TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。
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宇多丸:
さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、5月14日から公開されているこの作品、『ファーザー』。
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名優アンソニー・ホプキンスが認知症の父親役を演じ、2度目のアカデミー主演男優賞に輝いた人間ドラマ。ロンドンに暮らす81歳のアンソニーの視点で、老いによる混乱と喪失、娘アンとの揺れる絆を描く。共演は、『女王陛下のお気に入り』などのオリヴィア・コールマンや、『ダークシティ』のルーファス・シーウェルなど。監督を務めたのは、原作となる戯曲の作者でもあるフローリアン・ゼレールさん。第93回アカデミー賞で主演男優賞のほか、脚色賞も受賞いたしました。
ということで『ファーザー』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「やや少なめ」。まあ、都内ではBunkamura ル・シネマのほぼ単館上映なのでね、しょうがないんですが。賛否の比率は全てが褒め。けなす意見はゼロ、という状態でございました。それもむべなるかな、という感じでございます。
主な褒める意見としては、「大変見事な映画。脚本、舞台となるフラット(アパート)、小道具や衣装による伏線など、全てがよくできている」「見ていて悲しくつらい映画だったが、それでも見てよかった」「アンソニー・ホプキンスのアカデミー賞主演男優賞受賞も納得」などがございました。代表的なところを一部、省略しつつご紹介しますね。
■「認知症という、この切なすぎる世界への理解が広がった様な気がする」byリスナー
ラジオネーム「空港」さん。
「ポスターで受けた印象の『感動作』や、一部で評されている『一種のホラー』のどちらでもない、ある意味『体感型ムービー』でした。というのも、派手なカメラワークなどは皆無にもかかわらず、めちゃくちゃ乗り物酔いしてしまったような感覚を覚えたからです。」クラクラする。
「タイムリープのように反復されるシーンや会話、ほんの少し前の過去と自分がいる現実が、すぐに結びつかなくなることが、波のように絶えずこちらを襲い続けるから、酔ってしまったんだと思います。それは主人公のアンソニーも同じで、混乱と不安と恐れが入れ替わり、彼を飲み込みます。アンソニー同様、私の祖父母も、認知症が進むにつれ、攻撃的な言動が増えていきました。ただ今回、スクリーンを見ながら、『あぁこんな風に世界が見えていたから、祖父もあんな風に気を張っていたんだろうな。必死に自分を保とうとしていたんだろうな』と思い、少し祖父母の気持ちがわかったような気になりました。認知症がテーマの作品でいえば、スペインのアニメ映画『しわ』(これが最高峰だと思います)」。私もね、ちょっと後ほど言及しますが。
「……や、『アリスのままで』など多くありますが、鑑賞後の印象として、フランスの『潜水服は蝶の夢を見る』が一番近いような気がしました。あちらも重いですが、素晴らしい作品でした。誰にでも気軽に勧められる映画とは思いませんが、ほんの少し、認知症という、この切なすぎる世界(病とはあまり言いたくないのです)への理解が広がった様な気がするので、間違いなく見てよかったといえる映画体験でした」という空港さんのメール。
もう1個、ご紹介しましょう。「やすあにぃ」さん。
「結論から言いますと、今年一です。生涯でも数本の中の一本になると思いました。
僕は年齢的には娘であるアン側に近いのですが、アンソニー側に共感と言う恐怖を感じました。というのも、僕は最近物忘れが激しく、脳ドックにいった結果、軽微な異常が発見され、現在は診断をうけています」。あら、お大事にね。これ。
「そんな事もあり、これは単なる映画ではなく、程度の差はあるとは言え、確実に訪れてくる現実として認識しました。自分は頭の良い人間なんだ、子供みたいに扱わないでくれ、とか、泣きだしたり甘えたくなるところなど、見ていて自分自身の老化や衰えを強く再認識させられました。2015年、山崎努主演の『長いお別れ』も年老いたアルツハイマーの父親と娘の話でしたが、全く違うアプローチというか。
ことのほか凄いのは、アンソニー側の理路整然と整理されていない感覚を、映画として整理して計算して作っているところです。自分の目の前で起きている、自分の記憶とは違う世界。朝訪れる、『ここはどこ? 私は誰?』という恐怖。聞いている話を論理的に組み立てられない感覚を、映画を見ている一人一人に味合わせる、正に映画的な映画だと思いました。」というやすあにぃさん。あの、お大事にね。治療、うまくいくといいですね。という感じでございます。
■原作は監督フローリアン・ゼレールさん2012年の戯曲『Le Père 父』
ということで、私も『ファーザー』、Bunkamura ル・シネマで2回、見てまいりました。1個空けシフトではありますが、ほぼ満席。作品そのものの注目はもちろんだけど、やってる映画館自体が少ない……要するにこの作品のみならず、(営業している場所に)お客が集中しがち、というのもやっぱりあるのかな、という感じはしましたけどね。
ということで、第93回アカデミー賞主演男優賞、脚色賞を取ったこの『ファーザー』。脚色というぐらいなので、元になったものがありまして。本作が劇場長編映画監督としてはデビューとなる──驚きですね。フローリアン・ゼレールさんによる、2012年の『Le Père 父』という、非常に高く評価されて、賞もいっぱい獲って、世界中で上演された戯曲。日本でも、2019年に橋爪功さんがこのお父さんを演じて、賞を取ったりとか。これ、劇場で売っているパンフにはですね、その日本公演に翻訳で関わられたという、齋藤敦子さんの解説が載っていたりして。これ、非常に舞台版のあれとしても、勉強になりました。
とにかく、その名舞台『Le Père 父』を、作者であるフローリアン・ゼレールさん自らが、クリストファー・ハンプトンさんと映画用脚本を作り直して、自ら監督した、という作品なわけですね、この『ファーザー』。で、僕はその元の舞台の方は、日本公演を含め、現状は未見の状態でございます。本当に不勉強で申し訳ございません。ちなみにインターネット・ムービー・データベースによれば、元の舞台は主人公のその薄れゆく記憶というのを表現するために、家具とかその部屋に置かれている物たちが、徐々に取り除かれていって、最終的に何もなくなるっていう、そういう演出をしているらしい。これはこれでね、「ああ、なるほど!」っていう感じがしますね。
もちろんそれが、今回の映画版『ファーザー』では、映像作品ならではの仕掛けに置き換えられていて。詳しくは後ほど言いますけど。なんにせよポイントは……その主人公の老いたお父さん、認知症の症状が出始めていて、娘がずっと面倒を見ているんだけれども、「いよいよこれはホームなり何なり、施設に入れた方がいいのかな? お父さん、かわいそうだけど私にも自分の人生があるし……」みたいな、これがこの「客観的な現実」の状況だとするならば、フローリアン・ゼレールさんによるこの戯曲『Le Père 父』と、それをイギリスを舞台に映画化した……これ、なんでイギリスにしたか?って言ったら、これはもう監督が答えています、100パーセント、アンソニー・ホプキンスが主演してくれるからイギリスにした、という、そういう理由だと言っていますけども。
まあ、この『ファーザー』、そういうような、今言ったような客観的な状況というのがあるんだけど……ある「らしい」んだけど、基本、そのお父さんの主観的な視点からずっと描く、という。ここがまあ、特徴になってるわけですね。
■認知症の人が見ている世界を主観的に描く、その視点の徹底ぶりが突出
もちろん、この認知症の方が見ている、感じている世界を「主観的に」描く、というこの手法自体は、特に近年、他の作品でもちょいちょい見られるものでもあって。僕が真っ先に連想したのは、先ほどのメールにもあった通りです、元はね、スペインのパコ・ロカさんという方が書かれたグラフィックノベル、これを映画化した2011年のアニメーション作品、『しわ』というのがあります。
特に、これの冒頭の描写ですね。初めて見た時は、結構びっくりしましたけどね。イグナシオ・フェレーラス監督の『しわ』という作品。これは割と本作『ファーザー』の手法とも重なるところが大きいと思うので、ぜひこのアニメーション作品『しわ』も見ていただきたいんですが。これはちなみに日本でも、元の原作のグラフィックノベルが、2011年の第15回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を取っていたりとか。2007年にフランスで刊行されて大変な話題になった、ということらしいので、ひょっとしたら実際にフローリアン・ゼレールさんも、同作を読んだり、見たりして、多少影響を受けてたりする可能性がある……っていうか、結構大きいんじゃないですかね。同じテーマを扱おうっていうんですからね。はい。
他にも、やはり2011年『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』。これね、主演のメリル・ストリープが、やはりこれでアカデミー賞を獲ったりしましたけど。あれの特に後半部分、やっぱりサッチャーが認知症であることを「主観的に」描く部分であるとか。日本でも、『ペコロスの母に会いに行く』っていう2013年の映画版があったりしますし、昨年の『おらおらでひとりいぐも』とかね、いろいろあったりするわけですけど。ただやはりですね、その一連の中でもこの『ファーザー』は、たしかにですね、その認知症の方の主観的視点の徹底ぶり、という点において突出したものがありまして。
つまり、客観的状況、客観的な現実っていうのを示す視点があんまりないまま、ほぼないまま、要は何が本当かが分からないまま、主人公も観客も、どんどんどんどん、自分がいま見ている世界に対して、懐疑的になっていく。まさにさっきのメールにあった通り、酔っちゃうような感覚っていうかね、そうなっていく。たとえば、さっき言った『しわ』の冒頭。自分が現実だと信じ込んでいたものが、足元から崩れ去るような感覚を、観客は疑似的に味わされて、グラグラッとする。これが『しわ』の冒頭で、僕もすごく驚いたんですけど、本作、この『ファーザー』という映画は、そういう、さっきまで現実だと思っていたことが次の瞬間にはもう疑わしくなっているというこの仕掛けが、何重にも、連続して絶え間なく、ほとんど全シーン、いや、全カットに仕組まれている、という、そういう作品なんですね。
■「ニューロティック・スリラー」的な面白さに近い
たとえばもう後半になると、視覚的な認知のみならず、時制の認知まで、グルグルグルグル混乱しだす。だから本当に余計に「はっ、へっ? あれ? どういうこと? どういうこと?」って。でも、この「どういうこと?」っていうのは、主人公の感覚そのものでもあるから。「どういうこと? どういうこと?」ってなっていく。で、そんな中からしかし、だんだんと主人公、すなわち観客はですね、自らが真に置かれている状況、本当の現実、真実に、少しずつ近づいて行き……という、こんな構造になっているわけです。
これ、映画のジャンルとしては、いわゆる「ニューロティック・スリラー」と呼ばれてきたような作品たち……たとえばポランスキーの『反撥』とかね、そういうポランスキーの一連の作品とか、あとは『ブラック・スワン』でも何でもいいですけど、そういう、語り手自身がちょっと信用できないタイプの映像作品、スリラーに近い。そんなスリラーに近い構造を持っている作品と言えるわけです、この『ファーザー』は。だから、「ハートウォーミングなホームドラマ」的なものを予想している方がもしいるとしたら、これは全然違うよ!というのは言っておかないといけない。
まあとにかくそういう意味で、これは扱っている題材に対して不謹慎な表現ではあるかもしれないけども、まあスリラーとか、ミステリー的な「面白さ」っていうのが、実はすごく味わえる作りになっているのは、これはもうたしかですし。僕が行った回の劇場では、ところどころ自然にクスクス笑いが漏れていたりしたぐらいで、ひねったユーモア、ダークコメディ的な要素も、はっきりある作品であって。たとえば、イモージェン・プーツ演じる若い介護士を前に……またイモージェン・プーツがね、すごくいい感じで、常にピリッとした空気を出してくれるんですね。
あのHBOドラマの『ある家族の肖像』の、マーク・ラファロの恋人役とかでもそのピリッとした感じをうまく出すんですが。イモージェン・プーツ演じるその若い介護士を前にですね、そのアンソニー・ホプキンス演じるアンソニー……これ、フローリアン・ゼレールさんが改めてね、アンソニー・ホプキンスに当て書きし直したという、この「アンソニー」というキャラクターが、まあ年甲斐もなく、はしゃいじゃっているのかな? 若い女の人を前にして、はしゃいじゃっているのかな? なんて一瞬、微笑ましい気分になったところでの、あまりにも無情な、バサーッ!っていうハシゴの外しっぷり(笑)。あまりにもひどすぎて、僕、一瞬これを見て、「ハッ!」って息を飲んだ後に、思わず苦笑い、みたいなね、そんな感じ。
■際立つ「青」の使い方のうまさ
でですね、そんな感じで非常に、言っちゃえば娯楽性もちゃんと、きっちり高い作りになってるわけですが。特に僕がスリリングに感じたのは、舞台となるそのフラット……アパートですね。要するに、そのアパートのフロアで、キッチンとか寝室とかが、フラット、同じフロアに並列に置かれているからフラット、っていう言い方をイギリスではするみたいなんですけども。そのアパートの見せ方の、非常に微妙に、しかし決定的に変容していく、この部屋のあり方、見せ方そのものが、そのまま主人公の主観的世界を表している。だからつまり実質メインというか、実質の主役がこの部屋の中の様子、っていう。そういう風に言っていい1本だと思うわけですね。映像作品としてのこの『ファーザー』は。
その意味で、このプロダクションデザイン、美術監督のピーター・フランシスさんが果たした役割が、非常に大きい。あと、撮影のベン・スミサードさんと、衣装のアナ・メアリー・スコット・ロビンズさんなどとの、見事な連係。撮影とか、衣装をどういうものを着せるかという、その見事な連係。そしてもちろん、それを見事に統合、コントロールしたフローリアン・ゼレールさんの、初監督とは思えない技量……諸々が、要は映画作品としての質が、あらゆる角度で、やはり非常に高いわけです。中でも際立っているのはですね、これ画面内での、先ほどもチラッと言いましたけども、「青」の使い方ですね。
なんならこの『ファーザー』という映画、「青」っていう部分だけに注目して一周見る、みたいなことをしても、間違いなく意義深い体験になる、そういう一作だったりします。たとえばですね、皆さん覚えてますかね? その主人公が暮らしている、アパートのキッチン。キッチンが結構出てきますけど。キッチンの壁に、タイルが貼ってあるわけです。最初の方では、所々青が目立つ、モザイク状にタイルがあるわけですね。なんだけど、あるところからそれが……同じ場所なんですよ? 同じキッチンのはずなのに、変わるんですね。
あるいは、オリヴィア・コールマンが演じる娘アンが、いくつか衣装を着てますけど、劇中で一番印象的なのはやはり、青いブラウスですよね。あるいは部屋の中に置いてある、あの青い猫の置物であるとか。あるいは、先ほども言いました、そのキッチンでね、ノソノソノソノソ、買い物袋からいろんなものを出しているというその場面の、青いビニール袋であるとか。で、「非常に青がキーになっているな」っていう目で僕ね、青だけに注目して一周、っていうのを、実際に自分でもやったんですけど。そうやって見ると実は、アンソニー・ホプキンスが登場した瞬間に、「あっ!」って思うんだけど……アンソニー・ホプキンスの瞳自体が、すごい美しいブルーなんですよ。
つまり、アンソニー・ホプキンスの、そのブルーの美しい瞳から見た世界は……という発想から来る、逆算的な演出としてのこの「青」使いなんじゃないか、って思うんですけど。これは本当に、フローリアン・ゼレールさん、僕がインタビューする機会があったらぜひ、ちょっと聞いてみたいあたりですけどね。とにかくそのように、要所に配された、非常に何と言うか人工的な、作り物感が強い、バキッとした青。青って僕ね、以前あれ、『TRANSIT』という雑誌で、「映画の中の青」というところだけに注目して論じた時があって。青ってやっぱり、すごく人工的な印象を強める色なんですけど。
今回もすごく、ちょっと……もちろん自然な描写をしているはずなのに、なんか不自然感が漂う色だったりする、青。その色づかいがもたらす、根本的な不安感、現実感の頼りなさ、みたいな部分。というと、じゃあ青がこれだけ際立っているということはですよ、逆に言えば、青が全く使われていない画とか場面は、じゃあ何を示すのか?とか。最終的にその主人公が行きつく果て……たしかに最後ね、主人公が行き着くある場所というか、ある状況があるんですけど、たしかに青は青なんだけど、さっきまでのエッジが立った、バキッとした青とは、また違うんですね。というあたりであるとか。
とにかくこの、計算され尽くした色の演出。あるいはですね、その部屋、建築物。基本的には「不動産」と言うぐらいで、本来、揺るぎないものですよね。なのに、それがカットが変わったり、場面が変わるたびに、間取りとかは同じはずなのに、「あれ? なんか違う」とか、「あれ? なんか、こうだったっけ?」みたいな風になっている。つまり部屋・建築物という、本来揺るぎない現実を最も象徴すべきものが、根本的な不安定性をたたえているように見える、まさにその、純映像的な語り口の効果ですね。
■アンソニー・ホプキンス一世一代の名演、そしてそれに匹敵するオリヴィア・コールマン
たとえば冒頭、娘のアンが、お父さんが住んでるそのフラットに訪ねてくる……外側を歩いているんで、ロンドンの街並みを歩いているんで、まあここは普通に考えれば、紛れもない現実、って思いますよね。で、階段を上って、ドアをコンコンッて叩いて入っていくわけですね。ところが中盤、全く同じドアの画角で、同じような階段を上がったところのドアの画角で、でも違う場所の設定で、その画が映されるわけです。オープニングの……その場面も実は、一旦外に出てる、っていう設定なので。語り口なので。紛れもなく現実だ、って観客も思ってるわけですよね。外に出てるんだから。
でも……「えっ、ええっ? いや、おかしい。えっ? これ、紛れもない現実だと思ってたものが……」っていう。その、同じ画角で同じドアを見せる、という映像的な演出もしていたりするわけなんですね。そんな感じで、その純映像的な語り口の効果というのが、非常に計算され尽くしているし。それが本当に、存分に堪能できる映画なんです。映像ならではのマジックが堪能できる映画なんですね、この『ファーザー』は。まあ他にね、たとえば音楽使い。これ、ビゼーのアリアがどういう意味を持つのかといったあたりの、音楽的な読み解きに関しては、これはもう本当に、(音楽ライターで番組出演者の)小室敬幸さん案件です! 小室敬幸さんに、「この『ファーザー』のビゼーのアリアはどうですか?」なんていう話はね、いずれ聞いてみたいもんだなと思いますが。
まあこれね、演技に関して。もちろんあの、アンソニー・ホプキンス一世一代の名演ぶり。これに関しては、僕がここで言葉を足すまでもないことだと思います。もう、演技ですからね。本当に映画を見ていただくのが一番なんですが。特にやはり終盤。要するに、自分を保とうとして……元々は非常に、自分は知的な人間である、インテリであるというような自負が高い方だったからこそ、突っ張っていて。先ほどのメールにもあった通りです。人に非常に攻撃的になりがちだった、アンソニー・ホプキンス演じるアンソニーが、ラストで急速に、もう本当にボロボロボロボロッて感じで、崩れていく。その、人間が「崩れていく」瞬間。この不憫さ。その涙腺刺激度。やっぱりただ事じゃないですし。
あと演技で言えば、僕は改めて、オリヴィア・コールマン、これはすごい役者だなと思いましたね。あの『女王陛下のお気に入り』のね、女王役でもそうでしたけども、彼女の上手いのは、口には出さない、表情にもそんなには露骨には出さない、でも、たしかにものすごく強く、「思うところあり!」みたいな。それがね……この感じをしかもね、観客にだけ、他にその場にいる人もいるんだけど、観客にだけ伝わってくる感じで演じるのが、本当に上手いんですよね。
ということで、オリヴィア・コールマンはやっぱり、アンソニー・ホプキンスに匹敵する上手さだと思います。あの、演じている娘さんのアンもね、たしかにお父さんを大事に思ってるし、実際に大事にもしてるんだけど、そりゃ思うところもあるよね……長年、育ってくる間中、ずーっと「あんなこと」を言われ続けていれば、それは思うところはあるわけですよ。この「思うところあり」っていうのを、オリヴィア・コールマンはすごく演じるのが上手いわけですけども。
つまりこれは、「家族という地獄」「家族という呪い」っていう話でもあるんですよね。彼女にとっては、実はお父さんとの何十年は、地獄だったかもしれないんだよ。だからようやく今、自分の人生を歩く、っていうのは、彼女にとっては解き放たれたラストかもしれないわけ。だからこそ、個人的にはオリヴィア・コールマン、「この人、すげえな」って思ったのは……さりげないところですよ。最後、タクシーの中にいる彼女が、一瞬だけ、一瞬自分に言い聞かせるかのように、ほんの一瞬だけ、クッって、うなずくかのように、ちょっと首を、縦に振るんですよ! 「すげえな、これ! なんだ、これ!」って思ってしまいました。
■認知症への理解、気づき。さらには生きる意味まで見つめ直す射程を持った一作
ということでね、もちろんその、認知症というものに対する理解というかな、その当事者にはこう見えているのかもしれない……だから要するに、外側の人間、この外側の人間たちを、外側の人間のたとえばイラつきであるとか、社会側というものを象徴するような、男たち2人。マーク・ゲイティスさんとルーファス・シーウェルさんの2人が象徴する、その外側の視点っていうのがいかに、その内側の人にとっては攻撃的なものに見えるか。非常に無慈悲なものに見えるか。
それを疑似的に体験させていただくことで、たとえば我々が、認知症的なというか、そういう症状の方に会った時に、やっぱり1個、気づきとして……たとえば「この人にはこれが現実なのだから、それを頭ごなしに否定したり、ましてや、それを怒ったりしてはダメだな」っていう、そこのひとつ学び、気づきにもなるような作品であるのはもちろんだし。最終的にはこの映画、認知症に限らずとも……つまり認知症じゃなくても、我々全員に、最終的には絶対に待ち受けていること。それはなにかと言えば、これまで何十年と生きてきた人生が、すべて無に帰す。これは避け得ないわけですよね。
で、その全てが無に帰す、というその生のサイクル……じゃあ、なぜ生きるのか? 生きるって何か? みたいなところまで、最終的に射程が、グーッとラストで、特にあのラストの会話とラストカットで、グーッと射程が伸びるんですね。また最後にいきなり。これも含めてですね、これはすげえ映画だな!っていうね。しかもそれを、1個も言葉で説明していない。映像的に伝わってくるものになっているわけで。これはちょっと文句が付けようがない、上質な映画である、と言わざるを得ないのが現状ではないでしょうか。
ということで、ぜひぜひ……これ以外の言いようがないんだよね。本当に、ぜひぜひこれ、劇場の集中した環境で……しかも何周もする価値がある作品だと思いますよ。ウォッチしていただきたいと思います!
(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『くれなずめ』です)
以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。