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宇多丸、『茜色に焼かれる』を語る!【映画評書き起こし 2021.6.11放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、5月21日から公開されているこの作品、『茜色に焼かれる』

(曲が流れる)

この(美しいメロディの)曲が、本当にいい場面と、全然「よくない」場面にも流れるというね。ここがすごくまた独自の音楽演出というか、バランスだと思いましたけどね。『舟を編む』『生きちゃった』などの石井裕也監督オリジナル脚本による人間ドラマ。コロナ禍の日本を舞台に、理不尽な交通事故で夫を亡くした母と息子が、世の中の歪み、不条理、いじめなどに翻弄されながらも、たくましく生きる姿を描く。主な出演は母・田中良子役の尾野真千子。息子・純平役の和田庵。その他、片山友希さん、オダギリジョーさん、永瀬正敏さんなどが脇を固める、といったところでございます。

ということで、『茜色に焼かれる』をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「少なめ」。あら、そうですか。

賛否の比率は褒めの意見がおよそ6割程度。でも、途中でシネコンの営業のあれ(自粛期間)を挟んだりしてね。ちょっと、そういう見づらい時期が続いちゃったのもあるかもしれないかな。

主な褒める意見としては、「コロナ禍の今からだからこそ作られた現在進行形の映画。身近にある女性差別や貧困が描かれ、何度も心が挫けそうになったが最後の後味は意外とさわやかだった」「役者陣がいい。主演の尾野真千子さんはもちろん、その友人・ケイ役の片山友希さんもよかった」などがございました。片山さんの演技、皆さんね、尾野さんはもちろんのことですけど。絶賛されてる方が多かったですね。

一方、否定的な意見としては、「いわゆる悪役的な振る舞いをする人物たちの描き方が一面的で、全体的に薄っぺらく思えた」「社会の様々な問題に対して何かを変えるようなヒントもなく、取ってつけたようなラストに失望した」などがございました。

■「やるせない物語なのに、何故だか心がじわじわと温められる様な感覚」byリスナー

代表的的なところをご紹介しましょう。「ヤーブルス」さん。

「久しぶりに『現実を突き刺す映画』を喰らった気がします。主人公・田中良子と息子・純平、そしてケイちゃんを通して、以前からマグマのように地中でトグロを巻いていた社会システムの歪み、不条理が、コロナ禍において噴き出し、これでもかと喰らわせられる訳ですが……。かといってケン・ローチ作品の様な、救いのない悲哀ばかりを感じさせられる訳ではなく、むしろその怒りや悲哀を突き抜けた先にある、“人間・田中良子なめんな!!”というむき出しで不器用な<生>から発せられる、ある種の希望すら感じさせられ、こんなにやるせない物語なのに、何故だか心がじわじわと温められる様な感覚でした。

田中良子の行動や言動は、誰の目から見ても“奇異”に映るし、あまりにも不合理で腑に落ちない…けど、実のところ誰だって多かれ少なかれそんな不合理なところを抱えて生きてるのではないでしょうか。白か黒か、○か✖︎か、そんな単純に割り切れない人間の不合理さ、曖昧さこそが、きっと人間の人間らしさであり、愛おしさなのだ、という事がビンビンに伝わってくる傑作映画でした。

ちなみに本作はまごうことなき『田中良子』の物語ではあるのですが、同時に同じくらいのウェイトで『ケイちゃん』の物語でもあり、特に彼女が繰り出す言葉の“フロウ”がどれも最高…演じられた片山友希さんがとにかく素晴らしかったです。こんな時だからこそ多くの人に観てもらって、何かを感じて考えて欲しい。一人ひとりが、隣に住んでいるかも知れない『田中良子=生身の人間』に思いを馳せて欲しいです」といったところ。

一方、ダメだったという方、ご紹介しましょう。「タレ」さん。女性の方です。

「前半ただただ不快で、ずっと『この映画どこから巻き返しがくるのかな?』と思いながら観てしまいました。これが弱者に寄り添った映画と言えるのか……? クソや不幸の解像度は高いのに、救済ルートやカウンター策の解像度が異常に低くて、本当に状況を善くする気があるのかな?と疑問に思ってしまいました。むしろ『コロナ禍だから飲食店はつぶれる』『お金に困っている、もしくは生い立ちやメンタルに問題がある女は風俗勤務するしかない(そして風俗業は「ふつうの人」ならやりたくない仕事にちがいない!)』etc……という決めつけに近い絶望の刷り込み。

か〜ら〜の〜、愛や精神論への着地も含めて、総じて思考放棄して弱者の出口を塞いでしまっている物語に思えてしまいました。『ルール』に裏切られてばかり、という強調が続くけれど、救済ルールについての扱いがフェアじゃないと感じました。何が信念や幸せなのかがいまいちつかめない、暴走するお母さんがこわかった。あんなの子どもおかしくなるし、『大好き』なんて言わせないでくれよ……。

ケイちゃんについては好きになれたし、片山友希さんの佇まいがすばらしくてファンになってしまったのだけれど、『嬢』への偏見がもう…。ちゃんとリアルな知り合いや取材あってのアレなんですか? 同じ境遇の子が観たらどう思うんでしょう。『トランジェンダーとハリウッド』で問題になっていたような、絶望の刷り込みと似た空気を感じてしまいました」

たしかにね。その、ある種の誇張の方向っていうか、ステレオタイプを強調しているところもあるから。そこに対して……だから、「いい」って言ってる部分と裏腹の批判ポイントっていうのもまあ、頷ける部分はやっぱりあるかな、という気もしますけどね。ということで、皆さんメールありがとうございます。

■クソな社会の中で弱い立場の人間がどう尊厳を保って生きていくか? それを描き続けている石井監督

『茜色に焼かれる』。私もTOHOシネマズ日比谷で今回、2回見てまいりました。席は1個空けシフトではありますが、どちらも、2回見て、両方とも満席に近いくらい入っていて。特に2度目、平日の昼に行った時に、やっぱりね、年配の方がはっきり多かったですね。尾野真千子さんファンってことなのかな? ということで、脚本・監督、今回は編集も手がけていらっしゃる、石井裕也さん。僕はこの映画時評のコーナー、取り上げさせていただくのはなんと、製作年としては2009年の商業映画デビュー作『川の底からこんにちは』。これを2010年5月29日、シネマハスラー時代に、当時はサイコロが当たって取り上げていて。

その後、なかなかサイコロとかガチャが当たらなくて今に至る、ということだったんですけども。もちろん、この間に石井裕也さん、まさに押しも押されもせぬ日本映画のトップ監督になられて、ずっとご活躍、成長を重ねてこられたわけで。それらをね、1個1個、この場で細かく振り返っている時間はないんで申し訳ないんですけども。ひとつ言えるのはですね、石井裕也さんの作品、ざっくり言えば、本当に一貫して、「このクソな社会の、このクソな世界の中で、特にナメられがち、負のしわ寄せをくらいがちな弱い立場の人間が、それでもギリギリ尊厳を保って生きていくためには……」みたいなね。そこでクソに染まって腐ったりせずに、尊厳を保って生きていくためには……みたいな。

それを非常に、ある種突き抜けたパワーを持つ人物に象徴させていく、みたいな。そういうメッセージを常に基調として発し続けてきた、とは言えると思うんですよね。石井裕也さんという作り手はね。近年それが、恐らくはその日本社会、あるいは世界の状況がより悪く……この場合の「悪く」ってのはつまり、具体的に言えば、立場が弱い人たちに対して、どんどん優しくない社会であり世界に、前以上になっていく中で……日本は明らかにその傾向はあるかなと思うんですけど。それとシンクロするように、石井裕也作品、前述したようなテーマが、よりストレートに、怒りと切実さをもって、正面から叩き付けられるようにどんどんなっている、という風にも思いますね。ポイントとなったのはたぶん……2017年の『夜空はいつでも最高密度の青色だ』あたりから、どんどんストレートなって。

その前が2014年の、これは本当に堂々たる歴史大作、「巨匠」っていう風格さえあるような、これはこれで素晴らしかった2014年の『バンクーバーの朝日』、そこをやり終えた後に、割とグッとストレートな感じになって。あと、基本ファンタジーというかフィクショナル度が高い2019年の『町田くんの世界』でも、やっぱりさっき言ったようなテーマ的な根幹の構造っていうのは、やっぱり通じていたりして。特にそれが決定的になったのが、2020年、去年の『生きちゃった』。あと、既にもう出来上がっていて、7月に公開待機中というね、『アジアの天使』という作品。そして今回のこの『茜色に焼かれる』。監督曰く、「自由三部作」なんておっしゃってますけども。とにかくこのあたりから、よりその色が決定的になっている感じもある。

■コロナと真正面から向き合った、非常に重要な意味を持つ作品になるかもしれない

もちろん、『アジアの天使』は僕、まだ見られてないんで。7月公開、非常に楽しみしておりますが。公開順で言うと、前作にあたるその『生きちゃった』の、もはや「表現にオブラートをかけないぞ!」とでも言ったような覚悟みなぎる、その剥き出しぶり……ちょうどその石井裕也さん、2005年の最初に広く評価された16ミリ作品、タイトルが『剥き出しにっぽん』というやつなんですけども、そのタイトルそのままに、さまざまな負の側面を見て見ぬふりしてやり過ごしてきた日本の我々が、剥き出しにされ。それでもなお、まさしく「生きちゃった」という、その今の状況というのを、一切のかっこつけを脱ぎ捨て、叩きつけてくるような、その『生きちゃった』という作品。

まあ、いろんな他の作品にも出てるような若手実力派。それこそ仲野太賀さんであるとか、若葉竜也さんとか出てるんだけど、最近の、なんて言うのかな、ミニマルな話、そんなにあんまりいろんなことが起こらない……今泉力哉さんとか、そういうののある種、真逆っていうか。もう「うわーっ!」って、最後に感情を「うわーっ!」って爆発させる、っていうところまでの作品だったんで、『生きちゃった』は。で、その『生きちゃった』からの、より明確になったそのヒリヒリしたモードというのは、まあ「コロナ」という巨大な理不尽を、前提にというか、むしろ真正面からそれを「食らって」みせた……「コロナ、俺、食らっちゃった」っていうのを、真正面から食らってみせたというこの『茜色に焼かれる』という作品で、より決定的な意味を持った、持ってしまった、と言えると思う。つまり、その意味で本作は、石井裕也作品としてもそうだし、日本映画全体としても、決定的にそのコロナというものに対して、正面から向かうというアプローチ。ちょっと一段階、次に行ってるっていうか。ちょっと一線を越えた、決定的な、非常に重要な意味を持つ作品に──好き嫌いは別にしても──そういう作品であるんじゃないか、という風に思います。

順を追って話していきますけども。まずド頭ね。黒い画面の中の隅に、白い書き文字で、「田中良子は芝居が得意だ」と出るわけです。この田中良子というのは尾野真千子さん演じる主人公で、物語上この言葉がどういう意味を持つか、っていうのはだんだん分かってくる。それこそエンディングとも呼応する言葉なんですけど、とにかく、その最初にこの言葉、「田中良子は芝居が得意だ」っていうこれが、書き文字で出るわけです。で、この映画ね、全体にちょっと変わった語り口をしているところがいくつかありまして。そのひとつが、要所要所で主人公たちが払ったりとか、あるいはペイされたお金、関わったお金の金額が、字幕で出るんですね。香典がいくら、この仕事の時給がいくら、食費がいくら、とかって出るわけです。

で、それはまずは、一番表面的には、その主人公家族の厳しい経済状況っていうものを端的に伝える、という効果がありますし。あるいはその、全てが金に還元されていってしまう資本主義の、これだけつらい思いをして稼いたお金がこれっぽっちで、こっちのお金はこんなで……みたいな。その資本主義社会のある種の非人間性っていうかね、ただの数字に還元されてしまうという、それも感じさせもするし……ただ、それと裏腹に、同じただの金額の表示なのに、そこにこもった気持ちによって、全く違う思いも出るんだなっていう、そういう瞬間も実は、終盤には用意されているんですけどね。いくらって出るだけなんだけど、この300いくらは、全然意味が違うじゃん!っていう。なんて素敵な300いくらなんでしょう!みたいな。そういうのもちゃんと用意されているんですが。

■映画全体で使われる「赤」が象徴する意味とは

まあ、とにかく全体としてはその金額の表示、というのが演出になっている。いずれにせよ、基本的にはそういう無味乾燥な数字としての……要するに、現代で最も「価値」が還元される、数字としてのそのお金を示す、この字幕。あるいはですね、この冒頭。オダギリジョーさん演じる良子の夫、陽一というのが、事故にあってしまうわけですね。ちなみにこの事故にあう手前のオダギリさん、なんかビートを口ずさんでて。なんか「ああ、音楽やってる人なのね」感がすごく自然にわかる感じも、すごくよかったですけど。

まあ、オダギリジョーさんが事故にあってしまう。で、そこで非常に不思議な演出が出てくるわけです。実際の車と自転車、という画だけではなく、あれはニュース番組とかで使用される、あの事故再現のCGですよね。それみたいな映像が、急に出てくるわけです。つまり、これもやはり要するに、人の死でさえも無味乾燥に記号化されている映像として、それが出てくる。その冷たいタッチであるとか。あるいは、その石井裕也監督作、特に近作で、さっき言ったやっぱりその『夜空はいつでも最高密度の青色だ』ぐらいからすごく時折出てくるようになった、あえてものすごく乱暴にグーッとやっている、ズーム画面。それがすごく不安を誘うんですけども。まあ、そういうのが差し込まれたりして。

要するに、そうした感じでですね、社会やその世界の無情さ、冷たさ、あるいは得体の知れなさっていうのを醸すような、諸々のその変わった語り口、というものがあるわけです。で、それに対して、さっき言ったド頭の「田中良子は芝居が得意だ」っていう言葉は、ド頭で出てきて、なおかつ人肌を感じさせる、誰かが書いた、人が書いたのであろう「書き文字」であることによって……要するに物語でいろんな語り口の水準があるんですけど、「この言葉だけは信用していい、真実ですよ」っていう宣言として、作品全体に静かな影響を及ぼし続けるっていう、そういう効果を持っている。

で、ともあれその事故にあってしまったオダギリジョー演じる夫・陽一。で、この時点で、事故にあった場面から既にですね、本作全体のキーカラーとなる「赤」っていうのの反復が始まっていること、ここもぜひ見逃さないでいただきたい。オダギリジョーさんが倒れている。その手前で「なんなんだ、この赤は?」っていう赤が、ワーッと手前に、ピントもよく合っていない感じで映っているんですけど……7年後、その事故現場にたたずむ、尾野真千子さん演じる田中良子。その手前にある、今度は赤い柱がアップで強調されたり、っていうね。なんかさっきから赤が強調されているな、っていうところから始まって。

劇中、セリフとしても言われますけど、「勝負の時は赤をワンポイントに入れる」というその言葉そのままにですね、この映画全体の語り口が、映画全体でも……たとえば尾野真千子さんが着るカーディガン、ドレス、口紅。これはもちろん赤ですし。夫が残したその蔵書たちがあるんですけど。それを照らす赤いランプ。部屋もなんか赤で照らされているし。しかも、そこに遺影もありますからね……であるとか、赤い自転車とか。まるで、その夫・陽一の魂が、この母子の暮らしのそこかしこに偏在しているかのように、ワンポイントの赤が要所で効いているわけです。

で、その極めつきがもちろん、タイトルにもなっている「茜色」の夕空、っていうことですよね。最後は赤に全体が包まれるという。で、ともあれ、事故がありました。で、その顛末というのは、いやが上にも2019年、東池袋自動車暴走死傷事故を連想させるようなことがあったりとか。あるいは、その義父の介護施設費がかかる、とかですね。そして、どうやらやはりコロナ禍による飲食店経営の行き詰まりから……これ、別にコロナ禍だから全ての飲食がダメになってるわけじゃないけど、でも、要するに僕らが数字としては知っている、あるいは「そうだろうな」とは思ってるけど、それによって本当に「食らってる」人っていうのを、やっぱり突きつけられるわけです。

■マスク越しの会話のよそよそしさと冷たさ。弱者が弱者に強く当たる地獄の構図

まあ経済的に苦しい立場に置かれている主人公母子。まさにその弱い立場であるがゆえに、さらに、作中の言葉で言う「ナメられる存在」に、もうナメていい存在になっちゃっている。社会の負のしわ寄せを、より受けることになっていく。で、それがしかもですね、劇中で……要するに、僕はここまでマスクをする生活がデフォになった暮らしっていう、そこを前提に描いてる(映像作品)っていうのは僕は初めて見たんですけど、その普通のやり取りをしていても、そもそもマスクとかフェイスシールド越しのコミュニケーションというのが、悪い意味で全てをオブラートに包む、ただでさえよそよそしく冷たい感じを、強調してもいるわけですよね。

そもそもがなにか、ちょっと感じ悪いわけですよ。で、そこで延々と描かれていく、その日本社会の冷たさ、醜さの諸相。たとえばですね、そのセックスワーカーに対する、客の男の最低な差別的目線。客で来てるくせに、っていう。それは『生きちゃった』でも描かれていたところですけど、今回のそれは……『生きちゃった』はなんかちょっとやっぱり異常な人物のそれとして描かれていたけど、今回は「ああ、よくいるはいるんでしょうね、こういう客って」っていう、異常者描写ですらない、というつらさもあるし。

ただね、このセックスワーカー描写はそれでも、そこで、後に語りますけど、ある種の連帯が生まれる場なので。実はそこは本当の地獄じゃないんですよね。一番地獄なのは、良子がバイトをするもう1個の、「真面目な職場」とされるであろう、スーパーの花屋での、まさにその社会の負のしわ寄せが弱者へ弱者へと向かっていく、地獄のような構図で。俺、この映画で一番の地獄はここらへんかなって……まあ、もう1個あるんですけどね。これ、店長役の笠原秀幸さんという方が、よくこんな役をちゃんとやられたということ、見事に演じられている、ってことなんだけど。

要は、上から言われた理不尽な指示っていうのを、自分の中で自己正当化するために、余計に弱い立場の者に強く、つらく当たってしまう、という、人としての小ささ、弱さ。でも、我々はこの彼が無縁であると言えるだろうか?っていうような。そこが本当に悲しいし、腹立たしい、というね。デフォルメはされてますけど、ああいう人、ああいう事態はあるし、たぶん僕らの中にも……たとえば自分が受けたイライラを人にぶつける、みたいなこと、あると思うんですよね。

■前半はとにかくつらい。しかし中盤以降は……

で、さらに悪質でキツいのが、これは陽一のかつてのバンド仲間、わけても芹澤興人さん演じる自称親友のですね、結局は一番最悪の形で弱者を搾取・利用することしか考えない……しかも本人は、悪気がないどころか、善意だとすら思っていかねない、という。もうマジでクソ……もうね、俺は芹澤興人さんが嫌いになっちゃいそう(笑)。そのぐらいにね、まあ見事に見事に演じられてるんですが。その構図みたいなものを。

そんな感じでとにかく、主にやっぱりクソ男たちによって構成される、このクソ社会のクソっぷりを、主人公がですね、これでもかとばかりに食らう、というこの前半。とにかくつらい。僕はあまりにもつらくて、ずっと「ううっ……」とうなっていましたけども。しかし、主人公・良子はですね、このつらすぎる状況を、この前半部では、「まあ頑張りましょう」みたいな……腐らず、前向きに受け止めているように見える、という。あるいは、嶋田久作さんがいかにも憎々しく演じる弁護士との会話。もしくは、永瀬正敏さん、こちらは非常にハードボイルドなたたずまいの風俗店店長との会話。

本当だったら「これ、怒っていいでしょう?」っていうような会話で、笑ってみせたりする。ここでやはり効いてくるのが、冒頭の言葉。「田中良子はお芝居が得意だ」っていうのが、やっぱり響いてくる。「そんなわけはないだろう?」と。で、実際にですね、その前作『生きちゃった』というのが、溜め込んだ感情を吐き出すまでの話、吐き出せるようになるまでの話だったように、本作はですね、中盤、片山友希さん演じる風俗店の若い同僚ケイさんとの、ある種の連帯によって、実はやっぱり当たり前だけど、良子も平気なわけがなかった……怒るし、感情を明らかにしてもいいんだ、という風に、大きく展開していく。

あそこがすごいですね。「それでもなんで生きてるの?って言うけど、なんでまだ生きているのかなんて、わかるの?」っていう。あの「お前、“生きる意味”なんてわかるのかよ?」っていう、あれはすごい説得力がある。尾野さんの演技も含めて、すごい説得力がありましたし。社会から、世間からナメられ続け、傷つけられてきた者同士が、それでも繋がり合うことで、連帯して、なんとか救いを見出していく。

僕はだからこの中盤以降は、多少つらいことがあっても、彼らの連帯があるから、前半の孤立した状態、そして抑え込んでる状態よりは、やっぱりちょっと見てて楽になってくる。ここが特に重要だと思うのは、作中でも言われてますけども、誰でも、「自分のことだとちゃんと怒れない」……そうですよね? 自分のことだと……そうなんだよ。だから、助け合うんだよ! 支え合わなきゃいけないんだ、っていう、これはとても大事な真理を言っていると思いました。

■石井監督の新たな最高傑作。ここから先、他の作品たちはどう回答をしていくのか?

あと、もうひとつ本作の大きな希望となっているのは、先ほど(番組18時台に金曜パートナーである)山本さんとも楽しく語らいましたが、和田庵さん演じる息子・純平の、とにかくまっすぐな、理想の思春期少年ぶり、というね。みるみる体もたくましくなって、というあたりも非常によかったですけどね。まあここは、彼の存在というのが、一種フィクショナルなというか、一番ファンタジックなところではあるかもしれないけども。

尾野真千子さんの、まさに魂を削るような一世一代の熱演については、言うに及ばず。特にやはり後半。信じようとしていたその善意めいたものに、やはり裏切られる場面。さぞかしこれ、削り取られたことでしょう。ちなみに「あいつ」は、最初から言ってること、ちょっとずつ微妙にアレでしたからね!(笑) でも、そこもちゃんとバランスが、やっぱり脚本とかがよくできてるんですね。ちゃんと見てれば「こいつ、ヤバいよ」ってわかるようにはなっている。

だから僕はもう終盤、「もう話はいいから、お前ら、幸せになってくれ!」っていう風に心底思っていましたし……作中の人物の死というのに、ここまで本当に近しい人のように悲しい気持ちになったのは、久々かもしれません。まあ、そのある種の石井裕也さんのですね、振り切った人物造形、デフォルメしてるところで、まあなんというかガッと強引に……その強引さこそが、石井裕也作品のある種の味でもあるので。たとえば、「強き母」っていうところに救いを見て落としこむのでいいのか?っていうような問い、疑問の立て方は当然あると思いますが、やっぱりその、細かいことを吹っ飛ばしてゆく、こういう1人の人間が突き抜けていくこともあるでしょう、っていう、それは石井裕也作品の特徴……だから、その好き嫌いが分かれるところではあるけども、石井裕也作品のやっぱり「特長」だと思いますので。私はそこがですね……そのコロナ禍、より剥き出しになった日本の社会の負の側面をこれでもかと叩きつけながら、やっぱり胸を張っていて生きていこう、というのを示す意味で、石井裕也さんなりの作品の向かい方という意味でこれ、すごく意義深い作品になっているのは間違いないと思いますし。石井裕也さんの新たな最高傑作。尾野真千子さんの新たな代表作。

そしてやっぱり日本映画……じゃあもう既にこの『茜色に焼かれる』が、コロナという事態に対して、こうやってやってるんだぞと。ここから先、他の作品たちはどう回答をしていくのか? もはや、そこはないことにしながら、その前の時代っていうのを懐かしがってるだけでも、もはや済まされない。そういう突きつけ方をしてくる、非常に好き嫌いは別にしたところでも、やっぱり重要な一作になっているのは間違いないと思います。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 来週の課題映画は『アメリカン・ユートピア』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。


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