2017年6月24日放送の「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」では、言語としての「手話」について取り上げ特集しました。
特集の性格から鑑み、今回は特別にその放送内容を文章化してここに掲載いたします。
また、付録として、今回のゲストである斉藤道雄さんの著書『手話を生きる 少数言語が多数派日本語と出会うところで』を紹介した放課後ラジオクラウドの文字起こしも掲載しておきます。
(番組スタッフ&文字起こし職人みやーん)
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【本編】
音声はこちらから↓
宇多丸:時刻は11時21分です。毎週土曜日夜10時から2時間生放送でお送りしている『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』。ここから夜12時前まで特集コーナー、サタデーナイトラボをお送りします。今夜の特集は、こちら!
「手話はひとつの言語である──。あなたの知らない手話の世界特集」!
耳の聞こえないろう者の人たちが使う「手話」。しかし、私も含めて多くの方は、実は手話についてあまり本当のことを何もわかっていないんじゃないか? というね。僕なんかもう、本当に何もわかっていなかったということが、最近わかりましたという勢いでございましたが。今夜、言語としての手話、その興味深い世界、そしてそこにある問題についていろいろと学んでいこうと思います。先週ね、「低みギャラクシー賞」というね、ラジオの番組の中でも下の下の特集をやりましたけど、それをなかったことにして(笑)。これでトントンで帳消しにしていただきたい。
本日の特集はちなみにですね、もちろんラジオですからしゃべり、つまり音声コンテンツなんですが、後ほど書き起こしを……映画評は毎週ね、正式な書き起こししてますけども。みやーんさんによる書き起こしも後ほど、ホームページに上げていきたいと思っております。ということで、お話をうかがうのは単行本『手話を生きる――少数言語が多数派日本語と出会うところで』の著者、斉藤道雄さんです。はじめまして。よろしくお願いします。

斉藤道雄(以下、斉藤):はい。よろしくお願いします。
宇多丸:すいません。ちょっと騒がしい番組で。ガチャガチャガチャと。
斉藤:いやいや、楽しくていいですよ(笑)。
宇多丸:きちんとですね、今日はお話をうかがうような特集にしたいと……。
斉藤:あんまりきちんとは話せないんですけども。合わせちゃうと。はい(笑)。
宇多丸:カジュアルに行きたいと思います。それではまず、斉藤道雄さん。プロフィールをご紹介いたします。斉藤さんは1947年生まれのジャーナリスト。元TBSテレビ報道局の記者で、ディレクター・プロデューサーということで。何年前まで、こちらには?
斉藤:9年前までTBSで働いていましたね。
宇多丸:ああ、結構最近ですね。
斉藤:でも報道の現場しかやっていなかったんで。幅は狭いんですけどね。
宇多丸:いえいえ。まあ、大先輩というか。TBSの先輩でございます。日本で唯一、耳の聞こえない子、聞こえにくい子を、手話と日本語の2つの言語で教育する私立ろう学校・明晴学園の校長も務められた。昨年、著書『手話を生きる――少数言語が多数派日本語と出会うところで』を発表されたということで、今回の特集にお呼びすることになりました。実はこの本は僕は、隣にいますこの番組の構成作家の古川耕さんから、去年の秋、推薦図書特集で……別に声、出していいんですよ(笑)。
古川耕(以下、古川):そうですね(笑)。それで僕が紹介して、宇多丸さんにも「ぜひどうですか?」って薦めたっていうね。
宇多丸:で、昨年の秋に拝読して。最初に薦められた時は、なんとなく勝手に「手話の話だからだいたいこんな話?」って……わかってもいないのに、なんか勝手なイメージで、「こういうようなことですか?」って言ったら、古川さんに「全然あんたはわかっていません!」ってピシャッと言われてですね。
斉藤:(笑)
古川:言い方は違いますけどね(笑)。
宇多丸:で、読んだら本当に何と言うか、衝撃と言うか。目からウロコでもありましたし。
斉藤:まあ、みなさんご存知ない方が多いので。
宇多丸:「わかっていないことをわかりました」という感じで。で、ぜひ何らかの機会でこの番組でもお話をうかがえればなということで、お呼びした次第でございます。
斉藤:はい。
宇多丸:ということで、あまり時間もないので、今日はもう大きく3つのポイントに絞ってお話をうかがっていきたいと思います。ひとつ目は、「手話に関する本当に基礎的な話」。これを聞いているみなさん、これは本当に覚悟しておいてください。みなさん、大半はわかってないですよ。あんた、わかってないよ!(笑) 基礎的なお話をまずうかがいます。そして2つ目は、「日本語対応手話と日本手話の違い」。今日はメインで日本手話の世界をぜひ、みなさんに知っていただきたい、その重要性を知っていただきたいということなんですけど。この違いをうかがう。そして3つ目は、「日本語対応手話と日本手話の違いが生む問題について」。今後どうしていった方がいいのかな? みたいなことも含めて、うかがっていきたいと思います。まずはさっそく最初のパート。手話に関する本当に基礎的な話。これ、本当にたぶん僕に限らず、世の中の人の大半がよくわかっていないと。どんぐらいわかっていないか? というと、これ僕の勝手なね、「えっ、手話なんだから、じゃあ世界共通だったりするの?」とか……。
斉藤:はい。よくそういう風に考えている方がいるんですけど、手話はそれぞれの国によって違うし……まあ国というよりも社会によって違うんですよね。だから、日本には日本手話という手話があります。アメリカにはアメリカ手話という手話があります。で、中国には中国手話。それぞれの社会にできあがってきた手話というのがあって、それはお互いに言語として違うので、その手話を使ってもお互いに通じないというものであるわけです。
宇多丸:ふんふんふん。だから、なんとなくそこにはですね、「手話というのはジェスチャーなんでしょ? だからユニバーサルだよね」っていう勝手なイメージがあるんだと思うんですね。
斉藤:まあ、パントマイムの世界なんかをね、想像しちゃうかもしれませんけども。
宇多丸:でも、そうじゃないと。
斉藤:いちばん最初はそうだったと思うんですよね。手話が言語になる前はね、みんなそのジェスチャーを使っていた。そのジェスチャーをみんなが使っているうちに、たちまち言語にしてしまったという、これまた壮大な話があるんですけども。まあ、そこまで一気には飛ばずにですね。手話はそれぞれの社会で固有の歴史と背景を持っているところで、それぞれに成立した自然言語であると。
宇多丸:自然言語なんですね。
斉藤:そうなんです。
宇多丸:人工的に後から体系づけて「こうこうこう……」って。たとえば、元からある言葉と対応してやったとかではなくて、さっき「最初はジェスチャーだったかもしれないけど……」っておっしゃっていましたが。
斉藤:いちばん最初はそうだったと思います。でも、それがたちまち言語に成長していくわけですよね。
宇多丸:まあ、象形文字が漢字になったように、最初は何か具体的なものと対応する何かだったかもしれないけど、自然言語……自然に体系化していった?
斉藤:「自然言語」というのはものすごく大事な概念だと思います。つまり、「人工的に作ったものではない」ということですよね。だから、「インディアン、嘘、つかない」っていうああいう言い方はですね、まだ言語になりきっていないという意味で、違う言語の人同士が出会って作っていく、合成していく言語っていうのが、これがひとつあるんですけども。それはまだ、十分な言語とは見なされていないんですね。それに対して、十分に我々の使っている日本語とか英語と同じような形になった言語というのが、自然言語なんですけども、手話も……日本手話もアメリカ手話もそれぞれに自然言語であって違っているという、そういう世界です。
宇多丸:この時点でたぶん、「えっ、そうなんだ!」っていう感じの人、結構いらっしゃると思いますし。同時に、やっぱり深く考えてないんですよ。「世界共通なんだろう」って思いながら、でも元に、日本語でしか自分が発想できないせいで、それをベースにしたなにか元にある言語があっての……要するに補助手段としての手話なんだろうっていう頭があるから、「自然言語なんだ」って聞くと「えっ?」ってこう、なっていくんですね。
斉藤:まあでも、日本語についてもね、我々そんなに深く考えているわけじゃないんで。まあ、改めて考えてみると、「へー。そうか」っていう風にわかることがたくさんあるっていうことだと思うんですね。
宇多丸:これ、だいぶ射程の長い話になっちゃいますけど、この本を拝読したりとか、いろいろとその周辺のことでお話、他の本とかを読んでみても、あれですよね。言語って不思議っていうか。最終的にそこに行きますね。言語って面白いなっていう。
斉藤:本当に面白いです。これは。
宇多丸:「言語習得とは?」っていう、そういう根本的な話に考えが行きますね。
斉藤:これを見ていると、「人間の脳ってなんだろうな」って思うし。そもそも赤ちゃんがどうして言語を習得していくのかっていうのを、こんなのを見ているとわからないことだらけ。だけど、面白いことだらけ。飽きないです。
宇多丸:実はこれ、ちょっと真面目なというか、もちろん福祉問題みたいなそういう側面もありますけど。そういう、ものすごい思考の実験としてめちゃめちゃ興味深い世界が広がっているなという風に思って。そのへんも今日はお話、最終的に行ければなと思っております。
斉藤:はい。
宇多丸:ということでこれが基本的なところでございます。すいません。もうズブの素人でね。素人以前の話ですけどね。ということで、問題はここなんですよ。今日はいちばんここをうかがいたいあたり。「日本語対応手話と日本手話の違いについて」。いま、自然発生的に体系化されたというのは、日本手話の話ですよね?
斉藤:はい。自然言語というものは、誰かが作って広めようと思ってもなかなか上手くはいかない。みんなが使っているうちに自然にできてしまうというのが自然言語なんです。まあ、ちょっと先で話したいと思うんですけど、そのみんなが作るというのはですね、実は乳幼児が作っているというのが、これが非常に面白いところなんですよ。
宇多丸:ほうほうほう。
斉藤:宇多丸さんもね、日本語をしゃべりますけども。自分がどうやって日本語を覚えたか?って、覚えていないでしょう?
宇多丸:日本語を覚えた瞬間とかはないですよね(笑)。
斉藤:どういう風にして学んだか?っていうのは誰も覚えていない。だけど、いつの間にか身についちゃっている。そういうのが自然言語なんですね。で、この身についているのは0才、1才、2才……まあ5才ぐらいまでの間にはだいたいみんなもう身についている。
宇多丸:自分では発声というか、しゃべれない段階から、たとえばいろいろ話しかけられるとか、諸々で。これこそわからないところですけども……。
斉藤:わからないけど、いちばん興味深い科学の最前線ですよね。
宇多丸:いろんな、何らかの蓄積で、いつの間にか自分の中に、ある種思考体系としての日本語が入っている。
斉藤:で、そういう風にして、いつの間にか覚えちゃったという、そういう言語が「母語」と言われるんですよね。mother tongueっていうやつですけども。つまり、これが私がいま使っている日本語。まあ、自由に使える。何を言われても、一応受け答えができるというか、考えずに使える言語ですね。
宇多丸:考えずに。なるほど。
斉藤:自然に出てくる。呼吸のように出てくるっていう、これが自然言語の世界ですね。母語と言われるものですね。これが手話も、昔からろう者が使ってきた手話というのは、こういう風な自然言語なんです。
宇多丸:ふんふん。昔からろう者が使ってきたのはそれと。
斉藤:はい。まあ、「昔から」と言っても、日本の場合にはまだ最初にできたのが19世紀の末ぐらいだろうという風に言われているので。まあ、100年ちょっとの歴史かもしれませんけども。少なくとも、いまはもうできあがっているということですね。
宇多丸:それがいま、日本手話の話ですよね。それと一方で、日本語対応手話。
斉藤:というのがあるんですね。これは、割合に後の方で出てきます。できあがってからまだ50年ぐらいしかたっていないんじゃないか?っていう風には思われますけども。
宇多丸:えっ? そんなに新しいんですか?
斉藤:これは、ろうの人たちが手話を使っていると。で、その手話を使ってお互いに話をしようじゃありませんかという人たちが、聞こえる人たちの中に出てくるわけですね。色々と。まあ、ろう学校の先生であるとか、あるいは福祉活動をしているみなさんとか、手話通訳的なことをしようと考えているみなさんが、ろうの人たちの手話を学んで、そしてそれを自分たちも使ってお互いにそれで話をしよう、コミュニケーションを取ろうということから元々は始まったわけですね。
宇多丸:ふんふんふん。
斉藤:でも、そういう風にしていつの間にか、聞こえる人が使いやすい手話ができちゃったんですよ。どういう手話か?っていうと、頭の中で日本語を思い浮かべます。そしてその日本語を、その一部を手話の手の形に直していくという、そういう手話ですね。だから語順はもちろん日本語の語順。そして、単語の概念もそれぞれ日本語の単語の概念を当てはめたものを作って。まあ要するに、聞こえる人たちが作り出した人工言語としての手話っていうのがあるわけなんです。
宇多丸:ああ、なるほど!
斉藤:で、実はですね、これが広く普及していて、いろんな場面でよく使われているので。宇多丸さんもみなさんもですね、手話っていうのをご覧になる時には、この日本語対応手話という人工言語を見ているということがほとんどじゃないかなという風に思うんですね。
宇多丸:ああ、我々が触れる機会があるのは、その人工言語としての日本語対応手話。要は、日本語を補助的に身振り手振りに置き換えたものっていう感じですかね?
斉藤:はいはい。だから、まあたとえば「今日、私はTBSに行って宇多丸さんの番組に参加します」って言う時にですね、「トゥデイ、アイ、TBSにゴーで、宇多丸ズプログラムにジョイン」とかっていうようなことを言ったとしますよね?
宇多丸:片言の英語単語で。はいはい。
斉藤:まあ、実にわかりにくいけども、よくよく聞いているとわからないことはないという。
宇多丸:何を言わんとしているかはわかる。
斉藤:一応、意味はわかるという、そういうことですね。だけども、自然な会話はそれではできないという、そういう言葉であるわけです。
宇多丸:つまり、その日本手話でろう者の方たち同士が、非常に通常の言語と同じようなレベルで、細かいニュアンスも含めて……。
斉藤:全く普通の世間話をしていると。
宇多丸:まさに考えずに、スッスッスッと出てやれるのとは全く違うものとして、たとえば頭で日本語で、日本語対応手話に置き換えるとこうだっていう感じで……。
斉藤:非常にだから、「ミーはTBSにゴーよ」っていう言い方をされた時に、「なに言ってんの、この人?」って思いながら、「ああ、そうか。今日この人はTBSに行くのね」っていう、そこのことを理解する。
宇多丸:これ、でもやっぱり先ほど斉藤さんがおっしゃたように、僕らがわりと触れる機会が多いのは対応手話の方なので、逆にその日本手話の存在の方が僕らにとってはマイナーっていうか。そういうものがある……っていうか、違いがあるんだ!っていうレベルですよね。
斉藤:手話通訳のみなさんが使っている手話というのは、かなりの場合には日本語対応手話なんですね。ですから、普通のろうの方たちが日常、生活でもって使っている自然言語としての日本手話というのは、まあ宇多丸さんもご覧になったことはないんじゃないかな? という風に思います。
宇多丸:逆にその、日本手話で自然に会話できるろう者の方が、日本語対応手話の手話を見るっていうのはどういう感じがするんですかね?
斉藤:これはね、見ながら「翻訳」と「推測」を常に強いられるわけです。つまり、宇多丸さんが何かこう、日本語対応手話を使っていたとする。そうすると、宇多丸さんはああ、こういうことを言っているんだろうな。たぶん、こういうことを言わんとしているんだろうなっていうことを、頭の中で翻訳するわけですね。だから手間もかかる。そして、微妙なニュアンスは伝わりにくい。で、スピードも落ちる。5分ぐらいだったらこれで会話できると思うんですけども、10分、15分と続けていると聞いている方……まあ、見ている方ですかね。疲れちゃうということなんですね。
宇多丸:うんうん。まして、細かいニュアンスとか。たとえば議論するとかですね。そんなことは……。
斉藤:これは難しい。まずできないです。
宇多丸:できないっていうことになりますよね。これがまず、「えっ、そうなんだ」って。たとえばテレビとかで手話がついていたとしますよね。あれはだって、ろう者の人のためについているんだと思っているわけですよ。こっちは。
斉藤:テレビドラマでこれまでに、みなさんがご覧になってきた手話っていうのはほとんどが日本語対応手話ですから。ろう者が使っている自然な手話ではないですね。
宇多丸:ということは、ろう者の人にとってもちょっとわかりづらいぞ、これは……っていう?
斉藤:わかりづらいけども、テレビ見られないよりはよっぽどいいわけですから。映画でもそうなんですけどもね。
宇多丸:ないよりはいいけども……と。だったら最初から、日本手話をここにつければいいんじゃないか?っていう感じがしちゃいますけど。
斉藤:難しいんですよ。
宇多丸:難しい。要するに、習得が難しい?
斉藤:あの、「英語をちゃんとしゃべれますか?」っていうのと同じように、「日本手話、1年勉強すればできるようになりますか?」っていうと、まあ多少はできるようになるけれども、英語を1年勉強してできるようになるレベルと同じと思えばいいわけですよ。自然言語だから。
宇多丸:というぐらい、全く別の言語体系っていうことなんですね。
斉藤:はい。全く違います。
宇多丸:たとえば表現で、日本語表現と日本手話の表現で、日本手話の方が細かく伝えられる表現なんていうのもいっぱいあるというようなことも?
斉藤:細かいというのと……複雑で細かくて豊かで早いという。これが自然言語ですよね。人工言語を使っていた場合にはそこまでのスピードとニュアンス、あるいは細かさ、深さは出てこない。
宇多丸:その日本手話の、具体的にどういう動きというか、説明できますかね?
斉藤:たとえばね、頭の中で日本語を思い浮かべて、「スタジオの明かりが明るすぎるので少し消してください」みたいなことを言うとしますよね。「明かりを消して」というようなことを言おうと思ったらば、頭の中で日本語を思い浮かべて。「明かり」「消す」。この2つの単語をつなげて出すということになるんですね。で、それぞれの単語には手話がありますから、「明かり」を……。
宇多丸:いま、手をフッと。こう。
斉藤:「消す」というのはだからたとえば、「止める」というようなものになるかもしれない。
宇多丸:手のひらに手刀をポンとやる。これが「止める」。
斉藤:はい。だけども、手話の場合にはひとつの動作で表しちゃうんです。(両手を挙げ、上に向けて開いた指先をふっと閉じる動作)これでいいんです。
宇多丸:プッとこう、両手で何かを持ち上げるような仕草。
斉藤:何かをつまんで持つような仕草を上から下に……つまり、指を開くような形にすると「明かり」なんですね。
宇多丸:ああ、これが「明かり」。
斉藤:「明かり」という名詞であり、なおかつ、「明かりをつける」という動詞にもなりうる。これは名詞か動詞かはその他の文法的な要素で決まるんですけども。これを逆の動きにすると、「明かりを消す」ということになるわけです。
宇多丸:ああ、なるほど。
斉藤:だから「明かり」「消す」という名詞と動詞が同時に表されちゃっているんですね。
宇多丸:分かれてなくても、日本手話では同時に表現できると。なるほど、なるほど。
斉藤:手話の特徴というのはいくつもの言葉を同時に言っちゃうということなんです。つまり、日本語で、音声語で「明かり」「消す」という言葉を両方同時にしちゃうと、まあ音声を重ね合わせるみたいな感じになっちゃうわけだけど。
宇多丸:発話がまず無理ですけども。
斉藤:発音もできないけど。だけども、2人がそれをしゃべればできないことはないんだけど、そんな重なった音を出しちゃうと音としては非常に伝わらないということになるんですけど、手話というのは視覚言語ですから目で見てわかればいい。だから「明かりをつける」という動作と「明かりを消す」という動作は手の動きを反対にすればいいわけですね。だけども、その時に「消す」という動詞と「明かり」という名詞が同時に表されているんですよ。その動きで。もうひとつ、わかりやすい例っていうのは、これよく出すんですけども。日常会話でよく、「お子さん、大きくなりましたね」みたいな場面でね、「うちの生まれたばかりの赤ちゃん、ようやく首が座ったんですよ」っていう風なことを言うことがある。あるろう者が日本語対応手話で「赤ちゃんの首が座った」っていうのを見て、びっくり仰天したということがあるんですね。
宇多丸:ほうほう。
斉藤:なぜなら、日本手話で「赤ちゃんの首が座った」というのはですね、手首をクッと上に持ち上げる。
宇多丸:グーを作って、ちょっとそれを上に向けて。
斉藤:それをちょっと上に持ち上げる。クッと持ち上げる。この1アクションで「赤ちゃんの首が座った」を表せるんですね。
宇多丸:たしかに、形的に座った感というかね。はい。
斉藤:だけどこれが日本語対応手話だと、まず「赤ちゃん」っていう名詞があって……頭の中で日本語を考えると、「赤ちゃん」がいて、「首」があって。「首」というのは自分の首を指すんですけども。それが「座る」というのは椅子に座るという動作。そういう手話があるんですけど。「赤ちゃん」「首」「座る」という3つの言葉をつなげて出す。これが日本語対応手話になる。そうすると、これを見た時に言っている方の人はね、「赤ちゃんの首が座った」という意味で使っているんだけど、見たろう者はどう思ったか? 「赤ちゃんの生首が椅子の上に置いてある」っていう風に思っちゃった。
宇多丸:(笑)
斉藤:で、これは実際にあるろう者がそういう風な対応手話を見て、ドキッとして。「なに言ってんの?」っていう……でも、よくよく考えたら、「ああ、そうか。『赤ちゃんの首がしっかりした』ということをこの人は言おうとしているんだな」っていうことがわかったということなんですね。
宇多丸:これ、手話で話そうとしている人が、日本語対応手話で話そうとしているのか、日本手話で話そうとしているのか、やっぱり2パターンがありうるからたまにそういう――まあいまのは笑い話ですけども――混乱も起こりうるという?
斉藤:ろう者の場合にはそうして常に、日本語対応手話を見せられると、翻訳作業を強いられているわけです。「この人、何を言おうとしているのかな? 意味が通じないけど……ああ、こういうことを言いたいんだろうな」と。だから、翻訳と大部分の場合には推測がかなり入って受け止めているということになるんですね。
宇多丸:へぇ~……これ、ちなみにいま、専らこの手の動きの話をうかがいましたけども。動画を見るとですね、表情とか口でなにかパッとやったりとか。結構いろんな動きが同時に起きているように見えたんですけど。
斉藤:手の動きというのは手話の場合には、全体の50%ぐらいの意味を伝えているだけ。じゃあ、その他の意味はどうやって伝えているか?っていうと、表情が非常に重要なんですね。だから「眉を上げる/下げる」「目を細くする/丸く開く」。それから、「首を振る」とか。「顎を前に出す/引く」とか。こういう風な動作が文法として組み込まれているんですね。だから、たとえば「赤ちゃんの首が座った」という表現にしても、「首が座った」という手話をしながら同時に眉をちょっと上げて相手を見たとする。これは疑問形になるわけですね。「赤ちゃんの首、座った?」になるわけですね。
宇多丸:ああ、はいはい。
斉藤:つまりそれは、表情で出すわけなんですけども。手話っていうのは「手の言葉」という風によく言われますけどね、実際には顔の表情……殊に目の使い方というのがものすごく文法要素として大きいんですね。
宇多丸:まあイントネーションでね、語尾を上げる/下げるっていうのはね、そのようなものというか。ありますもんね。音声言語でも。
斉藤:ありますけども、イントネーションよりははるかにいろいろある。
宇多丸:いろいろできるんだ。たしかに。僕みたいにサングラスをかけてちゃ、だいぶ伝わらない?
斉藤:いや、まあ伝わりますけどね。大丈夫ですけども。
宇多丸:大丈夫ですか?(笑)
斉藤:ろう者の場合には、大丈夫です。
宇多丸:でも文脈がありますもんね。これ、音声言語も完全に言っていること一語一句、パッと頭で理解してから理解するというよりは、「文脈上はこうだろう」みたいな。
斉藤:前後がわかっていれば理解できるということもあるんだけれど、自然言語でお互いが自然言語をしゃべっている場合には、前後の理解というのもお互いに共有しているわけだから。ツーカーでいろんな話ができるわけですね。それが対応手話になっちゃうと、そこにタイムラグが生じるし、微妙なニュアンスがズレちゃうとか、伝わらないとか。あるいは推測が間違っちゃうということもいっぱいあるわけです。
宇多丸:あるし、やっぱりそもそも日本語対応手話が非常に単純化した何かしか伝えられないという。
斉藤:部分的な要素しか伝わっていないので。しかもその手話で使う表情なんていうものは普通は落としちゃうので。そうすると、文法がない言葉の単語の羅列っていうことになるわけですね。だから、「私とお母さんと妹がハワイに行った」ということを言ったとする時に「私のお母さんと妹が行った」のか、「私とお母さんと妹の3人が行った」のか、「私のお母さんの妹が行った」のか……これは、日本語対応手話ではそこの区別が通常できないですよね。
宇多丸:ああー。
斉藤:日本手話ではそれは間違える人はいないです。微妙なその視線とタイミングでそれは全部表しちゃうんですね。だからよく、「手話には『てにをは』がない」なんていう言い方がされていたんですけど、「てにをは」に代わるものが動きの変化であり、表情でありということなんですよ。
宇多丸:「手話にはない」というのは日本語対応手話の話だったんですね。それはね。
斉藤:そうです、そうです。
宇多丸:なるほど。で、「日本語対応手話と日本手話の違いが生む問題」のところなんですけど。いまみたいに、笑い話でね、「赤ん坊の生首が……」「ギャーッ!」って、これ、笑い話で済めばいいですけども、これ結構実は重い問題も含んでいるかなと思うんですが。
斉藤:はい。それで誤解のないように言っておかなきゃいけないと思うんですけども。じゃあ、その日本語対応手話というのは不十分な、限定的なコミュニケーション手段であるからこういうのはあまり使わない方がいいんじゃないか? という風なことを考える方がいるとしたら、そうじゃないと申し上げたいんです。
宇多丸:いらないわけじゃない。
斉藤:非常に大切な手段であるわけですね。たとえば、「中途失聴者」という人たちがいるんですけど。つまり大きくなってから、耳が聞こえなくなった人ですね。だけど、聞こえないままじゃ不便だから手話で話をしたいっていう人たちは、頭の中が全部日本語なわけですね。だからお互いに「日本語をベースにした手話ですよ」っていうことを了解しながら、そこで手話を使っていると、これは非常に効果的なコミュニケーション手段になります。だから、たとえばそういう場合にはいいし。それから福祉の現場でいろんなことをする時に、日本語対応手話というのを多くの方がちょっと知っているとね、ずいぶんと役に立つと思うんですよ。
宇多丸:はい。だからやっぱり僕ら聴者側にちょっとコミュニケーションを取る必要がある時とかには、やっぱり確実に有用ですよね。
斉藤:そういう風なちょっとした手話を覚えていれば、ずいぶんと助かるという場面がたくさんある。ただ、それは極めて限られた意味しか伝えられないということですね。
宇多丸:「限定的である」ということをわかってないといけない。
斉藤:だけども非常に有用であるということをまず押さえた上で、じゃあその日本語対応手話の問題っていうのはなんだろう?っていうのを考えていくといいと思うんですね。
宇多丸:もちろんです。ネット上の動画で日本語対応手話と日本手話の違いをわかりやすく、面白く見せている動画なんていうのを見ると、字幕もついていなかったんで。僕、聴者として見ていると、やっぱり日本語対応手話でこっちはニュアンスは……それこそ何を言おうとしているのか、こっちはわかるじゃないけど、伝わってくるから。これがちょっとわかれば……あと、途中から聴覚障害を患った方とかは、やっぱり逆に完全外国語としての日本手話をネイティブ的に習得する方が大変ですもんね。
斉藤:これは大変ですね。だから言ってみれば英語を習得するのが普通の人にとっては大変なわけですよね。学校に何年行ってもロクに英語が使えないっていう人がたくさんいるわけで。僕なんかもそうだったんだけども。そういう人と同じように、英語と同じように日本手話というものも勉強しようと思ったらば、そう簡単に身につくものではない。だけど、ろう者という人たちが日常的に使っているのは日本手話、自然手話であるので。本気でろう者の世界に入りたいと思ったら、それはやっぱり日本手話をキチッと勉強していただきたいなという風に思いますよね。
宇多丸:ふんふん。なるほど。ちなみに、これはだからいちばんその意味を持つのは、やはり教育というか。生まれた時からというか、ろう者の子供がどういう風に言語を習得していくか? というところで。やはり日本手話……。
斉藤:まあそのね、先ほど「日本語対応手話っていうのは聞こえる人たちが作り出した」っていうことを申し上げたんですけども。これがいちばん最初にできてきたのは、ろう教育の場だったんですね。つまり、ろう学校で子供たちを教えている先生たちが、どうしても子供たちに声で話しても上手く通じない。なので、子供たちになんとか通じるように。教育が進むようにという意味で人工手話を作り出していったというそういう経緯があるんですね。で、その前にはさらに長いこと、日本ではもうそろそろ100年近く、日本のろう学校ではずっと長いこと、手話を禁止してきました。使っちゃいけなかったんですよ。
宇多丸:あ、手話そのものをですか?
斉藤:はい。なぜなら、手話を使うのではなくて、ろうの子供たち、耳の聞こえない子供たちは「口話法(こうわほう)」という方法を学ばなければいけないという風にされて、手話は禁止されてきたんですね。長いこと。
宇多丸:なるほど。
斉藤:1920年代から30年代ぐらいですから、もうそろそろ100年の歴史になりますけども。で、最近のろう学校はだいぶその手話を取り入れるようにはなってきたんですけども、少なくとも2000年代のはじめぐらいまで。70年から80年間、手話は禁止です。だから子供たちが手を動かすと、体罰で禁止したり。蹴られたり殴られたり縛られたり、いろんなことがあって禁止されてきた言語なんですよ。
宇多丸:これはやっぱり、要は聴者側に合わせることが……。
斉藤:つまり、どんなに手話を使っていたって、聴者の社会には入れないじゃないかと。まあ、その親切心というか親心というのか。パターナリズムって言っちゃうんですけども。
宇多丸:まあ、それが良かれと思って当然、そういうことをしていたんでしょうけど。
斉藤:そうですね。で、その教育を受けるろうの子供たち。いまの大人たちもですね、昔はそういうもんだと思って。そうしなきゃいけないという風に思って口話を一生懸命勉強してきたんですね。で、口話を中には上手くできるようになる人もいます。相当使えるようになる人もいるんで、口話ももちろん否定すべきではないんですけども。ただ、大部分の子供たちは口話はやっぱりマスターできない。
宇多丸:そもそも音として認識できないものを、なかなか難しいですよね。
斉藤:自分の話している音が聞こえない子供たちがね、ちゃんとした日本語をしゃべるというのはこれ、至難の業なんで。
宇多丸:特に、しかも先ほどね、赤ちゃんの話じゃないですけども。赤ちゃんがどうやって言語を習得していくか?っていう時にこうやって目で見て……そもそも何を言うという体系もない中で。
斉藤:つまり口話というのは「教育する、訓練する」という、そういう方法だったわけですね。だから、自然言語を身につけるのはこれは非常に難しい。不可能とは言いませんけども、難しいというそういう方法だったわけです。その根底にはね、聞こえないままではいけない。聞こえる人に少しでも近づこうねっていう、そういうことをずーっとやってきたわけですよね。
宇多丸:うんうん。これはだから、日本手話の自然言語としての手話が全然そのままで豊かな言語体系で、何の問題もなくコミュニケーションが取れるんですけど、っていうことがわかっていなかったということですか?
斉藤:誰にも見えていなかった。その当時のいわゆる障害児教育の専門家と言われる人たちも、誰一人として日本手話というものを見抜いた人はいなかったということなんですね。
宇多丸:でも、ろう者の世界の中ではちゃんと明確にあったんですね。
斉藤:で、ろう者自身も言ってみれば騙されたようなもんですけども。「お前らの手話なんて、こんなものは言語じゃないんだよ。そんなものを使っていたら人間になれないよ」という風なことを繰り返し繰り返し言われて。だから、いまのろうのちょっと年配の方たちは「手話というものは使っちゃいけないものだ。あんなものを使っていたら、まともな社会人になれない」という風に思い込まされて大きくなってきた。そういう風な言語であったわけです。そもそも言語と思われていなかったんですね。でもそれは、言語と見抜く人がいなかったっていうことだったんですね。
宇多丸:でも近年はもう、明らかにちゃんと、複雑な豊かな……。
斉藤:いちばん最初にその研究を発表したのが1960年にアメリカの学者が……それはアメリカ手話の場合ですけどもね。これってちゃんとした言語なんじゃないの?っていう論文を出したんですね。それからだけど、その当時はそれは誰も見向きもされなかったんですけど、長い時間をかけて少しずつ、まず言語学の専門家の間で「たしかにこの手話というのは言語なんだ。英語や日本語と同じ、対等の力を持っている言語なんだ」ということが認められるようになってきたということですね。
宇多丸:僕はもう、そのレベルでさえ、この『手話を生きる』を拝読して、そこでもう、「ああ、全然わかっていなかったわ!」っていう感じでしたね。
斉藤:いや、でもわかっていなかったのは宇多丸さんだけじゃないから。
宇多丸:まあ、そうですね。世の中が。
斉藤:偉い大学の教授とか、その筋の権威と言われるような先生も、誰一人わかっていなかったですから。
宇多丸:ですよね。ようやくでも、これがわかってきたと。ちょっと駆け足になってしまいますが。最終的に、どういう風になっていくべきということですかね? たとえば、教育現場なり。
斉藤:少なくとも、教育の現場では日本手話というものをキチッと使って、耳の聞こえない子供たちの教育を進めたいという風に思います。で、私たちはそれをやってきたわけなんですけども。手前味噌というかになっちゃうけどね。
宇多丸:でも、めちゃめちゃ大事ですよね。言語能力の取得というのは思考能力の取得でもあるでしょうし。
斉藤:言語はどんな言語をどう身につけるか?っていうのは、その子の人格を形成する核心の問題になるので。ないがしろにはできない問題ですよね。
宇多丸:しかも、ゆっくりしてもいられない話というか。できる限り早く……。
斉藤:いまいる子供たちをどうするか? というのがあるので。
宇多丸:いますぐ改善されるべき話でもありますよね。
斉藤:はい。
宇多丸:といったあたりで、すいません。駆け足なんですが。自然な手話の世界というのをわかりやすく僕ら聴者が触れるあたりで。先ほど僕、「インターネットで」なんて言いましたけど。何かおすすめ動画とか作品などあったら、ぜひ。僕がYouTubeで見たのは、ぷ~さんとみ~さんの解説動画。ちょっと面白おかしい感じで。
斉藤:これがですね、日本語対応手話と日本手話の違いというのを実際に示している動画として、なかなか面白いんですね。ちょっとラップとは違うんですけど、生の手話。生きている手話という意味でですね、やや下品な表現も入っているという風に言う人もいるんですが……だけどね、自然な手話として非常にわかりやすい。面白い。
宇多丸:これが面白かった。身振りの大きさが、音声言語でいう声のデカさじゃないけども。ある種のワイルドさの表現になるというのも僕は面白い話だなと思ったんですね。
斉藤:画面を見ていると汗が飛んでくるみたいな感じ。これがイキイキとしてていいですよね。
宇多丸:いいキャラしているんだ。またこの2人が。いいですよね。あと、映画。
斉藤:いま、東中野にあるポレポレ東中野という映画館で、韓国のドキュメンタリー映画なんですけども、『きらめく拍手の音』という、イギル・ボラさんという若い女性監督が作った映画があるんですけども。これ、おすすめです。韓国手話なんですけど、手話の世界を生きているろうのファミリーの様子を内側から記録したドキュメンタリーですね。面白い。
宇多丸:これもお話をうかがったら――僕はまだ拝見できていないんですけど――ろうのご両親から生まれたお子さんで、要はバイリンガルというか。
斉藤:バイリンガルです。完全バイリンガルというか、韓国手話と音声韓国語両方を自由に使えるというそういう人が作った映画なので。そのろうの世界の内側から撮ったっていうのと同じことなんですね。
宇多丸:それを「コーダ(Coda=Children of Deaf Adults。ろう者の親を持つ聴者の子)」っていうのとか、いいですね。
斉藤:そういう、文化的にも非常にユニークな立場にいる人なんで。映画としての完成度も高いんですよね。おすすめです。
宇多丸:最終的には本当、「言語とは?」とか「思考とは?」「脳とは?」とかね、そういうところまで考えが行く、非常に興味深いトピックなんでぜひ、みなさんも斉藤さんの著書を。
斉藤:できれば明日の朝まで話したいんですけどもね(笑)。今日はここで止めておきます。
宇多丸:いえいえ。またぜひちょっとよろしくお願いします。僕もまだまだ勉強途中なので。斉藤さんの著書『手話を生きる――少数言語が多数派日本語と出会うところで』。みすず書房さんより発売中。これぜひ、もう必読書です! 今回の特集は全編、文字で起こして番組公式ホームページに記事として掲載いたします。リスナーの方からそういうリクエストもありまして。「ぜひ文字で」ということでございます。
斉藤:お願いします。
宇多丸:来週半ばにはアップする予定ですので、関心のある方はぜひそちらもご覧ください。ちょっとすいません。駆け足になってしまいましたが。
斉藤:いえいえ、とんでもございません。
宇多丸:またぜひ、よろしくお願いします。
斉藤:こちらこそ、よろしくお願いします。
宇多丸:以上、「あなたの知らない手話の世界」特集でした!
【付録】
斉藤道雄 著『手話を生きる 少数言語が多数派日本語と出会うところで』紹介部分(「タマフル秋の推薦図書特集」2016年11月27日配信)
番組構成作家・古川耕:……で、もう1冊。2016年に僕が読んだ本の中ではいちばん衝撃を受けた本なんですけど。みすず書房から出ている『手話を生きる』。手話って、耳の聞こえない人とかがやる手話ですね。サブタイトルが『少数言語が多数派日本語と出会うところで』っていう、ちょっと「ん?」って思うようなサブタイトルがついているんですね。斉藤道雄さんという方が書かれた本なんですけど。もともと僕がこの本を知るようになったきっかけが、前回の推薦図書特集で、バスク語で書かれた『ムシェ 小さな英雄の物語』っていう、翻訳大賞をとった本なんですけど。

宇多丸:ああ、ありましたね。
古川:これを紹介したんですが。ここでバスク語の翻訳をされた金子奈美さんという、バスク語の研究家の方がフェイスブックで、「自分がもし大学の授業で少数言語とかマイノリティーの授業を先生としてやることになったら、この本を教科書に選ぶ」っていう風に紹介されていたんですよ。で、僕はてっきり手話のルポルタージュの本なんだろうって思っていたんで、その紹介の仕方がちょっと意外っていうか、どういうことなんだろうな?って。しかも、サブタイトルが『少数言語が多数派日本語と出会うところで』っていうのが引っかかって読んでみたら、手話の世界がいまこうなっていますとか、手話を教える苦労だったりとかを描いたルポルタージュとはちょっと違った話で、本当にびっくりしたんですけど。
推薦図書ゲスト・伊藤聡(ブロガー/ライター):これは私も古川さんに教えていただいて読んで。本当に、もう本当にいい本。すっごい、もうびっくりですね。読むと。
番組レギュラー出演者・しまおまほ:へー!
宇多丸:私もちょっと、途中まで読んでますけども。
古川:これ、どこまでこの斉藤さんの主張を……僕がまだ他にいろんな本を読んで、その裏付けをとったりしていないんでわからないんですけど。この斉藤さんが書かれている話をそのまま紹介すると、まず手話っていうのは2種類あると。ひとつは僕たちは「聴者」——普通にしゃべれる人たちですね——が、使うこの言葉、日本語を手話に置き換えた。全部逐次変換した「日本語対応手話」という、これが実は手話のメインストリームとしてある。ところが、ろう者——耳が聞こえない人——にとってネイティブな、より自然な言葉に近い「日本手話」っていうのがある。つまり、手話は2種類ある。で、圧倒的なメインストリームはさっきも言った、日本語を逐次変換した日本語対応手話らしいんですけど。これは実は、相当伝わりにくいらしいんですね。
宇多丸:要するに、単語ぶつ切りっていうか。
古川:単語ぶつ切りでやっているので、要は日本語を片言で覚えた人がしゃべっているようなニュアンスでしか伝わらないらしくて。
宇多丸:要するに、細かいのとか高度な思考とかはなかなか……。
古川:なかなか伝わらない。たとえば、この斉藤道雄さんによると、東日本大震災で記者会見をやった時に隣で手話の通訳がいたんですけど、これは半数以上のろう者にとって、ほとんど何を言っているのかわかっていなかったというような話もあるらしいんですよ。だから実は、僕たちが「あれでコミュニケーションをしているんでしょ」って思っているのは、実はすごく単純化された日本語対応手話っていうのでやり取りをしていたと。
しまお:ふーん。
古川:対する日本手話っていうのは、要は耳が聞こえない両親のところで生まれた子供たちがはじめて覚えたりする手話のことなので。まあネイティブなんですね。で、自然発生的な、これはもうひとつの言語なので、ものすごく高度で複雑で。要は僕らが普通に使っている言葉と全く遜色がないレベルの感情表現ができる。
宇多丸:できるし、抽象思考もできるし。
古川:抽象思考もできるし。ただ、ものすごく習得するのも難しいし、ネイティブの日本手話のやり取りをバーッてやっている光景を見て、普通の日本語対応手話の翻訳家とか通訳家が見てもちょっとよくわからないっていうレベルまで、複雑にバーッてやっているのがあると。で、斉藤さんっていうのは、日本手話を広めていこうという活動をされている方ではあるんですけども。これ、いちばんびっくりするのは、この日本語対応手話も日本手話もどっちもちょっと前まで……割と最近まで学校でちゃんと教えられなかったんですって。
宇多丸:うん。
古川:っていうのは、ろうの人は「口話(こうわ)」。口でしゃべるという口話というのをやらないといけないっていうのが支配的な考え方としてあって。要は読唇術で相手の唇を見ながら言っていることを察して。で、自分もその唇を真似て言ってしゃべるという。
宇多丸:ちょっとでも聞こえるやつを聞き取りつつ……っていうね。
古川:みたいなことで、なるべくそのしゃべっている人に近づいていく。
宇多丸:いわゆる聴者。我々みたいなものに近づける方向っていうことだったんだね。
古川:そうですね。ただ、それをやろうという中で、ただそれって弊害がものすごくあったと。まず、そもそもそれで成功する可能性っていうのが実はものすごく低かったりとか、本当に赤ちゃんの頃ってちゃんとした言葉の教育っていうのをしないと、後の知能の発達にものすごくダメージがあるらしいんですけど。
宇多丸:言語がどんな形であれ言語体系を獲得しないと、要するに思考がさ。言葉がないと思考ができないから。これ、結構な大問題だよね。
古川:そうそう。
伊藤:それが、ある一定の年齢までにそのインストールを完成させないと、それ以上のある一定の年齢を超えちゃうと、そこから新しい言葉を覚えるとかっていうことがまずできなくなっちゃうから。それが手遅れになってもマズいわけですよ。
宇多丸:なんだけど、その手遅れな世代が結構ドカンといるっていうのが衝撃で。
古川:そうなんですよ。だから「ろう者っていうのは総じて知能が低いものだ」っていう風に見なされていたこともあるんですけど、それは完全に教育のせいであって。だから欧米なんかではこのことを「心のホロコーストだ」って糾弾する人もいるぐらいで。しかもその、さっき言った口話教育っていうのはなんでそんなに重んじられていたか?っていうと、元を辿っていくと聖書に行き着いちゃうっていうことらしいんですよ。科学的な知見というよりは、聖書の中に「福音というのは言葉でもたらされるものだ」って書いてあるから、やっぱり言葉の世界っていうのが現実の本当の世界であって、そこにかならず近づいていかなきゃいけないっていうのが、どうやら元にあるらしいみたいなことで(※)。こんなことがつい最近まで本当にあったんだということにもすごくびっくりすると。
※……訂正と補足です。これはあくまで、「そうした解釈に基づいて、かつて一部の人たちが口話教育を推し進めていた」ということです。斉藤さんによれば、「口話教育をする人たちが根拠としたのが“聖書の一つの解釈”だったということですね。彼らは言葉を(聖書のなかでは「言」と表現されていますが)“声でしゃべった言葉”と解釈し、口話を進めたということです。18世紀ドイツの人たちでした。これに対し、“言葉”は必ずしも声でなくてもよく、書いた文字でもよい、と考えた人たちがいました。フランスのレペ神父を中心とする人たちです。レペ神父は18世紀のパリに手話を使うろう学校を開設しました。ろう児に手話を覚えさせ、手話を通してフランス語の読み書きを覚えさせようとしたのですね。つまり、聖書を解釈すれば必然的に“音声語”に行きつくから“口話法”でなければ、と主張し実践したのは18世紀のドイツでのことで、いまではそのような解釈は否定されています」とのことです。(古川)
で、でもそこからいまは脱却していて、日本語対応手話であったり、さらにそこの先にある日本手話っていうのをやっていこうという話があって。でも、日本手話っていうのはあまりにも言語として普通に出来上がっているので、だからそれの使い手は、これはもう障害者ではなくて言語的少数者であると。日本という国の中に全然違う言葉を使う民族がいるようなものであるということで、権利闘争を……「言語的少数派として日本手話を私はやるから、口話はもう使いません!」って言って、大学で1人で権利闘争をする人の話とか。とにかくちょっとね、日本でもこんなストラグル(戦い)があったんだっていうのは本当に知らなかったし、本当に感動しましてですね。たしかにその、言葉を使って……別の言葉を使う別の種族の人たちだと考えれば、それがなんで日本語をしゃべる我々のところに同化しなきゃいけないんだ、それはおかしな話だな、とも思いますし。言葉と個人の関わり方っていうのはすごくそれぐらい重いものなんだっていうのがだんだん手話を通じてわかってくるというところもあって。
で、「ああ、『手話を生きる』っていうタイトルってそういうことなんだ!」って最終的にはわかってくるという。
宇多丸:このね、最初に書いてある話がすごいわかりやすくて。自然手話を完全に、そっちのネイティブである子供たちが授業を受けていて。そこでほら、「じゃあ、ある日聞こえるようになっちゃって、いわゆるろうの世界じゃない人になっちゃうこともあるの?」「それはあんまりないみたいよ」って言ったら、「よかった!」って。要するに、こっちの世界からあっちの世界にわざわざ変えられたくないっていうかさ。僕らが思っているような「かわいそう」とかそういうのじゃないっていうか。それがすごい……だから少数言語なんだっていうところがすごいわかりやすく最初にてあって、いい構成だと思います。まだ僕は途中なんだけど。
古川:だからバスク語研究の金子奈美さんが少数言語とかマイノリティーの授業でこれを使いたいっていうのがようやくわかったっていう感じですね。
宇多丸:言語ってね、しかもその日本手話って、本当に「手話」という言葉から我々がイメージするのと全然違うもので。本当に完全な言語体系っていうか。
古川:そうですね。
宇多丸:どの国もあるわけでしょう? 自然手話っていうのは。
古川:自然手話っていうのはあるらしいですね。
宇多丸:で、そっちに行っているわけだよね。世界的には。
古川:僕らの発声する言語にはない文法もあるあったりするらしくて。
宇多丸:あのさ、語彙がそっちの方が豊富だったりっていう意味でも外国語っぽい。なんかその、他のある単語に関してはそっちの方が……。
古川:豊かで多いとかっていう。実際にYouTubeとかで探すといっぱい出てきますね。日本手話の動画とかが出てくるので。ちょっとこのへん、勉強してみようかななんて思ったりしたぐらいで。いやー、これはちょっとショッキングでした。僕にとっては。でも、とっても面白いし、感動する本です。
宇多丸:ねえ。聴覚障害とかさ、僕が日経の推薦図書の中でやった『淋しいのはアンタだけじゃない』っていう聴覚障害のことを扱った漫画なんだけど。やっぱりその、すごいわかりづらいの。外面からだと。いちばん理解しづらいかもしれない。目が見えない人とかは「ああ、見えないんだな」って思うけど。耳が聞こえないっていうことはどういうことなのか?っていうのはさ、やっぱりよくわかっていないし。それの言語世界みたいなさ。
古川:ねえ。あの漫画も面白かったですね。
宇多丸:だからこっちから類推して勝手にやっちゃうと、やっぱりこんだけ暴力的なことにになるのかっていうさ。だから、めちゃめちゃよかったし、これって対策みたいなものを打つとしたら、ものすごく急いで早く早急にやらないと……。
伊藤:また手遅れになってしまう。
宇多丸:たとえばそれこそお子さんが生まれた時に、聴覚障害があるのかどうかを早い段階で診断するのであるとか……。
古川:で、それが「聞こえない」ってわかったら、すぐさまそのケアができるところを探すとか。で、この斉藤さんはそのひとつであるろう学校の立ち上げにも関わってらして。完全に教える側も教わる側もろうでネイティブな日本手話で会話が成り立つっていう学校を運営されていたそうなんですね。
宇多丸:でもこれって本当にさっき伊藤さんがおっしゃったように、育ってしばらくの期間がすごい重要みたいだから。マジで、マジで早く!
古川:早くっていうか、知らなった。すいません! みたいな感じになりますね。
伊藤:やっぱりなんか、社会の中で……アメリカの耳の聞こえない人たちの話も載っていて。その、エリートになってくると今度は逆に「俺は英語がわかっているんだ」ということを示したいというか。やっぱりアメリカ社会の中にあって「英語が使えない」と思われることが心苦しいっていうのもあって。手話の中にその英語の文法でわざと手話をしたり。手でアルファベットのサインみたいなのを作って。「いや、英語わかってますから。僕、英語できます」っていうことを周りにアピールするような手話の仕方をしたりする人もいて。要するに、少数言語っていうことに対する引け目というか、社会に「いや、自分だって英語できるんだ」ってことをアピールしたいみたいな気持ちも逆に、耳が聞こえない人の中でも知識がすごくある人たち。エリートの層だと、逆にそういうアピールをしちゃうっていうこともあって。
要するに、日本の耳が聞こえない人たちの中でも、「いや、もう聞こえる人に追いつけ、追い越せだ!」みたいな。そういう気持ちもあって、教育が上手くいかなかった部分っていうのもあって。その気持ちもまあ、わからないではないっていうか。この社会の中で全く違う言語を使っているということに対して、なんか「いや、自分たちも日本語ができなきゃダメなんだ」っていう焦りを持っちゃう気持ちもわからなくはないかなという気持ちもしましたね。だからその中で、でもやっぱりそれで日本語もできない、手話も中途半端みたいな感じのまま人が育っちゃうということがものすごく残酷なんだけれども。
しまお:うん。
伊藤:だからその、やっぱり少数言語としてちゃんとひとつのプライドを持って、確立した言葉として教育ができるような状況に本当になってほしいなと思いましたね。これを読んで。
古川:『手話を生きる』。斉藤道雄さん。みすず書房から2808円かな? Kindle版も出ていますね。2016年の2月に発売されて、新聞の書評なんかでは結構取り上げられたらしくて。有名らしいですけど。もしよかったらみなさんも読んでいただければと思います。
