宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
一体、誰が映画を見張るのか?
一体、誰が映画をウォッチするのか?
映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」
毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送、TBSラジオ AM954+ FM90.5『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸による映画評「週刊映画時評ムービーウォッチメン」(毎週22:25〜)の文字起こしを掲載しています。
今回紹介する映画は、『ルーム』(日本公開2016年4月8日)です。
Text by みやーん(文字起こし職人)
▼ポッドキャストもお聞きいただけます。
宇多丸:
今夜扱う映画は先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を2回まわして——つまり1万円を支払って、そしてこれは義援金に回りましたので、非常に有意義に使わせていただきました——2回とも当たったこちらの映画、『ルーム』(2016年4月8日公開)。
(BGM:『ルーム』テーマ曲が流れる)
アイルランド出身の作家、エマ・ドナヒューのベストセラー小説『部屋』を映画化。監禁された女性と、そこで生まれ育った息子が、長年断絶されていた外界へと脱出し、社会へ適応していく過程で生じる葛藤や苦悩を描く。第88回アカデミー賞で作品賞ほか4部門にノミネートされ、母親を演じたブリー・ラーソンが主演女優賞を受賞。監督は『FRANK-フランク-』のレニー・アブラハムソン。
ということで『ルーム』、非常に評判も高い作品でございますし、アカデミー賞でも賞をとったということで、注目度の高い作品なんですが、この作品を見たよというリスナーのみなさま、“ウォッチメン”からの監視報告メールは、残念ながら少なめでございます。あれかね? 評価の高さが行き渡りすぎちゃって、ということもあるかもしれないですけどね。「俺が応援せんでも」みたいなところがあるのかもしれない。
ただ、感想はやはりですね、ほぼ賞賛メールばかり。否定的な意見はわずか数通というパーセンテージ。「重い題材なのに見終わった後は爽やか」「感動した」「子供が世界に触れて成長していく姿を追体験できた」「お母さんを演じたブリー・ラーソンがすごい」「子供を演じたジェイコブ・トレンブレイくんはもっとすごい」などなどの感想が多く寄せられました。
(メールの感想読み上げ、略)
……ということで、『ルーム』。私もTOHOシネマズ六本木とTOHOシネマズ新宿で2回、見てまいりました。特にTOHOシネマズ新宿で見て、見終わって出てくる時に、同じ回を見ていたと思しき若い男性2人が僕の前を歩いて話している会話が耳に入ってきたんですけど、「こういう映画だと思わなかったよね」なんて。「もっと脱出がメインだと思ってたよね。脱出が最後、クライマックスに来るのかと思ってたよ」っていうのを、決して否定的ではないニュアンスで話し合っている若い男性の会話を耳にしまして。
いや、全くその通りでございます。この映画、たしかに監禁部屋からの脱出というのが中盤の大きな見せ場。本当に文字通り、手に汗握る……言っちゃえば、エンターテイメント的に、この言い方は題材の重みからすれば不謹慎だけど、「普通に面白い」展開ではあるんですけどね。たとえば、その脱出のシークエンスで言っても、逃げる男の子と、監禁部屋に取り残されたお母さんが助かるか、もしくは助からないのかという、お話上のハラハラ、サスペンスですよね。それはずっと進行してはいるんだけど、この『ルーム』という映画にとっては、実はそれ以上に重要なポイントというのがある。お話上の助かるか、助からないかより、もっと重要なポイント。それは、その脱出という過程の中で、それまで閉ざされた空間、監禁部屋の中が全てだった5才の少年が、その外側に広がる本物の世界というのを初めて目の当たりにする、まさにその瞬間。
具体的には、走るトラックの荷台の上で、彼がずっと隠れていた絨毯から抜け出て、初めて本物の空の広がりをいきなり、ウワッと見ちゃて。うわわわわわっ、うわーっ! なんだ、こりゃ!? うわーっ! やばい、やばい、やばい!ってなっている、この瞬間。つまり、<世界>に初めて触れた瞬間っていうことですね。その瞬間、まだまだお話上は助かるかどうかの瀬戸際。さっき言ったサスペンス的なお話上の瀬戸際で、本当はそれどころじゃないはずなんだけど……と、同時にでもそれは、身も蓋もないことを言えば、この映画を見る人の90%以上は、「助かる話だ」っていうのは知って見に来るわけですから。それよりも、彼が味わっている「これが世界というやつか!?」という、恐怖と喜びが入り混じったような、その圧倒的感覚。それを観客も思わず共有してしまうこと。それこそがこの『ルーム』という作品の肝なんですよね。「助かるか、助からないか」よりも、そこだっていうことなんですね。
つまりね、ちょっと僕自身の感覚に引き寄せてお話をさせていただくと、こういうことかなと。僕自身はね、46才で結婚しているけど、子供はいないんですが。知人・友人の子供たちと触れ合う機会っていうのは、ここ何年かで非常に増えたんですね。で、その増えた中で、子供と遊びながらひとつわかったことがあって。要は、子供が我々が生きている、この世界全体を様々な形で認識していくプロセスっていうのは、面白いなと。超面白いし、なんならそれ自体がすげー感動的だな、みたいなことを思った。
なぜなら、それを見る我々大人たち自身もまた、彼らのそのフレッシュな思考プロセスを通じて、つまり「ああ、こういうことに驚くんだ」とか、「これを最初に見た時に、こう感じて驚くんだ」「ああ、たしかにこれはこういう風に見えるな」とか、改めて私たち自身も世界を再認識、再発見できる。すなわち、成長できるっていう。子供と触れ合うことで、こっちも驚いて成長できるっていうことだなっていうのがわかったわけですよ。あのクソガキどもと遊んでいてですね。
それこそ、小島慶子さんところのお子さんと遊んで、小島さんと「いやぁ小島さん。子供、面白いな!っていうか、こいつら面白いだろ?」っつって。「いや、本当よ」なんて話もね、ちょいちょいしていたんですけど。とにかく、大雑把に言ってそういう作品です。そういう、僕がいま言ったような驚きと感動がある作品ということで間違いないと思う。元はエマ・ドナヒューさんという方の小説が原作でございます。『部屋』というタイトルで、日本では2011年に刊行されておりますが。今回、そのエマ・ドナヒューさん自身が映画版の脚本も手がけているということで、お話全体の構成みたいなものは、実はかなり本に忠実です。やっぱり作者が作っているだけあって。
ざっくり分けて前半はインサイド、後半はアウトサイド。前半は部屋の中。で、脱出して後半はそこから世界に適応していく話という構成はほぼ忠実。ただ、この原作小説『部屋』は、監禁部屋で産み落とされて5才まで育った少年ジャックの視点100%で進む。具体的には、小説ですから、『アルジャーノンに花束を』とかじゃないですけど、文体自体が5才児なりの文法、とても賢くはあるが、やっぱり5才児なりの文法間違いもあるような文体を含めて、彼の主観で全編貫かれている。それが元の小説版ですね。
一方、今回の映画版『ルーム』。そのへんをどう表現、もしくは変えているのかというと、基本はやっぱり少年の視点に寄り添って話が進んでいくわけです。なので、要するに少年に理解できないこととか、少年があえて目を背けていることであるとかは直接的には描かれないため、起っている事態に対して本当にエグい直接描写みたいなものは、省略されています。なんだけれども、アプローチがですね、小説版は文体を通して彼の主観というのをやっているんですけど、より映画的なアプローチで少年視点に寄り添って進んでいくというのを表現している。
つまり、ものすごく簡単に言いますとですよ、もちろんカットによって例外はあったりするんだけど、この映画全体がですね、少年にとっての世界の広さっていうのがそのまま、カメラと被写体の距離感で表現されている。プラス、カメラの動きで表現されている。ざっくり言って、全編こういう作りになっています。たとえば最初、監禁部屋の中だけで、お母さんと2人きりで暮らしている時はですね、物理的、もしくは精神的近さそのままに、カメラは本当に顔だけ……人物だけじゃなくて、あらゆるものに極端に近寄って撮っているわけですね。アンド、手持ちカメラで、非常に不安定なカメラだと。
この、いわゆる被写界深度が浅い状態で、後ろのピントがちゃんと合ってなくて、グラグラするような、圧迫感とか不安感を煽るような画作り。これ、撮影監督ダニー・コーエンさん。『英国王のスピーチ』をやっている方ですけど、『英国王のスピーチ』もね、このようなカメラワークで英国王の不安や圧迫感みたいなのを表現してました。と、同時にですね、今回の『ルーム』の場合ですね、極端に寄って被写界深度が浅い……『サウルの息子』なんかもやっていましたけど、すごく今っぽいカメラワークとも言えると思いますが。この『ルーム』では、特に序盤。引きの画が一切ないことで、要は真の状況をすぐには明かさないというストーリーテリング上の機能も果たしている。
要するに、子供がお母さんと無邪気に遊んでいるだけの空間に最初は見えなくもないんだけども、と。でも、何かがおかしいぞというのが、次第に次第に明らかになってくる。これはさっき言った圧迫感とかとは実は相反する要素でもあるんだけど、この場所しか知らない少年にとっては、でもこの場はそれなりに満足な豊かさとか、何なら広ささえ湛えた、これはこれで彼にとっては世界なんだってあるようにも、このグーッと寄った、少年側の視点に寄り添ったカメラで表現されているということなんですね。
で、それが次第に真実が明らかにされていく……ああ、どうやらこれはやっぱり監禁されているらしい、異常な生活状況だぞ、というのが明らかになってくるに従って、ご丁寧にというか非常に律儀に、引きの画がだんだん増えていき。なんなら、少年がお母さんと口論して、要するに「私たちは本当は閉じ込められているだけなのよ」っていうことを言って、少年が最初は、内心は理解しようとしてるんだけど、素直に受け入れられなくて、お母さんとケンカしちゃいますよね。
で、その後にお母さんはふて寝しちゃって。少年がひとりで遊びだすと、ちょっと音楽が皮肉な調子を帯びだして、カメラの引きが増えてですね。これは状況を説明するのと同時に、少年が部屋の狭さになんとなく気づいている感じっていうのも、カメラワークで伝わるようになっているわけですよ。部屋の隅っことか角とか、2つの壁がいかにも近いっていうのが見えるカメラワークになってきたりするという。非常に巧みなというか、的確な見せ方をしていますね。
で、後半。母と息子が脱出に成功して。で、少年が、本当の世界を知り、馴染んでいくにつれて、カメラサイズもより普通に、極端な寄りとかじゃなくて、割と普通の人物を捉えるサイズになり、そしてカメラ自身もフィックス。ちゃんと置いて、安定した画作りが増えていきます。ただし、少年がだんだん世界に馴染んで、精神的に安定していく描写が増えてからも、お母さんが出てきて、ジャックという息子と2人きりになると、途端にまたカメラの距離は極端に近くなる。2人の世界っていうのがやっぱり現出するわけです。
つまり、物理的には監禁部屋の外に出ている2人なんだけど、この2人の中ではやっぱり2人だけの密室空間というか、2人だけの世界っていうのは実はまだ続いているんだっていうのが、カメラワークでわかるようになっている。で、お母さんもすったもんだあって、ある意味、その息子に救われて世界に心を開いていく。そうすると、やっぱり引きの画がまたどんどんどんどん増えていって。最終的に、ラストショットでようやく母と子の2人の姿が、非常にゆったりとした引きのショット。たぶん、お母さんと息子を捉えたショットとしてはいちばん小さい引きのショット。で、なおかつ、非常にゆったりと安定した上昇クレーンでグーッと上がって……。要するに、ある種の安定した俯瞰視点みたいなのをとらえたところで終わるっていうのは、もはやお話的に何をか言わんや、ですね。
要は、5才の少年ジャックにとっては、まさに幼年期の終わり。言ってみれば一種の子宮的な存在から出て行くっていうのは、非常に過酷な体験でもあるわけですよね。「お母さんのお腹の中に戻りたい」みたいな気持ちになることもあるんだけれども、もうそこと決別することを決断するという、少年にとっての幼年期の終わり。文字通りの「乳離れ」というね。それがカメラワークで示されている。
ということで、ある意味非常にわかりやすい、世界の広さ=カメラの距離というテーマ的アプローチ。僕、非常にざっくり言ってるんで、もちろんショットによってはたぶん例外とかはあるんですけど、世界の広さ=カメラの距離という演出アプローチが取られています。それともうひとつ、これは小説と違って映画ならではの大きなポイントとして、子供がさまざまな形で世界を認識していくプロセス、それ自体が非常に感動的であるというテーマだとさっき言いましたけど、それが、この映画だと、とても演技とは信じられない、驚異的に自然なジェイコブ・トレンブレイくんの一挙手一投足ですね。彼の一挙手一投足によって、子供がさまざまな形で世界を認識していくプロセスが、本当に見ている観客も、いままさに目の前でそれが本当に起きていることのように見える。まさに、子供の成長でホームビデオを回している親みたいなさ。「あっ、いまコイツ、この瞬間、理解した!」みたいなのが本当に起こっているように見える。というのが、すなわちそれを見る大人=観客ですよね。観客もまた、彼らのフレッシュなプロセスを通じて世界を再認識・再発見できるという面白さ、感動が自然に、本当にあったことのように味わえるという効果があるのは間違いないということだと思いますね。
これは、やっぱり映画化する意味が大変ある部分じゃないでしょうかね。なにしろ、このジェイコブ・トレンブレイくん。撮影時は実は9才だったっていうことだから、やっぱり演技は演技なはずなんですよね。でも、とにかくいわゆる子役芝居的な人工感、不自然さは微塵もないですよね。たとえば、お母さんと、シャワーを見たことがないから、「シャワー、一緒に浴びる?」っつって、「ううん、僕はいい」って言ったら、お母さんがピッピッて水をかけると、「アハハハハッ!」っていう、あの笑い方。あれはやっぱり演技と、子役の素のところの……是枝(裕和)さんとか、いろんな子役演出が上手い方、いますけど。なんか上手い演出をしているんでしょうね。
もちろん、見事な子役芝居、子供芝居をするジェイコブ・トレンブレイさん。芝居なのっていまだに信じたくないぐらいなんだけど、それを受けるお母さん役のブリー・ラーソンさん。アカデミー賞をとりましたけども。信頼関係とか相性があってこそなのは間違いないでしょう。水をかけた時の「アハハハハッ!」っていうのは、あれは要するに、普段からそれが自然にできる関係を築いた上でのフィルム回しだからっていうのは間違いないでしょうし。なによりも、「子役扱いが上手い監督は巨匠の法則」っていう、このコーナーで勝手に繰り返し言っているだけなんですけど。その法則に従えば、監督のレニー・アブラハムソンさん、やっぱり演出力がすごい的確なんだと思います。子供の扱いとかをはじめですね。
この方、前作は『FRANK-フランク-』という、マイケル・ファスベンダーがずっとマスクをかぶってバンドをやる映画なんですけど。これがまたね、ここまで冷徹に主人公を突き放したまま終わる青春映画も珍しいんじゃないか?っていうぐらいですね、ちょっと僕、忘れがたいほどの、すごい胸の痛みっていうか、思い返すと、すごい喪失感がある。一方で、悲しい優しさっていうのかな? 優しくもあるんですけどね。でも、ものすごい悲しいっていう、まあちょっと忘れがたいいい映画『FRANK-フランク-』だったんですけど。それを撮った方。
その前作に比べると、今回の『ルーム』はですね、むしろなんならウェルメイドって言っていい、ほとんど優等生的と言っていいぐらい、本当にストレートに、割とよくできていると思います。少なくとも、この原作小説の映画化として、正直これ以上の正解は無かろうというぐらい、ものすごいちゃんとストレートにウェルメイドに作っている。エンターテイメント的な面白さとテーマ的な深みとのバランスがとってもいいわけですよ。前半ね、監禁生活。まあ監禁生活っていうのもまず、ある種のセンセーショナリズムもありますし。そっからの脱出っていう、ここはもう本当にエンターテイメントとして普通に面白いところですし。
さっき言ったテーマ的な深みは特に後半。外に出たのにまだ、もしくはもっと閉じ込められている感じがしちゃう、みたいなところのテーマ的な深みも含めて、とにかく面白みと深みのバランスがものすごいいいんですよ。だからこういうのこそ、たぶん僕を含めた万人が褒めるタイプの映画っていうことですよね。そんぐらい、ちょっと優等生的にいい映画っていうぐらいだと思います。『FRANK-フランク-』の変な映画感と比べると。
ただ、これはやっぱりですね、監督のレニー・アブラハムソンさん。おそらく人間というものを非常によく見ている方なんでしょう。決して単純化したいい話——単純化したエグい話もそうですけど——に終わらせていないわけですよ。それが最も象徴的に出ているのが、後半のあるシーン。要は、ようやく無事に脱出に成功して、実家に帰ってきたお母さんジョイと息子ジャックですね。と、そのジョイのお母さん、ジャックにとってはおばあさんにあたる、誘拐された娘の母親。これ、ジョアン・アレンが演じていますけど。と、おばあさんの現ボーイフレンドのレオっていう男と。と、おそらくはその娘の失踪によって決定的に夫婦に亀裂が走った結果であろう、いまは離婚して遠くに住んでいるというウィリアム・H・メイシーが演じる実父。
この4者で夕食の食卓を囲むシーンがあるわけですね(※宇多丸訂正:普通に「5者」ですよね。間違えました!)。これ、本当はようやく実現した家族のリユニオン。感動の食卓となるべき場所であるはずが、どうもこの実父。ウィリアム・H・メイシーさんが演じる、ジャックにとってはおじいさんにあたる実父の様子が、ちょっとおかしいぞっていうことで、なんか気まずい空気が走る。で、その気まずい空気の原因を、ジョイがよせばいいのに追求してしまう、非常に胃が痛くなるようなあるシーンがあるわけですけども。このおじいさん、実父。ジョイのお父さんのキャラクター。原作小説だと、もっと家族の設定が複雑だったりとか、いろいろ違いもあるっていうのはありますが、とにかくですね、原作小説だとこの人、もっとはっきりとひどい言葉を口に出したりするぐらいで。
ともすると、これは扱い方によっては、映画なんかだと特にね、単なる悪役。単純な、「あいつ、最低!」って言わせるための役柄になってしまいがちな役どころなんだけど、それをウィリアム・H・メイシー。言っちゃえば、甲斐性なしの夫役俳優ナンバーワン。そんな役ばっかりやってますけどね。しかも、それに対する元奥さんのジョアン・アレンと、全く同じような夫婦役を『カラー・オブ・ハート』という素晴らしい映画で演じていたウィリアム・H・メイシーがですね、本当に弱くて、情けなくて、言っちゃえばちょっと醜くて、でも、半端にものがわかってもいて……みたいな。これ、つまるところ、これ以上ないほど人間的な弱みみたいなのを晒す演技を感動的に演じてみせることで、要はこのおじいさんというのが、単に「あいつ、最低!」っていうだけではない。むしろ、いちばんひどい目にあったジョイであるとか、自分自身はひどい目にあったとは思っていないかもしれないけど、孫のジャックのようにですね、なんであれ、経験から学び、成長し、過去に区切りをつけるという機会とか余地が、もはやない人ゆえの苦しみ。つまり、これだけやっぱりひどいことが起きてしまうと、もう戻せないこと。不可逆なこと、不可逆なところに行ってしまう人っていうのも、やはりいるんだっていう現実の重みを、ウィリアム・H・メイシーが非常に人間的に感動的に演じることで、作品に重み、苦みを残すことに成功していると思うんですよね。
だから僕はこの場面のウィリアム・H・メイシーはすごく、あるかないかがとても大事な役だと思います。ましてね、同じ父親的な存在でもね、元奥さんの現恋人レオっていう男。これ、小説でも役回りは非常に似ているんだけど、彼の、まさしくライムスターの曲でいう『モノンクル』的な、おじさん的な立場ゆえの、軽やかなジャックへの接し方。要は、レオは過去にいなかった人だから、過去にとらわれなくて済むから。やっぱり軽やかに接することができる。
あそこでジャックをおやつに誘うシーン。これ、原作にも似たような遊ぶシーンはあるんだけど、誘うシーンは映画オリジナルのシーンで。あの空間の使い方。階段とドアの関係とか、すごく映画っぽい見せ方。上手い使い方をして、非常に名シーンだと思いますが。そのレオとも、そのおじいさん、非常に好対照だし。あと逆に、皮肉にもですね、お父さん、おじいさんがいちばん、もちろん憎んでいる男。オールド・ニック、つまり悪魔こと、犯人。あのクソ野郎もまたですね、ちょっと似ているところがある。つまり、成長の余地がない、世界から学ぶことができない父的存在という意味で鏡像的ですらあるという、そういう感じになっています。
つまりその、オールド・ニックにとってはですね、あの親子にとっては忘れがたい、その「場」。特にジャックにとっては、あれだけ豊かに見えるあの場が、あいつにとってはただのヤリ部屋という、この貧しい世界観。なんて貧しい人生を生きている男なんだという。この貧しい人生を送るこの2人の父という重みをね、でも、ウィリアム・H・メイシーが人間的に演じているし。あと、オールド・ニックを演じているショーン・ブリジャースさん、要はサイコ的な深み感ゼロ。ただの浅薄なおっさんっていうか、ただの浅薄な野郎だっていう感じのバランスも非常によろしかったんじゃないでしょうかね。
ということで、キャスティングも完璧ですし。まずはなにしろ、本当にいろいろ言ってきましたけど、小難しいところゼロです。普通に、誰が見てもストレートに、むっちゃくちゃ面白いって感じるストーリーだと思います。で、そこから浮かび上がってくるフレッシュな着眼点。すごく普遍的だけど、この描き方はなかったというフレッシュな着眼点を、非常に的確な演出で、そしてなおかつ超絶演技。もう演技に思えない演技も堪能できてということで。で、最終的には生の肯定、人生の肯定みたいなものを味わって表に出れるという、ちょっと文句つけづらい一作じゃないでしょうかね。
万人に安心しておすすめできる1本ですね。あんまり映画、最近見たことがないっていう人にも、自信をもっておすすめできる1本っていうのはこういうことじゃないでしょうかね。できればね、悪い父、悪の父的な存在から子供(キッド)が逃げるという意味で、現在ね、キッズムービーの傑作がもう1本、ありますね。『COP CAR/コップ・カー』とセットで見てはいかがでしょうか? ということでございます。これを見たら、もう二度と「ババァ、ノックしろよ!」とは言えないかもしれません。ぜひぜひ、劇場でウォッチしてください!
(ガチャ回しパート略 〜 来週の課題映画は入江悠監督の『太陽』に決定!)
以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。
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