略されています。なんだけれども、アプローチがですね、小説版は文体を通して彼の主観というのをやっているんですけど、より映画的なアプローチで少年視点に寄り添って進んでいくというのを表現している。

つまり、ものすごく簡単に言いますとですよ、もちろんカットによって例外はあったりするんだけど、この映画全体がですね、少年にとっての世界の広さっていうのがそのまま、カメラと被写体の距離感で表現されている。プラス、カメラの動きで表現されている。ざっくり言って、全編こういう作りになっています。たとえば最初、監禁部屋の中だけで、お母さんと2人きりで暮らしている時はですね、物理的、もしくは精神的近さそのままに、カメラは本当に顔だけ……人物だけじゃなくて、あらゆるものに極端に近寄って撮っているわけですね。アンド、手持ちカメラで、非常に不安定なカメラだと。

この、いわゆる被写界深度が浅い状態で、後ろのピントがちゃんと合ってなくて、グラグラするような、圧迫感とか不安感を煽るような画作り。これ、撮影監督ダニー・コーエンさん。『英国王のスピーチ』をやっている方ですけど、『英国王のスピーチ』もね、このようなカメラワークで英国王の不安や圧迫感みたいなのを表現してました。と、同時にですね、今回の『ルーム』の場合ですね、極端に寄って被写界深度が浅い……『サウルの息子』なんかもやっていましたけど、すごく今っぽいカメラワークとも言えると思いますが。この『ルーム』では、特に序盤。引きの画が一切ないことで、要は真の状況をすぐには明かさないというストーリーテリング上の機能も果たしている。

要するに、子供がお母さんと無邪気に遊んでいるだけの空間に最初は見えなくもないんだけども、と。でも、何かがおかしいぞというのが、次第に次第に明らかになってくる。これはさっき言った圧迫感とかとは実は相反する要素でもあるんだけど、この場所しか知らない少年にとっては、でもこの場はそれなりに満足な豊かさとか、何なら広ささえ湛えた、これはこれで彼にとっては世界なんだってあるようにも、このグーッと寄った、少年側の視点に寄り添ったカメラで表現されているということなんですね。

で、それが次第に真実が明らかにされていく……ああ、どうやらこれはやっぱり監禁されているらしい、異常な生活状況だぞ、というのが明らかになってくるに従って、ご丁寧にというか非常に律儀に、引きの画がだんだん増えていき。なんなら、少年がお母さんと口論して、要するに「私たちは本当は閉じ込められているだけなのよ」っていうことを言って、少年が最初は、内心は理解しようとしてるんだけど、素直に受け入れられなくて、お母さんとケンカしちゃいますよね。

で、その後にお母さんはふて寝しちゃって。少年がひとりで遊びだすと、ちょっと音楽が皮肉な調子を帯びだして、カメラの引きが増えてですね。これは状況を説明するのと同時に、少年が部屋の狭さになんとなく気づいている感じっていうのも、カメラワークで伝わるようになっているわけですよ。部屋の隅っことか角とか、2つの壁がいかにも近いっていうのが見えるカメラワークになってきたりするという。非常に巧みなというか、的確な見せ方をしていますね。

で、後半。母と息子が脱出に成功して。で、少年が、本当の世界を知り、馴染んでいくにつれて、カメラサイズもより普通に、極端な寄りとかじゃなくて、割と普通の人物を捉えるサイズになり、そしてカメラ自身もフィックス。ちゃんと置いて、安定した画作りが増えていきます。ただし、少年がだんだん世界に馴染んで、精神的に安定していく描写が増えてからも、お母さんが出てきて、ジャックという息子と2人きりになると、途端にまたカメラの距離は極端に近くなる。2人の世界っていうのがやっぱり現出するわけです。

つまり、物理的には監禁部屋の外に出ている2人なんだけど、この2人の中ではやっぱり2人だけの密室空間というか、2人だけの世界っていうのは実はまだ続いているんだっていうのが、カメラワークでわかるようになっている。で、お母さんもすったもんだあって、ある意味、その息子に救われて世界に心を開いていく。そうすると、やっぱり引きの画がまたどんどんどんどん増えていって。最終的に、ラストショットでようやく母と子の2人の姿が、非常にゆったりとした引きのショット。たぶん、お母さんと息子を捉えたショットとしてはいちばん小さい引きのショット。で、なおかつ、非常にゆったりと安定した上昇クレーンでグーッと上がって……。要するに、ある種の安定した俯瞰視点みたいなのをとらえたところで終わるっていうのは、もはやお話的に何をか言わんや、ですね。

要は、5才の少年ジャックにとっては、まさに幼年期の終わり。言ってみれば一種の子宮的な存在から出て行くっていうのは、非常に過酷な体験でもあるわけですよね。「お母さんのお腹の中に戻りたい」みたいな気持ちになることもあるんだけれども、もうそこと決別することを決断するという、少年にとっての幼年期の終わり。文字通りの「乳離れ」というね。それがカメラワークで示されている。

ということで、ある意味非常にわかりやすい、世界の広さ=カメラの距離というテーマ的アプローチ。僕、非常にざっくり言ってるんで、もちろんショットによってはたぶん例外とかはあるんですけど、世界の広さ=カメラの距離という演出アプローチが取られています。それともうひとつ、これは小説と違って映画ならではの大きなポイントとして、子供がさまざまな形で世界を認識していくプロセス、それ自体が非常に感動的であるというテーマだとさっき言いましたけど、それが、この映画だと、とても演技とは信じられない、驚異的に自然なジェイコブ・トレンブレイくんの一挙手一投足ですね。彼の一挙手一投足によって、子供がさまざまな形で世界を認識していくプロセスが、本当に見ている観客も、いままさに目の前でそれが本当に起きていることのように見える。まさに、子供の成長でホームビデオを回している親みたいなさ。「あっ、いまコイツ、この瞬間、理解した!」みたいなのが本当に起こっているように見える。というのが、すなわちそれを見る大人=観客ですよね。観客もまた、彼らのフレッシュなプロセスを通じて世界を再認識・再発見できるという面白さ、感動が自然に、本当にあったことのように味わえるという効果があるのは間違いないということだと思いますね。

これは、やっぱり映画化する意味が大変ある部分じゃないでしょうかね。なにしろ、このジェイコブ・トレンブレイくん。撮影時は実は9才だったっていうことだから、やっぱり演技は演技なはずなんですよね。でも、とにかくいわゆる子役芝居的な人工感、不自然さは微塵もないですよね。たとえば、お母さんと、シャワーを見たことがないから、「シャワー、一緒に浴びる?」っつって、「ううん、僕はいい」って言ったら、お母さんがピッピッて水をかけると、「アハハハハッ!」っていう、あの笑い方。あれはやっぱり演技と、子役の素のところの……是枝(裕和)さんとか、いろんな子役演出が上手い方、いますけど。なんか上手い演出をしているんでしょうね。

もちろん、見事な子役芝居、子供芝居をするジェイコブ・トレンブレイさん。芝居なのっていまだに信じたくないぐらいなんだけど、それを受けるお母さん役のブリー・ラーソンさん。アカデミー賞をとりましたけども。信頼関係とか相性があってこそなのは間違いないでしょう。水をかけた時の「アハハハハッ!」っていうのは、あれは要するに、普段からそれが自然にできる関係を築いた上でのフィルム回しだからっていうのは間違いないでしょうし。なによりも、「子役扱いが上手い監督は巨匠の法則」っていう、このコーナーで勝手に繰り返し言っているだけなんですけど。その法則に従えば、監督のレニー・アブラハムソンさん、やっぱり演出力がすごい的確なんだと思います。子供の扱いとかをはじめですね。

この方、前作は『FRANK-フランク-』という、マイケル・ファスベンダーがずっとマスクをかぶってバンドをやる映画なんですけど。これがまたね、ここまで冷徹に主人公を突き放したまま終わる青春映画も珍しいんじゃないか?っていうぐらいですね、ちょっと僕、忘れがたいほどの、すごい胸の痛みっていうか、思い返すと、すごい喪失感がある。一方で、悲しい優しさっていうのかな? 優しくもあるんですけどね。でも、ものすごい悲しいっていう、まあちょっと忘れがたいいい映画『FRANK-フランク-』だったんですけど。それを撮った方。

その前作に比べると、今回の『ルーム』はですね、むしろなんならウェルメイドって言っていい、ほとんど優等生的と言っていいぐらい、本当にストレートに、割とよくできていると思います。少なくとも、この原作小説の映画化として、正直これ以上の正解は無かろうというぐらい、ものすごいちゃんとストレートにウェルメイドに作っている。エンターテイメント的な面白さとテーマ的な深みとのバランスがとってもいいわけですよ。前半ね、監禁生活。まあ監禁生活っていうのもまず、ある種のセンセーショナリズムもありますし。そっからの脱出っていう、ここはもう本当にエンターテイメントとして普通に面白いところですし。

さっき言ったテーマ的な深みは特に後半。外に出たのにまだ、もしくはもっと閉じ込められている感じがしちゃう、みたいなところのテーマ的な深みも含めて、とにかく面白みと深みのバランスがものすごいいいんですよ。だからこういうのこそ、たぶん僕を含めた万人が褒めるタイプの映画っていうことですよね。そんぐらい、ちょっと優等生的にいい映画っていうぐらいだと思います。『FRANK-フランク-』の変な映画感と比べると。

ただ、これはやっぱりですね、監督のレニー・アブラハムソンさん。おそらく人間というものを非常によく見ている方なんでしょう。決して単純化したいい話——単純化したエグい話もそうですけど——に終わらせていないわけですよ。それが最も象徴的に出ているのが、後半のあるシーン。要は、ようやく無事に脱出に成功して、実家に帰ってきたお母さんジョイと息子ジャックですね。と、そのジョイのお母さん、ジャックにとってはおばあさんにあたる、誘拐された娘の母親。これ、ジョアン・アレンが演じていますけど。と、おばあさんの現ボーイフレンドのレオっていう男と。と、おそらくはその娘の失踪によって決定的に夫婦に亀裂が走った結果であろう、いまは離婚して遠くに住んでいるというウィリアム・H・メイシーが演じる実父。

この4者で夕食の食卓を囲むシーンがあるわけですね(※宇多丸訂正:普通に「5者」ですよね。間違えました!)。これ、本当はようやく実現した家族のリユニオン。感動の食卓となるべき場所であるはずが、どうもこの実父。ウィリアム・H・メイシーさんが演じる、ジャックにとってはおじいさんにあたる実父の様子が、ちょっとおかしいぞっていうことで、なんか気まずい空気が走る。で、その気まずい空気の原因を、ジョイがよせばいいのに追求してしまう、非常に胃が痛くなるようなあるシーンがあるわけですけども。このおじいさん、実父。ジョイのお父さんのキャラクター。原作小説だと、もっと家族の設定が複雑だったりとか、いろいろ違いもあるっていうのはありますが、とにかくですね、原作小説だとこの人、もっとはっきりとひどい言葉を口に出したりするぐらいで。

ともすると、これは扱い方によっては、映画なんかだと特にね、単なる悪役。単純な、「あいつ、最低!」って言わせるための役柄になってしまいがちな役どころなんだけど、それをウィリアム・H・メイシー。言っちゃえば、甲斐性なしの夫役俳優ナンバーワン。そんな役ばっかりやってますけどね。しかも、それに対する元奥さんのジョアン・アレンと、全く同じような夫婦役を『カラー・オブ・ハート』という素晴らしい映画で演じていたウィリアム・H・メイシーがですね、本当に弱くて、情けなくて、言っちゃえばちょっと醜くて、でも、半端にものがわかってもいて……みたいな。これ、つまるところ、これ以上ないほど人間的な弱みみたいなのを晒す演技を感動的に演じてみせることで、要はこのおじいさんというのが、単に「あいつ、最低!」っていうだけではない。むしろ、いちばんひどい目にあったジョイであるとか、自分自身はひどい目にあったとは思っていないかもしれないけど、孫のジャックのようにですね、なんであれ、経験から学び、成長し、過去に区切りをつけるという機会とか余地が、もはやない人ゆえの苦しみ。つまり、これだけやっぱりひどいことが起きてしまうと、もう戻せないこと。不可逆なこと、不可逆なところに行ってしまう人っていうのも、やはりいるんだっていう現実の重みを、ウィリアム・H・メイシーが非常に人間的に感動的に演じることで、作品に重み、苦みを残すことに成功していると思うんですよね。

だから僕はこの場面のウィリアム・H・メイシーはすごく、あるかないかがとても大事な役だと思います。ましてね、同じ父親的な存在でもね、元奥さんの現恋人レオっていう男。これ、小説でも役回りは非常に似ているんだけど、彼の、まさしくライムスターの曲でいう『モノンクル』的な、おじさん的な立場ゆえの、軽やかなジャックへの接し方。要は、レオは過去にいなかった人だから、過去にとらわれなくて済むから。やっぱり軽やかに接することができる。

あそこでジャックをおやつに誘うシーン。これ、原作にも似たような遊ぶシーンはあるんだけど、誘うシーンは映画オリジナルのシーンで。あの空間の使い方。階段とドアの関係とか、すごく映画っぽい見せ方。上手い使い方をして、非常に名シーンだと思いますが。そのレオとも、そのおじいさん、非常に好対照だし。あと逆に、皮肉にもですね、お父さん、おじいさんがいちばん、もちろん憎んでいる男。オールド・ニック、つまり悪魔こと、犯人。あのクソ野郎もまたですね、ちょっと似ているところがある。つまり、成長の余地がない、世界から学ぶことができない父的存在という意味で鏡像的ですらあるという、そういう感じになっています。

つまりその、オールド・ニックにとってはですね、あの親子にとっては忘れがたい、その「場」。特にジャックにとっては、あれだけ豊かに見えるあの場が、あいつにとってはただのヤリ部屋という、この貧しい世界観。なんて貧しい人生を生きている男なんだという。この貧しい人生を送るこの2人の父という重みをね、でも、ウィリアム・H・メイシーが人間的に演じているし。あと、オールド・ニックを演じているショーン・ブリジャースさん、要はサイコ的な深み感ゼロ。ただの浅薄なおっさんっていうか、ただの浅薄な野郎だっていう感じのバランスも非常によろしかったんじゃないでしょうかね。

ということで、キャスティングも完璧ですし。まずはなにしろ、本当にいろいろ言ってきましたけど、小難しいところゼロです。普通に、誰が見てもストレートに、むっちゃくちゃ面白いって感じるストーリーだと思います。で、そこから浮かび上がってくるフレッシュな着眼点。すごく普遍的だけど、この描き方はなかったというフレッシュな着眼点を、非常に的確な演出で、そしてなおかつ超絶演技。もう演技に思えない演技も堪能できてということで。で、最終的には生の肯定、人生の肯定みたいなものを味わって表に出れるという、ちょっと文句つけづらい一作じゃないでしょうかね。

万人に安心しておすすめできる1本ですね。あんまり映画、最近見たことがないっていう人にも、自信をもっておすすめできる1本っていうのはこういうことじゃないでしょうかね。できればね、悪い父、悪の父的な存在から子供(キッド)が逃げるという意味で、現在ね、キッズムービーの傑作がもう1本、ありますね。『COP CAR/コップ・カー』とセットで見てはいかがでしょうか? ということでございます。これを見たら、もう二度と「ババァ、ノックしろよ!」とは言えないかもしれません。ぜひぜひ、劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート略 〜 来週の課題映画は入江悠監督の『太陽』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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宇多丸 『太陽』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年4月30日放送

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映画「太陽」図版

宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる――
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送のTBSラジオ AM954+ FM90.5『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸による映画評「週刊映画時評ムービーウォッチメン」(毎週22:25~)の文字起こしを掲載しています。

今回紹介する映画は、入江悠監督の『太陽』(日本公開2016年4月23日)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

▼ポッドキャストもお聞きいただけます。

 

宇多丸:
毎週土曜夜10時からTBSラジオをキーステーションに生放送でお送りしている『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』。

ここから夜11時までは、劇場で公開されている最新映画を映画ウォッチ超人こと<シネマンディアス宇多丸>が毎週自腹でウキウキウォッチング。しかも先週は『レヴェナント』が当たったのを……もうね、1万円払ってガチャを追加で回すのは、しばらく熊本地震の「義援金枠」として積極的にやっていきたい! そんな感じで毎週の<監視結果>を報告する、赤字型映画評論コーナーとなっております。

今夜扱う映画は、先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を2回まわして当たったこちらの映画、『太陽』

(BGM:テーマ曲『モルダウの流れ』が流れる)

数々の賞を受賞している前川知大作、劇団イキウメの同名舞台を『SR サイタマノラッパー』シリーズの入江悠監督が映画化。21世紀初頭、ウィルスによって人口が激減した世界で、夜しか生きられなかった新人類<ノクス>と、貧しく生きる旧人類<キュリオ>たちの対立と葛藤を描く。主演は神木隆之介、門脇麦らに加え、古舘寛治、高橋和也、村上淳ら。ムラジュンもね、荒れた役が本当に板についてきたという感じですけどね。

ということで、この『太陽』を見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告をメールなどでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、普通……よりちょっと多めということで。作品としての知名度や公開規模に比べると、多い方なのかなという感じじゃないでしょうかね。感想は、賛否で言うと賛が7割。「作品のテーマにとても考えさせられた」「暗いけど希望もあるラストがいい」「終盤の長回しシーンがすごい」「撮影が美しかった」など賞賛の声が多かった。

一方、否定的な意見としては「主人公たちがギャーギャー騒ぎすぎ。取る行動もイライラした」「演劇っぽい仰々しさ、SFとしての設定のユルさに萎えた」などの声もありました。代表的なところをご紹介いたしましょう……

(メールの感想読み上げ、略)

……ということで、『太陽』。私、なかなかあんまり試写とか行かないんですけど、この組み合わせならそりゃ行くでしょうってことで、試写に行っていち早く見てまいりました。『映画秘宝』の昨年度のベストの方にもう、いち早く入れたりなんかもしてしまいましたし、プラス、今週は丸の内TOEIに行ってまいりました。

映画で『太陽』っていうとね、アレクサンドル・ソクーロフの2005年の、イッセー尾形演じる昭和天皇の映画『太陽』。同じタイトルの映画がありますけど。もちろん、そっちではなくて。この番組のオープニングトークなどでも舞台を拝見するたびに、ちょいちょい話題に出させていただいている、劇団イキウメ……劇団を率いている前川知大さんっていう方は、番組リスナーでもございまして、その縁で何回か見ているんですが、その2011年の舞台を映画化。

今回の映画化に、その前川知大さんも原作・脚本としてクレジットされている。しかも、それを映画化しているのが『SR サイタマノラッパー』シリーズや、なにより『タマフル THE MOVIE』! 2012年。これね、Wikipediaの入江悠さんの項目にも載っていないという黒歴史作品。そんな『タマフル THE MOVIE』の監督でもお馴染み入江悠さんの脚本・監督で映画化ということで。まさに、誰得? 俺得!っていうかタマフル得!っていう。そういう映画作品企画なわけですよね。

ただですね、イキウメの舞台を一度でもご覧になった方はわかると思うんですけど、お話はそれこそSF的だったり、ホラー的だったり、映画っぽい題材が多かったりもするんだけど、舞台としては抽象的なセットの非常に効果的な使い方とか、あと、時間の重ね方とかを含めて、非常に純演劇的というか。演劇という形でなければ表現し得ない何かっていう感じなんですね。だからこそ、僕はすごく高く評価する。いいな!って思うんですけど。

これを、お話がちょっとSFっぽいからって劇映画として映像化するっていうのは、意外とハードルが高いんじゃないかな? 一体どうするのかな? と、見る前にちょっと心配していたところではあるんですが……ただ、結論から言えば、今回の映画版『太陽』。見事なまでに入江悠の映画だな! ザ・入江悠映画になっているな! という風に思いました。それはどういうことなのかというのは、これから言っていきますけども。

たとえばですね、ヴァンパイア的な突然変異種と旧人類との力関係、価値観の逆転劇。これは古くはリチャード・マシスン(の小説)『I Am Legend』。『地球最後の男』なんてタイトルで映画にもなっていますしね。『オメガマン』とか『アイ・アム・レジェンド』にもなっていますし。あと、藤子・F・不二雄の『流血鬼』っていうね、さらにもう一アレンジ加えた素晴らしい短編とかになっている。あるいは、たとえば『デイブレイカー』っていう、これはシネマハスラーで2012年12月に評しましたけども。……などなどに至る、そういうヴァンパイア的な突然変異種が、人間側よりもむしろ数が多くなっていて、支配しているような、そういうSF設定であるとか。

あるいは、今回の映画版『太陽』。ヴァンパイアものと言えば、ラストに『ぼくのエリ 200歳の少女』オマージュがちょっと入ったりするよね、とか。あと同時に、特に1997年の『ガタカ』でしょうね。イーサン・ホークとかが出ている。優生学的な差別が制度化されているディストピアSFものっていうジャンルにも当てはまるとか。あるいは、和製SF映画としても、新人類対旧人類。そっちは逆に新人類が旧人類たちに迫害される、反ファシズムテーマ映画なんですけど、岡本喜八監督、倉本聰脚本の1978年の映画『ブルークリスマス』なんていう、あの系譜に連なるな、なんて話ができたりですね。

とにかくそういう風に、過去の様々な作品の遺伝子が読み取れるようなSF的設定の面白さ、物語の面白さ。あるいはそこから浮かび上がる様々な寓意みたいな、そういう基本構造はもう、元の舞台版『太陽』から忠実に受け継いでいるんですが……ただ、この舞台版。僕は遅まきながら、DVDで初めて、このタイミングでオリジナルの舞台を拝見したんですけども。とにかくそっちと比較すると、よりはっきり今回の映画版、違いがあってですね。

今回の映画版、ある種明白に、本当に映画作家としての入江悠という人が、これまでも一貫して追求してきたテーマの方にググッと作品を引き寄せて作られている……っていうことが、比べると特にはっきりわかる。その一貫したテーマとは何か?っていうと、僕の表現で言うとこういうことですね。「村としての日本、村人としての日本人」。もっとはっきり言えば、こういうことですね……「オラこんな村、イヤだ!」っていうね。「オラこんな村、イヤだ! ……でも、我々はここで生きていくしかないのだから……」っていう、こういう話をある意味、入江さんは毎回やっていると言える。

それがむしろ、今回の『太陽』でよりはっきり際立った。はっきりした。「ああ、入江さんっていつもこういう話をやっていたんじゃん。そこで一貫してるんだ」っていうことが、よりはっきりしたと思います。それこそ、入江悠長編デビュー作『JAPONICA VIRUS ジャポニカ・ウイルス』という2006年の作品がありますけど、これ、まさに「村としての日本、村人としての日本人」を辛辣に、寓話的に浮かび上がらせるSF。その意味でほとんど、今回の『太陽』の前日譚みたいに今となっては見えるぐらい。ウィルスが蔓延する過程の話としてとるならば、特にね。

『JAPONICA VIRUS ジャポニカ・ウイルス』がそもそもそうだったし、『SR サイタマノラッパー』が「村としての日本、村人としての日本人」を描いているっていうのはもう、言うに及ばずでしょうし。それこそ、入江さんのフィルモグラフィー上では明らかに浮いているという風にも見える前作『ジョーカー・ゲーム』。要するに、メジャー資本のエンターテイメント大作でという、らしからぬ1本ということで。

まあ、はっきり言ってフィルモグラフィー上で、ちょっと意地悪な言い方をすれば、迷走しているようにも見えかねない、あの『ジョーカー・ゲーム』でさえ、「村としての日本」という補助線を1本引いてみると、まさにあの『ジョーカー・ゲーム』の主人公たちは、日本人的・村的磁場から脱していく話という風に言えるわけです。特にそのプロセスが描かれる前半の訓練シーンがいきいきしていたのも、これは道理だなっていうね。だから、見た目よりはずっと入江悠的な題材ではあったんだなというのが今回、「村としての日本」という補助線を引くと、『ジョーカー・ゲーム』ですら、「ああ、入江さんっぽい題材なんだ」っていうのがわかる。

あとは当然、バジェットの限界と映画としての見栄えのバランス計算っていうのが、『ジョーカー・ゲーム』での苦い経験が生かされているな、という風に思ったりもするわけですけどね。ただ、『ジョーカー・ゲーム』のように日本人的・村的磁場から主人公が脱していく話よりは、入江さんの本領というか、おそらく本当に描きたい側は、やっぱり村的な磁場から<脱する>側じゃなくて、村的な、旧日本人的な磁場に<取り残される>側。それがやっぱり入江悠さんの本当は描きたい物語、本領の方なんじゃないかなと思うわけですね。

で、元の舞台版といちばんバランスが違うのはここの部分だと思うんですよね。つまり、元のイキウメの舞台版だと、旧人類。作中で言う<キュリオ>という、元々の人間。我々と同じタイプの人間、日本人ですよ。こっち側の古い人類であることのポジティブ面。逆に、優れているとされている新人類。劇中で言うノクスたちにも重大な欠落があるんだと。つまり、ノクスたちにも全然ネガティブ面があるんだっていうことがよりはっきり、言葉にして打ち出されて終わるんですよね。

ノクス側がいいわけじゃないよという理屈としていちばん近いのは、高畑勲の『かぐや姫の物語』における、地上の世界と月の世界の対比と非常に近い理屈なんですけどね。要は、欠点だらけで醜いかもしれないけど、ここには真の<生>というのが充実しているという人間側の地上の世界。対して、欠点もない完璧な世界だけど、そこに真の<生>があると言えるのか? という、ほとんど死の世界の月の世界との対比、みたいな。そういう意味で『かぐや姫の物語』に近いんだけど。実際に舞台版の『太陽』だと、月と太陽のたとえでそういう問答というか議論が行われるシーンすらあるぐらいで。

それくらい、明快に<ノクス>がいいわけじゃないよって描かれている。また、今回の映画版だと、みんな大好き高橋和也さんが非常にクールに演じている金田という医師。もともとは旧人類(キュリオ)だったのが、後から新人類になったという金田医師の役柄が、舞台版だともっとエモいんですよね。で、彼の視点から、やっぱり<ノクス>になると人として大事なものが失われてしまう、みたいなことがもっと明白に描かれているし。

あと、主人公の鉄彦。映画版だと神木隆之介が演じてますけど、その鉄彦がラストではっきりある選択をする。この選択をするラストのラスト、ここを見て、ああ、鉄彦っていう役名、これは要は『銀河鉄道999』の鉄郎なんだ!って私は膝を打ったんですよね。機械の体を求め続けたあの鉄郎が……っていうことを考えるとね。とにかく、舞台版はもっとずっと人に優しい、ポジティブな終わり方。人間に優しいんですね。「人間は悪くないよ」っていう感じなんですよ。

それに対して、今回の映画版『太陽』は、やっぱりまずは人間たちの住む場所である、オラが村、村としての日本、村人としての日本人に対して、「オラこんな村、イヤだ!」。これをまず徹底して描くわけですよね。で、この「オラこんな村、イヤだ!」のイヤだぶり。ここで描かれる村としての日本が今回の映画版、いちばん近いのは……さっきいろいろ挙げた『デイブレイカー』『地球最後の男』『ガタカ』とかより、いちばん僕、近いと思ったのは、小説ですけど、村上龍の『五分後の世界』。みなさん、読まれたことありますかね? 1994年の『五分後の世界』。これがいちばん近いと思う。問題意識としても。

要は『五分後の世界』って、日本がもし第二次大戦で戦争を止めていなかったら、戦争を続けていたら……というSFなんですけど。で、村上龍による、「俺の考えた超カッコイイ日本、俺の考えたいちばんカッコイイ日本像」っていうことで、戦争を続けているアンダーグラウンドと呼ばれる日本の社会があると。で、ここではちゃんと合理主義も浸透していて、日本のカッコイイ可能性を追求しまくった社会がある。ところが、物語の後半になって、実は地上にも日本社会っていうのが一応残っている、地上に生きる人々っていうのがいて、それは「古き良き日本」の残骸にしがみついて生きているような退化した日本社会。で、ぶっちゃけ、現実の日本社会に近いのはそっちなんですよ、やっぱり……というSFなんですけども。

今回の『太陽』の舞台となる村っていうのは、まさにその『五分後の世界』の地表の退化した、悪夢的な日本社会。そちら側から描いた話がこの映画版『太陽』だというのが、実はいちばんしっくり来ると思います。たとえば今回、タイトルが出た直後にお葬式っていうか葬列の場面があるんだけど、これがいか~にも風習、因習然とした葬列の場面から始まる。いかにも日本の残骸感。『五分後の世界』におけるあの地表の社会。ああいう感じの、うわっ、未来のはずなのに……っていう感じになっちゃっている。

あるいは、同じく映画オリジナルの描写として、村人たちがノクスにウィルス対策として、「消毒しますよ」ってブシューッて白い粉を吹きかけられる。これはもう、明らかに戦後、占領軍によるDDTですよね。シラミ取りと称してDDTという白い粉をブシューッて散布される。我々も見たことがあるあのニュース映像の記憶。つまり、敗戦国日本の記憶。民族的に完全に打ちのめされているコンプレックスの象徴としてのあれを呼び覚まされるような描写を、今回の映画版はわざわざ入れてきているっていうことですね。

あるいは、たとえばこんな場面、ありましたよね。「その書類、なかったことにできない?」っていうのに対して、「それはできない」っていう理屈が、「“見られている”から」っていう。上位の存在に見られている時はおとなしくする……じゃあ、見られてない時は?っていうと、もう何でもやるわけです。たとえば、村八分体質。繰り返し描かれますよね。何かあったら焼き討ちにするとか、リンチにかけるとか、村八分体質がこれでもかとばかりに描かれたりとか。

一方で、ムラジュンさん演じるキャラクターに託されているのは、コンプレックスをこじらせすぎた結果、より極端な村的思考に行っちゃっているだけっていう人物であるとかですね。そういうのが非常に象徴的に置かれていると。で、ですね、僕がいままで言ってきたような村としての日本像っていうのとか、そう感じる劣等感、コンプレックス、屈辱、ねじ曲がった怒り。これ、いまの日本にある様々な格差構造のメタファーとして、なんでも置き換えることができるんです。

それこそ、これぞ入江悠的テーマの根源にあるものでしょうけど、地方対東京っていうことでもいいんですよね。地方人対東京人っていうものでもいい。それを言ったら、僕なんかあれですよね。「僕なんか、生まれてからずっと東京だからわからないなァ」なんていう立場に見えるのかもしれませんけど。あるいは、たとえば若い世代で、語学堪能で海外経験も豊富で、いざとなれば世界のどこででも臆せずに、物怖じせずに生きていけるような新しいタイプの日本人っていうのに対して、僕なんかまさにそうですけど、この日本という世界、日本的磁場でしか生きていけない、しがみつくしかないという、ある種の古いタイプの日本人像という構造……。将来、より色濃くなっていくであろうこの構造、みたいなことに僕はちょっと重ねちゃいましたけどね。「ボク、海外とかで暮らすことできないしなぁ……」って。しかも、そういう古い世代に限って、自分の子供世代には幼少時から英語を教えたりしてさ。要はもう、我々は<ノクス>転換手術を受けさせようとしているわけですよ! そういう社会ということですよね。

とにかくそういう風に、非常に苦くて痛い現実の日本という村問題をSF、フィクション、思考実験という形で容赦なく突きつけてくる。その面白さ、スリリングさ、そして切なさ、苦さというあたりが、今回の入江悠版『太陽』の真髄であると私、断言したいあたりでございます。

見事なのはですね、さっきチラッと言いましたけど、バジェット的なバランス感覚を意識させないぐらい、非常に映画としての見栄えが豊かなんですよね。これはやっぱり、撮影監督。当代随一の名手ですよね。近藤龍人さんの手腕が大きいんじゃないでしょうか。特に夜。闇のシーンが多いんですけど、見事な闇の感じじゃないでしょうかね。さっきの山の景色なんかもそうですけど。もちろん、ロケの上手さ、ロケハンの上手さ、場所見つけの上手さ。あのダムの橋をシンボリックに使うという使い方も非常に上手いですし。

それでいて、あの貧しい日本の退化した山村っていうのを映すだけで、そのままSF的にもなるという、便利な設定だというのもありますしね。すすきの原っぱがバーッと広がっているだけで、それ自体がある種SF的な舞台に見えるというのもあります。あとね、実はここがすごく気を使っているのが大きい。音の演出。音の演出にすごく気を使っている。車の音ひとつ取ってみてもね、これは『ガタカ』の演出からたぶん学んでいると思うんだけど。一見、ワーゲンのビートルなんですよ。見た目は昔の車なんだけど、走る音がフゥーーーン……「ああ、動力が石油燃料じゃねえな」ってわかるような音になっているとか。そういうところの1個1個の工夫。

あるいは、最初にノクス社会を見せるところがあるんですけど。どこのビルを映したのかわからないけど、とにかくそこの部分で、部屋から出てきてグーッと広間に出て、エレベーター(※宇多丸訂正:エスカレーターと言い間違えました!)に乗るまで、カットをできるだけ割らない。要は、都合のいいところだけ撮っているわけじゃないですよっていう。ごまかし感をあんまり感じさせないように、最初の1カットでできるだけ空間を広く撮るとか。ちゃんとそういう撮り方の工夫をしているあたりとかですね。

あと、細かいところですけど、プール。みんな大好き鶴見辰吾さんと、みんな大好き高橋和也さんがプールで泳ぐシーンで。細かいところなんだけど、ふたりとも息継ぎをしていないんですよね。クロールする時に。そういうところで、人間離れしたノクスの何かおかしい感じっていうか、何か人間離れした、こういう細かい演出の積み重ねでちゃんとリアリティーを出しているあたり、上手いなと思いますね。

あとね、いちばん盛り上がる日の出のシーンっていうのもあってね。あそこの、「一発じゃいかねえのか……」とか、あと「皮一枚でつながってるぞ、まだ!」っていう、あのヤダ味のあたり、さすが入江悠さん。ああいうあたり、上手いですね。あと、元の舞台版にはないレイプシーンがあったりして。これは要するに「オラこんな村、イヤだ!」っていうのをより強調することになっているわけですけど。

で、クライマックスね、入江悠さんお得意の、修羅場の1シーン1カットがあって。ここを「演劇的な演出だ」って言う人がいるけど、こここそ入江悠さんっぽいところなんですけどね。で、たしかにメールとかにもね、ちょいちょいありましたけど。みんなが大声で怒鳴り散らすような演技の感じとか、そういうのに拒絶反応があるのは正直、ちょっとわかる気がします。ここでこういう感じの演技をすると、すごい演技っぽいなって僕も思うところが何か所かあったんだけど。僕自身も日本映画の悪しき風習としてよく指摘するような感じが一見、するような感じなんだけど。

ただね、この『太陽』に関しては、それすらも、さっき言ったテーマと合致してしまうんですよね。ある必然性を持ってしまう。つまり、「オラこんな村、イヤだ! でも、我々はここで生きていくしかないのだから……」っていうのを強調するための必然というかですね。要は、入江悠監督の日本映画的なるものへの距離感、スタンスというか。大声で怒鳴ってワーワーやったりして、もういかにも、なんか安っぽい日本映画的な感じで嫌じゃない?っていうのが、この映画に関しては(テーマと)一致してしまうというパラドックスというか、嫌な感じがあるという。

あと、これは逆にイキウメイズムだなと思うところとしては、門脇麦さんが見事な演技でしたね。なにかとても大切なものが決定的に失われてしまった、でも、本人はそれに気づいていない……客観的に見ている人は、「あっ、なにか大事なものが失われた」っていうことがはっきりと伝わる。これはすごくイキウメ的な、『散歩する侵略者』っていう素晴らしい作品のラストにも通じる演技ですけども。「あっ!」っていう、その瞬間がものすごく切なく迫ってくる。

今回の映画版だと特に、古舘寛治さん演じるお父さん役の見事な演技もあって、より違った切迫感を持って迫ってくるし。まあ、いずれにしても、どれだけダメな辛い経験をしたとしても、それを丸ごとなかったこと、無意味なこととして割り切ってしまうのって、果たして本当にそれは豊かな生と言えるのだろうか?っていう。元の舞台版にもあるこの問いは、やっぱり考え出してしまわざるを得ない。素晴らしく深みのあるラストじゃないでしょうかね。

でも、誰かを断罪しているわけじゃないんですよ。特に今回の映画版だと、「いや、でもやっぱりノクスの方がたぶん正しいし……」っていうぐらいのバランスに留めているから、僕はより深みが出たと思います。それでいてラスト。神木隆之介くんとノクス側の青年、古川雄輝さんのあのふたり。要は、あのふたりだけは、お互いのいる場じゃない、ここではないどこかへ常に意識を持って、探究心を持っている。たとえ、多少愚かであっても、それを常に持ち続けている。そこだけに希望がある。

で、そのここではないどこかに探究心とか憧れとかを持つということは、ユニバーサルたりうるんですよね。立場が違っても、世界中どこにいても、若者なり何なり、そこは手をつなげるんですよ。そういう希望をしっかり残すラストはもう、本当に最高だと思います。あと、転換手術のところで、そこで急に照明がテラテラテラテラ、水面っぽくなったりして。要は、ちょっと怪奇映画風になるというか。やっぱりちゃんとヴァンパイアものにしてくれるあたりのあのケレン味なんかも僕は大好きですし。

たしかにね、「お前、それ手首だけ何かで覆えばいいんじゃねえの?」とか、「義手かなんかのあのオチは予算が低くてもちゃんと見せてほしかった」とか、色いろあるんだけど。僕は非常に面白かったし、僕の問題意識に一致するというか、非常に痛くて深いところをえぐられる作品でございました。入江さん的にも、ようやくキャリア的にネクストレベル―に行けた会心の1作なんじゃないでしょうか。素晴らしい1作です。特に暗闇表現が素晴らしいのでぜひ、映画館でご覧ください。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は、『ズートピア』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

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宇多丸、『ズートピア』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年5月7日放送

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ズートピア_01

宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

TBSラジオで毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。

その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸が、毎週ランダムで決まった映画を自腹で観に行き、評論する「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。

ここではその文字起こしを掲載しています。

今回紹介する映画は、ディズニーの最新CG映画『ズートピア』(日本公開2016年4月23日)です。

▼ポッドキャストもお聞きいただけます。

 
宇多丸:
今夜扱う映画は、先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して当たったこの映画、『ズートピア』。

(BGM:テーマ曲 Shakira『Try Everything』が流れる)

ガゼルことシャキーラのこの歌が劇中で非常に素晴らしい使われ方をしていますね。

肉食動物と草食動物が共に暮らす架空の大都会「ズートピア」を舞台に、新米警官のウサギの女の子ジュディと、シニカルなキツネの詐欺師ニックが出会い、お互いに衝突しながらも連続誘拐事件の真相に迫っていく。監督は『塔の上のラプンツェル』『ボルト』などのバイロン・ハワードと、『シュガー・ラッシュ』のリッチ・ムーアということでございます。

ということで、この作品『ズートピア』をもう見たよというリスナーのみなさんからの感想、通称<ウォッチメン>からの監視報告、メールなどでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、多いです。多い。そして、リスナーの感想は9.5割の人、つまりほとんどの人が絶賛でございます。「クライム・サスペンスとしても最高」「バディものとしてキャラクターたちも魅力的」「差別問題の扱い方がとても現代的。むしろ大人が見るべき」「ディズニー恐るべし」などなど絶賛の声が並ぶ。一方、ごくわずかな不満意見としては、「ストーリーや世界観に目新しさがない」「職業差別への問題が解消されていないのでは?」などなどがございました。代表的なところをご紹介いたしましょう。

(メール紹介、中略)

……ということで行ってみましょう。『ズートピア』、私も字幕2Dを2回、あと吹き替え3Dでも見てまいりました。TOHOシネマズ錦糸町とかで。このコーナーでも何度も言ってますが、2006年にジョン・ラセターがディズニーのチーフ・クリエイティブ・オフィサーに就いて以降、いきなり作品クオリティーがドンと高くなって、次々と傑作・快作を連発してきた近年のディズニーですけども。その中でも、もう結論から言っちゃいます、今回の『ズートピア』。トップクラスの完成度だと思います! ちょっともう、極めつつあるなという感じがいたしました。

ちょっと文句のつけようがない。あえて言うなら、これはマジですけど、「あまりにも欠点がなさすぎるのが欠点」って言いたくなるぐらい。あまりにも欠点がなさすぎてもうかわいげがない。そのぐらい、とにかくあらゆる意味で隙がない。もちろん、でも、その隙がないレベルに達するまでにはですね、ディズニーやピクサーならではの制作過程の、大幅な方向転換まで含む……たとえば、当初はスパイものだったのを、こういうバディもの、モロにウォルター・ヒルの『48時間』風だと僕は思いましたけどね。『48時間』風のバディ刑事もの、相棒刑事ものに変えていったりとか。

当初はキツネのニック側の視点がメインの話だったのが、コンテを編集して並べて見せる状態のテスト試写を繰り返す中で、やっぱりウサギのジュディをメインにしたりとかですね。あくまで、ズートピアという都市のありかた、そこからいろいろなものに焦点を絞っていくという方向に転換していったりとか。とにかく、全工程でのたゆまぬブラッシュアップですね。

どういうことかっていうと、具体的には厳しい自己チェックと改善の繰り返し。この映画に直接クレジットされている人たちだけではないクリエイターたちが集まって、たとえば脚本とかストーリーに対して、穴も含めて意見をぶつけ合う。要するに厳しい批判を浴びてブラッシュアップしていく「ストーリー・トラストシステム」っていう、ジョン・ラセターが導入したシステムを取っていて。それでもうブラッシュアップにブラッシュアップを重ねた結果のこの隙のない脚本であり、ストーリー、テーマ。

そして、加えて当然、ディズニーならではのアニメーションとしての圧倒的なスキルの高さですよね。まず伝統的に積み上げたアニメーションの、絵を動かすということに対する技術の、基礎技術の高いところにきて、もちろんCG。今回で言えば毛並み表現とか骨格表現とかも含めた、とにかくこちらもたゆまぬ技術革新の集積まであると。つまりですね、シネマハスラー時代、ピクサー作品の『ウォーリー』(の映画評)。この補足として単行本に僕が書いたことのように、こういうことですよね。「世界最高レベルで超頭が良くて、しかも最先端の技術も持って、しかもそれを常に磨き上げているやつらが寄ってたかって、さらに死ぬほど努力してやがる!」っていう。そりゃあ、並大抵のもんが太刀打ちできるわけがないよ、というものができあがるということですね。

たとえば今回の『ズートピア』、テーマはずばり「偏見と差別」ということだと思いますね。共同監督のバイロン・ハワードさんとリッチ・ムーアさん。そのリッチ・ムーアさんの前作『シュガー・ラッシュ』、この番組でも2013年4月13日にやりましたけど。『シュガー・ラッシュ』もある意味、偏見と差別をめぐる物語でありましたけど、今回、よりそのテーマを深く鋭く掘り下げているという風に言えると思うんですけども。

いちばんわかりやすいのは、やはりレイシズム(人種差別)。このメタファーだなというのはパッと見てわかりやすいところですけど、場所や描写によってはこの主人公ジュディっていうのは女性でもあるので、セクシズム(性差別)のニュアンスも入っているところがあったりなんかもして、とにかく差別。いろんな人種差別であり性差別であり、とにかく差別っていうものがいかに生じ、ねじ曲がった理由で正当化されてしまうのかと。偏見、先入観、無知ゆえの恐れ、侮り……などなどが、いかに恐ろしい、醜い事態を招いてしまうのかという、極めて普遍的ですよね。人類が繰り返してきた愚行であり、そして悲しいかな、非常に今日的テーマでもあります。今の日本でも全く残念ながら、無縁ではないテーマを描いているわけですよ。

それをですね、肉食動物と草食動物っていう、それこそ“生物学的根拠”がある<区別>。区別ですよね。肉食動物と草食動物、生物学的根拠がある区別。そのメタファーを使って、それが差別という力関係の構造にすり替わっていくプロセスを描いていくわけなんですけど。そこでこの『ズートピア』っていう作品がひときわ偉いなと思うのはですね、もちろん「差別はよくないですよ」という、正しいメッセージを伝える作品はいろいろあるんですけど、この『ズートピア』がひときわ偉いのは、差別する側/される側を固定的な加害者/被害者関係として、つまり一種、白黒わかりやすい、言っちゃえば安心できる善悪構造に安易に落とし込まずに、主人公や我々観客も含め誰もが、それぞれに他者への偏見を持っているし、同時に偏見を持たれる側でもあるという、要は現実の差別構造が生じる心情の複雑さとか、現実に存在する問題の複雑さにかなりフェアに向き合おうとしているということじゃないでしょうかね。

しかもこれ、本当の人間世界を舞台にすると、とってもセンシティブな、扱いの難しい話になってしまいがちのところを、ここはやっぱり哺乳類だけで成立している文明という架空の設定を使った……要は寓話ですよね。寓話ゆえに、より鋭く差別という問題の非常に深刻かつ、なかなか解けない問題の本質に切り込むことができている。寓話であるがゆえの鋭さを持つことができている、という素晴らしさがあると思います。これはたとえばですね、この番組でも2010年4月18日に扱いました『第9地区』という作品。あれも差別という構造を、宇宙人というメタファーを使って……そうじゃないとちょっとこれは扱いが難しい、ちょっと誤解を与えかねないですよ、というところを、ちゃんとやっているのにも近い構造なんだけど。

さらに今回の『ズートピア』の場合、素晴らしいなと思うのはですね、たとえば主人公のウサギのジュディっていうのが生まれ育った田舎から電車に乗って、大都会ズートピアにやってくる序盤の場面があるんですけど。シャキーラのさっきの『Try Everything』という曲がかかって、やってくる。ここで、要は今回の映画はディズニー伝統の、動物が普通に服を着て生活している設定シリーズ。それを久々にやりますよっていうことでもあるんだけど、同時に今回、作り手たちが新たなこだわりとして挑戦している部分で、それぞれの動物のサイズの差というのを、これまでは、しゃべるもの同士の動物っていうのはサイズをちょっと嘘をついて、サイズを均等に合わせて描くことが多いというか、そっちが基本だったんだけど、今回はその動物のサイズの差を現実のままに、あえて揃えないという部分が、動物が服を着て生活しているものとして新たにトライしている部分だってことらしいんですけど。

その結果どうなったかっていうと、たとえば先ほど言ったジュディが田舎から電車に乗って大都会ズートピアにやってくる場面。電車の乗降口であるとか、あるいは歩道であるとか、お店であるとか。とにかくそれぞれの動物のサイズによって様々なバリエーションがある。ドアひとつとってみても、いろんな場所に、いろんな位置にあるし。ちっちゃい動物が危険じゃないように歩けるよう、歩道が用意されていたりとか。もちろんキリンだったらキリンがジュースを飲む用になっていますよとか。カバみたいに水の中で普段暮らしている人には、こうやって出てきてブワーッて、こう(乾かして)。

いろいろと動物によってそれぞれのディテールが用意されていて、サイズも違うし、という。で、そのアイデアを凝らしたディテールの数々を見ているだけでも、もちろん楽しいっていうのもあるんだけど、何よりここが重要なんですけど、要は、憧れの大都市ズートピアに出てきた主人公ジュディの視点そのままに、このズートピアという街の多様性。ズートピアの街にパーッて出ますよね。いろんな動物が、いろんなサイズで、いろんな感じで歩いていて。で、いろんな動物のための、いろんな都市の造りがあって……っていう、多様性それ自体がパッと見て、理屈抜きに、「ああ、いいな!」って感じられるっていう。ここが『ズートピア』、すごいいいなって思うんですね。

つまり、多様性の肯定。いろんな違う人たちがいる。「違う人たちがいるって、なんて豊かで幸せなことなんだ!」っていう、さきほど言った差別と偏見っていうのに対するひとつの理想的回答、大テーマみたいなものを、まずは視覚的に、理屈抜きで観客にスッと納得できるようにしてる。「ああ、それはやっぱり多様性がいいに決まっている!」って、理屈抜きで納得できるようになっている。ここに『ズートピア』の素晴らしさ、つまりアニメーションであることの意味、利点も非常に生きている素晴らしさがあるんじゃないかと思います。

まあね、多様性っていうんだけど、このズートピアという都市、設定上、哺乳類だけって限られているし、その哺乳類の中でも、人の匂いがする動物、つまりペット的なイヌとかネコ、あるいは家畜の匂いがするウシとか……まあ、じゃあブタはどうなるんだ?っていう話なんだけど。ブタはなんか、混じってましたけどね。あと、当然サル的なものは排除されている。そういう意味で、周到に寓話として飲みこみやすいように設定はされてはいるんだけど。とにかく多様性の肯定っていうのが言葉じゃなくて、理屈じゃなくて、アニメそのものの面白さ、喜びとして直結してテーマとしての正しさというか、良きことが伝わってくるという。このあたりが本当に『ズートピア』、同じテーマの作品の中でも1個抜けた素晴らしさを持っているんじゃないかと思います。

あとは、決めつけによる差別とか排除っていうのはもちろん最悪なんだけど、ただ「違い」っていうのは楽しいじゃん。違いは豊かだし、違いは楽しいじゃんっていうこの視点があればこそ、たとえばそれぞれの動物の固有性をネタにしたギャグ。それもちょっと意地悪なギャグ。たとえば、特に劇場でもきっちり毎回、見るたびに爆笑が出ていましたけども、あのナマケモノのくだりとかですね。アメリカの免許センターがすごく非効率的で……っていうアメリカの事情はあるらしいけど、とは言え、「お役所仕事」っていう言葉があるくらいだから当然、万国共通なんでしょう。ああいう、役所でイライラするっていうのはさ。

ナマケモノのくだりはあれ、最高ですよね。特にあの、元のオリジナル版のゆっくりしゃべるところと、単語をパッと言うところとの、緩急がね。間がおかしいんだよなぁ。あと、表情の順番。目が開いて、それから笑うっていう。あれ、ジョン・ラセターが実際にあの顔をやってみせて、それを描いたらしいんですけどね。ああいったナマケモノのくだりであるとか、あとはもうちょっと大人っぽい、毒っ気の含まれた動物ネタだと、『レミングス・ブラザーズ」っていう……当然、「リーマン・ブラザーズ」なわけですよね。だからリーマン・ブラザーズ、リーマン・ショックが起こったああいう金融業界のレミングス性みたいなものをさ。それも皮肉っているっていう、ちょっと大人っぽいジョークとかも含めて、とにかく、それぞれの動物の固有性をネタにしたギャグ。これって言ってみれば、人種ギャグのメタファーなわけですよね。

人種ギャグって、それぞれの人種の固定観念っていうか、ステレオタイプを元にしたメタファーでもあるんだけども。その根本的テーマが、要するに「差別はよくないよ、多様性を認めましょう」っていう圧倒的な正しさに対して、そういうちょっと毒っ気のある人種ギャグみたいなものがポンポンポンポン放り込まれるのが、ある種この作品の風通しのよさも確保しているという。この辺りはですね、やっぱりリッチ・ムーアさん。『シュガー・ラッシュ』の評の時も言いましたけど、元々は『ザ・シンプソンズ』とか『フューチュラマ』のシリーズをいっぱい撮っている人なんですよ。

これ、完全に『ザ・シンプソンズ』『フューチュラマ』を作ってきた人ならではの大人のバランス感覚と言えると思います。あとはやっぱり、たとえばヌーディスト村のシーンのポーズのえげつなさとか。あと、コップに書いてあるちょっとした文字が、それ自体がギャグになっているとか。あのへんのセンスはもう完全に『ザ・シンプソンズ』の感覚だという風に思いますね。リッチ・ムーアさんの持ち込んだものが大きいんじゃないかと思いますが。とにかく、その圧倒的なテーマ的正しさに対して、ちょっと風通しのよくなる、ちょっと意地悪な人種ギャグ。大人な毒っ気のある、そういうのが入るっていうことを含めて、そこも隙がないっていうことなんですよね。要するに、正しすぎない。それも含めて<正しい>っていうね。ポリティカリー・コレクトすぎない正しさっていうか。

あと、終盤で主人公のウサギのジュディが、自分自身の人種というか“動物種偏見”を持っていたということをキツネのニックに詫びるという、非常に感動的なシーンでもですね——吹き替え版はそのへん、セリフのニュアンスが違っちゃっていて、僕はちょっと残念だったんだけど——「ごめん」って言って泣くジュディに、キツネのニックが「はいはい。お前らウサギ族は泣き虫だからな」っていう、まあ言っちゃえば人種ステレオタイプギャグを、それで返すことでより2人の許し合いっていうのの深さがわかるという秀逸さですね。

ちょっとそういう、普通の他の人に言われたらムカつくようなことも投げかけられるというか、正しくなさまでも投げかけられるというかね。ちょっと際どいギャグまで入れるという、そこが非常に……で、しかもそこで泣きながらニンジンペンを取ろうとするジュディの仕草のかわいさときたら! なんでそんなにかわいいのかよ! ねえ。ちなみに、このキツネのニックさん。ほぼ全編にわたってこの主人公のジュディのことを「ウサギ」か「ニンジン」としか呼ばないんですよね。だけど、ついに彼女の名前を呼ぶというその瞬間。要するに、種の壁を超えて、<個>として認め合ったその瞬間とか、このあたりも上手いですし。

それも含めて、途中でいかにもアメリカっぽいトークメソッドだけど、自分で質問をして自分で答えるっていう頭を良く見せるトークメソッドっていうのが後でまた活きてきたりとか。ちょっとした会話のディテールとか小道具とかが……さっきのニンジンペンとかが、後できっちり伏線として気持よーく回収されるという、まあ本当に脚本が上手い脚本ですね。あと個人的には、ジュディが失意のまま田舎に一旦帰ってみると、幼なじみのあいつが……っていうあのくだりで、これは『イントゥ・ザ・ストーム』序盤で嫌な感じだったあいつがラストで、っていうところで虚を突かれた時と同じような感じで、俺は「はぁ〜」って。もう、ちょっと涙腺決壊ですよね。ドバチョーッ!っときて、泣いてしまいました。

あと、中盤の謎解きのどんどんどんどん街の暗部、汚職や麻薬ビジネスの匂いを含めた街の暗部に踏み込んでいくフィルムノワール・タッチのところも本当に堂々たるものでしたし。もちろん、『ゴッドファーザー』の、セリフまで完コピのところとか。あと、『ブレイキング・バッド』から『帝国の逆襲』に至るまで、随所に散りばめられたパロディネタの数々とか。特に、あの『アナ雪』いじりですね。ちょっと悪意込みの『アナ雪』いじり。ここもすごい『ザ・シンプソンズ』譲りの感じがするんだけど、とにかく『アナ雪』いじりのちょっとしたセリフとかそういったものも含めて、とにかく細部に至るまで掘り甲斐があるという作り込みも含めて、楽しいし深いし最高じゃないですか!っていうね。

まあ、あえて、本当にあえて言えば、ラストで主人公のジュディがする演説がちょっとこう、きれいすぎっていうか、いいことを言葉にしすぎなんじゃないか?っていう気がしなくもないが、ただあそこで言っていることはとっても大事だし、言葉にしておいた方がいいかなっていう。つまり、「個としての違いはある。それぞれに違いはあるよっていうことを認めた上で、でもその上でわかり合っていこうよ。そして、そのためにはまず自分自身が変わっていかなきゃ!」っていう。差別・偏見テーマっていうのに対して、やっぱりきっちりちゃんと言うべきことを言っているし、なにより、その偏見・差別はよくないですよっていうラストのラストできっちり、もう1回こちら側の先入観というか偏見を逆手にとった大オチで見事に大爆笑をかっさらって、ポン!って終わるっていうこの見事さも含めて……「はい、やっぱり隙がねえや! きれいすぎじゃね、きれいすぎじゃね?」と思ったら、「いやいやいや、さらにもう1個来たか!」っていうね。最高でございました。

過去のディズニークラシック。動物を使ったステレオタイプ描写に対するポリティカリー・コレクトも含めた今日的再解釈、再回答という意味で、『プリンセスと魔法のキス』以降、ディズニープリンセス・ストーリーの再解釈というのを始め、『アナ雪』でひとつの完成を見たという、一連のディズニールネッサンス。その流れの中で、たとえば人種偏見であるとか性差別とか、そういうことに対するディズニーの再解釈。新たなディズニーをもう1回ここから始めるぞ! というですね、そういう流れ上にも置けるという。その意味でも、ひとつの頂点だと思いますね。

アニメでしか、この方法でしか描けないテーマの深みであり、鋭さであり、そしてこちら側に突きつけてくるものであり、というね。で、なおかつ、きっちり爆笑できて、話も面白く。え〜……なんだよ! ということでございます。本当に素晴らしい作品でございます。「文句のつけようがない」とはこのことでございます。ぜひぜひ、劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 〜 来週の課題映画は『ちはやふる 下の句』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

Text by みやーん(文字起こし職人)

 

The post 宇多丸、『ズートピア』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年5月7日放送 appeared first on TBSラジオ AM954 + FM90.5~聞けば、見えてくる~.

宇多丸 『ちはやふる 下の句』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年5月16日放送

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ちはやふる 下の句

宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

TBSラジオで毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸が、毎週ランダムで決まった映画を自腹で観に行き、評論する「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ここではその文字起こしを掲載しています。

今回紹介する映画は、競技かるたに打ち込む高校生たちを描いた二部作の後編『ちはやふる 下の句』(日本公開2016年4月23日)です。

▼ポッドキャストもお聞きいただけます。

 

宇多丸:
今夜扱う映画は、先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して当たったこの映画、『ちはやふる 下の句』。

(BGM:テーマ曲が流れる)

競技かるたに打ち込む高校生たちの青春を描いた同名の人気コミックの実写映画化。二部作の後編となる本作では、主人公・千早の前に、「最強のクイーン」と呼ばれる若宮詩暢が立ちはだかる。主人公・千早を演じる広瀬すずを始め、野村周平、真剣佑らメインキャストは引き続き続投。また、千早のライバルとなる若宮詩暢を松岡茉優さんが演じている。監督・脚本は前編『上の句』に続き、小泉徳宏さん。

ということで『ちはやふる 下の句』、この映画をもう見たよというリスナーのみなさんからのね、感想メール。<ウォッチメン>からの監視報告、メールなどでいただいております。メールの量は……多いです! 『上の句』をついこの間扱ったばかりで、私も絶賛しましたということもあってですね、注目度がこの番組的には特に高かったんでしょうか。メールの量が多い。そして、いつもよりも若い人が多く、現役の学生さんからの投稿も目立ったとのこと。もちろん、前編の『上の句』を見てハマッたという人ばかり。

賛否で言うと、賛が7割。ただし、諸手を上げて全面的に絶賛という人は意外と少なく、「『上の句』の方がよかったけど、これはこれでよかった」という人がいちばん多かった。逆に、否定的な意見の人でも、主人公のライバルである若宮詩暢を演じた松岡茉優を賞賛する声は強かった……ということでございます。代表的なところをご紹介いたしましょう……。

(メール紹介、中略)

……と、いうことでございます。『ちはやふる 下の句』、行ってみよう! よせばいいのにですね、バルト9やらTOHOシネマズ六本木で、よせばいいのに、3回も見てしまいました。『上の句』に比べると、でも明らかにお客はちょっと入っていなかったかな。私が見た3回に関してはそんな印象でございましたが。

二部作の前編にあたる『上の句』を4月2日、このコーナーで扱ったばかりでございます。こんな風に前後編をきっちりやるのは、『ハリー・ポッター』のラスト二部作(死の秘宝 PART1・2)をやったというのがありますけども。これだけ短いスパンで前後編をきっちりやるのは始めてじゃないでしょうか? あ、『進撃の巨人』もやったか(2015年8月8日、9月26日)。

とにかく、その『上の句』評。ざっくり僕が何を言ったかをおさらいしておくならばですね。『がんばれベアーズ』型弱小スポーツチームものというジャンル。今回ね、『下の句』で吹奏楽部が出てきますけども、吹奏楽部が最初の方でずっと演奏しているのが『カルメン』なのは、これはたぶん明らかに『がんばれベアーズ』オマージュなんだろうな、なんていう風に思いながら見ていたんですが。とにかく、『ベアーズ』的な弱小スポーツチームもの。特に、マイナースポーツ題材の青春もの、ティーンムービーものっていう、日本ではすっかり定番化したジャンル。そのジャンル映画として、今時の日本のこういう感じの映画の水準で言えば、もう本当に思い切って、「傑作!」という太鼓判を押していい出来だろう、ということでございます。

実際に僕を含め、大好きになっちゃった人が続出という作品でございました。勝因として、監督・脚本の小泉徳宏さん。実はこの間、ちらりと、ちょっぴりピリリとした空気の中でお会いしたんですけど。非常にイケメンでございましたね。本当にご挨拶だけしたっていう感じだったんですけど。とにかく、脚本も書かれていて、原作漫画からの再構成の上手さが『上の句』の勝因だと。特に、試合の勝敗のロジックがきちんと考えられている点。これができていないスポーツものとかエンターテイメントが非常に多い中、ロジックがきちんとしている。

そして何より、キャスト陣のアンサンブルが生み出す、この作品ならではのマジックということですね。青春映画はこれが非常に大事だと。特に、やはり主演、広瀬すずのいまならではの圧倒的な輝き、勢いなどなど、そんなことを挙げつつですね、「早くあいつらにまた会いたい!」ということで、『下の句』への期待を語らせていただいた。締めの部分では、「後編の出来次第では、本当に日本の青春映画史上に残る作品になっていくかもしれない。愛される作品になっていくかもしれない」ということまで言ったんですけど。詳しくは、公式ホームページにラジオ番組起こし職人みやーんさんによる、オフィシャルの全文起こしバージョンが載っていますので。『マネーショート』以降、毎回毎週アップされていますので、ぜひそちらを参考にしていただきたいんですけど。

ということで、こんな感じが『上の句』の評価だったんですね。非常に評価が高かった。で、今回の『下の句』、実際にどうだったのか? というあたり。まずね、正直に言うと、僕、「3回見た」って言いましたけど。初回。最初の1回目に見た時は、特に前半部。主人公たちがひたすらウジウジウジウジと、気持ちの行き違いを重ねるくだりが続くところ——そもそも僕は主人公のウジウジが長い映画はあんまり好きじゃないんですよ——っていうのが続くところはですね、『上の句』で高まりきった期待、『上の句』のこういうところがよかったよなっていうのを胸に、そういう期待している部分からするとですね、かなり……特に前半部。違和感を覚えざるを得なかった。特に初見は。

要は、こんな感じ。「またあいつらに会いてえよ! あいつらに会える!」って楽しみにしていたのに、実際に会ってみたらその友達は前とちょっと変わっちゃっている。「あれっ、こんなやつだったっけ?」みたいな感じ。そういう違和感を覚えざるを得なかった。それはまさにちょうど、この本作の物語の冒頭部分そのまま。あれほど再会したいと思っていた、<元トモ>ですよね。元トモに会ってみたら、「あれっ、なんか……変わっちゃった?」っていう、そういう話。まあ、今回のお話とも一致するんですけど。僕が抱いた違和感はですね。

で、実際にこれは作り手である小泉徳宏さん自身、意図したところでもあるようで。パンフレットのインタビューでも、「まるっきりトーンを変えようと最初から決めていた」とはおっしゃっているわけです。なので、単純に「前後編、話のボリュームを半分こに分けましたよ」とかいうんじゃない。この時点で、その志や良し、だと思うんですよね。前後編でまるっきりトーンを変えて、二部作としての意味を持たせる、という。

あとですね、パンフでこんなことをおっしゃっている……今回は起承転結の「起」の部分が必要ない作品なんだけど、そのいびつさに、編集中に小泉さん自身が違和感を覚えていったと。いきなり主人公が悩むところから始まるので、重たいトーンになりがち。なので、バランス取りが難しかった——ということを小泉さん自身がおっしゃっている。なので、ある意味僕が『上の句』との比較で今回の『下の句』、特に序盤から前半部にかけて違和感を覚えたというのも、これは必然というか、そういう作りなんですね。そもそもね。意図された作りでもある。

つまり、前の『上の句』が単体の作品としてきっちり成立するように作られていた。ここ、僕が褒めたポイントですよね。話が尻切れトンボで終わっていなくて、ちゃんと1本の映画として成立するように作られているのとは対称的に、今回の『下の句』は言ってみればですね、『上の句』自体は起承転結がある1本の映画なんですけど、『上の句』の起承転結全部をまとめて、今回の「起」になっていて。で、なおかつ「承」から始まるという。「起」がなくて「承」から始まるという作品。なおかつその上で、前作ではあえて掘り下げられていなかった部分。要は、なぜそこまで頑張ってかるたというものをやるのか? という根本の動機の部分を問うていく話ということですね。

『上の句』の時に、実は来た批判的な意見のメールの中には、「なんでこんなにがんばるのかの動機がちゃんと描かれていないじゃないか」という批判はたしかにあったんです。まさにそれが補完されるようなテーマ設定に『下の句』はなっている。ここから先、よかった点や不満点を言うんだけど、それ以前に個人的には、『上の句』の起承転結をまとめて「起」にして「承」から始めるという今回の『下の句』だったらばですね、やっぱりオープニングに『上の句』のダイジェストを入れて欲しかったんですよね。ダイジェスト。

僕のアイデアを聞いてください。エンディングに流すんじゃなくて、今回は主題曲になっているPerfumeの『FLASH』から始めるんですよ。で、そのPerfumeの『FLASH』に乗せて、もうノリノリのモンタージュで、『上の句』の名場面みたいなのをポンポンポンポン見せていく。そしたら、そこだけでもう5億点出る。「フーーーッ! やったー、また見れる!」っていう。『スーパーマンII 冒険篇』の頭のところで、テーマに乗せて、1作目のストーリーのダイジェストをガンガン、ノリノリで見せていくあれとか、大好きなんですよ! 小泉さん、それやってよー! それでテンションを一度、マックスまで高めておいてからの、「承」から始める。それでちょっとテンションが低い話が始まるんだったら、だいぶ納得をする人が増えたのにさ。うーん、なんでもったいないなー! いまからでも付けてくれねえかな? で、エンディングは逆に、Perfumeの『FLASH』で終わるんじゃなくて、『ちはやふる』のテーマ。あれで終わればいいじゃん! みたいなね、ということがあるんだけど。とにかく、そんな感じ。

というわけで、今回の『下の句』は、たとえば『上の句』のようなきっちりとしたロジックを持つ勝敗の面白さ……つまりスポーツ映画としての明快な面白さみたいなのは、ぶっちゃけないです。そこを期待して行くと、はっきり失望すると思います。少なくとも、『下の句』という作品これ単体で、これだけを見てわかりやすく面白く成立している……これだけ見ても「面白いよ」って人におすすめできるような作品ではないのはたしかだと思います。『上の句』ありきなのは間違いない。

しかも、『上の句』は非常に明快なロジックを持つ、すごくわかりやすいスポーツ映画だったのに対して、今回の『下の句』は非常に内省的で、言ってみればちょっと抽象的なテーマを扱っているわけですよね。それゆえ、ぶっちゃけ、ここがやっぱり不満の方が多い理由だと思いますけど、その抽象的なテーマ、抽象的な概念を言葉でなんとかわかりやすく説明しようとするあまり、やっぱりちょっと説明しすぎじゃないの?っていうセリフとかナレーションが多めだったりする。これは本当、事実だと思います。

特にですね、僕は「あーこういうのやめてくれ〜」って思ったのは、机くんというガリ勉キャラがいるわけですよね。『上の句』でとってもオイシイ成長ぶりを見せるキャラクターでした。が、もう成長しきっちゃったということなのか知らないけど、たとえば途中で主人公・千早に対する感謝の念を、もう本当に言わずもがなとしか言いようがない、そのまんまな美辞麗句で伝えてしまうっていう。要するに、ただのきれい事キャラになっちゃっている。「なんで?」って。あの場面なんかは、千早が一直線に目標に向かい始めちゃって、もう周りが見えていないのはわかった上で、「あなたのためにこういう作戦をみんなで考えてあげたよ」と、机くんが作戦表の紙を出してあげる。その事実だけで十分伝わるべきものは伝わっているんだから、「お前のおかげで……」って、あんなセリフいらねえよ!っていう。そういう展開が多くなっているのは事実だし。

あと、内省的な展開が増えた分、少なくとも僕はあんまり好みじゃない、前作でも「もうちょっとなんとかならないの?」というふうに最後にちょろっと苦言を呈した、まあいかにも今どきの日本映画なウェットで単調な音楽の使い方なり。なんかこういう、もうちょっとキビキビ行けないの? みたいな感じがあったりするんだけど。加えてですね、これは僕が完全にこの『ちはやふる』という映画の物語世界に入り込みすぎているからなんだけど、どうしても許せない描写が2か所、ございまして。これに関しては、後で言いますけど。とにかく、そのどうしても許せない描写2個のせいで、初見の時は、「本ッ当、頭に来るッ!! ふざけんな綾瀬よテメー!」とか思って(笑)。「クソだな!」ぐらいに思っていたんですけど。

っていうことで、いろいろ言いたいことが『下の句』は増えてしまったのは事実だと思います。なので、不満メールが増えたのも、これはしょうがないと思う。たしかにそういう面はあると思う。ただ、この映画版『ちはやふる』は『上の句』から一貫して、こういうことを伝えている。「情熱の伝播」ですね。伝播する情熱。で、それを具体的に示す映画的アクションとして、情熱が伝播していく様を具体的に示す映画的アクションとして「手を差し伸べる」っていう行為。それはつまり、かるたっていうゲームそのもの。かるたって何かと言えば、「手を差し伸べるゲーム」なわけですよね。

誰かに手を差し伸べる行為と、かるたというゲームそのものを重ね合わせて。つまり誰かに手をこうやって伸ばして、それで情熱が伝播していく。それ自体の素晴らしさを描くという。それを『上の句』から一貫して描いてきたんだっていうことが、今回の『下の句』を見終わって、通して見てはじめてはっきり浮かび上がる構成になっている。思えば『上の句』の時点から、とにかく手を差し伸べる。誰かが誰かの手を取るとか、そういう、あくまで具体的な、つまり映画的なアクションが情熱の伝播っていうものを起こしてきたし、そうやって映画的に表現をしてきた。

たとえば、さっき言ったガリ勉の机くんが登山をする場面で、手を差し伸べるという動きがどれだけ感動的だったか? そのことに観客も、そして主人公の千早自身も、今回の『下の句』のクライマックスの手前のところで気づくわけです。さかのぼって。「ああ、そういえば手を差し伸べる行為が全てつながっていたんだ!」っていうことに気づいて以降、クライマックスから……ここから要は手を差し伸べるとか、手を合わせるとか、手と手をパチンとやるとか、とにかく手を使ったアクションのつるべ打ち。手を使ったアクションがつるべ打ちされるたびに、感動がドライブしていくっていうか。「ああ、ここもそうだ。手と手がつながって、情熱が伝播して!」って。もう感動が加速度的に螺旋階段を上がっていくようにドライブしていく。これがね、今回の『下の句』、本当に半端ない。感動のドライブ感が、ということだと思います。

前半の「えー大丈夫これ?」っていうのが、クライマックスでエンジンがかかり出してからグワーッとドライブしていく感じ。それを際立てているのが、たとば主人公たちはチームプレーで勝負するのに対して……大きく言えば『ちはやふる』っていう映画全体はチームプレーの尊さを訴えていると言っていいと思うんだけど。チームプレーの主人公たちに対しての、まさに「KOKOU」(孤高)の象徴たるクイーン・若宮詩暢役の松岡茉優さんということだと思いますね。

ちなみに彼女の孤高を貫くなりの理屈にも、ものすごく理があるのもやっぱりいいと思うんですよ。「あの人たちはかるたがやりたいんじゃなくて、みんなで何かやりたいんでしょ?」「「YOSAKOIでしょ、YOSAKOI」って(笑)。そんなセリフは言ってないけど。俺は足してましたからね。「YOSAKOIでしょ?」って言いたいんだと思う。とにかく松岡茉優さん、今回の『下の句』、持っていく! 彼女がもう、持ってく持ってく。ちょっと僕、いけずな京女というか、昔の知り合いで似た女の子いたなあみたいなのも含めて、とにかくあえてこの言い方をさせてもらいますが、このいけずな京女っぷりが最高にセクシーですね。もう僕は、ぶっちゃけメロメロです。本当に松岡茉優さん、素晴らしい。

で、主人公の千早が天才型。それがまさに広瀬すずさんの、いまの現在の勢いに重なるようにですね、天才型の千早に対して、超絶技巧を持つちょい先輩っていう……要は、現実のライバル構図みたいなものも重なって、これもまた熱いあたりだったりするということです。本当に松岡茉優さん、素晴らしい。いま思えば、『桐島、部活やめるってよ』のあの名作ぶり、あの緊張感、ヤダ味、嫌な感じっていうのは、ひとえにこの松岡茉優さんのあの嫌な感じの女の子役の上手さがあればこそだったなということをね、さかのぼってちょっとまたね。「ああ、そういえばやっぱりあの人すごいわ」みたいに思ったりしました。

とにかく、クライマックス。主人公・千早が“フォースの覚醒”をするわけですよ、まさに。再びフォースの覚醒をして以降、2人の死闘がですね、超スローモーションでハイスピードカメラで捉えるんですけど、2人とも体勢とか表情がもう、美しい。この2人の表情と体勢の美しさだけでもう、涙が出てくるような感じになる。これはなんでか?って言えばですね、主人公がいろいろ目覚めて、手と手がつながって、情熱が伝播していく。自分がその延長線上にいることに気づいてっていうのもそうなんだけど、孤高である天才の若宮詩暢も、これは原作にあるセリフなんですけど、あまりにも強すぎて、「なんかいつも1人でかるたを取っているみたいだ。まあ、いいや。また1人でかるた始まっちゃった」っていう、そういう人なわけです。なのに、「ああっ、相手が出てきた。うれしい!」っていう感じなわけですよね。ちなみに、僕はここの若宮詩暢が「いつも1人でかるたを取っているみたいだった」っていう、この説明セリフは入れて良かったんじゃない?って思うんですけどもね。

いずれにしても、この2人の手とか動きが、要するに手と手がフーッと伸びて、2人の手とか動きがシンクロする。本当、ダンスみたいじゃないですか。バレエを見るような美しい動き。ダンスをするように2人がシンクロする姿に、またも涙っていうね。で、まあね、詩暢ちゃんの方もね、「楽しかったね、またかるたしようね」って千早に言われて、「いつや?」って。いいですねー! もうね、たまらない! もう、大好きなんじゃねえかって話ですけども(笑)。

あるいはですね、元々は自分が情熱の発火点だったはずの新(あらた)が、情熱の行き場を失いかけていたんだけど、自分が種を蒔いた情熱が伝播していったその果実というか、自分がやったことの結果みたいなものを目の当たりにするという、その新役の真剣佑さん。今回、より本格的に出ていますけど、この真剣佑さんは、あの目の大きさ、瞳の澄んだ美しさあればこそ。要は、目撃者役なわけですよ。彼は今回、いろんなものを見て、リアクションをする。受け身だけで全てを表現するという、結構難しいと思うんですけど。あの目があればこそ、まさに目撃者役に相応しい。上手いと思いましたね。素晴らしい存在感でございました。

ということで、手を差し伸べる。情熱の伝播という『上の句』『下の句』、実は通しての一大テーマがまさにラストショットでこちら側、客席に向かってラストショット。手を差し伸べるアクションがこっち側に向かってくる。その瞬間、もう本当に「わわわわわっ! こっちにも伝わっちゃうじゃないか! 千早、オレにも伝わっちゃうじゃないかーっ!」っていう。ここでまた、最後にドーンと大っきい感動が来るという作りになっていてですね、もう最終的に見終わった後はですよ、結論としては、『下の句』、いろいろ言いたいこともあるけど。あの場面が気に入らねえとかあるけど、後編としては、これで大正解なんじゃないか?っていうね。上下セットでやっぱり傑作と呼んでいいんじゃないかっていう感じには、見終わった時点では思える作品になっているとは思うんです。

ただ、さっき言ったようにですね、僕的にはど0しても許せない箇所が、今回の『下の句』、2箇所ございまして。最後に、巨大な苦言を言わせてください。それは何かといいますとズバリ、北央高校。『上の句』のクライマックスで戦う強豪校ですよね。北央高校が渡してくれる、いままでの対戦相手の研究成果を記したマル秘ノート。あれの扱いなんですよね。都大会のライバル校の北央が秘伝のノートをあえて渡すという。これは原作漫画にもある展開なんですが、今回の映画版だとですね、ドSの須藤部長。清水尋也さん自らが、今回、はじめて名前を呼ばれてましたけど、坂口涼太郎さんが演じるヒョロくんの制止を振りきってまで渡すという。だから、よりドラマチックな、より重みがある場面になって素晴らしいわけですよ。

つまり、1人じゃない。自分1人で生きていると思うなよっていうのの、非常に重たい、大きいポイントですよね。敵でさえも、お前の後ろにいるんだぞっていう。で、いい場面なんだけどね。僕はたぶんこの清水尋也さん演じるドSの須藤さんが大好きすぎるんですよ。つまり、どっちかって言うと、僕はヒョロくん目線なんですよ。「須藤さん! 須藤さん、大丈夫っすか!?
須藤さん、いいんすか!?」みたいな、この感じで見ているわけですよ。

だからね、オレ的にはこのマル秘ノートを主人公・千早に渡しました。こっから先、こういうシーンですよ。千早がこうやって走りだすじゃないですか。「須藤さんから預かった、北央の伝統が詰まったそのノート。綾瀬、この野郎、俺は本当反対だけど、須藤さんが渡すっつーなら、しょうがねえよ。くれぐれも、くれぐれも大事に扱ってくれよ! 綾瀬、お前ちょっとおっちょこちょいなところがあるから、くれぐれも転んでドロドロとかにしないでくれよ。大事に使ってくれよ!」って思って見ていたら……次のシーンで、千早。土砂降りの雨の中で太一を待っているっていう。

まずね、ここでこれだけ雨が降っているのに傘もささずっていう演出自体に、のちの展開の伏線って言われりゃそうかもしれないけど、やっぱり、わざとらしいじゃん? こんだけ雨降ってたら傘さすでしょう? だから、傘をさしているけど濡れちゃっているとかならともかく、傘をさしていないっていう時点でまあイラッと来るし。なによりも、さっきの北央ノートの話から言うと、いいですか? 「お前! ノートびしょ濡れになるだろ!」。前のシーンで、千早が北央からノートを渡されて、彼女はなにかを学んだはずじゃないですか。なのに、「お前、学び超軽いな!」っていう。この無神経なびしょ濡れ演出のせいで台無しにしていると思います。だってノートを実際に大事に扱ってないわけだから。結局、自分たちのことしか考えてないやつらに、この演出のせいで見えちゃうんですよ。ヒョロ的にはそう思うわけですね。

同様に、後半で大会のトーナメントの組み合わせをチェックする場面があるんですけど。そこでですね、他校もいるその目の前で、マル秘ノートをまんま持ってきて。無造作にガバッとノートを広げた挙句、中身を音読するヤツがあるかーーーーっ!! 本っ当に。「それ、我が北央高校が長年密かに蓄積した、我が校の伝統のデータなんだぞ! その重み、お前、やっぱわかってねえだろ!?」と。こういうね、この2点の見せ方、演出は本気で、つまり「手を差し伸べる」とか「情熱の伝播」だとか、「ひとりに思うかもしれないけど、ひとりじゃないよ」とか。「敵だって背中にいるんだぞ」みたいなこのテーマを、結構深刻なレベルで損なっていると思う。

つまり、「手を差し伸べる相手が他者だと重みが軽くなるわけ? お前らは」っていう感じがするわけよ。だからまさに、詩暢が言っている「あの人たちは身内でキャッキャやりたいだけじゃないの?」っていうのが、なんか説得力を持っちゃうんですよ。っていうことで、許せねえ! あと、クライマックスで千早対詩暢の戦いの裏で、太一対ドSの須藤先輩の戦いがオマケみたいに扱われているのも、私ことヒョロ的には本当、ちょっとイラっと来るあたりでございまして……って、入り込みすぎだろっていう(笑)。

あとね、ちょっとこれは意地悪な……これは、すいませんね。太一役の野村周平さん。無表情に近い時はとっても抜群の良さを見せるんですけど、前作の時も実は気になったけど、ちょっと笑い方の演技には課題ありなんじゃないかな?っていう風に今回、笑う場面が多いので思ったら、パンフレットによると野村周平さん。笑顔の演技が苦手なんだって。だからこれはちょっと課題かもしれませんね。という風に思ったりしました。

あと、細かい話を言うと、近江神宮のお参りのシーン。吹奏楽部に、まさに情熱と親切が伝播した結果として、『威風堂々』を吹奏楽部が……また、あの吹奏楽部がリアルな高校生なんだよな。うん。広瀬すずと対峙する側の身にもなってくれっていう感じで。まあいいや。『威風堂々』、僕、大好きな曲なんで。あの『威風堂々』に乗せて近江神宮に入っていくという素晴らしい場面で最高にアガる場面なんだけど、最後に「ジャン、ジャン♪」と「パン、パン」って。いろいろとテンポが合って決まった!っていうところなんだけど。最後におじぎをした後、たぶん広瀬すずだと思うんだけど、1人だけ早く体を起こしかけてやめる人がいる。あのテイクはダメだ!っていう(笑)。はい、細かすぎね。

まあ、こんな細かいことを言うのもですね、たとえばこの『下の句』だと、田園風景。田植えをしたばっかりの田んぼが育っているとか。その田園風景の変化を通じて、季節の微妙な移り変わりを示していたりとか、結構本当に細かいところまで気を使った作りになっているんですよ。やっぱりさすが小泉さんというか。なので、味わい尽くしたくなるからこそ、細かいところのアラとかもちゃんと気になっちゃうということでもあるんですけどね。はい。ということでございます。結局お前、大好きなんじゃねえかっていう結論なんですけどね(笑)。

で、『下の句』はやっぱり『上の句』と続けて見ることが本当におすすめだし、ここに『上の句』という「起」があるんだぞということを意識して……だからやっぱりダイジェストをつけるべきだったんじゃねえかな?って思うんだけどね。でも、とにかく上下合わせて、近年では明らかに突出したティーンムービー。スポーツムービーとしても、ジャンル映画、傑作が生まれた。たぶん相当愛されるシリーズになっていくのは確定なんじゃないでしょうかね。今回はとにかく松岡茉優さんが素晴らしかった。惚れた。ということでございます。私、結果いろいろ声が枯れるほどやってしまいました。ぜひぜひ、劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 〜 来週の課題映画は『アイアムアヒーロー』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

<オマケ。ガチャ回しパート>

あのね、『ちはやふる 下の句』は夕日の田園風景にかぶせて千早の留守電を聞く場面とか、素晴らしい場面がいっぱいあって、本当に素晴らしかったんだけど……「北央の秘密ノートをお前らに渡すっていうことが、瑞沢高校はそんなこともわからねえのかっ!」っていうね、(映画『64』の)佐藤浩市ばりの怒鳴りをしてみたりなんかして。

 

Text by みやーん(文字起こし職人)

 

The post 宇多丸 『ちはやふる 下の句』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年5月16日放送 appeared first on TBSラジオ AM954 + FM90.5~聞けば、見えてくる~.

宇多丸 『アイアムアヒーロー』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年5月21日放送

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宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

TBSラジオで毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。
その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸が毎週ランダムで決まった映画を自腹で観に行き、評論する「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ここではその文字起こしを掲載しています。

今回評論する映画は、『アイアムアヒーロー』(2016年4月23日公開)です。

▼ポッドキャストもお聞きいただけます。

 

宇多丸:
今夜扱う映画は、先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して当たったこの映画、『アイアムアヒーロー』。

(BGM:テーマ曲が流れる)

人気漫画家、花沢健吾のベストセラーコミックを実写化したパニックホラー。謎のウィルスにより「ZQN(ゾキュン)」と呼ばれるゾンビが大量に出現。街がパニックに陥る中、冴えない漫画家の主人公・鈴木英雄はたまたま出会った女子高生を守るため、決死の逃避行を続ける。監督は『GANTZ』『図書館戦争シリーズ』の佐藤信介さん。主人公の英雄を演じるのは大泉洋。英雄と行動をともにする女子高生を有村架純、ZQNに立ち向かう元看護師を長澤まさみが演じている、ということでございます。

この映画をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールなどでいただいております。『アイアムアヒーロー』、メールの量は……めっちゃ多い! 今年トップ3に入る量。初めてメールをいただいた方も多し、ということでございます。賛否で言うと、大絶賛と賛が合わせて7割ほど。普通、もしくはイマイチが残り3割。「日本のゾンビ映画として史上最高傑作!」「日本映画ナメてました。すいません、そしてありがとう」「大泉洋が上手すぎる」などの熱い賛辞の声が多い。一方、「あの女子高生が後半空気」「ストーリー的な目新しさが一切ない」などの否定的な意見もちらほら。そんな中から代表的なご意見を紹介いたしましょう……。

(メール紹介、中略)

……ということでみなさん、ありがとうございます。たっぷりいただいてね、熱量が素晴らしいということでございます。

『アイアムアヒーロー』、私もガチャが当たる前に、公開2週目ぐらいの4月中に1回、バルト9と、TOHOシネマズ日本橋で見てまいりました。特にその公開2週目。4月中に見た時は結構人も入っていましたし、いまもどんどん口コミが広がってお客さんがさらに入っているみたいなんですけど、ところどころ、要するにここまでバイオレントな内容だと思っていなかったのか、普通に女の子の悲鳴とかが上がっていて。このタイプの映画がかかっている箱としては非常にいい雰囲気で見ることができました。「キャーッ!」「ハーッ!」っていう声があがっていて、よかったです。

で、もう1回目に見た時点で周りの人間に僕は熱く語りまくっていたので、今日はもう、先に結論から言ってしまいますが、これはもう、大傑作!と言っていいんじゃないですか? 日本の、特にメジャー系アクションエンターテイメント映画として、ここまでのことがやればできるんだ!っていう、まずうれしい喜び。そして、ゾンビものという今や完全に世界的な定番フォーマットとなったジャンル映画。ここ10数年ぐらいですかね? もう完全に定番フォーマットになりましたけども、ジャンル映画としてもマジな話、これ、「日本映画としては」っていうエクスキューズ抜きで、俺、ゾンビ映画としては世界基準で見ても結構上出来の部類に入ると思います。

詳しくは後述しますが、ゾンビ映画のある種、定石的というかね、定番的な設定や展開というのはいくつか抑えながら——そういう意味では「新鮮味がない」みたいなことを言う人もわかるはわかるんだけど——先ほどのメールにあった通り、ゾンビ描写そのものがものすごくフレッシュとかね、諸々新しいところがちゃんと入っているというあたり。特に、ゴア描写、残酷描写、バイオレンスな描写に関しては、ぶっちゃけここまでやっているのは今時世界的にも珍しいくらいなんじゃないかなと思いました。はっきり言って、『グリーン・インフェルノ』よりゴアだと思います。

このへんね、特撮監督の神谷(誠)さんとか、特殊メイク・特殊造形の藤原カクセイさん、非常にいい仕事をしたんじゃないかと思いますが。で、たとえばゴア描写がすごいとか、そういうわかりやすくエクストリームな部分だけじゃなくて、たとえば割と静かめな会話シーンの見せ方を含めてですね、僕はこう思いましたね。1カットたりとも、それこそ、「今時の日本映画だし、こんなもんでいいか」的な甘えが1カットたりともない。弛緩した、ゆるんだ演出とか画がない。どの一点を取っても、平たく言えばちゃんとショボくならないように……それこそ、世界に見せて恥ずかしくないように、きっちり考え抜かれて撮られている。

しかも、それでやろうとしてできていることが完全に、日本ならではのゾンビ映画、日本ならではのアクションホラーになっているということですよね。なので、シッチェス国際映画祭だのですね、SXSW(サウス・バイ・サウスウェスト)だの、非常に活きのいいタイプの映画祭で大盛り上がりで、主に観客賞とかをガンガンとっているっていうのは俺、納得です。要するに、これは全然盛った話じゃねえだろうなと思う。これなら海外の観客が大盛り上がりするの、全然納得するという風に思います。

で、じゃあどの部分が日本ならではなのか? というとですね、ゾンビ映画っていうのはもともと作られた国のお国柄というか、特有の事情や風土が際立つジャンルではあるんだけど。後ほど、もう1回名前ぐらい出すかもしれないけど、『ゾンビ革命 ーフアン・オブ・ザ・デッドー』。たとえばキューバで作られればキューバ風になるというのはあるんだけど。特に、この『アイアムアヒーロー』が日本ならではの作品になっているというポイントは、僕なりの表現をさせていただくなら、言わばこれは、「去勢された男」「去勢された男性性」の物語になっているからだという風に思うんですね。この去勢された男性性っていうのは、花沢健吾さんの原作漫画……そもそも、花沢健吾さんの漫画が結構いつも描いている根本テーマじゃないかなと。『ボーイズ・オン・ザ・ラン』とかもそうですけども。と、いうような気がするんですけど。

とにかく、去勢された男、去勢された男性性の物語。ここがすごく日本ならではの話になっている。で、まさに現実の国内法に則って、最大限リアルに描かれる銃器描写。クレー射撃用の二連ショットガンが出てくるわけですけど、まさにそれが去勢された男性性の象徴として使われるわけですよ。そもそも、実用じゃないわけですね。スポーツ用ですよ。狩り用ですらないわけですね。スポーツ用。で、好き勝手に“発射”できないわけですよね。管理下でしか発射されない。で、劇中主人公は、もう緊急事態なんだからどれだけ発射が必要な場面になっても、なかなか去勢された精神性っていうのを脱することができないため……っていうのがこの物語の葛藤を生んでいるということで。

つまり、この『アイアムアヒーロー』という映画はですね、多くの優れたゾンビ映画同様、決して事態全体の根本的解決なんてことは描かれないんです。まあ、描かれているタイプのゾンビ映画はあるけど、だいたいそれはやっぱりガッカリさせてくれるわけですよ。『ワールド・ウォーZ』の結末でどれだけみんながガッカリ……「あ〜あ」ってなるかっていう(笑)。まあ、根本的解決は普通はされないものです。ゾンビ映画ってね。ただ、それ以外の部分の物語を描く。で、それ以外の部分で、要は日本の去勢された男、日本の去勢された男性性っていうものがいかに、せめてもの尊厳を取り戻していくかという、まさにこの国ならではの物語。ヒーロー誕生譚を2時間で過不足なく語りきっているという映画なんですね。

なので、僕はちょっとこのお話そのものに、正直何度もポロポロ泣いちゃいました。やっぱりその去勢された男性性サイドの一員として。まあ、順を追ってもう少し細かい話をしていきますとですね、まず序盤。漫画家アシスタントの主人公。まあぶっちゃけ、限りなく負け犬的な人生を歩みつつある主人公の日常描写があるわけです。で、その日常描写の裏側でゾンビ的な事態の発生・拡大っていうのが、実は確実に進行しているっていうのがほのめかされるわけですね。ニュースの映像であるとか、それこそちょっとサイレンが鳴っているであるとかでほのめかされる。言わば、セッティングの部分ですね。物語が本格的に動き出す前のセッティングの部分。

つまり、画面上はじめてゾンビがはっきり登場して主人公に襲いかかってくるまでの展開ね。セッティング展開。で、他の通常のゾンビものと比べても、このセッティングが今回の『アイアムアヒーロー』はかなり長めに、じっくり描かれていると思います。最初に、初見で見た時は「ここ、こんなに長い必要があるのかな?」ってちょっと脳裏をかすめたぐらい長い。これは、完全に原作漫画の単行本1巻目の構成を意識したペース配分っていうことですね。つまり、原作漫画の1巻目っていうのは、大部分主人公の漫画家としてのうだつのあがらない日常描写っていうのにずーっと費やされるわけですよ。

「あ、こういううだつのあがらない漫画家の話なんだな」と思ってずっと、それこそ連載で読んでいると、単行本1巻目の終わりぐらいで「うわーっ!」ってことが起こるという、そういう構成のバランスを意識しているのは間違いないと思う。で、実際にそのセッティング部分がやや長めに取られていればこそ、つまり、「ああ、こんな感じがずっと続くのかな」っていうまさに主人公の心情であり、まったり感みたいなのが観客にも……「なんか、まったりしてんな。こんな感じがずっと続くのかな」っていう。でも、不穏な記号はいっぱい要所要所で入って、緊張感はずっと続いているんだけど、長めにまったり感が続くからこそ、その後に待っている、まさにずーっとまったり続いていくようだった日常が崩壊していく様っていうのがより……要は、こういうことですよ。「えっ、嘘でしょ?」っていう。

「えっ、嘘だよね。えっ、嘘、嘘でしょ? 嘘でしょ!?」っていう、この感じですよ。これが増すということなんですよね。で、その最初の「えっ、嘘でしょ?」っていう。これが最初に発動する瞬間。言うまでもなく、それは画面に最初にゾンビが登場して襲いかかってくる場面ね。要はこのゾンビ映画というジャンルの最重要ポイントのひとつなわけですけど、まずここが映画『アイアムアヒーロー』、うならされますね。最初のゾンビが登場するところ。具体的には、主人公の「てっこ」という恋人がいるわけですね。映画版では片瀬那奈さんが、原作漫画よりややキツめのキャラ造形で演じられていますけど。とにかく彼女が劇中第一号ZQN。ZQNと言われるゾンビとして現れるわけですけど。

まず、その主人公が閉まっているドアの新聞受けの穴から、覗いた。そうすると、向こうからベッドに横たわったてっこちゃんのシルエットが動き出して……っていうのは原作漫画通りの見せ方なんだけれども。本作、今回の映画版はシルエットが動き出してっていう、その動きそのものに「ああ、もう人間ではない何かになってしまった」感を動きそのものに入れ込んでいる。まあ、『エクソシスト』的なアレ込みでっていうことなんですけども。つまり、しっかり映画ならではの怖さに、この場面を変換しているわけですね。この映画は。

で、加えてZQN化、ゾンビ化したてっこさんがはじめて顔をモロ見せする瞬間ですよ。そこで、ぶっちゃけ片瀬那奈さんがゾンビ役をやるという時にですよ、みなさんね、「まあ、だいたいこんな風なメイクで、こんな感じの動きで、こういう感じのゾンビ演技をするんだろうな」って想像がつく範囲、っていうのがあるじゃないですか。特に、「やっぱり日本で作られるゾンビ映画で、片瀬那奈がやるのはまあ、だいたいこんな感じのゾンビ演技でしょ?」っていう、想像がつく範囲。でも、今回の『アイアムアヒーロー』の場合ですね、その片瀬那奈さんのゾンビ化した顔がバッ!って出てきた時に、「片瀬那奈がゾンビっつったら、まあだいたいこんなもんだろう」というこっちの予想をはるかに、数段上回るエグい顔が、ドーン!!!ッと突きつけられるので、ギャーッ!!!ってなるという。

で、今回本当に感心するのは、まさにこのゾンビ、ZQNの造形です。ゾンビそのものが、ここまで怖いっていうのは結構珍しい。単に顔を灰色にしましたっていうんじゃなくて、目玉が変な方向に向いちゃっているっていうのも含めて、うっ血しているからなのか、なんか顔も変形しちゃってたりとか、ところどころ、それこそ藤原カクセイさんがやってらっしゃっていた『寄生獣』的な変形とかも含めて、とにかくゾンビという設定を超えて、純粋に見た目だけで強烈な生理的嫌悪感を感じさせる造形になっている。

あの漫画家のアシスタントの女の子が向こうの曇りガラスのところからドーン!って現れた時のあの顔とかさ、もうハマープロの『蛇女の脅怖』みたいな顔になっちゃっていて。とにかく、「寄るな! 生理的に無理!」っていう顔になっているっていうね。このように、たとえばそれぞれのZQNの見た目もそうですし、生きていた頃の記憶を残しているというのはもちろんジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』。それもそうなんですよね。生きていた頃の記憶があるから、ショッピングモールに集まっちゃうっていう設定はもともと伝統的にあるんだけど。ただ、それがそれぞれのZQNとしての行動どころか、言動ですよね。ちょっとしゃべるから。今回のゾンビは、その記憶に従って。

要するに個体差。個性を醸し出す描写がすごく丁寧になされていて。ゾンビっつっても十把一からげに描かれていないんですよ。なので、ZQNたちは大量に劇中で殺される。特にクライマックスは100体級で殺されていくわけですけど、1体1体、ちゃんと違うんですよ。動きから、しゃべっていることから。そこに個性がきっちりあるんですよね。だから、怖さもそれぞれ違うし、戦い方も違うわけですよ。なので、アクションにも当然バリエーションが出てくるし、おかしみと、やっぱり悲しみを増すというのになっていて、本当に素晴らしいという風に思います。

ということで、感染・全力疾走系ゾンビっていうことでいえば、リメイクされた方の『ドーン・オブ・ザ・デッド』を始め、『28日後…』『28週後…』。特に、『28週後…』の半感染というか。キャリアだけど発症はしていないという設定なんか、特に『28週後…』っぽいなっていうのはあったりしますけど。いろんな過去作の、過去ゾンビ映画の定番的なものは入っているし、影響は受けているんだけども、そのゾンビの造形、描き方にオリジナリティーがあるというだけで、はっきり言ってもうこの時点で十分偉いです。『アイアムアヒーロー』は。この時点で、もう世界的評価に値するゾンビ映画だと思います。

なんですけど、今回の映画版『アイアムアヒーロー』、そこからがまたさらにすごくてですね。街中を逃げまどう主人公・英雄の視点から、次第に事態がだんだんだんだん巨大化していって、広がっていって、取り返しのつかないレベルへと広がっていくというプロセスを、その英雄の視点から極めて緻密に計算されつくした長回しの1ショットと絶妙なカット変わりポイントっていうその積み重ねで、もうどんどんどんどん事態が、「あれ、あれ、あれっ? えっ、嘘でしょ? えっ、嘘でしょ? 嘘でしょ? ええっ、嘘でしょ? 嘘でしょ〜〜〜〜っ!?」っていう。

その事態の拡大っぷりというのが、本当に主人公視点から、その広がっていく様が見事に計算されつくしたカットの積み重ねで、素晴らしいスケール感とともに描かれる。そんなビッグバジェット……ハリウッド映画と比べれば、そんなバジェットじゃないでしょうけど、もう十分なスケール感とともに表現されきっているという、ここ、本当に素晴らしいですね。先ほど言ったキューバ産のゾンビ映画『フアン・オブ・ザ・デッド』の途中で、パニックになっている街中を長回しで見せるっていうショットがあって、これが本当に素晴らしくて。それを見た時に、「日本、キューバに負けてんじゃん。こんなの、日本じゃ作られないだろうな」って思っていたんだけど。俺、『フアン・オブ・ザ・デッド』の街中長回しシーンに、本作は匹敵するどころか、ほとんど勝っていると思いますね、今回は。勝ったぞ、『フアン・オブ・ザ・デッド』に!っていうぐらいだと思います。

しかも、そこから怒涛の……もう、つるべ打ちですよね。ワーッて事態が広がっていって、「うわっ、マズい、マズい、嘘でしょ、嘘でしょ? 嘘でしょ〜〜〜っ!?」っていうところから、怒涛のカーアクションシーン突入までしてくれちゃうという、この展開 to 展開が、重箱みたいにどんどん重なっていくのがもう大好きで。僕、もう超ワクワクして。これが約20分ぐらい、ノンストップ展開が続くんですけど。もうその間、「幸せか! 幸せか!」って思いながらずっと見ていましたけどね。

で、いろいろあってですね、後半はショッピングモールの籠城戦。で、真の敵は人間同士っていう、これはまさしくジョージ・A・ロメロのオリジナルゾンビイズムそのものだという風に思います。ここをもって、非常に定番的な展開ではありますけどね。屋上の空間と下にいるゾンビたちの世界との対比っていうのはちょっと、今度はリメイクの方の『ドーン・オブ・ザ・デッド』的だったりするなって思いましたけど。そういう意味で、定型的なところは押さえているっていうか、取り入れているんだけど、たとえばそこで出てくる武装した男たち。これ、アメリカだったら当然ね、銃器で武装した、頭にも南軍の旗を巻いたようなやつらが出てくるんですけど。

今回出てくるやつらは、いきがっているんですよ。このいきがりっぷりがまたたまらない。岡田義徳さん演じるヤカラっぷりも本当に最高ですし。取り巻きの下っ端のチンピラたちの、一人ひとりの顔のやだみとかも、本当に完璧なんですけども。とにかくいきがっている、ヤカラぶっている男たち。暴力的にその場を支配してる風なんだけど、「武装」って言ってるんだけど、電動エアガンなんですよ。で、ここがまさに、さっき言った日本ならではのゾンビアクション。本質として、去勢された男性性っていうのがやっぱりここでも出ているわけですね。ボス役で集団をまとめている吉沢悠さん演じる伊浦くんというキャラクター。原作通りオーバーオールを着ているんですけど。

これが要するに、非常に切れ者だけど、本質としてちょっと幼児的な未成熟感っていうのを示しているのは非常に見事な感じ。これもやっぱり去勢された男性性というところで。そのくせ、性的に支配しているつもりでいやがるっていうあたり、本当にクソ野郎度がハンパじゃない。しかも、この後の彼の裏切りっぷりは原作の伊浦くんよりさらにクソ野郎度5割増しっていうぐらいでね、最高な感じになっていましたけどね。で、それに対して、そういう男たちの、いくらエバったって本質的に去勢されている感じに対して、文字通り身体を張って女たちを守っているらしい、長澤まさみの藪さんという役。あの男前感。これ、まさにフュリオサですよね。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』な感じも本当に素敵すぎる。

長澤まさみ、本当にハマり役。ラストの名乗り合いとか、完全に俺は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を意識してるのかな? ぐらいに思いましたけど。もうフュリオサに見えました。長澤まさみがね。要するに、彼女なりのリデンプション(贖罪)でもあるというあたりも本当、『デス・ロード』ですよね。とにかく、定型的な設定はいっぱい使っていますよ。使っているんだけど、しっかりそこに日本ならではのゾンビ映画としてのオリジナリティー、物語的必然性をきっちり込めているんですよ。そこは本当に偉いと思う。

で、それが極に達するのが、ロッカールームでついつい、もうどうしようもなくなっちゃって、怖いし……っていうんで、主人公の鈴木英雄がロッカーに閉じこもってしまう。原作にも、このロッカーに閉じこもるという場面はあるんですけど、ここで……要は僕、よく言ってますよね。ダメ人間がなけなしの良心や勇気をふり絞って、ようやく立ち上がって利他的な行動を取るっていう話は、それ自体がすごい感動的で。いろんな映画もありますし、僕の大好物な話なんだけども。なけなしの勇気をふり絞るっていうこと自体がどれだけ大変なことか?っていうことにスポットを当てて、そこをこそエモーショナルに、映画的に見せてくれる。これが今回の映画版『アイアムアヒーロー』の本当に名場面で。

要は、「助けに行け、俺! 男だったら助けに行け、俺! ……ダメだ〜! 怖いよぉ〜! 助けに行け、助けに行け、俺! ……ダメだ、怖い〜!」って。このね、もう本当に人間的としか言いようのない煩悶の繰り返しが、こんなに感動的に、まさに原作にはない映画的な見せ方をしているしですね、さらにそこで主人公が、それでも!って立ち上がる時に、このロッカー内の鏡で自分の顔を見てっていう。要するに、感情の流れの作り出し方とかも非常に自然で巧みっていうね。ここは文句なしの名場面だと思いますね。ここはもう、僕はほとんど号泣に近いぐらいになっちゃってましたけどね。

で、そこから主人公がついに、さっきから言っている去勢状態を脱し、文字通り”発射”しまくるわけです。もう発射しまくりですね。ブッカケ祭りですね(笑)。クライマックスバトルはもう、ゾンビ映画多しと言えど、ワーッて来た時にどうやって逃げるかっていう話になる映画はあっても、この数全部と対峙する、要するにこの数を全部倒すっていう戦い、消耗戦も珍しいんじゃないかと思うんですけどね。

で、場所を、漫画版はもうちょっとオープンな空間だったのを、トンネル戦に限定したことで、より空間的にも映画的に見えやすい感じになっていたのも非常に上手いと思いますし。なによりも、さっき言ったようにアクションと人体破壊のバリエーション——これは要するに、そもそもそれぞれのZQNをちゃんとバリエーションをもって作っているし見せているからなんですけど——が、すごく豊かで。延々続く殺しなんだけど、それぞれの殺しそのものにドラマがあるし、面白みがあるという風になっている。このあたり、モールに移ってからね、完全に韓国ロケで。しかも、韓国現地スタッフでやっているそうですけども、このへんの協力。アクションコーディネートとかもそうですけど、最良の結果を生んでいるシーンじゃないでしょうか。見事なクライマックスだと思う。

その上、ラスボス戦まであるっていうね。ラスボス戦まで用意してくれるの!って。ねえ。ゾンビ映画でラスボス戦っていうのは結構、どういう設定なんだよ?ってなりかねないけど、ちゃんと納得できるラスボスが用意されていて。「サービス満点か!」っていうね。しかもそのラスボスの造形。形がね。要するに、ラスボスの造形が非常に男根的っていうか、ファルス的じゃないですか。それなのも、要するに去勢された男 対 ザ・男根との戦いっていうのも、ちゃんとこの物語の最後の戦いとして相応しい構図になっているということで。もう大興奮でございますね。

で、もう最後にね、有村架純の一言がくればもう、泣きますよ。それは、私は。ということで、ほぼ! ほぼほぼ文句なしです。ほぼほぼ。あえて……これはもう本当にあえてですよ。本当にあえて言えば、最初に映画に出てくるZQN第一号になる彼女のてっこさん。片瀬那奈さん演じているてっこ。漫画だと非常に、本当に優しい彼女っていう感じになっているという。でも、この映画でもね、やっぱりラブラブモードに戻ったところでの、ゾンビになってしまうので。まあ、悲しい話なわけじゃないですか。なので、要するにそのてっこちゃんと別れて逃避行に行きますよね。

その後に、あまりにも、たしかにジェットコースターな展開が続くので、気にならないっちゃ気にならないんだけど、たとえば、あの神社で一息ついている時とかに、ちょっと主人公、1回ぐらいは彼女が死んじゃった、もしくは彼女を殺したということに1回ぐらい、思いを残すところはあってもいいんじゃないかなと。なんか、ちょっと薄情に見えるぞっていうね。彼女のことなんかすっかり忘れちゃって、その女子高生の胸元を見て、唇を見て、「お、おう……」なんて言って。「お前、なんか呑気だな、この野郎!」みたいな。ちょっとそこはね、もうちょっとここで、てっこのことを思ってしょんぼりとか、あってもいいんじゃないかなと。

あと、女子高生の比呂美ちゃんね。要は、特殊体質。さっき「『28週後…』的な」って言いましたけど、そういうことですよね。なんだけど、要は僕らはさ、いろんなゾンビ映画を見ているから、「ああ、『28週後…』で見たあの理屈。ああいうことなんだろうな」って思って汲みとってあげられちゃうし、原作だとその後でどういう理屈なのか。来栖っていう新体質の人類が出てきて……っていう説明が出てくるんだけど。少なくとも、この映画の中だと、比呂美ちゃんっていうのの体質に関して、理屈がちょっとなさすぎて。「そういうこともあるらしい」で流されちゃっているのがちょっと不親切っていうか、ちょっと雑ではあるかな? という風には思ったりしましたね。

ただね、演じているのが、いいっすか、みなさん? 有村架純ですよ。有村架純なんですよ。したらアンタ、それはもう無条件で、「俺が君を守る!」(笑)。これはもう、全員が言うでしょう。それは。「俺が君を守る!」って言いますから。それはね。ということでございます。あの、実は暗い過去があるっぽいって、映画だとちょっとほのめかされる程度ですけど。その実は暗い過去があるっていうのを、有村架純さんの全部悟ったような感じっていうので表現できているし。あと、母性的な器のデカさみたいなのも感じさせるあたり、もう見事な……もう有村さんがそこにいればいいんです! もう。「後半空気」とか言ってるけど。韓国ロケで、自分は寝っ転がっているだけの役で、やることがない件は有村架純さん自身も気にしていたってインタビューで言っているんだから、そういうこと(「後半空気」とか)言うなよ! 「彼女は俺が守る!」(笑)

まあ、大泉洋さんはさすがのもんでございました。本当にね。他のキャストも本当に素晴らしくて。漫画家役のマキタスポーツさんのヤダみとかも本当に完璧ですし。あと、アシスタントのいちばん偉い人のドランクドラゴンの塚地さん。ああいう役をやらせると、もう最高。あと、変形する時の顔とかがやっぱり、ZQNになっちゃう瞬間の顔とかもあの顔でよかったなって。ちなみに、主人公の英雄役。ドランクドラゴンの塚地さんが出ているんだったら、ドランクドラゴンの鈴木(拓)さん。本当に文字通り名前も同じだし、イケるよね?っていう。リアル鈴木英雄はドランクドラゴン鈴木さんじゃないのか?っていうね。「その気になれば人を殺せる」って言い張っているところも近いっていう(笑)。

監督の佐藤信介さん、これまで『図書館戦争』とか『万能鑑定士Q』とかね、いろいろ撮られていて。僕は『GANTZ』の前編の方は結構嫌いじゃなかったりするんですけど。まあ、いろいろ撮られていて、それぞれにやりたいことがあるのはわかるけど。たとえば『図書館戦争』だったらガンアクション。そういうのをちゃんとやろうとしているのはわかって、意欲は毎回ある人だなとは思っていたんですが、なんならこれまでの作品はすべて、この映画版『アイアムアヒーロー』のための練習だったのか? というぐらい、本当に段違いの、ケタ違いの完成度だと。もう、本気の本気を出せばここまで来たんだっていうことだと思います。

まあ、東宝もよくこれね、踏み切ってやりましたし、よくR-15で済んだなっていう感じだし。作った人全員に、その志に拍手をおくりたい気持ちで一杯でございます。本当に、グロいのがダメじゃなければ、いま僕、シネコンでかかっているような映画で、「普段あんまり映画を見ないんですけど」っていう人に勧めるとしたら、『ズートピア』か『アイアムアヒーロー』です。っていうぐらい、おすすめ。めちゃめちゃおすすめ。最高でございました。ぜひ劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 〜 来週の課題映画は『ディストラクション・ベイビーズ』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸 『ディストラクション・ベイビーズ』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年5月28日放送

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20160529_ディストラクション・ベイビーズ

 

宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

TBSラジオで毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。
その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸が毎週ランダムで決まった映画を自腹で観に行き、評論する「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ここではその文字起こしを掲載しています。

今回評論する映画は、『ディストラクション・ベイビーズ』(2016年5月21日公開)です。

▼ポッドキャストもお聞きいただけます。

 

 

宇多丸:
今夜扱う映画は、先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して当たったこの映画、『ディストラクション・ベイビーズ』。

(BGM:エンディングテーマ、向井秀徳『約束』が流れる)

柳楽優弥、菅田将暉、小松菜奈、村上虹郎ら若手実力派キャストが集結。

……ちなみにね、菅田さんはPUNPEEが指導で(ファンタのCMで)ラップして。村上虹郎さんはMummy-D指導で(文部科学省のWEBムービー『Dear Father』で)ラップして、というね、若手二大ラップ俳優揃い踏みというのがありますけどね。と、いうのはおいといて。

……若者の無軌道な暴力とそこから始まる暴走を描く青春群像劇。監督は、インディー映画出身の新鋭・真利子哲也監督。今回がメジャー長編はじめてというね。でも、インディー業界では「最後のビッグネーム」なんて言われてますけども。小さな港町でケンカに明け暮れていた青年・泰良(たいら)は、繁華街で裕也という男と出会い、少女・那奈も巻き込んで行き場のない暴力の旅へと向かう……ということでございます。

この『ディストラクション・ベイビーズ』を見たリスナーのみなさま、通称<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールなどでいただいております。ありがとうございます。メールの量は普段よりは量としてはちょっと少なめなんですけど、現在は都内はテアトル新宿1館のみでの公開ということを考えると、これは多めと言っていいんじゃないでしょうか。拡大公開も決まったらしいですけどね。

その内訳なんですが、賛、つまり褒めている方が6割。惜しい、明確な否定的意見が残り2割ずつ。最近このコーナーで取り上げた映画の中では賛否が分かれた方です。褒める意見としては、「主役の泰良が振るう暴力には理由もなく、意味もない。そこがすごい」「主演の柳楽優弥がとにかくすごすぎ」などなど。一方、いまいち派の意見としては「登場人物全員感情移入できない」「暴力によるダメージが描かれないのでリアリティーがいまいち伝わってこない」などなどがございました。代表的なところをご紹介いたしましょう……。

ラジオネーム、メザシのユウジさん。「宇多丸さん、こんばんは。東京に住んでいるメザシのユウジと言います。『ディストラクション・ベイビーズ』、見てきました。冒頭の町をうろつく柳楽優弥さん演じる泰良がくるりと振り向いた瞬間の『あ、こいつはヤバい』という表情が最高……」。あ、全く実は僕、同じ表現をしようとしていた(笑)。「柳楽優弥の顔を見ているだけでも楽しい作品でした。この映画では祭が重要なポイントだと思います。人々が祭に夢中になるのは日常や常識を離れた非日常だから。この映画の泰良は行動や暴力が非日常そのもので、その非日常的な暴力性に惹かれてしまったのが菅田将暉さん演じる裕也なのだと思いました。

『ディストラクション・ベイビーズ』というタイトルのベイビーズは、子供は創造するより壊す方が好きで、子供の純粋さは決して善ではないということだと思います。純粋さ故の破壊衝動。大人になれば自制するその衝動を、いつまでも全開で周りにぶちまける泰良は、まさに純粋な暴力そのものでした。自分や他者を破壊することが楽しくて、その極みを目指すからこそ、最後に自分自身に対して『まだいけるだろ?』と語りかけたのでしょう。見終わった後にスカッとするような映画ではありませんが、心に強く残る作品になりました」ということでございます。

(メール紹介、中略)

……ということで、いってみましょうかね。『ディストラクション・ベイビーズ』。テアトル新宿で私も二度、見てまいりましたけど。まず、菅田将暉さんファンってことなんですかね? 結構若い人たち中心に、単館っていうのもあるんだけど、結構入っていて。で、いいなと思ったのは途中、はっきりと大爆笑に劇場が包まれる瞬間とかがあってですね。具体的には劇中、途中で主人公がケンカを無差別に売りまくるんだけど、その被害者的な人ですよね。3人組がケンカを売られる場面があって、真ん中の、実際には殴られたりはまだしていない、割と背が低めの男性がいて。で、その横の友達2人がいきなり殴りかかられて倒れちゃっているわけですよ。

で、「おい、大丈夫か!?」って言いながら、その男性があまりの理不尽な事態に思わず、「な、なんでこんなことになるんだ〜!?」って口走って。その瞬間、たぶん劇場全体が「そりゃそうだ」っていう感じで、ドーッと爆笑に包まれて。すごいいい雰囲気。ちなみにこれ、脚本にはないセリフなので、たぶんあの方がアドリブでパッと言ったセリフでしょう。たまんないですね。あの方の佇まいとかも含めてもう、爆笑の瞬間でした。ただ、その後の……後ほど言いますけど、爆笑に包まれたその直後に、最大のドン引き展開があったりとか。褒めてますけど、ちゃんと引くところはしっかり引く雰囲気ができていて、なかなかいい雰囲気の劇場だったという感じでございます。

で、いま言いましたけど、いい意味でというか、意図して……要するに先ほど、「不快だった」って感想がありましたけど、意図的に引かせるタイプの映画です。だから好き嫌いが分かれたとしても、そもそも引かせること、ある程度不快に感じさせることを意図したタイプの映画ですよね。まずもう、主人公が、外側からは理解し難い、ほとんど理解不能な存在っていうね。で、まさにその「分からなさ」っていうことが狙いでもあるタイプの作品ですからね。ほとんどセリフもないし、動機だの、内面的葛藤だのも、まあ全く明快には示されないまま、ただひたすらケンカ、暴力の対象を求めていく、ということでございます。

要するに、完全に社会規範の枠組みの外側、いわゆる「基地の外側」という表現が相応しい。アウトサイダーってよく言ったもんで、社会の枠組みの本当に外側にいる男。で、その理解し難い存在っていうのが巨大な中心として真ん中にドンって置かれていて、その周りを、主人公とは対称的に、暴力イコール支配関係、権力構造、あるいは、暴力がコミュニティーへの忠誠度を測る、通過儀礼としての暴力であるとかね。さっきのメールでもあったとおり、祭っていうのもそうですけど。とにかく、言ってみれば、これら「社会化された暴力」、我々が生きているこの社会の中に暴力は当然あるんだけど、そこで我々は社会化された暴力の中に生きている。もしくは、その社会化された暴力の磁場に否応なく引き寄せられる、もしくは、社会化された暴力から離れて非社会の暴力の方に引っ張られていってしまう存在。

とにかく、ドーンと真ん中にある、“理解し難い巨大な存在”としての主人公の周りを、社会化された暴力の磁場にいる、より身近で、言っちゃえば“小さい”キャラクターたち、小さい人物たちが右往左往するという、そういう作りなわけですよ。で、この分からなさとか異物感っていうのをそのままでゴロンと投げ出すこの感じ。あとは各自それぞれが考えてくださいね、というような作りは、真利子哲也監督の出自であるところの、自主制作映画とかインディー映画のテイストだと思うんですよね。決して分かりやすい作りではないけど、それ自体がある種の狙いであり、価値であるというのは。

ただですね、同時にこの『ディストラクション・ベイビーズ』、題材とかタッチは非常に荒々しく生々しいものなんだけど、同時に、僕はこう思うんですよね。異常に華があるスター映画でもあると。要するに、荒々しく生々しい、よく分からないゴロンと投げ出されるようなインディー映画のテイストなんだけど、同時にものすごいメジャー感があるスター映画でもあって。実際に、若手実力派のオールスターキャスト状態ですよね、はっきり言って。池松壮亮さんの使い方とか、めっちゃ贅沢じゃないですか。でも、あんなチョロっと出るだけでも、いいですよね。やっぱりね。

で、まあそんな豪華な状態だし、加えてですね、真利子哲也監督の過去作をぶっちゃけ僕、『NINIFUNI』ぐらいしかちゃんと見たことがなかったんだけど……ぶっちゃけ、もう言っちゃいますけども、監督ご本人のご厚意で滅多に見られない8ミリ時代の『極東のマンション』とか『マリコ三十騎』の映像を拝見することができまして。で、ずっとそのキャリアを順に追っていくことができたんですけど。まあでも、言っておくけど自腹で買っている分の資料は自分で買っていますよ。特に『イエローキッド』は藝大大学院の修了作品のDVDだから、すげー高かった(笑)。

それを買ったりなんかしてますけども、とにかく全作品を見て宇多丸が思ったのは、真利子哲也監督の過去作全部と比べても平たく言っちゃえば、要は鬱屈したものを溜めこんだ<個>から見た、対世間の関係っていうかね。だいたい、鬱屈したものを溜めこんだ人と対世間の関係性っていうのが描かれてきているんだけど。今回の『ディストラクション・ベイビーズ』は、より鬱屈の溜めこんだ個と対世間の関係が、外向きっていうか。要は、対世間に対して直接的に攻撃を仕掛ける内容なため、ひょっとしたらそれは、まさにこれからメジャー映画界という<外>に打って出る真利子哲也監督自身のスタンスが無意識的にでもシンクロしたのかもしれないですけども。

とにかく、鬱屈したものを内側に溜めこむんじゃなくて、本当に外にストレートに……これ以上ないぐらいストレートにぶつけていく内容のため、言っちゃえばめちゃめちゃ過去作に比べて抜けがいいというか。もともと全作品に、どれだけ鬱屈したものを描いていても、毎回ユーモアみたいなものが、毎回笑っちゃう感じっていうのが絶対にあるんだけど。今回は特にやっぱり抜けがいいので、一種のキャッチーさを獲得しているというか。いままでと比べて圧倒的に、非常にキャッチーになっているなと。つまり、俗っぽい表現をしてすみませんが、インディー映画ならではの異物感みたいなもの、分からなさ感みたいなもの、不親切感みたいなものと、メジャー映画ならではの華とかキャッチーさっていうのがちょうどいいバランスの一作だなという風に僕は思いました。

すごく見やすいし、ちゃんとある種の深みもある、みたいな。すいませんね。俗っぽい言い方でね。で、まあまずはなにしろ、とにかく柳楽優弥ですよ。これ、主演が誰か違ったらまた全然評価が違ったんじゃないかな? とにかく、柳楽優弥ですね。もともとね、天才子役として『誰も知らない』で登場しましたけど。彼の本当に、演技っていうか佇まいっていうか……たとえば目つきとか体つきとか、あと服のね、服もなにか物体感がある、なんか湿り気と不潔さを帯びて、服さえも肉体の一部として物体感があるような、あの服の着方とか。もちろん、ケンカのアクション、ファイティングスタイルも含めて、つまるところもう彼の映っている存在感全体が、とにかく得体が知れない、理解し難いけど圧倒的であることがわかる。

なんかわかんねえけど、すげーことはわかる、みたいな圧倒的感っていうのが、とにかく今回の『ディストラクション・ベイビーズ』の最大の魅力であることに異論を唱える人はいないんじゃないかなと思います。とにかく柳楽くんが圧倒的だし、ある意味柳楽くんで成功しているっていうかね。だからひょっとしたら、他の人が中途半端にやっていたら目も当てられない映画になっている可能性はあると思うんですけどね。とりあえず、この映画の前半は彼が、劇中で名前は呼ばれないんだけど、主人公。一応役名は「泰良(たいら)」っていうね。「たいら」、それはどうしても、『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンを連想したくもなるようなネーミングなんだけど、まあ泰良っていうこの男がですね、とにかくひたすら前半はもうしつこくしつこくケンカを重ねていくわけです。

この「しつこく」っていうところがポイントなんだけど。ここは正直、実人生で怖い目にあった時のこと……僕が、私、宇多丸個人が実人生で、街中で怖い人から怖い目にあった時のことを何度か思い出して、背中からゾワゾワゾワ〜ッと全身に鳥肌が走るぐらい、恐怖を思い出してしまう瞬間が何度もあって。たとえばですね、向井秀徳さん。いま、ZAZEN BOYSですけども、の、ノイジーな音楽。もちろん、『Destruction Baby』っていう曲がナンバーガールの曲にあって、そこから(映画のタイトルが)来ているわけです。それで向井さんを呼んできて、オリジナルで曲を作っていて。向井秀徳さんのあの、ちょっとフリーなドラムと、ギャギャーン♪っていうノイジーなギターのあの音楽に乗せて、舞台は松山市ですよね。松山の町中を、要は獲物を求めて主人公が徘徊している。

その主人公の背中からずっとカメラが1ショットで、長回しで追っていくという非常に不穏な1ショット1カットがあるんですけど。これ、真利子監督がインタビューで、「登場人物の背中を追うショットを前の作品、ももクロ出演の『NINIFUNI』でその撮り方をして、その感覚を掴んだので、その手法を……」というようなことをおっしゃっているんだけど。だとしたら、これはちょっと余談ですけど、『NINIFUNI』の共同脚本は竹馬靖具さんなんですよ。竹馬靖具さんはこの番組で『今、僕は』という作品をシネマハスラーで2009年3月に扱っていますけども。『今、僕は』のカメラワークが、まさに後ろから登場人物をずーっと追っていくっていうものなんで。結構、『今、僕は』の竹馬監督の影響も大きかったりするのかな?っていうあたりは真利子さん、いずれ話を聞く機会があったら聞いてみたいあたりですけど。

とにかく、その背中からずーっと追っていく1ショットから、先ほどのメールに本当にあった通りです。ずーっと1ショット、背中で追っていく。なんだなんだなんだ? と、不穏な感じがする。そこでふっと振り返った瞬間に、フッとギターの音が止まって……もう、そのツラ一発。その顔一発で、もうさっきのメールのとおりです。「あ、こいつヤバい。あ、こいつヤバい。ヤバい……」って。やっぱね、映画は顔だな!って改めて思う。もう、この顔一発で「うわー、ヤバい」って。「ヤバい」っていうのはだから、こいつの役柄上危険っていうのもあるけど、フィルム上に映っているなにか特別なものっていう意味での「ヤバい」ですよね。映画は顔だっていう意味で、こいつはヤバいって思ったりもしたんですけど、とにかくヤバいやつが振り返って、獲物をずっと物色している。

で、ギターを持ったそこそこタッパがあるような人と……要は、そこそこ戦って手応えがあるような相手を選んでいたんでしょうね。振り返った時に柳楽くんの「こいつに決めた」っていう。「今日、こいつにするか」っていう、この決めた瞬間。あの決めた瞬間のあの顔が、僕は町とかクラブで面倒くさい人に目をつけられてしまった、「あ……み、見られちゃった……」っていう。あん時の感じを思い出してもう、ゾゾゾゾゾ〜ッて来るしですね。で、もっとゾゾゾゾゾッてされたのは……すいませんね。やっぱり個人の暴力に対する感触っていうのがすごく喚起される作品なので、ちょっと個人の話をさせていただきますけども。

もっとゾゾゾゾゾッて鳥肌が立っちゃったのは、今回の映画だと、劇中で彼が松山市に行ってから最初のストリートファイトがあって。で、一旦決着がついた。もう観客が、「もう相当やられちゃっているし、まあこれは一旦終わりでしょう」と誰もが思う。相手も思う。我々も思い込んでいる。その場所へ……「いやー、変なやつに絡まれちゃって災難でしたね」って言っているそこへ、まだしつこく乗り込んでくる、あのくだり。要は、「えっ、まさか? ま、まだやるの!?」っていう。このしつこさこそが本当に大事で。要は常軌を逸したしつこさに、こっちはちょっと戦意を喪失しちゃうっていうか。「えっ、いつまでやるの、これ?」みたいな感じがしちゃう。

で、一旦戦意を半分喪失しちゃうと、もう絶対に負けるしかないっていうこの感じ。私ですね、とにかくいろんな怖い場面を思い出したんだけど。昔、渋谷のセンター街の入り口で変なおじさんに因縁をつけられて、渋谷の通りを延々と追い回された時のことを……で、やっぱりそのおじさんも、「もう大丈夫だろ。もういい加減……」っつったら、後ろからガッシャーン、ガキーン! 「うおっ、まだ来てるーっ!」っていう。怖い思いをしてね、あれを本当に思い出して。ああ、そうなんだよな。こっちのルールと違う追いかけられ方をするんだよなっていう。最終的に僕、パルコのトイレの中に入って、トイレの中に隠れてやり過ごしたんだけど。ホラー映画の定石で言ったら、お前、いちばんそこに隠れちゃダメだからな!っていう(笑)。

ねえ。全然ホラー映画から学んでいない、みたいなのがありましたけど。とにかくそういうのを思い出して怖かった。だから、非常に僕は、ああいう感じのケンカにしつこい人っているなと思って、すごくリアルに怖かったんですけど。で、ですね、そこからしつこくいっぱいファイトシーン、ケンカシーンがあるんですけど。これがまた、すごくケンカしているところを道端で、そばで本当に目撃しているような生々しい撮り方をしている。監督は「YouTubeにあがっているケンカ映像とか、そういう感じにしたかった」って言っているんですけど。

まあ、基本1カットなわけですね。で、やっぱり振り付け然としていないし。あるいは、カットを割ることでなんかリズミカルだったり、要するに一瞬たりともスタイリッシュな戦いじゃない。実際のケンカっていうんは、たとえばやたらと体ごとぶつかっていって、相手をとりあえず倒すでもなんでもいいんですけど。とにかく、あんまりかっこいいもんじゃない。非常に泥臭さいものになりやすいわけね。地べたにゴロゴロゴロゴロなったり、膠着状態になりやすいですしね。非常に泥臭いリアルなケンカシーン。

あと、音。これ、アクション映画でやっぱりバイオレンス度みたいなのを増そうと思うと、基本、音は足すものなんですけど。ドスッ!って。この映画だとやっぱり、パコン、パコン、パコン! みたいな。骨の表面上に当たっている感じの音とかもちゃんと鳴らすので、むしろ、「いや、痛い痛い痛い……」って。あと、殴る側も——柳楽くん途中で拳の骨が出ちゃってましたけど——殴る側もこれは痛いであろうという痛み感も伝わってきて、ああ、痛い。これはリアルだなっていう感じにちゃんとなっていると。

で、主人公がとにかく戦うことを止めないから、前半ですね、結構なテンポでショッキングなファイトシーンが詰めこまれているわけです。だからすっごいテンポが速く見えるんですよ。前半は本当に。10分に1度どころじゃないよね。5分に1回ぐらいはケンカが始まる感じなので、まずはスピード感によってグイグイ見れちゃう。割とすんなりそこは引き込まれちゃうと思います。またですね、このケンカのしつこい繰り返しなんだけど、この主人公はですね、ちゃんと前のファイトから学習をしてですね、次のファイトに生かすんですね。次のケンカに。要は、ファイティングスタイルがどんどん進化していくわけですよ。

なので、見ていて飽きないっていうか。正直、やっぱりちょっと楽しくなってきちゃう。つまり、格闘映画としても見せ方としてフレッシュだし、格闘映画としてまず前半部、単純にそういう意味でも面白いという風に思ってしまいました。たとえばね、フットワーク、間合いの取り方。最初はやみくもにぶつかっていくだけだったんだけど、フットワークで間合いを取る相手が登場して。次からはちゃんとフットワークを使って。で、間合いを十分に取った上で、相手の隙をついての、チン(顎)への先制ワンパンチでボンッて。要するにゴンッて、顎をポーン!っていかれると、クラッ、ステーン!ってね。『クリード』のあそこのところでストーン!っていきましたよね。頭からストーン!って倒れるような、ああいう感じになっちゃう。

で、チンへのワンパンチノックアウトの必殺技を身に付ける、みたいな感じでね。結構進歩がある。ということで、こう言っていると、まるで少年漫画の主人公みたい。「オラ、もっと強い相手と戦いてぇ!」みたいな。でも実際、スポーツ的な意味で何かが好きで好きで、目をキラキラさせて、より強い敵に挑んでいって、負けてもちゃんと学習して、訓練して、次には勝つ!っていうね。しかも、ストイックですからね。「あと3回はやらないと……」って。3回やるって決めているとか。ということで、純粋で向上心に満ちた人は、やっぱりどこか見ていて清々しいっていうところは実際にあるわけです。

で、どんな相手、どんな状況でも暴力を振るい続ける主人公っていう、その行くところまで行っちゃう感じにむしろどんどんワクワクしてきちゃうっていう話で言うと、タッチとか内容は全然違うんですけど、ニコラス・ウィンディング・レフンの『ブロンソン』。トム・ハーディが出ていますけども、『ブロンソン』をちょっと思い出したりしましたね。で、あの『ブロンソン』もやっぱり国家権力に立ち向かっていっちゃうから、めちゃくちゃなんだけどすごいっていう風にだんだんなってくる。本作の場合も、途中から当然のように出てくる相手が、暴力のプロたちになってくる。暴力団たちが出てくるので、こっちもやっぱり暴力を振るっていても、ちょっと気が楽になってくるわけですね。見ているとね。

そういえばね、あの暴力団もいいですよね。チンピラ2人いて、ちゃんとそこのチンピラの上下感。下っ端の方が戦って……で、下っ端もやっぱりいままでのやつよりは明らかに格上の、一旦鼻をやられても、そんなに油断しない感じとか。で、兄貴分の方はずっと電話を続けている余裕感とか。で、さらにその後出てくる、三浦誠己さんですか。スーツを着た兄貴分がね、明らかに格が違う。「ああ、ボクシングとかやってたんだ」っていうあの感じとか。あと、倒れている人の胸にキックを入れるっていうのはあれ、ケンカ強い人、よくやるみたいですよ。胸を心臓の上からドーン!っていくみたいなの、聞いたことがありますけどね。

まあ、とにかくそんなのも込みで、そういう意味では前半、ある意味楽しく見れるんですね。なんだけど、前半いっぱい、要するにさんざん主人公の暴力のエスカレートを言っちゃえばエンターテイメント的に、私がさっきからはしゃいで言っちゃってますよ。傍観者として楽しんでしまっていると、後半、菅田将暉さん演じる、『そこのみにて光輝く』とはまた違った「犬キャラ」ですね。あっちも犬だったけど、今回はまさに「弱い犬ほどキャンキャン吠える」の典型の犬キャラがですね、まさに主人公の暴力をある種、上から目線で楽しんでいる気になっている。その嫌な感じを、ドン引き必至の一線を越えちゃった感で見せつけてくる。しかも、それがさっき言った爆笑ポイントの直後にやってくる、考えられた構成なんですね。

つまり、暴力を我々が楽しんでしまったその直後に、「暴力ですよ。楽しくないですよ。お前ら、こいつらとそんなに大差ありますか?」ぐらいの感じで突きつけられてくる。我々観客は途端にものすごーく居心地の悪い思いをするという構成になっている。このあたり、非常に対称的なコンビになっていくる、(トルーマン・)カポーティの『冷血』とか。あと、『ヘンリー』もそうでしたけどね。『ヘンリー』なんか、理解不能な実行者と、後から加わったやつが超ゲスな共犯者になってって、ちょっと似ている感じもしましたけど。まあコンビ化してから先、この後半の居心地の悪さ。ここがまた本作『ディストラクション・ベイビーズ』、もうひとつのキモじゃないかなという風に思います。

たとえばね、本来なら完全に同情の対象であるべき、要は拉致されてしまうキャバ嬢。小松菜奈さんが演じてますよ。あのガムテープを剥がすくだりとか、iPhoneにかかってきた電話をとろうとするくだりの熱演とかを含めて僕、小松菜奈さん、いままでのベストアクトだと思います。彼女の決死の逆襲劇っていうのもね、普通に僕、ノワールとしてすごく面白かった展開ですし。で、むしろその彼女が一線を越えていくっていうところに主人公側がむしろ刺激されてしまうというかね。あんだけ他者に興味が無かった男が、唯一劇中で人に質問しますからね。「どんな感じだった? えっ、どう? どう?」って(笑)。

ということで、要は本来なら完全に同情の対象であるべき、被害者であるべきキャバ嬢役でさえ、道義的安全圏には置かれないという作りになっていて、非常に居心地が悪い。実際に「彼女は安全圏へ見事逃げおおせたというわけではないのだ。話の終わりででも」っていう風に監督はインタビューなどでおっしゃってますけども。っていうか、こうしてこの映画について、「いや、暴力が云々で……」と自らは安全圏にいながら言葉を連ねているこの現状、私がやっている行為にまでこの映画は容赦なく指を突きつけてくるわけですよ。だから、「居心地ワル〜い」ってこう、思いながら見るわけですね。

そういう、言わば、さっき社会化された暴力っていう言い方をしましたけど、これは「暴力の社会化」ですね。暴力っていうのを社会的な言葉で飼いならすというか、なにか分かったような気にするっていうようなものを、完全に拒絶する、俺は完全に拒絶する、と。主人公は、要は暴力そのもの。そして暴力そのものは、本当は社会化とかそういうもんじゃないんだぜっていうようなことですよね。だから私がこうやってペラペラペラペラしゃべっているとね……「なんか、ペラペラペラペラ調子こいてしゃべってるけど、なんならお前んちの方、行っちゃうよ?」。この映画のラストショット、ラストシーン、脚本から変えているんですね。この映画のラストはそういう風に僕は思いました。「あ、俺んち来ちゃう……」って(笑)。

画面の下の方に歩いて来るからさ。「こ、来ないで来ないで」っていう(笑)。「あ、すいません、すいません、すいません!」みたいなことだという風に私は解釈いたしました。一方で、ともするとお兄さんのいる非社会的な磁場の方に吸い寄せられていきかねない、村上虹郎さんが演じている弟。その弟が最後の方でケンカをするわけですけど。冒頭、お兄さんが最初にケンカしているのと非常に対になる構図で相手の足にすがりつく構図になっている。

ということで、非常に危ういわけですね。ともすると、お兄さん的になってしまうかもしれないっていうことですけど。そこをなんとか、社会の磁場の方に引きとめようとする、あのでんでんさんのね、非常に幅のある演技っていうのかな。だって、彼だって祭になればね、「関係ねえよ、やっちまおうぜ」っていう話をしているわけだから。彼だって本当は暴力的な人物なのに、社会の側になんとか引きとめようとする。そこには一応誠意もあるということだけど。あそこも非常に素晴らしかったと思いますね。なんか、ある人の指摘で「中上健次っぽい」みたいなことを言われて、ああ、そういえば『火まつり』っぽいところもあるな、なんていう風にも思ったりしました。その祭との絡みとかで。そういう意味では、ちょっと70年代とか……『火まつり』は80年代か。の、日本映画っぽさも、ちょっとあるなと思いました。

あえて言えば、菅田くんの演じるキャラのネット世代、バーチャル世代感みたいなのがやや類型的かな?っていう気もしなくはなかったけど。なんか悪いやつ一方でありすぎるのでは?っていう感じもちょっとしなくもなかったかという感じですが。とは言え、まあさっき言ったように、あんまり構えずに行っても、特にファイトシーンとかフレッシュですし、割とすんなり楽しめるはずですし。後半の居心地の悪さ、インディー的投げっぱなし感。ここを受け入れられるかどうかという差はあるにせよ……だと思います。僕はすっごく面白かったですね。当たり前の話だけど、日本映画、ちゃんとおもしれーなっていう風にばっちり思いました。めちゃくちゃおすすめでございます。劇場でぜひ、ウォッチしてください。

(ガチャ回しパート中略 〜 来週の課題映画は『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸 『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年6月4日放送

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宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。

     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

TBSラジオで毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。
その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸が毎週ランダムで決まった映画を自腹で観に行き、評論する「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ここではその文字起こしを掲載しています。

今回評論する映画は、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2016年4月29日公開)です。

▼ポッドキャストもお聞きいただけます。

▼新サービス「TBSラジオCLOUD」で聞くにはこちらから(無料です)。

宇多丸:
今夜扱う映画は先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して当たったこの映画。本日、光岡(三ツ子)先生もそこにいるし、アメコミ大好きPUNPEEも「楽しみにしています」とか言ってプレッシャーをかけてきて、本当にやりづらい! 『シビルウォー/キャプテン・アメリカ』。

(BGM:テーマ曲が流れる)

マーベルコミック原作の『キャプテン・アメリカ』シリーズの第3作。マーベルヒーローが集結した『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』の1年後を舞台に、キャプテン・アメリカとアイアンマンという二大ヒーロー同士の戦いが描かれる。監督はアンソニー・ルッソ&ジョー・ルッソ。主演はクリス・エヴァンス、ロバート・ダウニー・Jr、スカーレット・ヨハンソンらというかね。枚挙にいとまがないというか、オールスターキャストでございます。ということで、まあね、ようやく当たったということでね、みなさん『シビルウォー/キャプテン・アメリカ』をご覧になった方も非常に多いでしょうけど。

実際、この番組で扱ってくれという声も本当に多くてですね、この映画を見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールなどでいただいているんですが、とにかくメールの量が本っ当に多い! 本当に、正真正銘、今年の最多かもしれません。賛否でいうと賛が8割。普通とダメが2割。「マーベルシリーズが積み上げてきたものが結集したシリーズ最高傑作」「対決する2人のヒーロー、どちらの言い分にも納得できる。あと、アクションがとにかく最高」「たくさんの要素をシンプルにまとめていて見やすかった」など絶賛の声、多し。一方、「キャラクターが多すぎてそれぞれが薄まってしまった」「ストーリーがあんまり進まない」「キャプテン・アメリカが行動する動機に納得ができない」などの否定的意見もございました。

代表的なところをご紹介いたしましょう……

(メール紹介、中略)

ということで、『シビルウォー/キャプテン・アメリカ』、ようやく当たりました。なかなかガチャ当たらずで、公開規模がもうだいぶ縮小してからようやく、ね。ずっとガチャのカプセルに入れていたんですけど。もちろん、カプセルが当たる前に私は見ていたんですけど、「当たったらまた見よう」とか思ってボケッとしている間に、IMAX 3Dとか上映が終わっちゃったりして。結局字幕2Dでしか……でも3回、一応見てまいりましたけど。でも、すいません。IMAX 3Dを見ていないのは痛いな。IMAXで撮っている場面とかありますからね。

ということで、先週ようやくリスナーメールで当たりました。で、そのメールでもね、「童貞(※キャプテン・アメリカのことを指していると思われる)はお嫌いですか?」という非常に厳しいご指摘、お叱りの声をいただきましたけど。嫌いじゃないですよ。マーベル・シネマティック・ユニバース。もう、このマーベル・シネマティック・ユニバースの説明はいいですね。とにかく、好き嫌い、評価とかは別にしても、間違いなく現行のエンターテイメント映画の世界の中ではもう台風の目っていうところまで来ましたよね。のちほど、光岡先生をお招きしてのアメコミ映画特集で詳しくそのへんもうかがえると思うんですが。

なんだけど、とにかくマーベル・シネマティック・ユニバースの作品群、他はガチャでも割と当たっていて。『アイアンマン』なんか全部当たっているし、『アベンジャーズ』も2作とも当たっているし。『(マイティ・)ソー』は当たってないけどね。っていう感じなんだけど、“キャップ”ことキャプテン・アメリカ。今回の『シビルウォー』を含めて3作。これまでの2作は全然(ガチャが)当たってなくて。
今回も下手すると3作とも当たらないことに、確かになりかねなかった。でも実は、マーベル・シネマティック・ユニバースの中でもこのキャップ、キャプテン・アメリカの物語ってある意味背骨っていうか、結構重要な芯になっていますよね。いまやね。

っていうのも、そもそもキャプテン・アメリカ。彼こそがマーベル。アベンジャーズとかのいろんなメンツの中でいちばん、最もアメコミヒーローらしいヒーローっていうか。アメコミヒーローのちょっと原型的な形に近いというかね。まあ、DC(コミックス)で言えばスーパーマン的なというかさ。で、1作目。『ザ・ファースト・アベンジャー』。ともすると、ねえ。キャプテン・アメリカっつって、もともとは戦意高揚的なキャラクターですから。ただ時代錯誤的にもなりかねない、「正統派アメリカンヒーロー」を、2011年の映画版1作目『ザ・ファースト・アベンジャー』は映画のスタイルとして、第二次大戦の戦争アクションものみたいな感じで、適度に現代的再解釈を加えつつ、でも割とストレートかつ現代風にちゃんとやっていた。再解釈も適度にやり過ぎず入れていて、僕は「『キャプテン・アメリカ』でこんなちょうどいい着地があるんだ、すごい!」っていうぐらい感心しました。非常に好きな1作目なんですけども。

ちなみに脚本は1作目から今回の『シビルウォー』に至るまで、3作通じて同じコンビ。クリストファー・マルクスさんとスティーヴン・マクフィーリーさん。この人たち、いろいろ書いているんだけど、『ペイン&ゲイン(史上最低の一攫千金)』もやっていますね。僕のマイケル・ベイ最高傑作、『ペイン&ゲイン』の脚本もやっていますけども。で、そのキャプテン・アメリカ、もともとは正統派アメリカンヒーローだったんだけど、時代の変化によって彼自身の思想、信条みたいなものはブレていなくとも……というよりは、彼自身がブレていないからこそ、ある意味時代の変化によって180度立場の転換を余儀なくされていくっていうのが、2作目にしてマーベル映画史上でもトップクラスの傑作なのは間違いないでしょう、『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』。この1個前ですね。2014年。

で、そこから今回の『シビルウォー』に至る流れ、というのがあると思います。まあ要は、本来だったら政府側の意向に沿って活動しているはずのキャプテン・アメリカが、アメリカの理想というところに忠実であると、今度は政府と敵対する側になってしまう、というあたりですね。つまり、そのキャプテン・アメリカの歩みっていうのはそのまま、ある種アメコミヒーローのあり方の変遷史っていうか。もともとは結構無邪気に、それこそ無邪気に“勧善懲悪”していたんだけど、もうそうもいかなくなってきた、という流れをキャプテン・アメリカ自体が体現しているということですね。

その意味でも、さっき言ったようにマーベル映画の中でも非常に物語的な芯をなしているという。1個芯が通っているとしたら、キャプテン・アメリカの物語であろうと。で、特にやっぱりいま言った通り、とにかく『ウィンター・ソルジャー』っていう作品が素晴らしすぎてっていうことですね。監督に抜擢されたアンソニー&ジョー・ルッソ兄弟という方。いろいろと撮られていたりするんだけど、おそらくは、テレビシリーズ的な群像劇のパズルをうまくまとめあげて演出できる手腕を買われたっていうことだとは思うんだけど。まあ『アベンジャーズ』のジョス・ウィードンとかもそうなわけですけどね。

言うまでもなく、そのテレビシリーズ的な群像劇のパズルっていうのはいま、マーベル映画をはじめ多くの……まあ、『スターウォーズ』の今後のフランチャイズもそうでしょうけど、間違いなく、今後どんどんエンターテイメント映画はそっちに振れていくであろうという流れ。これ自体がいいことか悪いことかっていう判断はいま、この時間では置いておきますけども。まあ、その手腕を買われたんだとは思うけどね。長編デビュー作になるのかな、この『ウェルカム・トゥ・コリンウッド』っていう犯罪映画も、まあコーエン兄弟風群像劇っていう感じではありましたけども。

この兄弟、なにが監督として素晴らしいか。特に『ウィンター・ソルジャー』を手がけて素晴らしいって、後ほどまた詳しく言いますけども、アメコミ原作ものとして求められるそのツボに割ときっちり応えていくと。で、ある種のジョス・ウィードン的な「交通整理力」ですね。「この要素とこの要素とこの要素を入れ込んでね。このキャラクターを立ててね」って、そういう交通整理力、ジョス・ウィードンは半端ないですけど。そういう力に加えて、それらをしっかり、とにかく「映画」にしていく。ものすごい映画にしていく力があるんですよね。

たとえば、やっぱりアクションシーンの設計、見せ方ですね。本当に上手いという感じだと思います。特に『ウィンター・ソルジャー』はですね、ロバート・レッドフォードのキャスティングにも表れている通り、全体としては70年代の硬派なポリティカルサスペンス風タッチなわけですね。それがですね、さっきちょっと言ったルッソ兄弟のサスペンス、アクション演出に加えてですね、物語上最終的に浮かび上がる、敵であるヒドラ(ハイドラ)党っていうのが、非常に現代的なファシズム像に進化を遂げていると。そしてそれが、大人が見てアホらしくない敵像としてちゃんと描けている。『ウィンター・ソルジャー』は。この感じが、全体のルッソ兄弟の演出の硬派な、硬質なタッチとはまっていて、本当によかったと思います。

という意味で、『ウィンター・ソルジャー』は「アメコミ映画」としても、「映画」としても……ねえ。アメコミ映画としても、映画としても、非常に高い完成度に達していたということだと思います。このね、「アメコミ映画として」っていうのと、「映画として」っていうのが分離しているから即ダメっていうことでは、ないんですよ。たとえばそれが分離しているタイプに、ザック・スナイダーという人がおりまして、はい。ザック・スナイダーさん。これは、ダメだって言ってるんじゃないよ。ザック・スナイダーさんは、やっぱりアメコミ的な<キメ画>。限りなく止め画ですよね。キメ画の連なりがやりたい。だから、動きの連なりじゃないわけです。つまり、日本のマンガと違う、アメコミのコマの連なり感がありますよね。アメコミのコマの、あの動きの感じを映像にそのままトレースしたのがザック・スナイダーの映画なため、まあアメコミの映像化っていう意味では、これが忠実なんですよ。だから、彼にとってはやっぱりあれは正解なんだよね。きっとね。

なので、どちらが偉いと決めつけているわけではありませんが、とにかく対照的ですよ、本当に。今回の、それこそ一般市民に被害が出ちゃったからなんとかしましょう、なんていう物語の発端は、本当に似ているんですよ。『バットマン vs スーパーマン(ジャスティスの誕生)』と。問題設定は似ているんだけど、非常にやっぱりアプローチは対照的。

ルッソ兄弟はあくまでもやっぱり、たとえばアクションだったらキメ画の連続で、間はまあまあまあ……みたいなことではなく、ルッソ兄弟はアクションシーンを「動き」と「空間の連なり」として、つまりは“映画的”に構築していくわけです。それをシーン全体として構築していく。そうするとやっぱり、あくまでこれは映画としての評価としての差が出るのは、これはしょうがないよねっていうことです。目指しているところが違うんだから、ということだと思います。

ただ、その意味では今回の『シビルウォー』、前作の『ウィンター・ソルジャー』に比べて、処理しなきゃならない要素が何倍かに増えている。いま考えれば、『ウィンター・ソルジャー』はすごくシンプルな話で済んだわけだけど、今回は『ウィンター・ソルジャー』の続編というだけではなくて、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』の事実上の続編でもあると。なんたって、もうその『エイジ・オブ・ウルトロン』っていうのはね、前の評の時は、ポスターにまだ出てなかったので名前を伏せましたけども、ヴィジョンっていうキャラクターを有りにしちゃった、ちょっと一線を踏み越えた1作だと僕は思っていて。

要するに、モロに漫画! みたいなキャラクターを有りにした作品の事実上の続編でもあり、さらにはそこから続く次の『インフィニティ・ウォー』二部作っていう、間違いなくマーベル映画のクロスオーバー──いろんな人が混ざるという『アベンジャーズ』以降の、もう完全に極限ですよね。これ以上はたぶん無理っていうやつの二部作へのブリッジでもあると。それを満たさなきゃいけないため、つまりは処理要素がいま言っただけでもめちゃめちゃ多いわけですよ。キャラクターも多いし。『ウィンター・ソルジャー』に比べてもう倍どころの話じゃない。もう数倍になっている。

なので、ぶっちゃけ『ウィンター・ソルジャー』よりは、単体の映画として、当然のことながら多少ガチャガチャはしています。単体の映画としての完成度が云々、っていう映画じゃない。その多少のガチャガチャと、それでもそれを可能な限りスマートにまとめあげる驚異的手腕。つまり、「祭り」と、その「祭り」をまとめあげる手腕を楽しむタイプの……だからその、『アベンジャーズ』的な楽しみ感もやっぱり当然含まれるということですね。とはいえ、今回もやっぱり僕が何より感心したのは、ルッソ兄弟のアクションシーンの組み立て方。特に、空間の使い方が本当に上手い。

たとえばですね、キャプテン・アメリカ。キャップがかつての友人だった、いまはウィンター・ソルジャーという暗殺者となってしまったバッキーの部屋に行く。そうすると、そこに特殊部隊が襲いかかってきて、からの逃走劇。そこに、今回はじめて出る新しいヒーロー、ブラックパンサーというね、まあ(『バトルフィーバーJ』の)バトルケニアと(『サンバルカン』の)バルパンサーを混ぜたようなですね、系のかっこいいやつが出てくるわけです。ちなみにこのブラックパンサーの単体作の監督はあの! あの、名作『クリード』のライアン・クーグラーということで、本当に超期待してるんですけど。とにかく、ブラックパンサーが絡んでくるという一連のシーンがあります。途中でね。

最初、そのバッキーの部屋に2人がいる。で、そこに襲ってくる。暗く狭い室内。狭い空間での、まずぶつかり合いバトル。これ、『ウィンター・ソルジャー』の中のエレベーターの中のバトルがありましたね。あれにも通じるような、狭い……で、今回は暗いところで、前回のエレベーターともちょっと差別化ができている。そのバトルからの、今度はボーンと表に出て、階段とその吹き抜け。要するに縦の、パイプ状の空間を使ったアクションに今度は移っていく。からの、今度は戸外にポーンと飛び降りますよね。最初にバッキーがポーンとリュックを投げるんで、そこでまず意識がそっちに行っているところに、ポーンと飛んで。まず、上から下への動き、からの屋上にそのブラックパンサーがいて、軽く格闘してからの、今度は高速(道路)でのチェイス、追っかけっこになっていくという。

つまり、今度は横方向の速い動きになっていくっていう風に、ルッソ兄弟のアクションは常に非常に「視覚的にこういう特徴がありますよ」っていうわかりやすい空間を、効果的につながった見せ方で、それをポンポンポンポン重ねていくっていうやり方をいつもしていて。これがやっぱり、「映画」ですよね。映画しかないっていう感じの見せ方ですし。しかも、そのアクションの連なりの中で、それぞれのキャラクターの立ち位置とか個性のようなものを、時にギャグとかを込みで入れ込んだり。あるいは、なんらかのストーリー的な進行をその、たとえば追跡劇なりなんなりに直接リンクさせていったり。とにかく、語り口の効率がむちゃくちゃいいですね。語り口のテンポがいい。無駄がない。

アクションシーンの間、お話が止まってしまうタイプの映画っていうのもすごく多いんだけど、ちゃんと映画が止まらないように気を使って作っているアクションシーンですね。で、そういうルッソ兄弟の上手さの集大成のような名シーンが、間違いなく今回の『シビルウォー』の白眉でしょうけども……みんな、これが見たくて見ているっていうことでしょうけども……閉鎖された空港内での集団ヒーローバトル。松山市でも喧嘩祭りっていうのがあったみたいですけど、ドイツでもヒーロー喧嘩祭りをやっているぞと。『デストラクション・ベイビーズ』ですよね。デストラクション(破壊)してますね。

まず、マーベル作品ってとにかくこういうキモになるシーン。大抵、真っ昼間なんですよね。ちゃんと晴天下でやってくれるから、まずヒーロー同士の戦いっつっても、あんまり陰惨にならないっていうのはこれ、晴天なのもあると思うんですよ。カラッと晴れているので、カラッと見れるっていう。まあ、先ほどもちょろっと言いましたけど、原作というか原案のコミック版の『シビルウォー』と違って、そのヒーローの管理を巡る思想的決裂っていう面は、実はそんなに引っ張られないんですよね。そんなにそこは焦点にならないので、ここ、人によっては「ええっ?」って物足りなくなるあたりだろうし、「焦点、ズレてない?」っていうあたりかもしれないけど。まあ、少なくとも気楽に見るには結構いいことになっていて。

で、その見やすさっていうのをとにかくマーベル映画は常に気遣っていて。映画としての見やすさ。『アイアンマン』の1作目の評でも僕、言いましたけど。たとえば、位置関係であるとか。その前のね、空港でまずバトルが始まって、スパイダーマンとファルコンとバッキーの、構内の横のパイプ状空間を使ったバトル。あれも空間の使い方の上手さは言うに及ばず。今回なんか特にですね、お互いに揃ってチーム同士全員で正面衝突してバーン!って乱戦になる。なってからは、画面上、たとえばこれがマイケル・ベイだったら間違いなく、どこがどこやらなにがなにやらになってしまうのは、もう必至じゃないですか。

誰がやっても、そういう風になってもおかしくないような場面なのに、ここはやっぱり上手いのはですね、とにかく最初に「あの格納庫までたどり着く」っていう、つまりA地点にキャップチームがたどり着けばキャップチームの勝ち、それを阻止できればアイアンマンチームの勝ちっていう、ほとんどアメフト的な、ものすごーく単純化された位置関係とルールが最初に設定されるんですよ。そのバトルの手前のところで。しかも、ご丁寧にぶつかり合う前に、ヴィジョンにこうフーッて。「はい、線ひいて、はい。スポーツ、前ね。はいはいはーい! はい、ここから出ないでね!」みたいな。そんなことまでやるので、本当に見やすい工夫がされていると。

なので、どれだけグルングルンとカメラが動き回ろうが、何がいま争われているのか? ということね。あと、途中にもちろんこれ、ネタバレしないようにしますけど、途中であっと驚く大仕掛けとかがあっても、やっぱり混乱しない。何がいま争われているのか?っていう。これは言ってみれば、僕の造語ですけど、「映像的論点」「映像的争点」が明確な見せ方を常にするわけですよ。これは『アベンジャーズ』以来ずっとそうですけど。たとえば、あるキャラクターのアクションから次のキャラクターのアクションが要所要所でひとつのショットの中で、流れで扱われるので、動きや空間がちゃんとつながって感じられるし、チームとしての連携感、もしくは、今回の『シビルウォー』でいえばバトルロイヤル感もちゃんと感じるっていうのは、これは『アベンジャーズ』以来、マーベルのクロスオーバー作品は本当に上手い見せ方だし。

そして、前回の『ウルトロン』から顕著になりましたけど、アメコミ的キメ画ショットもちゃんと押さえるべきところはちゃんと押さえている。全員がワーッて並んでいるショットとか、たとえばアイアンマンとキャプテン・アメリカが向い合ってガーッて対峙しているとか、そういうほしいショットはちゃんと押さえている。なんだけど、やっぱりこれもルッソ兄弟の場合、止め画的な扱いはしないんだね。やっぱり走っているとか、アクションの一環とか、かならず動きの一環として見せる。本当に映画的な資質っていうことだという風に思うんですけどね。

まあ、ラストバトルね。たとえばさ、キャップとバッキーの無言の連携プレー。もう盾をボンボンってやりあって、やっぱり1作目からの流れから考えると、あの無言の連携プレーだけでちょっと泣けてくるみたいなのが本当に上手いなと。アクションでキャラクターを描くのが上手いなと思いました。あるいは、一方、普通の会話シーン。たとえばファルコンとバッキーのある種の恋の鞘当て。どっちがキャップを取るか? みたいな。あと、あの3人の男の子感みたいなのとかさ。今回で言えば、ヴィジョンのちょっと純情な感じね。コミックだと、スカーレット・ウィッチとくっつくっていうのがありますからね。

短い時間の中で、しっかりキャラクターごとの機微を……あ、あと、新しいスパイダーマンだよね。ちゃんと『アイアンマン』の世界観側の方にポップにフィットさせたっていう。わざわざね、おじさんが死ぬところとか見せないで本当によかったっていうね。『COP CAR/コップ・カー』のジョン・ワッツさんが次の『スパイダーマン』の監督ですからね。本当に楽しみですけどね。ということで、本当に手際が鮮やかだと思います。キャラクターのことを短い時間で立てていくのは。

ちょっと話の順番が前後してしまいますけど、その『ウィンター・ソルジャー』譲りの硬派サスペンスタッチみたいなのもちゃんと引き続きあって。前作がさっき言ったように70年代ポリティカルスリラータッチ。『大統領の陰謀』とか『コンドル』とか風だったのに対して、今回はね、途中でトニー・スタークのセリフにもありましたけど、『影なき狙撃者』とか、あとドン・シーゲルの『テレフォン』とか。要は催眠暗示テロリストものっていう、ちょっとしたサブジャンルがありまして。そういう設定からの、これは監督たちもインタビューで出しまくっているので言っちゃってもいいと思うけど、まあ、実は『セブン』的な、サイコホラーっていうよりは、要は「超・手の込んだ罠もの」っていうことだと思うんですけど。

なので、今回の映画版だと、ソコヴィア協定ですか。まあ、超人管理法ですよ。コミックで言う。そういうイデオロギー同士のぶつかり合い——まさに、だから「シビルウォー(南北戦争)」なわけだけど——という面は、実はそんなに作中では掘り下げられるわけではないっていうことですね。で、『ウルトロン』でね、起こった騒ぎは本当に実質トニー・スタークの責任多すぎなので、お前は本当に反省した方がいいぞっていうね。一方、「キャップが勝手に見える」っていうのは今回の作品だけだとそう見えるかもしれないけど、『ウィンター・ソルジャー』からの流れだと、「組織なんて本質が腐敗もしてしまうんだ」みたいなのが、流れでちゃんと続編として見ると納得できるなと思います。

まあ、罠もこの手のものとしてはちゃんと手順がロジカルに考えぬかれていると思うけど、ただ惜しいと思うのはですね、トニー・スタークのお父さん、ハワード・スターク。非常に重要な人物ですけど、ジョン・スラッテリーさんっていう人が『アイアンマン2』と『アントマン』でも出てきますけど。が、演じてるんだけど。『キャプテン・アメリカ』のタイムラインでは1作目も2作目も、ドミニク・クーパーが演じていて。まあ年齢的な差があるとしても、同一人物には全然見えねえよ!っていう。これ、トニーと、キャプテン・アメリカの、お父さんを挟んだコンプレックスっていうのが非常に物語上のキーになっているだけに、うーん……ちょっともったいないな。おそらく、『ウィンター・ソルジャー』の時点では、今回のオチは考えていなかったっていうことだとは思う。あとは、ドミニク・クーパーのギャラがたぶんテレンス・ハワードと同じようにモメたっていうことかもしれませんけども。これ、ちょっと惜しいなと。

で、それはいいとしても、トニー・スタークさんね。「お前、この野郎!」ってなるその人に責任能力がないことは一応知った上でなんだから、やっぱりその、まんまとっていう感じがね。その『バットマン vs スーパーマン』でも、まんまと感がちょっと若干ガキっぽく見えなくもないかな?っていう感じはしましたけどね。とにかくですね、あと、やっぱり2時間半が長く感じる瞬間っていうのはありますよ。刑務所に寄ってね、ファルコンと話をするだけの場面なのに、刑務所がズバーンと海から上がってきた瞬間ね、「うん。たしかに画としてはすごいけど、こんなすごいとまた時間がかかる! 刑務所に寄るだけ! 話的には刑務所に寄るだけ!」みたいなのとかね。その割に、ロンドンからウィーンが、次のカットでもうウィーンにいます、みたいになっていたりとかね。そういうところが雑っていうのはちょっとあるんだけどね。はい。

まあ、でもよくまとめた1本なのは間違いないですし、文句なしに楽しい1本、求められているものにほぼ全て完璧に応えているのは間違いないと思います。ルッソ兄弟、『インフィニティ・ウォー』に続投も当然じゃないでしょうか。まあ、とはいえこのクロスオーバーインフレ、次が限界だろうなという一種の危うさも感じる1本ではありましたけども。僕的には。ということで、お時間になってまいりました。ぜひぜひ、劇場でウォッチしてください。面白かったです。

(ガチャ回しパート中略 〜 来週の課題映画は『ヒメアノ〜ル』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。
<以下、ガチャ回しパート 起こし>

「あ、そんなすごい、そんなすごい刑務所を出しちゃうと時間がかかる……また時間が延びちゃうよ〜!」と思ったけど、「そんなに簡単に逃げられるのかい!」っていうね。そういう感じもありましたけどね。はい。ということで来週、6月11日にウォッチする映画。その候補6作品を発表いたします……。

(以下省略)

 

宇多丸 『ヒメアノ〜ル』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年6月11日

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宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

TBSラジオで毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。
その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸が毎週ランダムで決まった映画を自腹で観に行き、評論する「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ここではその文字起こしを掲載しています。

今回評論する映画は、『ヒメアノ〜ル』(2016年5月28日公開)です。

▼ポッドキャストもお聞きいただけます。

▼新サービス「TBSラジオCLOUD」で聞くにはこちらから(無料で聞けます)。

https://radiocloud.jp/archive/utamaru/
今夜扱う映画は、先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して当たったこの映画。『ヒメアノ〜ル』!

(BGM:テーマ曲が流れる)

『行け!稲中卓球部』『ヒミズ』などの古谷実による同名コミックをV6の森田剛主演で実写映画化。淡々と殺人を重ねていく男と、ビル清掃会社で働く平凡な男の日常が同時に語られていく。共演は濱田岳、ムロツヨシ、佐津川愛美ら。監督は『さんかく』『ばしゃ馬さんとビッグマウス』『銀の匙 Silver Spoon』の吉田恵輔さんということでございます。ということで、この『ヒメアノ〜ル』をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールなどでいただいております。ありがとうございます。

メールの量は、普通よりちょっと多めということです。非常に結構ね、注目度が高い作品。評価も高い感じなんでね。賛否でいうと、7割の人が絶賛。残り3割の人が普通、もしくはいまいちという反応。「今年最高の傑作」「見終わった後、何日も引きずった」という感想や、「ラストでは思わず泣いてしまった」という人も。また、森田剛ファンの人からも、概ね好評だった。まあね、すさまじい役ですけどもね。褒めるポイントで集中していたのは、森田剛の演技と、タイトルの入るタイミング。一方、「原作とテーマが変わってしまっている」として否定的に見る人も、ちらほらといたということでございます。

代表的なところをご紹介いたしましょう……。

(メール紹介、中略)

……はい、ということで、『ヒメアノ〜ル』。私もヒューマントラストシネマで2回見てまいりました。やはり、森田剛さんファンということなんですかね? 若い女性を中心に、結構昼の時間帯だったんですけど、かなり入っていましたね。

で、とにかくですね、ムービーガチャ。ガチャガチャを回して当てるというシステム。先週のリスナー推薦枠に入れさせていただいたこの『ヒメアノ〜ル』、推しのメールはいくつも来ていたんですが。その中で、あえて読ませていただいたメールは、要は当番組『ウィークエンド・シャッフル』の特集コーナー「サタデーナイト・ラボ」。後ほどやりますけども、ここ最近の中でもいちばんの問題作として知られる、「疎遠になった友達、通称“元トモ”特集」がございまして。これまで2回やりましたね。で、この『ヒメアノ〜ル』という作品、まさにあのコーナーそのままの元トモ映画、疎遠映画だったという内容のメールをいただいて、これは面白い、目立っているなということで読ませていただいたんですが。

で、実際にガチャが当たって見てみたら……本当にそうでした! もうびっくりするぐらいのシンクロ率でした。もう完全に、疎遠特集。ねえ。もちろんね、(疎遠特集を)聞いて作ったら、どんだけ突貫なんだ?って、そんなわけない。まあ本当にシンクロでございまして。だってさ、ラスト近くで流れる、ある回想の会話があるんですけど、完全に僕が、この疎遠特集の始めとか、番宣CMでしていた話そのまんまですよ。要は、新入生同士、クラスで最初に声をかけてきたやつと、とりあえずは仲良くなったりするものだよね。だけど……っていう、あの話そのまんまじゃないですか。

だから、僕はやっぱり、ずーっと見ている間、特にやっぱり2度目はどういうことになるか分かって見ているから、もう森田剛くんが──「森田」という役で出るんですけど──森田が登場した瞬間に、森田を見て主人公の濱田さん演じる岡田というのが、「あれ? 森田くんじゃ……?」って。あんまり親しくなかったから知らないっていうところからもう、胸が痛くて痛くて。もう終盤とかは心をえぐられるような感じでしたね。で、正直ひょっとしたらもう疎遠、元トモコーナー、この映画を見たら、もうあのネタでゲラゲラ笑ったりはできなくなっちゃうかもっていうぐらい……いや、そうじゃなくて、『ヒメアノ〜ル』ショックが生々しい今だからこそ、近々にその第三弾特集をやるべきなのか!? とか。そういう風に迷っちゃったりするぐらい、僕はその疎遠コーナー、元トモコーナーの発案者として、相当食らうものがありました。もう、はっきり言って食らった。

ということで、まあこの番組のファンであるとか、あの特集にちょっとでもグッと来たという方は、好き嫌いは分かれるところはたしかにあるかもしれない。非常にバイオレントな映画だし、突き放しているようなところもあるので、好き嫌いが分かれるところはあるとしても、とにかくこの番組のファン、あのコーナーのファンだったらもう、必見だと思います。その意味だけで。これはもう、断言させていただきます。で、原作はその古谷実の2008年から連載が始まった漫画で、6巻で終わっている。これはこれで本当にさすが古谷実というか。特にもうラストの切れ味とか、さすが!っていう感じで。うわっ!っていう感じの切れ味で素晴らしいんですけど。

ただ、今回の映画化は先ほどチラッと言いましたけど、脚本・監督の吉田恵輔さんによるアレンジがすごく大きいんですね。まあ、忠実にやっているところもあるんですよ。飲み会に連れて来られる、参加する女の子のルックスとかはすっごい忠実に漫画通りやっていたりしますけど。ただ、相当実は全体としてはアレンジが大きくて。たとえば元の漫画の方はですね、連続殺人鬼化していく森田という男の視点、心情で進んでいく部分がすごく多いわけですね。で、主人公の岡田とのクロスポイントは割と薄めだったりするわけです。

あと、たとえば殺人鬼化していく森田自身も、漫画の方でははっきり、もう自覚的に快楽殺人者だったりする。要は、人を殺すことそのものに性的快楽を感じるという自覚があったりするため、ある意味、テーマからして根本的に変えられているとすら言えるので。それこそ、その元トモ要素みたいなことは完全に映画オリジナルで足されている部分だったりするので。あまり、その古谷実の漫画の映画化という部分での期待の仕方はしない方がいいかもしれないです。原作漫画がすっごい好きな人によっては、ちょっとそこの部分で失望することはあり得ると思います。まあ、俺もう本当クレジットは「原案」という形でいいんじゃないかな?っていうぐらいだと思いましたけどね。はい。

それよりもやはりね、それぐらい、これはどこまでも吉田恵輔の映画なんだなという風に私は思いました。吉田恵輔さんの作品、もちろん代表作は大傑作『さんかく』ということになるでしょうけども。このコーナーでは以前、『ばしゃ馬さんとビッグマウス』。作品的には2個前になるのかな?(※宇多丸訂正:「3個前」と言い間違えました!)を、2013年11月23日に取り上げました。で、絶賛させていただきましたけど。で、その『ばしゃ馬さんとビッグマウス』を僕がリアルタイムで評した中で、僕は吉田恵輔さんの脚本・監督作品に通底するものとして語っていることが、自分の番組放送用に書いているノートを見返してみて、我ながら、完全に今回の『ヒメアノ〜ル』までを見通している吉田恵輔論になっていて。我ながら鋭い!(笑)。この男の評、なかなかである! という風に思ってしまったというぐらいなんですけど。

どういうことか?っていうと、基本、コメディー・喜劇が多いというイメージがあると思います。吉田さんね。なんだけど、僕のその時の言い方では、こういうことですね。むしろホラー的だったりサスペンス的だったりする、胃がキリキリと痛むような喜劇の名手だということですね。喜劇の中でも。どういうことか?っていうと、主人公たちが「世界っていうのはこういうもんだ」という風に思っている。でも、それは勝手な思い込み。その思い込みが、あるポイントで覆される。「人間とか世界っていうのはお前らがもともとこうだと思っていたものとは、実は全然違うものなんだよ」っていうことが、あるポイントではっきりする。表面上、いくら穏やかに見えていても、一皮剥けばその本質は実はものすごーく残酷だったり無情だったりするんだよっていうのが明らかになる。

で、そういう真実が途中で明らかになって先、作品のトーンが、それまではコミカルだったり喜劇調だったのが、ちょっとトーンがガラッと変わったりするという。つまり、コメディー・喜劇に見えていたような作品が、途中のあるポイントで突然、世界っていうのが恐ろしい……要するに本当の顔ですね。世界の本当の顔っていうのがあらわになる。残酷だったり無情だったりする、本当の顔があらわになった先は、ホラー化していったりサスペンス化していったりするという、そういう作風。要約すれば、概ねそういうことを僕はその2013年の『ばしゃ馬さんとビッグマウス』の時点で吉田恵輔さんの作家的資質として言っていたんですけど。これ、完全に今回の『ヒメアノ〜ル』そのものの話にもなっていますよね。さすが俺!っていう(笑)。さすが俺、的確!っていうね、ことだと思うんですけどね。

とにかく、上映時間99分のだいたい半分ぐらいまでは、まあこんな話ですよ。困った先輩の片思いの相手と僕が秘密の関係になってしまい……?っていうね。みたいな、まあ『翔んだカップル』とかの序盤みたいな、まあラブコメ話なわけですよ。ちなみにでも、そういえばその柳沢きみおの漫画『翔んだカップル』も、出だしこそは軽いラブコメとして始まるけど、その後どんどんどんどん話は重くなっていって、最終的には、自殺者、自殺未遂者が出てくるという、非常にハードな展開になっていくという漫画だったりしましたけど。まあ、ともあれ序盤はそういうラブコメ展開。『ヒメアノ〜ル』、最初の45分ぐらい、ラブコメが続くわけですね。

で、ここも岡田という、事実上の主人公を演じる濱田岳さんの非常に芸達者ぶりも相まって、本当に普通にコメディーとして笑える。とにかく濱田さんがね、本当にセリフのちょっとした間とか。あと、微妙な目の泳がせ方とか、本当に上手くて。あの、いわゆるベロベロバー演技ではなく笑わすのが本当に上手いなという風に思いますし。で、それに相対するヒロインの佐津川愛美さんの、なんて言うんですかね? やっぱり、エロかわいさでしょうね。これもあって、非常にラブコメとして前半楽しく見れると。なんだけど、まずその困った先輩・安藤さんというのを演じている……原作漫画の方は安藤さんのキャラクターはもっとわかりやすくコメディー的。で、むしろだからそこのコメディー感に関しては非常に安心して読める感じになっている。要するに、殺人鬼となっていく森田の話とは全然違うトーンとして読めるんだけど。今回の映画版だと、その安藤さんをムロツヨシさんが演じていて。

ムロツヨシさん、どっちかって言うと漫画とは逆のアプローチというか。漫画だと、ものすごい表情豊かな、ワーッてなっちゃうようなエキセントリックに表情を変えるような感じなんだけど、今回のムロツヨシさんは逆のアプローチで。無表情方向にデフォルメした演技をされていて。で、それがなんか、そこはかとない不穏さ。「一皮剥けば、こいつは本気でヤバいんじゃないか?」的な、微妙な緊張感をちゃんと前半も持続している。だってムロツヨシさん、よく考えたらさ、三宅隆太さん監督の『呪怨 白い老女』で殺人に手をくだしちゃう人になっちゃうわけだから。そういう危うさは全然演じられる人なわけで。だから、安藤さんのヤバさっていうのがある種、緊張感の持続を引っ張ってる。前半、ラブコメなんだけど、ちょっと緊張感にもなっているし、ということですね。まあ、でもラブコメの話が続いている。

あるいは、普通のラブコメに見えるんだけど、男側が女の人っていうものに勝手に抱いているファンタジーっていうのが、実は女の人ってそういうことじゃないぜっていうのがひっくり返るみたいな。これは本当に吉田恵輔作品の繰り返し出てくる話ですね。「男、しょうもな……!」っていう。女に勝手なファンタジーを抱いてっていうのが出てきたりすると。なので、普通のラブコメよりやっぱりちょっと、若干意地悪な緊張感がキープされていると。そして何よりも、やっぱり殺人鬼となっていく森田役の森田剛ですよね。森田役の森田剛っていうところがもう大丈夫か?っていう感じなんだけど。

お話上、まだ何もしていない段階でも、その森田剛さん演じる森田、はっきりと伝わってくる、「人として何か重大な欠落があるんじゃないか、こいつは?」っていう感じ。要は、「なんにも構わない類の人間の怖さ」っていうか。なんにも構わないタイプっていうのが、なんかすごく後を引く、いや〜な感じを前半、何も起こっていないのに残すという感じになっている。で、これはもう本当にいくら言っても言いすぎということはないと思います。とにかく、森田剛。この作品ね、もうちょっと心配になってくるほどです。だって、V6はまだ普通に活動してるのに……ちょっと心配になってくるほど、本当に見事な、その人としての佇まいからしての汚れっぷり、荒れっぷり。もう、そういう人にしか見えない、っていう荒れっぷり。それが今回の映画『ヒメアノ〜ル』の非常に特別な価値というか、輝きを与えているのは本当に疑いの余地がないんじゃないでしょうか。

2週間前にやった『ディストラクション・ベイビーズ』。同じ暴力的な日本映画っていう意味でも、あれの柳楽優弥さん。非常に素晴らしかったですけど。ただ、あの柳楽優弥さんが演じるあの役は、言ってみれば『ノーカントリー』のシガーじゃないですけどね。要は、暴力的なキャラクターにしても、もう突き抜けきっているからこそ、ある種の高潔ささえ感じさせるキャッチーさをたたえているっていう。それとは、非常に対照的ですよね。今回の森田っていうのは。いちばんわかりやすいポイントは、レイプするようなやつかどうか?っていうことですよ。レイプ、そんなことをするようなやつかどうか。で、今回の森田はやっぱりレイプをする側のやつなんですよね。

本当に社会の底辺で生き続けてきた結果。そしてそこで少しずつ人間性をすり減らしてきた、削り取られてきたのであろう男。つまり、シガー的なね、『ディストラクション・ベイビーズ』の、柳楽優弥のあの役的な幻想など入り込む余地もない、本当に身も蓋もない現実っていうのをもう、泥のようにまとって。匂いのように身にまとってしまっている。体現してみせるかのような森田剛演じる森田がもう本当に……今日ね、この表現が多いんですけど……とにかくキツい。キツすぎる! で、褒めてます!っていう。すごく嫌です、褒めてます! みたいな。とにかく、この森田剛の森田がキツすぎる、褒めてます! もう、最大級に褒めている。

人の話を聞いている時の、「ああ、ああ? ああ……」っていう口。あと、目。普通に会話できているだけに、でも、なんか全然心が通じた感じがしない感みたいなことだと思いますね。ちなみにタイトルのね、『ヒメアノ〜ル』っていうのはトカゲの名前なんだよね。要は、「捕食される側」っていうのの象徴っていうことらしいんですけど。それはもちろん、森田の犯罪の被害者たちっていう。それはもちろん、捕食される側っていうのの象徴かもしれないけど、同時にこの森田。特に今回の映画だと、「社会の底辺に生きている俺たちは、どん底から抜け出せないんだ」っていう彼のセリフがあったりするぐらいで。彼自身が社会全体の中では、要は生涯の捕食者。常に食い物にされる側であるという構造もあって、これがまたなんかこう……イヤだ〜! 褒めてます!っていうことですね。

ともあれ、さっき言ったように前半45分間かけてですね、ついにそのラブコメ的なストーリーがひとつのハッピーな着地を迎えたかに見えるその話。その瞬間ですね。実は、その殺人鬼となっていく森田から、その光景は見返されていた。僕はこのコーナーでいつもしつこく言っていますけども。「見る/見られる関係の逆転」っていうのが映画でいちばんスリリングな瞬間だと思うんですが、まさにそれが物語的に全体で起こる。いままでのハッピーな着地が実は森田から見られていた。そのポイントからすでに、これはだから皆さん絶賛されているポイントです。ついに、本当に意味でこの『ヒメアノ〜ル』という物語が始まるという、いかにもこれね、吉田恵輔さん好みのトリッキーな構成。吉田さんはこういう二部構成が多いんですよ。たしか『机のなかみ』もそんな、途中で一旦切れてタイトルが出てっていう流れをやったりしてますけども。非常にトリッキーな構成がとにかく……これ内容からすれば不謹慎な言い方だけど、超ワクワクするっていう。「うわー、うわー、始まっちゃった。始まっちゃったよ!」っていうね。

で、そっから先はですね、画面のトーンとか、あと前に『ばしゃ馬さんとビッグマウス』の時に「この人、実は衣装のスタイリングとかもすごく計算してやっていると思う」って言いましたけど。衣装のたとえば色合いであるとかトーンに至るまで、少しずつ全体が画面もダークにクロスフェードしていくっていう感じだと思います。気がついたら、もう暗黒のところに踏み込んでいる、という感じだと思います。で、もうそこからは文字通り転げ落ちるように、森田という男。行き当たりばったりの連続殺人に手を染めていくわけですけど、この描写のキツさがまたですね、本当に素晴らしい。今回、特殊メイクとか特殊造形、バイオレンス造形をやっているのが、『アイアムアヒーロー』でも名前を出しましたけども、記憶に新しい藤原カクセイさんがやってらっしゃる。さすがですねということなんですけどね。

たとえばですね、最初に直接的に劇中で殺人が描かれる被害者。当番組でもお馴染み、名優 駒木根隆介。そして、山田真歩さん。要するに、『サイタマノラッパー』カップルですね。『サイタマノラッパー』に出てきたあのカップルの末路ときたら……っていうことですね。まずね、ゴチン! ガチーン!って頭を殴られて、体がガーッて痙攣するっていうあそこ。クライマックスで2階からガラス窓をバリーン!って体ごと落下するっていう、僕は本当に、「ああ、こんなケレン味たっぷりの見せ方まで用意してくれて、本当に最高!」っていう風に思ったところですけど。とにかく、ガーン!って殴られて痙攣と、2階からガラス窓をバリーン! で体ごと落下で外へっていう、これは合わせて『悪魔のいけにえ』オマージュだったりするのかな? なんていう風に思ったりしましたけど。

とにかく、劇中最初の直接的殺人シーン。山田真歩さんの「あるリアクション」といい、主人公たちのセックスシーンとわざとイマジナリーラインを混乱させて。要は、セックスシーンと殺人シーンの同時進行感を出す非常に悪趣味な編集……これ、褒めています。悪趣味な編集込みで、本当にイヤ〜な感じです。褒めてます!っていう感じですね。しかし、あのイマジナリーラインを混乱させてまで同時進行感を出すセックスシーンと殺人シーンの編集は、僕の解釈はこうですね。つまり、恋人たちの最も幸せな時間と、また別の恋人たちにとっては人生最悪の瞬間でもあるっていう。つまり、その二者は関係あるけど関係なくて、関係ないけど関係あって。ただ、この同じ世界に同時に存在しているっていう。

で、これって現実そのものじゃないですか。我々がこうやってヘラヘラ、こうやって私が話してますよね。いま、この瞬間に凄惨な殺人ってやっぱり起こってたりもするわけです。これ、現実に、悲しいけど。と、いうことなんですよ。その現実の容赦なさなんですよね。どっちかって言うとね。と、いうことで、その主人公たちの日常とは関係あるけど関係ない、関係ないけど関係ある、そういう同時進行感で森田は殺人を重ねていくわけですね。たとえば、あの通りすがりの女の人。ねえ。こうやってバーンってなって。で、まあレイプされかかると。生理中のナプキンからの、で、パッとカットが変わったと思ったら、もうブルーシートがかけられていたあそこの感じ、イヤだね〜。褒めてます! とか、刃物による、執拗にザクッ、ザクッ、ザクッて刺す。イヤですね〜。褒めてます!

あと、『プライベート・ライアン』ばりの、抵抗する相手に対してナイフをグーッと押しこんでいく。ゆーっくり胸に押しこんでいくっていうパターン。イヤですね〜。褒めてます! あと、後半。とある理由から入手したピストル。パーン!って。あの、「うっせー」ってあれは映画オリジナルの描写で。いいですよね、やっぱり。耳栓もしないであんなところで撃ったら、そりゃうるさいですから。なかなか当たらないっていうのは漫画にもありましたけど。あれの、縛られた男に対するあの弾着。本当にイヤ〜な弾着表現とか。褒めてますけどね。とにかく、直接のゴアとかグロがそれほどあるわけじゃないんだけど、とにかく見るものの生理を逆撫でするようなバイオレンス描写にひたすらげんなり。楽しくないっていう。まあ、これは褒めてます。

で、原作のその森田側の心情描写がほぼオミットされている分、初めて彼の現状。つまり、「ああ、森田はここまで来ちゃっていたんだ」っていうのは主人公はだいぶ後になって気づくわけですよね。で、その岡田側の、「いったいこの間、君の人生に何があったんだ?」っていう……もちろん、苛烈ないじめっていうのは大きな要因になっているようではあるけれど、そうやって、でもいじめだからこうなったって簡単に因果関係をわかった気にはさせてくれない作りにちゃんとなっているわけです。たとえば、やっぱり主人公がとらわれている贖罪意識は実は関係なかったとか。なので、簡単にはそうやって因果関係はできない。なにがあったんだ? どんな思いをしてきたんだ? そのわからなさ、理解のできなさ故の悲しさ、切なさがより際立つ作りに今回の映画はなっている。そして、これこそまさに疎遠、元トモ話のエッセンシャルなわけですよ。

で、いまの森田のことはもうビタイチ理解できないが故に、理解できていた頃の記憶っていうのがとても大切に思えるっていうことですね。これ、視点が入れ替わっていますけど、原作ラストと僕はちょっと通じていると思います。原作では、森田側の視点だけど、要するに人であることをやめ始めた、最後の瞬間っていうのを思い出すっていうところなんでね。はい。で、この結末をですね、甘いって感じる人がいるかもしれないけど、僕は逆だと思っていて。つまり、この記憶の大切さっていうのがイコール、取り返しのつかなさっていうのをより際立てて。要は、この世の救いのなさっていうのを真摯に見据えているからこそのこの着地だという風に僕は思いますね。はい。

直前、クライマックス途中でのね、「お前、本当に人でなしだな」っていう描写がその後、その森田がうっかりとってしまう、ある人間的行動の伏線にもなっているというあたり、上手いというかひどいというか。褒めてます!っていう感じですね。あえて言えばクライマックス。岡田と森田の対決という非常に映画オリジナルの展開。盛り上がって非常に最高なんです。ここは最高なんだけど、要はピストルが使われた殺人があって、しかも、目的とされている人物は主人公の岡田だってはっきりわかっているのに、その岡田のアパートにヒロイン1人で……つまり、警護もつかずに帰らせるってちょっと考えづらいですよね。はっきり言って警察は威信をかけて捜査している段階だとは思うんで。ちょっとここは、たぶん絶対に「今日は別の場所に泊まりなさい」っていう風にあれするはずだし。ちょっと不自然な展開だったと思います。

まあ、その住所がバレる経緯はですね、「ババァ〜ッ!」っていうね、この番組的なネタ感もあって面白かったですけどね。ただ、まあ初見ではそんなことは僕はあんまり気にならないぐらい、本当に没頭してましたし。なにしろ、そのラスト。ガーッと胸を掴まれて。エンドロール用の音楽が流れ出して、暗くなって、クレジットタイトルが出るタイミングとかがもう、涙腺を刺激させるタイミングそのもので。本当に素晴らしかったです。そのへんね。で、日本のノワールとかバイオレンス映画、いつの間にか本当に超充実してきているなという風に思ったりします。ちゃんと前半笑って、で、嫌な気持ちになって。ハラハラして、最後は胸を締め付けられて。で、劇場を出ると世界がちょっと違った風に見えて。で、誰かと意見交換したくなるって、これが面白い映画ってもんでしょう!!っていう風に僕は本当に思いました。

正直、今年の日本映画、個人的にはね、またベスト級来ちゃったよ!っていう感じです。またこのレベル、来ちゃったの!?っていう風に思いました。本当に個人的にも忘れがたい一作ですね。ちょっと思い出すとウッと来ちゃうような一作になったと思います。またしても日本映画、素晴らしい傑作が出てきました。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 〜 来週の課題映画は『デッドプール』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

<以下、ガチャ回しパートにて>

『ヒメアノ〜ル』での、『悪魔のいけにえ』オマージュは、ちゃんと参考にしろって吉田監督に言われたという話を名優・駒木根さんがポッドキャストでされているそうですね。ということが判明いたしました。教えていただいたみなさん、ありがとうございます。ということで、来週スペシャルウィーク。3作品に絞らせていただいております。最初の候補はこちら!……(以下省略)

 

宇多丸 『デッドプール』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年6月18日

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2016/06/18_デッドプール

宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

TBSラジオで毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。
その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸が毎週ランダムで決まった映画を自腹で観に行き、評論する「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ここではその文字起こしを掲載しています。

今回評論する映画は、『デッドプール』(2016年6月1日公開)です。

ポッドキャストもお聞きいただけます

▼新サービス「TBSラジオCLOUD」で聞くにはこちらから(無料で聞けます)。

スペシャルウィークの今夜、扱う映画は先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して当たったこの映画。『デッドプール』!

(BGM:ジョージ・マイケル「Careless Whisper」が流れる)

……ねえ。「Careless Whisper」。ワァム!っていうかね、まあジョージ・マイケル名義だったと思いますけどね。「Careless Whisper」を聞いてちょっと涙ぐむ日が来るとは思いませんでしたけどね。はい。マーベルコミック原作の異色のヒーロー、デッドプールの誕生と活躍を描くアクションエンターテイメント。デッドプール役は『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』でも同役を演じた……同役なのか? まあ、一応ウェイド・ウィルソンではあったけどね。ライアン・レイノルズ。ヒロイン役にはモリーナ・バッカリン。監督は今作が初長編作となるティム・ミラーということでございます。

ということで『デッドプール』、非常に注目作でございまして、この映画を見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールでいただいております。メールの量は……普通。ええーっ!? 『デッドプール』で普通なの? 『シビルウォー』であんな多かったのに? ええ〜っ……ええ〜っ!? 賛否で言うと、7割の人が絶賛。普通が2割。いまいちが1割というような反応。

「痛快!」「イカしてる!」という感想が多数。褒めるポイントで集中していたのは、「第四の壁」の世界——まあ、要はメタ的なギャグということかな?——の、描き方。ギャグのセンスとスピード感。主役のデッドプールの日本語吹き替え声優さんへの賛辞も多数。一方、「デッドプールの顔面、そんなにひどくなっている?」「内輪ネタがよくわからない」という意見もちらほら、などなどでございます。代表的なところをご紹介いたしましょう……。

(メール紹介、中略)

……はい、ということでみなさん、メールありがとうございました。『デッドプール』、私もですね、2Dでしかやってないんだよね。っていうか、3Dじゃないもんね。字幕2Dと、IMAX字幕2Dと、吹き替え2Dと、あと、もうすでに輸入ブルーレイ、DVDが発売されているので、輸入ブルーレイで音声解説を2種。計5周しておりますということですね。で、その吹き替え版の話とかね、セリフの意味とかニュアンスをどう訳すか?っていうのが非常に重要な作品なので。ちょっと最後の方にそのへんの話を、時間があればまとめてするつもりですが。はい。

で、公開週の六本木で見た時は、英語圏の方が手を叩いて大爆笑とかしてて……っていうのはわかるとしても、吹き替え版。学校帰りの高校生たちが男の子も女の子も制服のまま。たぶん評判が広がっているからなのか、結構高校生たちが来ていて。で、割と下ネタに普通にゲラゲラ笑っているような雰囲気で、本当に「あ−いいなァ! いい映画館の感じだなァ!」と思って見ておりました。ということで、『デッドプール』。アメコミファンには言わずと知れた超人気キャラ。90年代からずっといるキャラクターでございまして。この番組でも、光岡三ツ子さんをお招きしての最初の、2014年のアメコミ特集でも一押しキャラクター的に紹介しました。

ちょうど、その2014年10月の特集だったんですが、それっていうのは今回の実写版『デッドプール』のテスト映像っていうのがネットに流出した直後だったんですね。いま、今回は実写と組み合わせですけど、CGで作ったテスト映像が、なぜか流出したことで。そしてそれがファンの大評判を呼んだことで、スタジオ側の本格的なゴーサインが出た。なぜ流出したのかは、監督は「違うよ、俺じゃないよ」って言っているけど、でも、ライアン・レイノルズは「俺はぶっちゃけ疑っている(ニヤリ)」って感じだという(笑)。まあでも、そのおかげでゴーサインが出たというその結構直後だったんで。「デッドプールの映画化、楽しみですね」っていう話をしたばっかりの2014でございました。

まあ、デッドプールというキャラクターがどのようなキャラクターであるかとか、歴史に関してはまあ、たとえば『別冊映画秘宝 アメコミ映画完全ガイド2015 ネクストヒーロー編』というのが出ていまして。

別冊映画秘宝 アメコミ映画完全ガイド2015 ネクストヒーロー編 (洋泉社MOOK 別冊映画秘宝) 別冊映画秘宝 アメコミ映画完全ガイド2015 ネクストヒーロー編 (洋泉社MOOK 別冊映画秘宝)

これがすごく詳しいので、こちらを読んでいただければいいんじゃないでしょうか。まあ、アメコミファンには言わずと知れた人気キャラなんだけど、ただ日本を含め世界中の一般層にはまあ、はっきり言ってまだまだ無名と言ってもよかろうデッドプールというキャラクター。だからこそ、近年のアメコミヒーロー映画としてはもうかなり低予算しか——1/4みたいなことを言っていたかな?——ぐらいしか与えられなかったし。

あと、このキャラクターの本質にもかかわる部分として、暴力描写、性描写っていうのを賢明にもオミットしなかったことで……まあ、一応PG13バージョンも作ってはみたものの、やっぱりこれじゃダメだということで、アメリカではR指定。つまり17才以上しか見れませんよと。日本だとR-15指定。15才以上しか見れませんよという公開の仕方になったりして。つまりこれ、『デッドプール』という作品はそもそもディズニー傘下のマーベル・スタジオ、いわゆるマーベル・シネマティック・ユニバースの流れでは作られ得なかった作品でもあるわけですけど。ということで、予算も少ない。公開規模もある意味、限られた公開の規模しかできなかったということで、たとえば『シビル・ウォー』であるとか、『バットマン vs スーパーマン』であるとか、あるいは同じ20世紀フォックスがやっている『X-MEN』シリーズ。特に今度、『X-MEN:アポカリプス』っていうのがありますけども。とかとも比べても、要はそこまでヒットするとは思われてなかった。期待されていなかった作品とは言えるわけですね。

しかし、蓋を開けてみれば、アメリカはもちろん世界中、そしてなんと日本でも、無事大ヒットということ。で、期待されていなかった日陰の存在が一発大逆転ホームランっていうこの構図は、2013年の大傑作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を非常に思い起こさせますが、実際に今回の実写版『デッドプール』の実現から大ヒットの流れは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のような作品が大成功したことが影響しているという指摘を先日、光岡三ツ子さんもされていました。まあ、共通しているのはこういうことだと思いますね……一見、正統派ヒーローとは程遠いおちゃらけた、反則技的キャラクター。まあ、ポップカルチャーパロディとか小ネタもいっぱい入っているような、おちゃらけ、反則技的キャラクターに一見、見えるんだけど……実は普遍的に人の胸を打つドラマとかストーリーを結構すごく丁寧に語ってもいると。

つまり、ひねくれているように見えるけど、実は結構この上なくストレートな作り。ストレートに感動できる作り。普通にいい映画っていう作りになっているということだと思いますね。だからこその、一般層まで含めた大ヒット、そして高評価ということだと思います。たとえばこの『デッドプール』の場合ですね、かならず言及される特徴として、例の「第四の壁を破る」。要は、見ているこっち側というのは普通、演劇とか映画とか、なんでもいいですけど、いないものとして扱うんだけど、それが観客に話しかけてくると。そういうメタフィクション的な作り、第四の壁を破る。しかも今回の実写版では、「第四の壁を破るのがデッドプールだよね」っていうよく言及されるネタ、話さえもパロディ化しているわけですよね。「第四の壁って言うけど、今回はそれすら超えて……」みたいな話もするという。とにかく、そういうメタなギャグ構造っていうのがあったりするわけですけど。

ちなみにこのメタなギャグ構造っていうのは源流は、いろいろあると思うけど、僕がいちばん連想したのは『ルーニー・テューンズ』ですね。ワーナーのアニメーション。実際に『デッドプール』、最初に知った時に、「ああ、なんかバックス・バニーっぽいな。もしくは、ダフィー・ダックっぽいな」って。要するに、『ルーニー・テューンズ』っぽい。『ルーニー・テューンズ』っていうのはとにかく、特に1950年代、チャック・ジョーンズという天才的な作り手がいて。もう、そういうメタギャグ構造は極めまくっているわけですよ。『ルーニー・テューンズ』は。

なので、そういうのがあったりして。ちなみにデッドプールのメタギャグみたいなのがいちばん味わえるのは、コミックはもちろんのことですけど、ゲーム版がございまして。このゲーム版のデッドプールはですね、すっごいバックス・バニーっぽいメタギャグが徹底されている作品で。実写版の今回のとはまた違ったデッドプールの良さが出ていると思いますので、こちらぜひ、1回プレイしていただきたいんですが。で、もちろん今回の実写版でも、デッドプールをやるならばそれは当然のように、ちょいちょいその方向のギャグは入れてくるわけです。それこそ、エンドクレジット後までね、『フェリスはある朝突然に』ネタが入ってくるとかね。とにかくそういう、第四の壁を破るだの、メタ的なギャグが入ってくるんだけど。

特に、ここでは細かく語る時間はないですが、主演のライアン・レイノルズさんがここに至るまで歩んできた、本当に苦難の道のり。現実の役者としての苦難の道のり。その忸怩たる思いとかがあちこちに、それこそメタ的に織り込まれていたりするわけですけど。ただですね、それが決して劇中のウェイド・ウィルソン、つまりデッドプールになる人ですけど。ウェイド・ウィルソンが抱いているリアルな心情、つまり、劇中のリアルなドラマ性とかストーリーっていうその芯の部分まで——メタフィクション的な遊びっていうのはやりすぎるとそういうお話の部分まで解体してしまうわけですけど——それを解体してしまうところまではいかないバランスに踏みとどまっているんですね。

それどころか、ここが本当に今回の映画版は偉いんだけど。このデッドプールというキャラクターのメタ的に、要は客観的に見て、終始物事を俯瞰して見て、突っ込んだりボケたりせずにはいられないこの性分っていうのは、今回の映画版を見ているとですね、要は、彼の人生を覆ってきた、常人とは全然違うレベルの痛みとか苦しみとか悲しみ……もう、ひどい人生を送っているわけですよ。つまるところ、絶望に飲み込まれてしまわないための、実は結構切実な生きる術なんだっていうことが次第にこっちにも伝わってくる作りになっているわけです。

結構、アメリカの不良のね、僕は映画でしか知らないけど、たとえば『ブレックファスト・クラブ』のさ、不良の振る舞いっていうのも非常に、自分の辛い環境っていうのがあるから、それをなんとか笑い飛ばそうとして。不良に限ってそういう茶化すようなことを言うみたいなのは、結構アメリカ映画でよく出てきますけども。まさに、そういうことで。で、実際にね、今回の映画の中で主人公があう目っていうのはね、全体のトーンとしてはコメディ映画ですよ。ものすごいコメディとして扱われているけど、冷静に考えて、この映画の中で彼があう目ってこんなひどい話があるか!?っていう、もう悲惨極まりない話ですよね。これね。

要するに、大人になるまでもひどい育ち方をしているわけですよ。生い立ちだって冗談めかして語っているけど、現実として考えたら本当に不幸そのものな人生なわけですよね。貧乏だし、虐待も受けていたっぽいし。で、結構そういう傭兵、人殺しについていろいろひどい目も見てきて。で、ようやく幸せをつかみかけたら病気になっちゃって。病気を治そうと思って行ったら騙されて、拷問されてバケモノにされてっていうさ。ひどすぎる!っていう話じゃないですか。

だからこそ、彼は絶えずその悲惨極まりない現実を相対化して茶化そうとする。笑いのめそうとするわけです。そうしないと、絶望に飲み込まれちゃうからっていうことですよね。つまり、彼がふざけるのは誰よりも苦しんでいるからだし。彼が悪ぶっているのは、誰よりも優しいからっていうのがわかるからっていう、そういう作りになっているということですよね。だからこそ、たとえば見ていて同じように傷ついた魂同士が……これ、ヒロインを演じているモリーナ・バッカリンさん、素敵ですね。本当に素敵なヒロインが、でもあのヒロインも……現状、売春婦だし。そこに至るまでの生い立ちも本当にひどかったっぽいんだけど、でも、腐るでもなくそれを笑いのめすような生き方をしていて。

つまり、2人の傷ついた魂が、本当に傷ついているから笑うしかないっていう2人が、惹かれ合って求め合うラブストーリー。中で「ラブストーリー」って言ってるけど、あれはふざけているわけじゃないよね。たとえやっていることは、笑っちゃうほどあけすけなセックスプレイ。性的なプレイであってもですよ。国際女性デーとか笑っちゃったけどさ。でも、これは本当に純粋に心を打たれるラブストーリー。本当に2人の幸せを願わずにはいられない。本当にこれこそ、『ある愛の詩(Love Story)』ですよ。難病ものだしさ(笑)。だからこそ、その2人が幸せになった時に、「でもこれはあくまでもCMタイムで、これから通常の悲惨な人生が始まるのさ」っていう場面で、「そんなこと言うなよ〜!」って思うし、彼らがハッピーエンドを迎えた時に「よかった〜!」って本当に心から思える。本当に本気で涙が出てくるというラストになっているということだと思いますね。

ということで、メタなギャグであるとか、大量の80年代、90年代中心のそういうポップカルチャー小ネタとか。個人的にはものすごい同世代感を感じるギャグですけど。ものすごい、もう全部ほとんどわかるぐらいの感じだけど。そういうネタ的な楽しさに満ちた作品なのは間違いないけども、その中心には、まあはっきり言えば『オペラ座の怪人』ですよ。これは古典的な話ですよ。顔が醜くなった男が、かつての恋人を追いかけて、陰から見ていて、苦しい思いをして。『オペラ座の怪人』や、『ダークマン』とかいるけど……まあ、『ダークマン』も『オペラ座の怪人』だから。

『オペラ座の怪人』なんだけど、とにかくそういうシンプルでストレート。むしろ古典的でさえあるドラマの芯が1本ドーンとしっかり通っている。むしろ、さっきから言っているように、ふざける細部っていうのはキャラクターとかドラマに切実さ、深みをもたらしているという、非常に見事な作りになっていてですね。これ、脚本はレット・リースさんとポール・ワーニックさん。『ゾンビランド』っていうゾンビ映画をやったコンビですけども、非常に確かな仕事ぶりじゃないでしょうか。それでいて、語り口は非常にタイト。あくまでもタイト。108分。大きな見せ場は2つしかないというね。ヒーロー誕生譚というのはとかくクドクドクドクド、わかりきった話を……早く出せよ!ってなりがちなところを、時系列をいじったカットバック的な語りで、スピーディーに、退屈させずに語り切る。この作りも非常に上手いですしね。「ああ、この手があったか」っていう感じだし。

まず、単純にですね、これがタイトなのはさっき言ったように予算的な条件が大きいらしいですね。それこそ、2つしか大きな見せ場がない上に、その見せ場のうちの1つ……高速(道路)でのカーチェイスがあってから、銃撃戦がありましたよね。で、12発しか弾丸がない中で、敵を全部倒さなきゃいけないっていう場面ですけど。あれ、本当は元の脚本では18発だったんですよ。18発あったのが、予算の都合で12発にしたとかね(笑)。そんぐらい切り詰めてやっている。でもそれが結果的に、要は大きな見せ場みたいな、スペクタクル的なところを並べるあまりダラダラ長くなる一方の最近のアメコミ映画とは一線を画す、ある種の見やすさ、スピーディーさを生んでいると思います。

また、監督のティム・ミラーさん。この方は長編デビューだけど、そもそもブラー・スタジオっていうCG制作スタジオでいろんなゲームのムービーとか、映画のオープニングムービーとかを作っている人で、まあ手練れっちゃあ手練れの人で。この人が、ブルーレイに入っていた音声解説で言っているんですけど。とにかく繰り返し言っているのは、「とにかくペースアップを心がけた」って言っていて。なので、DVDとかに入っているカットされたシーン。後ほどね、日本でも見れると思いますけども、いい場面がいっぱいあるんですよ。

たとえば、ウェイドとバネッサがガン治療のために世界を回るっていう場面で、メキシコで『マン・オン・ザ・ムーン』っていう実在のコメディアン、アンディ・カウフマンの映画、あったじゃないですか。あれがガンを治しにいくっていうところのくだりのラストの近くと同じ、ある展開があったり。これ、すごく胸が痛くなる、すごくいい場面だったりとか。あと、敵のエイジャックスが、本当はあれ、ラフト刑務所から出てきた直後なんです。彼は。『シビル・ウォー』で出てきた、あの大げさな刑務所(と同じ場所の設定)。もちろん海からドーン! なんて、そんな描写(をやる予算)は無いですよ、こっちの映画は。でも、そこもカットしてとか。あと、デッドプールとコロッサスの口論ももっと長かったりしたんですが、カットして。

とにかく、いい場面はあったけどペースアップっていうのを非常に意識的にやっていることでもある。このタイトさは。で、あとカットされたシーンみたいなのを僕、ブルーレイとかで見てわかることはですね、ウェイド・ウィルソン、デッドプールを演じているライアン・レイノルズとその相棒ウィーゼルっていうのを演じているT・J・ミラーさん。このT・J・ミラーさん、非常に無表情でひどいことを言う感じが逆に親しいんだなっていうのがわかってすごくいいですが。吹き替えでもそのへん、ちゃんとキャラクターがつけられていてよかったと思いますが。この2人のセリフはめちゃめちゃアドリブしまくりの大量のテイクから選ばれたものなんですね。

たとえば、ウィーゼルがバーのところでジョークを言ってるじゃないですか。「医者が余命5、4、3、……」っていうギャグ。あれ、毎テイク、ジョークが違うから。その後にエイジャックスたちが店に入ってくるタイミングがわかんないから、「たのむから同じジョークを言ってくれ!」って言ったぐらいっていうね。あと、たとえばデッドプールが「シニード・オコナーかよ!」とかさ、ああいう80’s、90’sポップカルチャーネタみたいなのを結構入れてくるんだけど。あれ、結構な割合でライアン・レイノルズが勝手にアドリブで入れていることっていう。もちろん、ライアン・レイノルズ自虐ネタもそうだし。あと、X-MENネタ。たとえば、「えっ、プロフェッサーXに会わせる? マカヴォイ? スチュワート? 時系列がわかんないんだけど」とか、ああいうの。あと「なに? この屋敷に2人しかいないように見えるのは、予算がないから?」とか。これはライアン・レイノルズが入れてるアドリブなんですね。これね。

ということで、さっきも言ったように、ここに至るまで非常に長い紆余曲折を経て、苦節ン年でここまで至ったライアン・レイノルズ。きっかけは2004年の……最近、日本語版が出た『ケーブル&デッドプール』という中で出てくるあるセリフ。要するに、「ライアン・レイノルズとシャー・ペイ(犬)を掛けあわせたような顔だ」っていう。これを見て運命を感じたというところから始まっての、そのデッドプールという役の因縁をもっているライアン・レイノルズ。いろいろあったけど、アドリブ力とか、おしゃべりモンスター力を含めて、本当に理想的なキャスティングだったんだなというのがはっきり、今回確信できる感じだと思う。

今回の作品でライアン・レイノルズを見直したという人、世界中に僕も含めてたくさんいると思います。それこそ、辛い思いをいっぱいしてきたのを笑いのめして……っていうのは、彼こそが、ライアン・レイノルズこそが、デッドプールその人なんだ!っていうことですよね。かと言って、そのアドリブ、おふざけも、さっきから言っているようにドラマ、ストーリーのバランスを崩すほどは悪ノリしないというところが見事なあたりで。それこそ、『ルーニー・テューンズ』的なスラップスティックやりすぎると、お話を解体されきっちゃうと……『ルーニー・テューンズ』は5分だからいいけど、映画を見きれなくなっちゃうから。ギャグの入れ方も非常に微調整されていると。

事ほど左様にですね、全てにおいて、これは言い方がつまらない言い方に聞こえるかもしれないけど、実はバランスがいいんですよね。すごくバランスがいいっていうのが本作の真の勝因だと思います。たとえば、実写とCGのバランスがすごく考えられていていい。そこはやっぱりCG会社を経営されているだけあって、監督のティム・ミラーさん。すごくわかっていると思いますが。アクションシーンにしろ、メイクとかコスチュームなどにしろ、CGの入れ込み方がさすが本職だけあって完全にシームレスになっていて、すごく上手いというあたりもあるし。チープなところとそうじゃダメなところが、コスト計算がちゃんとできているっていうことだと思うんですけど。

あと、そことも通じるけど、アメコミ的キメ画と映画的な動き、連続性みたいなものとのバランスもすごくよく配置されている。それこそ、ド頭から思わず笑っちゃうオープニング・タイトルシークエンスとその後で出てくる実際の、なんでこの場面になったかの一連のシーンは、アメコミ的なキメ画イズムと、映画ならではのその動きとか空間の連続性っていうのの見事なハイブリッドですよね。あそことか見事。上手いな! という風に思いましたけど。あと、暴力性とかグロさも観客が引きすぎないレベルに、実はちょうどよく調整済みと。だから、ウェイドの顔がそんなに醜くなっていないっていうのは、あれは当然作り手側ももっと醜くしていたんだけど、見るのがキツくなるレベルじゃないレベルに調整しているっていうことですよね。

もちろん、たとえばかっこよさと笑い、緩急のバランスみたいなのは言うまでもなくということだと思いますね。たとえば、クライマックスの殴りこみシーンで、DMX。見事にバカっぽいDMX(『X Gon’ Give It To Ya』)をバカかっこいい感じでかけて。行くぞ!ってなったらそこで一旦、膝カックンして。からの、もう1回行く! みたいなね、緩急のバランスはもちろんということでございます。ということで、骨格は実にシンプルなんだけど、ディテールを何度でも味わい尽くしたくなるという良さに満ちていると思います。

ただ、これは作品そのものの出来とは関係ないですけど、やっぱり日本の観客には一定割合、言語ギャップ、カルチャーギャップから来る若干の置いてけぼり感というのはどうしてもあると思う。たとえば、敵のエイジャックス。「お前、偽名だろ?」って。で、「○○か? ××か?」って、いろんな名前を言うくだり。字幕では「ミスター・ビーンか?」ってなっているところ。吹き替えでは「イギリス人か?」ってなっているところ。あそこ、本当は「バジル・フォルティか?」って言っているわけですね。バジル・フォルティっていうのは『モンティ・パイソン』のジョン・クリーズという人が『モンティ・パイソン』の次にやったドラマシリーズ、『フォルティ・タワーズ』の主人公の名前なわけです。だから、まあイギリス人でちょっとふざけて言っているわけですけど。

で、『モンティ・パイソン』ネタはコロッサスを殴れば殴るほどデッドプールがひどくなっていくっていうあのシーン。あれは『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』っていう映画のオマージュでもあったりするので、お好きね〜っていうことなんだけど。なんにせよ、そんな「バジル・フォルティか?」って聞いたってわかるわけない。もう日本人関係ないな。わかる人は限られているわけで、これはいずれ日本版ソフトが出る時に、日本オリジナル特典の音声解説とかで、それこそ町山(智浩)さんとかを呼んできて全ネタ解説とかつけてくれればもう最高!っていうことですよね。

「おい! こんなロージー・オドネルみたいなのと残す気かよ?」みたいな。ロージー・オドネルっていうのはやっぱり説明必要だと思いますので。その点、吹き替え版はですね、少なくともデッドプールというキャラクターのニュアンスみたいなのは日本人にも直接的に伝わるようになっていて、本当にすごくよかったと思います。「今夜、オナニーしよ〜っと」とか。あと、「スーパーチンコ」っていうものすごい直接的な表現。とてもよかったと思いますが。

ただ、ちょっと訳し方的にあれっ?って思ったところもありましたけどね。デッドプールの名前を決めるところで、ウィーゼルがですね、「フランチャイズっぽい名前だな」っていうのを吹き替え版だと「チェーン店っぽい名前だな」って訳し方をしているんだけど。フランチャイズは……もちろん「チェーン店」とも取れるけど。音声解説でも監督もそう解釈しているのはこれ間違いないけど、要は「シリーズものっぽい名前だな」っていう、ちょっとメタなセリフなんですね、あれはね。で、ウィーゼルがメタなことを言うのは、リアリティライン的にはちょっとアウトなんだけど、監督は「面白いから有りにした」的なことも解説で言ったりしていました。

もちろん、1個1個の小ネタギャグね。はっきり言ってこれ、「わかんないけどなんかオモロイ」で十分です。っていうか世界的に言っても、さっきの『フォルティ・タワーズ』ネタとかわかるわけないんだからさ。だから、いいんです。わかんないけど、なんか面白い。後から勉強してねっていうことでいいんだと思います。とにかく、一見さんでもすんなり楽しめ、なんなら感動できる。一方、マニアたちも納得。細部に至るまで、もうしゃぶり甲斐がある。「あっ、ボブ出てきた!」みたいなね。ボブっていうのはデッドプールの手下のキャラクター。ボブが出てきたとか。

とにかくバランスよく丁寧に真っ当に作られた、これぞ実は王道エンターテイメント。作った人たちのガッツに、特にライアン・レイノルズの「くじけなさ」に僕は心からの拍手を送りたい。一言でまとめれば、最高です! いま、これを見なくてなにを見る? ぜひ劇場でご覧ください。

(ガチャ回しパート中略 〜 来週の課題映画は『クリーピー 偽りの隣人』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。


宇多丸、映画『マネー・ショート 華麗なる大逆転』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年3月12日放送

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「映画館では、今も新作映画が公開されている。
一体、誰が映画を見張るのか?
一体、誰が映画をウォッチするのか?
映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる――
その名も、“週刊映画時評ムービーウォッチメン”!」

毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送でお送りしている
TBSラジオ AM954+ FM90.5
『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。

その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸による渾身の映画評
「週刊映画時評ムービーウォッチメン」(毎週22:25〜)
の文字起こしをこちらに掲載しています。
今回紹介する映画は『マネー・ショート 華麗なる大逆転』(日本公開2016年3月4日)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

▼ポッドキャストもお聞きいただけます。

http://podcast.tbsradio.jp/utamaru/files/20160312_watchmen.mp3

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宇多丸:
今夜、扱う映画は先週、ムービーガチャマシンを回して決まったこの映画。『マネー・ショート 華麗なる大逆転』

(BGM:レッド・ツェッペリン『When the Levee Breaks』が流れる)

はい。これ、最後に流れるレッド・ツェッペリンの『When the Levee Breaks』という、ヒップホップの古典的ブレイクビーツとしても知られているあれですけども。この歌詞の内容がシンクロしているということですね。訳すと、「堤防が決壊する時」。意味深ですね。アメリカを代表するベストセラー作家、マイケル・ルイスのノンフィクション小説『世紀の空売り−世界経済の破綻に賭けた男たち』を映画化。世界中を襲った世界金融危機の裏側で一世一代の大勝負に挑んだ4人の男たちを描く。

監督は『アザー・ガイズ 俺たち踊るハイパー刑事!』などコメディー映画を数多く手掛けてきたアダム・マッケイ。まあ、過去5本ですね。出演はクリスチャン・ベール、スティーブ・カレル、ライアン・ゴズリング、ブラッド・ピット。非常に豪華なキャスティングとなっております。今年のアカデミー賞、賞レースでも非常にあちこちにノミネートなんかされておりました。脚色賞を取りましたしね。ということで、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』、これをもう見たよというリスナーのみなさま、ウォッチメンからの監視報告をメールなどで頂いております。ありがとうございます。

メールの量は……まあ、普通という。アカデミー賞、脚色賞止まりだったということもあるんですかね? 賛否で言うと、賛が6割。否、「あんまり良くなかった」とか、「面白かったけど不満もある」が4割。「予想と違ったけど最後まで飽きずに見られた」「専門用語がたくさん出てくるが、劇中の説明で最低限はわかる。完璧に理解できなくても十分楽しめた」などが主な褒める意見。それに対して、「出てくる用語がわからず、劇中で何が起こっているのか全くわからない」「どのキャラクターにも感情移入できず、退屈だった」が主な否定的意見。

また、賛否どちらの人も「あのサブタイトル『華麗なる大逆転』や予告編は詐欺だ」という意見が本当に多かったということなんですけどね。

(中略~メールの感想読み上げ)

……はい、ということで行ってみましょう。『マネー・ショート 華麗なる大逆転』、私も、要はね、やっぱりたしかにね、一度では理解しきれないところも多かったため。あと、原作を読んでからとかいろんなセッティングを試すためにですね、三度ほど見てまいりました。まあね、この邦題『マネー・ショート 華麗なる大逆転』。こういう日本題をつける気持ちはわかるけれども……たしかに誤解を与えやすい感じだな、という。原題は『The Big Short』。『マネー・ショート』っていうと「なんかお金が足りないのかな?」みたいな。そんな話に思えちゃうけども。

「ショート(Short)」は金融業界とかああいう業界用語。ウォール街で言う「売り」。「買い」が「ロング(Long)」で「売り」が「ショート」っていう、そういうことらしいんですよね。マイケル・ルイスさんが書いた原作のノンフィクション。『マネーボール』の原作者ですね。『マネーボール』は僕、2011年11月26日に映画評をしましたけども。ノンフィクションの日本題が『世紀の空売り』。『The Big Short(巨大な売り、デカい売り)』っていうことですね。『世界経済の破綻に賭けた男たち』という、文春文庫から出ておりますが。

で、改めて言うならば、2007年から始まる、2008年にかけてクライマックスを迎える世界金融危機。その後も、もちろん余波があるわけですけど。いわゆるサブプライム住宅ローン危機からリーマン・ショックみたいなところに行く時にあったことが題材。それを元にしたフィクションということですね。で、僕ももちろん世界金融危機。スーパー大事なのはもちろんわかっているつもりだったけど、じゃあ実際にどういうことなのか?っていうことについては本当になんとなくしか分かってない。「リーマン・ショックっていうんだから、リーマン・ブラザーズがなんかやったんでしょ?」みたいな。

やったんだけど、別にリーマン・ブラザーズがたとえば主犯格的な役割とか、そういうことじゃないんだよ、みたいなね。そういう誤解をしている人、ぼんやりした誤解をしている人、いると思うんですけど。で、今回の映画を見て、原作のノンフィクションを読んで。あと、アカデミー賞も取ったドキュメンタリーで『インサイド・ジョブ』。これはまさに金融危機を描いていますけども。を、見てみたりなんかして、ようやくまあ、ビギナーレベルで。ビギナーレベルね。僕より知らない人になんとなく、たとえ話とか使って説明できる程度には理解したかな? 理解したつもり、ぐらいの感じですけども。

で、非常にシリアスかつ、ややこしい題材なわけですが、それを脚本化・監督したのが、映画ファンとしては「おっ!」となるところ。アダム・マッケイっていうね。驚きではあるんだけど、実は納得の人選と。まあ、ご存知の方も多い通り、もともとは完全にコメディー畑の人ですね。先ほども説明がありました。『サタデー・ナイト・ライブ』の作家出身という。で、その『サタデー・ナイト・ライブ』で仲間になった、僕、本当に大ファンなんですけども、ウィル・フェレル。もうウィル・フェレルが出ている映画は全部見ているというぐらい、ウィル・フェレル大好きなんですけども。

ウィル・フェレルと組んで数々の超ナンセンスコメディー映画の傑作を作ってきた。代表作はやっぱり『俺たちニュースキャスター(Anchorman)』というのがありますよね。あと、『タラデガ・ナイト オーバルの狼』なんていうレースが舞台のやつとか、『俺たちステップ・ブラザース -義兄弟-』。思い出すだけでちょっと吹き出しちゃう大バカコメディーの数々、傑作を撮っています。ただ、2010年。つまり金融危機の後に作られた『アザー・ガイズ 俺たち踊るハイパー刑事!(The Other Guys)』。『その他のやつら』っていうタイトルですね。刑事もの。が、ちょっとターニングポイントになっている。この作品も素晴らしいんですが。

特にエンドクレジットでですね、割とストレートに。それまではもう大バカコメディー、ナンセンスコメディーなわけですよ。すげーバカなギャグをやっている、そういう映画ばっか作っていたんだけど。『アザー・ガイズ』もそうやって進むんだけど、金融詐欺が題材になって、エンドクレジットでまさに俺がさっき、『あいつら、罰されてねえんだよ!』みたいなのとかも含めて、初めてそういう金融界とかの社会的不正義に対する怒りを、結構ストレートに叩きつける作品になっていて。ここがターニングポイントになる。

その後、たとえば2012年。原案と脚本を書いた『俺たちスーパー・ポリティシャン 目指せ下院議員!』。これもウィル・フェレル主演のやつですけども。これなんかも、メッセージの着地はすごく真面目だったっていうね。っていうかそもそも僕、パンフレットのバイオグラフィーでこれを初めて知ったんですけども。アダム・マッケイさん。『マイケル・ムーアの恐るべき真実 アホでマヌケなアメリカ白人』シリーズ。テレビでやっていたドキュメンタリーシリーズ。これの企画・制作とかをやっていたということなんですね。だから、もともとそういうポリティカル志向はあったということですけどね。

今回の『マネー・ショート』もですね、原作者のマイケル・ルイスさんの弁によればですね、『俺たちニュースキャスター』の続編。2013年の『俺たちニュースキャスター 史上最低!?の視聴率バトルinニューヨーク』という、これがもう輪をかけてくっだらない、もうくだらねえにも程があるっていうギャグが連発するのがあるんですけど。これも大好きなんだけど。これを作るかわりにスタジオから、「絶対に儲かる『俺たちニュースキャスター』の続編を作るんだったら、『マネー・ショート』っていう小難しいやつも作っていいよ」みたいな。そういうバーターで……っていう噂を原作者のマイケル・ルイスさんがおっしゃっておりますが。

で、それだけアダム・マッケイ監督的には社会派メッセージ路線っていうのは大マジっていうことですね。もうこれで行くぞ!っていう。で、その大バカ、ナンセンスの極みみたいな『俺たちニュースキャスター』の続編もですね、同時に劇中、近年のアメリカにおける報道倫理の変化みたいなものを歴史的に俯瞰する、言ってみればジャーナリスティックな視点みたいなものも入っている。

もともと、たとえば『ニュースキャスター』の一作目で非常に性差別ネタがあったりとか。二作目だと人種差別ネタがあったりとかっていうのも、まあ『サウスパーク』とかもそうなんだけど、実は非常に知的な批評性があって初めて笑えるんだよ。もともと、大バカなんだけど知性がベースになっているタイプのコメディーではあったということですね。で、そんなアダム・マッケイさんがですね、初の、ウィル・フェレル主演じゃなくて。ウィル・フェレルが今回出ると、さすがにちょっと……(笑)。どこで脱ぎ出すんだろう? とかね、暴れたりするんだろう? みたいになっちゃうけど。初の非コメディー。でも、スティーブ・カレル。立派にね、コメディアンなわけですけど。

初の非コメディーというか、この『マネー・ショート』も本当にあった笑うしかない、あまりにもすごすぎて、もはや笑えない不条理な事実を扱った、広い意味でのコメディーとは言えると思うんだけど。とにかく事実ベースの非ナンセンスコメディー。事実がベースのというのは初めてで。それでアカデミー賞で一気に脚色賞をゲットしましたし。作品賞ノミネート。ねえ。『俺たちニュースキャスター』は絶対に作品賞はノミネートされないですからね。それは、どんなにベースに知性があろうが何をしようが。大出世と言えるんじゃないかと思いますけども。

ただですね、予備知識ない未見の方にやっぱり、一応断っておかなきゃいけないのは、たとえば日本版のタイトル『華麗なる大逆転』。あるいは、日本版のポスターから当然受ける『オーシャンズ11』シリーズ的な印象。要は、悪いやつらに腕っこきチームが知恵を使って一泡吹かせるみたいな、そういう『オーシャンズ11』シリーズ的な印象とは根本から全く違う映画です!っていうことですね。そもそも、とても華麗に大逆転したって、そんな「華麗」なんてとても言えないような。「大逆転って言うのか? してないよね?」っていう、そういう話だし。

あと、そもそもポスターのあの4人。一組除いてチームじゃないどころか、会ってもいないっていうね。顔を合わせてもいないっていう、そういう話なんで。むしろ、そういうエンターテイメントとしてのわかりやすさとかカタルシス。スカッとする感覚。わかりやすさとかカタルシスの逆を行くような、それを狙っている作品なわけです。つまり、はっきり言うと、わかりづらいし、見終わっても全くスッキリしないっていうことですね。だから先ほどの否定的な意見も全くその通りっていうか。そういう風に作ってある作品ですね。

ただ、これも同時に、これは僕の見方として念を押しておきたいのはですね、そのわかりにくさとか、スカッとしなさ、カタルシスのなさっていうのは世界金融危機というこの題材に対する必然的アプローチ。もっと言えば、倫理的に唯一適切なアプローチという風に作り手が作って選んだやり方だと思うんですよね。つまり、たとえばですね、この物事。金融危機が起こった構図を過度に単純化してわかりやすくしすぎたり、あるいは善側にいる主人公が悪いやつらを倒すというような安易なお話的カタルシスを創作したりすると、これは全然違うことになってきちゃう。

つまり、金融危機っていう出来事の本質を歪めて、見誤らせてしまうことになる。そういう意図がはっきりあった上での、この作りなんだと思うわけですよね。まず、これも先ほどの最初のメールにあった通りだと思います。劇中でも言われている通り、現代の金融界。債権市場。これが破綻を招く元にもなったんだけど、その市場自体がまさにその「わかりづらさ」。難解そうな見かけっていうのを隠れ蓑に好き放題やってきたっていう事実が、これ、劇中でも言われているわけですよ。

しかも、完全に抽象的な商取引の世界ですからね。なので、原作のノンフィクションでさえ、わかりやすく説明はすごくしているんだけど、途中で何度も、「いやー、わかりにくくてすいませんね」って。脚注とかで「こんな話、よくここまで読み続けてくれて。すいませんね」みたいなことをエクスキューズが入ってくるぐらい。ということで、とてもじゃないけど、原作者のマイケル・ルイス自身も、「とてもじゃないけど映画化なんてできるわけがねえだろ? 『マネーボール』ならわかるよ。まだ、野球だから」って。あれだって、でも野球の試合のところは出てこない、変な野球映画だったわけですけども。

ただ、それをですね、監督アダム・マッケイさんはですね、それこそナンセンスコメディー畑ゆえの、非常に自由な発想とアプローチで、ものすごくポップに語ってみせることでですね、要は金融のプロたちがですよ、「まあ、素人さんにはわかんないと思いますよ」って言って煙に巻いて好き放題やってきたっていうのを、「って言っても、そんなご立派なもんじゃないんだぜ」っていうことを暴くがごとく、批評的に観客に伝えるために、非常にポップなアプローチを取っている。

具体的には、たとえば登場人物が、やおらこちら側に向かって話しだす、そういうメタな作りであるとか。あるいは、登場人物どころじゃない。実在の著名人が本人役で出てきて、こちら側に向かって話しだす。そういう、何重にもメタになった作りであるとかですね。様々な現実の映像ソースのコラージュ。ミュージックビデオから、報道からね、スチール写真から。あの時代をパパパッて表す時のスチール写真の選び方のセンスがすごいアダム・マッケイ、いいなと思いましたね。

「LL・クール・Jの『Mama Said Knock You Out』。『ババァ、ノックしろよ!』の途中のテーマでかかる、『Mama Said Knock You Out』の年だ」「あ、2パックとか出てきた頃だ」みたいなね。あと、最初にブルース・ブラザーズが出るのは、さすが『サタデー・ナイト・ライブ』出身っていうことかもしれませんけどね。まあ、そういう映像コラージュであるとか。あるいは、BGとして流されるポップミュージックと内容の、歌詞的なシンクロであるとかですね。もちろん独白ナレーションとか字幕など。とにかく映画として使える手段は、リアルと虚構のレベルとかそういうのを問わず。もう手段を問わず、全てブチ込むというやり方でやっている。

この情報量とスピードだけで、僕は十分もう、全然楽しいっていうか。超楽しいと思って見るわけですけども。いちばん映画の作りとして近いのはですね、もちろん、マーティン・スコセッシが大傑作『グッドフェローズ』である種開発した手法をさらに自ら発展させてみせた2014年。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』が非常に題材そのものも近いですし、アプローチも非常に近いですし。そして、まさにそれを連想せざるを得ないぐらい、同じマーゴット・ロビーさんが出てきてね、しゃべったりなんかするわけですけども。

ほとんど、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のあの奥さんが出てきて、風呂入ってしゃべっているような感じだよね。ただ、ぶっちゃけ、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』がものすごいシンプルな話だったように思えてくるぐらい、やっぱりあれよりもさらに何倍も複雑怪奇な世界というか。はっきり言って、犯罪的。金融犯罪というか、そういうことで言えばもう規模が違うんで。規模も複雑さもケタ違いなので。やっぱり正直言って、この映画だけを一度見ただけで、全てを理解するというのは、僕も含めて普通の観客は難しいっていうか。はっきり言って無理だと思いますね。

おすすめは、映画を1回見て、次に原作を読むんです。そうすると、理屈がよりスッとね、具体的な画を伴ってフッと入ってきやすいですし。あと、原作の実際にあったノンフィクションの起こったことと、今回の映画版がどうアレンジしているのか? みたいな。そういう違いも明確にわかったりなんかする。たとえば、マーク・バウムっていう名前の人は元の本には出てこないんだけど、それに当たる人が、映画だとお兄さんを亡くされているというのが心の傷として設定されていたけど、実物はあれ、お子さんを亡くされているんですね。

みたいな、そういうアレンジも含めて、映画を見てから原作のノンフィクションを読むと理屈がポンポン入ってくるでしょうし。で、もう1回、映画に戻ると……僕、実際にそれをやったんですよ。映画を見て、ノンフィクションを読破して、映画に戻ると、あら不思議! なんちゅうわかりやすい映画なんだ。この映画、めちゃわかりやすいよ!っていう。むちゃくちゃわかりやすく映画化していると。いろんな情報とかが、本当に過不足なく入って、とってもわかりやすい映画だという、印象がガラッと変わるようになっておりますので。ぜひ、この順番をおすすめしたい。

まあ、そんな手間はかけられないよという方もですね、初見でも、ちゃんと頭をフル回転させてついて行こうとすれば……っていうかこのね、劇中で与えられる情報に頭がフル回転してついて行こうとする感覚そのものが、僕はこの映画の結構大きな魅力だと思っていて。「あっ、こういうことか。こうか、こういうことか!?」って、普通使わないような頭の使い方をするという。これも魅力の部分だと思うし、途中の部分。それこそ著名人が、セリーナ・ゴメスとかが出てきてですね、いろんなたとえを使って説明する。

まあ、ジェンガだとか、レストランの料理だとか、ベガスのブラックジャックなどを使った解説で、最低限、だいたいこういうことですよっていう。お話の展開上、必要レベルの情報は与えられるようになっているとは僕は思っております。ただ、敢えて言えばさっき言った、最初にね、マーゴット・ロビーさんという非常にきれいなブロンドの女性が出てきて、サブプライムローンとは何か? とか、それについてかける実質、保険ですね。クレジット・デフォルト・スワップとは何か?っていう説明をするという。

要は、一発目なんでここはギャグ効果なわけですね。「こんな小難しい話を聞くのは退屈でしょうから、美女のお風呂姿でも見てください」っていうのでやるんだけど、ここだけね、わかりやすいたとえみたいなのを使わずに説明している。要するに、ギャグとしてのみ機能させているため、しかも、サブプライムローンの危なさの説明とか、そのクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)の説明は結構根幹に関わることだから、ここはもうちょっと、後半と同じようにわかりやすいたとえをしておいた方がよかったんじゃないかな? とはちょっと思わなくもないということなんですけどね。

で、まあ何よりもですね、我々のような観客全員が、登場人物の誰よりも、見ながら「専門用語わかんないな」とか、「すごい頭のいい人たちが勝手になんかいろいろやっているような話だな」なんて思うかもしれないけど。我々は、その登場人物の誰よりも知的優位に立つ、圧倒的なある一点があるんですよ。それは何か?っていうと、冒頭でも示される通り、我々は事の顛末を知っているっていうことですよ。誰の言っていることが結果的に正しかったかっていうのを、我々だけが知っているんだから。で、それを基点に見ていけば、多少金融市場の概念とか用語がわからなくても、少なくともお話的顛末っていうのには、それほど混乱はきたさないっていう作りになっているはずです。と、思います。

ただ、ここがこの『マネー・ショート(The Big Short)』。ひいてはその世界金融危機という話の厄介なところなんだけど。まず、あまりにも舞台となる金融市場の理屈が、あまりにも不条理な状態が進行しすぎていて、まともに考えたらそれこそ、「華麗なる大逆転」となるような局面でも、それが始まってもですね、何も変わらない。どころか、逆行する現象すら起こるっていう。要は登場人物たちも、「えっ、どうなってんの、これ。おかしくない?」みたいな。全く登場人物たちでさえ納得できない、わからない展開に後半、突入するわけですよ。

つまり、現実がもうおかしすぎて、「なんだよ、わかんないよ!」っていうことになる。それ故、お話としてはどんどんわかりづらくなるし、カタルシスがどんどん減っていくということになる。せっかく大仕掛けしたのに、「えっ、意味ないの?」みたいな。ひどすぎて……みたいな。しかもですね、その主人公たちの正しさが証明された時というのは、要は一旦、落ち込むわけですよね。「おかしいな。こんなはずじゃないのにな」って落ち込む。それは、後にクライマックスで、たとえば主人公たちの正しさが証明された瞬間のカタルシスを倍増させる、お話上の効果的な負荷……とは、扱われないということなんですね。

ここでグーッと下がったんだから、「やっぱりわかったか。ざまーみろ!」とは、ならない作りになっている。っていうのも、我々がつい、我々と同じように、劇中にある若者が出てくるんだけど、若者たちが調子をこく。「これで俺たちの勝ち、間違いない!」って。実際に彼らがいちばん最後に乗ってきた分、いちばん儲けるんですけど。あの2人が。劇中、ブラッド・ピットの口を借りて言われる通りですね、その主人公陣の正しさが証明されるということは、イコール、社会システムが崩壊して大量の被害者。なんなら、現実に死者が大量に出るというような事態を意味する。

しかも、主人公たちの勝利っていうのは別に、システムそのものを全体に正すわけじゃないわけですよ。むしろ、システムの隙を掠め取るだけだから。たとえて言うなら、こういうことですね。火事が起こりつつあるのに、まだ誰も気づいていない建物に火災保険をかけて。で、実際に傍目から見ても明らかなぐらい火の手がボーボー上がって、被害者も出て。なんなら、死人も出たような状態になって初めて、大金を得るっていう。もう、火事場泥棒なわけですよ。言っちゃえば。

だから、途中でね、「格付け機関が全くちゃんと格付けしていないから、市場がちゃんと動いてないじゃないか!」って文句を言いに行くところがある。後半で。格付け機関の女性。彼女は立場的に、物語上は明らかに悪の立場にいる人なんだけど、非常に象徴的な黒い眼鏡を外す。つまり、最初はね、何も見えてない人。何もわかっていない人風なんだけど、やおら黒眼鏡を外す。つまり、「私も本当は見えて、わかっているのよ」と。で、彼女がやおら、彼女のことを追求しているスティーブ・カレル演じる怒れるヘッジファンド・マネージャー――このスティーブ・カレルの役が観客の感情移入をさせるいちばんの器だと思うんですね。つまり、「こんな不正が許されるのかよ!?」っていう怒りがベースな人。まあ、怒りすぎなんだけど。ちょっと(笑)。あと、空気読まなすぎの件。あれ、全部本当らしいからね。講演の最中に「はいはいはーい!」ってやってね――まあ、それはいいんだ。スティーブ・カレルは正義の立場から格付け機関の女性をこうやって追求しているはずなのに、その彼女がフッと眼鏡を外して、「私だってわかっているのよ。バカのふりをしているぐらいなのよ」みたいな感じなんだよね。取って、「『格付けを下げろ』って? それで何をするの? CDSの格付けが下がって、めちゃくちゃになって、あなたたちは儲けようとしてるんでしょ? ……偽善者」って言うというね。

つまり、そういうのを突きつけてくるわけですよ。気持よく勝たせてくれないわけですよ。つまり、どうしたってカタルシスなどないし、そもそも、この件をたとえ主人公たちの読みが歴史的には正しかったとしても、気持ちをさ、カタルシス。スカッとした勝ちとして描いてはいけないっていう、そういう倫理が強くベースにある話だということなんすね。しかもですね、その結果、せめてあからさまに大きな不正を働いた中枢のやつらとか、失敗したやつらみたいな。そのせいで、いろんなところに迷惑をかけたやつらはどうなったか? そいつらが正されたか? 罰されたか?っていうと、後味最悪……!っていうね。

つまりですね、こういうことだと思います。アダム・マッケイさんが今回の脚本も書いています。後から脚色しましたけど。監督がどういうことを伝えたかったのか? つまり、今回の映画、ハリウッドエンターテイメントの作品だけを見て、なにかをわかったような気にさせて、お話的にめでたしめでたしで安心して。安心して観客を映画館から送り出すなんて気はさらさらなく。そうじゃなくて、「この事態の見かけのわかりづらさから逃げるなよ、お前ら! 見かけのわかりづらさから逃げていたら、また繰り返すぞ、これ。何も解決されてない。現実には。わかってんのか、お前ら!?」と。

つまり、観客に「そういうものに向き合え」っていう風に促すような作りになっているわけですよね。たとえばこれね、アメリカの金融市場に限らないと思うんですよ。現代の巨大で“複雑に見える”システムなら、なんでもメタファーとして当てはめられることだと思う。それこそ先ほどね、日本の金融市場である、本当に日本のさ、借金があんだけ膨れ上がって。どうすんの、これ。破綻手前じゃないの?っていうね。それこそ、賭けているやつ、いるかもよ。日本の負けにさ。

だし、原発事業とかでもいいですよ。根本的な危険が内包されているのを指摘もされていながら、個々のパートに属している人は、誰も全体像を知らないから責任を取らない。『悪の法則』のあのね、売人たちのシステムみたいなもんですよ。でも、現場を見ると、問題が明らかに山積していたりとかして。で、一旦システムが文字通りメルトダウンし始めると、その被害の広がりは元の事業責任者がもう取れる責任をはるかに超えて……っていうか、どこまで責任が広がっているか、CDSもそうなんですけど、どこまで行ってるかわからない。総量が把握できない。似てるね、みたいなね。そういう風なメタファーとして取ることもできる。

だから非常に普遍的な話を問うてもいると思います。ラストにレッド・ツェッペリンの『When the Levee Breaks』。ヒップホップの超古典的定番ブレイクですけど。「堤防が決壊する時」という歌詞とのシンクロに非常にワーッと戦慄するということでございます。BGMとのシンクロという意味ではですね、最高なのはベガスの日本料理屋『Nobu』という店でですね、CDO(債務担保証券)マネージャーという……「CDOの何をマネージしてんの、お前は?」っていう。要は非常に危ない商品をメリルリンチのあれに従って作っているだけの男とスティーブ・カレル。さっきの怒れるファンドマネージャーが対峙して、そのCDOっていうのがいかに不正に膨らませられた代物か?っていうのをマーク・バウムがはっきりと認識するシーンですね。ここで流れるBGMが、こちら!

(BGM:徳永英明『最後の言い訳』が流れる)

徳永英明『最後の言い訳』っていうね。間違いなくこれ、アダム・マッケイが「日本料理屋で流れる日本語の歌で、なんか『言い訳』とかそういうの、ない?」みたいな(笑)。たぶんそれで選んでいるのは間違いないと思う。このシーンに限らず、スティーブ・カレル演じるマーク・バウムさん。サブプライムに関わる調子コイたやつらの弁舌を前に、一応ね、調査しているから我慢して聞いてるんだけど。もう、顔が怒りにゆがんで、その表情がもうスティーブ・カレル、最高なんですけど。『フォックスキャッチャー』の真逆というかね。すごい役者だなと思いますけども。

特にこのいま言った日本料理『Nobu』のシーンはですね、鉄板がジューッと焼ける音。これが彼の怒りが沸騰しているぞというのを半分漫画チックに盛り立てもするし。ここがすげーなと思うんだけど。要は、ひどすぎて笑っちゃうコメディー。さっき言った広義のコメディーであることの非常にブラックな証として、シットコム(シチュエーションコメディー)のような、足し笑いがコラージュされるんだよ。あの場面ね。

相手の人がなんか言って、「なんだ、それ? なんだ、その仕組み!?」ってなると、「ワハハハハッ! ワハハハハッ!」って。……ひどすぎるでしょ?っていう(笑)。すごい、そういう作りになっていて、このあたり、バリー・アクロイドさんというカメラマン。ドキュメンタリックな撮影だったり、ハンク・コーウィンさんの非常にキレッキレな編集も相まって、僕は今回の『マネー・ショート』、白眉となるシーンだと思いますね。『Nobu』のシーンね。

一方、他の登場人物と全く絡まない。どころか、ほとんどオフィスの部屋も出ないし、人と話している時も同一画面に収まることがないという。つまり、本作における絶対的な孤独を体現するクリスチャン・ベール演じるマイケル・バーリという天才的な数字読みがいるわけですけど。クリスチャン・ベールは義眼をしているっていうね。マイケル・バーリさんはそういう設定なんだけど。なんとあれ、コンタクトレンズどころではなく、純肉体演技だそうです。その演技を含め、クリスチャン・ベール。要はアダム・マッケイの非常に即興を多用してドキュメンタリックに押さえる演出も相まって、なにかこう、圧倒される迫力がある演技ですね。すごかったですね。クリスチャン・ベールもね。

あと、軽薄そのものに今回は徹したライアン・ゴズリング。軽薄な債権トレーダーに徹したライアン・ゴズリング。あと、無表情。今回も脇に徹して、持たざる若者を引き立てるブラピもすごくいいし。あと、脇に至るまで、キャスト全員が最高。たとえば、サブプライムローンの仲介業者のあの2人の、ザ・DQNぶり(笑)。絵に描いたようなDQNぶり。最高です。基本、笑える話なんです。僕、今ちょっと重たい話をしましたが、基本、随所で笑える、ブラックな笑いがある話です。

決して万人向けとは言いがたいが、本当は万人が見て、頭を抱えるべき。これは本当に力作だと思います。なにより、「よくこれを映画にしようと思ったし、実際にしたよね」っていうだけで、僕は5億点差し上げたい。本当にこの心意気に。アダム・マッケイ、感動した! 『マネー・ショート』、ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(中略~来週の課題映画は『マジカル・ガール』に決定)

以上、週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

(翌週での補足:「先週、言い忘れたことがあったなー。たとえば、リーマンショック終わりのあたりで、リーマショック後にガランとしたリーマンのオフィスに若者ふたりが入っていって、『誰もいないね』『誰がいると思ってんだよ』『……大人が』って、これはグッとくるセリフですね。その前のスティーブ・カレルの、『我々はもっとマシだと思ってた』というセリフと対になるような、ズーンと来るセリフでした。あと、ライアン・ゴズリングがトイレで電話しながら、『フーッ! もうシンボーたまんねーッ!』って変な声出ちゃってるところとかね。いろんな印象深いシーンがある素晴らしい映画だったと思います。)

宇多丸、映画『マジカル・ガール』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年3月19日放送

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「映画館では、今も新作映画が公開されている。
一体、誰が映画を見張るのか?
一体、誰が映画をウォッチするのか?
映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる――
その名も、“週刊映画時評ムービーウォッチメン”!」

毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送でお送りしている
TBSラジオ AM954+ FM90.5
『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。

その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸による渾身の映画評
「週刊映画時評ムービーウォッチメン」(毎週22:25〜)
の文字起こしをこちらに掲載しています。

今回紹介する映画は『マジカル・ガール』(日本公開2016年3月12日)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

▼ポッドキャストもお聞きいただけます。

http://podcast.tbsradio.jp/utamaru/files/20160319_watchmen.mp3

宇多丸:
今夜、扱う映画は先週、ムービーガチャマシンを回して決まったこの映画。『マジカル・ガール』

(BGM:長山洋子『春はSA-RA SA-RA』が流れる)

何かな? と思った人はね、映画のことをご存知でない方はびっくりしたと思いますが。長山洋子さんのデビュー曲『春はSA-RA SA-RA』という曲が劇中で、非常に印象的に使われているということでございます。白血病で余命わずかな娘のため、彼女が好きな日本の魔法少女のコスチュームを手に入れようと、父ルイスが奔走。その過程で心に闇を抱える女性バルバラと、訳ありの元教師ダミアンを巻き込み、事態は思わぬ方向へと向かっていく……。スペインの新鋭監督カルロス・ベルムトの劇場長編デビュー作。長編としては二作目だけど、劇場公開はこれが初めてということでございます。

ということで『マジカル・ガール』、この映画をもう見たよ! というリスナーのみなさんからね、監視報告、メールなどでいただいております。メールの量はちょい少なめ。まあ、劇場公開がね、東京で二軒ぐらいしかやっていないんで。多くないんですけども、非常に評判は高い作品なので、賛否で言うと、賛がおよそ9割。残りも、「思っていた映画とは違った」といったもので、完全に否定的な意見はひとつもなかった。「先が全く読めないストーリーで驚いた」「省略と、あえてボカすような表現がとても上手い」などなど、とにかく感心したという意見が多かった。また、ラストの解釈については意見が分かれる様子でしたね。

(中略~メールの感想読み上げ)

……はい、ということで『マジカル・ガール』、みなさんメールありがとうございます! 私もヒューマントラストシネマ有楽町などで――結構前にちょっと見ていたんで――計3回も見てます。昨日なんか特にもう、有楽町。ほぼ満席でしたね。ところどころ笑いも漏れるような、非常にホットな雰囲気の劇場でございました。先ほどのメールにもありますけど、この作品についてね、「先の読めなさ」っていうのが僕はですね、映画における面白さとか価値の中で、先が読めないっていうのが絶対的に大事なものとは、全く思っていないんですが。

それでもやっぱり、本当によく出来た先の読めない話っていうのはまあ、楽しいのはたしかだなということで。とにかく本当に、もう、もう……これ以上は言いたくないぐらいです。ストーリーの先が読めないという点では、近年、僕がいろいろ見た映画の中でも、間違いなくトップクラスですね。それだけに、正直、もうここで止めたいです。はい。長山洋子がかかることさえも、本当はあまり言いたくなかったぐらいのね。そんぐらい白紙で行った方がいいんじゃないですかね? びっくりしていただいた方がいいと思います。できるだけ、ネタバレはしないようにしますがね。今日はね。

予備知識を入れなければね、本当に最初のうちは映画としてのジャンルというか、どういう方向の作品か? というのさえ、よくわかんないはずですよね。それこそ、余命いくばくもないと思われる娘のために、お父さんががんばるハートウォーミング・ストーリーかな?って思いはじめても、全然おかしくない始まりなわけですからね。ただ、それがまあだんだんとお話のパズルのピースがはまっていくに従ってですね――ここはもう、宣伝とかでも出ちゃっている言葉なので言ってしまうけど――「ああ、実は割とはっきり、映画ジャンルとしての<フィルム・ノワール>なんだ」って。まあ、犯罪映画で。

特に、思いっきり「ファム・ファタール」(運命の女・魔性の女)が出てきて、それに、特に男が運命を狂わされていくというフィルム・ノワールの定石的な展開があるわけなんですけども。「あ、フィルム・ノワールなんだ。思いっきり、ファム・ファタールものなんだ」っていうことが最終的には、はっきりしていくんですけれど……ということだと思います。言ってみればですね、先ほど出てくるバルバラっていう女性キャラクター、石井隆作品で言えば「名美」であり、そしてダミアンはじゃあ、「村木」かな? みたいなね。まあ、そんな感じでわりとファム・ファタールものとしてはわかりやすい構図があったりするんですが……。

『マジカル・ガール』という映画はですね、これもみなさん、メールで書かれている通りです。全体がですね、たとえば非常に余白が多い。要するに、敢えて具体的な説明をしないストーリー運び。ストーリーの語り方とかもそうですし。あるいは、画面の構成の仕方。何を見せて、何を見せないのか? というのがすごく周到に計算された画面の構成の仕方に至るまで、お話部分も明かさない部分が多いし。カメラも、「敢えてそっちには今、向けません」みたいなのが多い。あと、「ここは敢えて顔は切っています」みたいなのがあるんですけども。

要するに、肝心な部分を敢えて見せない、語らない。非常に大胆かつ精密な省略話法・語り口というのが特徴でもあると。まあ、でもこれ、すごく俗っぽい評価の仕方をすればですね、ヨーロッパのアート系映画祭受けしそうなタッチっていうか。感じだと思いますけどね。まあ、いろんなそういう映画の作り、あるんですけども。近年で言えば、僕が連想したのはですね、同じくスペイン語圏っていうこともあるんだけど、2013年のメキシコ映画で、同じように父と娘の関係性を軸に、非常に静謐なタッチなんだけど、実は超バイオレントな世界っていうのを絶妙な省略とか、絶妙な「見せなさ」で描いた『父の秘密』っていう映画がありましたけどね。あれあたり、非常に通じるものがあるなという風に思いましたが。

まあ、今回の『マジカル・ガール』という映画の場合ですね、そのばっさり省略された部分に浮かび上がってくるもの。要は、観客が想像してしまうものですね。が、ですね、とてつもなく禍々しいというかですね、ちょっと常人の理解を超えたおどろおどろしい変態性っていうのを強烈に感じさせる。ここが、この『マジカル・ガール』という作品のキモだと思う。「変態的」っていうことですね。もちろん、直接的には映されていない、語られていないにもかかわらず、最終的にはものすごいバイオレントなものを見たという印象が残るという風になっている。

このあたりですね、超日本通だというこの監督、脚本カルロス・ベルムトさんが好きだという江戸川乱歩的っていうかね。おどろおどろしさ。超変態性みたいな。劇中でもですね、ラストに『黒蜥蜴』っていうね、映画化を何度かされていると思うけど、美輪明宏さん版の『黒蜥蜴』の主題歌のカバーバージョンが流れるわけですね。『黒蜥蜴』の歌の歌詞が完全にファム・ファタール宣言みたいな歌詞なんですけど。まあ、最後に高らかにファム・ファタールものです!ってうたうような『黒蜥蜴』のテーマが流れたりするわけですけど。

あと、あれだね。途中で検索サイトが「RAMPO!」っていう検索サイトだったりしましたけどね。まあ、そんな感じですかね。とにかくですね、ストーリー運びもそうですし、登場人物たちの行動原理も、すべては説明され尽くさない。たとえば、全体が3つのパートに分かれている。これ、「カトリックの教え上、魂の3つの敵とされている」という監督の説明なんですけども、「世界」「悪魔」「肉(肉欲)」。この3パートに分かれていて。で、一応パートごとにメインで感情移入させるような主人公的な登場人物。それが移りかわっていくというような構成なんだけど。

でも、その登場人物。一応途中まで感情移入できるように見えているんだけど、それぞれ内側に抑えこんでいた闇にだんだん飲み込まれていって。ついには観客の理解を超えた領域に入っていってしまう。まあ、大きく言ってフィルム・ノワールの主人公はいつもそういうものだとも言えるんだけど。とにかく、万人にオートマチックに、いわゆる<共感>されるようなわかりやすい主人公みたいなのが出てくる話じゃないわけですよ。なので、映画の評価基準に<共感>をかならず置くような人は、正直、お呼びじゃない可能性がありますけどね。はい。

でも、それでいてですね、ちょっと誤解してほしくないのは、この『マジカル・ガール』という映画、決してね、いわゆる難解な映画というわけじゃないです。もちろん、余白が多いし、想像するところもありますし、ラストの解釈が分かれるというのもあるけども。話が難しい映画では、全くないです。むしろさっき言った、先の読めない展開に頭をグラングランさせるような感覚っていう意味では、むしろ、僕は面白さっていう意味ではわかりやすい作品だと。その面白さの先に作品が示そうとしているものには深みがあるとしても、面白さそのものは決して難解ではないと思うという。

話そのものとしては、それこそ先週の『マネー・ショート』とか、あと『スティーブ・ジョブズ』とかより、ぜんぜんわかりやすい映画だと思うんですけどね。で、先程から言っているように、フィルム・ノワール。特にファム・ファタールものとしては、最終的にド直球と言ってもいいぐらいかな? という風に思いますし。あと、魔法少女もの。マジカル・ガールは魔法少女なわけですよね。日本の魔法少女アニメに憧れる少女が……というあたり。

Yahoo!レビューで「魔法少女もの要素を期待して見ていたら裏切られた!」みたいな。あの……申し訳ないけど、自分のリテラシーの低さをここまで堂々と作品のせいにできるのはすごいな!って感心するようなレビューとかあったりするんだけど。いやいや、でも、魔法少女ものとして見ても、結構……つまり、監督がですね、今回の『マジカル・ガール』を作るにあたって影響を受けたという、みなさんご存知、『魔法少女まどか☆マギカ』。この番組でも『劇場版[新編]叛逆の物語』。2013年11月9日に取り上げましたけども。

『まどマギ』。はっきりこれ、『まどマギ』的ですよ。なんなら! なんならもう、『まどマギ』の実写版! いや、それは言いすぎだけど……要は、少女の無垢な願いっていうのが反作用としてこの世の邪悪が詰まったパンドラの箱を開けてしまうっていう話だし。魔法少女の成長した姿としての魔女っていうのが出てきて……みたいなこととかね。で、その願いが叶った報い、因果っていうのが返ってきてしまうって。えっ、『まどマギ』じゃん? 完全に『まどマギ』じゃん? 濁ったソウルジェムの話ですよ、だから。

だから、『まどマギ』の実写映画化と言っても過言では……過言ではある(笑)。けど、まあ全然『まどマギ』的な、テーマ的にも一貫性があるなという風に思ったりもします。ということでですね、はっきり言って僕はやっぱりこの作品に関して、あんまりネタバレとかもしたくないし。場面のそういう話とか、あんまりできないので。こっから先は、「後々に見ながらパズルがはまっていく時に、ここを気をつけて見ておくと、より味わいが深いよ」という、映画上のディテールの話をいくつかしていこうかと思っております。

たとえばですね、先ほどから「パズルのピース、パズルのピース」って言っていますが、この映画、実際にジグソーパズルが小道具として出てくるんですね。劇中、非常に象徴的な使われ方をするジグソーパズル。ダミアンという……この「ダミアン」っていう名前がまた象徴的だったりしますよね。「悪魔の子なのか?」みたいなことですけどね。まあ、登場人物みんなそうではあるんだけど、要は訳ありなわけですね。訳ありの老人です。この方、ダミアンがですね、何とか人間的理性を、そしてその人生を組み直そうとするその象徴としてジグソーパズルはあるわけです。

どうやら、少女時代のバルバラという女性と何かがあって、決定的に人生が……まあ重大な罪。長い間刑務所に入るような罪を犯した。まあ、殺人以上の何かでしょうね。で、それを立て直す。で、理性を取り戻すための、医者から渡された、人間社会とつなぐ綱としての、象徴としてのジグソーパズル。ところが、組み上げていくんだけど、最後の1ピースがどうしても見つからないというのが、先ほどね、3パートに分かれているという3パート目。ダミアンがほぼ実質主役となる「肉欲」というパートになって出てくるんですけど。

この最後の1ピース、どこに行ったんだ?ってダミアンは探しているわけですけど。映画を注意深く見ている人ならですね、そのパズルの1ピースと思われるもの。実は序盤中の序盤で、本当にものすごーくさり気ない形で一瞬出てきますよということですね。で、この映画は全体にそうなんですけど、重要な、その後の伏線になるような、あとでそのパズルの1個がここに……あっ、あのピースがはまるんだ! みたいなものがフッと示すんだけど、その直後に、少なくともその場ではお話上もっと印象の強いことが間髪を入れず始まるので。伏線として、要するにわざとらしくないというか、印象に残りすぎないというテクが全編に出てくるという。こういう意味でね、非常に油断ならないんですよね。

登場人物のそういうちょっとした仕草1個1個に全部、実は意味があったりするっていうことなんですよね。序盤、そのパズルのピース。出てくるところ、つまり、とにかくそのパズルの1ピースが序盤ですよ。どこに落ちていたのか?っていうのを考えるとですね、後からですよ。見ている時はわかんない。その場所が何を意味するのか。その直後に非常に印象的なね、宝石屋さんというところで、店員との視線のやり取り。まあ、示すものは非常に明らかな場面が起こるんだけど。

後から考えると、そういうことは、あそこは……ということなんですよね。で、なぜ、そのパズルの1ピースがそこにあるかは、わかんないんですよ。わかんないんだけど、要はこういうことですよね。同時にダミアンはジグソーパズルをこうやって積み上げて。過去、少女時代のバルバラとあった過去と断ち切ろうと。人間的な理性を取り戻そうとしていたんだけど。そもそもファム・ファタール、バルバラからは逃げられなかった! ということですよね。

で、しかもそう考えるとですね、冒頭に、あるセリフが流れるわけです。これは昔、教師だった頃のダミアンが、しかも初めて運命の女である少女時代のバルバラと出会う瞬間のセリフ。こんなことを言うわけですね。「2+2=4だ。それはどんなことがあろうと、2+2=4なんだ。完全な真実は絶対に変わらないものなんだ。何があろうと、見方を変えようが何をしようが変わらないんだ」っていう。つまり、まさに……しかも彼はまさにこの言葉を発した瞬間、バルバラと出会い、人生が狂ってしまう。もしくは、狂ったと言うべきか、この映画の結末に至るように運命がまさに完全な真実であるかのごとく、運命付けられてしまったってことじゃないですか。

だから、そのパズルの1ピースっていうのが序盤でどこにあったのか?っていうのを思い出すと、「うわ~……こわーい!」っていう風に、後からなったりするっていう仕掛けになっているということですね。あとですね、バルバラさん。ファム・ファタール的なって言うけど、最初は別にどういう人か、わかんないわけですよ。「全然、普通の暮らしをしている人なのかな? 美人だな」なんて思って見ているわけですね。で、後からどんどん、実はかなりエグかったっぽい過去が……「エグかったっぽい」程度なんですよ。そんな、明らかになんない。何があったか? なんてわかんないんですよ。

エグかったっぽい過去が明らかになっていくバルバラさんっていう女性がいる。非常に美人の。でも、その普通っぽい暮らしをしている時点の描写っていうのも注意して見ていると、これはなかなかに味わい深いと。まあ、第二部「悪魔」っていうパートがあるんですけども。そこでバルバラさんが事実上の主人公として進んでいくんだけど。まあ、旦那は精神科医で、非常に裕福な暮らしをしている。結構なことじゃないですか。で、旦那のことは大好きっていうことらしい。で、まさに旦那への愛ゆえに、いろんなことを重ねていくっていう話でもあるんだけど……。

だけども、この2人、そもそもバルバラさんは精神のバランスを崩しやすい方であるらしいっていうのが会話の中から浮き上がってくるわけで。たぶんだけど、この2人、最初は患者と医者だったんだろうなと。精神科医と、それにかかっている患者だったんだろうなという風に思わせるわけなんだけど。この2人の関係性がもう出てきた途端に、ちょっといびつな、非対称な関係というか。非常にいびつな関係だなっていうのが、もうパッと出てきた瞬間に。たとえばですね、旦那の靴をひざまずいて結んであげている。それ自体が超異常っていうわけではないんだけど。ひざまずいていると。

で、まあ会話を交わす。でも、その会話の途中で旦那がせっかく美人の奥さんの顔をグッと掴んで……まあ、ちょっと顔でね、ブーみたいな顔を作って遊ぶことってあると思うんだけど。なんか、それとは違う、ある種のなんて言うか、顔をいじりだしてですね。で、「お前はバカだよな。バカなんだよな」みたいな。完全に支配関係にあるようなものをやると。で、その後ですね、彼はやおら立ち上がって薬と水を取ってくるんだけど。ここでもう、奥さんは完全にひざまずき、かしずいた状態で。旦那は顔も見えない。カットの中で、見えない中で、まるで餌を与えるように薬を半強制的に飲ませるというくだり。

あるいは、その後、もう1回薬を飲ませるくだりで、今度は指を口の中に突っ込んでチェックみたいな、その仕草。1個1個の仕草であるとか構図。それが一々、この一見裕福で、愛し合っていますよという夫婦に漂っている、言っちゃえばSM的な主従関係。非常に不健全な匂いっていうのを、さり気なく、嫌な感じで漂わせていると。故に、その後ですね、ある理由からお金を稼がなきゃいけないっていうので、はまり込んで。まあ、帰っていってしまう世界。彼女が元いたのであろう世界というのが、全然この段階で引きずってるんじゃん! と。

彼女、全然そのままの暮らしじゃない!?っていうのが、実は後から考えるとそれが浮かび上がってくるとかですね。あと、個人的によく考えると味わい深いなと思っているのが、最初の方でですね、魔法少女アニメに憧れる余命いくばくもないっぽい娘のアリシアという少女がですね、お父さんのルイス。このルイスっていうのは、ルイス・キャロルから取っているわけですから。アリシアもきっと、アリスなんでしょう。で、「なんでも願いが叶えられるなら、お父さん、何になりたい?」って言って、お父さん側は「透明になる。人から触られなくなる」。で、娘側は「私は誰にでもなれる。その能力を身につけたい」って言うんだけど。

「透明になる」「触られなくなる」。そして、「誰にでもなれる」。これ、両方とも、我々映画の観客の視点の話ですよね。これね。だからこそ、このところこのコーナーでよくしてますけども。「『見る/見られる』っていう関係の逆転こそ、映画というメディアの特性上、いちばんドキッとする瞬間だ」なんて話を最近、ちょいちょいしますけども。冒頭シーンと緩やかな円環構造をなすラスト場面でですね、まあバルバラが、もう目しか見えないぐらいの状態なんですけども。なにを思い、目に涙をためているのか? 我々観客は、そのバルバラの心境に思いを馳せるわけです。

つまりこれは、誰にでもなれる能力なわけですね。で、一方でその表情をずっと見つめて瞳孔を見て……つまり、透明な存在として見ているわけですよ。誰にでもなれて、透明にもなれる存在がずーっと彼女の表情を追っていると、虚を突くように最後の瞬間……「見るな! こっち見るな! ドキーッ!」っていう、あれが待っている。で、「こっち見るな!」っていうその気持ちは同時に、その直前のシーンでダミアンが言うセリフでもありますよね。「こっちを見るな!」。つまり、自分の罪とか、何なら欲望まで見透かすような少女の視線に「見るな!」と思わず言ってしまう老人ダミアンのうろたえの、我々の気持ちは再現なわけですよ。

つまりラスト、ラスト、ここに至って魔女であるバルバラと魔法少女であるアリシアがイコールで繋がる。見る側の存在。そして、見られる側で「やめろ! 呪いをかけるな!」っていうダミアンと我々観客の関係が、まさに「2+2=4」っていうごとく、完全な真実としてこのラストで固定されてしまうような感じがするから、「やめて! 怖いからやめて! 見ないで! 見ないで!」っていう感じがするというね。そう考えると、ねえ。そもそもじゃあ、アリシアの願いっていうのは無垢と言っていいようなものだったのだろうか? とか、いろんなことを考え出しちゃったりすると。

その訳あり老人ダミアンがフラメンコ曲。日本で言えばド演歌みたいなことでしょう。『炎の少女』をバックに戦闘モードでキメるダミアンが笑っちゃうかっこよさ。ちなみにその前に銃を調達してくれるムショ仲間に会いに行くんだけど。ペポさん。あいつの体型とか、ハンパねえ! みたいなね。体型一発でもすごく味わい深かったりするんだけど。なんだけど、とにかくその訳あり老人のダミアンが最終的に、本当にキレる理由。なんで彼は、最後の最後で本当にキレたのか? これも想像すると味わい深い。

ちなみにこのキレる瞬間。キレられる側の視点しか見せない。このあたりも、この映画の視点の面白さですけど。たぶんね、僕が想像するにダミアンは、「そんなことはわかっている。わかっているけど……わかるわけにはいかんのだ!(ドンッ!)」ってことだと思うんですよね。島本和彦『無謀キャプテン』から名ゼリフを引用させていただきましたけどね。

あるいはね、バルバラが自らの魔を起動させる。意識的に起動するかのように鏡をこう……向こうの世界にガリッ! と入ろうとするようなあの感じとかですね。とにかくですね、一々そういうディテールに仕込まれた余白の部分。それこそ、蜥蜴部屋のプレイって実際どんなん?って。ねえ。1日こっきり、挿入なし、たぶん200万以上ぐらいって、どんなプレイ!? みたいな。想像するだけでとっても楽しい映画です。はっきり言って。脚本、監督カルロス・ベルムトさん。元はコミックアーティストとして成功していたという方ですけど。これが長編二作目。前の『ダイヤモンド・フラッシュ』っていうのはネットでも見れる、オンライン配給みたいですけど。

こっちもノワールです。で、これが劇場デビュー。非常に腕があるし、発想がとにかく独創的で。これからも間違いなく面白いのをいっぱい撮る人だろうという風に思います。あと、あんまりいまのスペイン映画界、詳しいわけじゃないけど。もう撮影から編集から、とっても隅々までレベルが高い作品でございます。超クールなタッチなのに、後味は超キモい。非常にナイスノワール。ノワールの最新傑作としてですね、僕は文句なく、面白かったです。ぜひぜひ、劇場で楽しんでいただきたいと思います!

(中略~来週の課題映画は『ヘイトフル・エイト』に決定)

以上、誰が映画を見張るのか?週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした!

 

(翌週での補足:「いまだに『マジカル・ガール』の描かれていない余白について、いろいろ想像を巡らし続けた結果、ひとつ、思いついたことがある。どうしても言いたい!
あのバルバラっていう、ファム・ファタール的な立場に当たるバルバラの過去って映画では描かれないんだけど。たとえばバルバラがハイティーンの頃、どうだったのか?
ちょうど映画で言うと、日本映画ですけど、塩田明彦監督の『害虫』で宮崎あおいさんが演じるサチ子。あれ、ちょうどバルバラがハイティーンだったらこんな感じじゃね?って。しかも、田辺誠一演じる教師と、過去に何かがあったらしいっていう空白のあり方もかぶるし。っていうことで、『害虫』を『マジカル・ガール』のバルバラのハイティーン版として見る、なんていう見方をしても面白いな、なんてことを1週間ずっと考え続けたりもしています」)

宇多丸、映画『ヘイトフル・エイト』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年3月26日放送

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ヘイトフルエイトポスター

宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送でお送りしているTBSラジオ AM954+ FM90.5『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。

番組の名物コーナー、ライムスター宇多丸による渾身の映画評「週刊映画時評ムービーウォッチメン」(毎週22:25頃から)。

毎週、「ムービーガチャマシン」(カプセルトイのガチャ)の中に入った新作映画カプセルを、“シネマンディアス宇多丸”がランダムにセレクト。映画館で自腹を切ってウォッチした“監視結果”を、約20分に渡って評論する映画時評コーナーです。こちらではその全貌を文字起こしを掲載しております。

今週評論した映画は、クエンティン・タランティーノ監督の新作『ヘイトフル・エイト』(日本公開2016年2月27日)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

★ポッドキャストもお聞きいただけます。

宇多丸:
今夜、扱う映画は先週、ムービーガチャマシンを先週、回して決まったこの映画。『ヘイトフル・エイト』

(BGM:『ヘイトフル・エイト』メインテーマが流れる)

猛吹雪の中、山小屋に閉じ込められた賞金首の女と立場の異なる7人の男。それぞれの思惑を秘めた8人の行動がやがて陰惨な事態を引き起こしていく。監督は、今作が8作目の監督作となるクェンティン・タランティーノ。もう最初にね、バーン!と「クェンティン・タランティーノ第8作目」ってデカデカとテロップが出る、そんな映画監督いるか!?っていう。出演はサミュエル・L・ジャクソン、カート・ラッセル、ティム・ロスなど。ジェニファー・ジェイソン・リーがアカデミー賞助演女優賞ノミネート。70ミリフィルムによる撮影なども話題になったということで。65ミリで撮って、70ミリで……という、特殊な方式でね、やっているんですけどもね。

と、いうことで『ヘイトフル・エイト』。まあ、タランティーノの新作を見に行かないってことがあるんでしょうかね?ってことで、リスナーのみなさんね、当然見に行っているということで。この映画を見たという方の感想をメールなどで監視報告いただいております。『ヘイトフル・エイト』、メールの量は……普通! ええーっ? まあ、公開規模がね、やっぱり回しが長いのもあってあんまりないのもあるけど。公開規模があんまり大きくなくてね。ええーっ? 賛否で言うと、賛が6割。「楽しかったけど、ちょっと長かった」「過去作と比べると物足りない」「テンポが良くない」などの意見が4割。

全面的に否定する意見はごくわずかしかなかった。まあ、タランティーノの映画だから、それはもうタランティーノ的なるものがどの程度出てくるかってね、覚悟して行くわけですからね。褒めるポイントとしては、「映像がすごい。大迫力」「タランティーノの集大成。長い会話もやはり楽しい」「最後に伝わってくるメッセージにタランティーノの成熟を見た」などなどでございました。代表的なところをご紹介いたしましょう。

(メールの感想読み上げ、中略)

……はい。ということで、『ヘイトフル・エイト』。私も、後ほど言いますが、日本では本作をベストな状態で見ることができない! それができる映画館が現状、存在しないので。せめて、これだけはちょっとシネコン以前の、大型劇場の雰囲気を残している劇場で、都内上映館の中でかろうじて残しているところで見たいということで。要は、傾斜が斜めに下がっていくのじゃなくて、比較的平らな感じの席で、見上げる感じの大きいスクリーンのところで見たい、と思いまして。丸の内ピカデリーで3回見てまいりましたってことでございます。

しかもですね、3回とも、あんまり入ってなかったですね。正直ね。非常に私は残念でございます。嘆かわしい事態だと思っております。と、言うのもですね、タランティーノ。作品を取り上げるたびに僕、言っていることかもしれませんけども。自らですね、こんなことを言ってますよ。「オレは常にヒップホップの精神にのっとって映画を作っているんだ」って、インタビューなどで公言しているぐらいです。サンプリング世代。ヒップホップ世代的な、いわゆるポストモダン的なってことですかね。クリエイターの代表格なのは間違いないんですけど。まあ、「ストリート版ゴダール」なんて言い方もしてますけど。私ね。

まあ、凡百の、はっきり言わせてもらえば見下げ果てたタランティーノフォロワーとは、当たり前のことながら根本の格が違っておりましてですね。そのサンプリングというのがですね、小手先のギミック的な目配せとか、そういうレベルのことがやりたい人じゃないわけです。もちろん、たとえば元ネタを指摘したり、あとは「ここがナントカなんじゃないの!?」みたいな、元ネタの指摘とか発見みたいな楽しみは、もちろん今回の『ヘイトフル・エイト』を含めて、タランティーノ、新作が出るたびに間違いなく、ものすごくある。

それが楽しいタイプの作品を作っているのは間違いないんだけど。ただ、ここで大事なのはですね、元ネタを知ってるか、知ってないかとかじゃないんですよね。元ネタは知らなくたっていいんです。っていうか、知らない方がいいぐらい。っていうのは、こういうことです。かつて、たしかにこういう野蛮でパワフルでブッ飛んだ映画のあり方、楽しまれ方っていうのが確かにかつてあったんだ、というこの感覚をね、タランティーノの映画は元ネタを知らないはずの観客——たとえば知らない若い観客——も、「あっ、かつてこういう映画の楽しみ方が、ああ、たしかにあったんだ!」って思い出す。

わかる? 元ネタを知らないのに<思い出す>感覚っていうか。これがタランティーノの作品の独特、かつ、すごいところだという風に私は思っておりまして。あるジャンルの映画を見るという体験。その感覚ごと蘇らせようとしている。そういう作品ばかり作っていると言える。サンプリングの果てに……サンプリングっていうのは言ってみれば、まあ偽物なわけですけど。偽物の集積の果てに、いつか本物の映画にタッチしようとする。そういう志に常に貫かれている。これがタランティーノ。このスタンスがまた、僕は正しくヒップホップ的だなと思ったりするんですけど。

で、たとえばですね、わかりやすいところで言えば、僕は間違いなく彼のフィルモグラフィー上でも突出した最高傑作だと思っている、『デス・プルーフ』を含む『グラインドハウス』。まあ、『デス・プルーフ』か、『イングロリアス・バスターズ』のチャプター1でしょうね。彼の突出した最高傑作はね。『デス・プルーフ』を含む『グラインドハウス』。あれなんかはまさにですね、かつてあったB級映画2本立て、3本立ての劇場の興行スタイルとかの上映形式ごと、現代に再現するっていう。で、その時代とかその劇場とかに行ったことがない、その時代のそういう映画を見たことがない観客にも、「ああ、こういうタイプの映画の楽しみ方、楽しまれ方っていうのがあったんだ!」と思い出させるという試み。『グラインドハウス』はまさにそうでしたね。

で、この『グラインドハウス』はしかしですね、残念ながらここ日本ではですね、ロバート・ロドリゲスの『プラネット・テラー』とタランティーノ監督の『デス・プルーフ』。その合間に、嘘予告編が入って。あと、変なお店の宣伝みたいなのが入る、みたいな。そういう全体の形式込みの、要は本来の『グラインドハウス』オリジナルバージョンの上映は、日本では限定的にしかされなかったですね。当時もね。後にDVDに収録されたりとか、あとタマフル映画祭で1回ね、やったりなんかもしましたけども。基本的にはちゃんとされずに、バラで1本ずつの公開となったと。そういう意味で、ちょっと残念な公開のされ方をされちゃったんですけど。

その意味で言うと、今回の『ヘイトフル・エイト』はその『グラインドハウス』よりもさらに残念な状況での公開と言わざるを得ない。つまりですね、『グラインドハウス』はB級、C級、Z級というか、本当に下の下の映画たち。本当にクズみたいな映画たちの中にあるお宝みたいな。そんな感じのだったんだけど、『グラインドハウス』とは対称的に今度は、映画というものの興行、上映形態としてある意味、最も豪華。最もリッチなスタイルの再現というね。

要するに、さっき言った興行スタイル、上映形式ごとの再現なんだけど、今度はものすごいリッチな方に行ったのが今回の『ヘイトフル・エイト』と。まあ、詳しくはですね、劇場パンフレットなどを当っていただきたいんですけど。すごく劇場パンフレット、充実してるんで。とにかく今回、オープニングでも非常に誇らしげにクレジットで出てきますけども。『ウルトラ・パナビジョン70(Ultra Panavision 70)』というですね、これはなかなか耳慣れない方式。とにかく、60年代に一部の超大作映画で使われていた撮影・上映方式。

たとえば『ベンハー』であるとか、『バルジ大作戦』とか、『戦艦バウンティ』とかですね、一部の超大作で使われていた。で、66年の『カーツーム』という作品を最後に使われなくなってしまった撮影・上映方式っていうのを、本作のためだけに復活させているっていうことなんですね。しかもそれが、今回の『ヘイトフル・エイト』。事前に脚本の第一稿が早い段階でネットにリークされてしまって。タランティーノが激怒して、「今回のは作らねえ!」って一旦は言ったという、そういう展開がありましたけども。その初稿から、もう70ミリのこれで撮られて……っていう風に書いてあるんで。もう最初のビジョンに入っていることなんです。ウルトラ・パナビジョン70を使う、70ミリフィルムで上映するっていうのは。

で、アメリカとか欧米ではですね、ベテラン上映技師をもう1回、改めて引っ張りだして来てまで、70ミリフィルムでの上映バージョン。いわゆるロードショーバージョンっていうのを決まった劇場では上映しているわけですね。入場者全員にプログラムが配られ、そして、本編のスタート前に、日本だったら「ベッベッベッベッ……♪」みたいなさ、映画泥棒みたいなのがやっている、あのところじゃなくて本編のスタート前に、先ほど『ヘイトフル・エイト』ってバッと言った時に後ろで流れていたエンリオ・モリコーネによるオーバーチュア(序曲)が流れて。

要するに、映画が始まる前に音楽がずっと流れていて。映画までの気分を高めるわけですよね。で、いくつかのショットは、いま日本で見られるデジタル上映版よりも長いそうなんですよね。で、途中、これはたぶんチャプター3。『ドミニクには秘密がある』っていうあの章の前ですね。あの章の前に、ある衝撃的な出来事が起こりますよね。あの、ある衝撃的な出来事が起こったその後に、15分間のインターミッション(休憩)が入るという、そういう形式なわけです。

これ僕、いま46才ですけど。僕でギリ、『2001年宇宙の旅』のリバイバルを79年かな? に、した時に、こういう序曲がずっと劇場に流れていて、インターミッションが入って……っていうのをギリ、それは「ああ、ああいう感じかな?」って想像がつく感じなんだけど。なので、今回ね、実際に映画を見た方はわかると思うんだけど。チャプター3の頭。要するに、途中でものすごい大きい事件がドーン!って起こった後、一旦話がひと区切りしてですね。いきなり、唐突にタランティーノ自身によるナレーションで、この15分間、劇中の舞台で何が起こったか? みたいなことを説明するという下りがあるんですけど。

あれはまさに、その15分間、衝撃的なことが起こって、はい、休憩です!ってなって。15分後、みんなおしっこに行ったりして、ガヤガヤガヤッて席について、さあ、始まりますよ。15分後、始まると「この15分間、何があったか?」っていうそういう説明がつくという軽いギャグになっているってことなんですね。とにかく、そんな諸々込みでの187分版。要するに現在日本で見れるデジタル版より20分長い。その20分の内訳っていうのはさっき言ったように序曲が3分。そしてインターミッション15分ということで、残り2分だけ中身が長い。で、どうやらこれは、いわゆる70ミリ画面を活かしたロングショットですね。基本的には室内の映画ですけども、馬車が走っているようなロングショットがたぶん長くなっているっぽいんだけど。

ということで、そういう、要するに序曲が流れて、すごい気分を高めて。何か特別な体験をしに来るぞっていうことですよね。なんなら、着飾って来て。で、余裕を持って休憩も挟んで、みたいな。そういう時間の贅沢な使い方。異常にリッチな映画体験というもの全体の再現。これ自体が今回の『ヘイトフル・エイト』の非常に、語られている物語と同じぐらい重要なコンセプトなわけですよ。今回のこれは。まあ、さっきから言っているように、初稿にすでに書かれているわけですから。もう、コンセプトそのものと不可分なことなわけですね。この上映形態とかってことが。

にもかかわらず、日本では現在要するに、70ミリ上映をできる映画館が物理的にないっていう。不可能なわけです。物理的に。このあたりの経緯は『映画秘宝』、岡村尚人さんかな? による記事が非常に詳しい。普通に計算していって、いまから70ミリ上映をできる環境を整えていくと、ざっと概算して60億円いるっていう(笑)。だから、先ほどメールにもあったように、「新宿ミラノ座がまだあれば、ギリギリ、目はあったのか?」みたいなことを考えちゃうんですけど。とにかく、日本では70ミリ上映はできない。

で、それにタランティーノ。非常に日本びいきな人なのに、日本では70ミリ上映できない。つまり、この『ヘイトフル・エイト』に関しては自分の意図したものが伝わるような上映の仕方をできないっていうことにいたく失望して、今回はプロモーション来日もしていないというですね、いかに本作が撮影から配給に至るこの形式まで含めての作品であるか、っていう証だと思うんですよね。

ということで、本当に申し訳ないんですが、僕も本当はね、こうやって批評とかするんであれば、この1週間でアメリカなどに飛んで70ミリバージョンを見て来るべきではありましたが……申し訳ないです! すいません! ちょっとその時間、ありませんでした。他の仕事もあったもんで、申し訳ございません。できませんでした。ということで、僕が見てきたのはあくまで、この日本で見られる——敢えて言いましょう——「不完全な状態」。デジタル版167分を見て、本チャン上映スタイルを頭に思い浮かべながら。サントラも買いましたからね。オーバーチュア(序曲)を事前に聞いて、気分を高めて。で、チャプター2とチャプター3の間は、「はい! いま15分休んだ! はいっ!」っていう、そういう気分を思い浮かべながら、ということをちょっとね、お断りしておきたいと思います。

でも、この167分バージョンでもですね、今回タランティーノが作品に込めようとした、要はこういうことです。映画を見るということの豊かさ、贅沢さっていうのを、それをもういまの観客は忘れかけているわけですよね。もう、知らない世代もいる。タブレットで見るのが映画だと思っているかもしれない。そういう世代に思い出させるっていうことは十分にできる作品になっているという風に思うわけですよね。

たとえば、まずもうオープニングですよ。オープニング。エンリオ・モリコーネによるオリジナルスコア。タランティーノ、いままでエンリオ・モリコーネの曲をそれこそサンプリング的には使ってきたけど、ついにサンプリング手法の後に、それこそ本物にタッチした瞬間っていうことですね。言っちゃえば、ダフト・パンクがナイル・ロジャース本人を呼んできて『Get Lucky』を作ったみたいな、そんな感じですよ。聞いてください、これ。

(BGM:エンリオ・モリコーネ『L’Ultima Diligenza di Red Rock』が流れる)

もう、もう……わくわくでしょ! もう、なにが起こるの? フォーッ! なに? なに? なにが起こるの!? これが流れだす。そして、画面はですね、通常のシネマスコープよりもさらに横長。縦1に対して横2.76という超ワイド画面。これに流れ出して。で、雪にまみれたキリスト像のアップですね。ちょっと『最前線物語』あたりのオープニングを彷彿とさせるようなオープニング。アップからゆっくりゆっくり、カメラが本当にゆーっくりゆっくり動いて。遠くから、6頭立ての駅馬車。6頭立てってことは普通に僕らが考える馬車よりも、馬が長く連なっているわけですよね。

これも当然、ワイド画面が映える、この6頭立ての馬が向こうから、遠くの方からゆっくりゆっくりカメラが動いて。向こうから撮ってくるこのファーストショットからして、作品全体のリズム、語り口のテンポをもうすでに提示しているっていうか。要はね、「さあ、これからとっても贅沢な時間が始まりますよ。せっかく映画を見るんですから。せっかく映画館に来て、映画という贅沢な時間をすごすんですから、まあ、せかせか先を急がず、腰を据えてゆっくり……順に話していきますからね。ゆっくり楽しんでね。それが70ミリで撮ったこういう本物の映画というものの楽しみ方ですよ」と宣言するようなファーストショットということですね。

で、実際にこの映画、オープニングテーマから始まって最初の1時間たっぷりかけてですね——これはこの間、高橋ヨシキさんもこんなことを言ってましたけども——とにかく、本題の前のセッティングのために1時間たっぷりかけるわけですね。具体的には、いかにもタランティーノらしいクドい会話劇が一見ダラダラと続くんですけど。ただですね、そのタランティーノのトレードマークである延々続く駄話タイムっていうのは、これ、はっきり実はフィルモグラフィー上、ちょっとネクストレベルに行った。いまはもうとっくにネクストレベルに入っていて。

要は、『イングロリアス・バスターズ』以降ははっきりと、ただ駄話タイムっていうのが独立してあるのがタランティーノ作品だったんだけど、ドラマ上のサスペンス、緊張感と駄話が実は結構直接シンクロする作りに、もうはっきりとシフトしてるんですよね。『イングロリアス・バスターズ』。そして前作『ジャンゴ』。そして今回の『ヘイトフル・エイト』。つまり、エンターテイメントとしてはよりわかりやすくなってきている。ブラッシュアップされているという風に言えるんですけど。今回も、『イングロリアス・バスターズ』以降のタランティーノ会話劇の延長線上。というか、進化系。たしかに集大成というのも僕はわかる気がします。

というのは、序盤から延々と続く、一見駄話。でも、その会話の1個1個のパーツは実はほとんど全て、後でほぼ全て意味を持って回収されるんですよ。タランティーノ脚本史上でも、珍しいほどものすごい無駄がないです。実は、会話の全てが。「あ、すごい! いわゆる良く出来た脚本じゃん!」みたいな感じになっていると思います。そしてもちろん、たっぷり時間をかけた贅沢なセッティングという。これが完了してからはですね、もう圧力釜の中身のようにってことだと思う。みるみる会話劇の……映画の半分は1時間30分なわけですけど、1時間かけて、さあ、セッティング完了。そっから30分でグーッと会話の圧が高まっていく。危険な領域に高まっていく。

で、高まっていくに従って、カメラのサイズもそれこそセルジオ・レオーネ風のですね、顔のどアップとかでどんどんどんどん圧迫感が高まっていく。で、グーッと高まったところで、バーン!(と、テーブルを叩く) 一瞬で恐るべき惨劇が起こるという。これはもう、タランティーノ十八番の語り口が堪能できるんじゃないでしょうかね。特に今回の『ヘイトフル・エイト』は、たぶん本当に『パルプ・フィクション』のジュールス役以来と言ってもいいぐらいですね、サミュエル・L・ジャクソン・オンステージですね。今回はね。もう、サミュエル・L・ジャクソンがすごい。

まずね、北軍(ヤンキー)の黄色とネイビーのコートにマフラーというあの衣装が異様にかっこいい。衣装をやっているコートニー・ホフマンさん、タランティーノのいまの恋人らしいですけど。ねえ。もう登場した瞬間からかっこいいんですけど。たとえばこのサミュエル・L・ジャクソン演じるウォーレン少佐がですね、相手を追い詰める時に、たとえ話を出す。もう、たとえ話を出すのがすごいタランティーノ話術なんだけど。タランティーノ、たとえ話を出して相手を追い詰める時に、いちいち、何個も同じたとえを並べるというこのテクニック。

「おふくろのシチューの味……それはいつも同じだった。チャーリーの作ってくれたシチューの味……それもいつも同じだった。そして今日食ったミニーのこのシチューも……同じ味だ!」って。この3つも同じ例を重ねるというこのクドさ。クドさゆえの圧の高まり。これこそがタランティーノ的。そしてサミュエル・L・ジャクソン的圧迫話術。まさに圧迫話術のキモ。基本的にタランティーノ作品は話術がある奴、つまり、話でその場を制することができた奴が、少なくともその場ではいちばん強いという構造を常に持っているため、いかにもタランティーノ的なカタルシスじゃないでしょうかね。

「圧の高まり」という意味では、対照的に、セリフじゃなくて、事前にこれから何か大変なことが起こるよと一旦示しておいて、延々それを引き延ばす、文字通りのサスペンス。そして何かことが起こる瞬間まで圧が高まっていくという中盤のある展開。ちょうどですね、エンリオ・モリコーネの『遊星からの物体X』のサントラより『Bestiality(獣性)』。これが流れだす。ラスト近くにももう1回、流れるんだけど、ここなんか、もう最高ですね! こう、舞台上は何も起こってないように見えるんだけど、「キョロキョロ……まだ起こらない。キョロキョロ……まだ起こらない」みたいなね。もう、これを聞くだけでわくわくしてきますけども。

というのも、この場面の手前のところでサスペンスのネタ振りのところ。画面の左奥で、奥の方で進行している事態と、画面右側手前の方でギターを弾き語りしている、本作最大のトリックスターと言っていいジェニファー・ジェイソン・リーがですね、この歌の内容も物語の進行とレイヤードされてますから。画面の奥の方と手前の方。そしてこの歌っている内容とレイヤーが3つ重なっている。で、その奥の方と手前の方が交互にピントを合わせてっていう。要は、超ワイド画面ならではの情報量と見せ方っていうのをいちばんわかりやすくダイナミックに見せる。

要は、「室内劇、会話劇なのに70ミリ。スペクタクルなのに、なんで室内劇なんですか?」っていう疑問に対してタランティーノは、「いや、この空間の中で十分、70ミリ的スペクタクルは見せられるぜ」っていうね、そういう勝算があったと思うんですね。ウルトラ・パナビジョン70で撮影するという大挑戦に当って、たぶんタランティーノはCGとか絶対に使いたくなかったでしょうから。現実的に、自分がコントロールできる範囲に舞台を限定するという、そういう計算もあった上での、密室だけど70ミリワイドっていうのだと思うんだけど。

で、実際にこの映画は、まさに日本が世界に誇る美術監督、種田陽平によるミニーの店のセットの中だけで、非常に計算された、そして大胆な画面構成と演出の積み重ねで、ちゃんと豊かな、十分豊かなひとつの世界っていうのを浮き上がらせている。それぞれの登場人物が距離を、距離感を制したものが勝つというゲームを見事に演出している。で、それはもちろん、いわゆる2つのアメリカというものの縮図にも見える。そういうメタファー的な作りにもなっているんだけど。同じ人種差別問題に触れた西部劇としてもですね、前作の『ジャンゴ』。要するに、『イングロリアス・バスターズ』に続く人類史の暗部にジャンル映画的な落とし前をつける『ジャンゴ』。

だから『ジャンゴ』はタランティーノ作品としては例外的に、明快な主人公、ヒーローが設定されていましたけど。今回はちょっとモードが違う。たとえば、サミュエル・L・ジャクソンのウォーレン少佐はですね、「レイシストに逆襲だ!」という『ジャンゴ』的なカタルシスをもたらしてもいいような——元は『ジャンゴ』で描いていたらしいんだ。このキャラクターは——なんだけど、要は、「逆襲って言うにはちょっと引くんですけど……」っていう、ドン引き必至の冷酷さを発揮するし。まあ、我々が画面上で見ているあの光景が本当に起こったかどうかはわからないという、そこのグレーさも残しているわけだけど。で、あと、北軍からも追われる身であるという設定もあって。

つまり、善悪は敢えてグレーにしているし。他のキャラクターも、要するに善悪は敢えてグレーになるような描き方をしている。レイシスト丸出しな南軍チームだって、ちょっとグレーな描き方になっている。何より、お話の始まりの時点と終わりの時点で最もはっきり成長する、これはネタバレしないように「あいつ」って言っておきますけども。彼の成長譚として見ると、非常に感動的だったりもする。ということで、とにかく一方的に善が悪を断罪するタイプの話では今回はなくて。立場の違いから生じるヘイト(憎しみ)同士のぶつかり合いによる破滅。

それでも、立場の違いを乗り越える可能性はゼロではないという、ギリギリのかすかな希望。これを示す、非常にアダルトな今回はメッセージの作品だと思います。そしてそのメッセージの幅もまた豊かさのうちですね。ということで、時間の使い方、画面の使い方、メッセージの込め方、幅。全てが贅沢さ、豊かさ。そういうところを味わうべき作品ではないでしょうか。結果そして、誰も見たことのないタランティーノ映画にちゃんとなっているということで、偉い! ぜひ、劇場で、まあデジタル版でも十分です。見てください!

(ガチャ回しパートは中略〜来週の課題映画は、『ちはやふる 上の句』に決定)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、映画『ちはやふる 上の句』を語る! 「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年4月2日放送・テキスト版

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ちはやふる上の句

宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
一体、誰が映画を見張るのか?
一体、誰が映画をウォッチするのか?
映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる−−
その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

22:00-24:00(土)、TBSラジオ AM954 + FM90.5『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。当番組の名物コーナー、ライムスター宇多丸の映画評「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。

毎週、「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)に入った新作映画の中からランダムに選んだ作品を、“シネマンディアス宇多丸”が自腹でウォッチング。その“監視結果”を喋り倒す映画時評コーナーです。

今週評論した映画は、競技カルタを題材にした大人気コミックの実写映画化、『ちはやふる 上の句』(2016年3月19日公開)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

*  *  *  *  *  *

宇多丸:
今夜扱う映画は、先週ムービーガチャマシンを回して決まったこの映画! 『ちはやふる 上の句』。

(BGM Perfume『FLASH』が流れる)

そうですね。エンディングに流れるのが、このPerfumeの『FLASH』ということでございました。競技かるたに打ち込む高校生たちの青春を描いた大人気コミック『ちはやふる』を実写映画化。二部作の前編となる本作では、主人公・綾瀬千早が競技かるた部を設立し、大会に出場するまでを描く。出演は広瀬すず、野村周平、真剣佑。真剣佑、すごい名前ですね。千葉真一さんの息子さん。びっくりしましたね。監督・脚本は『ガチ☆ボーイ』とか、『カノジョは嘘を愛しすぎてる』の小泉徳宏さんということでございます。

ということで、この映画をもう見たよというリスナーのみなさま、ウォッチメンからの監視報告をメールなどでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、多め。ああ、そうですか。うん。評判がね、やっぱり結構高いという。賛否では、8割以上が褒めている。「原作を読まずに行ったけど、まさか泣かされるとは」「青春映画の傑作。熱いし、泣ける」「広瀬すずのアイドル映画としてもすごい」など、熱い賞賛の言葉の言葉が並ぶ。とにかく「軽い気持ちで見に行ったら予想以上によかった」という人が多い様子。

否定的な意見としては、「コメディーっぽい演出がダサいし、話もキャラもありきたり」という意見がいくつかあったということでございます。代表的なところをご紹介いたしましょう……。

(メールの感想読み上げ、中略)

……ということで、『ちはやふる 上の句』。私もTOHOシネマズ日本橋で2回、見ましたね。特に1回目は、なんか会場全体から自然に笑いがあちこちから漏れる感じで、とてもいい雰囲気の劇場でございました。まあ、ざっくり言って、いわゆる『がんばれベアーズ』型ですよね。『がんばれベアーズ』型チームスポーツもの映画。もう、ひとつの明快なジャンルですね。弱小チームががんばって勝ち上がっていくという、定番ジャンルです。

プラス、特に日本映画界ではですね、近年、さらにもうひとつ要素が加わって。要はそのスポーツが世間的には比較的マイナー競技だっていうこういう要素込みで。元はやっぱり学生相撲の『シコふんじゃった。』であるとか、男子シンクロの『ウォーターボーイズ』あたりの成功以降、割と定番化していった、完全にジャンル化している。要するに『がんばれベアーズ』型プラス、そのスポーツがマイナースポーツであるというのが日本映画界ではジャンルとして定着している。

この番組でも前に扱った『書道ガールズ!!』なんかもまさにそうですよね。ただ、ジャンルとして、いまやすっかり定型化した分ということなんでしょうかね。正直僕、このジャンル、上手くやればすごく普通に面白くなるはずなんですよね。いろいろ物語上の定石がいっぱいあるわけなんだけど、定型化した分、正直安易な作品も多いなという風には思っていてですね。と、いうことで今回の『ちはやふる』、どうなのかということなんですが。プラスね、今回の『ちはやふる』は漫画映画化。で、二部作公開という、これまた最近の日本映画界流行りのフォーマットを取っていることも含めですね、正直言って僕は事前には全くノーマークでした。申し訳ないけど。

いろいろ見る映画がある中で、割と後回しにしちゃうタイプの映画にはなっていたと思うんですね。期待もしてなかったんですけど。ただ、結論から言うとですね、もちろん映画として何かとても新しいことをしているとかじゃないです。もちろん、競技かるたを扱うというのは新しいにしても、何か新しい表現がありますよとか、そういうことではないですし。後でちょっと言うかもだけど、ところどころ僕の好みに合わないというか、今時の日本映画にこういうところは多いなという瞬間もまあ、あるはあるんだけど。だから諸手を上げて「完璧だ!」とは言いませんが、そういうのはとりあえず置いておいても、僕はこの手のジャンル映画としてこのレベルまで達していれば、申し分ない。

まあ、いまの基準から言ったら、なんなら「傑作」って言い方をしてもいいぐらいの出来だと思うっていうぐらい、僕は大好きになっちゃいました。すいません。はい。超面白かったっす! すごい楽しかった。で、1回目は僕、原作漫画を全く読まずに見に行ったんですが、全く何の問題もありませんでした。全く何の問題もなく理解できるし、入り込めるという作りにもなっていましたし、原作漫画を30何巻出ているんですけど、今回の映画で扱われているようなぐらいのところまで読んで。9巻目。もうちょっと前かな? でも9巻目まで読んだんですけど。すごく面白くて。やっぱり。その後もめちゃくちゃ読みたくなったんですけど。素晴らしいと思います。漫画もね、さすが。

原作を読んでから、もう1回見たらですね、今度は、ああ、なんて見事に原作を再構築しているんだろう。原作のいろんな要素であるとかセリフとかを上手く意味的に生きるように置き換えていたりとかですね。あと、ここも見事だなと思ったのは、今回前編・後編、2本公開なわけですよね。いま「非常に多いフォーマット」ってさっき言いましたけども。今回の『ちはやふる』はちゃんと今回の『上の句』、前編のみで1本の物語的な起承転結とカタルシスがある作品として、きっちり成り立たせる構成になっていて。とかも含めて、ああ、すごくよく出来た脚本。すごい構成がちゃんとしているな! という風に、改めてうならされたという感じでございます。

監督の小泉徳宏さんね、いままでこの番組で作品を扱ったことはなかったですけど、ロボット所属の監督さん。劇場デビューは歌手のYUIさんの『タイヨウのうた』ってありましたよね。後に、沢尻エリカさんでテレビドラマやりましたけどもね。とか、『ガチ☆ボーイ』とか『FLOWERS -フラワーズ-』とか『カノジョは嘘を愛しすぎてる』とかですね、まあ正直、僕は積極的に評価するタイプの作品ではないフィルモグラフィーが続いて。特に今回の『ちはやふる』と『ガチ☆ボーイ』を比べると、学生プロレスをマイナースポーツというところに置くならば、その題材に対するアプローチの誠実さみたいなのがちょっと段違いというかですね。

『ガチ☆ボーイ』はそういう意味で僕、ちょっとすごく難がある作品だと思っているんですけど。今回の『ちはやふる』は、この小泉徳宏さん自らが脚本を手がけられていることも非常に大きいのかもしれません。とにかく、いままでのフィルモグラフィーの中でも段違いです。段違い。生き生きしているし、完成度も高いです。一皮むけたというか、たぶんご本人的にも相当手応えがある作品なんじゃないのかな? ということだと思います。でね、どっから褒めようかなっていうのをちょっと迷うぐらいなんですけど。

どの映画でもね、映画にとって非常に大事なポイントだけど、特に青春映画はここが大事というところで、やっぱり、キャスティングのマジックが起きているかどうか? というところでですね、誰もが言うところでしょうけど。このキャスティングね、主人公の千早こと広瀬すずと太一というね、一応イケメン役ですけども、野村周平さんだけ事前に決まっていて、後はオーディションで決まったということなんだけど。まず、誰もがもう、この映画に関しては、「強えな、圧倒的だな!」っていう。これはもう、ちょっと理屈じゃない部分ですけど、言わざるを得ないのがやっぱり広瀬すずでしょうね。

『海街diary』のね、すずちゃん役も非常に良かったですけど。『海街diary』はやっぱり、なんて言うんですかね、内側に秘める役柄でしたけども、あれとは全く違った、一言で言えば「抜けのいいバカキャラ」っていうね。さっきさ、『書道ガールズ!!』って出したけど、その時に同時にやった『武士道シックスティーン』でさ、桜庭ななみさんがやったキャラがちょうどこういう抜けのいいバカキャラだったなって思い出したりしましたけど(宇多丸訂正:これ、僕の勘違いで、桜庭さんが出てたのは『書道ガールズ』のほうでした! 記憶のなかで二本が混ざっちゃったみたい……訂正してお詫び申し上げます!)。まあ、すっごい美少女なんだけど、ちょっとまだ性的に未分化な感じを残しているというか。まだ少年っぽいところも残しているような感じ。そのバランスを、ちょっとこれ以上ないほど振り切った、本当にバカ演技で。

最初にね、リスナーメールで来たやつもね、「広瀬すずの度を越したバカ演技」ってあって。「どういうことなんだろう?」って思ったけど、これは本当で。振り切った演技で、非常にパーフェクトに。ともすると、実在感……「すごい美人なのに色気はない」とか、ともすると非常に、なんて言うんですかね? 欺瞞に満ちたキャラクターになりかねないところを、嫌味なくパーフェクトに体現する広瀬すず。これ、いまの広瀬すずの勢いがあってこそじゃないでしょうか。

この広瀬さん。お姉ちゃんが広瀬アリスさんっていう、やっぱり女優さん、モデルさんで。今回も一瞬、雑誌の表紙に写ってらっしゃいましたけども。『銀の匙』なんかもね、非常によかったですけども。お姉さん、みなさんコンタクトレンズのコマーシャルで、この広瀬アリスさん。お姉さんがすっごい美少女なのに、目が悪くてすっごい人相が悪くなるというCM。コンタクトレンズのコマーシャル、記憶されている方もいると思いますけど。あれを見て、あ、すげえ。こんなに美人だからこそ、やっぱりこういうコメディーセンスがある人がやるとめっちゃ面白いな! と思って見ていたんですけど。まさにあのお姉ちゃん譲りの目のコメディエンヌ・センス。

特に、美少女ゆえの目を使ったギャグね。今回、見た人はわかりますけども、とにかくあの白目ネタね。あの見事な白目ネタ、最高。白目をむいて動かないのって、結構大変なんですけどね。白目ネタ、最高。最高バカっすね、あいつね(笑)。あいつ、最高バカっすね、本当ね。これ、褒めてますけども。あと、スカートの下にジャージ履いている時の、「あっ! あーあ……」っていう(笑)。「どこの業者の方ですか?」ってね、あれよかったですけどね。熊谷さんのセリフも(※宇多丸4月27日訂正:熊谷真実さんではなく妹さんの松田美由紀さんです! 言い間違えてました!)。ああいう時の「パッと見て美少女だけど残念」みたいなのが嫌味なく体現できる。これはなかなかね、ないことだと思うんですよね。

この映画全体にですね、ちょっとお話というか空気がウエットな方に行き過ぎそうになると、すかさずそういうちょっと超くだらないギャグとかやり取りを含めて、ちゃんと笑わせてバランスを取るというようなコメディーセンス。それも映画的コメディーセンスが非常にたしかなものがある。それが本作の大きな魅力となっていると思います。たぶん、小泉徳宏さんがですね、もともとコメディーが向いている人だったんじゃないか?っていう。だから、いままでのちょっと、割とウエットな作品を職業的に受けられてましたけども。コメディーセンスがある人だっていうことなんじゃないかなと思いました。

あと、広瀬すずに関しては加えてですね、『海街diary』で一部観客をもう騒然とさせた、抜群のサッカーセンス。ねえ、見せていましたけども。然りですね、要は基礎的な身体能力はたぶんこの人、めっちゃ高いんですね。あと、動きのセンスとか、めちゃくちゃいいんですよ。体技的なことね。体がもういいわけですよ。動きが。ということで、競技かるたというのが非常に激しいスポーツである。「畳の上の格闘技」と言われるような……「畳の上の格闘技ってそれ、柔道だろ!」っていう感じするけど。でもまあ、柔道的にバーン!ってこう、受け身を取ったりする。

スポーツとしての競技かるた。その真剣度。なんなら、殺気ですよね。殺気さえ帯びているようなその真剣度っていうのを、この広瀬すずが最初のところでやってみせる。そこで彼女が「ウラーッ!」っていうところのバーンッ!っていう一発で納得させる説得力がやっぱり、体技含めてあるわけですね。あそこがショボかったら、もう全部成り立たないですね。とかですね、もちろん、他のキャストを含めてしっかり事前のかるた訓練をちゃんと積ませて、競技かるたという題材をしっかり描くという。

さっき言った、マイナースポーツ版ベアーズというジャンルでここ、絶対に外しちゃいけないところ。勘所なのにもかかわらず、ここを適当にやっている作品も少なくない。その、あるスポーツを描こうっていうのに、そのスポーツをちゃんと描く気ないでしょ?っていう風になっちゃっている作品が多い中で、当たり前なんだけど、競技かるたをちゃんと演者たちに叩き込んで。で、完全に上手いところまで持って行ってやるというですね、当たり前だけど日本映画でできていないのも多いですよというようなことをちゃんとやっている。これも本当に大きいあたりだと思います。あの、先ほどちょっと苦言を言った『ガチ☆ボーイ』という作品が、そもそもプロレスっていうものを錯誤していないか、この話は?っていうのに対して、もう雲泥の差だと思います。これは、アプローチはね。

で、とにかくですね、いまの広瀬すずがすげえ! とにかく、神がかり的魅力。これ、ちょっと言いすぎだっていう方もいらっしゃるかもしれませんが、僕、いまの広瀬すずは、「10代の頃の宮沢りえ」の陽性の部分と、「10代の頃の薬師丸ひろ子」の陰性の部分を併せ持つ、ちょっとデカいタマ、来たよ! ちょっとこれ、大きいタマ来たよ!っていう感じになっていると思います。

とにかくその広瀬すずの、説明不要ですね。とにかく説明不要の……説明不要の魅力です。すいません。もう、女優の魅力ってこれ以上言葉にできません。説明不要の魅力が中心として真ん中にドスンとある。で、物語的にはむしろその千早っていうのは中心にある、太陽的なというか、資質的にも天才なわけですから。少なくともこの『上の句』では一応、無意識過剰な天才としてドンといる。なんだけど、物語上は千早の幼なじみ。で、さっき言ったイケメンで金持ちなんだけど、実は非常に切ない思いを抱えている。千早に対しても切ない思いを抱えているし、かるたの才能ということに関しても切ない思いを抱えている太一というキャラクター。これ、野村周平さんが演じている。この彼の視点から見るという構成にしている。

で、彼や他のサブキャラクター。特にその机くんっていうね、ガリ勉のキャラクターが彼女という中心的な太陽を通して少しだけ成長するという話として話を再構成。この前編は構成している。これも大正解だと思いますね。太一を演じる野村周平さん。内藤瑛亮監督の『パズル』でニキビをプチプチつぶしていた子だ、とか。あと、入江悠監督の『日々ロック』の主演の子ですよね。こっちこそ、本当に抜けのよすぎるバカ役じゃないですか。全然、毎回違うように見える。非常に芸達者な方なんだなと思います。

今回、その太一というのが原作よりちょっとだけ親しみやすい目線。つまり、やっぱりさっき千早を中心にすると、結局彼はイケメンで金持ちだって言うんだけど、実は“持たざるもの”。凡人サイドなわけですね。凡人側の視点としての太一像っていうのを上手く、いいバランスで演じられているんじゃないかなと思います。個人的にはね、細かいところなんですけど、寝てしまった千早、広瀬すずをおんぶして帰る夜道で、「あ、あそこマンション建ったんだ……」ってボソッと言うじゃないですか。こういう瞬間を自然に切り取っているだけで、青春映画として、「ああ、これはいい映画だな」っていう風に確信する瞬間だったりします。

で、それに対するですね、『上の句』。今回の前編ではあまり出番が少ないんですけども。それゆえにミステリアスな存在感。新(あらた)というね、こちらは本当に天才の役でございます。真剣佑さん。千葉真一さんの息子さん。これ、まだちょっとわかんないですけど、存在感の、端正だけどミステリアスな、でもなんか持ってるんだろ、こいつ!? みたいな。とっても体現されていて、これもいいチョイスなんじゃないかなと思いますし。あと、他のかるた部員3名。3名ともですね、見た目はちょっと原作とかと設定とか、だいぶ違うんだけど。今回の映画の中では完璧にハマッているなとは思うね。

むしろ、たぶんアンサンブル的なところを生かしたのかもしれないですけどもね。『舞妓はレディ』のね、上白石萌音さんとかですね、今回はコメディーリリーフに徹してましたけども、西田という役をやっている矢本悠馬さん。あと、何しろ今回おいしいのは、机くんというね、ガリ勉的なキャラクターを演じている森永悠希さん。これも原作とちょっとね、バランスは違うんだけど、非常に納得のバランスというか。彼のエピソードの、サブキャラクターでサブエピソードなんだけど、持たざるものの成長っていうのがさっき言ったメインキャラクター。事実上の今回の『上の句』の主人公・太一の目線と重なって、非常に比重が大きい、おいしいキャラクターなわけですけど。

特にやっぱり、彼が落ち込んだところから復活する時にある回想をするわけですけど。その回想のショットが、先ほどメールにもあった通り、ある場面を彼の視点。つまり彼はその時、こう見えていたっていう彼からの視点で、ある場面を別のショットでパッと出してくる。そのポンッていうショットの入れ方が不覚にも、「おっ!」って来る。「上手い! 虚を突かれた!」っていう。というのは、山登りの場面なんですけど、そこで彼が手を伸ばしてもらって手をつなぐ時に彼側の視点。「あ、カットが変わるのかな?」と思わせる間というか、あれがあるんですね。

「あ、変わんないんだ」っていう。やっぱり観客は無意識でそれを覚えているから。その後で、彼が見ていた光景っていうのをポンッて見せられると、ドン!って来るというですね。映画っていうのはやっぱり前に起こったことを思い起こして、「ああ、そうか」って思い起こした時に感動するっていうね、そういう機能がございますね。あと、ライバル校の2人もよかったね。「ドSのS」の須藤。清水尋也さん。これね、特に『ソロモンの偽証』でいちばんおいしいところを持っていった方ですね。今回もね、見た目も漫画とそっくりだし、ドSが似合います。あと、あの首から肩のラインの、あの年頃の男の子にしかないラインがいんだよな。あれな。

あと、今回は名前も呼ばれてなかったけど、ヒョロくんっていうキャラクターの役をやっている坂口涼太郎さん。今回は役として決して多くはない。セリフも出番も多くはないのに、しっかりと存在感を残している。非常に素晴らしい。あと、最近の青春映画で大人の比重が非常に低いのは今っぽいけど、國村隼さん。抑えめだけど非常にいい感じだったんじゃないでしょうか。ということで、ちょっと役者さんの名前を並べすぎちゃいましたけど、青春映画においてはやっぱりこのね、「あいつら」っていうのがたしかにそこにいて、その時間を過ごしたんだという実在感。これが本当に大事なんですね。

だからこそ、「あいつらにまた会いたい、あいつら、どうしてるかな?」っていう、この考えが起きる。その意味で、今回は若い役者さん同士のアンサンブル。相性も含めてですね、もちろんそれを生かすように確かな演出をしていることも含めですね、これが最高にうまく行っているんではないかと思います。あと、やっぱり脚本がとてもよくできている。百人一首と物語のシンクロのさせ方。原作とは違うところ、違う場所にあるんだけれど、とてもハマッている。あの「うっかりハゲ」っていう使い方とか、まあ私は若干イラッとしつつ、二度目にそれが出てきた時、「あっ、うまいな! うまいハメ方するな」みたいな。

一事が万事、百人一首のシンクロのさせ方もうまいですし。あと、これもうひとつ。これがいちばん大事なところ。本作最大の魅力はですね、試合の勝敗に常に明快なロジックがあるということですね。これができていない作品が本当に多い。競技かるた、勝負は一瞬のために、要はハイスピード撮影であるとか、ある種の説明ゼリフ、心理独白ナレーションみたいなのに頼らなきゃいけないのでバランス取りは難しかったと思いますが、やりすぎないように気をつけつつ、特にクライマックス。最後の最後の勝負はですね、要は先ほど言った、かるたに関してはむしろ持たざるものである太一のドラマ的なところの着地にもなるわけですけども。

彼が自分の見出した勝つためのロジックで自らの運命を切り拓いていくという展開。これが、さっき「千早をつかみ取るんだ」という、二重のドラマ的……和歌とドラマのシンクロという、試合のロジックとドラマのロジックの二重の重なるところがあって。しかも、その決着が意外かつ、やっぱり「ああ、なるほど!」と膝を打つ、見事な決着の付け方を含め、対する敵のヒョロくんのナイスな、もう見事なリアクションも含め、本当にグッと来る名場面になっていると思います。

あえて言えばね、たとえばしんみりした場面の音楽演出とか。これ、別にこの映画に限らず、最近の日本映画はなんかピアノが「ポロン……」みたいな。なんか単調で他のやり方、ないのかなぁ、とか。あと、やっぱり先ほどのメールにもあったけど、やっぱり上手い子役の使い方って諸刃の刃だな、とかね。そういうことは思わなくもなかったが、ただまあ、あんまり全体としては文句をつける気がしないぐらいですね、魅力的な、旬のキャストの相性最高のアンサンブルと、かるたシーンの本当に真剣な本物の体技。体の力、体の魅力。そして巧みにロジカルに構成された脚本と、絶妙な笑いのセンスなどなど、全てがこのジャンルムービーとして申し分ないレベルではないでしょうか。

最後に『下の句』。この続編、後編の映像が付くんだけど、僕はもう早くあいつらに会いたい。「えっ、もうそんなに早く会えるの!?(笑顔)」っていうか、次に会ったらもう終わり……、ぐらいの感じになっちゃっています。『下の句』の出来次第ではあるけども、これは意外と日本青春映画史上に残っていくことになる作品かもしれないと。それぐらい、なかなかの出来でございました。『ちはやふる 上の句』、おすすめです。ぜひ、劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート、中略 〜 来週の課題映画は『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

★ポッドキャストもお聞きいただけます。

 

■追記
<2016年4月16日のオープニングトークより>
「こんなメールもいただいております……福岡に住む男性の方。「『ちはやふる』の放送回を聞き、4月14日のレイトショーを見てまいりました。物語中盤、子供時代の千早と新(あらた)が子供時代にかるたをするシーン。新が激しく畳を叩き、その激しさのあまり、かるた札がふすまに突き刺さる場面で、劇場に響き渡る『地震です、地震です』という機械的な声。競技かるたの激しさを、家屋用地震探知機の警報で表していると思っていたその約5秒後。劇場内が大きく揺れ始めたのです。この映画が初見だった私は、そこで初めて、さっきの警報は映画の演出ではなく本当の地震だったのだと気づいたのです。ざわつくお客さんたち。その後も何度となく余震が続きましたが、最後まで鑑賞でき、非常によい作品だったという感想です」ということでね。ありがとうございます。
かるたのね、スパーン!って取ったのが、「地震です、地震です」って。そんだけ強いパワーでかるたを取ったって、そんな演出あるかい!ってことですけどね。でも、こちらの方、福岡ということで。揺れは揺れたけど、ご無事でよかったですけどね。みなさん、被災されている方で、避難所とかにいらっしゃる方も含めて、本当に心配しておりますし、まだ救出されてない方も、孤立されている方もいる中で、こちら放送を続けさせていただきますが、本当に心より心配しております。」

宇多丸、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』を語る! 〜「週刊映画時評ムービーウォッチメン」テキスト版(2016年4月9日)

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宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる−−
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

22:00-24:00(土)、TBSラジオ AM954 + FM90.5『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。当番組の名物コーナー、ライムスター宇多丸の映画評「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。

毎週、「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)に入った新作映画の中からランダムに選んだ作品を、“シネマンディアス宇多丸”が自腹でウォッチング。その“監視結果”を喋り倒す映画時評コーナーです。

今週評論した映画は、『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』(2016年3月25日公開)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

*  *  *  *  *  *

宇多丸:
今夜扱う映画は、先週ムービーガチャマシンを回して決まったこの映画! 『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』

(BGM:『バットマン vs スーパーマン』テーマ曲が流れる)

アメコミを代表するヒーロー、スーパーマンのリブート作である2013年の映画、『マン・オブ・スティール』の続編。同じくアメコミを代表するヒーロー、バットマンとスーパーマンが対決する。主人公のクラーク・ケントことスーパーマンを演じるのはヘンリー・カビル。ブルース・ウェインことバットマンを演じるのはベン・アフレック。また、イスラエル出身のガル・ガドットがワンダーウーマンに扮している。監督は『マン・オブ・スティール』に続いてザック・スナイダー、ということでございます。この映画『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』を見たよというリスナーのみなさん、ウォッチメンからの監視報告、メールでいただいております。ありがとうございます。

やはりですね、非常に大作というか注目作でございますので、メールの量は非常に多いです。今年最多クラスでございます。言いたいことがいろいろ出てくるっていうのがあると思いますけどね。賛否で言うと、賛が2割。まあまあが3割。そして残り半分が否定的な意見ということでございます。「とにかく画面がかっこいいし、ヒーローたちの造形もばっちり」「アメコミファンとして大満足」「前作『マン・オブ・スティール』からつながるテーマ設定がいい」などが主な褒める意見。

対して、「いくらなんでも長すぎる」「冗長、退屈」「登場人物全員バカだし暗い」(笑)。「登場人物全員バカだし暗い」って、キレがいいですね(笑)。など、否定的な意見はこんな感じが多数を占めた。ただし、多くの人が「ワンダーウーマンは良かった」という。まあ、正直ね、「ワンダーウーマンを出す」って聞いた時に、「えっ、大丈夫か? ワンダーウーマンなんか出して」って思ったんですけど、そのあたりは非常に好評な意見が多いということでございます。代表的なところをご紹介しましょう……。

(メールの感想読み上げ、中略)
……ということで、いってみましょう。『バットマン vs スーパーマン』、私もTOHOシネマズの2D字幕、あとバルト9の2D字幕と109シネマズ二子玉川のIMAX3Dで見てまいりました。『マン・オブ・スティール』、このコーナーでも2013年9月29日にやったものの直接的な続編にして、いわゆる──こう呼ぶことになったみたいです──「DCエクステンデッド・ユニバース(DC Extended Universe)」。要するに、映画においては──もちろん、コミック界においてはDCの方が先輩なんですけど──映画界においては、マーベルが先に進んだですね、「マーベル・シネマティック・ユニバース(Marvel Cinematic Universe)」が先行して大成功しているのの同種の試み。

要するに、個々のDCコミックスのヒーローたちを個々の単体で映画化するだけではなくて、互いにクロスオーバーさせて、集結・大集合映画とかを作って、『アベンジャーズ』的な作品世界に広がるスケール感を持たせて、さらに大ヒットで大儲けしたいという計画の、今回『ジャスティスの誕生』というぐらいですから、本格的スタートでもあるということですね。もちろん、コミックでは『ジャスティス・リーグ』の方が先なんですよ。DCの方が先輩にあたるわけなんですけど。映画では、ちょっと後塵を拝していると。

で、原題だと、『BATMAN V SUPERMAN: DAWN OF JUSTICE』ですけどね。タイトルがある意味、全部言っちゃっている。要するに、バットマンとスーパーマン、言わずと知れたDCコミックスの二大ヒーローが、あれでしょ? いろいろあって、対峙・対決せざるを得なくなるんでしょ? で、まあ世紀の対決を経て、とは言えお互いヒーロー同士だから、いろいろあって、まあ和解するんでしょうね。なんかあってね、和解するんでしょう。

で、最終的には、後に『ジャスティス・リーグ』。映画界においてはマーベルの『アベンジャーズ』みたいなもんだと思ってください。『ジャスティス・リーグ』というスーパーヒーローチームが結成されるきっかけが生まれるんでしょ? まあ、そういう話なんでしょうね。うん。タイトルがそういうタイトルですからね!って。で、実際に本当にそういうだけの話です、ということなんですね。

もうちょい細かく言うと、こういうことですね。監督のザック・スナイダーさんをはじめ、作り手のみなさんとしてはですね、特にザック・スナイダーの思いとしては、本音を言えば、フランク・ミラーさんという方──ザック・スナイダーは以前、フランク・ミラーのアメコミというか、グラフィック・ノベルの作品化としてひとつの正解みたいなものを見せた『300』という見事な作品がありましたけども──フランク・ミラーによるアメコミ史上最高傑作とも言われている『バットマン:ダークナイト・リターンズ(Batman:The Dark Knight Returns)』という……これ、「ダークナイト」とついているから勘違いしないで欲しいんですけど。クリストファー・ノーランの映画じゃございません。

むしろ、ノーランを含め、ティム・バートン版も含めてですけど、ティム・バートン版以降全ての映像化バットマンに多大な影響を及ぼしているアメコミの名作中の名作、『ダークナイト・リターンズ』を本当は映画化したいはずなんですよ。たぶん、本当は、そのまんましたいんですよ。『ダークナイト・リターンズ』をね。それがおそらく本音なんだけど、ただ超大作商業映画としての企画上マストな条件っていうのがやっぱりありまして。ザック・スナイダーも大人ですから、そこは。「私も大人ですから」っつって。

要は、『マン・オブ・スティール』の続編であることですね。つまり、“『マン・オブ・スティール』に出てきたスーパーマン”が出る話じゃないといけない。『ダークナイト・リターンズ』のスーパーマンをまんまやろうとなると、要するにあのスーパーマンとは同一人物ではいられなくなってしまうという件があるのと、あと、さっき言ったDCエクステンデッド・ユニバース。具体的には『ジャスティス・リーグ パート1』へのブリッジ。そこにつなげるような話にしないといけない。要するにこれからいろんなスーパーヒーローが出てきますよ、というようなことをちゃんと予告するような内容にしておいてね、という、この2つの条件は外せないわけですよ。映画を作るにあたって。

なので、見ていてですね、「ああ、ここはもろに『ダークナイト・リターンズ』のまんまだな」というところを要所要所に残しつつ、たとえば、おなじみのブルース・ウェインがバットマンになるきっかけ。両親を殺されてしまう場面の描き方とか、映画館から出てきて、っていうところ。映画館のポスターが、ゾロのポスターがあるわけですね。ゾロっていうのはもう、まさにバットマンのルーツにあるようなキャラクターで。だからこそ、原作でもゾロのポスターが貼ってある。

今回の映画だと、時代的な設定上、1981年ということですから。「ジョン・ブアマンの『エクスカリバー』が次週水曜日から上映」みたいなのが看板についていたりですね。『エクスカリバー』の映画のラストが今回の『バットマン vs スーパーマン』のラストのとある結末を暗示していたりもするんですけど。とにかく、『ダークナイト・リターンズ』を踏まえた展開。あるいは、お母さんが撃たれて真珠がボーンと散る。あれはもう、「はい、『ダークナイト・リターンズ』、やりたかったのね。よかったね、よかったね〜。ザック・スナイダー、よかったね〜」って。あと、核ミサイルでスーパーマンがしなびちゃうっていう展開とか(笑)。

で、もちろんバットマン vs スーパーマンのあの戦い。特にアーマーをつけたバットマンの戦いっていうのはかなり、流れも含めて結構まんまだったりするんですけど。そもそも、今回のバットスーツのデザイン。後ほど言いますけどね、ちょっと角ばった感じのバットマンのデザインがもうすごく、フランク・ミラーのコミック寄りだなという感じになっているというのがあると。なんだけど、それを要所要所に、元は『ダークナイト・リターンズ』をやりたいんだろうな、ほとんど『ダークナイト・リターンズ』が原作と言ってもいいぐらいな……アルフレッドのセリフとか、まんまのところもありますし、ですね。

なんだけど、同時にさっき言った条件……DCエクステンデッド・ユニバースに向けた布石として、「じゃあワンダーウーマンを出しましょう」と。あと、後の展開を暗示する、正直これはどんだけのファンが見ても明らかに唐突な、幻視シーンというかですね、未来の予言を見てしまうようなシーンがあるわけですね。ダークサイドっていう悪役が出るのかな? ダークサイド軍団のあれなのかな?っていうのが、バシャーッと空からやって来て……とかね。まあ、フラッシュなんでしょうね。「俺、速すぎた?」っていう(笑)。説明的だな!っていうね、「俺、速すぎた?」っていう、フラッシュっていう別のヒーローがタイムリープ能力みたいなのを活かして、みたいな。フラッシュ・ポイント的な展開なのかな? みたいなものを見せつつ……という。

あと、もちろん『マン・オブ・スティール』の続きなので。『マン・オブ・スティール』っていうのはゾッド将軍っていうのを出しちゃっているわけですね。前のリチャード・ドナー版というか、クリストファー・リーブ版だと、2作目でやったゾッド将軍との戦いを1作目でやっちゃっているんで。ゾッド将軍っていうのはスーパーマンと同等の力があるわけですけど、ゾッド将軍より強い敵っつったら、もうこいつぐらいしかいないだろうっていう。で、名前を出すだけでちょっとネタバレになってしまう、ある敵が今回のラスボスとして出るんだけど。

で、このラスボスが出るっていうことは、当然戦いの結果はこうなるしかないという、あるオチがつくわけです。人によってはあれ、衝撃的なオチっていう風に思うかもしれないけど、もうそのキャラクターが出てきた瞬間に、っていうか出るって聞いた瞬間に、「はい、じゃあそういうことになるのね」っていう、ある展開があるわけですね。もう、名前を言うだけでもちょっとネタバレになっちゃうんで言いづらくてすいません、そういう諸々の要素。とにかく、いろんな諸要素をがんばって全部入れ込んでみましたっていう作品なわけですよ。

で、その結果ね、良くも悪くもそういう諸々の事情を改めて汲み取っている、汲み取ることができる、なんなら、汲み取る気満々なアメコミファンとか、アメコミヒーロー映画ファンは、「ああ、まあそういうことがやりたいのね。そう来るのね。次回作以降はこういう流れなのね」っていう風にそこそこ納得したり、今後にそこそこワクワクできたりする要素が多い。そういう要素が多い作品になっていることは間違いないと思います。なので、ある程度満足したっていう人がいるのは当然だと思う。

ただ、本作最大の問題はですね、僕がいま言ったような諸条件、諸要素から事前に予想がつくというような範囲っていうのがあるわけですよ。さっき言った「ラスボスでこの敵が出てくるなら、ケツはこうなるだろう」とか。「バットマンとスーパーマンの戦いが『ダークナイト・リターンズ』に則しているのであれば、っていうかスーパーマンを倒すのであれば、当然クリプトナイトを使うのであろう」とか。そういう予想の範囲を超えるような事態が、1個も起こらないんです。

その割に、まあ良くも悪くも「神話的な」語り口。これね、たぶんね、そこにすごく、「深遠なテーマを語っている」とか言う人、いますけども。いや、違うでしょう。テーマとして深遠なものを語っている風なことと、作品そのものが深遠であることは別なんで。たぶんこれ、ザック・スナイダーとか、特に脚本のデヴィッド・S・ゴイヤーさん。クリストファー・ノーランの『バットマン』シリーズとかですね、コミックの方も手掛けられたりしてますけども。脚本のデヴィッド・S・ゴイヤーさんたちにとって、単純にアメコミ、グラフィック・ノベルにおけるかっこよさっていうので、絵的なかっこよさっていうのがあるわけですね。まあ、ザック・スナイダーがいちばん得意としているところですよね。

グラフィック・ノベルを絵的に完全に映像的に再現しましたというのと同じように、グラフィック・ノベルのかっこよさを示すのの大事な要素として、神話的。なにか重々しい語り口、みたいなのがある。つまり、「超かっこいいキメ画と同レベルでの、神話的な語り口」っていうのが俺はあると思っているんですよ。たとえば、スーパーマンがアメリカの議会の公聴会に呼ばれてくるっていうあの絵面、『キングダム・カム』っぽくね? 『キングダム・カム』っぽくて、かっこよくね? みたいな。そういう割と無邪気な動機から来ていることだと思うんですね。

で、とにかくいちいち語り口が重々しいためですね、ほぼ事前に想像がつくストーリー展開のまま進んでいくだけなのに、やたらと尺は長くなる。つまり、比較的想像通りのことしか起こらないのに、ダラダラ勿体をつけるっていうことで、率直に言えば、やっぱり退屈な場面が多いんですね。というのが最大の問題だと思います。しかもその大仰なテーマ風なことは掘り下げる気があまりないどころかですね、最終的にはものすごくグダグダ、うやむやにされていくというあたりもまあ、「あ〜あ……」というあたりじゃないでしょうかね。

順を追って見ていくとですね、まず『マン・オブ・スティール』の続編ということで。僕もその時、この番組のムービーウォッチメンの時評で言いましたけど、クライマックス、メトロポリスという都市でスーパーマンとゾッド将軍、要するに同じクリプトン星で生まれた人なので、力は同じ。しかも、向こうの方が数は多いというようなね。まあ、ゾッド将軍は仲間たちがみんな死んだ後で、ゾッドと一対一の戦いがあるわけですけども。まあ、スーパーすぎる戦いがあるわけです。もう人間的物理法則、地球の物理法則を完全に無視したすさまじい戦いで。

あんまりスケールがデカすぎて、「この後にバットマンと戦うって、無理でしょ?」って誰もが思うようなすさまじい戦い。で、僕はその時の評論で、「最後に『人命を救うために』みたいなことを言うんだけど、いやいやいや、これはどう考えてもさっきの戦いの背景でむちゃくちゃ人、死んでるでしょ!」って指摘しましたよね。で、実際に多くの観客からそういう指摘や批判が多かったみたいなんですよ。で、明らかにそれを踏まえた作り。今回の物語の発端はまさに、そのドッカンドッカン、ゾッドとスーパーマンが人間なんか関係ないやのレベルの戦いを繰り広げている、その背後ではこんなことがあったという、視点の転換が今回の物語の発端になっている。

で、これ、発想として非常に近いのはですね、ズバリ、1999年の日本映画『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』ですね。要は、ガメラの場合は1作目でガメラがギャオスという怪獣と戦ったその戦い。それは非常にヒーロー的な戦いをするわけですけど、前の作品でのヒーロー的な活躍のその裏側では、こんなに犠牲者が出ていた。で、その犠牲者の視点から、要はこういうことです。ヒーローを<相対化>するという、そういう仕掛けの作品でした。『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』は。

加えてですね、『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』、ここも近いんだけど。後に最大の敵としてガメラに立ちはだかるのがですね、前の作品で倒した宿敵ギャオスの血脈と通じるような化物と、ヒーローであるガメラへの怨念にとらわれた人間とが融合したやつなんですよね。それが邪神(イリス)なんですよ。しかもそいつは、外からの攻撃を吸収してどんどんバージョンアップしていくっていう、そういう設定まであるんですよ。これ、完璧に今回の『バットマン vs スーパーマン』のラスボスのアイツと非常に重なると思いますね。

まあ、作り手が直接的にこの『ガメラ3』を参考にしたという証拠は何もない。そんな発言もないんですが、ただまあこの間のね、ハリウッド版『ゴジラ』が完全に平成『ガメラ』の1作目風だったのを考えると、まあちょっと見比べてみると興味深いものがあったりするかもしれませんね、と思ったりしました。とにかく、いいです、目の付け所自体は悪くないです。ヒーローの相対化。特に、前作でヒーローがやったことの相対化。ただ、こういうヒーローの相対化みたいなのが効果的なのは、ヒーローのヒーローらしさが十分に描かれた後だからこそ、ショッキングだったり問題提起として意味があるテーマであって。『マン・オブ・スティール』は1作目の中ですでに、ヒーローの相対化っていうのをさんざんやっちゃっている作品なんですよ。

なので、僕、ヘンリー・カビルが演じるスーパーマンはすごく好きなんですけど、なんかこの人、相対化ばっかりされていてかわいそうっていう。全く颯爽としたところがない。ようやく今回、中盤である種シンボリックな「神話的な」描かれ方ではあるけども、普通にいわゆる人命救助を──僕はヒーローものはかならずやった方がいいですよという−−要は普遍的善としての人命救助をしている場面が出てきたりするので。まあ、そこは「よかったね。ようやくいいことをしているところが出たね!」みたいな感じなんですけど。

なので、ちゃんとそういうのを描いてから、こういう相対化をやんなきゃいけないのに、『マン・オブ・スティール』ってそういう映画だっけ? と。加えてですね、同じく重々しく語られる「神 対 人間」という、「テーマ」ですね。そのテーマの置き方自体はわかります。スーパーマンっていう存在を突き詰めていくと、当然神にも近い存在と人間っていうテーマになっていくのもわかる。神にも等しい力を持つ存在に対して、知恵を武器に、つまり、人間の存在証明として知恵を武器に、神殺しに挑む人間たち。特にその中でね、ジェシー・アイゼンバーグが今回、現代IT長者風というか、はっきり言ってADHD風というか、のレックス・ルーサーを演じて言う通りですね、「ゼウスとプロメテウスだ」と。

プロメテウスが神の火を手にして、神は怒って雷を……と。で、神はひどいぞという。まあ、プロメテウス的なテーマであるとか。あるいは、アポロ VS オデッセウス的というか。とにかくまあ、いろいろとたとえはできると思うんですけどね。実際にさっきから何度も言っている『ダークナイト・リターンズ』、フランク・ミラーの原作はまさにそういうテーマ。『ウォッチメン』とも通じますけども、要するに、「神にも等しい存在って言うけど、お前を誰が抑止するんだよ?」という問いかけ。この問いかけとかテーマ設定自体は妥当性があると思いますよ。興味深いと思いますよ。

ただ、まずその『マン・オブ・スティール』の続編として真面目に考えていくとですね、僕、『マン・オブ・スティール』も何度も見直しましたけど、前作の結末ってね、神話なりそういう話っていうのと──あ、ちなみにその神話的っていうのだと、今回ご丁寧にロンギヌスの槍とかを出してきてね、結末はモロに完全にキリストっていうような終わりだったりするわけなんですけど──『マン・オブ・スティール』のことを考えてください。じゃあそのキリストって言うならですよ、バイブル、聖書的な話をするならですよ、前作の結末ってあれは要は、じゃあカインとアベルなわけじゃないですか。

要するに、同族殺しなわけですよね。カインがアベルを殺して、人類最初の殺しをしてしまうという原罪。罪を背負ってしまう。つまり、スーパーマンが同族殺しをすることで、むしろ人間的なものに相対化されてしまう。人間的原罪を背負ってしまう。スーパーマンが人間になるという着地の話だと思うんですよ。好き嫌いとか評価するしないは別にして、間違いなくそういう話でしょ? 『マン・オブ・スティール』の結末は。

だし、普通に考えてもですね、スーパーマン単体で地球上でワーッて活躍していたら、それは神のごとく振る舞うものとして、そういう風に置いてもいいかもしれないけど。でも、そういう風なものを一般大衆が目にするはるか手前の時点で、もういきなりあのゾッド将軍の軍団が来ちゃっているわけですよ。つまり、エイリアンがいっぱい来ちゃって。で、エイリアン同士の内輪揉めを始めるわけですよ。人類が見ているのはそれなんですよ。だから、スーパーマンは単にエイリアンの生き残りじゃないですか。だからその、神的な単一性、唯一性みたいなものはもうすでにないわけですよ、普通に考えて。

だから、少なくともさっき言った理由も含めて『マン・オブ・スティール』の流れで考えると、あんまり単一の神性みたいなところの議論に乗せる流れだっけ? みたいな感じはしちゃうわけですね。百歩譲って、本作の中ではそういう、ある意味本来のスーパーマンらしさ、スーパーマンの存在意義にも近い、「神にも等しい男」という存在感に改めて前提を立てなおしての今回の話です、っていうなら、まあ、じゃあわかった。それでもいいけども。

だとしたらですね、ここですよ。たとえば今回、クライマックス。バットマン 対 ホニャララ戦。バットマンが絶体絶命のその瞬間、ハンス・ジマーとジャンキーXL、師弟コンビによるこんな音楽が流れだす!

(BGM:『Is She With You?』が流れる)

これね、シーラ・Eとかいろんな名ドラマーたちを何十人も集めて結集した「ドラムオーケストラ」。ダーンダーンダーン! もう超熱いドラムオーケストラ。これ、前回の『マン・オブ・スティール』でもサントラに使われましたけども。と、ちょっとこのメロディーがレッド・ツェッペリンの『移民の歌』を連想させる、ギターかと思いきや、エレクトリック・チェロという楽器らしいんですけど。この超燃えるテーマ曲に乗ってですね、ワンダーウーマンがバーン!って、助っ人に参戦するわけですよ。これ、演じてるのは、ガル・ガドットさん。

『ワイルド・スピード』に出てましたよね。ハンっていうアジア系のキャラクターと恋仲になる。で、彼女が死んじゃったからハンは東京に隠居するというですね。で、すっごくキレイだなと思っていたんだけれども、今回ももう本当に素晴らしい存在感! キレイな人で、最高なんですよね。イスラエルの人で、兵役行ったことがあって一児の母って、どんだけワンダーウーマンなんだっていうね。で、間違いなくこのワンダーウーマンがバーン!って出てくる。キターッ! まあ、本作の白眉ですよね。間違いなく、誰もがいちばんいいところ、アガるところだと思うんですよ。やったー!って。

でもみなさん、冷静に考えてください。この瞬間、少なくともスーパーマンを巡る「神 対 人間」っていうテーマは全部吹っ飛ぶよね(笑)。なぜなら、ワンダーウーマンもまた神様みたいなもんだからですよ。えっ、さっきまでのあれ、全部じゃあもう、なし? なし!っていうね(笑)。だからすごくアガるんだけど、同時に残念っていう瞬間でもあるっていうね。事実ですね、要はさっきから言っている「抑止不能な力を野放しにしていると危険だ」っていう、それ自体はそれなりに説得力がある、「誰がウォッチメンをウォッチするのか?」という、それなりに説得力のあるバットマン側の当初の言い分。最後は、完全にウヤムヤになってます。

「オレは考え方を変えた」とかも言わない。「オレが間違っていました」とかも言わない。なんか、すげーシレッと方向を180度転換してるんですよ、あいつ(笑)。俺、だからあの、「いや、チームを集めようと思うんだよね」っていうところでワンダーウーマンは蹴っ飛ばしてもいいと思うんだよね。「っていうか、なんでお前が?」っていう(笑)。まあ、要するにね、深遠なテーマ風に見えるものは、さっきも言ったようにかっこよさの一部なんだとしてもですよ、それが結局燃えるヒーロー大集合に吹っ飛ばされるというこの流れも、じゃあそれはそれで痛快でいいじゃねえかってことなんだとしてもですよ。

じゃあ、そうだとしよう。だとしても、今回の『バットマン vs スーパーマン』、ところどころお話や登場人物の行動がいくらなんでもアホらしすぎ。なにこれ?っていうところが多すぎる。たとえば、ブルース・ウェインがレックス・コープから情報を盗むっていうところがあるんですけど。こんなにザルな会社は見たことがない!っていうね。まず、大事なサーバー室みたいなのが厨房横みたいなところにあってですね。で、コネクターみたなのがむき出しであって。そこに雑な装置をくっつけて。しかも、「はい、あんた、はいはい。なにやってんの?」って見咎められているのに、その装置は放置されたまんま。

で、いったん離れて戻ってきたら、「うわー、取られちゃった!」って言うんですよ。で、取ったのはワンダーウーマンなんだけど、ワンダーウーマン側も「いや、でも取ったのはいいんだけど、なんかちょっとファイルがロックかかっていて、見られなかったから返すわ」って。なんだ、お前ら! コンピューター音痴の中学生同士のUSBのやり取りか!? みたいな。まあ、ザック・スナイダーはつくづくですね、コミックを再現することには情熱を燃やしても、スパイ映画とかマジで興味ねえんだなっていうのがわかる雑なシーンでございました。

あと、たとえばね、レックスがスーパーマンを倒すためのクリプトナイトを輸入した。で、それをバットマンが奪おうとするくだり。バットモービル大活躍のシーンなのはいいけど、その車に発信機を取りつけているんですよ。で、その行き先は、いいですか? レックスが輸入したってわかっているものに発信機をつけたその車の行き先は、レックスの研究所なんですよ。で、ああ、そりゃそうだろうねっていうところにしか行かないんですよ。そうだよねっていう。しかも後から、その研究所から強奪するんですよ。石を。っていうことはさ、さっきの途中のカーチェイス、丸ごといらないじゃん? 発信機、意味ねえじゃん! お前、途中でワーッてやってさ(笑)。超警戒するよね。

で、そもそもバットマンとレックスが本来、立場的にも思想的にも非常に近いところにいるところでスーパーマンに反感を抱いているんだから、せっかくその対照が面白い置き方なのに。だから、途中で協力しあうとか、そういうのがあるのかな?って思ったら、お互いにどう思っているのかわからないまま話が進むため、たとえば途中で議会であるテロ事件が起こるんですけど、犯人が誰かもバットマンは知っているのに、まだスーパーマンが悪い、悪いっていう説に取りつかれているのが何か不自然すぎてバカにしか見えないっていう感じにもなっている。

で、肝心の対決シーン。『ダークナイト・リターンズ』に近い感じで、そういうのはいいんだけど。『スーパーマン 冒険編』のオマージュもあったり(※宇多丸訂正:『スーパーマン ディレクターズ・カット版』と言い間違えました、すみません!)。あと、バットマンが、(戦いの途中で)スーパーマンが回復してきて、「あっ、ああー、ちょっと待って、待って!」って。あそこも笑えて。楽しめるんだけど。まず、バットサインを出せばスーパーマンが来る!って雨の中を待っているんだけど……うん、いつ来るかわかんないよ! だし、まあスーパーマンは対話する気だから来るのはいいとして、でも本気で戦う気のバットマンがああやっていたらさ、本当にスーパーマンがやる気だったらさ、上からドーン! でお終いじゃん、みたいなね。なんなの、お前?っていう感じがありますしね。

あと、スーパーマンがレックス。敵にね、屈する理由が「えっ、オマエ、意外とこういうことで簡単に屈するんだ」みたいなのもありますけども。しかもそれはバットマンが後でひとりで解決できる程度のことだった、みたいなのもありますけど。で、その後ね、バットマンがスーパーマンへの怒りを鎮める理由が、「えっ? お母さんの名前、一緒なんだ!?」っていう。これ、みんなずっこけたと思うんですよね。まあ、お前も人の子かっていうのは理由としてはわからないじゃないけど。で、その後にいわゆるロンギヌスの槍。スーパーマンを殺せる槍が捨てたり拾いに行ったり溺れたりのグダグダしたくだりとか、本当にイライラすると思うんですけども。

で、いろいろあるんだけど、はい、よかったところ。バットマンのデザイン。割とコミック寄りというか。最近のヒーローものがなんかみんな似たようになっている、表面がテラテラしたあれじゃない、フランク・ミラー風のデザイン。あれはよかった。トレンチコートのスタイル、あれもよかった。とかですね、ワンダーウーマンもよかったとか。ヘンリー・カビルのスーパーマンはいつも悪くないんだけど、みたいなのもあります。あのクライマックス前にロイスを救出するシーン。で、サーッと一瞬2人で、一瞬のランデブーをしますよね。ああいうところをもうちょっと入れてほしいですよね。あれはすごく美しいショットだったなと思いますね。ということでございます。

あの、ワンダーウーマンの参戦シーンがグッと来るのは、やっぱりアメコミヒーローもの、堂々と、ぬけぬけとこれをやるんだっていう瞬間にグッと来るところがあるんで。やっぱりちゃんとやった方がいいんじゃないかなと思ったりいたします。ストレートに、シンプルに行くのを怖がる最近の映画の……要するに、だから“盛りすぎる”という最近の娯楽映画のいろんな問題点も入っている作品じゃないでしょうか? とはいえ、僕はね、やたらとかっこつけているくせに、結局割とバカっぽいというそのバランスをもかわいく取れる程度にはなってきました。かわいい! ということでございます。ぜひぜひ、劇場でウォッチしてください。
(ガチャ回し前の補足)

 

……あの、悪夢のシーンに出てくるトレンチコート・バットマン、ちょっと『バットマン・アンド・サン(BATMAN AND
SON)』風の、あのバットマンのフィギュアだったら買ってもいいかな〜、というぐらいには、結構楽しみましたよ!
はい、ということで、来週のムービーウォッチメン、候補の6作品を紹介します!

 

(ガチャ回しパート中略 〜 来週の課題映画は『ボーダーライン』に決定!)

 

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

http://podcast.tbsradio.jp/utamaru/files/20160409_watchmen.mp3

 

■追記
(2016年4月16日、コーナー冒頭より)
「ここから夜11時までは、劇場で公開されている最新映画を映画ウォッチ超人こと"シネマンディアス宇多丸"が毎週自腹でウォッチング——そして、先週評論した『バットマン vs スーパーマン』。こうやって大きな地震(2016年4月14日の熊本地震)が起ったりしてみると、やっぱりそれは、たとえばスーパーマンとバットマンが敵対しているんだけど、大きな災害を前に人命救助で力を合わせるとか、そういう感じの、“オレの思いついた『ジャスティスの誕生』”ストーリーを考えたくもなる……なんてことを思いながら、"監視結果"を報告するという映画評論コーナーでございます——)

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