宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
一体、誰が映画を見張るのか?
一体、誰が映画をウォッチするのか?
映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」
毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送でお送りしているTBSラジオ AM954+ FM90.5『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。
番組の名物コーナー、ライムスター宇多丸による渾身の映画評「週刊映画時評ムービーウォッチメン」(毎週22:25頃から)。
毎週、「ムービーガチャマシン」(カプセルトイのガチャ)の中に入った新作映画カプセルを、“シネマンディアス宇多丸”がランダムにセレクト。映画館で自腹を切ってウォッチした“監視結果”を、約20分に渡って評論する映画時評コーナーです。こちらではその全貌を文字起こしを掲載しております。
今週評論した映画は、クエンティン・タランティーノ監督の新作『ヘイトフル・エイト』(日本公開2016年2月27日)です。
Text by みやーん(文字起こし職人)
宇多丸:
今夜、扱う映画は先週、ムービーガチャマシンを先週、回して決まったこの映画。『ヘイトフル・エイト』!
(BGM:『ヘイトフル・エイト』メインテーマが流れる)
猛吹雪の中、山小屋に閉じ込められた賞金首の女と立場の異なる7人の男。それぞれの思惑を秘めた8人の行動がやがて陰惨な事態を引き起こしていく。監督は、今作が8作目の監督作となるクェンティン・タランティーノ。もう最初にね、バーン!と「クェンティン・タランティーノ第8作目」ってデカデカとテロップが出る、そんな映画監督いるか!?っていう。出演はサミュエル・L・ジャクソン、カート・ラッセル、ティム・ロスなど。ジェニファー・ジェイソン・リーがアカデミー賞助演女優賞ノミネート。70ミリフィルムによる撮影なども話題になったということで。65ミリで撮って、70ミリで……という、特殊な方式でね、やっているんですけどもね。
と、いうことで『ヘイトフル・エイト』。まあ、タランティーノの新作を見に行かないってことがあるんでしょうかね?ってことで、リスナーのみなさんね、当然見に行っているということで。この映画を見たという方の感想をメールなどで監視報告いただいております。『ヘイトフル・エイト』、メールの量は……普通! ええーっ? まあ、公開規模がね、やっぱり回しが長いのもあってあんまりないのもあるけど。公開規模があんまり大きくなくてね。ええーっ? 賛否で言うと、賛が6割。「楽しかったけど、ちょっと長かった」「過去作と比べると物足りない」「テンポが良くない」などの意見が4割。
全面的に否定する意見はごくわずかしかなかった。まあ、タランティーノの映画だから、それはもうタランティーノ的なるものがどの程度出てくるかってね、覚悟して行くわけですからね。褒めるポイントとしては、「映像がすごい。大迫力」「タランティーノの集大成。長い会話もやはり楽しい」「最後に伝わってくるメッセージにタランティーノの成熟を見た」などなどでございました。代表的なところをご紹介いたしましょう。
(メールの感想読み上げ、中略)
……はい。ということで、『ヘイトフル・エイト』。私も、後ほど言いますが、日本では本作をベストな状態で見ることができない! それができる映画館が現状、存在しないので。せめて、これだけはちょっとシネコン以前の、大型劇場の雰囲気を残している劇場で、都内上映館の中でかろうじて残しているところで見たいということで。要は、傾斜が斜めに下がっていくのじゃなくて、比較的平らな感じの席で、見上げる感じの大きいスクリーンのところで見たい、と思いまして。丸の内ピカデリーで3回見てまいりましたってことでございます。
しかもですね、3回とも、あんまり入ってなかったですね。正直ね。非常に私は残念でございます。嘆かわしい事態だと思っております。と、言うのもですね、タランティーノ。作品を取り上げるたびに僕、言っていることかもしれませんけども。自らですね、こんなことを言ってますよ。「オレは常にヒップホップの精神にのっとって映画を作っているんだ」って、インタビューなどで公言しているぐらいです。サンプリング世代。ヒップホップ世代的な、いわゆるポストモダン的なってことですかね。クリエイターの代表格なのは間違いないんですけど。まあ、「ストリート版ゴダール」なんて言い方もしてますけど。私ね。
まあ、凡百の、はっきり言わせてもらえば見下げ果てたタランティーノフォロワーとは、当たり前のことながら根本の格が違っておりましてですね。そのサンプリングというのがですね、小手先のギミック的な目配せとか、そういうレベルのことがやりたい人じゃないわけです。もちろん、たとえば元ネタを指摘したり、あとは「ここがナントカなんじゃないの!?」みたいな、元ネタの指摘とか発見みたいな楽しみは、もちろん今回の『ヘイトフル・エイト』を含めて、タランティーノ、新作が出るたびに間違いなく、ものすごくある。
それが楽しいタイプの作品を作っているのは間違いないんだけど。ただ、ここで大事なのはですね、元ネタを知ってるか、知ってないかとかじゃないんですよね。元ネタは知らなくたっていいんです。っていうか、知らない方がいいぐらい。っていうのは、こういうことです。かつて、たしかにこういう野蛮でパワフルでブッ飛んだ映画のあり方、楽しまれ方っていうのが確かにかつてあったんだ、というこの感覚をね、タランティーノの映画は元ネタを知らないはずの観客——たとえば知らない若い観客——も、「あっ、かつてこういう映画の楽しみ方が、ああ、たしかにあったんだ!」って思い出す。
わかる? 元ネタを知らないのに<思い出す>感覚っていうか。これがタランティーノの作品の独特、かつ、すごいところだという風に私は思っておりまして。あるジャンルの映画を見るという体験。その感覚ごと蘇らせようとしている。そういう作品ばかり作っていると言える。サンプリングの果てに……サンプリングっていうのは言ってみれば、まあ偽物なわけですけど。偽物の集積の果てに、いつか本物の映画にタッチしようとする。そういう志に常に貫かれている。これがタランティーノ。このスタンスがまた、僕は正しくヒップホップ的だなと思ったりするんですけど。
で、たとえばですね、わかりやすいところで言えば、僕は間違いなく彼のフィルモグラフィー上でも突出した最高傑作だと思っている、『デス・プルーフ』を含む『グラインドハウス』。まあ、『デス・プルーフ』か、『イングロリアス・バスターズ』のチャプター1でしょうね。彼の突出した最高傑作はね。『デス・プルーフ』を含む『グラインドハウス』。あれなんかはまさにですね、かつてあったB級映画2本立て、3本立ての劇場の興行スタイルとかの上映形式ごと、現代に再現するっていう。で、その時代とかその劇場とかに行ったことがない、その時代のそういう映画を見たことがない観客にも、「ああ、こういうタイプの映画の楽しみ方、楽しまれ方っていうのがあったんだ!」と思い出させるという試み。『グラインドハウス』はまさにそうでしたね。
で、この『グラインドハウス』はしかしですね、残念ながらここ日本ではですね、ロバート・ロドリゲスの『プラネット・テラー』とタランティーノ監督の『デス・プルーフ』。その合間に、嘘予告編が入って。あと、変なお店の宣伝みたいなのが入る、みたいな。そういう全体の形式込みの、要は本来の『グラインドハウス』オリジナルバージョンの上映は、日本では限定的にしかされなかったですね。当時もね。後にDVDに収録されたりとか、あとタマフル映画祭で1回ね、やったりなんかもしましたけども。基本的にはちゃんとされずに、バラで1本ずつの公開となったと。そういう意味で、ちょっと残念な公開のされ方をされちゃったんですけど。
その意味で言うと、今回の『ヘイトフル・エイト』はその『グラインドハウス』よりもさらに残念な状況での公開と言わざるを得ない。つまりですね、『グラインドハウス』はB級、C級、Z級というか、本当に下の下の映画たち。本当にクズみたいな映画たちの中にあるお宝みたいな。そんな感じのだったんだけど、『グラインドハウス』とは対称的に今度は、映画というものの興行、上映形態としてある意味、最も豪華。最もリッチなスタイルの再現というね。
要するに、さっき言った興行スタイル、上映形式ごとの再現なんだけど、今度はものすごいリッチな方に行ったのが今回の『ヘイトフル・エイト』と。まあ、詳しくはですね、劇場パンフレットなどを当っていただきたいんですけど。すごく劇場パンフレット、充実してるんで。とにかく今回、オープニングでも非常に誇らしげにクレジットで出てきますけども。『ウルトラ・パナビジョン70(Ultra Panavision 70)』というですね、これはなかなか耳慣れない方式。とにかく、60年代に一部の超大作映画で使われていた撮影・上映方式。
たとえば『ベンハー』であるとか、『バルジ大作戦』とか、『戦艦バウンティ』とかですね、一部の超大作で使われていた。で、66年の『カーツーム』という作品を最後に使われなくなってしまった撮影・上映方式っていうのを、本作のためだけに復活させているっていうことなんですね。しかもそれが、今回の『ヘイトフル・エイト』。事前に脚本の第一稿が早い段階でネットにリークされてしまって。タランティーノが激怒して、「今回のは作らねえ!」って一旦は言ったという、そういう展開がありましたけども。その初稿から、もう70ミリのこれで撮られて……っていう風に書いてあるんで。もう最初のビジョンに入っていることなんです。ウルトラ・パナビジョン70を使う、70ミリフィルムで上映するっていうのは。
で、アメリカとか欧米ではですね、ベテラン上映技師をもう1回、改めて引っ張りだして来てまで、70ミリフィルムでの上映バージョン。いわゆるロードショーバージョンっていうのを決まった劇場では上映しているわけですね。入場者全員にプログラムが配られ、そして、本編のスタート前に、日本だったら「ベッベッベッベッ……♪」みたいなさ、映画泥棒みたいなのがやっている、あのところじゃなくて本編のスタート前に、先ほど『ヘイトフル・エイト』ってバッと言った時に後ろで流れていたエンリオ・モリコーネによるオーバーチュア(序曲)が流れて。
要するに、映画が始まる前に音楽がずっと流れていて。映画までの気分を高めるわけですよね。で、いくつかのショットは、いま日本で見られるデジタル上映版よりも長いそうなんですよね。で、途中、これはたぶんチャプター3。『ドミニクには秘密がある』っていうあの章の前ですね。あの章の前に、ある衝撃的な出来事が起こりますよね。あの、ある衝撃的な出来事が起こったその後に、15分間のインターミッション(休憩)が入るという、そういう形式なわけです。
これ僕、いま46才ですけど。僕でギリ、『2001年宇宙の旅』のリバイバルを79年かな? に、した時に、こういう序曲がずっと劇場に流れていて、インターミッションが入って……っていうのをギリ、それは「ああ、ああいう感じかな?」って想像がつく感じなんだけど。なので、今回ね、実際に映画を見た方はわかると思うんだけど。チャプター3の頭。要するに、途中でものすごい大きい事件がドーン!って起こった後、一旦話がひと区切りしてですね。いきなり、唐突にタランティーノ自身によるナレーションで、この15分間、劇中の舞台で何が起こったか? みたいなことを説明するという下りがあるんですけど。
あれはまさに、その15分間、衝撃的なことが起こって、はい、休憩です!ってなって。15分後、みんなおしっこに行ったりして、ガヤガヤガヤッて席について、さあ、始まりますよ。15分後、始まると「この15分間、何があったか?」っていうそういう説明がつくという軽いギャグになっているってことなんですね。とにかく、そんな諸々込みでの187分版。要するに現在日本で見れるデジタル版より20分長い。その20分の内訳っていうのはさっき言ったように序曲が3分。そしてインターミッション15分ということで、残り2分だけ中身が長い。で、どうやらこれは、いわゆる70ミリ画面を活かしたロングショットですね。基本的には室内の映画ですけども、馬車が走っているようなロングショットがたぶん長くなっているっぽいんだけど。
ということで、そういう、要するに序曲が流れて、すごい気分を高めて。何か特別な体験をしに来るぞっていうことですよね。なんなら、着飾って来て。で、余裕を持って休憩も挟んで、みたいな。そういう時間の贅沢な使い方。異常にリッチな映画体験というもの全体の再現。これ自体が今回の『ヘイトフル・エイト』の非常に、語られている物語と同じぐらい重要なコンセプトなわけですよ。今回のこれは。まあ、さっきから言っているように、初稿にすでに書かれているわけですから。もう、コンセプトそのものと不可分なことなわけですね。この上映形態とかってことが。
にもかかわらず、日本では現在要するに、70ミリ上映をできる映画館が物理的にないっていう。不可能なわけです。物理的に。このあたりの経緯は『映画秘宝』、岡村尚人さんかな? による記事が非常に詳しい。普通に計算していって、いまから70ミリ上映をできる環境を整えていくと、ざっと概算して60億円いるっていう(笑)。だから、先ほどメールにもあったように、「新宿ミラノ座がまだあれば、ギリギリ、目はあったのか?」みたいなことを考えちゃうんですけど。とにかく、日本では70ミリ上映はできない。
で、それにタランティーノ。非常に日本びいきな人なのに、日本では70ミリ上映できない。つまり、この『ヘイトフル・エイト』に関しては自分の意図したものが伝わるような上映の仕方をできないっていうことにいたく失望して、今回はプロモーション来日もしていないというですね、いかに本作が撮影から配給に至るこの形式まで含めての作品であるか、っていう証だと思うんですよね。
ということで、本当に申し訳ないんですが、僕も本当はね、こうやって批評とかするんであれば、この1週間でアメリカなどに飛んで70ミリバージョンを見て来るべきではありましたが……申し訳ないです! すいません! ちょっとその時間、ありませんでした。他の仕事もあったもんで、申し訳ございません。できませんでした。ということで、僕が見てきたのはあくまで、この日本で見られる——敢えて言いましょう——「不完全な状態」。デジタル版167分を見て、本チャン上映スタイルを頭に思い浮かべながら。サントラも買いましたからね。オーバーチュア(序曲)を事前に聞いて、気分を高めて。で、チャプター2とチャプター3の間は、「はい! いま15分休んだ! はいっ!」っていう、そういう気分を思い浮かべながら、ということをちょっとね、お断りしておきたいと思います。
でも、この167分バージョンでもですね、今回タランティーノが作品に込めようとした、要はこういうことです。映画を見るということの豊かさ、贅沢さっていうのを、それをもういまの観客は忘れかけているわけですよね。もう、知らない世代もいる。タブレットで見るのが映画だと思っているかもしれない。そういう世代に思い出させるっていうことは十分にできる作品になっているという風に思うわけですよね。
たとえば、まずもうオープニングですよ。オープニング。エンリオ・モリコーネによるオリジナルスコア。タランティーノ、いままでエンリオ・モリコーネの曲をそれこそサンプリング的には使ってきたけど、ついにサンプリング手法の後に、それこそ本物にタッチした瞬間っていうことですね。言っちゃえば、ダフト・パンクがナイル・ロジャース本人を呼んできて『Get Lucky』を作ったみたいな、そんな感じですよ。聞いてください、これ。
(BGM:エンリオ・モリコーネ『L’Ultima Diligenza di Red Rock』が流れる)
もう、もう……わくわくでしょ! もう、なにが起こるの? フォーッ! なに? なに? なにが起こるの!? これが流れだす。そして、画面はですね、通常のシネマスコープよりもさらに横長。縦1に対して横2.76という超ワイド画面。これに流れ出して。で、雪にまみれたキリスト像のアップですね。ちょっと『最前線物語』あたりのオープニングを彷彿とさせるようなオープニング。アップからゆっくりゆっくり、カメラが本当にゆーっくりゆっくり動いて。遠くから、6頭立ての駅馬車。6頭立てってことは普通に僕らが考える馬車よりも、馬が長く連なっているわけですよね。
これも当然、ワイド画面が映える、この6頭立ての馬が向こうから、遠くの方からゆっくりゆっくりカメラが動いて。向こうから撮ってくるこのファーストショットからして、作品全体のリズム、語り口のテンポをもうすでに提示しているっていうか。要はね、「さあ、これからとっても贅沢な時間が始まりますよ。せっかく映画を見るんですから。せっかく映画館に来て、映画という贅沢な時間をすごすんですから、まあ、せかせか先を急がず、腰を据えてゆっくり……順に話していきますからね。ゆっくり楽しんでね。それが70ミリで撮ったこういう本物の映画というものの楽しみ方ですよ」と宣言するようなファーストショットということですね。
で、実際にこの映画、オープニングテーマから始まって最初の1時間たっぷりかけてですね——これはこの間、高橋ヨシキさんもこんなことを言ってましたけども——とにかく、本題の前のセッティングのために1時間たっぷりかけるわけですね。具体的には、いかにもタランティーノらしいクドい会話劇が一見ダラダラと続くんですけど。ただですね、そのタランティーノのトレードマークである延々続く駄話タイムっていうのは、これ、はっきり実はフィルモグラフィー上、ちょっとネクストレベルに行った。いまはもうとっくにネクストレベルに入っていて。
要は、『イングロリアス・バスターズ』以降ははっきりと、ただ駄話タイムっていうのが独立してあるのがタランティーノ作品だったんだけど、ドラマ上のサスペンス、緊張感と駄話が実は結構直接シンクロする作りに、もうはっきりとシフトしてるんですよね。『イングロリアス・バスターズ』。そして前作『ジャンゴ』。そして今回の『ヘイトフル・エイト』。つまり、エンターテイメントとしてはよりわかりやすくなってきている。ブラッシュアップされているという風に言えるんですけど。今回も、『イングロリアス・バスターズ』以降のタランティーノ会話劇の延長線上。というか、進化系。たしかに集大成というのも僕はわかる気がします。
というのは、序盤から延々と続く、一見駄話。でも、その会話の1個1個のパーツは実はほとんど全て、後でほぼ全て意味を持って回収されるんですよ。タランティーノ脚本史上でも、珍しいほどものすごい無駄がないです。実は、会話の全てが。「あ、すごい! いわゆる良く出来た脚本じゃん!」みたいな感じになっていると思います。そしてもちろん、たっぷり時間をかけた贅沢なセッティングという。これが完了してからはですね、もう圧力釜の中身のようにってことだと思う。みるみる会話劇の……映画の半分は1時間30分なわけですけど、1時間かけて、さあ、セッティング完了。そっから30分でグーッと会話の圧が高まっていく。危険な領域に高まっていく。
で、高まっていくに従って、カメラのサイズもそれこそセルジオ・レオーネ風のですね、顔のどアップとかでどんどんどんどん圧迫感が高まっていく。で、グーッと高まったところで、バーン!(と、テーブルを叩く) 一瞬で恐るべき惨劇が起こるという。これはもう、タランティーノ十八番の語り口が堪能できるんじゃないでしょうかね。特に今回の『ヘイトフル・エイト』は、たぶん本当に『パルプ・フィクション』のジュールス役以来と言ってもいいぐらいですね、サミュエル・L・ジャクソン・オンステージですね。今回はね。もう、サミュエル・L・ジャクソンがすごい。
まずね、北軍(ヤンキー)の黄色とネイビーのコートにマフラーというあの衣装が異様にかっこいい。衣装をやっているコートニー・ホフマンさん、タランティーノのいまの恋人らしいですけど。ねえ。もう登場した瞬間からかっこいいんですけど。たとえばこのサミュエル・L・ジャクソン演じるウォーレン少佐がですね、相手を追い詰める時に、たとえ話を出す。もう、たとえ話を出すのがすごいタランティーノ話術なんだけど。タランティーノ、たとえ話を出して相手を追い詰める時に、いちいち、何個も同じたとえを並べるというこのテクニック。
「おふくろのシチューの味……それはいつも同じだった。チャーリーの作ってくれたシチューの味……それもいつも同じだった。そして今日食ったミニーのこのシチューも……同じ味だ!」って。この3つも同じ例を重ねるというこのクドさ。クドさゆえの圧の高まり。これこそがタランティーノ的。そしてサミュエル・L・ジャクソン的圧迫話術。まさに圧迫話術のキモ。基本的にタランティーノ作品は話術がある奴、つまり、話でその場を制することができた奴が、少なくともその場ではいちばん強いという構造を常に持っているため、いかにもタランティーノ的なカタルシスじゃないでしょうかね。
「圧の高まり」という意味では、対照的に、セリフじゃなくて、事前にこれから何か大変なことが起こるよと一旦示しておいて、延々それを引き延ばす、文字通りのサスペンス。そして何かことが起こる瞬間まで圧が高まっていくという中盤のある展開。ちょうどですね、エンリオ・モリコーネの『遊星からの物体X』のサントラより『Bestiality(獣性)』。これが流れだす。ラスト近くにももう1回、流れるんだけど、ここなんか、もう最高ですね! こう、舞台上は何も起こってないように見えるんだけど、「キョロキョロ……まだ起こらない。キョロキョロ……まだ起こらない」みたいなね。もう、これを聞くだけでわくわくしてきますけども。
というのも、この場面の手前のところでサスペンスのネタ振りのところ。画面の左奥で、奥の方で進行している事態と、画面右側手前の方でギターを弾き語りしている、本作最大のトリックスターと言っていいジェニファー・ジェイソン・リーがですね、この歌の内容も物語の進行とレイヤードされてますから。画面の奥の方と手前の方。そしてこの歌っている内容とレイヤーが3つ重なっている。で、その奥の方と手前の方が交互にピントを合わせてっていう。要は、超ワイド画面ならではの情報量と見せ方っていうのをいちばんわかりやすくダイナミックに見せる。
要は、「室内劇、会話劇なのに70ミリ。スペクタクルなのに、なんで室内劇なんですか?」っていう疑問に対してタランティーノは、「いや、この空間の中で十分、70ミリ的スペクタクルは見せられるぜ」っていうね、そういう勝算があったと思うんですね。ウルトラ・パナビジョン70で撮影するという大挑戦に当って、たぶんタランティーノはCGとか絶対に使いたくなかったでしょうから。現実的に、自分がコントロールできる範囲に舞台を限定するという、そういう計算もあった上での、密室だけど70ミリワイドっていうのだと思うんだけど。
で、実際にこの映画は、まさに日本が世界に誇る美術監督、種田陽平によるミニーの店のセットの中だけで、非常に計算された、そして大胆な画面構成と演出の積み重ねで、ちゃんと豊かな、十分豊かなひとつの世界っていうのを浮き上がらせている。それぞれの登場人物が距離を、距離感を制したものが勝つというゲームを見事に演出している。で、それはもちろん、いわゆる2つのアメリカというものの縮図にも見える。そういうメタファー的な作りにもなっているんだけど。同じ人種差別問題に触れた西部劇としてもですね、前作の『ジャンゴ』。要するに、『イングロリアス・バスターズ』に続く人類史の暗部にジャンル映画的な落とし前をつける『ジャンゴ』。
だから『ジャンゴ』はタランティーノ作品としては例外的に、明快な主人公、ヒーローが設定されていましたけど。今回はちょっとモードが違う。たとえば、サミュエル・L・ジャクソンのウォーレン少佐はですね、「レイシストに逆襲だ!」という『ジャンゴ』的なカタルシスをもたらしてもいいような——元は『ジャンゴ』で描いていたらしいんだ。このキャラクターは——なんだけど、要は、「逆襲って言うにはちょっと引くんですけど……」っていう、ドン引き必至の冷酷さを発揮するし。まあ、我々が画面上で見ているあの光景が本当に起こったかどうかはわからないという、そこのグレーさも残しているわけだけど。で、あと、北軍からも追われる身であるという設定もあって。
つまり、善悪は敢えてグレーにしているし。他のキャラクターも、要するに善悪は敢えてグレーになるような描き方をしている。レイシスト丸出しな南軍チームだって、ちょっとグレーな描き方になっている。何より、お話の始まりの時点と終わりの時点で最もはっきり成長する、これはネタバレしないように「あいつ」って言っておきますけども。彼の成長譚として見ると、非常に感動的だったりもする。ということで、とにかく一方的に善が悪を断罪するタイプの話では今回はなくて。立場の違いから生じるヘイト(憎しみ)同士のぶつかり合いによる破滅。
それでも、立場の違いを乗り越える可能性はゼロではないという、ギリギリのかすかな希望。これを示す、非常にアダルトな今回はメッセージの作品だと思います。そしてそのメッセージの幅もまた豊かさのうちですね。ということで、時間の使い方、画面の使い方、メッセージの込め方、幅。全てが贅沢さ、豊かさ。そういうところを味わうべき作品ではないでしょうか。結果そして、誰も見たことのないタランティーノ映画にちゃんとなっているということで、偉い! ぜひ、劇場で、まあデジタル版でも十分です。見てください!
(ガチャ回しパートは中略〜来週の課題映画は、『ちはやふる 上の句』に決定)
以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。