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アメリカ初の女性副大統領誕生へ〜カマラ・ハリスをめぐる女性シンガーたち(高橋芳朗の洋楽コラム)

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10月から第2/第4木曜日にお引越し!

音楽ジャーナリスト高橋芳朗さんによる洋楽コラム(2020/11/12)

「アメリカ初の女性副大統領誕生へ〜カマラ・ハリスをめぐる女性シンガーたち」

アメリカ初の女性副大統領誕生へ〜カマラ・ハリスをめぐる女性シンガーたちhttp://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20161010040000

radikoで放送をお聴きいただけます(放送後1週間まで/首都圏エリア無料)

高橋:本日はこんなテーマでお届けいたします! 「アメリカ初の女性副大統領誕生へ〜カマラ・ハリスをめぐる女性シンガーたち」

高橋:日本時間の8日未明、アメリカ大統領選挙で民主党のジョー・バイデン前副大統領の当選が確実になりました。それに伴って、彼の指名を受けていたカマラ・ハリス上院議員が女性として史上初の副大統領に就任する見通しです。

スー:やったね!

高橋:今日はそんなアメリカの次期副大統領、カマラ・ハリスを取り巻く女性シンガーの楽曲を4曲紹介したいと思います。ではさっそくいってみましょうか。まず最初は「R&Bの女王」の異名をとるメアリー・J.ブライジ。蓮見さんもご存知ということで。

蓮見:はい、わかります!

高橋:そんなメアリーの2007年のアルバム『Growing Pains』収録の「Work That」を聴いていただきましょう。これはカマラ・ハリスが日本時間の8日未明に歴史的な勝利宣言を行なった際、ステージに上がるときに流していた曲ですね。実はこれ、カマラが去年の6月にSpotifyで公開したプレイリスト「Kamala’s Summer Playlist」の1曲目に選ばれているんですよ。

高橋:そのあと副大統領候補に指名された今年8月の民主党大会でも入場曲としてこの曲を使用していたから、もう実質的にカマラ・ハリスのテーマソングと考えていいのではないかと思います。出だしの歌詞はこんな内容です。

「女の子のなかには逃げてばかりのコもいるみたい/でも、困難を乗り越えればきっと美しい女王に成長できる/私の手のひらをのぞいてみれば、嵐がうずまいているのがわかるはず/私の自伝をひもといてみれば、耐え抜いてきたのがわかるはず/髪の長さや肌の色を批判されたとしても、さあ顔を上げて/だって、あなたは美しい女性なのだから/ランウェイを颯爽と歩いていこう。前進あるのみ/ガール、思いきり人生を楽しもうよ」ーーなんかもうカマラ・ハリスに当て書きされたような歌詞だと思いません?

スー:ねえ。「作詞:カマラ・ハリス」って感じ!

高橋:ホントホント。彼女のテーマソングとして完璧な曲だと思います。

M1 Work That / Mary J. Blige

スー:素晴らしいですねー。この曲にのせてカマラ・ハリスが出てきたときのかっこよさったら!

高橋:かっこよかったねー!

スー:選挙権ないのに盛り上がっちゃったもん。でも、超大国が変わっていけばおのずと世界も……ね。

高橋:うん。きっと波及していくと信じましょう。

スー:隠されたメッセージは広がっていくからね。いいんです、それで!

高橋:ちなみに、メアリー・J.ブライジは前回2016年のアメリカ大統領選のときにはApple Musicの企画でヒラリー・クリントンと対談しているんですよ。その際にはヒラリーの手をとってブルース・スプリングスティーンの「American Skin (41 Shots)」ーー1999年に無抵抗の黒人男性が4人の警官に41発の銃弾を受けて射殺された事件を題材にしたプロテストソングをアカペラで歌うという強烈な一幕もあって。今回もこうして大統領選のタイミングで存在感を発揮しているあたりは「女王」の面目躍如といえるのではないかと思います。来年1月の大統領就任式でのパフォーマンスも期待できるかもしれませんね。

では2曲目にいってみましょう。続いてはテイラー・スウィフトです。蓮見さん、テイラー・スウィフトは?

蓮見:はい、もちろん存じ上げています!

高橋:そのテイラー・スウィフトの「Only The Young」です。これは今回のアメリカ大統領選投開票日直前、10月30日に公開されたジョー・バイデンとカマラ・ハリスへの投票をうながすキャンペーン広告に使われていた曲で。

スー:いやー、テイラーもここ数年いろいろあったもんね!

高橋:そのへんを簡単に説明しておきましょうか。この「Only the Young」は今年1月にNetflixで公開されたテイラーのドキュメンタリー映画『ミス・アメリカーナ』のエンドロールで流れる曲で。『ミス・アメリカーナ』がどんな内容なのかというと、共和党支持者/保守層に支えられているカントリーミュージックを出自としているテイラーが、民主党支持/反ドナルド・トランプを表明するまでの動向を追ったドキュメンタリーなんですよ。

スー:テイラーは自分の政治的スタンスを表明しようとするんだけど、周囲のスタッフに猛反対されるのよ。「ファンがいなくなるぞ」「バッシングされるかもしれないよ」って。

高橋:なぜテイラーのスタッフがそういう危惧をしているのかというと、2003年にディクシー・チックスがイラク戦争に踏み切った共和党のジョージ・W・ブッシュ大統領を批判したことで保守層からの激しいバッシングにさらされたように、カントリー出身のアーティストが民主党支持を打ち出すことはめちゃくちゃリスキーな行為なんですよ。それでもテイラーは2018年のアメリカ中間選挙で民主党のサポートを決意するんですけど、彼女が支持していたふたりの候補は結果的に落選してしまうんです。共和党に敗れてしまったんですね。そこで、その悔しさをバネにしてテイラーがつくったのがこの「Only the Young」とういわけです。歌詞の大意を紹介しますね。

「今回は負けてしまった。でも、あの人たちは決着がついたと思っているかもしれないけれど、まだ戦いは始まったばかり。私たちを救えるのは唯一若者たちだけ。若者たちだけが走ることができる。若者たちだけが変えることができる。戦いに疲れたなんて言わないで。もうゴールはすぐそこ。走って、走って、変えるんだ」

こうしてテイラーが政治広告に自分の曲の使用許可を出したのはこれが初めてのことで。このテイラーの好意に対して、カマラ・ハリスは自身のツイッターを通じて「今回の選挙がなにを賭けた戦いなのか、若者たちに示してくれたテイラーに感謝します」と彼女への謝辞を投稿しています。

この「Only the Young」でテイラーが歌った「若者たちだけが変えることができる」というメッセージは、カマラ・ハリスが勝利宣言で語った「すべての少女たちは今夜のこの場面を見てこの国は可能性に満ちた国であることがわかったはずです」というスピーチに通じるものがあるんじゃないかと思います。

M2 Only The Young / Taylor Swift

スー:この曲のメッセージを受けて「若者じゃなくたって変えられるよ!」って言う人もたくさんいると思うんです。だけどそうじゃなくて、これは今日の11時台の生活情報コーナーで蓮見さんが紹介してくれた左利きの道具店と同じ話で。左利きの人じゃないとわからない不便さというものが確実にあるんですよ。そんな社会を変えられるのは、やっぱり左利きの人たちということ。状況を変えられるのはいまそこにいない人たちなんだってことなんだよね。

高橋:うん、テイラーは未来に希望を託しているわけですよね。続いて3曲目はアリアナ・グランデ。彼女は2017年5月に開催したマンチェスターのコンサートがテロの標的にされて、本人にとっては不本意だと思いますがその一件によって日本でも広く名前が知られるようになったという。

蓮見:22名もの方がお亡くなりになりましたよね。

高橋:本当に卑劣な事件でしたよね。アリアナはあの事件以降アクティビストとして精力的に社会活動を行なうようになるわけですが、彼女もテイラー・スウィフトと同様に熱心な民主党のサポーターで。去年の7月には当時大統領選の出馬を表明していたカマラ・ハリスの講演会に出席して彼女と対面も果たしています。

これから紹介するのはアリアナが大統領選投票日の10日前、タイミングとしては大統領選最後の討論会が終わった直後の10月23日にリリースしたニューシングル「positions」です。この曲、サビの「Switchin’ the positions for you」(あなたのためならなんでもするわ)という歌詞に象徴されるように曲単位で聴く限りではセクシーなラブソングといった印象を受けるんですけど……。

スー:そうなんだよね。でもしかし!

高橋:そう、ミュージックビデオを見るとこれがダブルミーニング/掛詞であることがわかるんです。どんな内容のビデオかというと、大統領に扮したアリアナ・グランデがさまざまな人種の女性で構成されたスタッフを引き連れてホワイトハウスで職務にあたっている様子を描いていて。つまり、この曲のタイトル「positions」は女性の社会的地位を意味しているんですね。要はラブソングを装った女性の地位向上と社会進出を歌ったエンパワメントソングなんですよ。

今回の大統領選ではアメリカ初の女性副大統領が誕生する見通しになったわけですけど、同時に行われた連邦議会選挙でも女性議員の当選が過去最多になって。そんな歴史的なタイミングで全米チャートの1位についていた曲が、女性の地位向上を歌ったこのアリアナ・グランデの「Positions」だったという。

スー:文字通り「Switchin’ positions」なんですよ!

蓮見:なるほど!

高橋:これ、当然アリアナは狙ってやっていますからね。このタイミングで1位になることを狙ってリリースしているわけです。これぞアメリカのエンターテインメントのダイナミズムですよ。

スー:うん、伊達に長いポニーテールしてないんだよ!

M3 positions / Ariana Grande

高橋:では最後の曲、リゾの「Like a Girl」です。こちらは2019年の作品。リゾは今年のグラミー賞で最多ノミネートを達成した歌手でありラッパーですね。彼女は今年の9月にカマラ・ハリスとInstagramライブで選挙に関するディスカッションを行なっています。

カマラ・ハリスはリゾの大ファンのようで、先ほど触れた彼女が2019年に公開したプレイリスト「Kamala’s Summer Playlist」でメアリー・J.ブライジの「Work That」の次、2曲目に選んでいるのがこのリゾの「Like a Girl」なんですよ。この曲、タイトルの「Like a Girl」は「女の子らしく」という意味なんですけど、歌詞は一般的に女の子らしくないとされていることをひたすら羅列していく内容で。

スー:はい、最高です!

高橋:しかもこれ、曲の出だしがいきなり「今朝は気分良く起きられたから大統領選にでも出馬しようかって勢い/女性大統領の前例がなくたって知ったこっちゃない/スローガンなんて変えちゃえばいい」という一節で始まるんですよ。去年の6月、すでに大統領選の出馬を表明していたカマラ・ハリスがこの曲をプレイリストの2曲目に選んでいた意図を考えると、これはなかなか興味深いものがあるなと。そして「女の子らしく」というタイトルに反して逆説的にウーマンパワーを讃えるこの曲のメッセージも、カマラ・ハリスの勝利宣言のスピーチ、少女たちに可能性を提示したあの素晴らしいスピーチに通じるところがあるのではないでしょうか。さらに付け加えるならば、歌詞のメッセージからすると4年後のカマラ・ハリスのテーマソングは「Work That」ではなくこの「Like a Girl」になっているかもしれませんね。

スー:楽しみですねー。ドラマがございますから!

蓮見:未来も見据えた話なんですね。

M4 Like A Girl / Lizzo

高橋:というわけで、カマラ・ハリスにゆかりのある女性シンガーの楽曲を4曲紹介しました。このカマラのケースに限らず、アメリカでは政治と音楽、生活と音楽が非常に密接な関係にあることをこの一週間で改めて見せつけられましたね。

スー:ねえ。本当に。

高橋:今後も来年1月の大統領就任式に向けて音楽業界でいろいろな動きが出てくると思うので、そのへんもこのコーナーで逐一ご報告できたらと思っています。

スー:あとヨシくんのこういうアメリカの音楽と政治の話がおもしろいと思った方におすすめなのが、ヨシくんの新刊『ディス・イズ・アメリカ 「トランプ時代」のポップミュージック』。好評発売中です!

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高橋 芳朗
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高橋:2104年から現在まで、激動のアメリカ社会のなかでポップミュージックがどんなことを歌ってきたのかをまとめています。このタイミングにばっちりな一冊なのでぜひチェックしてみてください!


 


宇多丸、『ウルフウォーカー』を語る!【映画評書き起こし 2020.11.13放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『ウルフウォーカー』20201030日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今週扱うのは、1030日に公開されたこの作品、『ウルフウォーカー』

(曲が流れる)

はい。4度のアメリカ・アカデミー賞ノミネートの実績を持つアニメーションスタジオ、カートゥーン・サルーン最新作。『ブレンダンとケルズの秘密』『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』に続くケルト3部作の最終作でもあります。眠ると魂が抜け出し、狼になるというアイルランドのウルフウォーカー伝説を題材に、狼ハンターを父に持つ少女ロビンとウルフウォーカーの少女メーヴの冒険を描く。過去二作の監督トム・ムーアと、本作で監督デビューしたロス・スチュアートが共同で監督を務めた、ということでございます。

ということで、この『ウルフウォーカー』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「少なめ」。あらま。なんですけど、公開館数がね、そんなに多くないですからね。ですが、賛否の比率は、ほとんどが褒める意見で、全面的に否定する意見はありませんでした。非常に評価が高いです。

褒める意見の主な内容は、「どのシーンもまるで絵画のような美しさ。街と森とで背景美術の表現が違うなど、アニメーションらしいアイデアが詰まっている」「話のテンポもよく、自然破壊や人間同士の抑圧などメッセージもスマートに伝わってきた」などがございました。アニメーション技術の見事さについては、『羅小黒戦記』や『スパイダーバース』などを例に出しながら褒める声も多かったです。

一方、ごくわずかな否定的な意見……まあ、全面的に否定してる方はいらっしゃいませんでしたが、こういうところがいまいちだったという意見としては、「ラストが丸く収まり過ぎ」とか「画はいいが、ストーリーがいまいちだった」といったところがございました。

■「アート性とエンタメ性がものすごく高いレベルで両立できている」byリスナー

代表的なところをご紹介いたしましょう。まずはラジオネーム「ギリギリおすぎ」さん。「『ウルフウォーカー』字幕版を見てきました。大傑作だったと思います。この感動をどうしてもお伝えしたく、勤務時間中ではありますがデスクにて上司や同僚の目を盗みながらこの文章を書いております。私のように仕事や日常の中で抑圧を感じる全ての方が勇気をもらえる作品ではないかと思います」という。主人公ロビンのようにね、いろんな目をかいくぐってメールを書いていただいている(笑)。ちょっと話が違うんじゃないか、という気がしなくもないが、そこは置いておこう。

この作品の素晴らしさはアート性とエンタメ性がものすごく高いレベルで両立できている点にあります。まず画が美しい。どのシーンで一時停止してもまるで絵画や絵本の1ページのように見えるのではないでしょうか? ラフな線をあえて残すことでキャラクターや大自然の躍動感が生き生きと伝わってきました」。そうですね。今回は特に、これまでのカートゥーン・サルーン作品と比べても、輪郭線がちょっとラフな、ちょっとガッと太い、時にはみ出た線とかになって。これが非常に生命感に溢れてる、というのはたしかにありますよね。

「この『リアル』とはひと味違うビジュアルが物語の寓話性を高める上で大きな仕事をしていたと思います。アニメーション技術そのものに感動させられるこの感覚、私は『スパイダーマン:スパイダーバース』や『かぐや姫の物語』を連想しました。『あなたのことを思って言ってるんだよ。あなたのためなのよ。わかってくれるよね?』といった大人の言動がロビンを檻の中へと閉じ込めていきます」。しかもね、これ、ロビンが同じセリフを、後半で繰り返してしまうんですよね。これも非常に見事な作劇でしたね。

「これらは『善意からだけに尚厄介』です」という、これはRHYMESTERの『余計なお世話だバカヤロウ』の一節ですね。「ですが、ぶっちゃけ的外れなおせっかいでもあるわけで、彼女が抑圧から解放され、自由に森を躍動するシーンには強いカタルシスがありました。もちろん、ロビンの父親の顛末にはグッときたし、メーヴ&ロビンのシスターフッド作品としても問答無用に面白かったですよ」というギリギリおすぎさん。

一方、ちょっとよくなかったという方。「オムライス食べ太郎」さん。「カートゥーン・サルーンの前作の『ブレッドウィナー』がとてもよかったので今作も期待していたのですが、期待通りでした」と。まあ、すごくよかったということも書いていただいて。「ただ個人的にはラストが丸く収まり過ぎているのが物足りなかったです。彼女たちの生活にはまだいろいろあるはずなのに、『新天地で幸せに暮らしました。めでたし、めでたし』で終わってるように見えてしまいました。テーマ的に、抑圧や男性中心主義からの解放や自立には、物語の終わりの先、みたいなものがあってもよかったと思います」という。

はい。まあこの終わり方に関しては、私なりの意見みたいなのもありますので、後ほど言ってみたいと思います。

■アニメーション表現の最前線にして現状の到達点、文句のつけようもない一作

ということで、皆さんメールありがとうございます。私も『ウルフウォーカー』、久しぶりに恵比寿ガーデンシネマに行って、2回、見てまいりました。ちょっと今週、どうしても時間が合わず、日本語吹替版は拝見できておりません。申し訳ございません。こっちも非常に出来がいいなんてことも聞いております。

ということで、この僕の映画時評コーナーで、このカートゥーン・サルーンというアイルランドのアニメーション会社の作品を扱うのはこれが初、ということになってしまいましたが。ただ、この『アフター6ジャンクション』という番組では、実は2018918日(火)、土居伸彰さんをお招きしての「最新インディペンデント・アニメ入門特集」という中で、このカートゥーン・サルーンの作品、先ほども名前が出てます2009年のこれ、最初の長編作品ですね、『ブレンダンとケルズの秘密』。そして、2016年『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』という、その『ウルフウォーカー』に連なる通称ケルト三部作の前二作と。あとは2017年のこれ、『ブレッドウィナー』というタイトルでも劇場公開されていますが、Netflixなどではね、『生きのびるために』という日本タイトルが付いて見れる作品でもあります。『生きのびるために』=『ブレッドウィナー』、要はタリバン支配下のアフガニスタンで生きる少女の話なんですけど。

これらの、その時点までのカートゥーン・サルーン作品を、この土居伸彰さんにご紹介いただきました。そこで土居さんね、説明の仕方として、「実験的だが娯楽的」「昔は短編でしかできなかった実験が、今は長編でもできるようになった」という、まあ世界的なそのインディペンデント・アニメーションシーンの潮流と重ねて説明してくださいましたけども。

その意味で今回の『ウルフウォーカー』もまさしく、先ほどのメールにあった通りですね、アート性の高い実験的手法と、エンターテイメントとしてもしっかりと質が高い、確かなストーリーテリング力。さらには、現実の歴史や社会問題をその中に織り込んでみせる、意識の高さ。アート性、エンタメ性、社会性、全てが非常に高いレベルで、しかもバランスよく長編アニメとして結実した、まさにアニメーション表現の最前線にして現状の到達点、と言っても本当に大げさではないような、それはそれは見事な……僕はつい何度もこの表現を使いたくなってしまうんですが、「文句のつけようもない一作」だ、という感じになっております。

特にですね、カートゥーン・サルーン作品としても……ちなみにこのカートゥーン・サルーンという会社、先ほども「4度のアカデミー賞ノミネート」って言っていましたけども、とにかく、これまでに作った長編全てがアカデミー賞ノミネート、というすごい集団なわけですけども。それで、そのカートゥーン・サルーン作品としても今回の『ウルフウォーカー』は、これまでの集大成にして、さらにネクストレベルにちょっと進んだ一作とも言えるものになっていて。

■街や人間が四角、森や狼の世界は丸。手法は実験的だが、誰もが見て分かるその効果

たとえばカートゥーン・サルーン、特に今回も監督をしていらっしゃいますトム・ムーアさんという方が得意とする、手描き2Dアニメーションならではの、あえての平面的な、非常にグラフィカルにデザイン、様式化された、まさにアートアニメ的な表現っていうね。たとえば今回、共同監督になっていますロス・スチュアートさんと実は一緒に演出した、オムニバスというか、複数のアニメ監督が参加した2014年の『預言者』という作品があって。この中の『On Love』っていう……まあ「愛について」みたいなことかな、『On Love』っていうパートは、完全にクリムトの絵画風に描かれていたりして。

ちなみにこの、平面的にデザインされた、まさにアートアニメ的な表現っていうのは……これね、この番組にも出ていただいた叶精二さんのツイートっていうのを、番組構成作家の古川耕さんに教えていただきまして。なんとトム・ムーアさんは、あのミッシェル・オスロさんに師事した、ということなんですね。『キリクと魔女』とか『ディリリとパリの時間旅行』なんていうのもありましたけども、ミッシェル・オスロさんに師事していた時に、その平面的レイアウトや美術のやり方みたいなのを学んだ、ということらしくて。本当に筋金入り、というね。まあ、とにかくその平面的なデザインという。

今回も、人間が住む世界……まあ本当に『進撃の巨人』よろしくというか、『ゲーム・オブ・スローンズ』よろしくと言いましょうか、あとは『ブレンダンとケルズの秘密』でも出てきましたけど、壁で囲まれた人間が住む世界、街の中を描く際の、文字通り本当に「四角四面」という言葉が比喩じゃない、本当に「四角」ですね、直線と平面で、堅苦しく狭苦しく重苦しく、それでいてのっぺりと、平面的に構成、表現された絵面、っていうね。

これはまあ、パンフレットに書かれた監督インタビューによれば、ポーランドの版画家のマルタ・ワクラさんという方の作品を参照した、ということらしいですけどね。まあ、そういう昔の版画っぽく、色がちょっとはみ出て、ズレて表現される……ちょっと輪郭線からズレて出ていたりする、なんか昔の版画の感じ、みたいなのを表現していたりする。

それがその人間の街、とにかく四角四角していて、押し込まれていて、っていう、そういう絵ヅラに対して、対照的に、丸みを帯びた、線のタッチも鉛筆とか水彩画風で柔らかい、森の中、狼たちの世界の対比……先ほどね、(金曜パートナー)山本匠晃さんも言ってましたけど。要するに街、人間が、四角四角っていう、四角のモチーフで描かれるのに対して、森の中とか狼の世界は、丸とか円とかっていうモチーフで描かれていく、ということですね。やっぱり円というのは当然、調和とか、地球全体っていう、ガイア的なところも表わしているとも言えるでしょうね。

とにかく、それが視覚的に表わされている。こちらはエミリー・ヒューズさんという方の絵本とか、シリル・ペトロサさんという方のイラストを参考にしたなんて言ってますけど。とにかくこんな感じで、2D手描きアニメならではの表現の可能性を、しかも、ストーリーテリングと不可分な……つまり、誰の目にも効果が明らかな構造の中で、いろいろと追求してみせている、という、まさにカートゥーン・サルーンの真骨頂!っていう感じですよね。

つまり、人間の街中は四角。森の中は丸。あるいはその線描の、その線自体が違う。これがもう、お話と一致してるから。どんなちっちゃい子が見ても……手法としては実験的なのに、それらがもたらす効果とか意味っていうのは、誰が見ても、ちっちゃい子が見てもわかる、という。見事なもんですよね。それが非常に今回の『ウルフウォーカー』、さらに洗練された形で展開されている。その上にですね、今回の『ウルフウォーカー』、過去作とちょっと違うところもあって。

■本作は誰もがコミットできるアクションエンターテイメント

要はですね、アクション性が、過去作と比べて非常に高いんですね。アクションエンターテイメントなんですね。故にですね、まあ3D的なと言うんでしょうかね、奥行きの表現……まあ、アクションですから当然、空間を使った動きが出てくるわけで。奥行き表現、格闘であるとか、逃走であるとか、追跡であるとかっていう奥行き表現も、要所で非常に効果的に使われていたりする。たとえば、本作でも非常に印象的なパートだと思いますが、狼から見た主観視点というか、「狼から見た世界はこう見えているよ」という描写。

つまり、人間のように視覚が中心ではなく、嗅覚や聴覚がより豊かという、そういう知覚世界っていうのを織りなしているその狼の主観を、やはりアニメならではの抽象性を利用して、視覚化してみせている、というショットたちなどには、今回は2D手描きだけではなくて、3Dのソフトウェアも活用されているということですし。

あと、クライマックスに向けて、どんどんすごくアクションシーンが加速していって。非常にスリリングなアクションシーンが続くんですけども、やはりここはですね、アクションといえば日本のアニメ表現……井上俊之さんもおっしゃっていました、日本のアニメの空間表現が非常に優れてるっていうのもありますけども、日本のアニメとか、僕は個人的には特に、日本のマンガ表現の影響を強く感じました。まあもちろんトム・ムーアさんは、ジブリから非常に強く影響を受けてますよ、っていうのは公言してたりするんですけど。

これ、どういうことかっていうと、カートゥーン・サルーン作品はこれまでも、画面分割(スプリット・スクリーン)っていう、要するに画面を線で割って、同時に進行している事柄を、ひとつの画面の中の割った画面の中で見せる、っていう……皆さんもご覧になったことがあると思いますが、要所でそれを、やはりグラフィカルに活用してきて。今回も、たとえば主人公のロビンが労働をさせられている、というシーンなどで、とても効果的に使われていましたね。こういう風にあえて左右対称で……要するに非常に閉塞感がある、それから繰り返し感がある、というような状態を描いていていて。そこはスプリット・スクリーン、非常に効果的な使われ方をしてるんですけど。

クライマックス周辺のアクションシーンになると、このスプリット・スクリーンの使い方が、まるで日本のマンガ独特のコマ割りのように機能させられていて。つまり、たとえば狼が向こうからバンバンバンッて来るところを、スプリット・スクリーンでコマ的に割ることで、だんだん奥からガンガンガンッ!って、ボンボンボンッ!って、段階的に近付いてくる、というような感じ……非常に奥行きを感じさせるダイナミックな動き、しかし同時に、非常に平面的な、グラフィカルな表現でもある、っていう。

だから、奥行きも感じさせるけど、平面的でもある、っていう。非常にすごい面白いなっていう……日本のマンガ的だし、そこから発展していった日本のアニメ的な文法というのも、今回は非常に取り入れてると。で、お話としても、今回はっきり、「倒されるべき悪役」というのが置かれていたりして。この悪役、要するに凝り固まった自分の思想、信仰とかっていうのと、自分の歪んだ欲望とかがもう混ざっちゃっていて、よく分からなくなっている。なのに自分の正しさというのは疑わない、というこの厄介さ。

ちょっと悪役の置かれ方としては、『ノートルダムの鐘』のクロード・フロローっていうどうしようもないやつがいましたけども、あいつをちょっと思い出したりなんかしましたけどね。まあ、悪役がはっきり置かれてる。倒されるべき悪役が置かれてるっていうことは、物語が進むべき方向も明確、ということでもありますから。過去作に比べても一際、シンプルでわかりやすい。誰もがコミットできるアクションエンターテイメントになっている、というのも、カートゥーン・サルーン作品としては新境地のあたりではないかなと思います。

「現実のアイルランドの歴史」をベースに、アイルランドの歴史や宗教対立、性差による抑圧を描いている

しかもそのベースになっているのは、ケルトの伝説であり、そしてここが重要。「現実のアイルランドの歴史」っていうことですね。今回、非常に実はもろに、結構ゴリゴリ現実をベースにしているところがあります。たとえば、さっき言った悪役。護国卿って言われてますけども、明らかにこれ、オリバー・クロムウェルがモデルになっていますよね。オリバー・クロムウェル卿。最初、「1650年」という風に字幕が出ますから、ちょうどこのイングランドから来たオリバー・クロムウェルが、アイルランドに侵攻して、事実上の植民地支配をしていた、まさにその時期、その時代なんですよね。

で、その彼が象徴しているものっていうのは、プロテスタントを基盤とした近代西洋社会のシステム……まあ、後に資本主義社会として発展していくようなそういうシステム。世界の全てを支配、コントロールしようとするその思想のもとで、環境破壊……まあ環境破壊されていくその対象、象徴として、当然、狼がいる。狼っていうのは、キリスト教の中でも害獣として扱われてきましたからね。だから、ケルトの元々あった土着信仰に対して、キリスト教でも特に新しいプロテスタントという思想の中で害獣として駆除されていく狼、というのが、シンボルとして扱われている。環境破壊、そして、社会格差。

もちろん、そのアイルランドとイングランドという、そういう国家、民族間での格差、差別というものもありますし。そして、性別による抑圧というのが行なわれている。それに対して、そのケルト伝説の領域で、森の描写っていうのは、前述した通り、目で見てわかる違い、というのが出てくる作りになっている。これ、本当に素晴らしいですよね。で、こんな感じで、現実の歴史や社会問題というのをアニメーション作品に織り込んでいく、っていうのは、たとえば先ほどからメールでもありましたけど、『生きのびるために』=『ブレッドウィナー』という作品でも、カートゥーン・サルーンは本当に見事にやってのけていたことではあるんですが。

今回の『ウルフウォーカー』では、それがですね、たとえばまさに『ヒックとドラゴン』とかね、ああいうのにも通じるような、人間と動物、人間と自然の共存・バディ化っていう要素もありますよね。そういうジャンルとしても非常に楽しめるようになってるし。なによりも「街の子」ロビンと、「森の子」メーヴ。この、対照的に見えて実は本当に通じあってる2人の少女。まあ2人の少女が、いがみ合いながらも……そのいがみ合いが、だんだんだんだん近づいていくようなプロセス。あそこの楽しさ、幸せさ、みたいな。このあたりは本当にぜひ、直接見ていただきたい。

この2人の少女の、まさにシフターフッド物……この番組でもね、シフターフッド特集をやったばかりなんで、非常に皆さん、その言葉が浮かんだあたりかと思います。シフターフッド物として、非常に楽しめる。特にロビン側にとっては、そのメーヴとの交流を通して、さっき言ったような社会の性的抑圧から自ら脱していくことになる……要するに女性の自立成長譚として、しっかりカタルシスがある。それが、子供にもすんなり理解できるし、見られるという、非常に現代にふさわしいエンターテイメントに仕上がってるあたり、やはりさすが三部作最終作、といったあたりじゃないでしょうかね。

■一見カタルシスのあるラスト。しかし見た目ほど甘くはないのでは?

しかも、この女性たちが解放されていく、っていうことが、イコール男性にとっても……ここではその、ロビンの父親ですね。男性にとっても解放に繋がっていくんだ、という、この視線がしっかり入ってるところも、非常に今日的。女性の解放を描く作品の中で、その男性側にとってだって……っていうあたりを描くというのも、本当に、今年扱ったいろんな作品に通じる視点ですよね。非常に今日的で、優れた視点じゃないでしょうか。ただ、「カタルシスがある」と言いましたけども、そのカタルシス、「丸く収まっちゃって甘いんじゃないか?」という意見もありましたけど、僕の解釈ではこれ、見た目ほど甘くないものだ、という風に思っております。

カートゥーン・サルーンのこれまでの作品、実は、どの作品にも共通するテーマがあってですね。それは、「物語の力」っていうことを、いつも言っているわけです。厳しい現実、残酷な現実に対して、人間が尊厳を持って生きていくための、唯一にして最高の手段。それはつまり、ストーリーを語り、そして語り継いでいくこと。物語の力、それはたしかにあるんだよっていうことを、カートゥーン・サルーン作品は、毎回と言っていいぐらい繰り返し語っていて。

特にアニメーションという、要するにある意味全てを、世界を、丸ごと作る……アニメーションっていうのは、全部が作り事なわけですよね。その全てを「作る」ことで初めて世に、この現実に現われる表現だからこそ、現実に対抗する手段としての物語であり、その表現、というこれ(メッセージ)が、非常に力強く説得力を持って響く、という。そんなテーマを毎回カートゥーン・サルーンはやっているし、アニメーションスタジオがそれを言うということの説得力、重み、というものもあるわけですけども。

今回の『ウルフウォーカー』の中にはしかし、一見するとそういう、物語論的なね、そういう話を直接している場所はないわけです。あえて言えば、さっき言った護国卿、悪役側が、その自分に都合のいいストーリーでアイルランドの人々をコントロールしようとしている、という。ある意味「悪の物語」っていうところが出てくる部分はありますけど。これまでの作品と違って、直接的に物語論的なことを言ってるところはないんですけれども。

ただ、よくよく考えてみればですね、あのラストは、もちろんさっきから言っているようにしっかりカタルシスがある、一応のハッピーエンドということになってるわけですけども……これ、よくよく考えてみれば、現実にはですね、我々の世界を見渡してみても、現実には狼は、やっぱり絶滅しかけていっているわけですよね。もうほとんど絶滅に近いような状態になっちゃっていくし、アイルランドの苦難も続いてくし、近代化が世界を覆い尽くしていくわけですよね。

つまり、今回のこのエンディングは、非常にものすごく楽園に行ってめでたしめでたし、ってなりますけど、明らかに絵空事なわけです、このエンディングだけ。そこが重要で、このエンディングを含めた全体が、そのカートゥーン・サルーン作品における物語の力……毎回繰り返し語られてきた物語の力そのもの、現実に対する祈りを、全体に今回は託してるというかね。エンディングも含めて託してる、ということではないかという風に私は解釈いたしました。

■文句のつけようもない。『鬼滅』もいいけど『ウルフウォーカー』もね! 

まあこのへんはね、いろんな見方があってもいいと思いますし、うがった見方という部類かもしれませんけども。

ということで、まとめますけどね。まずはとにかく、日本アニメが培ってきた文法とはまた違った……しかしその日本アニメが培ってきた文法の良ささえも取り入れた、アニメーション表現の新たな可能性が、しかし誰の目にもわかりやすく、面白く感動的な物語と一体化して、展開されていく。特にその、主人公ロビンとメーヴの動きとか表情ひとつひとつの、豊かさ、愛らしさ。あるいはその2人が、直接こうやって動きとして絡む時の、その動きそのものがはらむ楽しさ、ワクワク。それ自体がはらんでいる感動。

なんか一緒にこうやって、わーってやるの、楽しいね! 動くの、楽しいね!っていうこの感じ……これはもう本当に、画面を直接見て味わっていただくしかないわけですけども。そしてその向こう側には、さっきから言ってる現実の歴史と、今に必要な確かな視座、というものもある。ということでですね、何度も言いますけども、文句のつけようもない!ということなんですね。これはね。

今ね、『羅小黒戦記』、そしてこの作品『ウルフウォーカー』、そして今週から公開が始まる『ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒』、いろんな、それぞれ全く違う方向から優れた作品が……もう「国際アニメフェア」状態が続いているわけですよね。そのどれもが最上級!という状態になっていて。なので、本当にもう改めて言いますけど、『鬼滅』もいいけど『ウルフウォーカー』もね! ということで。ぜひ劇場でウォッチしてください。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

宇多丸、『ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒』を語る!【映画評書き起こし 2020.11.20放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は『ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒』20201113日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今週扱うのは、1113日に公開されたこの作品、『ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒』

(曲が流れる)

KUBO/クボ 二本の弦の秘密』などのスタジオライカが手がけたストップモーションアニメーション。ヴィクトリア朝時代のロンドン。未確認生物発見に執念を燃やす探検家ライオネル卿のもとに、伝説の存在ビッグフットの居場所が書いてある手紙が届く。人類と類人猿とを繋ぐ『ミッシング・リンク』であるビッグフットを見つけるべく、ライオネル卿は冒険の旅に出る……声の出演はヒュー・ジャックマンをはじめ、『ハングオーバー!』のザック・ガリフィアナキスやゾーイ・サルダナ、エマ・トンプソンらという豪華キャストが集結です。

監督は、『パラノーマン ブライス・ホローの謎』を手掛けたクリス・バトラー。第77回ゴールデングローブ賞で最優秀長編アニメーション映画賞を受賞しました。これはストップモーションアニメーションとしては史上初、ということで、快挙となっております。

ということで、この『ミッシング・リンク』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、なんか後半ググッと増えてきて、「普通」というところまで行ったみたいです。公開館数とか規模を考えれば、なかなかの健闘と言えるんじゃないでしょうか。

賛否の比率は、全面的な褒めが半分。残り半分は「よいけど全面的には褒められない」という意見。ああ、そうですか。割れちゃったんだ。褒める意見の主な内容は、「パペットアニメーションがすごい。愛らしさはもちろん、今回はアクションもスリリング」「世界中を旅する冒険活劇として楽しい」「古い価値観にとらわれていた主人公が自分の居場所と相棒を見つけるストーリーに感動」などがございました。

一方、否定的な意見としては、「ストーリーが薄くていまいち。散漫な印象を受けた」「主人公が最後まで好きになれなかった」などがございました。

■「『眼福』とはこの映画のための言葉と言っても過言ではありません」byリスナー

ということで、代表的なところをご紹介いたしましょう。ラジオネーム「ありばる」さん。「見る幸せを心から感じた作品です。『眼福』とはこの映画のための言葉と言っても過言ではありません。自分が10代の頃に出会っていたら、人生変わってたレベルの映像体験でした。水のきらめき、洋服や革手袋の質感……」。手袋もたまんねえなあ!

……皮手袋の質感、装飾の豪華さと旅する先々の風景の美しさと雄大さ。中でも一番驚いたのは、ミスター・リンク(ビッグフット)の瞳の表情の豊かなこと」。そうだよね。瞳の中もだよね。顔の動きだけじゃない。「……瞳の表情の豊かなこと。オスカー主演賞レベルです。(主人公の)ライオネル卿が勝手に名付けたミスター・リンクという名前に意味を感じます。このビッグフットは大昔の人類進化の証拠ではなく、これからの世界の考え方の進化を体現した存在。今と未来を繋ぐ存在でした」ということで。ちょっとこれ、間に書いていただいてることは、私的に考えると伏せたいあたりなので、ここは伏せさせていただきます。

……自分の利益しか考えない以前のライオネル卿や、変化を全く受け入れない(ヴィランの)ダンスビー卿が生きた化石、という皮肉。周囲に理解者がいないライオネル卿と、ずっと孤独で寂しかったミスター・リンクが友情で繋がる(リンクする)物語。改めて『ミッシング・リンク』とはさまざまな思いや意味が込められた深く素晴らしいタイトルだと感心しました」という。未来に繋がる(リンクする)という意味でのミッシング・リンク、さらには人と人との間の孤独をつなぐリンクなんだという、そういう意味が込められていて見事なタイトルだ、というご意見でございました。

一方、ちょっとよくなかったという方もご紹介しまししょう。「Suggy-MO’(スギーモー)」さん。この方も「ストップモーションアニメーションとして非常に質が高い、もう奇跡のような出来だ」とまで言いつつ……たぶんそこを否定する方は1人もいないと思うんですが。「私はストーリーがちょっと弱いと感じてしまいました。アクションは素晴らしいんです。ですが、ストーリーを動かすポイントがほぼセリフによるものだったように私は感じました。特に残念だったのがクライマックスで、本作は主人公ライオネル卿の精神的成長をストーリーの核としているはずなのに、成長するきっかけが『昔の恋人に説教をされたから』にしか私は見えませんでした。何かしらの行動で示してほしかった」ということで。これはたしかに一理あるご意見ではあるなと。

ただ、この場面の演出に関しては、ちょっと僕、この作品が贔屓すぎて……贔屓目かもしれないけど、この場面の演出に関しては、それだけでもないんです、というのは、後ほどちょっとひとつ、言いたい。あと「最後の最後、倒すべき相手をライオネル卿が倒したというより、相手が○○したように見せてしまったのももったいないのでは……と思いました」という。これもね、すいません! 僕はこの作品、贔屓なんで(笑)。ちょっと私なりのフォローみたいなのはありますけどね。

「そもそも主人公は人格に問題がある人物として描かれているわけですから、もっと通過儀礼として深いどん底に落ちる必要があったかと思います」という。すいません! 僕、もうこの作品を贔屓しちゃってるんで(笑)、これに関してもちょっと僕なりのフォローが……まあ、好きになっちゃった作品ってそういうもんでしょう? でもまあなかなか、よくなかったというか、ピンと来なかったっていう方の意見も、たしかに一理あるなという風には思いました。

■本当は「今回もスタジオライカ、超最高!」で済ませたい

ということで、皆さんメールありがとうございます。私も『ミッシング・リンク』、今回バルト92回、見てまいりました。スタジオライカ最新作。「今回もスタジオライカ、超最高! 以上!」ってことでいいと思うんですけどね。はい。まあとにかく、今まで発表してきたいろんな作品……いずれ劣らぬストップモーション・アニメーションの革新的傑作を次々と送り出してきた、もはや完全に信頼のブランド、スタジオライカ。

だからもう、スタジオライカが新作をやるとなれば、当然行く! ぐらいだと思ってください。皆さん、本当に。これはある種、もうピクサー以上にというか……っていうのはね、一作を作るのがめちゃくちゃ大変なスタジオなんで、(新作が)なかなか来ないんですよ。前作からもう、公開年で言うと3年空いたのかな、2016年から2019年だから、3年空いて。日本だと、4年空いたわけですからね。

で、さっきもちょっと言っちゃいましたけども、そもそもストップモーション・アニメ。改めて言うと、基本、1……当時のフィルム、昔のフィルムで言う1秒間に24コマ。まあ今でもね、デジタル的にも、24コマという扱い。人形……パペットなんて言いますけども、人形などを少しずつ動かして、それで1コマずつ撮影していくという。いわゆるコマ撮りで動いてるように見せる、という、非常に原初的というか、特殊技術、映像技術ですけども。

ストップモーション・アニメって、もうそれだけで半ば自動的にわくわくしてしまう、というのはこれ、私だけなんでしょうか? そんなことはないですよね。というのは、やっぱりですね、おそらく……これもさっき、ちょっとね、番組オープニングで言っちゃいましたけど。

TENET テネット』の逆回しとかともちょっと通じるあたりで、コマ撮りっていうのは、映像という方法でしか表現し得ない……つまり映像の中にしか生じない時空間、という、最も根源的な驚き、わくわくというのを呼びさますからではないかな、という風に私は思っています。

■アメリカでは歴史的大コケ……いやさ、採算度外視の奇跡的一作

で、ですね。とにかくそのスタジオライカ。私は以前、『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』という作品を2017122日に評してまして。こちら、書き起こしがありますので、そちらも参照していただきたいのですが。まあストップモーションアニメーション、パペットアニメーションという、言ってみれば最も古い部類に属するような映像技法を、最先端の技術を駆使することで……たとえば、発達した3Dプリンターによって、ものすごい数の顔の表情を作り出し。あと、先ほども(メールに)あったように、瞳の表情までも作り出し。微細な、繊細な感情表現を可能にしたりとか。もちろんCGIなども、必要な部分にはしっかり使うことで、ストップモーション・アニメの表現領域を、大幅に進歩・拡大してみせ続けている。

それで当然のごとく、高い評価を受けているという、そういう会社なわけですね。スタジオライカ。なので、初めて見た方は、「これ、本当にストップモーションアニメなの?」っていう感じがするぐらいだと思うんですけど。で、そのライカがですね、先ほど言いました2016年の『KUBO/クボ』以来……これも大傑作でしたね。名作でした。1億ドルとも言われる過去最大級の制作費と、当然さらに気が遠くなるような労力を投入して完成させた、今回の『ミッシング・リンク』。

しかも監督・脚本は、あの『パラノーマン』……これまた大傑作、大名作『パラノーマン』の、クリス・バトラーですから、悪かろうはずがない。そして実際、本当に最高!としか言いようがない作品なんですけど。ただですね、言ってしまうと、先ほども言いましたが本国アメリカでは、20194月に劇場公開されたんですが、歴史的大コケになってしまった。つまりその、コロナとか関係なく、です。純コケです。コロナとか関係ない純コケで、大コケしてしまって……という。100億円からの赤字を、配給のユナイテッド・アーティスツに与えてしまったという。

まあ、たしかに、ライカ史上初めて子供が主人公じゃなくて、おじさんと……しかもとっつきづらそうな、はっきりと性格の悪いおじさんと(笑)、よくわかんないモンスターがメインな感じ、ってことでね。まあ、少なくとも拡大公開されるファミリームービーとしては、キャッチーじゃなかった、ということなんでしょうけどね。ちょっと攻めすぎた、ってことかもしれませんけど。

ただ、ゴールデングローブ賞ね、先ほども言った通り、初のストップモーションアニメとしてアニメ映画賞を取ったぐらい、評価は最高レベル。実際、中身も最高!ということで。まあ無責任な言い方をすれば、採算度外視の奇跡的一作というか、もう2度とこの感じは作れない、というようなことかもしれない。ただ今後、ライカが新作をね、それも自由に作れなくなったとするならば、ちょっとこれは心配だな、って感じがしますけども。

■『シャーロック・ホームズ』+『インディ・ジョーンズ』+『失はれた地平線』

ということで、ともあれこの『ミッシング・リンク』。さっきも言ったようにですね、主人公のその、とっつきづらそうな性格の悪いおじさん、ライオネル・フロスト卿。サー・ライオネル・フロスト。これはですね、ヴィクトリア朝期の英国紳士。声を演じるのはヒュー・ジャックマン。劇中、ニューヨークで、自由の女神ができかけている、みたいな画が一瞬映るので、具体的にはたぶんこれ、舞台は1886年ですね。要は明らかに、『シャーロック・ホームズ』ですよね。

『シャーロック・ホームズ』的な、知的だけどエキセントリックなヒーローキャラクター、という。それでなおかつ彼が、これも脚本・監督のクリス・バトラーさんがあちこちで明言してる通り、モロにまあ『インディ・ジョーンズ』ですよね。『インディ・ジョーンズ』的な、要は「エキゾチックなお宝探しアドベンチャー」に身を投じていくという。まあ彼の場合は、未確認生物(UMA)を探していく、という。で、謎解きアイテムを入手するために、かつての恋人のもとを訪れ、最初は邪険に扱われ……みたいな、すごくこれも『レイダース』っぽい話の流れだったりしますよね。

加えてですね、雪に覆われた、険しい山々の奥深くに隠された、理想郷シャングリラを目指す、という……で、そのシャングリラを、その英国人主人公と、デコボコチームが目指す、というのはですね、これはもちろん『インディ・ジョーンズ』の元ネタのひとつでもあろう、1937年のフランク・キャプラ『失はれた地平線』。これ、82日に評しました『海辺の映画館』でも言及されていた作品ですけど、『失はれた地平線』のオマージュ的な部分も、たしかにあるかと思います。

ということで、『シャーロック・ホームズ』+『インディ・ジョーンズ』+(『インディ・ジョーンズ』の元ネタのひとつの)『失はれた地平線』的なアドベンチャー物で。これまで、基本的にそのダークなムードが強かったライカ作品とは、ちょっと違って。とにかく明るい、楽しい。ギャグも満載、笑える。それでもって、手に汗握るド派手なアクションももちろん盛りだくさん、という。要は、実はすごくエンターテインメント性が高い一作なんですね。ライカの中でもね。という感じだと思います。

■ビッグフットのミスター・リンクはオバQやプーさんに通じる無意識ドジかわいい

で、まずその「楽しい」という部分に関してはですね、先ほども述べました、『ハングオーバー!』でおなじみのザック・ガリフィアナキスが声を演じる、いわゆるビッグフット。要は人類とは別に生き残っていた猿人みたいな。当初のそのライオネルの名付けでは、「ミスター・リンク」という……ちなみに、後につく「ある名前」があるんですが、これは劇中で、非常に感動的かつユーモア要素もあるという、非常に重要なポイントなので、これは伏せておきます。後ほどある名前がつくんですけど、とりあえずここではミスター・リンクと呼びます。

このミスター・リンクがですね、純粋で、健気で、いいやつで……要は、最っ高にチャーミングで、かわいい~!っていうね。もうね、これですよ。個人的にはもう、こういうオバQタイプのキャラに弱いのよ。プーさんとか、こういう無意識ドジかわいい感じ。でもね、ミスター・リンクはそれに加えて、めちゃめちゃ気遣いもするんですよ。健気!っていうね。とにかく彼が、全編にわたって笑わせ、和ませ、微笑ませてくれる。その魅力とというのが、本作の非常に明るく楽しい爽やかな味わい、大きな肝となっているのは、間違いないと思います。

だから、僕はもうとにかくこのミスター・リンクに魅了されちゃって。もう大好き!ってなっちゃったわけですけどね。たとえばね、その造型も、全身の毛の表現、毛そのまんまを表現する……毛っぽく表現するんじゃなくて、これは『KUBO/クボ』に出てきた、シャーリーズ・セロンが声を当てていたあのサルのように、ちょっと硬さを感じさせる束の集合。で、しかもそれらが、微妙にそよいだりする、という。その束の集合として毛が描かれていて。それがまた、何というか質感として、最高にかわいい!っていう。フィギュアが出れば絶対に買う!っていう感じで。

で、この質感という意味では、たとえば主人公のそのライオネルが着こなす、スーツ。ブルーとイエローっていうか、生成りかな? ブルーと生成りのハウンドチェックの生地が、すごい印象的なスーツを着てるんですけど、この質感! 洋服とかの質感。あと、革の手袋とかの質感。それ自体がすごく、「目に楽しい」感じね。こういうですね、要は質感、触感を含めた、物質としての存在感。あとは、ミニチュアならではのかわいさ、みたいなところが、コマ撮りによって……要は本当は動かないものなんだけど、コマ撮りによって、まさに命を帯びる。で、そこに生じる楽しさ、わくわく。まさにストップモーション・アニメの大きな魅力であって。

特に今回の『ミッシング・リンク』は、そこがより分かりやすく再提示されてるように感じました。要するに、ここのところのライカ作品、ちょっとCGと見まごうばかり」みたいなのがすごく前面に出ていたんだけど、今回はちょっと、「ストップモーションアニメっぽい」ところを強調している感じもした。なので、その点では、ウェス・アンダーソンの一連のストップモーションアニメの方向性とも、ちょっと重なる部分、今回は多いように感じました。はっきり「おしゃれでかわいい!」っていうね。「ウェス・アンダーソン、おしゃれでかわいい!」みたいな感じで、今回はおしゃれでかわいいんで(笑)。

あと、さらに言えば今回、その物質としてのたしかな存在感、というストップモーションアニメの強みを生かしてる点として、これはパンフレットに掲載されている辻真先さんのレビュー文でも指摘されていたところなんですけど、要はですね、重さ・重量感がしっかりある世界。実際にその人形として、質量がある世界なわけですよね。重さとか質感がある世界だからこそ、より迫力と切実さが増すアクションシーン設計というのが、要所で非常に巧みになされている、というのが本作の特徴で。

たとえばもちろん、クライマックスですね。近年のね、要するに「落ちる・落ちない」恐怖、落下恐怖アクションの中で、個人的には最も手に汗を握った。それでいてあの、「おじさん同士の意地をかけたビンタ合戦」とか(笑)、本当にアニメならではのデフォルメされたギャグなんかもきっちりと挟んでいる、という。要するに、非常に「落ちる・落ちない」アクションは、定番的ですよね。こうやってワーッて吊られているところに、悪役が足をかけようとして……みたいな。そんな風に定番的に見えて、実は非常に見事にフレッシュに設計された、その崖っぷちの攻防。あれもですね、要は物質としてのたしかな重量感があるから、あんなにハラハラする、っていう。ストップモーションアニメだからこそ、あんなに(ハラハラ感が)強い、っていうところがあるわけですよ。

全画面、全瞬間に、映像ならではの驚きと喜びが満ちている

あるいは、中盤。船の中での一連のアクションシークエンスがあります。要するに、波で揺れているわけです。で、まずその手前のところ。そのライオネル卿と、ゾーイ・サルダナが声を当てているアデリーナという、ライオネルの元カノにしてライオネルの亡くなった親友の妻である、この2人のやりとり。船が揺れるたびに、テーブルとその上のワインボトル……このワインボトルも、シェイプがライオネル卿に似せて極度にスリム化された、デフォルメされたワインボトルとグラス。それが、船が揺れるたびに……あと、吊られた照明と、それに合わせた影もですね、スーッ、スーッ、スーッと、動き続ける。つまり、これはもちろん2人の気持ちの、距離感の揺れ動きというのを表わしてもいる、手の込んだ演出なわけですけど。

その、要するに「ここは揺れてるし、重みがある」っていう……重みがあるから揺れるわけじゃないですか。スーッ、スーッて。その前振りがあってからの、荒波によって、それこそ『インセプション』の中盤ばりに、重力の縦横が回転していく、という格闘追跡劇もやはり、その作り込まれた実際のものを映しているからこそ、説得力・面白みが増しているアクションシーンと言えますよね。あと、アクションじゃないけど、あの「重たい金庫を引きずる」っていう、ああいう面白みみたいなのもやっぱり、質量感があればこそ、の面白みだったりするわけですよ。

ということで、そういう「ストップモーションならではの良さ」というのを生かしている。もちろんストップモーションアニメですから、その他の部分も、極端な話、全画面、全瞬間に、さっき言った映像ならではの驚き、喜びが満ちている、と言っても本当に過言ではない。先ほどの「眼福」っていう言葉、僕は本当にその通りだと思います。キャラクターたちの豊かな表情や動き。そこに宿るニュアンス。あるいは画面の隅々の美術に至るまで、本当に……もう本当に目に幸せ!という。

たとえば、細かいシーンですけど、ライオネルがミスターリンクにですね、そのアデリーナとの過去について話すシーン。これ、歩きながら言うんですけど、その歩く背景。巨大な木の年輪が並んでいる。要するに過去……歴史の話、過去の話をしてる時に、(背景として)年輪を出す。この演出の細やかさ。あるいはですね、これは先ほどメールであったように、クライマックスのシーンでですね、「セリフでだけ処理されている」という批判がありましたけど、あそこは、周りが鏡状になっていて、「自分をいろんな角度から見つめ返す」という舞台設定になってるわけです。というところがひとつ、効いているというあたりで。

非常に実はその、背景の美術とかも、雄弁に演出に生かされてたりしますし。そして、そうした全てが、結構なスケールで、実際のブツとして作られ、その中でやはり手作業で、1コマ1コマ、職人たちの手によって作り上げてられてゆく世界。これ、YouTubeなどでそのメイキング動画が見られますので、作品を見た後でも前でもいいですから、ぜひちょっと本当に……「感謝!」って感じになりますんでね。ぜひ見ていただきたい。

■成人男性が自らをアップデート……けど、改心はそこそこ。そのバランスもいい。

あと、細やかと言えば今回、さっき言ったようにギャグも手数が多くて、非常に味わい甲斐がある。特に、前半の酒場での格闘シーンとかは……あれ、そもそもストップモーション・アニメで、あれほどカットが細かく多いのも、異例のことみたいですし。あと、たとえばね、細かいところですよ。酒場に入る手前で、ライオネルが、そのビッグフットと一緒に入る時に、「いやいや、中にいるやつらだってどうせ、不潔で毛むくじゃらなやつらなんだから、関係ねえよ」みたいな、すごい失礼なことを言うんですけど(笑)。

その失礼なことを言った直後に、その酒場の店内からのショットで、わざわざ、おじさんの半ケツが……ズボンからはみ出てる、その「半ケツなめ」で見せたりするわけですよ(笑)。「くだらねー!」みたいな。そういう意地悪かつくだらないギャグとかも、よく効いている。

その上で、さらにさらに本作『ミッシング・リンク』を素晴らしいものにしているのは、さっき言ったようですね、『シャーロック・ホームズ』とか『インディ・ジョーンズ』を下敷きとしながらも、そういう古典的男性ヒーロー像に、現代的な批評を加えてみせている、という……そのストーリーそのものがやっぱり素晴らしい、という風に僕は思います。

これまでのライカ作品、社会の規範からちょっと外れた存在……つまり子供とか。孤独な子供とかが、大人側の過ちを正す、そして赦す、みたいな。そして成長する、みたいなストーリーが多かったんですけど、今回はそれが、「正される側の大人」の視点に回ったというか。たとえば主人公ライオネルは、最初からとにかくエゴイスト、自己中心的な男なわけです。ただ、昔から男性ヒーローって、こういう人、多いですよね? 傍若無人で自己中心的で……っていう方が多かったりする。まあその中でも、ライオネルはかなりひどい方だと思うけど(笑)。

で、彼をかろうじて好意的に見られるのは、彼と敵対する存在……ここではその貴族クラブのリーダーが、ゴリゴリの守旧派というか、進化論も、婦人参政権も、要は自分たち金持ち白人男性に都合がよかった世界とか時代に対する変化を、恐れているからこそ、攻撃する人物。まあ2020年現在も、残念ながらいっぱいいますけども。彼が、あまりにもひどく、哀れな人だから、相対的にその主人公は好意的に見れる、っていう作りにはなってるんだけど。

ただ、その主人公自身も、そこに対抗する……権威と対抗してるつもりのライオネル自身もまた、その既存の権威に入り込み、何ならなりかわりたいだけじゃねえか、みたいな人だったりするわけです。で、そのことを、まさにアデリーナ、元カノから指摘される。あるいは、こんなことを言う。「自分のことしか頭にないから孤独になってるだけなのに、それが不当だと思ってるでしょう?」っていう。これ、めちゃくちゃ痛くない? このセリフ(笑)。僕はちょっと、自分には胸が痛い言葉でしたけど。

なので、つまりその、権威主義に染まってきた成人男性が、自らをアップデートできるかどうか、っていう話でもあるわけですよね。これ、女性目線からの現代的、今日的なメッセージを織り込んだ作品っていうのは、今年は本当にね、さらに多くなってきていて。非常に「アップデートされた視点」なんてことは言いますけど、アップデートっていうのは、こういう角度からも可能なんだ、っていうかね。ともすればすごく悪役っていうか、ダメって片付けられがちなこっち(既存の権威に与する男性)側にも、そのアップデートの可能性を見せる、というところに、本当に語り口としての新しさもあるし。

で、その意味で言うと、あのヴィランの結末がですね、さっき言った○○に見えるのも、僕はテーマ的な着地としてはありじゃないか、っていう風に思うわけですね。あと、主人公のその改心が、とはいえほどほど、っていうかね(笑)。そんなにいい人になりきったわけじゃない、みたいなバランスも、僕は全然好ましく思ったりしてます。すいませんね。もうこの作品、贔屓になっちゃってるんで(笑)。はい。贔屓目にはなっちゃってると思いますけど。あと、その改心の部分で、やっぱりさっき言った舞台立て……実は鏡で、しかもいろんな角度から自分を見つめ直す、という舞台立てになっているというようなところもぜひ、見逃さないでいただきたい。

■映像、ギャグ、アクション、ストーリー、メッセージ、どれも最高! これで1900円は安い!

ということでですね、映像最高。ギャグ最高。アクション最高。ストーリーとメッセージ、最新にして最高、というね。もう最高の何乗なんだ?っていうね。そして、これ。ライカ恒例、エンドクレジットで、毎回ちょっとタネ明かし的に、メイキングを見せるわけです。「これ、実は人形で撮っているんですよ」みたいなのを、最後にわざわざタネ明かしすることで、より感動が増す、というのが、ライカ作品のお約束なんですが。

今回は、象にまたがって歩いていくシーンが出てくるわけです。劇中の途中で出てくる。これね、カメラがグーッとパンしていくショットなんで、要は映り込んでいる画角が、めちゃめちゃ広いわけですよ。じゃあ、あの空間を全部作り込んでるのか?っていうと、そうじゃなくて。行く先々のシーンを、行く先々で作り込んで、この広い空間を作り込んでいることが、このメイキングでわかって。僕はこのメイキング映像のところに来たところで、涙が溢れ出てきて。もう、なんと素晴らしい……その、映画でしかできないこと、映像でしかできないことを、これだけの人たちの手で……もう大泣きしちゃって。しかもここで、スタッフロールが出てくるんですよ! もう泣くっしょ!っていう。はい。

ということで、皆さん。非常にお金もかかっている。労力もかかっている。何度も言います。これで95分間を割ってもですね、1900円は安すぎます。あと2ケタ多くてもいいぐらいじゃないかと思うぐらいです(笑)。本当にありがたい、素晴らしい作品。一瞬一瞬を味わってください。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(ガチャパートに入って)

宇多丸 最後のエンドロールで流れる、主題歌のウォルター・マーティンの「Do-Dilly-Do (A Friend Like You)」っていう、これも最高にいい曲で! もう、すいませんね。好き! 好きが溢れちゃって。はい(笑)。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画はMank/マンク』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

とろけそうなほどにキュートでメロウな最新韓国インディーポップ特集:女性シンガー編(高橋芳朗の洋楽コラム)

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10月から第2/第4木曜日にお引越し!

音楽ジャーナリスト高橋芳朗さんによる洋楽コラム(2020/11/26)

とろけそうなほどにキュートでメロウな最新韓国インディーポップ特集:女性シンガー編

 

高橋:本日はこんな感じでお送りいたします! 「とろけそうなほどにキュートでメロウな最新韓国インディーポップ特集:女性シンガー編」。毎回ご好評いただいている韓国産のインディーポップ特集ですね。今日はここ数ヶ月のリリースからキュートでメロウな女性シンガー作品を紹介したいと思います。シティポップ好き、それから90年代のR&B好きの人であればきっと気に入っていただけるのではないかと。

スー:まだぜんぜん情報がないような最新のアーティストばかりだって聞いたよ?

高橋:そうなんですよ。そんな最新の楽曲のなかから厳選の4曲をお届けいたします。まずはOhzuの「Diving」。9月29日にリリースされた最新シングルです。Ohzuは2016年にデビューしたシンガーソングライター。これまで10数枚のシングルを発表しているんですけど、どれも非常にクオリティが高くて。洗練されたソウルミュージックのサウンドと歌謡曲的な情緒のあるメロディとの取り合わせが最高です。

M1 Diving / Ohzu

高橋:このボーカルとメロディの可愛らしさ、曲がかかっているあいだにスーさんと話していたんですけどまさに90年代のR&Bっぽくて。

スー:日本でも90年代後半にR&Bブームがあったじゃないですか。あのころの感じですよね。

高橋:続いて2曲目はPalebabyblueの「Dumbo」。9月14日リリースの最新EP『Pine Tree』収録曲です。このPalebabyblueは女性ボーカルのMiluと男性プロデューサーのTebeからなるユニット。どうやら今年デビューしたばかりのようなんですけど、もう完全にできあがってますね。音楽的にはシンセポップやエレクトロ要素の強いディスコミュージックといった感じでしょうか。

M2 Dumbo / Palebabyblue

高橋:韓国インディーポップの特徴として、こういったウィスパー系のボーカルが多いんですよ。特に女性シンガーはその傾向が強いですね。

蓮見:確かに、吐息を感じますよ。

高橋:そうそう。だからヘッドフォンで聴くと耳がくすぐったいというか気持ちいいというか。

蓮見:まさに耳を「ダンボ」にして聴きたい!

高橋:フフフフフ、うまい! 続いて3曲目は男女デュエットです。スンミンとチョ・ヒョン・ウによる「Feel This Breeze」。9月20日リリースされた最新シングルですね。女性シンガーのスンミンはどうやらYouTuberのようで。チャンネル登録者数が30万人を超えていたから、そこそこ人気があるんじゃないでしょうか。

スー:すごい! 素人って言い方もアレだけどさ、YouTuberとしてインディペンデントで歌っていてそれだけのファンがついてるっていうね。

高橋:最近は韓国インディーでもそういうスタンスで活動をしている人が増えている印象がありますね。ちなみにデュエット相手のチョ・ヒョン・ウは2013年にデビューしているシンガーソングライター。過去のリリースには日本盤として流通した作品もあったりします。この曲は「風を感じて」という意味のタイトル通り、夕暮れのドライブ時なんかに聴くと気持ちいいのではないかと。そうそう、2分すぎにちょっとした甘酸っぱい展開があるのでぜひそこに注目してください!

M3 Feel This Breeze / Sunmin & Cho Hyung Woo

蓮見:フフフフフ、なるほど!

高橋:これは胸キュンでしょ?

スー:甘酸っぱすぎて顎の噛み合わせがおかしくなっちゃったよ。

高橋:アハハハハ! じゃあ最後の曲にいってみましょう。最後4曲目はCONUTの「Moonlight Dance」。11月21日に出たミニアルバム『Coconut Blues』の収録曲です。CONUTは2016年にデビューしたシンガーソングライターにしてベーシスト。音楽的には先ほど紹介したPalebabyblueと同系統のエレクトロ調のゆるいディスコ/ファンク路線ですね。これも浮遊感のあるめちゃくちゃ気持ちいい曲です。

M4 Moonlight Dance / CONUT

スー:ペパーミントグリーンな感じだね。これも甘酸っぱい!

高橋:韓国インディー、こういうタイプのこのぐらいのクオリティの曲がごろごろあるんですよ。この企画があと3〜4回分できるぐらい。なのでもういくつかおすすめ曲のYouTubeリンクを貼っておくので気に入った方はぜひプレイリストをつくるなりしてお楽しみください!


とろけそうなほどにキュートでメロウな最新韓国インディーポップ特集:女性シンガー編+6

♪Limit – If It’s Not You

♪Choi Jungyoon – Dance With Me Baby

♪ Turning Table – To Blue

♪ Amin & Dept – See You

♪ Mia – Like a Fool feat. Nafla

♪ Nesi – Europa with Lee Su Dal

ディス・イズ・アメリカ 「トランプ時代」のポップミュージック ディス・イズ・アメリカ 「トランプ時代」のポップミュージック

宇多丸、『Mank/マンク』を語る!【映画評書き起こし 2020.11.27放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は『Mank/マンク』202011月20日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸がランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する週刊映画時評ムービーウォッチメン。今週、扱うのは12月4日のNetflixでの配信に先駆けて、11月20日から劇場公開されているこの作品、『Mank/マンク』

(曲が流れる)

『ファイト・クラブ』『ゴーン・ガール』などのデビット・フィンチャー監督が、父親のジャック・フィンチャーが執筆した脚本を元に映画化。オーソン・ウェルズの名作映画『市民ケーン』の共同脚本家ハーマン・J・マンキーウィッツ、通称「マンク」の視点から、『市民ケーン』の脚本がいかにして書かれたのか、モノクロ映像で描く。マンクを演じたゲイリー・オールドマンのほか、アマンダ・セイフライド、リリー・コリンズなどが出演している、ということでございます。

ということで、この『Mank/マンク』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「少なめ」。まあ、公開館数が非常に限られてるということもあって、少なめでした。3分の2が「褒め」。3分の1が否定的な声も含んだ感想ということでございます。

主な褒める意見としては、「『市民ケーン』製作の裏側を題材に、当時から続くアメリカ社会の問題や、映画を作ることの意義を問う。このような映画がNetflixで作られたという事実は重い」「昔の映画風の映像がすごい」「フェイクニュースや知事選など、現代に通じるモチーフも多い」などがございました。そして一方、否定的な意見としては、「『市民ケーン』について詳しくないため、意味があまり理解できなかった」といったもの。これはまあ、それはそうかな、という感じがございました。

■「今年最大の映画的事件であり、今年ベスト級の大傑作」byリスナー

代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「LA LA LAND」さん。この方はね、デビット・フィンチャーが最も好きな映画作家の1人ということで、劇場に駆けつけたということをおっしゃっていただいていて。「すごかったです。脚本家のハーマン・J・マンキーウィッツが、『市民ケーン』の脚本をさまざまな障壁のなか書き上げる様子を、『市民ケーン』の構成を利用して描き出すストーリー。その時代のハリウッドを観客に完全に想起させる映像から、『市民ケーン』鑑賞時に印象に残るフィルムについた黒い傷……」。というか、あれはパンチだよね。傷というか、(フィルムの)巻を入れ替える(合図のための)パンチなんですよね。あれはね。

「……まで、映画内で再現する心意気に、制作陣の作品への強い愛情を感じました。しかし、この映画を『市民ケーン』と昔の映画界へのただの懐古にとどまらない、特別なものにさせているのは、『市民ケーン』という作品および作品周りの環境に、さまざまな対比を持ち込んでいるところでしょう。『市民ケーン』の主人公・ケーンは圧倒的な権力を持ちながらも、力ではどうにも手に入れられないものを求め、没落するキャラクターでした。

対して本作の主人公マンクは、徹底的な弱者であり、自身を取り巻く不条理に何とか抗おうとするキャラクター。スタジオから見下され、監督からは無理な要求を押し付けられ、政治的にも身近な権力者に抑圧されます。『市民ケーン』は権力が権力を超えた概念に抵抗しようとする物語でしたが、その作品の舞台裏を描いた本作は、弱者が権力に無力ながらも抵抗しようとする物語になっており、『市民ケーン』と『Mank/マンク』の両方に出てくる猿にまつわることわざの違いが表すように、完全に『市民ケーン』との対比になっています。他にも、本作『Mank/マンク』で描かれる30年代から40年代の映画業界はスタジオ主義的な映画感が漂っており……」。

まあ、基本ハリウッドではメジャースタジオだけが映画を作っていた時代ですね。「……そのために、作中で登場する作家は様々な障害にぶち当たっています。ですが、『Mank/マンク』という作品自体の製作は、作家の描きたいものを重んじるNetflixで行われ、出来上がりも、『市民ケーン』鑑賞前提どころか、『市民ケーン』の舞台裏、さらに本作で描かれる時代の映画業界のあり方や政治状況まで予備知識が必要という、まさにフィンチャーのやりたかったことをやりたいようにやった作品に見えます。『Mank/マンク』で描かれた『市民ケーン』の舞台裏と、『Mank/マンク』という作品自体の舞台裏を対比しているようにも取れます」。

ということで、いろいろ書いていただきながら、「……古典的な映画への敬意を払いながらもキャリアを積み、自由な製作のプラットフォームを手に入れた今のフィンチャーだからこそ作れた、挑戦の一作。古今、虚実を入れ混ぜた膨大な情報量をもって、鑑賞後、作品をいくらでも頭の中で反芻することのできる、今年最大の映画的事件であり、まさしく今年ベスト級の大傑作だと思います」と言うLA LA LANDさん。

一方、いまいちだったという方。「たたたんと」さん。「『市民ケーン』制作の裏側を描いたフィンチャーの新作ということで、かなり期待をして見に行きました。なんですが、しかし見づらい作品でもあります。ただでさえ、フラッシュバックを挟むことが多くわかりにくい編集なのに、次々と登場するキャストの説明がほとんどなく、どんどんと話が進んでいきます。私は『市民ケーン』を見ていますし、多少の制作背景知識はある方だと自負しています。それでも付いて行くのにやっとでした。名作とはいえ古典でもある『市民ケーン』を見ていらっしゃらない方も多いと思います。そういった方はどのように見たのか、ぜひ皆さんの意見をお聞きたいところです」っていうことですね。はい。

先に言っておきますけど、たぶん、『市民ケーン』はやっぱり見ておかないと無理というか、「どういう映画か?」を知っておかないと無理、っていう感じではあると思います。はい。ということで皆さん、メールありがとうございました。

『市民ケーン』の「ガワ」の部分をオマージュした映画がNetflixから登場

私もですね、『Mank/マンク』を、ヒューマントラストシネマ渋谷で、今回はやっぱりこの後、皆さんNetflixで繰り返し見れてしまう作品ということで、そのハードルの高さも感じながら、とりあえず3回、見てまいりました。

ということで、でもたしかに万人向けのキャッチーさは全くないというか、先ほどから言っているように、観客側に一定のリテラシーが要求される、渋い作品ではあって。こういうのがむしろ、既存の映画会社ではなくNetflixでこそ作られ、送り出される時代っていうのも、面白いですね。ちなみにNetflix、最近ね、『ラチェッド』とかもそうですし、あと、『レベッカ』もね、最近リメイクでやっていたり。あと、そのもののリメイクじゃないけど、ライアン・マーフィーの『ハリウッド』、1940年代のまさにハリウッドを描いたあれであるとか。わりとハリウッド古典期みたいなものの現代からの見直し、みたいなのを積極的にやっている印象がありますけどね。

ということで、まず大前提としてこの『Mank/マンク』ですね、脚本家のハーマン・J・マンキーウィッツさんの愛称なわけですね。これ、後に、今回の映画でも出てきますけど、『イヴの総て』などで本当に大監督となっていく、ジョセフ・L・マンキーウィッツのお兄さんなんですね。

そして何よりもやはり、本作で描かれている通り、オーソン・ウェルズの映画界デビュー作にして、言わずと知れた歴史的名作『市民ケーン』、1941年の、共同脚本として主に知られるというか、ほぼほぼそれで知られるこの人がですね、その『市民ケーン』……当初は『アメリカ人(American)』ってシンプルについていた、そう題されていた第一稿の脚本を、カリフォルニア州ヴィクターヴィルというね、ちょっとカリフォルニアの中心というか、ハリウッドからは離れたところ、本作もそこでロケしたそうですけど、ヴィクターヴィルというところの牧場にある別荘で、アルコール中毒と、自動車事故による骨折で、ほとんど病人のような有様のまま書き上げるまでの、1940年の出来事。

実際には6週間だかで書き上げたのかな? その出来事と、1930年から1937年……つまり彼が、ハリウッドの裏方として働きながら、『市民ケーン』のモデルとなった新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストと、その愛人であり女優のマリオン・デイヴィスらと、実際に親交を持っていた頃のエピソードが、それこそ『市民ケーン』ばりにですね、時系列を頻繁に前後させるという語り口で、語られていくわけですね。

これ、フィンチャーがですね、長年開発にも関わってきた映画用デジタルカメラの代表格REDっていうのがありますけど、今回はそのREDの、モンストロ・クローム・8Kという白黒オンリー仕様による撮影。そして、やっぱり当時の映画感を再現するための、モノラル録音によるサウンド。あるいは、おなじみトレント・レズナーとアッティカス・ロスのコンビによる劇伴も、今回は非常にクラシカルな……1930年代から40年代という感じのクラシカルな感じの劇伴まで、その作りの全てが『市民ケーン』、というよりは、「『市民ケーン』の時代」の最新型オマージュ、という感じでもあったりして。まあデビット・フィンチャーといえばね、『ソーシャル・ネットワーク』がもう、完全に現代版『市民ケーン』、といったような映画でしたけど。今回はその『市民ケーン』の、「ガワ」の部分オマージュというかね。そんな感じの一作でございます。

■本作を鑑賞する上で押さえておきたい『市民ケーン』まわりの知識とは

ということで、要はですね……まずその、『市民ケーン』を見ること自体は簡単なので。別に難しい映画でも何でもない。見れば誰でも、今でも「面白いな」と思うはずの映画ですし。そして、もういろんなとこで見れる。ソフトを買ったところで1000円しなかったりするような世界なので。まあ『市民ケーン』を見てることぐらいは前提。まあ、百歩譲って、「『市民ケーン』がどんな作品だったのか」という、まあ映画ファンであれば一般常識レベルの知識ぐらいは最低限持ってないと、さすがによく分からない、というのも無理からぬという感じかなと思います。

つまり、どういうことか? 『市民ケーン』がどういう作品かというと……もちろんつまり、『市民ケーン』が後に映画史上トップクラスの名作とされていく、ということはまず絶対に知っておかなきゃいけない。ただし当時は、さまざまなその政治的な圧力・妨害にもあって、アカデミー賞は結局いろいろノミネートされたんだけども、脚本賞しか取れていなかった。こういうような知識。

あるいはですね、『市民ケーン』は非常に革新的な一作と言われていますけど、特にその革新的技法・話法の中でもですね、架空のニュース映像などを駆使した、ドキュメンタリー調の演出とか。あるいはその、人々が過去を振り返るインタビュー、そういう形式を取っているということ。これも一応、押さえておくべきですね。そしてやはり、「スキャンダラスな権力者」としてのメディア王・ハースト……まあ、今一番想像しやすいのはやはりトランプとか。メディア王という意味ではマードックとかいますけども。

やっぱりそのスキャンダラス感で言えば、トランプとかに近い存在感と言ってもいいのかな、というメディア王・ハースト。でも、現実に権力をめっちゃ……今、トランプは大統領ですけど、要するに大金持ちとして、本当にビジネスマンとして成功し続けた存在としてのハースト、という。要するに当時の観客なら、「ああ、これはハーストのことね」って、誰もが特定できるモデルがいる作品でもあること。ここも知っておくべきことで。

で、これらのポイントというものが最低限わかっているという前提で、お話も作られている。さらに、もうちょい詳しい映画ファンならば、「ハーマン・J・マンキーウィッツが、ヴィクターヴィルというところで、後に『市民ケーン』となる第一稿、その草稿を書き上げるまでの話」という風に聞いただけで、「ああ、あの話か!」っていう風になると思うんですね。というのは……要はですね、『市民ケーン』の脚本は、オーソン・ウェルズとの共同クレジットになってるわけですね。

なんだけど、実質オーソン・ウェルズはほとんど関わっていなかった上に、そのクレジットを独り占めしようとしていた、というような批判が、1971年、あの高名な評論家ポーリン・ケイルが……これ、『Raising Kane』っていうタイトルなんですね(笑)。『Raising Kane』っていう記事原稿。後に日本でも『スキャンダルの祝祭』っていうタイトルの本に入っていますけども。で、このポーリン・ケイルによって批判がなされる……要するに、ちょっと(当時批評的に主流だった)作家主義に対して「別の作家主義」をぶつけて批判する、というか。そういうスタンスだったわけですけど。

■『市民ケーン』にまつわる映画史的論争について本作のスタンスとは

それに対して翌年、オーソン・ウェルズが、後に監督としても成功するピーター・ボグダノヴィッチのインタビューで反論したりとか。要するに映画史的な論争があったわけですね。「『市民ケーン』の脚本は誰が本当には書いたのか?」っていう。で、この件に関してはただし、1978年にロバート・L.キャリンジャーという方が出した、これ日本版は1995年に筑摩書房から出てます、『「市民ケーン」、すべて真実』という本があって。これがですね、このロバート・L.キャリンジャーさんが、要するに脚本の第○稿、第○稿っていう、それ(改稿)ごとの変化などを、非常に細かく精査して。で、この1冊でひとまず、この件にはケリが付いてる、っていう風に僕は思ってるんですけど。

まあ、簡略化して言うならば……(その本が結論づけている)本当のところをね、簡略化して言うならば、今回の作品で描かれた通り、脚本の第一稿がマンキーウィッツさんによって書かれたのは、事実。で、そこにウェルズがいなかったのも、事実。そして当初、ウェルズがクレジットを独占しようとしていたのも、事実。ただし、後に、何て言うのかな、『市民ケーン』が名作にまで高められていく、そのいろんな部分のブラッシュアップ……これは脚本もそうですし、もちろん演出もそう。いろんな部分のブラッシュアップはやっぱり、ほぼウェルズの才能というか、ウェルズがやったことなんですね。やっぱりね。

要は、その後の手直しの方が大事だった、という見方もあるし。あとはその脚本執筆の前段階で当然、打ち合わせをしていて。それとか、あるいは途中で指示とかも当然、出していて。そういうプロセスにもやっぱり、ちゃんとウェルズはしっかり関わっていたりもするわけですね。本当はね。あとはその、ウェルズの過去のラジオでのその仕事の中には、もうはっきり『市民ケーン』のストーリー的な構造の原型が、完全にあったりするわけですよ。

だったりするので、やはりそのマンキーウィッツさんは、「お話の土台を仕上げた」というのがふさわしい、というのが実際のバランスだと思います。で、その点、今回の映画『Mank/マンク』はですね、デビット・フィンチャーによれば、お父さんのジャック・フィンチャーさんの元の脚本は、もっとね、ポーリン・ケイル論寄りだったみたいです。はっきり反オーソン・ウェルズ派な内容だったそうなんですけど、ただ実際に今回出来上がった作品としてはですね、もちろんマンク氏側に大幅に寄り添った視点・史観ではあるんですね。

なんだけど、決定的なことを言わないようにすることで……たとえば、オーソン・ウェルズ側がどの程度、脚本の方向性に指示なり、少なくとも関知なりはしていたか、実は一切示していないですよね? 要するに、「マンクがいきなりあのハーストの話を書き始めた」っていう風にも見えるけど、その手前のところでウェルズと話し合って、「そうだ、ハーストのこういう話で行こう」っていう、その話し合いが、「なかったとは言っていない」みたいなバランスになってるし。

その後、ウェルズがその草稿を最終的に『市民ケーン』にまで高めていくという、そのプロセスとか成果についても、「言及しないことで否定はしない」みたいなことで済ましているわけですね。まあ、その中でもセリフで、マンキーウィッツさんが、「方向を決めるのは俺の仕事。行き先を決めるのはやつの仕事」という言い方で、わりとその監督としてのオーソン・ウェルズの仕事というのは、否定しないようなバランスになってる。

要は、かなりマンク氏寄りの印象を与えつつも、決定的な嘘はついてない、という、なかなか巧妙なバランスに仕上がっていたりもする、っていうことだと思います。ちなみにこれ、同じような題材を扱った作品で、1999年、ジョン・マルコヴィッチがマンク氏を演じた『ザ・ディレクター[市民ケーン]の真実』という、これよりはだいぶ今回の方が、やっぱり史実ベース、忠実ですし。ちなみにその『ザ・ディレクター』の方は、こっちはこっちでハースト側の視点というのが結構切なくて、味わい深かったりするんですけども。

■本作における最大の「薔薇のつぼみ」は何だったのか?

で、ですね、とはいえ、僕がさっき言った『「市民ケーン」、すべて真実』という本を読んでいなかったりすると……つまり、大半ですよね(笑)。そんな人はやっぱりこの映画を見ればですね、最後に、ゲイリー・オールドマン演じるマンク氏のアカデミー賞受賞コメント……「この脚本を書いたのと同じ状態で賞をもらえて嬉しいです。つまり、“オーソン・ウェルズ氏がいない状態”ということですが……ザマミロ!」っていう(笑)。そういうのを見たらやっぱり、「ああ、そういうことなんだな」っていう風に、どっちかっていうとみんなそういう印象を持ってしまいますよね。まさに「栄光なき天才たち」的な、非常に分かりやすい着地をする。

ちなみに2人はですね、「じゃあ、オーソン・ウェルズの方のクレジットを落とせ」っていう、実はそういう(クレームが出てきた)時もあったんですけど、それにはマンク氏はオーソン・ウェルズと連名で異議を唱えていた。やっぱり2人の連名がいい、みたいなことを言ってたりして、完全に決別したというのも、あれはフィクションだったりするわけなんですけども。で、ですね、ただこの『Mank/マンク』という映画の、いま言ったようなその一種分かりやすい「栄光なき天才たち」物としての着地・結論というのは、実はなかなかそんなに油断できたもんじゃないというか、単純なものでもないかもしれない、というのはあります。

それはですね、この作品の、もうひとつのキモに関わってくることなんですね。もうひとつのキモ、どういうことか? 本作、さっき言ったようにですね、1940年の数週間、そのヴィクターヴィルという場所でマンク氏が『アメリカ人』第一稿を上げるまでと、1930年から37年、マンク氏がハリウッドの裏方として、ハーストとその愛人のマリオンと親交を持っていた時期を交互に描いていく、と言いましたけど、これ、本当の話で。本当にね、ハーストさんがそのマンク氏、マンキーウィッツを、「こやつ、面白い!」的に目をかけていた、というのも本当ですし。

また、多分にアル中同士相憐れむ、というニュアンスではあったかもしれないけど、マリオンさんとも友情を結んでいた、という。これは本当のことなんです。ただし……これはこの『Mank/マンク』という映画の、オリジナルの部分なんですけども、ここから言うことは。

(マンク氏は)そうやって、言っちゃえば体制内でうまくやっていた。一応、皮肉を言ったりとか、文句を言ったりはしてるけど、ルイス・B・メイヤーであるとか、デヴィッド・O・セルズニックであるとか、あるいはアーヴィング・タルバーグといった歴史的大物プロデューサーと、皮肉とかでくさしたりしながらも適当に付き合っていた彼が、最終的にそうした権力を容赦なく戯画化した『市民ケーン』の元になる脚本案を書くに至る、その動機。なぜ、彼は『市民ケーン』を書いたのか? というのが、この『Mank/マンク』における最大の謎……つまり、この作品における「薔薇のつぼみ」なわけですよね。ちなみにその(『市民ケーン』のストーリーを引っ張るミステリーにして映画史上最も有名な伏線回収である)「薔薇のつぼみ」が、「本当には」何を示していたか、っていう元ネタのことも、今回の作中でちょっと言及されてますけど。それは、見てくださいね。

■メディアで流通する情報の真偽が分からなくなってしまった「今の時代」の始まり

この『Mank/マンク』という作品は、その「薔薇のつぼみ」……謎の部分を、1934年のカリフォルニア州知事選、という史実に求めてみせる。これが実は、本作の一番キモのところ。面白くスリリングなところ。共和党の現職フランク・メリアム知事に対して、民主党から出たのは、アプトン・シンクレアさん。これ、「『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の原作小説を書いた人」と言えばわかりやすいでしょうか?
彼がですね、社会主義的主張で非常に支持を集めてきた。今で言うとバーニー・サンダースとか、そのぐらいの感じだと思ってください。

で、当然のようにその既得権益側は、猛反発をして。それこそ、ハーストの所有する新聞などがこぞって、もう本当に反シンクレアキャンペーンを繰り広げるわけです。これは本当のことなんですね。ネガティブキャンペーンを繰り広げていく。これ、事実だったんですけども。中でも、すさまじい効果を上げたと言われてるのが、今回の劇中でも描かれた、天才少年と呼ばれた映画プロデューサー、アーヴィング・タルバーグによって製作された、ニュース映像と見せかけた嘘映像。要は選挙権を持つ人たちが、シンクレア支持に、反発とか、あるいは危機感を持つように、巧妙に、そして露骨に作られた、役者や演出なども使った……つまり、まさに「フェイクニュース」映像なわけですね。

劇中、最初はね、ラジオで、「これ、役者だよね?」って気付くってところ。僕はフィンチャーの『ゲーム』をちょっと思い出したりしましたけども。ともあれ、そのハリウッド、映画産業自体が、そのハーストなどのバックアップを受けて作った嘘映像が、実際にそのシンクレアの選挙戦に打撃を与え、潰してしまった、という歴史的事実があるわけです。で、本作『Mank/マンク』は、そこにそもそもそのアイデアを、皮肉のつもりで言ったにせよタルバーグに与えてしまったのは、マンク自身だった……という、そういうフィクションのエピソード。

あるいは、そのフェイクニュースを監督したその友人も、良心の痛みから、ある悲劇的な事件に至ってしまうという……あそこの、「まともな投票者はこれ、信じないよね?」っていう悲痛な不安ね。これにもちろん、この作品の創作エピソードたちを重ねることで、その主人公マンキーウィッツにその『市民ケーン』を書かせるに至る、動機の根本……『市民ケーン』におけるその「薔薇のつぼみ」的なところっていうのを、設定してみせるわけですね。

つまり、だからこそ『市民ケーン』は、あのようなドキュメンタリックな語りになったんだと……つまり、敵の手法を取り込んだ、というような言い方ができると思うんだけど。まあマンクさん、本当の本人は、わりと保守寄りのノンポリ、といったバランスの方だったらしいですけども。まあ、それも劇中で軽くは描かれていますけどもね。という、このあたり。

ということで、それが今回の作品のキモとなる部分。しかも、そこがフィクションの部分なんですね。言うまでもなくそれは、メディアに流通する情報の真偽が、パッと見では分からなくなってしまった時代、大きな声で言い続ければ、嘘が通ってしまう時代……すなわち、我々が生きる「今の時代」の始まりの瞬間だ、という風に、この作品は捉えてみせる。特にやはり、トランプ以降のこのタイミングでの映画化実現っていうのは、非常にタイムリーと言える、ということだと思いますね。

■フィンチャー監督が仕掛ける「劇中で言ったこと、鵜呑みにしないでね」という罠に込められたメッセージ

なので、クライマックスで、マンク氏が1940年のオーソン・ウェルズと、1937年のハースト……これ、ハーストを演じるのはチャールズ・ダンス。(『ゲーム・オブ・スローンズ 』の)タイウィン・ラニスターですよ! 要するに2人の「巨人」に、映画的には「同時に」立ち向かう、というこのクライマックス。要は、いい歳になるまで何ひとつまとまった仕事を成し遂げていない、言っちゃえば小物がですね、クリエイターとしての道義的怒りから立ち上がり、歴史的巨人たちと対決、せめてもの一矢を報いることになる、という……これは実はすごく熱い、これもまたひとつの「負け犬たちのワンス・アゲイン」物、と言えるわけですね。

ただですね、油断ならないのは、これは『ファイト・クラブ』でも出てきた……先ほど(リスナーメールで)「傷」と言ってたのは、フィルムの巻を交換する時に、映画館のフィルム技師の人が換える、その合図用のパンチなんですね。これ、昔の映画には必ず付いてる。画面隅のパンチ。これ、デジタル映画には必要ないんですね。それで実は見なくなって久しいわけですけど、今回は出てくる。最初に出てくるところで、「合図(キュー)を待てよ」というセリフとともにこのパンチが出てくる、という、非常に人を食った作りなわけなんですけど。

これはもちろん、古き良き「映画らしさ」へのオマージュ、という面ももちろんあるとは思いますが……これ、『ファイト・クラブ』でそのパンチが出てくるところのメタ構造と同様、「……っていう、映画という作り物を見ているんですよ、今、皆さんはね」という、要は冷水を浴びせる効果というか、観客に「これは作り物なんだ。映画なんだ」とわざわざ再確認させるための仕掛け、とも取れるわけです。

これ、さっき言ったような『市民ケーン』脚本に関するマンク氏寄りのストーリーであるとか、あるいはその史実通りと作り話を巧妙にミックスしたこの語り口であるとか……そして「本物のニュース映像中のインタビューに見える何か」で文字通り、この映画は終わりますよね。最後、「本当風に見える何か」で幕を閉じるこの映画そのものが、まさに劇中で言っている「暗闇の中で人はそれを真実だと思い込んでしまう」何か、そのものなわけでですよね。

ということで、たぶん僕はフィンチャー……あの『ファイト・クラブ』を作った人ですから。この分かりやすい表面上の着地の裏には、「いいけど、君たち、劇中で言ったこと、分かってる? これだって、鵜呑みにしないでね」という話だと思うんですよね。なので、ぜひこれは……史実の部分も本当にうまく混ぜられてます。ドイツのホロコーストから逃れてくる人たちをハリウッドのいろんな人が助けたんですが、マンクさんもその中の1人であったという、これは本当だし。あと、「ゲロを吐いて一言」、あのくだりも本当、とかね。なんだけど、あのゲロを吐いた場所は違います、とか(笑)。

いろいろとその史実の違いとかを調べる楽しみが膨大にあるし……そこから先、自分で思考をすることを求めている、というのが、僕はこの作品の真の、その最後のシーンが刺してくるメッセージの部分じゃないかな、という風に思っております。ということでぜひ、筑摩書房さんの『「市民ケーン」、すべて真実』、ロバート・L.キャリンジャーさん(の著書)。これ、このタイミングで復刊してください! そんなことを思いつつ、ぜひ劇場、そしてNetflixで、ウォッチしてください。

(ガチャ回しパート)

宇多丸:『Mank/マンク』に関してもうひとつ。アマンダ・セイフライド演じる今回のマリオンさんっていう、実在の方なんですけども、その方の演じ方が……これ、『市民ケーン』における、彼女をモデルにした女性の描き方に対する、ちょっとひとつ批評的な回答になっている。すごく芯のある、素敵な女性として描かれていて、そこも素晴らしかったあたりかと思います。

(以下略 ~ 来週の課題映画は『佐々木、イン、マイマイン』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

宇多丸、『佐々木、イン、マイマイン』を語る!【映画評書き起こし 2020.12.4放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は『佐々木、イン、マイマイン』(2020年11月27日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、本名佐々木こと宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今週扱うのは、11月27日から公開されているこの作品、『佐々木、イン、マイマイン』

(曲が流れる)

これはあのオープニングから、バスに乗っているところからだんだん聞こえだすというか、流れだす曲ですね。初監督作品『ヴァニタス』がぴあフィルムフェスティバルワード2016観客賞を受賞。人気バンドKing Gnuや平井堅のミュージックビデオなどを手がける、内山拓也監督の劇場用長編映画デビュー作です。俳優になるために上京したものの、鳴かず飛ばずでくすぶっていた悠二は、高校の同級生と再会したことをきっかけに、高校時代、絶対的な存在だった佐々木との思い出を振り返る。

主人公・悠二役の藤原季節、佐々木役の細川岳、萩原みのりさんなど若手俳優がメインキャストを務め、King Gnuの井口理……これ、僕ちゃんとわかってなかったけども、途中のチンピラ役がそうだったんだね。鈴木卓爾さん、村上虹郎さんなどが脇を固める。本作で内山監督は、2020年度に新藤兼人賞の銀賞に輝いた、ということになります。ちなみに金賞は『37セカンズ』ということで。こちらも萩原みのりさん、出ていますね。

ということで、この『佐々木、イン、マイマイン』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「ちょっと多め」。これ、かなり健闘しているんじゃないですかね。公開規模から言えばね。賛否の比率は8割近い人が褒め。なかなかの高評価です。

主な褒める意見としては「過ぎ去った青春を描いた新たな傑作。ムズムズしながらスクリーンを眺め、見終わった後には昔の友達と連絡を取りたくなった」「エモーショナルでパワフルで、でもとても繊細な映画。誰もが心の中に“佐々木”がいるはず」「藤原季節さん、細川岳さんの演技も素晴らしかった」などがございました。また沖田修一監督の大傑作、あの『横道世之介』を思い出すという意見も多かった。実は私のこの評の中でも、ちょっとその話が出ますけども。

一方、否定的な意見としては、「佐々木というキャラクターに魅力が感じられない。むしろ不快な人物で、映画も好きになれなかった」といったものが目立ちました。

■「青春というものとどう向き合うか、どうケジメをつけるかという話」(byリスナー)

ということで、代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「dxdxd」。「『佐々木、イン、マイマイン』、見てきました。結論から言えば大大傑作でした。『佐々木! 佐々木!』ってずっと佐々木コールが鳴り響いています。

自分たちの人生において、かつていた忘れがたい人間に思いを巡らせるという点では『横道世之介』にちょっと似ていますし、完全に疎遠になった友達を描いているという点では元トモ案件ですね。何の忖度もせず、人がやらないことをやる“佐々木”という存在は、誰の中にもいるような気がします」という。これ、ご自分のお友達にもいたよ、というようなことを書いていただいて。

「でも同時に、(自分が)誰かの中の“佐々木”になってるかもしれないと思います。自分が、ただ生きたいように生きていても、他人からしてみれば“佐々木”たる存在になっているかもしれません。本作本格自体も佐々木のモデルはまさに佐々木を演じた細川岳さんの実際の友達をモデルにしているとのことです。佐々木に羨望の眼差しを向けていた人間が“佐々木”を演じている。これって単なるキャスティングっていうわけじゃなくて、誰の中にも内在しているのが“佐々木”、っていうことなんじゃないかなと思いました。そんなヒーロー的、もはや偶像的な“佐々木”に思いを巡らせ、現実を見つめ直していくのがこの映画の軸になってるような気がします。それは同時に、何でもできる。何にだってなれる全能感。超人性に満ちていた青春というものとどう向き合うか。どうケジメをつけるかという話でもあると思います。

いつまで心の中の佐々木は“佐々木”でいてくれるのか? 自分の中の“佐々木”をどこに置くのか? どう別れるのか? 決着をつけるのか? ずっと考えてしまいました。それでもずっと『佐々木! 佐々木!』って佐々木コールをしたいです」というようなdxdxdさんのメールでございました。

一方、良くなかったという方もご紹介しましょう。ラジオネーム「たくや・かんだ」さん。「とても評判の高い作品ですが、個人的にあまり楽しめませんでした。まず佐々木コールと共にどこでも裸になるというエピソードがくだらないし、嫌悪感を持ちました」。まあ、本当にくだらないんだけどもね。嫌だっていうのももちろんわかります。「仲間にはやし立てられ、どこででも裸になる。そんな佐々木にもいろんな思いがあり……というのはわかるのですが、佐々木という人物に全く魅力を感じませんでした。

主人公・悠二もそれほど過酷な状況にあるわけでもなく、常にまとまりついてる自己憐憫的な雰囲気になんかうんざり。全編を覆うセンチメンタルな雰囲気が苦手で、会話でもいかにもセリフですという箇所があり、気になりました」「映画自体には批判的な感想を持ちましたが、藤原季節さん、萩原みのりさんら俳優陣は良かったと思います」というような、たくや・かんださんのご意見でございました。

■「友達」という捉えがたい存在を、「死」の香りとともに\浮かび上がらせてみせる内山監督

ということで、皆さんメールありがとうございました。『佐々木、イン、マイマイン』、私もT・ジョイPRINCE品川で1回、そしてこれね、脚本・監督の内山拓也さんがかつてバイトで働かれていて、そのメイン館としての上映を実際の制作に先だって決めていたという、非常に縁の土地でもある新宿武蔵野館で、2回目を見てまいりました。やっぱりこれ、新宿武蔵野館で見ないとっていうね(※宇多丸追記:ちなみに新宿武蔵野館では、上映前に内山監督と出演者たちによる挨拶映像が流れました)。

ということで、本作がその劇場用長編映画デビューとなる、内山拓也さん。先ほども言いましたけども、King Gnuの「The hole」っていうミュージックビデオを撮ったりとかされているという。まあ映画作品としては、先ほども言ったように、ぴあフィルムフェスティバルアワード2016年観客賞を受賞した『ヴァニタス』というこの長編と、あとは先ほど言った「The hole」というミュージックビデオにも出演されていた清水尋也さん、『ちはやふる』などでもおなじみ清水尋也さん主演で、なおかつ井手内創さんとの共同監督でもあるという、1時間弱の中編『青い、森』というのを、これまでに撮られていて。僕も遅まきながらこのタイミングで、2つとも拝見しましたが。

まあ今回のその『佐々木』に至るまで、目に見えて、その作品ごとにめきめきと成長してる、ってのはもちろんあるんですけども。それ以上に印象的だったのは、結構、少なくともこの三作に関して言えば、非常に一貫したテーマがはっきりあるな、という。まあ、授業後に体育館でだらだらとバスケットに興じる時間だけがある種接点、という4人の大学生を描いた『ヴァニタス』であるとか。姿を消した同級生の足取りを追う旅がですね、そのうち彼の意外な内面の、深淵を覗くような経験となっていくこの『青い、森』。

そしてですね、「緩くつながった4人の男性たち」という設定とか、「不在の友人の意外な内面を改めて覗く」ような視点という、この、要するに今言った『ヴァニタス』と『青い、森』の二作の要素を同時にあわせ持つ、今回の『佐々木、イン、マイマイン』。どれもですね、表面的な部分で言うならば、男友達同士の、本当にしょうもないかまし合い、じゃれ合い込みの、友情、友愛というのを、非常に生き生きとリアルに描きだす、という。そこが特徴なわけですけども。

ただ、その先にですね、これは僕の解釈というか、表現というか、なんですけども、そもそも「友達」っていう関係、その何か本質的な、実は寄る辺なさというか……「友達」ってちょっと得体が知れないというか、「友達って何だ?」っていうことですね。得体が知れない、そして儚い存在でもある、というあたり。でも、しかしやっぱり、それぞれの人生に、当人が思ってる以上に決定的な影響を、どうしたって及ぼすような関係。

そういうかけがえのない関係でもある、という、「友達」というもののなんとも知れない捉えがたさ、それでいて忘れがたさ、捨てがたさ、みたいなものをですね、最終的にはその、人生の、時間の有限性というのを否応なく意識せざるを得ない、「死」の香りとともに、ヒリヒリと浮かび上がらせてみせる、という。これまでの全作で、共通してそういう映画を作ってきた人、という風に、この内山拓也さん、映画作家として、私は受け取りました。とにかく、「友達って奇妙だよね。友達ってなんだ?」っていう。ちょっと薄気味悪くもあるというかね。で、ちょっとなんか条件が変わると、やっぱり消えちゃう、友達関係ってちょっと薄れちゃったりするもんだったりするのに……みたいな感じですよね。

で、特に今回のその『佐々木、イン、マイマイン』は、先ほどのメールにもありましたけどね。『ヴァニタス』にも出ていらっしゃいました……これ、全然今回の「佐々木」とは違う、どっちかというと線が細いキャラクターを演じられていて、さすが役者さんってすごいな!と思っちゃいましたけど、細川岳さんという方がですね、その実際にいた高校時代の友人を元に、もう本当にこれを最後に俳優を辞める覚悟で……っていうことで、内山さんに持ち込んだ企画ということで。

■「これは俺の話であり、お前の話でもある」

それでこれね、パンフレットに載っている内山拓也さんの言葉。内山さんはこんなことを言っている。細川さんからその企画を持ちかけられた時に、「『自分の人生においてもそんなやつがいたな』と思えた。僕の記憶を、岳が岳の言葉に置き換えて話してくれているような感覚がした」「この話を自分事として捉えていた」、という。で、まさにその通り、この言葉の通りの感覚を、僕もこの映画から感じたんですよね。

そういう要は、「これは俺の話であり、お前の話でもある」「そしてその話を、俺たちは今、しなきゃいけないんだ!」というような、圧倒的な切実度というか、「これを作らなきゃ俺たちは前に進めなかったんだ!」というようなその本気さっていうか、それらがなにかただごとではない熱となってフィルムに焼き付けられたような、一種異様な迫力を持った映画になってるなと思いました。この『佐々木、イン、マイマイン』は。だから僕は、咀嚼するのにちょっと時間がかかったぐらいです。

まあとにかくね、藤原季節さんが見事にどんよりと演じるこの主人公の悠二はですね、人生のあらゆる局面で、中途半端な、不完全燃焼状態に陥ってるわけですね。同棲している彼女……これを演じている萩原みのりさん、『37セカンズ』でも非常に印象的でしたし、来年公開の今泉力哉監督の『街の上で』でも本当にピリリと印象的な、見事な演技を見せていらっしゃる、萩原みのりさんが演じるその彼女からは、すでに別れを告げられている。同棲していたんだけども。

なんだけど、まだ同居をズルズルとしている上に、彼自身はまだ、はっきり彼女に対して踏ん切りがつけられていない様子、みたいな。それで、その役者業というのを細々とやっていたようだけども、それも完全に諦めるでもなく、しかしなにか積極的にやるでもなく、という状態。「年下の才人」感が半端なくハマっている村上虹郎さん演じる、その後輩の俳優……若干僕は、鎮座DOPENESSみを感じながら見ていましたけども(笑)。

村上虹郎さん演じる俳優に、テネシー・ウィリアムズの『ロング・グッドバイ』……チャンドラーじゃなくて、テネシー・ウィリアムズの戯曲『ロング・グッドバイ』を一緒に演じないか、なんて誘われたりもしているんだけども、基本的には、全くモチベーションのない工場でのバイトをずっとしている、みたいなね。これ、藤原さんも出ていらっしゃいました『ケンとカズ』のカトウシンスケさんがね、非常にこのバイト先の同僚として、いい味を出してましたね。

そして、その宙ぶらりんな状態というのを、これは遊屋慎太郎さんという方がまたものすごい説得力、実在感を持って演じていらっしゃる、いわゆるニヒルなリアリストタイプ、周りよりちょっとだけ大人な旧友に見透かされ、説教もされたりする、というような。これが冒頭のあたりなんですけども。で、そのイライラをぶつけるように……26歳から27歳にかけての時期の話ですが、喧嘩したその主人公の悠二がですね、自分が今やってること、役者業であったり、あるいはちょっとボクシングを始めてみたなんて言っていましたけども、それらの根っこに実はあった、その高校時代の友人、佐々木との日々を久々に思い返していく、という。これで本編、本題に入ってくわけですけど。

■“佐々木”とはつまるところ、「可能性“だけ”しかない状態」としての“青春”の化身

で、ここからその悠二の宙ぶらりんで不完全燃焼な現在、というのと、さっき言ったように戯曲『ロング・グッドバイ』の稽古風景、さらにはその佐々木たちと過ごした高校時代という、この3つが交互に、しかしはっきりと、ちょっと連想的に紐付けしていく形で連なっていく。なおかつ、たとえば現在の部分は基本、固定カメラ、フィックスで撮られているのに対して、過去は手持ちカメラ、という風に、タッチの違いなどで非常に対照性を持たせつつ、相互に入り組み……なおかつ、なんていうか最終的にはある種、現在と過去とか記憶が混然一体となったように語られていく、というか。そういう感じかと僕は思いました。

これね、見ていると、最初は過去のエピソードが、単純に主人公・悠二の回想かな、って思っていると、そのいないはずの佐々木単独視点などもちょいちょい挟まれてくるので、「これ、どういうこと? これ、誰視点なの?」ってなったりもするんだけれども。要はそれもですね、結局はその主人公・悠二の「記憶の中にある佐々木」であるとか、「佐々木はあの時、こうだったのであろう」というような、そういう思いが入り交じった、まさに心の中の佐々木、これぞ「佐々木、イン、マイマイン」、っていうことなのだと思うんですよね。

で、もっと言えば、実はこの映画全体の視点というのがですね、さっき言った悠二の「現在」よりも、実はもっと先の未来から振り返られたものであるように……特に終盤、実は時制がかなり複雑に交錯している作りなんだなってことが分かってくるんですけど。だから映画全体が……現在だと思っていたものが、さらに実は未来から振り返られたものって考えると、全体がこの悠二の脳内っていうか、悠二の記憶の中のものである、という感じ。そんな構造というのが、だんだん終盤に向かうにしたがって、「ああ、そういうことかな?」って見えてきたりもするという。

じゃあその、心の中の佐々木、「佐々木、イン、マイマイン」とは何なのか、ということですけど。まあ、はやし立てられるといつでもどこでも全裸で踊りだしてしまう。で、非常に負けず嫌い。なんだけど、非常に気ぃ遣いでもある。同時に、実は見た目によらず、映画や文学、絵画に傾倒している、熱い文化系部男子でもあって。それで時折見せる、その家庭環境ゆえの、不安げな、影のある表情、みたいなものも非常に印象的だったりするという。でもやっぱり、その後も表面的に付き合っていた人には……要は表面的に見ると「あいつ、変わんないよ。相変わらずだったよ」っていうような男、佐々木という。

要するに、距離がある人から見ると、単なるクラスのお調子者でしかないやつ、って感じですけど。で、なおかつお調子者なんだけど、あいつ、たぶん友達はあの3人だけですね。なんか他の人と話している形跡がない、っていう感じもあるんだけど。じゃあその佐々木という存在(とは何なのか)……つまるところ、青春期男子の権化というか、もっと言うと、「可能性“だけ”しかない状態」としての青春そのもの、その化身であるような存在、という風に言っていいかなと思います。

■「サヨナラだけが人生だ」。この言葉の意味が、『佐々木、イン、マイマイン』で初めてちゃんと分かった気がする

これですね、先ほどからメールでも例に出される方が多かったですけど、2013年3月23日に私、映画評しました、沖田修一監督の大傑作『横道世之介』の評で、僕はこんなことを言いました。「可能性が開かれている状態」というのを青春と呼ぶのだとしたら、その開かれていた可能性をひとつひとつ……つまり、他の可能性は捨てて、自らひとつひとつ道を選び取ってきた、このただひとつの人生、という未来の視点から振り返って、そのかつてあった可能性たちと、そして選ばれたこのただひとつの、一直線の、一本線の人生を、同時にかけがえなく愛しく思う、この感覚こそが「懐かしい」という気持ちの本質なんじゃないか、それを『横道世之介』はすごく浮かび上がらせているんじゃないか、みたいな評をしたんですけども。

その意味で言うと、今回の佐々木はですね……佐々木は、「開かれた可能性」そのものですね。可能性を選択する手前に永遠にとどまり続ける存在というか、永遠の青春なわけですよ、そういう意味では、佐々木っていうのはね。

一方、主人公の悠二っていうのは、その他の可能性とサヨナラして前に進む、っていうのが、どうしてもできないでいる。たとえば、その彼女としっかりお別れして、つまり人生を選択して前に進む、ということができないでいる状態の人物、と言えるわけですよね。

で、まさにこれ、劇中劇、さっき言ったテネシー・ウィリアムズの『ロング・グッドバイ』のセリフが言っている通り、「人生とは小さなさよならの積み重ねだ」と。つまり、その他の可能性を閉じていかないと、ある可能性を選べない。さよならをしていかないと前に進めない、っていう。あるいは、その内山拓也さんが影響を受けたという映画監督・川島雄三の、非常に有名な言葉、「サヨナラだけが人生だ」。この言葉そのもの。僕はこの言葉の意味が、今回の『佐々木、イン、マイマイン』で初めてちゃんと分かった気がする。

要するに、「サヨナラだけが人生だ」っていうのは、サヨナラを重ねていくことでしか人生っていうのは前に進まない、成長できない、っていうことでもあるわけですよね。で、悲しいのはですね、おそらく佐々木本人自身は、さっき言ったように家庭環境もあって、可能性の手前にとどまらざるをえなかった部分もあるし、どこかで自分自身がそういう環境に対して、諦めてしまったところがある男なわけです。本人は。

だからこそ、さっきのね(番組オープニングで話した)、「カップ焼きそば、クソうめえよ」みたいなしょうもない会話の後に、主人公である悠二に、「お前は好きなことをやれ、好きなように生きろ、お前は大丈夫だから」って言いながら、ポロッと流す涙……つまり逆に言えば、「俺は好きなように生きられないし、俺は大丈夫じゃない」って言ってるわけだよね。なんだけど、そんな彼がですね、たとえば、高校の時の友達と別れて、たぶん元々友達がいない人ですから、孤独なあの部屋の中で、お父さんもいないあの部屋の中で、誰に見せるとも知れない絵を実は書き続けていて……あるいは、物思いにふけっていた時間であるとか。

彼が、最後の方で出てきますが、実はほんの1歩、前に進んでいた、その一瞬……もう人生における最も美しいその一瞬。ここですね、苗村さんという女性を演じる、河合優実さんですか、この受けの演技が本当に自然で優しくて素晴らしい、というのもあるんですけど。こういう、その彼にとっての大事な……孤独ではあったかもしれないけど、悲しいところもあったかもしれないけど、そこにあった美しい、もしくは尊い瞬間というのを……でも、それはすでに失われてしまった何かとして、時間として、ふっと差し出して見せたりするわけなんですね。

それが本当にこの作品の優しく、でも切なくもある、というところでもあって。で、それに対してですね、たとえば主人公の悠二や、あるいはこの映画を見ている我々というのは、少なくとも佐々木と違って、前に進むことができる者の責任として、つまり、ちゃんと生きなきゃいけない責任としてですね、まさにその主人公・悠二は、新たに人生をスタートする存在、赤ちゃんを前に……これ、「赤ちゃん」というのはまた、無限の可能性そのものの象徴でもありつつ、同時に、赤ちゃんは泣いているわけですよ。赤ちゃんだから、なんで泣いているのかわかんないんだけど。

でも僕は……これは僕の解釈ね。彼(悠二)はそこに……あの日泣いていた佐々木に、「あの日、お前がなんで泣いていたのか、俺は分かってあげられなかった。なんで泣いてたのか、もっと向き合ってあげればよかった」っていう気持ちもあるんじゃないかな、そんな気持ちが作動したんじゃないかな、とも僕は解釈してるんです。っていうのは、映画の中では「赤ちゃんを抱いて感極まった」というだけの描写なので。セリフで説明がされてないので。ここはそれぞれが解釈をするところなんだけど、僕はそう解釈をした。

で、なぜか涙が止まらなくなって、ついに選択する決心をする。つまり、「俺は前に進まなきゃいけない」っていう決心をする主人公。からの、その元彼女との、とてもヒリヒリとした、でも非常に誠実に、一対一の人間として、「お互い、いい人生を歩もう」っていうような、この別れのシーン。これ、なかなかね、こういうきちんと……本当にリアルな、カップルの「いい別れ」っていうのは、なかなか僕ね、作品上で描かれることってないと思ってて。すごく素敵な別れのシーンだったと思います。

そして、その『ロング・グッドバイ』のセリフを絶叫しながら、走っていく。青春時代(のシーン)とは逆方向に爆走していく、というあのクライマックス。そのクライマックスに至るような、ここで今僕が言ってるような全てがですね、その「サヨナラの連続」としての人生、成長というものを、すさまじいまでの真摯さと、必死さで、描き出そうとしている。

■内山監督は俳優陣のポテンシャルの引き出し力も超一級!

で、ここまで言及してきた以外でも、とにかく……たとえば4人組のうちで一番目立たないようにも見える、木村という役柄。これを演じている森優作さんのですね、本当にクラスメートにいそうな感じのたたずまいと、でもやっぱり彼は彼なりに人生を、むしろ一番しっかり前進して生きている、という、彼なりのかっこよさの部分であるとか。

あるいはあの、パチプロ仲間って言っていいのかな、三河悠冴さん演じるですね、そのパチプロ仲間の、なんか距離感の変な友達感……自転車をいきなりガチャーン!って寄せるところの(笑)、(おかしな)距離のあたり。あとは、「ああ、じゃあ1個上だね」って、1個上だとわかった途端にタメ口になるお前の距離感、なんなんだ?みたいな(笑)。でも悪い人じゃない、みたいな、あの見事な距離感であるとか。

とにかく演者全員が、見事にハマっていて。これがきっかけで全員ブレイクしていいっていうぐらい、本当にハマっていると思います。特にやはり藤原季節さん。決定的代表作となるだろうと思いますし。細川岳さん、ヤンチャさと繊細さを併せ持つこのキュートさっていうのは、僕は個人的には、『息もできない』のヤン・イクチュンを彷彿とさせました。

そしてやっぱりね、内山拓也監督。食事やタバコを使ったキャラクター描写……あるいはバッティングセンターっていうような、いろんな要素を使った、物語の構成力の妙ですね。そのバッティングセンターひとつとっても、序盤の彼女との会話からすでに、ネタ振りが始まっていて……つまり、佐々木の残響が、彼女にも実は及んでいる。そこから始まって、終盤の小さな、しかしたしかなカタルシスにまで繋げていく、というこの構成の仕方、上手いですし。

なによりこの内山監督は、俳優陣のポテンシャルの引き出し力が、超一級だと思います。全員の、本当に愛しさを感じさせる、みんな本当にそれぞれちゃんと人生を生きているんだ、っていうこの実在感、すさまじいものがありますし。全体で言えば、撮影も美しい。美術・衣装も本当に考え抜かれているし。あとはちょっとNUMBER GIRL風というのかな、あの荒々しい音楽とかも含めて、全てが本当にビシッと、ピースもきれいにハマっているし。単に荒々しいだけじゃない、計算され尽くしたまとまりもありまして。その上で、やっぱり(観客)それぞれに、それぞれの人生のことを振り返らせる。

僕も……だって要するに、あの4人組がこれ、共学なんだけど、異常に男子校感が強い連中なだけに、やっぱり特にすごく自分ごととして受け取った。やっぱり自分にとっての“佐々木”と言える存在……高校の頃の友人たちの顔に、彼らとのその日々に、僕は記憶の中に探したし。自分もまた誰かにとっての“佐々木”なのかも、っていう風にも思ったし。だからその、かつての自分とか、かつての友人たちに、「佐々木、俺はちゃんと前に進んでるぞ!」って言いたい……「でも、やっぱりお前の裸踊りがまた見れるとも思っていたいんだよ!」っていう。そういう気持ち。

だからちょっとね、すごく自分ごととして、客観視できない領域に入っちゃうぐらい、僕はうっかり、特別な1本になってしまいました。まあ、僕の名前が「佐々木」っていういことを置いておいてもよ。ややこしいね。今日、佐々木がいっぱい出てきてね。『佐々木、イン、マイマイン』、ぜひぜひ劇場でウォッチしてください。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『STAND BY ME ドラえもん 2』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!

◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

宇多丸、『STAND BY ME ドラえもん2』を語る!【映画評書き起こし 2020.12.11放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は『STAND BY ME ドラえもん2』(2020年11月20日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今週扱うのは、1120日から公開されているこの作品、STAND BY ME ドラえもん2

(曲が流れる)

漫画家、藤子・F・不二雄原作の国民的漫画、そこからアニメ化もされました『ドラえもん』、初の3DCGアニメーション映画『STAND BY ME ドラえもん』の、6年ぶりの続編。原作漫画のエピソード「おばあちゃんのおもいで」を軸に、前作で描かれた「のび太の結婚前夜」から続く、結婚式当日に巻き起こる騒動……この結婚式当日のエピソードはオリジナルで付け足している、という感じでございます。

前作から引き続き、監督を八木竜一さん、脚本・共同監督を山崎貴さんが担当されております。声の出演には、水田わさびなど通常のアニメ版のキャストに加え、大人になったのび太役の妻夫木聡さん……妻夫木さんはCMでのび太役をやったりしてますからね。おばあちゃん役の宮本信子さんも参加しております。

ということで、この『STAND BY ME ドラえもん』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「多め」。まあ、『ドラえもん』人気っていうことなんですかね? 賛否の比率は、褒める意見が1割ちょっと。残り8割以上は否定的な意見でした。はっきり言って、めちゃくちゃ評判が悪い、という感じみたいです。

褒める意見としては、「結婚式やおばあちゃんの絡みのシーンでは泣いてしまった」「原作のエピソードをうまく1本の話をまとめている」などがございました。一方、否定的な意見としては、「今年ワースト。あまりの出来のひどさに本気で腹が立った」「大人になっても現実から逃げ続けるのび太がクズすぎる」「しずかさんが聖人君子のように描かれていて気持ちが悪い」「映画化にあたって原作エピソードを改変した結果、原作を持つメッセージも台無しになっている。タイムパラドックス物としてもめちゃくちゃ」などなどがございました。

■「他人の未来を変える行為に作り手は無頓着すぎる」byリスナー

代表的なところをご紹介しましょう。「エヌしまゴリラ君」さん。この方は評価は「一応、褒め」という方みたいですね。いろいろ書いていただきつつ、よかった部分。「特に結婚式の列席者が涙ぐむ表情の作り方は秀逸でしたし、ストーリーの起伏はたしかに少ないながらも、ドタバタ感と『おばあちゃんのおもいで』と『ぼくの生まれた日』というエピソードをうまく内包しながらも、一作品としてうまくまとめ上げていて、しっかり結婚式というエンディングに着地していたので自分も結婚式に列席をしたような疑似体験をさせてくれるような作品でした。

また、入れかえロープの魂が入れ替えるアニメーションを3DCG化した意義や……」。たしかに、この魂同士が入れ替わるっていう、そういう描写がね、途中でドラマティックに扱われるという。「……また、忘れん棒にこの映画のストーリーの矛盾点をうまく回収する役割を持たせて、秘密道具を準主役にしてくれたところは原作『ドラえもん』を読んでる時の膝を打つ感覚を蘇らせてくれた気もします」という。ただ、この方は批判的な意見も結構書いていただいて、というような方で。どちらかといえば、一応褒め、というような感じでございます。

一方、ラジオネーム「Suggy-MO’(スギーモー)」さん。「師匠がガチャを当ててしまわれたのでウォッチメンに参加するべく見てみました。結論を申し上げます。今年ワーストの出来だったと思います。とにかくこの作品に出てくる何もかもが気持ち悪い。私は3D表現のドラえもんたちにそれほど嫌悪感はないのですが、とにかく脚本や構成が投げやりなんじゃないかと疑いたくなるほどひどいし、訴えかけてくるメッセージも気持ちが悪いです。さんざん他人の人生を改変しまくったのび太に、もはや聖人のようなしずかが『あなたはそのままでいいのよ』なんて言う展開には開いた口が塞がりませんでした」という。

「今回は映画オリジナルの展開でおばあちゃんの人生まで狂わせてしまいました」というようなご意見。「私の記憶では欲が出たおばあちゃんの『のび太の花嫁が見たいわね』っていうセリフはあのエピソードのオチだったはず。それを実現させることがサービス精神とでも思ってるのか知りませんが、他人の未来を変える行為に作り手は無頓着すぎます。ウェルカムボードをジャイ子が書いたという小ネタ。作り手は『気が利いてるでしょ?』と本気で思ってる可能性がありますが、よくよく考えたらのび太の本来の結婚相手はジャイ子だったはずです」。ジャイ子問題、これは本当に重大!

「と、まあのび太ファースト、のび太第一主義と言いますか、作り手はのび太が自己中心的な理由で他人に迷惑をかけまくってる件を不問にしすぎです」というようなご意見でございます。皆さんもいろいろ書いていただいて、ありがとうございました。

■山崎貴監督の考えるイイ話って……「いやいや、それ全然いい話じゃないですから!」

さあ、ということで『STAND BY ME ドラえもん2』。私もですね、TOHOシネマズ日比谷で2回、見てまいりました。

ということで、2014年の『STAND BY MEドラえもん』、前作ね、僕は同年の830日、『ウィークエンド・シャッフル』時代に評しました。それの続編ということですね。山崎貴さん。脚本を書かれて……全体のその大筋のビジョンも、やっぱり山崎さんのビジョンが大きい。八木竜一さんというね、CGクリエイターの方と組んではいますが、やっぱり山崎さん作品、という色が濃い作品と考えておりますが。

明らかに現在の日本映画界を代表するヒットメーカーでありつつ、少なくとも僕は過去、この映画時評コーナーで取り上げてきた作品に関しては、その『STAND BY ME』含め、基本かなり批判的な評をしてきたんですけども、昨年の『アルキメデスの大戦』に関しては、特にオープニングシーンと、そのまさに原作を1本の映画として着地させるためのとあるアイデアについて、すごく高く評価させていただいたりもしました。これ、公式書き起こし、こちらは読めますんでね、ぜひ参照していただきたいんですけど。

で、とにかく山崎貴さんはですね、こういう作家性なんだな、という風に僕、最近ちょっと割り切れてきたんですけど。山崎貴さんは、要は「僕の考えた○○」を、わりと臆面もなく、まんまやりたい人で。それこそ監督デビュー作、2000年の『ジュブナイル』という作品はですね、それこそもう本当に『STAND BY ME+『ドラえもん』的な……「僕の考えた『STAND BY ME+『ドラえもん』」的なことをやった一作で、という。まあ、それも『STAND BY ME』評の中で言いましたけど。

要は、そもそもその作り手としての志が、二次創作っぽい人っていうか。で、よく言えば原作とかモチーフに対して、その山崎貴流の解釈というのを毎回している、とも言える。で、その山崎流解釈が、『アルキメデスの大戦』ではうまくハマったパターン……というか、たぶんですね、その『アルキメデスの大戦』は、あれがいわゆる「イイ話」じゃなかった、いわゆるバッドエンド物だったからハマったんじゃないか?っていうのが、私の仮説ではあるんですけど。

というのもですね、この山崎貴さん流の解釈によって抽出されたお話がですね、いかにもイイ話風、美談風に提示されているんだけども、「いやいや、それ全然いい話じゃないですから!」みたいに、少なくとも僕には思えてしまうということが、これまでの作品では圧倒的に多かった、という感じですね。それこそ、その2019年の『アルキメデスの大戦』とほぼ同時期に公開され、本当に阿鼻叫喚の……特にドラクエファンから阿鼻叫喚の否定的反応を巻き起こした、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』もそうですけど。まあ、さっきから言ってるように、その山崎さんなりの原作、モチーフ解釈。

つまりこの場合は、『ドラゴンクエスト』というゲームをプレイしたことで各々が得た感動、経験とは何か?っていうのを、一応山崎さんなりに、その本質を考えたなりの、その後半の特にトリッキーな仕掛け、ということで。しかもまあ、それと同様の構造を持っていると言える、たとえば2014年の『LEGOムービー』とか、そういう成功例もあるので。ああいう仕掛け自体が悪いとは、一概には言えないんだけど。

ただですね、この『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』に関してはやっぱり、その最終的な解釈の先に出てくる「善きこと」の押し付け感、美談感の押し付けがですね、一種その普通のゲームプレイヤーからすれば、本当に言わずもがなの説教をされてるようにも響いてしまっていた、という。これはやっぱり嫌われる。気持ちはわかるけど、これは嫌われるだろう、っていう感じはやっぱりありましたよね。

ということで、とにかく山崎さんの「僕の考えた○○」の中のですね、特にその「僕の考えるイイ話」という部分……つまり、「どういうものがイイ話なのか?」という、根本的な価値観、世界観に関わる部分で、僕は正直山崎さんとはたぶん、はっきり言って考え方の相違がある。っていうのも、『STAND BY ME』評で言及しましたが。つまり僕は、彼が「美談」として提示するものに、わりとはっきりした倫理的違和感を抱くことが多い、ということですね。で、『ユア・ストーリー』ではそれが、より多くの人にね、僕のこの感じが共有された。まあ「バレた」って感じだと思いますけど。

■前作のかろうじて良かった部分さえ否定するようなことをやってしまっている続編

で、ですね。その意味で、今回の『STAND BY ME ドラえもん2』ですけども。僕がその前作、一作目に感じていた、山崎流「『ドラえもん』のイイ話なところ」解釈の問題点が、半ば無理やりその続きを展開してしまったがゆえに、より拡大され、お話としてもキャラクターとしても、完全に破綻した、文字通り本当に……なかなかここまで言うことは少ないですけども、本当に、どうしようもない作品になってしまったと、まずは言わせていただきます。

前作はですね、『ドラえもん』という、一見その「終わりなき日常」が永遠に続くタイプのシリーズに見えるけども、実はそうじゃなくて、そののび太という主人公の人生をどう立て直すか……この「どう立て直すか」の解釈がちょっとまた分かれるところですけども、どう立て直すかっていう、はっきりした目的がうっすらと全編を貫いている、そういういわば「のび太成長譚」としてのストーリーでもある、という、その『ドラえもん』という作品の本質を、無数のエピソードから抽出し、1本の完結する話として凝縮してみせた話。

もちろん、その1本の話として無理やり凝縮した結果、いろんな問題点も出てきてはいるんだけど、まあそういう作品だった。で、特に僕は個人的には、のび太の成長のそのゴールとして、ヒロインというかな、その中で一番かわいくていい子とされている、しずかちゃんとの結婚というのをですね、あまりにも確定的なゴールとして置くのは、いろんな意味で、実はあんまり感じが良くない話だなと……これは前から僕は、もう子供の時から思っていて。

これ、詳しく話しだすとこれ自体でもう2時間、3時間は行っちゃうので。まあ「ジャイ子問題」「セワシ問題」、いろいろあるわけですね。僕はいつも思うのは、「そもそも、大人になってから立てた会社の、火事を防ぐのが先では?」っていう風に、まずはいつも思うんですけども(笑)。で、それはいいんだけどもね。とにかくシリーズを重ねていくあまり、その「しずかちゃんとの結婚」というゴールが、重要視……なんなら絶対視されるようになっていく。

で、だんだんそれに従って、しずかちゃんというキャラクターも、どんどんどんどん、現実離れしたいい子、現実離れした「聖女」になっていくという。これがいかにもですね、昔の少年向け漫画の限界、という風に、それも僕はやっぱり以前から思っていたので。2014年にですね、改めてこの話を語り直すという際に、そこに意識的なアップデートを加えていないのは何だかな……という風に思ったりもしたわけです。

で、「さようなら、ドラえもん」というね、その『ドラえもん』の中で公式に3つある最終回のうちの、最後の話。非常に素晴らしい名作だと、僕も思います。「さようなら、ドラえもん」で終わっていれば、オープンなエンディング……「結婚」というところがかならずしもゴールではなかったんだけど。そこにさらに「ウソ800」というね、これは連載時にもあった流れを、忠実という名の無批判さで踏襲した結果、そののび太の成長、つまりドラえもんからの自立を、先送りにするっていうことがイイ話なんだ、っていうところに終わっちゃってたのが、『STAND BY ME ドラえもん』で。まあ「これ、いい話だよね」って本当に思ってるんだろうけど、僕はちょっとそれはうなずききれないな、っていうような感じの作品だったわけです。

ただしですね、これ『STAND BY ME ドラえもん』、前作のちょっとフォローをしますけど。前作は、しずかちゃんとの結婚を翌日に控えた青年のび太が、少年のび太から、ドラえもん、あそこにいるから会う?って言われた時、はっきりとそれを、拒否するんですね。「ドラえもんは、君の……僕の子供の頃の友達だから」っていう。これはすごく良いセリフだと思います。つまり、このセリフがあることで、そののび太の自立、いつかドラえもんと別れて自立していくであろう、という成長の可能性は、否定してないんですよ。一作目は。

なので、一作目だけで完結するんだったらまだ、あれはあれでまあ、ありかな、なしではないのかな、ぐらいの言い方はできたと思っています。しかし、なんと今回の『2』はですね、僕が今言った、その素晴らしい青年のび太のセリフを、完全に台無しに……さかのぼってつまり、前作のかろうじて良かった部分さえ否定するようなことをやってしまっている、という。もう途轍もないことになってます! 以下、『STAND BY ME ドラえもん2』に関して、かなりネタバレを含む評をしますので。非常に楽しみにしていらっしゃる方、いっぱいいらっしゃると思いますので。ぜひぜひ劇場でウォッチしてくださいね! 本当にね。

■その場ではよくわからない出来事を描き、あとから「実はこうでした」と明かすのは伏線回収とは言わない

はい! ここからネタバレします。ちなみに山崎貴さん、今回の『2』のノベライズ版あとがきで、こんなことを仰っています。まず一作目に関して。「『STAND BY ME ドラえもん』は、名作と呼ばれているいくつかのエピソードを並べてみたら、ラブストーリーとして1本の物語になっているではないか、という発見だけで始めた企画です」。「コンピレーションアルバムのようなもの」とまで言っちゃってるわけですね。まあ、だいたいそのぐらいの志で作ってる、という。

「しかし、パート2ともなると、だいぶ自分でも物語を作っていかなくてはならなくなります」「一作目の時に入れたくてもどうにも入れられなかった『おばあちゃんのおもいで』を中心にさせてもらうということは瞬時に決めましたが、お話を膨らませるにはどうしたらいいのか?」。そこで、おばあちゃんの「あんたのお嫁さんをひと目、見たいねえ」という、ここを深堀りできることに気づいた。そして脚本打ち合わせに集まってくれたメンバーの、「そして結婚式に行ってみたら、大人ののび太は自信がなくなって逃げてたりしてね」というこの言葉。これによって、すぐに新しい物語の流れが出来上がりました、というようなことを言っている。

つまりですね、元々こんな「辻褄合わせ」から発想しているお話なので。支離滅裂なのもまあ、当然と言えば当然なのかもしれないんだけど……という。ただそれに、お金を払って96分間付き合わされる側はたまったものではない、という。ちなみに、前作と対照的に、今回の『2』はですね、完全に、要するに『ドラえもん』の何たるか、『ドラえもん』のキャラクターたちの何たるかを知ってないと、全くわからないタイプの話になっています。一見さんお断りの作りになってます。

今、「辻褄合わせ」って言いましたけどね、たとえば序盤。のび太の部屋で、ドラえもんと2人でやり取りしてるんですけど。そこに、ポロポロポロポロと、不自然極まりない、その場ではよくわからない出来事が、提示されては、スルーされていくわけです。当然それはですね、後ほど「実はこういうことでした」という風に明かされていくんだけど……ええと、こういうのは、「伏線回収」とは言いません! というのはね、繰り返し私はね、言ってるあたりでございますので。

「伏線」というのは、元は別のものとして機能していたものが、後ろで違うものとしてまた別に機能する、ということであって。最初に意味がわからないディテールをばらまいておいて、「実はこうでした」なんていうのは、伏線ではない、というね。山崎貴さん、今回の映画に合わせた『ドラえもんまんがセレクション』という本の中のインタビューで、「『TENET テネット』も特殊なタイムトラベル物で楽しかったですが、やってることは我々の映画と共通しています」というね、非常に「豪語」と言うにふさわしい言葉を仰っているんですけど……うん、あの『TENET テネット』のツッコミどころの部分、TENET テネット』のダメな部分が、たしかに共通してるかな、と思いますね。さすがですね。

■序盤の「伏線」が辻褄合わせ的に回収されていくだけの愚鈍な展開がノロノロと続く

とにかくまずはですね、「おばあちゃんのおもいで」エピソード。よちよち歩くおばあちゃんっていうのは正直、不憫かわいくて、涙腺を刺激する部分があるのはたしかにわかる。ただですね……その小学生ののび太を、受け入れるわけですね。「疑いませんよ」「わあん!」っていう。これはじゃあ感動的だとしましょう。で、そこからさっき言った「お嫁さんを見たい」発言をおばあちゃんがするんですけども。漫画なら、コマの流れとか、あるいは作品全体の尺感、あるいはそもそも、これはさっきのメールにもあった通り、ギャグ的なオチなので、オチとしての機能というところから、この話も自然に読めるわけなんですね。

なんだけど、映画の時間感覚でこれを……流れでそのセリフが急にまた出てきちゃうと、いかにも不自然というか、「おばあちゃん、早いな!」「おばあちゃん、もう新たな要求?」という風にしか思えない流れになっちゃってるんですね。事程左様にですね、藤子・F・不二雄先生が、当然「漫画ならでは」の方向で突き詰めた演出、感情表現……本当にそれは藤子先生、見事です。それをですね、要は「忠実」という名の下に、そのまま映像に置き換えても、変になるだけ、みたいなところが本当に多いんです。これは前作でもいっぱいありましたけど。というか、そんなところばっかりなんですよね。

たとえばですね、驚いたり焦ったりした時に、あの、白の中にさらに黒い丸がある目の玉表現というのが出てくるんですけど。あれ、動いてるキャラに付けると、「イッちゃってる人」にしか見えない、みたいなのがあったりするわけです。あと、動きもまあ、オーバーアクト感をやるだけで、ちっとも気持ちが入ってるようには見えない感じだったりしてね。とにかくですね、前述の通り、そののび太としずかの結婚式当日に行くわけです。おばあちゃんが「お嫁さんを見たい」って言うから。

そうすると、のび太が来ていない。代わりにその子供ののび太が青年のび太になりすまして……というドタバタ劇が続くんですけども。ここも、たとえばですね、その「新郎のあいさつをしてください」と言われて、子供だから「あいさつを……」って言われて「こんにちは!」って言って、一同がガクッ!となるっていうんですけども。これ、普通は「こんにちは!」って言ったらみんな、その後になにか話が続くのかな?って思うだけで、「こんにちは!」って言ったからガクッ!とするなんて、これはいかにも「頭で考えた」ギャグっていうか、まあ、ギャグになっていないギャグですよね。

とにかく、普通につまんないんですね。ということで、青年のび太を探そうとするんだけども、さっき言ったその序盤の不自然きわまりないその「伏線」の数々が、まあ辻褄合わせ的に回収されていくだけの、本当に面白くもなんともない、だけではなく、どんどん本来の物語の目的がぼやけていって、何の話だかよくわからなくなってくだけの……本当にこの言葉を使わせてください、愚鈍な展開が、ノロノロと続いていく。

あとね、これは山崎作品に多いなと思うんだけど、何かが起こる。で、そこからのリアクション、という……何かが起こるのとリアクションの間に、いちいちワンクッションがあるんですよ。これがウザい!っていうね。

■最後はのび太がとにかく無制限に甘やかされ続けるだけにしか見えない着地へ

で、いろいろとあって。ノロノロノロノロと続いて。で、青年のび太は、実は子供ののび太たちの乗ってきたタイムマシンに勝手に乗り込んで、子供時代に戻っていた。はっきり言ってこれ、二重三重に無責任かつ身勝手な、かなりひどい行為ですよね。この青年のび太の行為は。で、よっぽどの理由があるかと思いきやですね、要はまあ、またぞろその「しずかちゃんを幸せにする自信がない」程度のことを繰り返してるわけです。

あの、いいけどそれ、結婚式当日に言うこと?っていう。そしてこの時点で、もう既に一作目のね、あのセリフが完全に台無しになってますね。もう無! ですよね。これね。で、僕はその「しずかちゃんを幸せにする自信がない」みたいなことを言い出したところで、このあたりではっきりと、映画館の中で……すいません。マナー違反ですけど、大きめの舌打ちが始まってしまいました。「チッ!」「チッ!」ってね。

ただね、そんな「自信がない」とか言ってるわりに、「いや、でも自信がついたらタイムマシンで元の時間に戻ればいいんだ」とかケロッと言いやがったりするわけですよ。はあ、自信がついたら、ですか……ええと、それをいま言い出すって本当にお前マジでサイコだし、こんなやつとは何びとも結婚すべきではないと思うけど、まあじゃあ100歩譲って、どうやって自信をつけるっていうか、機嫌を直して未来に帰っていただけるんですか? と思って見ているとですね、ここは「45年後」っていう原作の漫画にもあるエピソード要素が入って。

「入れかえロープ」で、のび太は少年期気分を満喫しだすんですけど……「あれ? ちょっとなんか話、変わってない?」っていう。そもそも、「子供時代の僕がもっとちゃんとやってればよかったんだ!」っていう風に言った時に、そしたらドラえもんが「それなら簡単だよ」って言って、入れかえロープを出すんですよ。「えっ、話、違くない? 違くない、これ?」っていう。で、そんなことが始まって……入れかえロープだけ、序盤の非常に不自然な中で、これだけが新製品として出てくる。っていうところで、まあ「不良品でした」とか言って、タイムサスペンスっていうか……な物語障壁を無理やり作り出して、っていうのも本当になんだかな、なんですが。

で、その無理やりな物語障壁を作っていると言えば、この場面、最終的にその大人の心が入ったえのび太が、中学生3人に追われることになるわけです。ここもまあ、きっかけははっきりと自業自得ですし。あと、バイクに音声認識がないことに戸惑うくだりとかもうさ、おかしいだろう? 未来しか知らないっていうわけじゃなくて、昔時代を満喫しに来ているやつがこの(リアクションをするのは不自然すぎる)……もう本当に頭で考えた「ギャグ風」ね。クソ面白くもねえ! で、そこからまたそのバイク暴走が始まってですね、唐突にアクションシーン的な盛り上げがある。

まあ、これでもないとこの話、映画全体が盛り上がる場所がないから、無理やり作るんだけども……このアクションは本筋と関係のない、自業自得トラブルなんで。正直、その青年のび太へのムカつきだけが増していく。で、土手からバイクごとボーン!って出て。そしたらそのバイクがボーン!っていったまま、そのバイクの着地音もなにもない、という非常にずさんな作りから、中学生3人との対決になっていくんですけど。

これ、要はそれを助けてくれようとするしずかちゃん、さらにはジャイアンとスネ夫も加勢する、っていうんだけども……ここでジャイアンとスネ夫が、「のび太をぶん殴っていいのは、俺たちだけなんだー!」って言うのをですね、なんのギャグ的なツッコミもなく、いいセリフ風に響かせる、というこの無神経さ。で、なんとかその中学生を撃退して。まあその、「さようなら、ドラえもん」でのジャイアンとの対決の拡大版、みたいなことなんでしょうけども。

そこでそののび太がですね、「僕、しずかちゃんを守れたかな?」って言う。それでうなずくしずか。「いや、お前……『守る』もなにも、そもそもしずかちゃんはお前の作ったトラブルに巻き込まれただけなんだけど?」みたいな。で、根本の問題として、その暴力的な事態に対して、体を張って……つまり自分も暴力を振るうことを辞さず「守る」のが、男性として一人前になること、みたいな。この図式自体が、今時は全然イイ話じゃねえから!っていう。少なくともいま作られる作品としては、ここだけは見直すべきところだよ、むしろ。

で、とにかくそんなのがあって。しずかちゃんを「守り」、なんか「ぼくの生まれた日」エピソードでその両親の愛を確認したことで、結婚式に戻ってきた青年のび太がですね、スピーチを……本当の結婚式でよく聞く、本当に型通りのイイ話スピーチで。もう本当にね、あれは一番酒を飲みたい時間帯ですけど。で、そこにですね、遅刻、中座、失態をしたそののび太を、怒りもせず……あと、替え玉だったことも分かった上で受け入れる、という、まさにのび太にとっての「聖女」となっている大人しずか。

まず、しずかがドラえもんの関与も分かった上で、「あなたはそのままでいいのよ」とかまず言うわけですね。つまりこれは……もちろんそういうテーマの話があってもいいけど、少なくとも「のび太成長譚としての『ドラえもん』」っていうのを、完全に否定して有耶無耶にするようなことを、しずかが言ってしまうわけ。その上で、のび太はこんなことを言う。「僕は、僕が幸せになるために戻ってきた。それがきっとしずかさんを幸せにすることだから」って……俺、そこではっきり声出して、「はあ?」って言っちゃった。「えっ、なに言ってるか、よくわかんないんだけど」って思ったら、それに対してしずかさんが、「よくできました!」って……「えっ? あ、ええっ!? ……あんたら、なに? なにが『よくできた』なの? しずかちゃんは、なにを認めたの?」っていう。のび太がとにかく無制限に甘やかされ続けるだけにしか見えない着地になっていく。

これ、イイ話なんですか?

皆さんに聞きたいのは……これ、イイ話なんですか? 僕、神経的に全くこれ、理解できないです。ということで、本作の青年のび太はですね、感情の流れ、行動が本当に変すぎて……なぜなら辻褄合わせでお話を作ってるから! なんですが、キャラクターとして完全に破綻してるし、それに合わせて周囲のキャラクター……特に大人しずかは、さらにやっぱり破綻したようなというか、ちょっともうおかしなことになっちゃってる、っていうことだと思います。

普通にアニメとしてもですね、たとえば子供時代が昭和40年代なのに対して、その25年後のあの未来感というのは全く意味不明、とか。アニメとして演出的に面白くない、とかいろいろあるんですが。あと、とにかくやっぱり『2』を作るなら、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』的に、じゃあその『1』の批評的な見直しをするとか、そういうこともないですし。

とにかく、一作目を5億歩譲って認めたとして、っていうか、だからこそ、それすらも破壊してしまった……本当に救いがたい、蛇足にして駄作中の駄作。ドラえもーん! 時間、返してーっ!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『燃ゆる女の肖像』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!

◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

映画『ネクスト・ドリーム ふたりで叶える夢』をより楽しむための音楽ガイド(高橋芳朗の洋楽コラム)

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10月から第2/第4木曜日にお引越し!

音楽ジャーナリスト高橋芳朗さんによる洋楽コラム(2020/12/10)※ジェーン・スーさんお休みの為、代役はミュージシャンの土屋礼央さん。

映画『ネクスト・ドリーム/ふたりで叶える夢』をより楽しむための音楽ガイド

 

高橋:これはきっと土屋礼央さんにも楽しんでいただけるんじゃないかと思います。本日のテーマはこちら! 「映画『ネクスト・ドリーム/ふたりで叶える夢』をより楽しむための音楽ガイド」。

高橋:『ネクスト・ドリーム/ふたりで叶える夢』は、アメリカでは今年5月に公開。新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けて配信でリリースされています。この映画の存在自体はご存知でしたか?

蓮見:いや、私は知らなかったです。

土屋:僕もお恥ずかしながら。

高橋:では、まずは映画のあらすじを簡単に紹介しますね。「ハリウッドの音楽業界を舞台に、頂点を極めながらも現状に悩むスター歌手とそのアシスタントが同じ夢に向かって突き進んでいくサクセスストーリー。音楽業界でプロデューサーとしての成功を夢見るアシスタントのマギーを『サスペリア』などでおなじみのダコタ・ジョンソン、伝説の歌手グレースをダイアナ・ロスの娘であるトレイシー・エリス・ロスが演じる」。監督はインド系の女性監督、ニーシャ・ガナトラが務めています。この映画、配給会社の宣伝文句としては「音楽業界版『プラダを着た悪魔』」を謳っているんですよ。『プラダを着た悪魔』はご覧になったことあります?

蓮見:はい、見ました。

土屋:見ました見ました。

高橋:『プラダを着た悪魔』は2003年公開、主演はアン・ハサウェイとメリル・ストリープ。有名ファッション誌の編集部を舞台に、鬼編集長のもとで働く新米アシスタントの奮闘を描いたコメディだったわけですが、そういう気難しいカリスマに振り回される若いアシスタント、という点で確かにこの映画と共通点が多くて。

土屋:そういう気難しい人、音楽業界でもいますよ! レコーディングブースで歌い終わって、ブースから出てくるまでにどのテイクをチョイスするかを決めないと帰っちゃう方とかね。これ以上は言えませんけど(笑)。大変ですよ、本当に!

高橋:フフフフフ。この映画、ラブコメディ的な良い意味でのご都合主義な展開も含めて「音楽業界版『プラダを着た悪魔』」というたとえはなかなか的確だと思いました。そんな『ネクスト・ドリーム/ふたりで叶える夢』ですが、ここでは注目ポイントを3つあげながら紹介していきたいと思います。まずひとつめは「伝説の大御所シンガーを演じるダイアナ・ロスの娘、トレイシー・エリス・ロス」。ダイアナ・ロスの娘がまさにダイアナ・ロスをモデルにしたようなレジェンドを演じるあたりがおもしろいんですけど、蓮見さん、ダイアナ・ロスはご存知ですか?

蓮見:お名前はもちろん存じ上げております。でも具体的な作品はちょっと……。

高橋:1960年代はシュープリームスの中心メンバーとして、1970年代以降はソロ歌手として、もう60年以上活動を続けている大御所中の大御所ですね。アメリカで最も成功した黒人女性アーティストのひとりといっていいと思います。

土屋:ソウルフルなシンガーでね。最高ですよ。

高橋:日本では1990年にTBSテレビで放映された今井美樹さんと石田純一さん主演のドラマ、『想い出にかわるまで』の主題歌としてヒットした「If We Hold On Together」がいちばんよく知られているのかな? 当時オリコンで最高4位を記録する大ヒットになりました。

話を戻すと、このダイアナ・ロスの娘のトレイシー・エリス・ロス、女優としてのキャリアはすでに25年にも及んでいて。ゴールデングローブ賞を受賞したこともあるんですよ。

蓮見:もうずっと女優さんなんですか?

高橋:そうなんですよ。だから歌手としてレコーディングを行うのはこの映画が初めてなんですって。お母さんがあまりに偉大すぎるからあえて歌は避けてきたのかもしれませんね。

土屋:比較されちゃいますからね。僕が日本画の道には進まなかったみたいな……父(土屋礼一)が日本画家だったから、そこはいろいろたいへんでした。

高橋:ただ、お話的にどうしたってトレイシーの歌の力量、歌の説得力が映画の根幹に関わってくることになるわけで。なので彼女の歌手としてのポテンシャルには正直心配していたところもあったんですけど、それは映画が始まってすぐに杞憂に終わりました。可憐なお母さんとはまた違った良さがあるんですよね。さっそく聴いてもらいましょうか。

M1 Bad Girl / Tracee Ellis Ross

高橋:ちなみにこの曲はリー・モーゼスが1967年に発表した曲のカバーになります。

♪ Bad Girl / Lee Morses

 

土屋:すごいね! お母さん譲りのファンキーさにちょっとクリーンな魅力も加わっていて。高橋:それまでレコーディング経験がなかったのにこれだけ歌えちゃうのがさすがですよね。

蓮見:ハリウッドで活躍している役者さんは皆さん基本的に歌えるんですか?

高橋:そうですね。歌えるし、踊れます。

土屋:歌えるようにする、踊れるようにする、という感じですよね。この彼女の場合、基本的に声色は顔のかたちで響きが変わってきますから。それはバイオリンみたいなものですよね。やっぱりお母さんに顔立ちが似ているということは、それだけで良い声の響きを持っている可能性が高いんですよ。

高橋:あー、確かにお母さんの面影がありますよね。音楽映画、特にサクセスストーリーになると劇中のオリジナル楽曲のクオリティがそのまま映画の出来に直結するようなところがありますけど、『ネクスト・ドリーム』はこのトレイシー・エリス・ロスのボーカルに象徴的なように「音楽の質」はしっかり担保されているのでご安心ください。

ちなみに、いま聴いていただいた「Bad Girl」をはじめとする劇中のオリジナル曲のプロデュースを務めているのはロドニー・ジャーキンス。マイケル・ジャクソンの遺作になった『Invincible』や宇多田ヒカルさんの「タイム・リミット」などを手掛けているスーパープロデューサーですね。2014年の第57回グラミー賞ではサム・スミスの「Stay With Me」で最優秀レコード賞を受賞しています。

♪ Stay With Me / Sam Smith

 

 

高橋:では、この映画の注目ポイントふたつめ。ふたつめは「リアルに描かれる大御所歌手の葛藤」。この伝説的シンガーのグレースはコンサートをひらけば常にソールドアウト。ニューヨークのマディソンスクエアガーデンも楽々埋める人気を誇っているんですよ。ただ、もう10年以上新作をリリースしていないんです。要は、もう彼女は懐メロ歌手になりかけているんですよ。リスナーとしてはおなじみのあのヒット曲を歌ってくれれば十分、別に新曲は求められていないという。劇中ではブルース・スプリングスティーンを引き合いにして語られているんですけどね。客は「Thunder Road」を聴きにきているんであって『Wrecking Ball』の曲は求めていない、みたいな。

土屋:僕も「『恋のマイレージ』(RAG FAIR)を歌ってくれ!」って言われ続けて……いやー、これはむずかしいんですよ!

♪ 恋のマイレージ/RAG FAIR

 

 

高橋:そう、まさにそういうお話です! グレース自身もコンサートで大喝采を浴びているとはいえ、過去のヒット曲ばかりを歌い続ける日々にうんざりしているんですよ。新曲を作りたいという意欲もあるし、実際に人知れず曲を書いていたりもするんですけど、レコード会社から反対されるのが目に見えているからなかなか言い出せないでいて。

土屋:なかなか言い出せないでいる……。

蓮見:礼央さんもそういう経験、ありましたか?

土屋:もう裏のバジェットがあってね。経験豊富なスタッフは「うん、見える見える」とか言って取り合ってくれないんですよ。

高橋:うわー、厳しいですねえ。

土屋:そう、だからおなじみのヒット曲の歌い方を変えたりするわけですよ。自分のなかに飽きが出てくるから。でも、それは求められていなんですよね。

高橋:お客さんは音源通りの歌を聴きたいんですよね。それはそれで理解できるという。

土屋:この葛藤はわかる気がするな……うん。

高橋:そんな葛藤しているグレースにあるオファーが舞い込むんですよ。それがラスベガスでの長期公演の契約。これは実際にラスベガスで行われている「レジデンシー公演」と呼ばれているコンサート形態で。大御所アーティストに長期間、長い場合は数年単位でラスベガスに滞在してもらって週3~4回ぐらいのペースで定期公演を行うという。

土屋:歌謡ショーみたいなのをホールでやるということですね。

高橋:はい。よく知られているところでは、セリーヌ・ディオンがシーザースパレスで2003年から2019年まで約16年にわたってレジデンシー公演を行っていました。一説によると、一回の公演のギャラは約5000万円。

土屋:うわうわうわ……。

高橋:トータルでいくら稼いだんだよ!っていう。こういう長期のレジデンシー公演はエルトン・ジョンやブリトニー・スピアーズも行なっていたことがあるんですけど、レジデンシー公演のオファーがくること自体はアーティストにとってものすごく名誉なことなんですよ。もうスーパースターにしか務まりませんから。

土屋:たとえお客さんが入らなかったとしても5000万円のギャラを担保しているわけですからね。

高橋:アーティストとしてはある種理想的な「アガリ」といっていいと思うんですよね。ただ、レジデンシー公演の契約を結ぶことは第一線からの撤退、事実上の隠居を意味することにもなるわけで。

土屋:ただ期待されている通りのことだけをやってお金をもらうと。

高橋:ひたすらルーティンをこなしていくような感じですよね。

土屋:新しい試みをやるなら自主興行でやってください、という。

高橋:まさにまさに。そこでグレースの心が揺れるわけですよ。いまの栄光をフイにするリスクを負ってでも新曲をリリースして現役アーティストとして意地を見せるべきか、あるいは第一線からは退いてラスベガスで数年間に及ぶ安定のレジデンシー公演の契約を結ぶべきか。

この映画、こうした大御所アーティストを取り巻く実情の描写がめちゃくちゃ生々しいんですよ。ほかにもレコード会社が若いプロデューサーを連れてきて、過去のヒット曲を現代風のダンスバージョンにリメイクしてリリースする提案をしてきたりとか。その新進プロデューサーを現行ダンスミュージック界きっての売れっ子、ディプロが演じているあたりがまた皮肉が効いていて。グレースの「40歳過ぎた女性シンガーで全米ナンバーワンを獲得した歌手は5人しかいない、黒人はたったひとり。その意味がわかる?」というセリフの切実さも刺さるものがありました。

蓮見:グレースはどっちの道を選ぶんですか?

高橋:それは映画を見てのお楽しみですが、そんな岐路に立たされたグレースに「新曲を作りましょう!」と背中を押すのが、プロデューサー志望のアシスタント、マギーなんですよ。

土屋:若い人ならではの新しい発想だよ!

高橋:そうなんですよ! その彼女の存在がこの映画の3つめの注目ポイントです。3つめの注目ポイントは「豊富な音楽知識を持ち合わせた女性キャラクター」。この映画は主演のふたりが女性、監督のニーシャ・ガナトラも女性、そして脚本も女性が務めているんですけど、その脚本のフローラ・グリーソンはマギーのキャラクターに関してこんなコメントをしています。

「『あの頃ペニー・レインと』や『ハイ・フィデリティ』などの音楽映画は大好きだが、その多くは自分の音楽の趣味は周りとは違う優れたものだと考えている男の音楽ファンに焦点を当てている。女性のキャラクターといえば決まってグルーピー役か恋人役。だから私は『ハイ・フィデリティ』のジョン・キューザックの向こうを張るような音楽への情熱と知識を持ち合わせた女性を描きたかった」

この発言にある通り、プロデューサー志望のアシスタントのマギーは時代やジャンル問わずさまざまな音楽に精通しているうえ、プロデューサーとしてのセンスにも長けていて。彼女はグレースのアシスタントと並行して偶然知り合ったシンガーソングライターのデヴィッドと音源制作に勤しんでいるんですけど、彼女の的確なディレクションでどんどん作品が良くなっていくんです。レコーディング現場でのアーティストのコントロールがうまいんですよ。

土屋:ボーカリストは気分屋だから、プロデューサーがどんなアドバイスをするかでぜんぜん変わってきたりするんですよ。

高橋:ひとつ印象的なシーンがあって。レコーディングのときにデヴィッドが緊張して本来の力が発揮できないでいると、マギーがレコーディングブースに入っていくつかアドバイスしたあとで「あ、そういえばこのマイクは昔にサム・クックがレコーディングで使っていたんだって」とボソッと告げてブースから去っていくんです。そうするとデヴィッドが「うわ、いま俺はサム・クックと同じマイクで歌っているんだ!」とテンションが上がって途端にボーカルがなめらかになるんですよ。

蓮見:へー!

土屋:あー、僕もレコーディングのときに「これはエリック・クラプトンと同じマイクなんだぜ」って言われたあとの歌録りはすごく楽しかった! もうそういうもんなんですよ。スイッチひとつでぜんぜん変わってくるという。

高橋:ただ、それはマギーのウソなんですよ。歌手の気分を上げるためのウソ。

蓮見:ええっ!

土屋:うん、ウソでもいいんですよ。

蓮見:礼央さんの場合はどうだったんでしょうね……エリック・クラプトンのマイクはウソ?

土屋:それはどうだか……ディレクターの伊藤さんのみぞ知る(笑)。

高橋:プロデューサーが歌手をうまく乗せていく手段として、実際にこういうアプローチが有効かどうかはわからないんですけど、女性プロデューサーが音楽的才能を活かして楽曲のクオリティを高めていく、という描写が音楽映画として非常に新鮮に映ったのは確かですね。

では、劇中でマギーのプロデュースによって磨かれいく曲を聴いてもらいましょう。彼女とコラボするシンガーソングライターのデヴィッド演じるケルヴィン・ハリソン・ジュニアが実際に歌っているんですけど、彼も本職のシンガー顔負けのうまさでびっくりしました。ケルヴィン・ハリソン・ジュニアは今年7月に公開された映画『WAVES/ウェイブス』で主役を務めていた金髪の彼、といえば覚えている方も多いのではないでしょうか。

M2 CHEMISTRY / Kelvin Harrison Jr.

土屋:かっこいいねー。きれいな歌声で。

高橋:この曲の仕上がりから『ネクスト・ドリーム』が音楽映画として非常にしっかりしたものであることがわかっていただけるんじゃないでしょうか。マギーの豊富な音楽知識を裏付ける数々の小ネタも非常に気が利いていて、音楽好きならニヤニヤしてしまうシーンがたくさんあるのではないかと。特に彼女がカバー曲のオリジナルアーティストを軽々と答えていくくだりなどはめちゃくちゃ楽しかったですね。皆さんはマキシン・ブラウンの「Oh No Not My Baby」やアレサ・フランクリンの「Share Your Love With Me」のオリジナルが誰なのか、即答できるでしょうか?

このように劇中の選曲はソウルミュージック中心なんですけど、マギーとデヴィッドが知り合うきっかけがドラマ『The O.C.』の主題歌としておなじみ、ファントム・プラネットの「California」というのもぐっときました。

そんなわけで最終的にグレースがどちらの道を選ぶのか、そしてマギーのプロデューサーとしての道は開けるのか、ぜひ劇場で確認していただきたいと思います。最初に言った通り、「音楽業界版『プラダを着た悪魔』」の触れ込みに偽りナシの元気が出る一本です!


ディス・イズ・アメリカ 「トランプ時代」のポップミュージック ディス・イズ・アメリカ 「トランプ時代」のポップミュージック

宇多丸、『燃ゆる女の肖像』を語る!【映画評書き起こし 2020.12.18放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『燃ゆる女の肖像』(2020年12月4日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今週扱うのは、12月4日から公開されているこの作品、『燃ゆる女の肖像』

(曲が流れる)

18世紀フランスを舞台に、望まぬ結婚を控える貴族の娘エロイーズと、彼女の肖像画を描く女性画家マリアンヌの、鮮烈な恋を描いたラブストーリー。主な出演は、エロイーズ役に、『午後8時の訪問者』などのアデル・エネル。マリアンヌ役に、『英雄は嘘がお好き』などのノエミ・メルランさん。監督・脚本を手掛けたのは『水の中のつぼみ』などのセリーヌ・シアマさん、ということございます。去年の第72回カンヌ国際映画祭で脚本賞とクィアパルム賞を受賞しました。

ということで、この『燃ゆる女の肖像』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「非常に多い」。公開館数というか、いわゆるミニシアター的な公開のされ方ではありますが、前評判の高さで足を運んだ方が多かった、という感じでしょうか。

そして賛否の比率は、褒める意見が8割。女性、そして今回初メール、という方の投稿も多かったです。褒める意見としては「今年ナンバーワン! ストーリー、撮影、舞台、全てが美しい」「ラストシーンで大号泣」「ミステリーであり、恋愛映画であり、女性たちの連帯を描いたシスターフッド作品でもある」とかですね。「宇多丸さんが評論でよく言う、“見る/見られる”の描き方が上手い」などがございました。

一方、否定的な意見としては、「恋愛感情の高まりが唐突に思えた」とかですね……ちょっとあと、ひとつ面白い視点の批判的意見もあって。これはちょっと後ほど、メールでご紹介しますね。

■「『今、自分はものすごいものを見ている!』」byリスナー

では、代表的な感想をご紹介しましょう。ラジオネーム「ブルーレイを待ち続ける女の肖像」さん。「初めての投稿です」。ありがとうございます。

『燃ゆる女の肖像』、最高でした。脚本、音楽、映像の美しさ、よいところばかりでした。脚本に関しては、『女と仕事』『女と結婚』『女と中絶』と、登場人物がそれぞれに経験している女の人生の辛いところをしっかりと捉え、それらに女同士で連帯したり、寄り添ったりしてなんとかやっていこうとするところが最高。エロイーズとマリアンヌの関係もとても引き付けられるものでしたが、使用人の女の子(ソフィ)もこの映画においてかなり大きい存在だったと思います。

特に彼女の中絶にまつわるシーンでは、家父長制の中にいる奥さまが外出しているうちに館に残された3人で彼女の中絶に協力したり、見守ったりするところに連帯を感じました。3人で過ごした5日間のことを、彼女たちはきっとずっと覚えていると思います。3人で本気のカード遊びをしたり、オルフェウスについて語り合うシーンも楽しそうで印象的でした」と。で、ですね、今日はこれ、全体に、ラストシーンの具体的な描写に関しては、ちょっと伏せようと思いますので。ブルーレイを待ち続ける女の肖像さんね、すごく詳細に感想を書いていただいてありがとうございます。その部分はちょっと省略させていただきます。

あとですね、たとえばラジオネーム「沼サーモン」さんも、「初めてメールを差し上げます。いつも聞いているだけリスナーだったのですが、今週のムービーウォッチメンが『燃ゆる女の肖像』と知り、いても立ってもいられず感想メールをお送りします。それほど自分にとってこの映画は生涯ベストに入る傑作となりました」ということで。「素晴らしいと感じた点は数えきれません。全てのシーン、どこを切り取っても1枚の絵画かと思えるほどの画面構成、極端に男性の登場を抑えた人物構成。中盤の臨床シーンなどを挙げるとキリがなく、乱文甚だしくなってしまうので、ここは自分が一番響いたラストシーンの感想のみにとどめたいと思います」ということで(笑)……ラストシーンの描写が続くので、ごめんなさい、ここはちょっと省略して読ませていただきますが。

芸術の素晴らしさを本当に理解できた、自分に入ってきたと感じられることの嬉しさ。その苦しさ。むき出しさ。その瞬間があのシーンに全部詰まっていると感じました」。これ、面白いですよね。その、物語上で起こったことの感情だけではなく、それを通して「この芸術が完全に自分には理解できた」という、たしかにそういう喜びの表情とも取れる感じですよね。

「こういう瞬間があるからこそ、芸術があるのだという真理すらも感じてしまい、そしてそのシーンがひとつの絵画的瞬間になっている、という構成に、『今、自分はものすごいものを見ている!』という、芸術を目の前にした至高の瞬間をエロイーズと同時に体験することができました。どこまでも美しいです」というような、だいぶ抜粋してご紹介しましたが、こんなメールも来ています。

一方、ダメだったという方もご紹介しましょう。ラジオネーム「駒込ノリ」さん。「いまいちでした。画家とモデルの見る/見られる関係がオルフェウスの神話とうまく結びつけられていたり、撮影の美しさとか素晴らしいと思うのですが、画家を主人公にしたこの映画を説得力なきものにしているのは、恐縮ですがプロの目から見て、劇中で使われた絵が、あまりに下手なところです。監督がインスタで探したとかいう──ヘレーネ・デルメールさん、かな?──という、その絵がひどすぎる。

18世紀の絵の再現はもちろんできておらず、古典技法にも精通しているとか言ってるようですが、現代の具象画家としても下手。デッサンからして下手でした。グルメ映画でまずそうな料理が出てきたら成り立たないのと同じで、一番大切な要素である絵がいまいちで、最後まで乗れませんでした」という。これは「ああ、そ、そうなんだ……(汗)」みたいな感じで。ちょっと、たしかに、こういうプロとしての視点もあるのかもしれませんね。

■「視線」をめぐるストーリーテリングを純化させ、ほとんど完璧なほどロジカルに、しかし切実に組み上げられた1本

はい。ということで『燃ゆる女の肖像』、私も、『文春エンタ!』の評のためにちょっと一足お先に、かなり早めに見させていただいた&今回もBunkamura ル・シネマ、久しぶりに行きましたけどね。トータルで3回は見ておりますかね。

ということで、先ほどから言っている『週刊文春エンタ!』、年末の恒例のですね、「ガチンコシネマチャート」という企画で、10本の新作映画を5点満点で星取り評価する。そして80字以内で寸評する、というやつで。本年度、僕が唯一、満点評価した1本であります。

で、ですね、僕の寸評。80字にまとめてますので。もうこれを聞けばだいたい終わりということで(笑)、読みます……「『見る/見られる』視線の関係性を周到に繊細に交錯させることで、人が『思い/思われる』ということの本質を浮き彫りにしてみせる、まさしく映画的!な作劇が素晴らしい」というものなんですが。本当にね、僕は、まさしくこの通りの映画だ、という風に思っているわけで。

誰が、誰を見ているのか。その見られてる誰かは、誰を、あるいは何を見ているのか。あるいは、誰が何を「見ていない」のか、っていう、そういう「見る/見られる」、その視線の交わりやすれ違いを通じて、キャラクター同士の関係性やら何やらを浮かび上がらせる、っていうのはですね……そもそもその、映画というのは、観客がそのスクリーンという、言わば「仮の目」ですね、スクリーンっていう仮の目を通して、作品内の諸々を「見る」メディアですね。

「見る」アートであり、エンターテイメント。「見る」という、その映画という形式らしいというか、映画ならではの語り口なんですね。やっぱり目線を交わして、この人がこれを見ている、それに対して何を見ている、みたいなのは、非常に映画的な語り口と言えると思うのですが。で、本作、この『燃ゆる女の肖像』はですね、そうしたまさしく映画ならではの、映画的な、その視線をめぐるストーリーテリングというのをですね、ひたすらソリッドに純化させ、突き詰めていって、結果その、人が人を思うこと、思われることというのの、剥き出しの本質のようなものをくっきりと浮かび上がらせ、描き出してみせる、という。ほとんど完璧と言っていいほどロジカルに、しかし切実に組み上げられた語り口を持つ1本だな、という風に私は思っています。

しかもですね、これは『文春エンタ』の寸評に入りきらなかった部分なんですけど、その非常に純化された視線、つまり思いのその外側には、決してその視線を主人公たちと交えることのない、というかそもそもあんまり画面に登場しないので、こちら側からも見るっていうことがあんまりない、そういう「世界」の存在……その「世界」っていうのはつまり、この場合は男性中心の、つまり女性は下位、もしくは周縁に追いやられている社会のあり方というものまで、逆説的に、文字通り浮き彫りにしてみせるという、そういう語り口でもある。最終的にはね。

つまりそういう、抽象性、象徴性が非常に高い、ミニマルでソリッドにそぎ落とされた視線、思いの物語、非常に超純粋なラブストーリー、っていうのと同時にですね、その裏側には、一応18世紀フランスを舞台としつつも、現実の「この社会」と地続きというか。この現実の社会を射程に入れた、非常に鋭いメッセージ性も実は全編にはらんでいる、という。いろんな意味で完全体っていうか、そんな一作と言っていいぐらいだと思っています。脚本・監督、セリーヌ・シアマさん。

男の「見る」視線と女性の「見る」視線は等価でない

日本での公開作がね、デビュー作の2007年の『水の中のつぼみ』というやつと、あとは脚本で参加したストップモーションアニメ、これ、傑作でしたね、『ぼくの名前はズッキーニ』という2016年の作品ぐらいしかなくて。僕も、ちょっと本当にすいません、ちょっと準備が間に合わずというか、準備が足りておらず、今のところその2本しか見られていない状態で、本当に不勉強で申し訳ないんですが。

その『水の中のつぼみ』にも出ていた、今回のそのエロイーズ役……要はその肖像画を描かれる、裕福な家の娘さんを演じているアデル・エネルさんというのは、実はこのセリーヌ・シアマさんの元パートナー、っていうね。ずっと同居されていて、で、パートナーシップをこの映画の製作直前に解消されたっていう。まあそんな話を聞いて見ると、本作もすごく、じゃあ私的な感情も入った作品なのかな、なんていう風にも思っちゃいますけども、まあそれはそれとして、本作、その『燃ゆる女の肖像』。

たしかに女性同士の恋愛、レズビアンの恋愛が描かれてはいますけど、それは、単にその作り手のセクシュアリティがそうだからというのではなくて……仮にね、これ想像してみるとすごく分かりやすいんですけど、これ、異性愛として描くとですね、やっぱり現実世界、現実社会の不均衡、差別的な構造という、要は政治性がこれ、どうしても入っちゃうんですね。男が相手だと、やっぱりそれは。

というか、少なくともセリーヌ・シアマさんはそう思っているわけです。で、さっき言った、極度に純化された、純粋にその「見る/見られる」関係、純粋に「思い/思われる」ラブストーリーが成り立たなくなってしまう。男の「見る」視線というのが女性の「見る」視線と等価でない、という現実がある以上、政治性をはらんでしまう。つまり、さっき言ったようなですね、「見る」アート、エンターテインメントとしての映画、その視線が、長らくその男性的な原理に、無自覚、無批判に独占されてきた歴史というのが正直、あるわけです。たとえば女の人、ラブシーンとかセックスシーンを描くっていう時、やっぱりその男性の目線……女性同士のラブシーンであっても、やっぱり男性の目線である、というようなところが支配してきた歴史があって。

そこに改めて疑義を突きつけるような、そんな言わば革命的な語り口っていうのが、そのセリーヌ・シアマさんの作品、僕が見た中だと唯一の実写作品『水の中のつぼみ』もやっぱり、そういう作品でもありました……そういう目線というか、その意識がある作品でしたし、特に今回の『燃ゆる女の肖像』は、そこを本当に究極的に突き詰めた、研ぎすました1本、という言い方ができるかなという風に思っています。

■序盤で描かれるのは「見てない」男性たち、「籠の鳥」のエロイーズの母、自死?した姉……

で、まず冒頭。時制的にはお話の中で一番先にあたるところ。主人公の、画家である……ただ画家と言っても、社会的には、おそらくは高名な画家である父親の陰に隠れた存在としてしか扱われていないっぽい、主人公のマリアンヌ。これを演じるノエミ・メルランさん。ちょっと僕、エマ・ワトソンとかとも通じる、凛とした、知的な存在感が非常に素敵だな、と思いましたけど。

とにかくその彼女が……絵画教室ですね。スケッチする女性の学生たちがいる。その女性たちが、モデルとなるその彼女を「見る」、目ですね。その真剣な「見る」目と、それを自分なりに脳裏に焼き付けてから描く、スケッチする、という手が見える……早くも本作の主題が提示されるわけですけども。で、その教室にあった、謎めいた1枚の絵。なんか野原の中にポツンとむこうを向いて立っている、ドレスを着ている女性の裾に、火がついている、という謎めいた絵がある。

で、その絵が生まれるに至るその記憶というのを、マリアンヌの回想で、ふっとこうやって(回想して)いく……っていうのが本編の始まりなんですが。で、さっき言ったように、そのエロイーズさん。お金持ちの娘さんの、お見合い写真ならぬ、お見合い肖像画を描くために船で孤島に向かっている、というところから始まるんだけど。ここも非常に、まずは象徴的。まずその男性の漕ぎ手たちは、全員背中を向けていて、顔も見えないんですね。で、船頭はこっちを向いてるんだけど、やっぱり「見て」はいない。視線が別に交わるような関係ではない。

で、島に入ってからは、ほぼ女性しか映らないんですね。この映画はね。なので、この映画における男たちの、言ってみればその「見てなさ」「見えなさ」っていうか、その描写というのが、要は大変よそよそしいというか、完全に男性っていうのは「他者」である、というような描き方が、冒頭からあるわけです。で、とにかく見合い用の絵……見合い用の絵と言っても、それはあくまで先方の男性、間違いなく富と権力を相応に持っている男性側のためのもので、当のモデルとなる女性には選択権はない、ということなんですね。

で、そのヴァレリア・ゴリノの演じるそのエロイーズのお母さんが、自分の肖像画を指して。「私が来るより先に、この館には自分の肖像画が届いていて、自分を出迎えたんだ」っていうことを言う。つまりこれは、その自分の嫁入り時のエピソードですけど、要するに「最初から籠の鳥であることが決められた存在」としてのその良家の女性、っていうことを、このエピソードは語っているわけですよね。で、彼女はそれを受け入れて生きてきた。

だからこそ、序盤はまだ姿すら見せていない、話にしか登場しないそのエロイーズは、肖像画を描かれること、つまり、「見られる」ことさえ拒絶してきたし、そのお姉さんはどうやら自殺した、というエピソードが語られる。で、ですね、ここが非常に本作のスリリングな構造のひとつ、元となっていて。要するにマリアンヌは、肖像画を描くために、エロイーズをですね、「散歩の相手だ」って嘘をついて……エロイーズを、特に前半ではその絵を描きに来たという目的を隠すために、チラリチラリと盗み見ては、その景色を覚えて、描く。

つまり、より強く脳裏に焼き付けながら描く、という、そういう描き方をしていて。そのプロセスの中で、彼女にだんだん強く惹かれていくようになるという。

中盤。マリアンヌが一方的に「見ている」だけでなく、エロイーズからもしっかり「見返されていた」ことが分かる

たとえば最初に(散歩に)行くシーン……要するに彼女、エロイーズが、最初に登場するシーン。最初、姿は見えないわけですね。最初は、その前に描かれた肖像画も、顔が消されていて見えない。非常にミステリアス。で、絵に描かれたドレスがフッと来るから、「あっ、本人かな?」と思ったら違った。ドレスだけを持ち歩いていた。

で、「散歩に出ます」ってなるけど、顔がまだ見えない状態で、青いローブを被っていて。もう何も見えない状態で、背中だけが見える。そうすると、途中でふっと金髪が、そこからまろび出てですね。「あっ、本人だ。本物だ!」っていう感じがする。で、崖の方にワーッと行って。「あっ、ちょっと待って、待って! お姉さんみたいなことをしちゃうの?」って思ったら、パッとやおら振り向かれ……要するに、後ろからこっちが一方的に見ていると思ったら、バッと振り向かれ、見られて、ドキッ!みたいな。

で、そこからですね、並んだ2人がですね、並んで海の方を見てるんですけど、このマリアンヌ側が、チラチラと右側にいるエロイーズ側を見る。見ると……最初は(こっちを)見ていない。もう1回見ると、見てる!みたいな。こうやって、見ていないって思ったら、見ている!みたいなその、「見る/見られる」によるその(両者の心理的)距離の、絶妙なドキドキ詰め合い、みたいなもの。この作りも非常に見事だったりするわけですが。

とにかく、マリアンヌは(エロイーズに)惹かれていく。で、中盤。そのマリアンヌが、要するに自分は絵を描くために一方的に見てるんだという風に思っていたんですが、実は、エロイーズからもしっかり見返されていた、ということが途中で判明するわけですね。これ、メールで書いていただいてる方も多かった。私、ちょいちょい言う「見る/見られる」関係の逆転、っていうのがですね、先ほど言ったようなその映画の構造もあって、映画における最もスリリングな瞬間……一方的に見ているつもりだったけど、実は向こうからも見返されていた、という、「見る/見られる」関係の逆転というのがスリリングな瞬間だ、ということはいつも言ってることですけど。

本作においてはつまりそれは……お互いに見てるし、見られてるっていう、これは要は、「両思い」っていうことですよね。(特に本作においては)「見る」っていうのは「思う」ということでもある、という。だからこそエロイーズは、自らマリアンヌの視線にさらされること、すなわち、絵を描かれること、というのを望むわけですけど。好かれたいから。「好き」っていう風に……お互い見て、見られたいから。絵を描かれるっていうことは、「見られて、見る」ことだから、なんだけど。

■女性たちだけのユートピア世界が現出したような時間が流れる

ところが、それは同時に、肖像画の完成が進むということはつまり……しかも、その肖像画ってのは、もう恋もしてるし、よりお互いを理解し合ってるから、前に描かれた肖像画よりも、より素敵に描かれるであろう肖像画の完成、それはすなわち、2人の別れであり、そして望まぬ人生の中にとらわれることをエロイーズにとっては意味する。そしてマリアンヌからすれば、自らのその目線で……つまり、その思いを注いだまさにその成果たる作品によって、彼女を閉じ込めることになってしまう、という、こういうパラドックスがあるわけですね。これが非常にスリリング。

面白いのはですね、そのマリアンヌとエロイーズの、その目線が一致する……中盤でね、お互いに見てたんだねと。お互い見てた、お互い好きだったんだね、っていう目線が、平行に一致するその中盤以降ですね、そのメイドのソフィ、これを演じるルアナ・バイラミさんという方、非常に素朴そうな瞳がまたまたハマっているわけですけども、メイドのソフィも入れたこの3人。それぞれ身分の違う、立場も違う、抱えている問題も違う3人の女性の立ち位置が、非常にフラットに、カジュアルなものになっていく。

ひとつの画面の中に3人が収まったり、なんなら3つ平行に並んでいたりすることが増えていく。終盤に向けての非常に超重要な伏線ともなっている、ギリシャ神話オルフェウスとエウリュディケのエピソード。これについての議論であるとか。あるいは、その「燃ゆる女」という絵の直接のモチーフとなった、決定的な瞬間が立ち現れる、島の女たちの、あの夜の謎の集会ね。

全体の中でここだけ、オリジナル曲が輪唱的に歌われて、非常に呪術的に盛り上がっていく。こんな呪術的に盛り上がって、火でぼーっとなっていたら、これは気持ちにも火がつきますよ!っていう感じのところであったりとか。そしてやはりですね、途中で、徹底した男性の不在っていうのがよりその不条理さを際立たせるような、そのメイドのソフィの妊娠・中絶をめぐるエピソード。ここ、その中絶と出産、つまり赤ん坊とが文字通り並べて描かれるというこの構図の、なんていうかな、鋭さというか、強烈さというか。ここもすごいあたりでしたね。

そんな感じで、女性たちだけの平等な世界が、いっとき現出したかのような……非常に、もちろん中絶とか大変なこともあるんだけど、そこだけは何か、ユートピアめいたものが現出したようにも感じられる時間。その中で、マリアンヌとエロイーズの恋も、ノンブレーキで加速していく。ただし、性描写みたいなもの、性愛描写は、非常に控えめというか、性愛描写そのものをもって消費されないバランスに、非常に気をつけて描かれてるなという風に思いました。要するに、「あそこ、エロいよね」みたいな視点に消費されないように描かれている、と思いました。

この映画がすごいのは、ふたりの関係が終わったあとのエピソード。「見る/見られる」演出の真髄。

で、ですね、ついに絵も完成してしまい、その楽園のような時間に、終わりが訪れる。エロイーズのお母さんも帰宅するよ、なんていう日がやってくる。ここでですね、非常にやっぱりね、自分でもびっくりしちゃうのは、絵を受け取りにやってきた男の人、その船で持って帰る人が、家の中に、ある日階段を下りていったらいつもの食卓にいるだけで、ドキッとしてしまう異物感がある。この、楽園がもう失われた感が半端ない、って感じがありますよね。

で、その絵が完成した直後からマリアンヌがちょいちょい見る、あるビジョンが、さっき言ったオルフェウスのエピソード、その解釈と鮮やかに重なる形で……重なったその瞬間に、ストンと全て、その2人の関係というものが終わる。ここのストンと終わる感じも、うわっ!っていう感じで鮮やかでしたしね。で、ですね、ここで終わっても十分にすごい映画だと思うんだけど、この映画がすごいのは、その先、つまり、2人が最後にお互いを見た、その瞬間から後のエピソード。ここに「見る/見られる」演出の真髄、みたいなものが大展開される。

先ほど言った、絵画教室のシーンに戻って、現在のマリアンヌ……まあ生徒たちから見て寂しそうには描かれてるけど、もう大丈夫、つまり、彼女的には全てが終わった後の彼女、という。その回想で、まず最初にエロイーズ、彼女と初めて再会したのは……っていうことで。要するに、展覧会ですね。多くの人が行き交っている。大半は裕福そうな男性が行き交っている会場内を歩むマリアンヌ。しかしマリアンヌ……つまり観客とこの男性たちは、目が合わない。視線が交わらない。

つまり、男性優位的なこの社会というのが、実はあの島の外側には広がっていて、彼らとはそのフラットな「見る/見られる」、つまり「思い/思われる」関係というのが最初から成り立たない社会なんだ、ってことが改めて突きつけられるわけですね。目線が交わらない、という画を通じて。で、しかもマリアンヌの描いたそのね、オルフェウスとエウリュディケの絵ですよ。それはエロイーズと過ごしたあの海岸の場所をモチーフに描かれた、その絵も、お父さんの名義で出品されていて……という。現実にもよく、いっぱい歴史上でもあったこの構図が示されたりする。

そんな中で、マリアンヌの方をまっすぐ見る、ひとつの目があります。これが何か、ということですね。「籠の中にとらわれる」シンボルとしての肖像画……つまり、「嫁」の次は「母」という立ち位置に閉じ込めるための絵でもあるわけですけども。その中でさえもですね、エロイーズは、ひとりの人間として、しっかり、しかも間違いなく、マリアンヌのことを、見ている……つまり、思っているのだ、ということを示す、ある感動的なくだりがある。

■恐ろしいほど周到な、完璧なエンディング。これを傑作と言わずして何を言うのか?

で、ここで終わってもものすごい感動的な映画なのに、この映画は、さらにその先がある。「最後に彼女と会ったのは……」というこのエピソード。ここはもう、もはや多くは語りません。「見る/見られる」関係という本作全体を貫くモチーフがですね、意外な、しかし激しく胸を打つ形で、変奏されていく。まあ解釈は人それぞれあるようなラストですが、そうなっていく。しかもそれは、前半、マリアンヌがエロイーズに弾いてみせたある曲、話した内容、それを踏まえた、その音楽的でもあり、さっき言ったアート全般の救い、というような伏線回収にもなっている、という。もう、完璧なエンディングですね。恐ろしいほどの周到さ、という。

クレア・マトンさんの撮影とかも含めて、本当に全てが素晴らしく……みなさんも「絵画のようだ」と仰ってましたが、バチッとハマったショットの全てが美しかったですし。とにかくその、映画ならでの語り口というのをですね、現代のその女性の作り手として突きつめ、更新してみせた結果、これ以上ないほど純粋なラブストーリーというものを醸成してみせた、という。これを傑作と言わずして何を言うのか、という……こういうのが年末ランキングぎりぎりにやってくると、ただでさえ迷ってんのに困るな! という大傑作です。ぜひぜひ劇場でご覧ください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『ワンダーウーマン 1984』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!

◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

冬の陽だまりで聴きたい台湾インディーロック特集Part 2(高橋芳朗の洋楽コラム)

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音楽ジャーナリスト高橋芳朗さんによる洋楽コラム(2020/12/24)

『冬の陽だまりで聴きたい台湾インディーロック特集Part 2』

冬の陽だまりで聴きたい台湾インディーロック特集Part 2http://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20161010040000

radikoで放送をお聴きいただけます(放送後1週間まで/首都圏エリア無料)

 

高橋:本日はこんなテーマでお届けいたします! 「冬の陽だまりで聴きたい台湾インディーロック特集Part 2」。

スー:「Part 1」はいつでしたっけ?

高橋:「冬の陽だまりで聴きたい台湾インディーロック特集」の第一弾は今年1月31日。その前、2018年12月14日に「まったり聴きたい最新台湾インディーロック特集」をやっていますね。

スー:じゃあ通算で3回目なのね。

蓮見:音楽コラムが木曜日に引っ越してきてからは初めてですね。

高橋:台湾インディーもここ数年でぐっと注目されるようになりましたけど、まだまだ聴く機会は少ないですよね。

スー:韓国のインディーロックやシティポップはだいぶ耳にするようなったけどね。

高橋:そんなわけでここ数ヶ月でリリースされたものを中心におすすめの台湾インディーロックを4曲紹介していきたいと思います。一曲目は、The Fur.の「Oh Why」。12月10日にリリースされたセカンドアルバム『Serene Reminder』の収録曲です。このThe Fur.は2016年に結成された男女デュオ。2018年12月の台湾インディーロック特集でも取り上げているので覚えている方も多いのではないかと。基本的に前作の路線を踏襲した清涼感あふれるギターポップですが、よりキャッチーに洗練された印象があります。

M1 Oh Why / The Fur.

 

スー:かわいらしいねー。

高橋:蓮見さん、陽だまり感あると思いません?

蓮見:ありますねー。でもちょっと夜な感じもしていて。彼女をサッカーの試合に連れて行ったんだけど、やっぱり彼女のことが気になりすぎて試合に集中できないみたいな。

スー:あー、いい! いいシチュエーション思いつくね!

蓮見:そのふたりがいるスポットだけが陽だまりになっているみたいな……ごめんなさい、ちょっと妄想が(笑)。

高橋:このコーナーを通じて蓮見さんの妄想家としての才能がすっかり開花しました(笑)。

スー:彼女は一生懸命応援してるのよね。だけど隣が気になって仕方がないという。

蓮見:いやー、いい曲!

高橋:二曲目は、先週水曜日のTBSラジオ『アフター6ジャンクション』でスタジオライブを披露したHuan Huanの「Lauren」。11月20日に日本盤がリリースされたデビューアルバム『Water Can Go Anywere』の収録曲です。Huan Huanは2017年にデビューした男女混成の3人組バンド。バンド名は漢字表記で「緩緩」と書くんですけど、そのグループ名通りの穏やかなフォークサウンドが特徴です。ボーカルでソングライターのココ・シャオによる透明感のある歌と美しいメロディも含めて、まさに陽だまりで聴きたいサウンドのジャストなイメージなのではないかと。

スー:パンダっぽいね。「ホァンホァン」って。

高橋:これは音楽的に蓮見さんがどんな妄想を披露してくれるのか非常に楽しみです(笑)。

M2 Lauren / Huan Huan

 

高橋:めちゃくちゃかわいいでしょ?

スー:かわいい!

蓮見:かわいいですねー。かわいいかわいい!

高橋:僕はこういう甘酸っぱい曲が大好きで。どうしてもそういう傾向のものを選びがちだから、蓮見さんの妄想も自ずと甘酸っぱくなってくるという。

蓮見:甘酸っぱくなりますよね。この曲は横浜中華街を彼女と歩きながら肉まんをほおばっている感じ?

高橋:アハハハハ! ちょっと中華風な旋律も入ってましたもんね。

スー:Huan Huan、Spotifyのアカウントさっそくフォローしました! めちゃくちゃかわいいよねー。ちょっと湿度があるところがまたいい!

高橋:好評でうれしいです! 続いて三曲目はSunset Rollercoaster(落日飛車)の「Under The Skin」。10月30日にリリースされたサードアルバム『Soft Storm』の収録曲です。Sunset Rollercoasterも以前にこのコーナーで紹介済みですね。2011年にデビューした5人組バンド。すでに何度も来日公演を行っていることもあって現状日本で最も人気のある台湾インディーバンドといってもいいでしょう。彼らは以前より日本のシティポップとの親和性が指摘されていて、メンバーもはっぴいえんどからの影響を認めていたりするんですよ。これから紹介する曲はこれまでの作品中でも最も日本のシティポップ要素が色濃く反映されているのではないかと思います。

M3 Under The Skin / Sunset Rollercoaster

 

高橋:この心地よいメロウネス……まさに陽だまりでまどろみたい感じですよ。

蓮見:この曲、ドライブ感ないですか?

スー:ある!

蓮見:木更津方面から海ほたるに向かって車を走らせて……「海ほたるに寄ろうかな?」と思ったんだけど、あえて寄らないで海底トンネルを走り続ける。窓を開けると風の音がうるさいから閉めきって、このゆったりしたメロウな感じを楽しみたい……「アウトレット、楽しかったな」なんて言いつつ(笑)。

高橋:木更津のアウトレット(笑)。これ、蓮見さん実際に行ってますね?

スー:具体的すぎるでしょ(笑)。

蓮見:フフフフフ……なんかね、シティな感じがしました(笑)。

高橋:では最後の曲にいってみましょう。Shallow Levee(淺堤)の「Dear Friends」(永和)。8月に日本でリリースされたファーストアルバム『The Village』(不完整的村莊)の収録曲です。Shallow Leveeは2016年にデビューした男女混成の4人組バンド。穏やかで朴訥としたボーカルとタイトなリズムセクションとのマッチングが絶妙なのでそのあたり注意して聴いていただけますと。

M4 Dear Friends / Shallow Levee

 

スー:展開がおもしろい曲だねー。ちょっと骨太なロック感も無きにしもあらずで。

高橋:最後のこの曲のみ歌詞が中国語でした。蓮見さん、いかがでしたか?

蓮見:「コーヒー一杯分だけ愚痴につきあうよ」って感じかな?

スー:アハハハハ、いい感じ!

高橋:この実体験に基づいていると思われるリアルな妄想(笑)。

蓮見:「コーヒー一杯分だよ? 言ってごらん?」みたいな(笑)。

スー:わかる! そういうイーブンな関係の相手とのちょっとヒリヒリした感じもありつつのやつ!

高橋:蓮見さんと奥様との甘酸っぱい日常が垣間見れますな。

スー:妄想じゃなくてほぼ現実だからね(笑)。

蓮見:まあね。半々かな?(笑)

高橋:フフフフフ。今日紹介した4曲はすべてミュージックビデオもキュートな作りになっているのでぜひYouTube等でチェックしてみてください!


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宇多丸、『ワンダーウーマン1984』を語る!【映画評書き起こし 2020.12.25放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『ワンダーウーマン 1984(2020年12月18日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。2020年最後に扱うのは、12月18日から日本では公開されているこの作品、『ワンダーウーマン 1984』

(曲が流れる)

アメリカンコミックの老舗「DCコミックス」を代表する女性ヒーロー、ワンダーウーマンの単独映画第2弾。舞台は1984年。人々の欲望を叶える謎の力を持つ実業家マックスと、新たな敵チーターの出現により、世界崩壊の危機が訪れる。世界を救うため、ワンダーウーマンことダイアナが立ち上がる。前作にも出演したガル・ガドット、クリス・パインに加え、ペドロ・パスカル、クリステン・ウィグが出演しております。監督は前作に引き続き、パティ・ジェンキンスさんが務めました。

ということで、この『ワンダーウーマン 1984』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「多め」。やはりね、「待っていました!」という方が多いんじゃないでしょうか。公開も延びましたからね。しかし、賛否の比率は真っ二つ。割れております。褒める意見が半分弱。それに対して、「微妙」「煮え切らない」という意見が半分強、届きました。

褒める意見としてあったものは、「オープニングの競技会シーンがアガる!」「終盤のカタルシスから最後には泣かされた」「コロナ禍やトランプ政権を経た今だからこそ、真実をめぐる真摯なメッセージに胸を打たれた」「映画館で公開してくれてありがとう」といったものがございました。一方、否定的な意見としては、「序盤の盛り上がりがピーク。あとは尻つぼみ」であるとか、「シナリオがガタガタで話し運びがぎこちない」とか、「いろいろ説明不足で突っ込みどころが多すぎる」などがございました。

褒める人もけなす人も、とにかくワンダーウーマンを演じたガル・ガドットは素晴らしい、という点は共通していました。まあ、だったらもう合格だろ!って気もしますけどね。

■「一般的なスーパーヒーロー映画のカタルシスは薄いが、それとは別のベクトルのよさがある」byリスナー

というところで、代表的なところををご紹介いたしましょう。ラジオネーム「蛸野郎」さん。「『ワンダーウーマン 1984』、公開初日にIMAXで見てきました。絶賛票にカウントしてください」と。

それでいろいろと書いていただいて。まず前作『ワンダーウーマン』はこういう作品でした、ということを書いていただいて……「『ワンダーウーマン 1984』は、前作の最良の部分、つまり『優しさは常に強さに勝る』という原理を物語の根底に据えつつ、ポスト・トゥルース時代のアメリカへのカウンターとして、『真実を受け入れることこそが真の強さなのだ』というテーマを描いています」。で、「今作において、優しさはあらゆるレベルで表現されています」という。

まあ、劇中のいろいろなエピソードがそうであるということを書いていただいて。「──登場人物に注がれる視線もとても優しいもので、150分ある上映時間の大半は、主要キャラクター3人の人物描写に割かれています。キャラクターに対して徹底的にフェアで丁寧な脚本です。本作のヴィランの1人であるマックスは、いわゆる『男らしさ』の呪いにとらわれ、成長という強迫観念に取り付かれた存在です。

彼が石の力で願いをかなえ、一気に自己実現を果たして行く様は、行き過ぎた資本主義の象徴として機能しているようにも思えました(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公を彷彿とさせます)。もう1人のヴィランであるバーバラは、ワンダーウーマンと対になる存在として描かれます。男性社会における競争原理を内面化してしまい、自身を責め苛む存在です。それぞれに異なる強さを求め、それによって自身の身を傷つけてしまう。

ヴィランたちを救うのは優しさでしかありえません。その意味で、ダイアナが途中弱体化してしまう展開は、理にかないすぎています。強さではなく、優しさゆえに人はヒーローになることができるということ。これはヒーロー物における黄金律だと思います」。ちなみにこの方も、「そしてだからこそ、バーバラとの決着のつけ方には不満を感じずにはいられませんでした」とも書いているということです。

「冒頭の少女時代のダイアナの回想シーンにおいて強調される『近道への誘惑と失敗』が安易な『嘘』になびかずに『真実』を直視することの大切さ、というテーマとして、映画全体を通して結実していくところも上手いなと思いました。コロナ禍の影響で公開時期がずれにずれてしまいましたが、大統領選を経て陰謀論がはびこるアメリカへの痛烈なカウンターとなっているという意味で、公開延期が功を奏したということも言えると思います(この映画では快楽への近道としての陰謀論が真正面から批判されているので)。

そして、近道を否定した先で描かれる、あまりにも人間愛に溢れる行きすぎたラストシーンは、世界に対する肯定感に満ち満ちたとても清々しいものでした。このラストシーンと冒頭のワンダーウーマンの初登場を描いた一連の牧歌的なシークエンスからは、まるでリチャード・ドナー版の『スーパーマン』のような能天気さが感じられます」。これ、私も後ほどちょっと言及したいと思いますが。

「それはこの映画が、絵空事の力を信じる人間たちによって作られたものであることを示す大きな証拠です。そしてアメコミ映画において、それ以上に大切なことは存在しないと僕は思います。正直、所々にぎこちなさのあるかなり変なバランスが映画だとは思います。一般的なスーパーヒーロー映画において得られるタイプのカタルシスは薄い作品です。しかし、だからこそ、それとは別のベクトルによさがあるという意味で、ジャンルの枠を広げるタイプの作品だと思いました」という。長々と引用しましたが、蛸野郎さんです。ありがとうございます。

一方、ダメだったという方。「あるぴこ」さん。「DCエクステンデッドユニバースにとって起死回生の一発だった前作『ワンダーウーマン』。『アクアマン』に『ハーレイ・クイン』となかなかの良作が続くDCなだけに、相当な期待をして見に行きました。ですが、冒頭のショッピングモールでのシーン。タイトルに『1984』と入ってるだけに、80年代アメリカ映画風な編集、あえてのチープなVFX、ちょっとわざとフィルムグレインが粗めにかかった映像と、このシーンだけでも満足、最高だと思っていたのですが……最高だったのはそこまで。後半に行くにつれて、なんとも鈍重な展開に飽き飽きしてしまいました。

ダイアナ、マックス、バーバラの3本軸がうまく混ざり合っていないのではないか? 人物が切り替えるたびに毎回リズムを崩されているようで、積み上がっていなくて退屈。バーバラがマックスにあそこまで思い入れるのも何だか腑に落ちないし、ダイアナとバーバラの関係は最初に『仲良くなりました』みたいな描写があっただけ。ゆえにラストのカタルシスもない。ラストもなんかセリフで説明しちゃっていて、お説教くさくて嫌だ」ということでございました。ということで、「期待値が高かったがゆえに粗が目につく、なんとも残念な作品だったな、という感想です」というメールでございます。

■内容的にも興行的にもハードルをクリアしていた前作『ワンダーウーマン』

ということで、皆さんありがとうございます。私も『ワンダーウーマン 1984』、丸の内ピカデリーでドルビーシネマ、そしてTOHOシネマズ日比谷でIMAX、見てまいりました。今回、1部シーンがね、冒頭のその超人オリンピック、アマゾンオリンピックのシーンなどがIMAX撮影なので、(評するにあたってIMAXでの鑑賞は)マストかと思いました。ただ正直、僕が見た回は2回とも、あまり入っているとは言い難かったですね。はい。

ということで、公開が延びに延びた、まさにコロナウイルス禍をモロに食らってしまった超大作と言えると思いますが。2016年の『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』で、もうあの、作品全体をどうでもよくさせるほどのインパクトで(笑)鮮やかに登場した、ガル・ガドット版ワンダーウーマン。それで翌2017年に、今回と同じくパティ・ジェンキンス監督……それまではね、シャーリーズ・セロンがアカデミー賞を獲りました、2003年の作品『モンスター』で知られたパティ・ジェンキンス監督が撮った、その単独の前日譚が作られ、これも大ヒット。これ、特に、女性監督による女性スーパーヒーロー物、超大作として、きっちり内容的にも、そして興行的にも成果を残してみせた、という点でこれ、歴史的にも非常に意義がある一作となったと思います。

まあ細かいことを言うと、僕はちょっといろいろ、これはどうなんだ、みたいに思うところもある作品ではありましたが……でもまあ、全体的にはすごく、ハードルをクリアした作品だと思います。全体にグダグダ感が否めないDCエクステンデッドユニバース作品の流れの中では、このガル・ガドットのワンダーウーマンと、マーゴット・ロビーのハーレイ・クイン、いずれも女性キャラクターが際だって光っている、というのが印象的かなと思いますね。はい。

で、まあ今回、パティ・ジェンキンスが脚本から参加したこの二作目……ちなみに脚本を共同で書かれているのはですね、DCコミックスのジェフ・ジョーンズという方で。この方、ウィキペディアによれば、キャリア初期には、先ほども出ていました、言わずと知れた現代スーパーヒーロー映画のパイオニア、1978年『スーパーマン』の監督リチャード・ドナーに、直接師事していた方、ということらしいんですけどね。はい。

■今作のヴィラン「マックス・ロード」は、ドナルド・トランプに寄せた、崖っぷちに追い詰められたビジネスマン

で、ですね、今回は、第一次大戦期のヨーロッパが舞台だった前作と打って変わって、1984年のアメリカ。とにかくその物質主義、資本主義の調子コキ最高潮!って感じですね。で、あると同時に、冷戦真っ盛りで、本当に全面核戦争=即人類滅亡!という恐怖が、わりと世界をリアルに覆っていたという、そういう時代感でもあるという。

で、そんな中でですね、資本主義的欲望全肯定で成功したビジネスマン……というか、成功したビジネスマンを必死で装いながら、実は崖っぷちに追い詰められているという。これがペドロ・パスカルさん。今ね、『マンダロリアン』でも更にイケてる感じですけども。ペドロ・パスカルさんが、ルックスなどの作り込み含めて、だいぶ明らかに、ドナルド・トランプにはっきり寄せているキャラクター、このマックス・ロードというのがいる。ドナルド・トランプもね、ビジネス的には実はあの人、失敗した人ですからね。で、いろいろとロシアからお金を借りたりとかっていうような人ですから。

という、マックス・ロードがですね、まさにその、資本主義ですね。その、欲望を動力に、後先など考えずに突き進む、資本主義のモンスターと化していく。で、そのプロセスで、主人公たるそのダイアナ、ワンダーウーマンも、自らの個人的願望とそのスーパーヒーローとしての使命の間で引き裂かれ……という、まさしく本当に『スーパーマンII 冒険篇』的な葛藤にぶち当たりもするし。一方では、クリステン・ウィグが非常にハマっているという、いわゆる負け犬キャラ。

この負け犬キャラが転じて……というのは僕は、『バットマン・リターンズ』のキャットウーマンなんかもちょっとこだましているのかな、と思いましたが。クリステン・ウィグが最高のハマり方で演じる、いわゆる負け犬キャラ、バーバラというのがですね。ワンダーウーマンのダイアナに憧れつつも、そのダイアナが体現する「持てる者発の正しさ」みたいなものに反発……コンプレックスの反動で、欲望を肯定するマックス側についていく、という。「あんた、偉そうなこと言ってるけど、そんな何でも持ってる側に何か言われたって私、何の得にもなってないじゃないの?」みたいな。

つまり、主にヴィラン側には、やっぱり明らかにドナルド・トランプと、その支持者層の心情みたいなものがですね、象徴させられているようにもはっきり見えるという。まあ、まずはこの、基本的なお話の構造が、面白い、興味深いあたりかなと思いますけどね。

■音楽に代表されるように、今作はリチャード・ドナー版、クリストファー・リーヴ主演版の『スーパーマン』に寄せてきている

で、順を追っていきますけどもね。まず冒頭。そのダイアナの幼少時、セミッシラ島での、超人オリンピック、アマゾンオリンピックが開かれている。

前作は、その生まれ育ったセミッシラ島のくだりが、いきなりちょっと長めで、僕は「なんかかったるいな……まだ続くのかな……」みたいな感じで見てたんですけど。今回はこの場面、IMAX撮影ゆえの空間的な没入感と、特にその『SASUKE』的なアスレチック装置の楽しさ。そして何より、実際にそのシルク・ドゥ・ソレイユなどから集めてきたという、本当に体技に優れた皆さんたちの動きの素晴らしさ、などなど、視覚的に楽しいサービスが盛りだくさんで。非常にド頭で掴んでくる。

あと、これは全編に渡って言えることなんですけど、ハンス・ジマーがね、今回も音楽を担当してるんですけど。『ジャスティスの誕生』での登場以来、パワフルなドラミングと、ちょっと『移民の歌』風というかな、あのメロディー、「デレレレーレーレーデデーンデーン♪」っていうね、あの印象的なあのテーマ曲。今回も、先ほども流れたように使われてはいるんだけど。もちろんそれが基調となっているんだけど。

今回は、全体的にはそれが、クラシカルなオーケストレーションで、明るく壮麗にアレンジし直されてて。言ってしまえば、ジョン・ウィリアムズチックな方向に、かなり軌道修正されていて。言っちゃえば、要はクリストファー・リーヴ版『スーパーマン』寄りな正統派スーパーヒーロー感に、音楽も大幅に軌道修正されている。で、それは特にやっぱり、ガル・ガドットの演じるワンダーウーマンの「ど真ん中」感というか……僕、クリストファー・リーヴ級だと思うんだけど。

つまりスーパーマンとかワンダーウーマンという、ただの強い人じゃなくて、神的な心の正しさ、みたいなところまで体現しなきゃいけないという、結構大変なキャラクターなんだけど。それをしかも陽性に演じる……だからその、新しい方のあのスーパーマンみたいに、陰をつけた造型っていうことはまだできても、完全に陽性に造型するって、なかなか難しいことで。誰にでもできることじゃないと思うんだけど、ガル・ガドットの、クリストファー・リーヴのスーパーマン級にハマっているワンダーウーマンには、こっちの方向がぴったりだと思うんです。

で、実際、音楽だけではなくてですね、これはキネマ旬報でアメコミ翻訳者の関川哲夫さんという方が寄せられている文章でも指摘されてることなんですが、さっき言ったそのジェフ・ジョーンズさんが、そのリチャード・ドナーに師事していたということも含めてですね、どっかでやっぱりその、リチャード・ドナー版、もしくはそのクリストファー・リーヴ主演版の『スーパーマン』オマージュというか、そこに寄せてきてる、という感じが非常に強い作品だと思います。

■ディテールが醸し出す「陽性」な世界観

あの、オープニングクレジットが出る時の……いちいちクレジットが出る時に「シュパーン! シュパーン!」って音がついている感じとかもそうだし。もちろんそれは、舞台となる1980年代アメリカのムードを反映させたものでもあって。まあ、その『WW84』っていうタイトルが出て、街中の様子が映し出される。さっき言ったそのマックス・ロードっていう今回のヴィランがテレビを通して説く、資本主義的欲望の全肯定ですね、そのセリフに乗せて、人々はですね、ゴミを無造作にポイ捨てしたり、車をヤンチャに乗り回したり、いかにも80年代アメリカ資本主義のカリカチュア的な動きをしてるわけですね。

あるいは、ジョギングしたり、ゲーセンで騒いだりという、ザ・80’sな風俗があって。それがですね、そのベタなコメディタッチで連なっていく、というこの感じ。これも、『スーパーマン』で言うと『スーパーマンIII 電子の要塞』のオープニングに通じるテイストだし。そこからワンダーウーマンとしての見せ場となるのが、やはりこれ、ショッピングモール。80年代アメリカ的資本主義のシンボル。てらさわホークさんも指摘している通り、まさに『コマンドー』な舞台というかね。

それでここね、宝石強盗たちが出てくるんですけど。細かいところだけど、宝石強盗の一味のボスが、子供が危険にさらされた事態には、「ちょっとお前、それはやめろ!」っていう風におののいているあたりに……こういうディテールが、物語内世界をほんのり陽性にしているというかね。暗くしない感じになっている。こういうところも意外に大事だと思ったりします。で、ワンダーウーマン。「ヘスティアの縄」っていうあのロープを使ったアクションをそこでやるわけです。

前作のアクション見せ場、一作目はね、わりとザック・スナイダー的なやり方を一応引き続いていた感じだったんですね。つまりその、スローモーションとCGを多用してダークにやるあの感じに対して、今回は結構見せ方をガラっと変えていて。ロープとか、その「滑り込み」アクションですね、滑り込みを使った、このワンダーウーマンならではのフィジカルなアクションの個性を、よりはっきり打ち出していますし。

VFXとかもですね、やはりこれ本当に『スーパーマン』時代、1970年代後半から80年代前半に寄せたような、ちょっといなたい合成感みたいなものを、あえてやっていたりするわけですよ。で、それがやっぱり、独自の明るさみたいなものを非常に打ち出していて。前作までのザック・スナイダーテイストよりも、このほうがガル・ガドットの『ワンダーウーマン』には絶対に合ってる、っていう感じが出てるわけですね。で、その宝石強盗が狙っていたお宝の中にガラクタのように紛れ込んでいた、その夢を叶える石。この「お宝の中に、骨董品屋の隅っこにあるものが……」っていう、これも80年代っぽい感じがするわけよ。『グレムリン』とかさ。まあ、いいんだけど。

で、それによって負け犬キャラから脱却していく、バーバラのエピソード。まあ、もう少しここもテンポアップできないかな、と思うところもありましたが。これ、むしろ要するに、彼女側からすればスーパーヒーロー誕生譚、みたいな。それこそちょっとビジランテ寄りなスーパーヒーロー誕生譚的なものでもあって。ここはやっぱりクリステン・ウィグの達者さっていうのもあって、非常に引き込まれる。

■飲み込みづらさや古さはある。だが、それを補って余りある5億点のシーンがある

あとはその、パティ・ジェンキンスの『モンスター』っていう、あれはすごいシリアスなドラマでしたけど、その弱者……ずっと虐げられてきた女の人がついにキレ返すっていうか、ここはやっぱり『モンスター』的な構図もあったりしますよね。パティ・ジェンキンスさんね。で、ですね、一方その夢を叶える石を使って、前作で自ら犠牲になったはずのクリス・パイン演じるスティーブ・トレバーというですね、要するにダイアナの恋人が、別人の体を借りて生き返る。ここもちょっとね、飲み込みやすいとは言い難いっていうか。これ、メールでもあったけど、そんな『ゴースト ニューヨークの幻』みたいなそういう理屈でいいのかな(笑)、みたいな、はちょっと思うけど。

ただ、今回は全体に、そこは寓話だと思った方がいいと思います。寓話的なものとして受け取るなら、まあまあアリな感じ。で、そのクリス・パイン演じるトレバーがですね、80年代の世界にいちいち驚く、というカルチャーギャップコメディ的な要素があるわけです。これは要するに、前作でダイアナがいちいち西洋文明社会に驚くのの裏返しなんですけども。まあ、やってること自体は分かり切ったというか、ちょっと、新鮮なことをやっているというわけでは全くないんだけど。ここはね、やっぱりクリス・パインの、「無邪気な驚き顔」が、あまりにもかわいくて(笑)。やっぱりそこそこ楽しめる。

「クリス・パイン、かわいい!」みたいな。これはやっぱり強いところでしたね。あとやっぱりその、66年間、彼のことを1人、思い続けていたダイアナ……これ、ちなみにちょっと、そこのね、寂しさの表現で、夜のレストランで「周りのみんなカップルなのに、私だけおひとり様……」っていう、あのくだりは、ちょっと見せ方の構造として安いし古い、って気もしなくもないけど。他の表現の仕方、なかったの?とは思うけど。まあ、さっきも言ったように、個人的願望、幸せと、スーパーヒーローとしての責任との間で引き裂かれるという、『スーパーマンII』的な葛藤が非常に切実に迫ってくるし。

ただし、こっちはやっぱり明確に、まやかしなわけですよね。この恋人が帰ってきたというのは。いわばチートであって。これね、タイムトラベル、歴史改変物に問われるモラルと通じる論理ですね。つまり、「このままじゃいけない」という論理で、はっきりとそのトレバーとダイアナは、お互い悲痛な同意をすることによって、そこは乗り越えられていく。で、おそらくここは僕、本作の明らかに最も素晴らしい部分、最高な部分だと思いますけど。このパートだけで僕、個人的には、5億点! 出てるんですけど。

■悲しみと愛しさと解放感がないまぜになったカタルシス。このシーンだけで「最高!」

まずね、荒れに荒れまくる、皆さんが「ワーッ!」ってパニックになっている、ワシントンの街中。その柱の物陰に隠れて、そこで2人は決断するわけですよね。で、もう要するに「これはよくない。僕はもうすでに1回、お別れをしているんだから」みたいなことを言って。で、そこで意を決して、その柱の影のところを離れて、前に歩みだすダイアナ。で、そのダイアナの顔を、ずっとカメラは後ろに下がりながら……ダイアナが、歩きながら、だんだん走って行く様を、カメラが引いて(とらえて)いく。

で、スティーブの姿が、そこで柱の影にふっと消える。ここでまずちょっと涙腺が刺激されるわけですけども。ふっと消えたところで、声だけが、「君を永遠に愛してるよ」っていうのが聞こえて。で、だんだんだんだんそのダイアナの走るスピードが、早まっていく。つまり、恋人との永遠の別離が、逆に彼女にスーパーパワーを再び戻している、という、非常に皮肉な構図があって。これはまずは泣かせますよね。「ああっ、別れたことで……パワーが戻ってきたよ!」っていう。それでワッと走る。でも、この一連のシーンがさらに素晴らしいのは、そこから先で。

彼女が雲にロープを引っかけて、バッと上に上がっていく。そこで彼女が、新たな能力を体得するわけです。つまり、要は空を飛べるようになるわけですけど。これは、空を飛べるようになるのは、まさしく彼と過ごした時間、記憶が、彼女の中にあるから、っていうことなんですよね。これ、ちなみにパンフレットで樋口真嗣さんが寄せているコラムで、この2人が乗っていたあの飛行機……F-111アードヴァークっていうこれは、コクピットに並列に座席が置かれているという、珍しい戦闘機で、だから選ばれたんだろう、とか言っていて。さすが樋口さん!っていう感じでしたけども(笑)。で、あの花火デート……デートシーンが素敵なのも、『スーパーマン』譲りですよね。まあそれはいいんだよ。

とにかく彼、スティーブの存在が、彼女の中で生きていることの証でもある、というこのフライングシーン。要するに、悲しみと愛しさと解放感と……みたいなのが、ないまぜになったようなカタルシスがある。ここで、ガル・ガドット版の『ワンダーウーマン』、スーパーヒーロー物として、一段上に上がったと思います。完全にレジェンド級に行った、という。このシーンがあるだけで、僕はこの作品、十分に「最高!」と言っていいと思います。

また、クライマックスの決着が、腕力勝負ではなく、「ヒーローならではの正しさ」によってもたらされる、というのも、非常に僕は志が高いという風に思います。取り返しがつかないレベルでワチャワチャになってしまった世界がみるみる回復していく、というくだりも、これまた『スーパーマン』一作目のクライマックス的であるし。あと、あの水が枯渇していたところに、水がバーッと流れ込んできて……というのもこれ、あの『スーパーマン』一作目のエクステンデッドエディションで復活した、劇場公開版ではカットされたくだり。おそらくはあそこが意識されてるだろうと思います。かなりこれ、『スーパーマン』を意識してる。

で、最終的にワンダーウーマンが取るフライングポーズも、クリストファー・リーヴリスペクトを感じる、って感じですね。加えてですね、劇中に出てきたある存在が、ワンダーウーマン過去作リスペクトを含んでいたことがわかる、このおまけパートまで含めて、これはバッチリ!……と、言いたいところなんですが。やはり、皆さんが仰る通り、本作はちょっと惜しいと言わざるを得ない、ガチャガチャしたところがかなり多くてですね。

■看過できない決定的な欠点もある。が、それでもこれが劇場で観られる日本の観客はラッキー

まずやっぱり、特に後半に行くにつれて、とっ散らかりすぎてくる。あの、エジプトからダイアナとスティーブが「瞬間的に」帰ってきたようにしか見えない、あの編集の感じのあたりから、諸々が手に余り出してくる。特に残念なのは、やはりこれね、クリステン・ウィグ演じるバーバラのエピソードが、結局ほっぽらかし。最終的に……最初は最も感情移入させられてた分、結局ほっぽらかしじゃないか?っていう感じなんですね。

まあ、その「チーター」化した、スーパーヴィランと化した彼女とワンダーウーマンとの、あの暗い場所でのいかにもCGを多用した対決は、悪い意味で(過去の)DCエクステンデッドユニバース的で、取ってつけたようだった……あんまり面白いと思えなかったし、彼女の物語は、最終的に事実上、ほとんど全く解消されないまま終わってしまう。これは、この欠点は、ちょっと看過できないと思いますね。何にせよ……敵対したままにせよ、改心するにせよ、彼女はどう考えてるのかっていう意思の表明は、必須だと思います。それがないのは、これはもう決定的な欠点。

あと、先ほど「志が高い」と評したクライマックスも、これもメールにも多かったですけど、やたらとセリフが多い、説教がましい、という風にも捉えられてしまう。僕は「ユニークな挑戦」と捉えましたが、「これはダメだろう」と捉える人がいてもしょうがないかな、という部分はあるかと思いましたね。

とはいえ、本作の最大の魅力は、やはりガル・ガドット演じるダイアナ、ワンダーウーマンの存在そのものなのは、もちろん誰の目に明らか。けなしてる人でさえ、そこは認めている。知性や強さ、あとはさっき言ったような陽性の正しさ、神的な正しささえ帯びたように見えるような、そこまで含めた「美しさ」の説得力。これ、たぶん今世界で一番、その美というものによるキャラクター的な説得力のある人なんじゃないですかね。

スクリーン越しに、目で見てわかる「スーパーパワー」っていうか。特に今回は、前作と違って、華やかなファッションが、やっぱり80年代が舞台であることで楽しめる、ってこともあって。ということで僕は少なくとも諸々、今回の『ワンダーウーマン 1984』、前作からはいろいろよくなっているところが多いと思いますし、決定的に素晴らしいあの中盤のシーンも含めて……もう欠点を補って余りある、本当に素晴らしいシーンだったと思います。

思い出すだけでちょっと涙ぐんでくるぐらい。そして皆さん、これが劇場で見られるラッキーさを噛み締めながら……日本の観客の皆さん、ぜひぜひ劇場でウォッチしてください。IMAXがおすすめ!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週のムービーウォッチメンはお休み。再来週の課題映画は『新感染半島 ファイナル・ステージ』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!

◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

宇多丸、『新感染半島 ファイナルステージ』を語る!【映画評書き起こし 2021.1.8放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『新感染半島 ファイナル・ステージ』(2021年1月1日公開)です。

 

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今年最初に扱うのは、1月1日から全国公開されているこの作品、『新感染半島 ファイナル・ステージ』

(曲が流れる)

2016年制作、2017年に日本でも公開された韓国のゾンビパニック映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』の続編。人間を凶暴化させる謎のウイルスが韓国を襲ってから4年後。香港へ逃げ延びていた元軍人のジョンソクは、隠された大金を回収するため、荒廃した韓国へ戻る。しかし、そこには大量の感染者だけではなく、凶暴な人間たちが待ち受けていた。

主人公のジョンソクを演じるのは『MASTER マスター』や韓国実写版『人狼』などのカン・ドンウォンさん。あとね、『義兄弟 SECRET REUNION』とか、いろいろとありましたね。『1987、ある闘いの真実』とかね、いっぱいありますけども。脚本・監督は前作に引き続き、ヨン・サンホさんが務めました。

ということで、この『新感染半島 ファイナル・ステージ』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。

メールの量は、「多い」。やっぱり、あれですかね。前作の『新感染 ファイナル・エクスプレス』が非常に好評だったとか、あとまあ、お正月一発目でね、新作公開ということで、期待されていた方も多いんじゃないでしょうか。メールの量は非常に多いです。ありがとうございます。

賛否の比率は、褒める意見がおよそ半分。あとは「よくなかった」と「普通」という方が2対1ぐらい。褒める意見としてあったものは、「前作とは違うが、これはこれでよし」「前作からストーリーもアクションアップデートされており、満足度が高い」「お正月映画にぴったり」などがございました。一方、否定的な意見としては、「本当に続編? 前作にはまるで及ばない」とか、「テーマもないし、どこかで見たような映像やアクションばかり」「スローモーションもくどいし、ゾンビの描き方もご都合主義的で萎える」などがございました。

■「2020年代はこの映画が基準になる」byリスナー

代表的なところをちょっと抜粋しながらご紹介してきますね。ラジオネーム「季節の変わり目ソルジャー」さん。季節の変わり目ソルジャーさんは、1月1日に電話出演していただいた方ですね。「元日のアトロク前に『新感染半島 ファイナル・ステージ』を見に行きました。感想は『マッドマックス 怒りのデス半島』……つまり、最高でした。1人では全員を救えない罪悪感とか、自分の子を助けたい親の気持ちとか、本当に怖いのはゾンビよりも人間、など極限に追い込まれた人間をあるあるで描きつつ、カーチェイスやストーリーがアップデートされていて、2020年代はこの映画が基準になるという予感をビンビンに感じました。

アップデートを感じた箇所ですが、女性や子供がクールに活躍する場面よりも、エンディングの『自己犠牲ではなく、みんなで助かろう。助かっていいんだ』というシーンです。前作の『新感染 ファイナル・エクスプレス』のコン・ユ演じるキャラクターの自己犠牲というものを踏まえ、続編という次のステージに到達するためにラストが必要だったと思います」という風に仰っています。

とりあえず仰っている部分、なるほどな、そういう読み取り方、面白いな、と思いましたけど、普通に見れば、(ジョージ・A・ロメロ監督の)『ゾンビ』のオマージュだと思いますけどね、あのエンディングのバランスはね。まあでも、こういう読み解き方も面白いかなと思います。あとはラジオネーム「ちり」さんも、やはり同じようにラストについて、前作の自己犠牲に対しての今回のエンディング、というところに納得したみたいなことを書いていただいております。

あとはですね、いまいちだったという方もご紹介しましょう。ラジオネーム「かるぼなーら」さん。「映画の感想に関してですが、結論としては否です。アクション部分はよくできているものの、テーマ性が薄く、全く印象に残らない作品でした。作品としての出来が悪いとまでは言いませんが、今後どんな作品が出てきても今年のトップテンには間違いなく入らないです」という。それで前作と比較して、前作はこういうところがよかった、みたいなことを書いていただいて。

「ところが今作は、アクション面でははるかに進歩しているものの、作品を通じて表現されるテーマらしきものがほとんどなく、あまりの変わりように監督が変わったのかと思いきや、同じ監督だったので驚きました。前作は予算のない中でいい作品を作ろうと工夫した結果、テーマ性のある作品になっていたのに、今作は恐らく予算が増えた一方で中身のない作品になってしまったのではないかと思います。特に終盤の『マッドマックス』オマージュの展開は既視感がありすぎて完全に冷めてしまいました」というようなご意見。

あとはですね、こちらは「ラジオできるかな」でもご紹介というか、特集もやっていただきました、ラジオネーム「ジョン@営農とサブカル」さん。この方、ジョンさんも、「ちょっと物足りなさを感じる映画でした」という風なことを書いていただいて。

「感動的なシーンのスローモーションがクドいのは韓国娯楽映画の伝統芸能みたいなものなので、そういうものだと諦めるとして。『マッドマックス』ばりの縦列カーチェイス、痙攣を多用する狂牛病みたいなゾンビの動き、カン・ドンウォン演じるジョンソクのCQB(近接戦闘)シーンなど迫力があってよかったです。ただ、私が期待していたのはヨン・サンホ監督の、ジョージ・A・ロメロのゾンビ映画に通じる、現実社会の問題が映画の背景に見て取れるところだったので、そのへんが薄くてちょっと残念でした」という。で、ヨン・サンホ監督の過去作にはこういうところが反映されていた、というのをいっぱい書いていただいて。

「今作は、現代韓国の行き過ぎた競争社会がテーマとして入ってるのかなと見ながら思っていました。出るのも留まるの地獄な、『ヘル朝鮮』と自嘲されることもある現代韓国社会のようにも思います。そんな劇中の半島の状況でも、『家族でいたからそんなに悪い世界ではなかった』とイ・レ演じるジュニが語るのはとても泣ける言葉だなと思いました。ただ本作はそういう背景に見え隠れするものが薄く、アクションがモリモリで面白いは面白いのですが、『面白かった! 泣けた! 終わり!』で済んでしまうような映画になっているのが前作を楽しんだ者としては残念です。ちなみに農業描写については潔いぐらい生活描写がなかった映画なので、話せることがありません

……と言っていただきつつも、先ほどちょっと(金曜パートナー)山本さんと話したことですけど、「残っている物資を食いつぶしたらそれ以上生きてはいけないのに、半島の外に出ることも、持続可能な生活をすることもできない半島の生存者ととると、現実の韓国社会に住む人々の暗喩のようにも取れるかと思います」というような読み解きを……「ちょっと考えすぎかもしれないけど」と言いながら書いていただいています。皆さん、メールありがとうございました。

■「ゾンビ映画」のフォーマットを韓国映画なりのやり方で生かし切ってみせた

ということで、私も『新感染半島 ファイナル・ステージ』、この日本タイトルがつく前に、『半島(Peninsula)』という原題がついてる段階で、例によって『週刊文書エンタ!』というムック本で星取表、ガチンコシネマチャートをやるために、一早く、去年の時点で見させていただいております。そして、TOHOシネマズ日比谷で、IMAXでも見てきました。これ、韓国映画で2本目になるのかな? IMAX撮影をしたという作品らしいですけどね。部分的にね。

ということで、とにかく先ほどから話題に何度も出ております、韓国産ゾンビ映画の傑作にして……何よりやっぱりここですね、ゾンビ映画としても面白かったけど、あまりにも美味しすぎる役柄のハマりっぷりも相まって、(火曜パートナー)宇垣さんも今やぞっこん、マ・ドンソクが完全にスター化していく大きなきっかけとなった、2016年のみんな大好き、日本タイトル『新感染 ファイナル・エクスプレス』、元は『釜山行き』というタイトルですけれども、その作品の、4年ぶりの続編であると。

で、このタイミングで、その元の『新感染 ファイナル・エクスプレス』、僕も改めて見返しても、やっぱりたとえばその「列車内」という、限定的かつ位置関係が明確な、つまりやはり明らかに映画的な舞台だてを最大限に有効活用しつつ……あの「○号車まで行かなきゃいけない」「今いるのが×号車で、○号車に行かなきゃいけないけど、間にこれがあって……」みたいな、その位置関係が非常に明確というこの舞台だてを最大限、非常に有効活用しつつ、「恐怖と疑心暗鬼から、助け合うどころか蹴落とし合いになり、自滅していく人間たち」であるとか。

「身内が目の前で怪物化してしまう」その切なさ、悲しさ、などなど、言っちゃえばゾンビ映画の定番ですね。定番なんだけど、やはり大事なポイントというのを、丁寧に描き出していて。決して目新しいことをやってるわけじゃないんです。新しいことをやってるわけじゃないんだけど、「ゾンビ映画」というフォーマットを、韓国映画なりのやり方で正攻法で生かし切ってみせたという、なるほどこれはやはり本当によくできた1本だな、という風に改めて見ても思いました。

■元はアニメーション作家だったヨン・サンホ監督は実写のほうがアニメ的ケレン味たっぷり

脚本・監督のヨン・サンホさん。元々はアニメーションの作家さんなんですね。で、その『新感染 ファイナル・エクスプレス』とほぼ同時期、ちょっと1ヶ月ぐらい遅れて韓国では公開された、『ソウル・ステーション パンデミック』という、これはその『新感染 ファイナル・エクスプレス』の前日譚というか、共通するキャラクターがいるわけではないので、要はそのゾンビ蔓延状況の初期段階を描いたアニメーション作品もあったりなんかして。なので一応、今回の『ファイナル・ステージ』というこの作品は、三部作の三作目、という位置づけになっているということですけども。

で、とにかくそっちの『ソウル・ステーション パンデミック』は、本当に救いゼロ、人間の醜さ全開の、ダークな内容で。本当にアンハッピーエンドで、結構キツめの中身の映画なんですけども。あるいは、その『ソウル・ステーション』とか、僕はこのタイミングで遅まきながら見た、2013年の『フェイク 我は神なり』という作品があって。これは、もうすぐダムに沈んでしまう予定の田舎の集落に、本当は詐欺師がバックにいる宗教団体が入り込んできて……という。日本だったら入江悠監督に実写でリメイクしてもらいたいような(笑)、どよーんとしたノワール群像劇というか、そんな感じの話で。

あと、僕はこれ、現時点では見られてなくて申し訳ないんですけど、そのさらに前の長編デビュー作『豚の王』という、これは韓国アニメ界初の大人向け残酷スリラーということらしいんだけど。アニメとしてはね。やっぱりあらすじとか評価を読む限り、韓国社会のそのリアルな闇を浮き彫りにするような、ハードな作品みたいで。要はこのヨン・サンホさんという方、元々のフィールドであるアニメーション作品では、より突き放した、完全に大人向けの、どよーんと暗い作品をずっと作ってきた人なわけですよ。

で、それがこの方は、不思議なもんで実写作品になると、若干モードが変わるわけです。それこそ、むしろこちらの方が本来の意味で「アニメ的」と言っていいような、ケレン味たっぷりにデフォルメされたVFXアクションを駆使して、たとえばその『ファイナル・エクスプレス』であればゾンビ物、あるいは、日本ではNetflixで配信となった2018年の『サイコキネシス 念力』というリュ・スンリョンとシム・ウンギョンさん主演の超能力物、といったように、そのジャンル物エンターテイメントを現代韓国映画として、しかもケレン味たっぷりにやってみせる、というような、わりと開かれたスタンスになる傾向があるように思えます。実写の際のヨン・サンホ作品は。

わりとベタなというか、コテコテの笑いとか泣かせとかもちりばめていたりして、そのへんも、アニメ作品とははっきり作風を変えてきている、というようなあたりだと思います。ただし、そのアニメ作品と実写作品、陰と陽というような違いはあるんだけども、共通しているのは、どちらもですね、やはり現実の韓国社会の問題とか歪みといったものが、常に背景に敷かれている、というところは割と一貫して、共通している。

全体としてはそのコテコテのコメディ感の方が強いと言ってよかろう、さっき言った『サイコキネシス』とかもですね、話のベースとなっているのは、たとえばヤクザを使った地上げであるとか。あるいは、なんとあのチョン・ユミが、本当に嫌な感じに見える悪役を演じてるんですけど、それも、言っちゃえば例の「ナッツ・リターン」でおなじみの、「ナッツ姫」的な、格差社会の酷薄さみたいなものが反映されてるような感じだったりとか。

さっきから言ってるその『ファイナル・エクスプレス』、ゾンビ物なんですけども、そこで最も悪役的に見えるおっさんたちの振る舞いっていうのも、僕は、やっぱり2014年のこのセウォル号事件とか、そういうのに対する社会の怒りがどこか反映されてるんじゃないかな、少なくとも韓国の観客の方はそういう風に連想するんじゃないかな、みたいな風に思って見てましたけど。

■『ファイナル・エクスプレス』『ソウル・ステーション』と合わせた三部作だが関連性は低い

その意味で、その『ファイナル・エクスプレス』の物語から4年後、ゾンビがあふれ返って、それ以外の世界からは完全に隔絶した場所となったその韓国、朝鮮半島の南の方ということで。原題は『半島(Peninsula)』というものがついておりますが。極めてそのフィクション性が高い設定の本作、ヨン・サンホさんがこれまで作ってきたどの作品よりも、その現実的な社会風刺要素は、わりと薄めですよね。やっぱりね。架空の世界が舞台になっていますし。

起こってしまった事態の深刻さとか、ディザスターの規模の巨大さとは裏腹に、今回は、言っちゃえば結構思いきりポップというか、ヨン・サンホ作品としてはぶっちぎりで気軽に楽しめる、エンタメ性が高い一作、という風に思います。だいぶモードをこっちに振り切ってきた、という感じがしますね。

ちなみにその『ファイナル・エクスプレス』、『ソウル・ステーション』、っていうこのゾンビ物、一応三部作という位置づけですけども、いずれもその共通するキャラクターはいないし、話的な関連性も、「ゾンビ的な感染症が韓国に蔓延しましたよ」という状況以外は、全く関連はないので。それぞれ独立した作品として普通に見られますよ、ということなので。ご安心してこの作品から見ていただいていいと思います。山本さんも実はその『ファイナル・エクスプレス』の方はご覧にならずにこっちを見て、「面白かった」という風におっしゃっているのでね。

■正統派ゾンビ物なのは冒頭10分だけ。それが前作の凝縮版になっているのがうまい!

ということで、今回の『新感染半島 ファイナル・ステージ』ですけども。順を追っていきますけども、まずタイトル前、アバンタイトル、10分ほどあるんですけど、そこで前作『新感染 ファイナル・エクスプレス』でやったようなゾンビパニック物の定番的要素を、実はこの10分間で、一通り押さえてくる。言ってみれば最初の10分で、前作でやってきたことを凝縮して見せるわけですよ。

極限的な状況下で出てしまう人間の利己性であるとかエゴであるとか。その一方で、愛する者が目の前で怪物化してしまうその絶望。そして、そこで残された者が取る選択の、いずれにしたって悲しくて辛い選択、みたいな。しかも、それが最終的には「突き当たりの部屋とドアを挟んだ廊下」という、限定的かつ直線的空間の中で展開されるわけですよ。これ、完全に『新感染 ファイナル・エクスプレス』の凝縮版なんですよ。最初の10分は。これ、うまいですね。だから要するに、前作までのあらすじとかじゃなくて、映画そのものの展開として、前作までやったことを凝縮して見せている。「うまいな!」と思いましたけどね。鮮やかな手際だと思いました。

逆に言えばですね、今回の『ファイナル・ステージ』で正統派ゾンビ物的なのは、この冒頭10分だけ、と言ってもいいと思います。で、タイトルが出て本編。その4年後。さっき言ったように外の世界から隔絶され、中ではたぶん無数のゾンビがあふれ返っているであろうという、かつての韓国にですね、香港のですね、なんか白人のおっさんが仕切っている雑な感じの犯罪組織から送り込まれる形で、決死の里帰りをすることになる、カン・ドンウォン演じる元軍人の主人公と、これは火曜日の韓国映画特集でも岡本敦史さん一押しでした、ひどい目にあうのがよく似合う(笑)キム・ドユンさんなどなど、が送り込まれる。

要は、韓国に放置された大金、お宝を、鳥目気味なゾンビたちは比較的夜はおとなしいっていうことで、「夜の間に取り戻してこい」というミッションを、なんだかんだで請け負ってくるという。で、仁川港から市内におそるおそる忍び込んできて。ここまでが約20分なんですよ。非常に序盤のテンポが快調で。「いいね!」っていう感じなんですね。廃虚と化したその街並みをこわごわと進んでいく中で、主人公が目にする、ある異様な光景。月明かりに照らされて、その異様な光景の全貌が現れていく、というスリリングなくだりがあるんですが。

ここが、単にビジュアル的な見せびらかしに終わらない作りに、ちゃんとなってるあたり。ヨン・サンホさん、やはりたしかな腕を持ってるな!っていうのは、特に見終わると、「ああ、やっぱり本当にヨン・サンホ、うまいな!」っていう感じがするあたりでございます。

『ニューヨーク1997』+『マッドマックス2』+『ゾンビ』!

で、とにかくなんやかんやあってですね、その目当ての現ナマが詰まったトラックを発見する、という。しかしですね、ここで……やはり、あれですね。こういうところで、「楽勝だったな!」なんてことを言うと(笑)、これはいかにもフラグと言わざるをえない。「楽勝だったな!」なんてことを言った途端にですね、当然これ、主人公たちにとってはすんなりと帰られそうもない、不測の事態が次々と起こることになるわけです。

ただし、もちろん直接的な脅威はね、そのうじゃうじゃいる……そして、ここがポイントですよね、やっぱり。「光と音」に強く反応して、全力疾走で迫ってくるゾンビたち。それが直接的な脅威ではあるんだけど、実はこの「楽勝だったな」から先、不測の事態が起こってくる、ここから先は、急速にですね、ゾンビたちは、「単なる設定上の危険」に後退していきます。つまり、二幕目からは、「今回はゾンビ物ではないんですよね」っていう感じになっていく。「今回は別のジャンルなんすよね」っていうことが、このあたり、だいたい30分目ぐらいからはっきりしていく。二幕目から。

じゃあ、それは何なのか? まず、外側の世界と隔絶した、その封鎖された地域。そこは、極悪なボスに束ねられた暴力的集団が支配する、無法地帯と化していて。主人公はその中に入り込んで、お宝をゲットし、時間内に脱出しなければならない、というこの基本ルール。これがまあ、これは『文春エンタ!』の寸評にも書きましたけど。まあ、ずばり『ニューヨーク1997』ですよね。これね。ジョン・カーペンターのね。

で、ヨン・サンホさんは『ニューヨーク1997』は見ていなくて、続編の『エスケープ・フロム・L.A.』しか見てない、って言ってたんだけど、まあ話は同じことなんで。というか、まあ非常に定番的なセッティングなんですね、これはね。まあ「『ニューヨーク1997』型」とさせていただきますけど、非常に定番的なセッティング。そしてもちろん、そもそもその、崩壊後の世界を舞台にした、いわゆる「ポスト・アポカリプス物」というジャンルは、一大ジャンルで。これも山ほどありますね。

しかもそこで、「武器としての改造車を駆る悪党集団」まで出てくるわけですよ。これはもう、言わずもがなね、当然『マッドマックス』、それも『2』以降、ということになってくる。当然のようにクライマックスは、主人公たちの車とそれを追う暴走集団との熾烈なカーチェイス、という。で、こういう感じの、『ニューヨーク1997』+『マッドマックス2』というと、私は2009年10月10日に評した『ドゥームズデイ』なんていう映画がありましたけども。まあ本作も、そこにさらにゾンビ要素をプラスした……『ニューヨーク1997』+『マッドマックス2』+『ゾンビ』、みたいな感じなんですけども。

■オーソドックスな世界観に足された独自要素や独自キャラクターが偉い

ただし、この『ファイナル・ステージ』……僕はここにすごい感心する。さすがヨン・サンホというべきか、そのベースとなる設定・世界観こそ決して目新しいものではないけども、むしろ散々やり尽くされて、手垢がつきまくったものなんだけど、そこにいくつかの独自要素、あるいは独自のキャラクター的な掘り下げなどをミックスすることで、定番要素からまた新鮮な表情をちゃんと引き出している、っていう。これ、『ファイナル・エクスプレス』もそうでしたけど、今回もやっぱりそこはちゃんとあるな、と僕は思ってます。

たとえばですね、僕が今回の作品で一番面白かった要素は、意外や意外、80年代キッズムービー的な要素が、途中から急に濃くなりだす。「えっ、これ、キッズムービーなの?」みたいな。個人的にはここが一番意外で、面白かったですね。さっきのね、メールにもありました、イ・レさん演じるジュニさんの、大人びたハンドルさばきとか、アニメ的にデフォルメされた車の挙動、アクションなんかも込みで、非常に荒唐無稽なんだけども……荒唐無稽ゆえの楽しさですよね。「んなわけ、あるかい!」っていう楽しさ。要するに、子供向け映画ならではの飛躍の楽しさ、みたいなのがあったりする。

さらに、そこから出てくる小さい女の子、イ・イェオンさん演じるユジンという女の子が操るあのガジェット。あれなんか、もう本当に80年代キッズムービー風、っていう感じがします。まあ、バカバカしいはバカバカしいけど、楽しい。ただ、これもですね、実は序盤……要するにこれがね、まあ言っちゃえばラジコンの車なんだけど、それが光と音を発してるんだけど、序盤、主人公の甥っ子が持っていたスーパーボールが、よく似たような光を発している。つまり、その「子供」というところで、実は悲しい過去とも呼応するようにできている、っていう。これはさりげなくもうまいディテールですね。

で、キッズムービー要素があるっていうのがひとつと、あともうひとつ、面白要素。今、言ったその、「光」の要素。とにかく何かキラキラ、ピカピカしたもの。あるいは照明弾やライト、などなどと、「音」を出すもの……つまり、要するにゾンビが反応する要素っていうね、「音と光」というのが、要所でギミック的に生かされていくのが、これがメチャメチャ楽しいんです。特にクライマックス。この光のギミックが、まあケレン味たっぷりに……これもね、リアリズム、理屈からすると、「ちょっとそれ、おかしくないか?」って思うような使い方なんだけれども(笑)、非常にケレン味たっぷりに、次々と投入されてね。レイヴ的にアガるというか(笑)、「フゥーッ!」っていう感じでアガる!っていうね。

で、とにかくそういう、いろんなアイデアを投入してくる偉さが、まずある。僕はもうこの時点で……定番ジャンルなんだけどちゃんとアイデアを投入してる、ここがもう、僕は偉いと思います。

加えてですね、キャラクター。特にやっぱり、悪役チームの631部隊。731部隊ならぬ631部隊内の、さっきもちょっと山本さんとも話しましたけども、微妙なパワーバランス。ここが味わい深い。これね、前作『サイコキネシス』でも地上げヤクザを演じていたキム・ミンジェさん。その粗野な感じ、これもすごくいいんですけども。

やっぱりポイントは、このソ大尉と呼ばれる、一応その暴力集団の地位的にはトップなんだけど、実質のトップはやっぱりそのキム・ミンジェさんに仕切られてるっぽい、このソ大尉を演じている、ク・ギョファンさんという方。これ、「DJ松永似」と私、言っておりますが(笑)。彼が、その外の世界に強く思いを寄せている。で、言っちゃえば(線が)細いトップというか。このキャラクター造型、なかなか独特で、すごく印象に残る。なぜなら彼は、「生きてここから脱出したい」という思いは、主人公たちと全く同じだからなんですよね。

だから、やるその手段がひどいんだけども、ちょっと思い入れちゃう。かわいそうな気がしてきちゃう、っていうかね。あとはその、キム・ドユンさん演じる、かわいそうな、被虐的なキャラが似合う(笑)……チョルミンが、あまりにも絶望的な状況を前にして、本当に人が絶望すると「ちょっと笑っちゃう」っていう、ああいうバランスがうまいんですよね。ちょっとしたディテールが。そこにすごく、生きた人間の感じが出ていて。やっぱりさすがだと思いますね。

■言いたい部分がないわけじゃないが、正月一発目には最高の1本!

ということで、定番ジャンルのミックスの中に独自のアイデア、味わいをいろいろ投入していて、基本すごく楽しいし、偉いと思います。あえて言えば、特に終盤。これ、やっぱりよくなかったという方が多かった。愁嘆場になると、途端になんかテンポが鈍重になる。一部の日本映画とも通じる過度のウエットさが目立ちだす、というのはこれ、東アジアの特徴なのかな? 実は『ファイナル・エクスプレス』でもちょっと感じる部分ではあったんだけど。

今回は特にですね、いろんな要素をぶち込んだ作品だけに、終盤さすがに、「いや、もういいだろ? 盛り込み過ぎっていうか、もうそういうのはいいだろう?」っていう風に、ちょっとお腹にもたれてしまったところはあるかな、って思いますね。もっと景気よくね、せっかくレイヴ的にアガったんだから(笑)、景気よくドーン!って終われば「最高!」っていう感じだったんだけどね。まあここは、サービス過多、ということにしておきましょう。ちょっとサービスが行きすぎてしまったという。まあ、好ましい部分でもある。

あとね、ちょっと僕が気になったというか、弱点だなと思うのは、主人公のキャラクターが、ちょっと弱い。要するに「悔恨の念にとらわれている」というだけで、どういう人なのかという個性、パーソナリティーが、実はこのキャラクター、希薄なんですよ。まあ、カン・ドンウォンがかっこいいから、それでなんとか持っていってるけども。ちょっとキャラクターとしては弱いかな、という風にも思いますが。

でもですね、先ほどから言ってるように、要するにパーツ、パーツはみんな大好きなジャンルが集まってるし。その1個1個に、新鮮味をもたらすアイデアも込められていて。あと、非常にその繊細なキャラクターの掘り下げとか、やっぱりその、悪役チームのパワーバランスの不安定性とかは、非常に……だからこそ、この世界にいたくないんだ、というあのソ大尉の感覚、「ここでは生きられない」という感じが生きていたりして。僕はやっぱり、意外と背骨はちゃんとしている、というところも含めて、さすがだなという風に思いました。

まあ、いろいろと言いたい部分がないわけじゃないんだけど、少なくとも正月一発目、劇場でデカい画面でドカンと景気よく見るには、最高の1本ではないでしょうか。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 再来週の課題映画は未定。ガチャは来週回します。)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!

◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

新年の穏やかな時間のなかで聴きたい最新ブラジリアンミュージック Part 3(高橋芳朗の洋楽コラム)

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音楽ジャーナリスト高橋芳朗さんによる洋楽コラム(2021/1/14)

『新年の穏やかな時間のなかで聴きたい最新ブラジリアンミュージック Part 3』

新年の穏やかな時間のなかで聴きたい最新ブラジリアンミュージック Part 3http://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20161010040000

radikoで放送をお聴きいただけます(放送後1週間まで/首都圏エリア無料)

高橋:本日はこんなテーマでお届けしたいと思います!「新年の穏やかな時間のなかで聴きたい最新ブラジリアンミュージック Part 3」。

スー:さあ、毎年一年の始まりはブラジリアンミュージックですね。

高橋:2019年、2020年と、ここ2年ほど新年最初の音楽コラムは現行のブラジルのポップスを紹介してきたので2021年もその流れを継承していきたいと思います。世界的に「穏やかな新年」とは言えない状況ではありますが、これから紹介する素晴らしいブラジル音楽が皆さんのちょっとした癒しになれば幸いです。

ではさっそく一曲目、アナ・フランゴ・エレトリコの「Mulher Homem Bicho」。去年12月18日にリリースされた最新シングルです。アナ・フランゴ・エレトリコはリオデジャネイロ出身のロシア系ブラジリアン。2018年にデビューしたシンガーソングライターですね。ビョークと比較されることもある一筋縄ではいかない多彩な音楽性が魅力のアーティストなんですけど、これはちょっと渋谷系の香りがするおしゃれポップスで。しかもビョークというより原由子さんがスタイル・カウンシルだったりフリッパーズ・ギターをカバーしたような仕上がりになっているんですよ。

スー:へー、早く聴きたい!

M1 Mulher Homem Bicho / Ana Frango Eletrico

高橋:これはめちゃくちゃいいでしょ?

スー:ぜんぜんイメージしていたブラジリアンとちがう! それにしても本当に原由子さんにそっくりですね。かっこいい!

高橋:続いて二曲目はムーンズの「Whispering Pines」。12月18日にリリースされたEP『Blood On Canvas』の収録曲です。ムーンズは2016年にデビューしたミナス出身の6人組バンド。2019年の最新ブラジリアンミュージック特集でレオナルド・マルケスというシンガーソングライターを紹介したんですけど、その彼が全編のプロデュースを手掛けています。そのレオナルド・マルケスを当時「トロピカル要素のあるジョン・レノン」と紹介しましたが、これもまさにそんな感じですね。後期ビートルズ~初期ジョン・レノンっぽい。まどろみのなかを漂っているような最高のヒーリングミュージックです。

M2 Whispering Pines / Moons

スー:ヨシくん、眠くなってきたよ(笑)。

高橋:フフフフフ、ムーンズはすでに3枚アルバムを出しているんですけどどれもこんな感じの内容で。就寝時のBGMとしてうってつけかもしれませんね。

スー:これ、蓮見さんはどんなときに聴きたいですか?

蓮見:うーん、やっぱりキャンプ中ですかね。

スー:キャンプ、いいね!

高橋:あー、いいかもしれない……静謐な自然のなかで聴いたらめちゃくちゃハマりそう!

蓮見:森のなかで聴いたら最高ですよ!

高橋:ナイスな提案ありがとうございます! それでは三曲目、今度はシウヴァの「Facinho」。12月11日リリースの最新アルバム『Cinco』の収録曲です。ゲストで女性シンガーのアニッタが参加しています。シルヴァは2012年にデビューしたエスピリトサント出身のシンガーソングライター。アルバムごとにエレクトロ風だったりソウル風だったり音楽性を変えてくるアーティストで、2018年の前作はトロピカルなネオソウルといった趣でした。今回はというと、随所でジャマイカ音楽を取り入れているんですよ。この曲はめちゃくちゃ甘酸っぱいスカに仕上がっています。

M3 Facinho feat. Anitta / Silva

 

高橋:はい。シウバで「Facinho feat. Anitta」を聴いていただいております。

スー:ソッコーでサブスクに登録しました!

高橋:素晴らしい! アルバム通して最高なのできっと満足してもらえると思います!

それでは最後、四曲目はアジムス、アリ・シャヒード・ムハマッド、エイドリアン・ヤングの三者によるコラボレーション「Pulando Corda」。昨年10月23日リリースのアルバム『Jazz Is Dead 4』の収録曲です。これはヒップホッププロデューサーのアリ・シャヒード・ムハマドとエイドリアン・ヤングが主宰する伝説的ジャズミュージシャンとのコラボプロジェクト「Jazz Is Dead」のシリーズ第4弾で。

スー:「Jazz Is Dead」はレーベルなの?

高橋:レーベルでありプロジェクトでありイベントでもある、という感じですね。この第4弾で彼らが招いたのは1970年代から活躍するリオデジャネイロ出身のフュージョン/ファンクバンド、日本でも人気の高いアジムス。これはもうただただ気持ちのいい爽快なブラジリアンファンクです。

M4 Pulando Corda / Azymuth, Ali Shaheed Muhammad & Adrian Younge

スー:素敵!

高橋:これは季節的なイメージとしては初夏でしょうか……蓮見さん、いかがでしょう?

蓮見:季節まではイメージできなかったんですけど、前の日に別れたばかりの彼女がその翌日、忘れ物をしたからっていきなり自分をパシリに使うようなシチュエーション……。

スー:えっ、別れたのに?

蓮見:そう。「私の部屋の鍵、まだ持ってるでしょ? 忘れたから持ってきて」「俺はお前のパシリか!」みたいな。

スー:フフフフフ、甘酸っぱいんだか甘酸っぱくないんだか……トレンディドラマみたいだね。

高橋:蓮見さんの妄想力、ますます磨きがかかってきています! ところでこの『Jazz Is Dead』シリーズ、ほかにもロイ・エアーズ編やマルコス・ヴァーリ編など現在第6弾までリリースされているのでぜひチェックしてみてください!


AmazonMusicにて、高橋芳朗&ジェーン・スーによる podcast番組 「TBSラジオ 生活が踊る歌」が配信中!詳しくはコチラ

生活が踊る歌 -TBSラジオ『ジェーン・スー 生活は踊る』音楽コラム傑作選- 生活が踊る歌 -TBSラジオ『ジェーン・スー 生活は踊る』音楽コラム傑作選-
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TBSアナウンサー山本匠晃、『Swallow スワロウ』を語る!【映画評書き起こし 2021.1.15放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します……

が、今週は宇多丸多忙につき、特別企画。TBSアナウンサー山本匠晃が独自の目線で映画を語る特別編、「山本フードムービーウォッチメン」。今回で評論した映画は、『Swallow スワロウ』(2021年1月1日公開)。その全文書き起こしを掲載します。

オンエア音声はこちら↓

山本匠晃:

さて、今夜の週刊映画時評ムービーウォッチメンはお休みいたしまして、代わりに私、山本匠晃が独自の目線で映画を語る「ヤマモト・フードムービーウォッチメン」をお送りします。作品は、こちら! 『Swallow スワロウ』

(曲が流れる)

『マグニフィセント・セブン』や『ガール・オン・ザ・トレイン』などのヘイリー・ベネット主演のスリラー。ニューヨーク郊外の邸宅に暮らす主婦のハンターは誰もが羨むような暮らしをしている一方で、孤独で息苦しい生活をしていた。そんな中、ある日ふとしたことからガラス玉、ビー玉を飲み込んだ彼女は、異物を飲み込むことで多幸感を抱くようになっていく。日本では1月1日から公開中で、私もこちらの作品、見てきました。宇多丸さんも見ていただいたということで。

宇多丸:はい、拝見しました。

山本匠晃:では、始めてよろしいですか?

宇多丸:ぜひぜひ、お願いします。もうあなたの好きなように!

■「飲み込む」ことがやめらない主人公が一番最初に飲み込んだものとは

山本匠晃:すいません(笑)。私、見まして。とにかくやっぱりフードシーンというか、食事をするシーンが大好きでして。この『Swallow スワロウ』というのは主に……もうポスターにも予告編にもたくさん出てますけども、「飲み込む」ということがやめられない女性の話なんですけれども。とにかくいろんなアイテムをもちろん飲み込んでいくんですよね。そこの描写とか意味合いとかを見たり考えたりするのがもう本当に楽しくて、もう大好きな作品でございました。なので、それをちょっと切り取っていけたらなという風に思っております。

まず、この映画紹介にもあったんですけど、予告編でも映っていて印象的なガラス玉、ビー玉を飲むっていうことがあるんですけど。あのね、今の紹介にもあったように「ふとしたことからガラス玉を飲み込んだ彼女」と言ってるんですけど、僕はまず、その前に飲み込んだもの、そのシーンがもう素晴らしい。お見事!っていう。

宇多丸:えっ、ビー玉の前に飲み込んだもの?

山本匠晃:ビー玉の前にすでに始まっていたっていう風に思うシーンがあったんですよね。それが、氷。

宇多丸:はいはい、はい!

山本匠晃:もう、あそこのシーンでグッと心つかまれちゃって。「来た来た来た、来たーっ!」って。あそこでもう、僕の中ではスワロウが始まったんです。もうね、一連の所作が本当に味わい深いシーンでして。まず、その氷の方から見ていきたいと思うんですけど。

まず、このスワロウをしていくきっかけっていうのは、映画紹介にもあったんですけど、新婚の家庭で、主人公はその妻で。お金持ちの家族と夫。で、その夫の両親と外食のディナーの場で氷が登場するんですけど。

やっぱりそこって気遣いだったりとか、緊張感だったりとか、嫁ですから、そういうのがもう渦巻いてるわけですよね。で、そんな中で、しかも夫とその両親の会話に入れない状態がずっと続けていて。それでいざ、話題を振られてハントが話し始めても、なんか3人は上の空で。気づくと他の話をし始めてるみたいな。空気みたいな存在で。

宇多丸:ちょっとお父さんがさえぎってね。デヴィッド・ラッシュさんがまたね、憎々しいっていうか、なんか取り付く島もない感じなんですよね。

山本匠晃:そうなんですよね! 最高の演技なんですけども。

■主人公の置かれた不安定な内面を象徴する「氷」

山本匠晃:まあ、そんな空気の中でふとハントの目に止まったのが、目の前の透明なグラスいっぱいに入ったたくさんの氷なんですよね。ここって印象的に描写されていて。

まず、その絵作りなんですけど、画面いっぱいに映るグラスの中の氷の集まりがあって、で、氷がライトで照らされてキラキラキラキラってするわけですよ。で、ゆっくりゆっくり、画面の中でそのいっぱいの氷が溶けていくんですね。で、ここで音が入ってくる。もうすっごく繊細な音。チリチリチリチリ……とか、パチパチパチパチ……とか。ピチョピチョ、カラカラカラ……みたいな。

宇多丸:氷の中の空気がちょっと溶けてる時にパチパチするやつですね。

山本匠晃:氷の中の小さい空気、気泡とかっていうのが弾けて鳴るような音。皆さんも人生で聞いたこと、あると思うんですけど。なんか超高感度マイクで拾わないと無理なような、本当に繊細な無数の音が鳴り始めるんですね。で、ここでグーッとカメラが氷に寄っていって。

宇多丸:ゆっくりズームしていきますね。

山本匠晃:ズームしていきますね。で、氷を見つめるハントをなんか、誘い込んで呼んでるような画面というか、音づくりっていうか。

宇多丸:彼女の目線でこう、引き込まれているわけだ。

山本匠晃:グーッと引き込まれている。で、見ているこっちも引き込まれていくような。で、グラスの中の氷の集まりひとつひとつが溶けていって。グラスの中の氷の集まりの全体のバランスが変化していく。で、グラスの中でその氷の集合体が、よく見ると蠢いているんですよね。

宇多丸:溶けることによってね。それもよくあることですけど。ちょっと動くっていうことですかね?

山本匠晃:そうです。じわりじわりとひとつひとつの氷がポジションを変えることで、全体のバランスとか動きにも繋がっているような、生きているような、そんな感じ。で、あれはずっと撮り続けて、早回ししたのかわからないですけども。その後に本当にもうはっきりと、氷が集合体全体としてグラスの中で回りだすんですよね。グーッと。「あれ? 回っている? 回っているぞ?」みたいな。

これ、ゆっくり撮り続けて、それを倍速で見せてるのかわかんないですけども。渦巻くように回転していくわけです。氷の塊が。ブワーッと。「なんだこの動き?」みたいな。かなり速く動いている、みたいな。実際にこんなことあるのかな?っていうぐらい。で、そのゆっくりと渦巻く氷に吸い込まれていきそうな画。数秒のそのシーンがすごく魅惑的に映っているんですよね。で、次の瞬間、パッと画面が変わって、その食事をしていた円卓のディナー全体の画に戻るや否や……。

宇多丸:ちょっと引きの画になるんだよね。

山本匠晃:引きの画になって、ハントと家族が映っていて。画面左の端に座っているハントがもう急に何かに取りつかれたように……あんなにお行儀よく気を遣っていたのに、氷を手づかみして、ガッ!って。で、口の中に放り込むんですよ。それで間髪入れずにそこで咀嚼。ガリガリガリッ! ボリボリボリッ! ジャリジャリッ!って。

宇多丸:結構な音が鳴り響いて。

山本匠晃:結構な音。もうはっきりと。ガリガリ、ボリボリ、ジャリジャリ、ザクザクみたいな。もう無数の音を出すわけですよ。響くわけですよ。で、その瞬間、ハントに無関心で会話を続けていた義理の父と母、そして夫の会話がフッと止まるんですよ。で、ハントは気づいたように「あ、ごめんなさい」って。行儀よく座り直すんですね。みんな驚いて、不思議で、苦笑してるみたいな。その時のハントの表情が、そこまではずっと気遣いして気まずそうにしてたのに、「ごめんなさい」って言って恥ずかしそうにした後に、開き直ったようにフッと満足とか安心とか満ち足りた落ち着きを見せるっていう。ここから「うわっ、スワロウ、始まってる!」みたいな。「この効果、なんだ?」みたいな。ハントの中で。

宇多丸:「やっちまった」よりも満足感が勝っている?

山本匠晃:「やっちまった」の後に瞬時に満足感みたいな。「なに、この微妙な演技? 名演だ!」みたいな。引き込まれちゃうんですよね。

宇多丸:あと、そういうさっきの音の演出……その、引き込まれて。で、引きの画でレストランのザワザワした感じ。こっちではビジネスの会話みたいなのを続けてるんだけど、フッと切れるみたいな。フッと切れるっていうのをこの映画はちょいちょい効果的に使うじゃないですか。だから、それでも1発目だ。

山本匠晃:そうです。咀嚼音がバッと出てくる。咀嚼音で切り裂くみたいな。で、これ思ったのが「氷」という選択なんですよね。氷だったんだ。なんで氷を選んだんだろう?ってすごく気になって。自分で勝手に考えたんですけど。やっぱり均衡がとれて一見、きれいに見える氷の集まりがあって。それがじっくり溶けて変化していって。氷ってそのままの形は保てない。いつかそんなきれいな形は無くなる。水になっちゃう。

どこか、なんだろうな? 外見はいい子に振る舞ってる、うまく見せようとしてるハント。でも、氷と同じく……「そのままじゃ、もう無理が来てるよ。このままの生活は無理だよ。一過性でしかないよ。このままじゃハントって精神が保てなくなるよ」みたいな。「保てない」っていう部分でなんか氷はハントとかぶっているのかな?って思ったり。キラキラして見えた、そんな風に想像していた新婚生活が始まって、希望に満ちていたんだけど蓋を開けてみると「あれ? こんなはずじゃなかった。なんか限界を迎えてるよ」みたいな。

傍から見ると優雅な豪邸暮らしなんだけど、実はそれは外側だけで。内情は不安定でグラついてて。もう脆さが出てきてる、みたいな。そんなハントに目の前に登場した氷っていう存在がすごく、すごく印象的で。その状況をふいに、氷がハントに伝えたような、その氷の様子を見て、なんかハントはどう思ったかわかんないですけど、突きつけられたような部分もあるのかなって。で、無意識の現実逃避なのか、それを食べちゃうみたいな。ウワッ!って食べちゃう。そしたら「あれ? 意外とほっとしたな」みたいな。そんな一連の動きに僕は見えて。考えてみるとすごく楽しそうだったんですよ。

宇多丸:いやー、でも聞くと「そうかもな」っていう感じ、してくるね、これね。

■初めて主人公が発した「声」=咀嚼音

山本匠晃:あと、ディナーの場で氷を食べるっていう行為って、何だろうな? 初めてハントがここで咀嚼音という「声」を出したんじゃないかなっていう。新婚生活がスタートして初めての強い主張に見えたんですよね。ハントが初めて1歩、踏み出した。もう、意図していないのに。自らの意思が表に出た瞬間が、この氷を掴んだ瞬間。掴みだした瞬間なのかなって。なんかそんな気がする。

ディナーのその場で、その氷を食べる前にハントは「あの例の話、話してよ。あれ、面白かったからさ」って夫に振られているんですよね。「自分の父と母に聞かせてやってよ」みたいな。それで振られてハントがいざ、「ああ、やった!」って話し始めるんだけど、結局ちょっと聞いて……もう上の空で聞いてるから、その夫と義理の母父はいつの間にか、ハントの話は聞かずに別の話を始めているみたいな。そんなことがあっての氷食いだったんですよね。

だから、「私もいるんだよ。なんで私の話、聞かないの? なんで私に関心がない?」がグーッと溜まって「氷を食べる」っていうアクションに繋がっているようにも見えた。噛み砕く音とか主張した。3人の会話を切り裂いたような役目をしていて。その咀嚼音の意味ってすごく重いのかなっていう風に思って。で、最近で言うと、2020年の山本の個人的なシネマランキングに入れた『ボーダー 二つの世界』を思い出したんですよね。

あの『ボーダー』でエスカルゴの中身を吸い出す。チューチューチューって食卓で。で、そのチューチューチューって吸い出す音だけ鳴り響くみたいな。そこでシーンとして同居人を黙らせるみたいな。

宇多丸:ずっとね、同居人に対してちょっと控えていたあれがね、ついに「これ、私の家よ? 好きなように食いますよ」っていう風にね、主張している感じだもんね。

山本匠晃:はい。そうですね。あのフードボイスで主張するみたいな。シーンとさせるみたいな。なんかそういうシーンだったんですよね。

宇多丸:でも、まさにそういうことじゃないですかね。この氷のシーンも然りね。

山本匠晃:しかも氷っていうのが、なんか日常的にそのままなかなか食べることはないんだけども。別に食べられるし。食べる人もいるのかなっていう絶妙な、微妙な……口にしてもおかしくないけど積極的には食べないっていう狭間のアイテムというか。

宇多丸:あと、福田里香先生的に言うなら、栄養もないし、腹に溜まるわけではない。

山本匠晃:ただの水っていうことなんですけどね。だからここでね、ハントはいろんな気づきがあったと思うんですよね。ものを口に入れて、舌に触れさせて、歯に当たって、形をたしかめて、固さをたしかめて、噛んで……その全ての感覚・感触。そして飲み込むことで得られる安堵感。自分だけの方法に無意識で気付いた。そんな場面だなという風に思うんですよね。

で、予告編でも出てきてる「私、特に金属の冷たい感触が好き」っていうセリフがあるんですけども。やっぱりこの「冷たさ」ってこの氷から来てるんじゃないかなって。癖になったんじゃないかな、頭にインプットされたんじゃないかなって思います。そんな氷のシーンでしたね。

宇多丸:いやー、すごい。皆さん、まだビー玉手前ですからね? すごい。さすが!

■ビー玉を飲み込むことで見せる、まさに「腑に落ちた」表情

宇多丸:でも、たしかにおっしゃる通り、実はその後のシーンのセッティングというかね。「こういう意味ですよ」も含めてね。「彼女にとってこういう意味を持ってますよ」も含めて、もう完全におっしゃっている解釈そのものですね。

山本匠晃:だから見事な助走だなと思って。しびれましたね。氷というチョイス。で、その氷の後に待っているのがビー玉なんですけど。予告編とかでもいろいろ映っていますけど。このビー玉はなんというか、ある本当に、本当にふとしたきっかけでビー玉を口に入れよう。飲んでみようかなっていう。本当に些細なきっかけだったんですけどね。まあ、それはちょっと作品でご覧になってほしいんですけど。それでチラッと光るビー玉が目に入って。この一連の所作がまたいいんですよね。

見つめて、手にとって、少し上に掲げてじっくり眺めるんですね。ビー玉を。そうすると、ビー玉が画面いっぱい広がってアップになるんですけど。外見、ツルンときれいで。でも、そのビー玉は中を覗くとプレーンじゃないんですよね。赤い帯みたいなものがうねっているような柄で。なんかすごく、もうその時点で怪しげに見える。怪しい魅力を放っているような、なんかもう「ああ、この柄のビー玉を選んだか!」みたいな。もうたまらないですよね。そこからもうワクワクしだすんですけども。

で、そこからスワロウを始めてしまう怪しさとか危うさとか。魅惑的な……そんなものが中に詰まっているな柄なんですけど。これをゆっくり口に運んでいく。で、わずかに開いた口からちらり見える舌、ベロがあるんですけど。ハントはもう完全に舌でビー玉を迎えに行くんですね。で、その形とか質感とか口当たりとか冷たさとか、じっくり感じ取りたい。感じ取りたいと思っているアクションがもう、その口のアップの画でわかるっていうか。「うわっ、すごい演技だな!」って思う。

で、「氷が教えてくれたあの感覚をもう1度」って絶対思ってるはずなんですよ。それで氷から今度はガラスへという流れなんですけど。そのビー玉が舌の上に乗る。口を閉じる。同時に歯に当たる音がカチッ、カチッ、カラカラ、コロコロ……なんか、ちょっと大きめの丸い飴を食べた時のような、それを口に入れた時のような。駄菓子屋で買った飴。カラカラ、カラカラっていう、あの音。なんか軽快な音が響いて。それでゆっくり口を閉じるハント。しばらく飲み込まない。

口の形をしっかりビー玉を包むように、大事にそっと口を閉じて。なんかハントはずっと感じてるんだな。口の中でじっくり……ちょっと数秒、あるんですよね。その空間……「口の中」という空間でしか味わえない、そのものの存在感を確認するような静かな時間がある。まだ飲み込まないんですよね。もう名演だと思って。で、ここから初めてのスワロウ。ゴクッと飲むんですよ。

宇多丸:異物飲み、これね。

山本匠晃:異物飲みが始まるわけですよ。「あっ、飲んだ……」。BGMもない。もう静寂の中、飲んだ。で、スーッとハントは立ち尽くして遠くを見てるんですよ。立ち尽くしている。静寂に包まれて。その時点で「あっ、ビー玉。なるほど。フォルムからもそうだけども、意外となめらかに入ったんだな」っていう。

宇多丸:ああ、そうか。「痛い」とかがなくてね。この後のスワロウと比べても、まさにね。こっちはスムースでしたね。

山本匠晃:スッと入った。立ち尽くしているその状態。明らかに飲んだ後の、しかも経過を感じ取りに行ってるような表情。

宇多丸:要するに、食道から下りてる、下りてる……っていう。

山本匠晃:そうです。重力によって口から喉、食道、胃へと運ばれていく。

宇多丸:冷たいからね。

山本匠晃:そう。そのビー玉の旅を感じ取っているような。「どこにいるんだろう? 大丈夫かな?」みたいな。

宇多丸:しかもこれさ、ちょっと補足だけどさ。冷静に考えて、さっき仰った音とか演技だけで表現しているんだよね。本当に飲んでいるわけないんだから。

山本匠晃:そうなんですよ! しかも、セリフもないんですよ。やっぱりハントの中での問題だから。

宇多丸:だからこれ、ヘイリー・ベネット、すごいよね。

山本匠晃:すごいですよ! もう怪演、名演というか。で、ビー玉が体内を進むにつれて……ずっと静かなんですよ。ずっとじっとしてるんですけど、進むにつれて徐々に顔に変化が。浮かび上がる顔の和らぎなんですよね。不安げから和らぎへ。不安、安堵、安心、満足、達成感みたいな。この繊細な顔の表情が数秒で演じられているこのすさまじさ。それこそ、まさに腑に落ちた表情というか。「ああ、これだ! 自分にとっていいわ、これ。これだ!」っていう風に合点がいったような発見。これがね、いいんですよね。で、飲むだけじゃないじゃないですか、宇多丸さん。この後も、いっていいですよね?

宇多丸:ああ、もちろん。大丈夫。

山本匠晃:で、ここからですよね。どうしよう?

宇多丸:あ、ビー玉のその後?

山本匠晃:ビー玉のその後! えっ、大丈夫なのかな?

宇多丸:いや、いいんじゃない。そこまでは。

山本匠晃:たぶんそのような予告編でしたよね。

宇多丸:全然大丈夫。うん。いいでしょう。いいでしょう。私が許可しましょう(笑)。勝手に。

■飲み込んだものを出して、それを慈しむまでがワンパッケージ

山本匠晃:それで、ビー玉を飲むことで……「飲む」っていう作業は溜まった、鬱屈とした気持ちとかを抑え込むっていう意味もあったのかなって。言いたいことを口に出さない分、グッと自分の中でこらえるためにも飲み込む作業をしたんじゃないかっていう、その表情。なんか安堵感みたいな、ほっとした表情を見るとすごく感じ取れて。ああ、スワロウの意味ってそんなところにあるのかな?って思ったんですけど。で、飲むだけじゃない。もう1歩踏み込んで、ビー玉を出すんですよね。

宇多丸:まあ、いつかは出ますからね。

山本匠晃:出すんですよ。これが大事で。トイレで用を足して、まさかのビー玉ピックアップみたいな。

宇多丸:ええ。やおら、ゴム手袋をして。「なにをするのかな?」って思ったらね。

山本匠晃:そうなんです。見つけた瞬間、あの反応。安心感と同時に浮かぶあの表情が異様っていうか。満ちる達成感みたいな、不思議な満足感だなって。これって、言いたいことが言えない日々で我慢して飲み込むんだけど。自分の意見も気持ちも飲み込む。物も飲み込む。でも、本当は言いたいことを言いたい。吐き出したい。だから、物を飲んで我慢して。でも、こっそり吐き出せた。出せた!っていう意味合いもあると思うんですよ。

だから彼女の中で大きな意味がある。身体的な面は別として、「出せた」という達成感。抗えない日常を受け入れるためにグッと飲み込んで、独り言のようにその物をこっそりと出す。そこで晴れ晴れしてるっていう、この心を保つ異様な方法がここで成り立つっていうことですよね。ハント自身の中の消化法。だからこそ、実際これも予告編でチラッと映っていたんですけども。出したものをなんとトレイに並べていくんですよ。

宇多丸:1個1個、並べていく。

山本匠晃:飲んで出したものを。彼女の中でそれらっていうのは、何か賞状とかトロフィーを飾るみたいな感覚。自分の成果っていうか。出した後のビー玉の持ち方もそうなんですけど。出したビー玉を持つ時って、落とさないように手のひらで包み込むように、囲むように。すごく大事に運ぶんですよ。やっと手に入れたメダルみたいな。「私の証なんだ」みたいな。

なんかね、そこの飲むだけじゃなく、出すまでがワンパッケージみたいな。なぜ、それを必要とするのか? いろんな意味合いを考えるのも楽しいなっていう。ああ、ダメだ。全然まだちょっと……違うんです、違うんです。もっと、画鋲もあるし。大好きな大好きな物体が……これは言えないんですけど。予告編には出てないんですけど。もう後半戦で僕、大好きなのが2つ、出てくるんですよ。

宇多丸:大好きな物体。

山本匠晃:大好きな物体が2つ……ヒントで言うと、盗み食いっていうか、盗み飲み込み。盗み食い、盗み飲み込みしているものがある。盗みスワロウしているところがあるんですよ。周囲の人にスワロウがバレて、それで「やめろ!」って言われているんだけども、人目を盗んで盗みスワロウしている。この2つの物があるんです。それがね、すごく大量であったり、咀嚼するとすごい音が出るような物。この2つ、大好き! ああ、ちょっと待って? もう時間ですよね。ちょっと待ってください。これ、すごいのよ。すっごくいいのがある……。

宇多丸:いいですよ。大丈夫。残りの時間でぜひぜひ。

山本匠晃:どうしようかな? その2つのシーンって食べる時の姿勢とかも異様だったり。口に入れた時の音とか咀嚼音とかもすごく異様で。あと、食べる環境。場所がどこか?っていうのもすごくて。あと、たっぷりとした量。異物のドカ食いみたいなことをするわけですよ。もうなんか、むさぼるように食べるっていうか。この2つをね、ぜひ見てほしいんですよ。

宇多丸:スナックみたいに食べてる時もあるもんね。

山本匠晃:スナックみたいに食べる時もあるんですよ。ひとつはもう大量に袋に入っている何かなんですけど。大量に袋に入った何かをどこかに隠して、それを取り出して。もうむさぼり食うっていうか。あと、ある場所から持ってきた物。運んだ物をガッと広げて。その広げる場所もすさまじいんですけども。なんていうんだろうな? そのイメージとしては、やけ食いっていうか。ドラマでいうとよく見るのが、失恋してお菓子をやけ食いする女子みたいな印象なんですよね。

宇多丸:本来はね、彼女も普通にスナック食べてる、やけ食いしている瞬間もあったのにね。

山本匠晃:そういうシーンもあるんですよ。それがね、もうすごい場所ですごい姿勢で食べるんですよね。「かわいい」とすら思ったんですけど。「よしなさい!」っていうぐらいの、その音とかも……ああ、「締めて」というカンペが。すいません。もうこれはダメだな……。

宇多丸:いやいや、全然ダメじゃないよ! すごかったよ! 少なくとも『Swallow スワロウ』の前半に関しては素晴らしい。実はこの後もある映画ではあるけども、そこはネタバレにも触れますからね。

山本匠晃:そうですね。これで最終的にそのハントの生活がどうなるのか? それからスワロウという依存。これがどうなるのか? そしてこの作品の中で最後に飲んで最後に出すものってなんなのか? 決着はつくのか、つかないのか? ぜひ、皆さん。この映画、フード目線でウォッチしてください。映画『Swallow スワロウ』でございます。宇多丸さん、ありがとうございました!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週は宇多丸が復帰。そして課題映画は、来週も『Swallow スワロウ』に決定!)

 

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!

◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

宇多丸、『Swallow/スワロウ』を語る!【映画評書き起こし 2021.1.22放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『Swallow/スワロウ』(2021年1月1日公開)です。

 

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、1月1日から全国公開されているこの作品、『Swallow/スワロウ』

(曲が流れる)

『マグニフィセント・セブン』や『ガール・オン・ザ・トレイン』などのヘイリー・ベネット主演のスリラー。ニューヨーク郊外の邸宅に暮らす主婦のハンターは、何不自由ない暮らしをしている一方、孤独で息苦しい日々を過ごしていた。ある日、ふとしたことからガラス玉を飲み込んだ彼女は、異物を飲み込むことで多幸感を抱くようになっていくのだが……。ということで、監督は本作で長編デビューを果たした新鋭カーロ・ミラベラ=デイビスさん、ということでございます。

これ、今後ろで流れているネイサン・ハルパーンさんという方の音楽。ちょっとヒッチコック風というか……要するにクラシカルなテイストなんですよね。これ、後ほどそういうテイストがどう変化していくか、なんていう話もしたいと思いますが。

ということで、この『Swallow スワロウ』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。ただ、メールの量は、「少なめ」。まあ公開館数も少ないですし、あと、やっぱりこれはどうしたって、コロナウイルスの感染拡大の中で、ちょっと出かける人が減っているという影響もあるのかな、とは思いますけどね。

やはり映画館、営業している以上は、私どもとしては協力しつつ……でもやっぱり、気をつける、という気持ちもわかる。これ、なかなか痛し痒しといったところなんですが。ということでメールの量は少なめなんですが、賛否の比率は、全てが褒めの意見。これ、毎週毎週いただいてますけど、否定的意見が一通もないのは珍しいくらいだと思います。

また、女性からの初投稿も目立ちました。主な意見としては、「スリラー映画かと思って見に行ったら、女性の自立を描いた力強い作品だった」「主人公が異常なものを食べる『異食症』、この自傷行為を経て、自らの内面やトラウマと向き合い、克服していくという様子が丁寧に描かれている」「エンドロールが素晴らしい」などもございました。先週もチラッと言いましたけどもね。「エンドロール大賞だ」なんて言いましたよね。

■「五臓六腑に染み渡りすぎる映画で、思い出すたびに美味しくなっていく」byリスナー

ということで、代表的なところをご紹介しましょう。ちょっと長めですが、すごくいいメールなのでご紹介しますね。ラジオネーム「りんりんりんご」さん。32歳。「私は2歳の娘の母です。結婚、妊娠、出産を経験した身としては、主人公ハンターの心情や行動が腑に落ちる。五臓六腑に染み渡りすぎる映画で、思い出すたびに美味しくなっていく映画でした。ハンターは妊娠中に食べた氷をきっかけに異食症になっていきます。この氷というセレクトが絶妙。

山本アナの言う通り、形を止めることのできないものがハンターを表しているというのもあります。それに加えて、妊娠初期は酸っぱいものやさっぱりしたもの、冷たいものが食べたくなります。レストランでの両親との会食という場で、うっとりしながらバリバリと音を立てて食べることの異様さと、妊娠中のつわりの一種でもある食の変化が一緒くたになって、私はなんとも言えない気持ちで見ていました」。この場面の読み解き、山本さんの読み解きもよかったけど、これもいいですね。

「そして、私はハンターの気持ちが分かる気がするのです。彼女のように結婚にどこか不安があるとかではないのですが、妊娠すると周囲の人々が私たち女の体を公共のもののように語り出すのです。ハンターの両親は彼女自身を心配しているというより、彼女の子供、ひいては彼らの会社の跡取りを心配しているのです。私もこれまで、『そんな距離感だっけ?』と思うような人に妊娠中のお腹を触られたり、『妊娠中はこういうものを食べなよ』とか知らないおばさんに言われたり。子供が生まれても知らない人や親戚に『1人じゃ寂しいわよね。私は3人産んだのよ。あなたも頑張りなさい』と言われたり……」。いやー、無神経だな!

「……ハンターが異食症になっていくのは、食べたり飲み込む快感もあるとは思うのですが、彼女自身のことも見ずに『妊娠中の体と大事な子供』としか思っていない、この体を傷つけることで彼らに抗うようなところがあったのではないでしょうか。そして今作、トイレのシーンがとても印象的でした。ハンターが周りに隠れて飲み込んだり、それを取り出したり。そしてラストシーン。また、男のいない場所でメイクや髪を直したり、気持ちを切り替えたりする場所がきちんと使われていたのがとても素晴らしかったです」。

だからトイレ全般が……その男性社会的なところも含む社会のルールから、唯一、彼女が逃れられるのがトイレ。だから、いろんなことがトイレで起こるんですよね。やっぱりね。そしてやっぱり、その男性の目線がないあの場、という着地でもありますよね。「……『スワロウ』とは『飲み込む』という意味と『ツバメ』という意味があります。夫の両親に与えられた家の寝室で夫の帰りを待つハンター。これを庭から撮っているシーンはかごの中の鳥のようでした。他のシーンにもこの縦と横の作り、その中に閉じ込められているハンターが印象的でした。そのハンターが終盤にかけて飛び立って行く様は最高です!」というメールでございます。

一方ですね、「空港」さん。この方は男性なんですけど。「一言で言えば、エグいけどポップでした。というのもこの映画、誰が見ても『うわっ、キツッ!』と思い、誰が見ても作品中で何が問題で、何を提示したいのかが伝わると思ったからです。とにかく見てる間中、この夫ぶっているクソ野郎の喉元をどこかの透明人間がかっ切ってくれないかとばかり思っていました。

このウンコ野郎、言いたいことは両親を通して伝え、聞きたいことはカウンセラーを通して聞く、ステータスばかり向上してしまったクソガキだったからです。こいつがデカい面している会社なんて絶対に潰れますよ。なので経済的に苦しくなる前に出ていって大正解なのです。ということを考えながら見ていたので、最後の彼女の決断は絶対支持です」という。まあ、これちょっと途中を省略させていただきますが。

「私は2人の娘を持つ父親の身ですが、娘たちに『こうなってほしい』と思うことはひとつだけ。それは『自分の人生を生きてほしい』ということです。自分で選び、決断する。そうしていけば、後悔したり、誰かのせいにすることは限りなく少なくなる。そう思うからです」というようなね。その他にも、その食の描写とかもいろいろと読み解いていただいて。こちら、男性の方から、2人の娘さんのお父さんからのメールでございました。ありがとうございました。

■変化球かと思いきや、どストレートなドラマだった。

ということで、私も『Swallow スワロウ』、シネクイントで1回と、あと、輸入ブルーレイ……向こうではすでにブルーレイが出ているので、そちらを買って、2回以上、鑑賞しております。パンフレットはね、販売されていなかったりする状態なのでね。ということで、先週の山本匠晃さんの「フード改めイートムービーウォッチメン」で、主に前半部、主人公の異食症、つまり本当にある摂食障害の一種なんですが、それが発現し始める瞬間でもある、「氷飲み込み」、先ほどのメールもあった通り。そして、ビー玉を飲み込むシーン。こちらを山本さんに詳細に語っていただきました。これ、詳しくは公式書き起こしが残ってますので、そちらもチェックしていただければと思います。2019年アメリカ・フランス合作作品です。

ただですね、本作は扱うのが2週目なので。ちょっと先週よりは踏み込んだ……まあ、ネタバレというか、踏み込んだ表現の仕方をちょっと許していただきたいのですが。この『Swallow スワロウ』という作品は、精神的に追い詰められた主人公が異常な行動をエスカレートさせていくスリラー、ニューロティックスリラーというような、いわばジャンル映画的なキワモノ性というのが、まずは目が引く。僕もやっぱり予告を見て、まずはそういう興味……あっ、これはエグくて面白そう! みたいな興味の持ち方をしたんですけれども。

まあ、山本さんも、主人公のその異食症行動、その飲み込み、スワロウをめぐる描写を、彼女の置かれた状況であるとか心理と深く結びついたものとして解釈されていました。語られていましたよね。その通りで、それは主人公が、自分と自分を取り巻く世界に感じている違和、それに対する、せめてもの叫びそのものである、という。山本さんも、「あの氷の音にみんながギョッとするけど、あれは彼女が初めて外に発した“声”だからだ」って言っていて。これは見事な解釈ですよね。

まあ、それは心の叫びでもあって、最終的にはこの作品、彼女がそれまでの心理的・社会的抑圧から自らを解放し、真の自分、真の自分の人生を取り戻していく、真の自分と向き合っていく、という、観客のハートど真ん中に剛速球を投げ込むような、わりと骨太なっていうか、どストレートな人間ドラマになっていく。変化球かと思いきや、どストレートなドラマだった。

ということで、最初は「うわっ、エグい! キツい!」みたいな、心理スリラー風に楽しむ感じなんだけど、最終的には、ドスンと腹に来る感動が残るという、そういう映画でもあるわけです。それで実際、映画自体の作りも、物語がそうやって変化していくに従って、徐々にそのタッチ、映画の文法というか、それを変化させていく。実は最初と最後では、映画としての語り口自体が全く変わったものになっている、という、そういう設計にもなっている、っていうことですね。

■本作が長編デビューのカーロ・ミラベラ=デイビス監督は学生時代、ジョーダン・ビールのお友達

とにかく、撮影、美術、衣装、音や音楽、編集、そしてもちろん主演のヘイリー・ベネットをはじめとする見事なキャスティング、演技まで、全てが極めて精緻に組み上げられた、非常にハイレベルな作品なのは間違いないと思います。脚本・監督のカーロ・ミラベラ=デイビスさん。これが長編デビューになるんですが、見事なもんですけどね。ニューヨークを拠点に活動してきた方で、学生時代にはあの『ゲット・アウト』『アス』などのジョーダン・ピールさんともお友達で、「『シャイニング』と『AKIRA』を見るといいよ」という風に勧められた、ということらしいんですけども(笑)。

で、僕もこのタイミングで、このカーロ・ミラベラ=デイビスさんが過去に撮ったミュージックビデオとか、あとは『Knife Point』っていう2009年の短編があったりするんですけども、こちらを見たんですけど。たとえばその『Knife Point』、2009年の作品は、キリスト教福音派のゴリゴリな家族とナイフのセールスマンというのが出会って起こる、とある惨劇、みたいなことなんですね。

で、今回の『Swallow スワロウ』にも、実はこういうその宗教・信仰の問題というのは、実は背景にドヨーンと横たわっていたりしますよね。そんな感じで、要は家族を通して抑圧的に働く、ある価値観、古い価値観、宗教も含むその社会と個人との軋轢、というのはひとつ、カーロ・ミラベラ=デイビスさん、メインテーマとしてあるのかな、というのは過去の短編を見ても思いますし。実際、この『Swallow スワロウ』の発想の元になったのも、カーロさんの実際のおばあさんのことだったという。僕が読んだのは『Entertainment Focus』というサイトのインタビュー記事なんですけど。

そのおばあさんが、50年代に、彼から見て非常に不幸な結婚生活を送っていて。その中で、過剰に手を洗いまくる……まあ強迫的な行動をとるようになって。精神病院に入れられてしまって、最終的にはロボトミー手術……当時だからロボトミー手術をされちゃって、味覚・嗅覚を失ってしまった、なんていうことがあって。お孫さんであるカーロさんは、そのおばあさん、彼女が、「妻、あるいは母というものはどうあるべきか」という社会が要求する枠組みにはまらなかった、その違和に対して、さっき言ったような「手を過剰に洗う」というような行動で自らを保とうとしていた……結果、彼女は「罰せられた」という。はまらなかったから、罰せられた、という風に感じていた。まさにこの強迫的な手洗いというのを、異食症……「ピカ(Pica)」なんて言われるようですけども、その異食症に置き換えたのが、まさにこの『Swallow スワロウ』という映画ですよね。

既存の枠組みにはまって生きることを要求される社会への違和感、真の自分の心の叫び

で、個人的にはですね、家族という抑圧、その背後にある信仰、というテーマ。これ、ミュージックビデオの方でも宗教的な儀式を行なっているような様子というのがよく描かれていたりするので……信仰というテーマ、あるいは自らの個人的な体験、痛みから、異様な迫力を放つ物語を紡ぎ出すその作家的スタンスという点で──あと、それが計算されつくした映画的語り口と一致して、非常に不穏極まりない作品に昇華されていく、というその手腕の鋭さも含めて──同じくニューヨーク出身の、アリ・アスターと通じるものを、僕個人的にはすごく感じましたね。過去作なんかを見ているとね。今のところですけどね。

で、このカーロ・ミラベラ=デイビスさん。個人的に興味深いのはですね、『Swallow/スワロウ』、まさにとても鋭いフェミニズム的な問題意識から作られている作品なのは、先ほどのメールとかにもありましたけど、それは明らかなわけですけど。なので僕は最初、脚本・監督の情報を入れずに見たので、「ああ、これは脚本・監督が女性なんだろうな」っていう風に思っていたら、写真を見るとらヒゲ面・長髪・メガネの、まあイケメン男性なんですよ。なんだけど、ただしこの方、『Variety』の記事によると、20代の一時期、4年間ぐらい、女性名を名乗って女性として生きていたこともある。

それで後にまた男性っぽくなってきて……という、いわゆるその流動的ジェンダーっていうのを公言されている方で。「昔はそういう流動的ジェンダーっていう言葉とか概念が流通してなかったから、すごくつらかった」なんてことを仰ってるんですけど。だからこそ、既存の枠組みの中にはまって生きることを要求される、家族とか友人を含めた社会というものへの違和感。そこにはまりきらない真の自分の心の叫び、という、まさにこの『Swallow スワロウ』という作品が描き出しているような諸々が、そもそも切実なものとしてわかってる人だった、っていうことだと思うんですよね。

そんなカーロ・ミラベラ=デイビスさんがですね、2006年の『ガール・オン・ザ・トレイン』という映画を見て、そのヘイリー・ベネットさんの主演がいいなと思いつつ、ダメ元で手紙を送ってみた。「どうせ返事なんか返ってこないと思うけど……」って送ってみたら、「これはすごくいい」ということになって、ヘイリー・ベネット自身が製作総指揮まで務めるほど入れ込むようになって……という。で、実際に各種映画祭などでも非常に高く評価されたその彼女の演技、存在感……まあ過去の役柄と全く違った感じですからね。それが非常にこの作品全体の価値を向上させているのは、間違いないあたりかと思います。

■妊娠した主人公ハンターを迎える夫の父と母。そこに現れる本質的な軽んじ

で、ですね、そんな『Swallow スワロウ』というこの作品。さっきも言ったように、映画を織りなすのあらゆる要素が、深いレベルで非常に精緻に機能しているという。ゆえに、いろんな切り口、味わいどころがあるんですけれども。たとえばですけど、そのイート描写とか以外の部分でもね、非常に特徴的なのはやっぱり、画面構成ですね。先ほどのメールでも仰っしゃられようとしていたのはそういうことだと思うんですけどもね。画面構成。

たとえば、映画の序盤ですね。ヘイリー・ベネットさんが演じるその主人公のハンターは、川沿いの丘に建つ、非常にリッチでモダンな大邸宅に住んでいる。これはオースティン・ストウェルさん演じる……この方は『セッション』とか『ブリッジ・オブ・スパイ』とか『シンクロナイズドモンスター』とかに出ていて、なんというか、ちょっと気弱さを含むマッチョイケメン、みたいな感じかな。そういうのが上手いんですけどもね。

オースティン・ストウェルさん演じる夫に、そのお父さん役のデヴィッド・ラッシュさんが……まさに取り付く島もない威圧感と非常にマッチョな思想性というのものを、物言わずとも発散してる、本当に見事なキャスティングだと思います。要は、デヴィッド・ラッシュさん演じるその金持ちのお父さんがですね、おそらくは世襲で継いだ社長の息子に、新婚祝いとして買い与えた新居である、ということですね。新居だから、最初の方だとその、ソファーにビニールがかかっていたりするんですけど。

あまつさえそのお父さんは、妊娠した主人公のお腹を指差して、「未来の社長だ」なんてことを言って。要は世襲をさせる気満々なわけですよね。で、要はこの大金持ち一家にとって、主人公は、先ほどのメールにもあった通りです、何よりもまず、世継ぎを産むための存在でしかない。上流階級の妻として、そして母として、その枠組みの中でお前はおとなしくかわいくしていりゃいいんだよ、という、本質的な軽んじがそこかしこににじみ出ていて。それが序盤の、異様なつらさを醸し出してるわけですね。

先週、山本さんも熱く語っていた、あの会話スルーからの……という。あの会話のスルーの仕方、本当にひどいよね! なんか、どこかペットレベルのかわいがり方っていうか。まあ、所有物っぽいんですよね。で、ちなみにその夫のお母さん。これ、エリザベス・マーヴェルさんが演じているお母さんが、また絶妙なその皮肉感が効いているんですけども。要は、そうしたゴリゴリの金持ち家父長制の側に、既に完全順応してしまっている人ではあるんだけども、主人公の苦悩や戸惑い、一応そのかつての同じ立場でもあった者として、どこか「半分はわかっている」風でもある。ここが味わい深いんですよね。

だからこそ、その自分という、大金持ちの妻の立場っていうので……「かつては女優を志したこともあったのよ」なんて言いつつ、「この立場に収まる秘訣は、“うまくやれてるふり”をすることね」なんてことを言うわけですよ。「あなたは今、本当に幸せなの? それとも、幸せにやれてるふりをしてるの?」なんていう、意外と急に事の本質を突くようなことを言ったりもするわけです。だからこのお母さんは、実はあっちの男チームと、ちょっと違うフェーズを持っているところが味わい深いですよね。

■映画全体が、主人公自身の変化とか成長と寄り添うようにタッチ自体を変えていく。

で、とにかくそのようにですね、アメリカ上流階級一族の、言わば機能の一部に組み込まれようとしているのが、この主人公なわけですよね。たしかに一見、何不自由ない暮らしに見えますけど、実際のところ彼女は、自分の人生をコントロールする権利を、やんわりと、しかし完全に、奪われた状態なわけです。カゴの鳥……まさにさっきのメールにあった通り。豪華なカゴに入れられた鳥、のようでもあるわけですね。

で、それをセリフとかではなく……「私、カゴの鳥よ!」とか言っているわけじゃなくて(笑)、映像的に表現するためにですね、この映画は、序盤から中盤にかけては、とにかく画面がきっちりと、文字通り「四角四面」かつ、左右対称。できるだけ左右対称に構成されていて。あまつさえ、左右対称がわかりやすいように、真ん中に線が入ったような構図もよく取られている。そのカクカクした画の中で、カメラはわりと引き気味なわけです。その中でポツンと……そのかっちりかっちりした空間の四角の中に、まさにその四角の中に、主人公ハンターが閉じ込められたような画面構成になっている。

で、そのひたすらかっちり、シンメトリカルに、スクエアに、全てが整然と配置されたこの画面、すなわち主人公が生きるこの世界がですね、いつ、どんな風に揺らいでいくのか、というところがポイントなんですね。たとえば、カチカチッとして……要するにカメラはフィックスですよ。固定カメラだったのが、ある決定的な瞬間。つまり、彼女の内面がある決定的な一線を越えてしまう瞬間……具体的には、はっきり体を傷つけるであろうものを飲み込むほうについに動き出してしまう、その瞬間。ずっとカチカチッとしていたカメラが、やおら、手持ちカメラになるわけですよ。

で、見ているこちらも、今まで安定した世界だと思ってたものが、突然、足元から揺らいだような感覚になる。そういう作りが非常に周到なわけですね。あるいは、そのかっちりと整理された空間の中に、ぽつんと取り残されたように、引きの画で、さっき言ったように捉えられていた主人公に、だんだんとカメラが、極度に寄って、その被写界深度が非常に深い……要するに(外側の)世界が目に入らない、彼女だけの心理、というところに入り込んでいくわけです。あるポイントから。

で、ここ。マスタープライムレンズっていうのを使って、物の表面のテクスチャーを、非常に詳細に捉えるレンズを使って。それこそ飲み込む物たちの、物質としてのフェティッシュな感覚っていうのも非常に生々しく捉えるような、寄りのカメラが非常に印象的で。彼女の世界というものを寄りのカメラで捉える。これ、撮影のケイトリン・アリスメンディさんとか、あるいはプロダクションデザイナーのエリン・マギルさんという方。この方は『MAD MEN マッドメン』とかをやっているような方らしいですけども。

あるいは、どこか50年代的なテイストを強調することで、要は旧態依然とした価値観……要は性差別的であったり、階級意識など、旧態依然とした価値観が、現在にもやっぱり浸透して生きてるんだよっていうことを表現したというこの衣装の、リエーネ・ドブラヤさんであるとか。あるいは、先ほどから言っているネイサン・ハルパーンさんによる、やはりクラシカルな……ちょっとヒッチコックとか、ダグラス・サークの昔の50年代ハリウッドのメロドラマを思わせるような音楽。それがやはり最終的には、こんな曲になるわけですよ。たとえばね、こんな曲が流れる。

(曲が流れる)

最終的には、ちょっと現代的な感覚のある……これ、アラナ・ヨークさんという方の『Anthem』という曲。ヒッチコック的な世界からもう全然遠いですよね? 全く違うところに着地して。これ、歌詞もすごく呼応しているんですけども。とにかく、そうした映画を構成する全てが、前半まではさっきから言っているように、整然と、かっちりと、左右対称に安定して動かない画面、クラシカルなこのデザイン、あるいはこの音楽……どこか、要するに浮世離れした、現実社会から切り離された世界(を表現している)。実際に主人公は(外の社会から)切り離されたところにずっと囚われているわけですけど。

それがだんだんと、不安定で、雑然とした、よりリアルな、現実的な世界へと変わっていくという。そして、その主人公がその中で、画面の中で、存在感を増していく。最初はその画面の四角の中で、他の人物の存在に圧迫されるようにいた主人公が、どんどん画面の中での存在感を……要するに(画面内の面積を)占める大きさも含めて、増していく、という。そういう風に映画全体が、主人公自身の変化とか成長と寄り添うように、タッチ自体を変えていく。そんなあたりも味わい尽くしていただきたいあたりでございます。

■人生というものの深淵、真髄が刻み込まれている。見た目のイメージ以上にとんでもなく深く、いい映画!

細かいところで言うと、音の使い方。先週、山本さんが指摘していたように、本当に繊細で計算されていて……氷のショット、コップの上からグーッと寄っていく感じ、ちょっと『タクシードライバー』の胃薬を入れたコップにも通じるショットだと思いますが、ここ、重要なのはやはり、その他の音が一旦消える。で、そこからカメラが引いて、現実世界に観客は引き戻されるけど、彼女はまだコップの中に囚われたまま、っていう、要は視点の寄り引き、そのギャップの見せ方が、すごく上手いとかですね。音でいうとビー玉のところ。これ、2度目に見てようやく気づきましたけども。

ビー玉をグーッと見つめるところで、かすかに、潮騒とカモメと、ちょっと笑い声みたいなのが、ちょっとだけ入っている。つまり、彼女にとっての解放の記憶と繋がる音なんでしょうか? そんなものが鳴ったりするという。あるいは、ふっと音がなくなったりする。どこで音が、どの音がなくなるかっていうところも、注意して味わっていただきたいポイントです。あと、絶妙だなと思うのが、中盤以降登場する、この看護師のルアイさんという方。これ、演じるライト・ナクリさんの、「『容疑者、ホアキン・フェニックス』か!」っていう感じのルックスと相まって(笑)、この登場シーンの「いや、いい看護師って……こ、怖いんですけど……」っていう。

あの「こいつ?」っていう、ユーモアすら漂わせる(登場シーンの強面感)、これもおかしいですけど、これ、ポイントは、シリアから難民として来たらしい彼を置くことで、「所詮はこれ、何不自由ない暮らしをしてる人の、贅沢な悩みなのでは?」というレベルで主人公を見てしまうかもしれない観客に、きっちりと先手を打っているわけですよ。人生の牢獄はどこでもあり得るし、その切実さ、危険さというものを、結局は彼こそが真に理解している、っていう。

つまり、この登場人物の中で、この家の外の世界、現実を、彼と彼女だけが知ってるからなんですよ。そして、何よりも胸を打つのは、終盤、クライマックスで、主人公が対峙することになる、「ある人物」とのやりとり。もちろん、単純に美談と言えるような話じゃないんです。非常にちょっとこれは、嫌な話とも言える話かもしれないんだけど、しかしここにはたしかに間違いなく、大きく言えば人生というものの深淵、真髄。人生の真髄が刻み込まれているとすら言えるような、すごいシーンです。

「自分ではどうにもできないもの」の最たるものとしての、自分自身の生ですよね。で、それをついに自分自身に取り戻すべく、彼女が最後に「飲み込むもの」は何か、ということですよね。もちろんこれ、考え方次第によっては非常にショッキングでもあるような着地ではあるんですが。ただひとつ言えるのは、彼女にとって、そして我々にとってですね、自分の人生を自分でコントロールする……本当の意味で生きるってのは、つまりそのための戦いでもある、ということなんですよね。それだけはたしかなこと。

そして、それは誰の人生にもあるもの。だからこれは、ラストシーン、あそこなわけです。加えてそれは、男性社会の目が及ばない、何なら社会全体の目が及ばないあの空間でこそ、彼女たちのその戦いの手前のところっていうのが、グッとくるようになっている、見事なエンドロール。それをセリフではなく、完璧に映画として着地させるあのエンディング。エンドロールが終わるまで、僕は本当に、身じろぎもせず、スクリーンから目が離せずにいました。

ということで、現状本年度1位です! まだ2本目ですけど(笑)。ということで、日々の暮らし、人生に、抑圧や違和感を感じている全ての人々にですね、この主人公の七転八倒とそこからの再生は、かならずや、胸を打つものとして映るはずではないかと思います。とにかく、見た目のイメージ以上にこれ、とんでもなく深くすごい、いい映画でした! ぜひぜひ劇場でウォッチしてください。

(中略)

山本:宇多丸さん、『Swallow スワロウ』評、お疲れ様でした。

宇多丸:いやいや、山本さんとセットで成り立つものとして……クライマックスのあそこで出てくる「あの人」の演技もすごいよね! あの、目で……アップで見えるあの目の、ちょっとおどおどしたところ、からの……そして最後の目の表情の変化だけでもう、人生の……本当にすごい!

山本:すごい演技!

宇多丸:思い出すだにちょっと鳥肌が立っちゃう。はい。『Swallow スワロウ』でございました。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『KCIA 南山の部長たち』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!

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宇多丸、『KCIA南山の部長たち 』を語る!【映画評書き起こし 2021.1.29放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、KCIA南山の部長たち(2021年1月22日公開)です。

 

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、1月22日から公開されているこの作品、KCIA南山の部長たち

(曲が流れる)

1979年に韓国のパク・チョンヒ(朴正煕)大統領が、大統領直属の機関・韓国中央情報部(通称:KCIA)の部長に暗殺された、実際の事件を元にしたサスペンス。ある程度年齢が上の方は、ご記憶にある方もいるんじゃないですかね? 大統領の側近の1人である男が、なぜ、大統領を暗殺したのか、映画独自の目線で描く。イ・ビョンホンがKCIA部長のキムを熱演。監督は『インサイダーズ 内部者たち』などのウ・ミンホ、ということでございます。

ということで、この『KCIA 南山の部長たち』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「多め」。ああ、そうですか。非常に注目度が高いのかしらね? 賛否の比率は、「褒め」の意見が8割、残りが「普通」「まあまあよかった」という意見。全面的にけなすような意見はゼロ。やはり非常に風格ある作りですからね。

主な褒める意見としては、「史実をベースにしてはいるが、描かれているドラマは普遍的で、背景を知らずとも楽しめる」「ほとんどラブストーリーに見える濃厚な人間ドラマ」「ポリティカルで風格のあるエンタメ大作が出てくる韓国映画界、恐るべし」「イ・ビョンホン、やっぱりすごい」などがございました。また、批判的な意見はほとんどないものの、「前半が少し退屈だった」という意見も……ちょっとどこに向かっているか、わかりづらいっていうところがあるかもしれないね。また、「歴史的背景を知らないで見たので名前や立場があまり理解できなかった」という声もチラホラとございました。皆さん、鑑賞後にパンフレットやネットで調べた、というようで。僕も実際、この映画を見て調べるまでは、全然わかっていなかったですからね。

■「ヤクザ映画における『盃を交わした親分と兄貴分の間で引き裂かれてく1チンピラの物語』のようでもあり」(byリスナー)

ということで代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「ブリジット林田(リンダ)」さん。「『KCIA 南山の部長たち』、1月26日、立川シネマシティにて鑑賞しました。ポリティカルサスペンスにも関わらず、暗殺前40日間に絞り、それ以前の政治的背景があまり具体的に説明されないためか、主人公キム部長の非常に私的な映画に感じられるところがユニークでした。

自分には、イ・ビョンホン演じるキム部長が権力者とはあまり感じられず、ただただ共にクーデターを戦い、友情と忠誠を誓った2人の男……現大統領と前情報部長を支え、従ってきた1人の男、としての印象が強く、それはヤクザ映画における「盃を交わした親分と兄貴分の間で引き裂かれてく1チンピラの物語」のようでもあり。次期大統領候補と目される男による暗殺が、クーデターを起こすための行為だったとはとても思えない描き方をされているのも一因かもしれません。

その後、チョン・ドファン(全斗煥)が大統領になり、1988年までより苛烈な圧政が続くことになりますが、暗殺に成功したキム部長が大統領になっていれば、韓国の民主化はもっと早く実現していたのでしょうか?」というようなメール。ただね、やっぱりキム部長は正直、そこまでの絵は書いてなかったと思われる、っていうところですよね。僕がやっぱり、いろいろ読んでみた限りは。

一方、ちょっと苦言を呈しているメール。ラジオネーム「空港」さん。「結論から言えば、悪くはないけど……ぐらいの感じです。撮影の演技もクールでよかったですが。あまり同意を得られないかもですが、主人公であるイ・ビョンホンが起こす最後の大統領暗殺の動機が『守るべき韓国の民主主義の、そして守るべき自国民のため』という点があまり感じられなかったからです。

もちろん全く描かれていないわけではないし、そこを強調しすぎるとウェットになるしで、なかなか難しいバランスだとは思うのですが。どうも主人公がこの権力ゲームのプレイヤーではあるけども、ゲームそのものを終わらせるために戦っている感がないというか……」ということで、いろいろと書いていただいて。

「近年の韓国映画『1987』や『タクシー運転手』などは、“この国の未来のために”というバックボーンがあったのでめちゃくちゃ感動したのですが、期待しすぎたんですかね?」……まあ、やっぱり時代が光州事件より後になると、グッと民主化に寄ってきますけど。やっぱりキムさん自身の動機がじゃあ、どこにあったのか? この、たぶん「いい」って言ってる人と、「ダメ」って言ってる人と、言ってることは同じで。そこを明確にというか、絞り切らない作りではあるんですよね。はい。まあ、ちょっと私もどう見たか、お話をしていきたいと思います。皆さん、メールありがとうございます。

■実際の事件を題材にした映画化、その参考資料に使ったのは……

『KCIA 南山の部長たち』、私も『週刊文春エンタ!』の星取表で昨年、一足早く拝見しておりまして。プラス、シネマート新宿に行ってまいりました。昼の回にも関わらず結構、このご時世のわりには、中高年男性を中心に入っていた感じでございました。行ってみましょう。先ほどから言っているように、実際の事件を元にした映画化です。僕、正直全く詳しくなかったので、このタイミングで、本を2冊ほど読みました。1冊目は、本作の原作となったキム・チュンシクさんの『実録KCIA―「南山と呼ばれた男たち』。これ、講談社から出てる本ですね。

「南山」というのは、そのKCIAという、CIA×日本のかつての特高警察とか、ナチス・ドイツのゲシュタポみたいな、拷問とかそういうのもやったりするような組織だという。で、その南山っていうのは、KCIAという組織がある土地なんだけど、まあ日本の警察を「桜田門」っていう風に呼ぶような感じですね。

『実録KCIA―「南山と呼ばれた男たち』、講談社から出てる本を、中古しかなかったので、それを読んだりとか。これは韓国では92年に出た本なんですけども。あとはもう1冊、2005年に韓国で出た、『朴正煕、最後の一日』という、これは草思社から出てる本で。これはかなりパク・チョンヒ大統領寄りというか、パク・チョンヒ大統領の人物を礼賛するスタンスの本なんだけど、暗殺事件の経緯に関しては、ものすごく詳しく……今回の映画に出てくる様々なディテールも含めて、さっき(番組オープニングトーク)のね、飴の話であるとかも含めて、書いてあって。

とにかくこの2冊を読んでみたわけです。それでようやく勉強したんですけど。遅まきながら。あと、資料として一番参考になったのは、これ、ネットでも読めるやつですよね。『サイゾーウーマン』にチェ・ソンウクさんという方が書かれていた記事。これが、映画で描かれたこと、あるいは映画で描かれていないことを、事実に照らして分かりやすく整理して書かれていて。これが一番ありがたかったです。これ、すごい参考になりました。『サイゾーウーマン』の記事、ぜひこちらを皆さん、参照していただきたいんですが。

特にいろいろ読んでいて興味深かったのは、今回の映画に描かれていない部分で。韓国の前大統領であるパク・クネ(朴槿恵)さん。今年の1月に、ついに判決が完全に確定しましたけど。まあ弾劾・罷免されてね、判決が出ましたけども。パク・チョンヒの娘さんなんですね。で、彼女がその政治介入させていた、親友のチェ・スンシルさんという方がいて。それが大問題になりましたけど。そのお父さんがそもそも、宗教団体のこの牧師チェ・テミンさんという方で。

その不正行為を、キムKCIA部長、今回の映画ではイ・ビョンホンが演じているKCIAの部長は、大統領に「あいつ、不正行為をしているし、ロクなやつじゃないから。あいつはちょっと外した方がいいですよ」って、報告、進言していたんですね。なんだけど、まあパク・クネさんはやっぱり、その当時からそっちのチェさんを擁護して。逆にそのキム部長が恥をかく羽目になった、なんてことが『実録KCIA』には書いてあるし。逆に、こっちの『朴正煕、最後の一日』、パク・チョンヒ寄りに書かれた本の方では、パク・クネはKCIA部長のキム・ジェギュを排除するようにお父さんに進言していた、なんてことがこちらには書かれていて、という。

なので、これは先ほど言った『サイゾーウーマン』の記事で、後にそのパク・クネがどう失脚していったかというか、意のままに操られて……っていうようなことを考えれば、KCIA部長のキム・ジェギュの判断の方が正しかったと言えるだろう、って書いてあって。これはなかなか味わい深い。今回の映画にはそのへんの描写は入っていない、パク・クネは出てこないんだけども、大統領を殺害したキム・ジェギュ側にこういう理があった、というのを際立たせるような時勢ではあったのかな、という風には思いますね。

■歴史の闇に埋もれて見えない部分をどう「解釈」したかが面白い

ちなみにこのパク・チョンヒ暗殺事件を、過去に映画化した作品。映画で扱われることはちょいちょいあるんですけれども。完全に描かれているもので言うと、2005年のイム・サンス脚本・監督作品、日本タイトルは『ユゴ 大統領有故』という、ハン・ソッキュとかが出ているやつがあって。こちらは全体に、すごくシニカルな、ダークコメディ的ですらあるような、非常に突き放した姿勢が今回の『南山の部長たち』とは非常に対照的でありつつ……その暗殺当日に絞った群像劇である分、たとえばそのキム部長に協力した部下たちとか、さらにその部下たちに命令されて動いた人たちなどの動きも、細かく追っていて。これはこれですごく面白いので、ぜひ皆さん、機会があったら『ユゴ』も見てみてください。

あと、暗殺シーンの段取り……つまりその、キャラクターの感情描写としてはほとんど正反対な『ユゴ』と『南山の部長たち』なんだけど、暗殺シーンの段取り、やってること自体は、やはりこれ、どちらも事実に基づいているから、同じなんですよ。なので、同じことをやっていても、醸し出されるものが全然違う、正反対っていうところを比べる意味でも……見比べてもめちゃめちゃ面白かったので、ぜひ皆さんも、興味がある方、やってみてくださいね。

さて今回の、2020年、改めてその題材を映画化した『KCIA 南山の部長たち』。脚本・監督は、ウ・ミンホさんという方ですね。このコーナー初登場なので改めて説明しておくと、2010年の長編デビュー作『破壊された男』……これは、言っちゃえば少女誘拐版『チェイサー』って感じですかね。その作品でデビューして。続く2012年、これは対照的に、基本ベタベタのコメディタッチながら、北朝鮮から韓国に潜入して普通に暮らしているスパイたち、という、言っちゃえば社会派エンターテイメントの領域にちょっと初めて足を踏み入れた、『スパイな奴ら』というのがあって。

それを経て、決定打はやはり、2015年の『インサイダーズ 内部者たち』。政治とメディアの腐敗しきった結託に、イ・ビョンホンが珍しく風格ゼロで演じるドチンピラが、一矢報いようとしていく、という。一見話は複雑に見えるけど、実はすごく分かりやすい面白さに満ちた、社会派エンターテインメント作品、これが大ヒットして。これで一気にちょっと、格が上がった、っていう感じですかね。

で、続くソン・ガンホ主演の2018年『麻薬王』。これは今回の『KCIA』と同じく実話ベースです。韓国版の『ブロウ』×『スカーフェイス』、みたいな感じの楽しい作品なんですけども。日本ではNetflixで見れますけど、どうやら韓国では劇場公開されて、興行的に大コケしてしまったようで。今回の劇場で売っているパンプのインタビューでもですね、イ・ビョンホンさんとかウ・ミンホさんが、自らネタにしているという。「『麻薬王』がコケちゃったんで……」みたいな(笑)。それを繰り返しネタにしているぐらいで。

ちなみに、その次のこの作品『KCIA』は、無事に大ヒットして。アメリカ・アカデミー賞国際長編映画部門の韓国代表作品に選ばれたぐらいなんで。よかったよかった、っていうことなんですけど。で、実際に前作『麻薬法』でも、このパク大統領暗殺という件は時代背景として出てくるし。あと、『スパイな奴ら』でも、パク政権時代の話とかが出てきたりして。そもそも『インサイダーズ』より前にこの事件の映画化を考えていた、ということで、まあウ・ミンホさんにとって念願の、気合の入った題材なのは間違いないと思います。

事実この、今までのウ・ミンホさんの作品の中では、本当にいろいろ格が1個上がった作品というか……僕は最高傑作だという風に思いますけども。ポイントはやはり、基本的な事実関係、たとえばさっき言ったような暗殺の段取りそのものとかこそ明らかになっているものの、その先の「なぜ?」という感情とか動機の部分であるとか、あるいは本当に歴史の闇に埋もれてしまって、新事実とか新証言でもない限りはわかんない部分……だから意外とわかんない部分が多い事件でもあるんですね。

この事件をですね、要は新たに作る作品として、どう「解釈」するか?っていう。ここの部分がやっぱり見どころなわけですよ。そして本作、その『南山の部長たち』はですね、まさにその独自解釈の部分。かなりの部分で事実をベースにしつつ、完全創作の要素も混ぜ込んで……という、これがですね、やっぱり非常に面白いんです。解釈の仕方が面白い。

■一見難解だが、実はヤクザ映画の面白さに近い構造を持つ

ちなみに、先ほどから言っている『サイゾーウーマン』の記事がわかりやすく整理してくれてますが、この作品、最初と最後にね、ニュース映像と解説パートが付くんですけど、そこ以外はですね、基本全ての人物が、実名ではなく別の名前に置き換えられています。「パク大統領」というのだけはそうなんだけど、そのパク・チョンヒというフルネームでは言われない、みたいなバランス。やはりこれ、「あくまでもこれは、この映画のためのオリジナル解釈ですよ」ということですね。

さっき『インサイダーズ』紹介の時にも言いましたけども、この『KCIA』もそうで、一見複雑だけど、実はすごくわかりやすい面白さの構造を持っている。さっきのメールにもありましたけどね、「ヤクザ映画みたい」っていうね。もちろん本来、本当に複雑な事実を基盤にはしているし……本作はそれを大幅に単純化して、あるいは大幅に省略してはいるけども、元が複雑ではあるし、あと、ここがミソなんですけど、登場人物が本当のことを言っていない、言っていることとやっていることが正反対、みたいなことが、やっぱりこれ、政治劇、パワーバランス劇ですから、頻出するわけですよ。

これはもう『アウトレイジ』とかもそうですけどね。なので、ボーッと見てると迷子になりやすいのは間違いないと思う。「あれっ? さっきこう言ってなかったっけ?」「だからそれは嘘なんだって!」っていう。なので、一応ざっくりと整理しておきますと、主軸となるのはその、イ・ビョンホン演じるKCIA部長、本物はキム・ジェギュさんという方ですけど、今回の役名はキム・ギュピョンさん、そのパク大統領への深い信頼、親愛の情が裏切られていく……まあ単純に言えば、子分が親分に裏切られ、怒りを爆発させる、という。本当にヤクザ映画、ギャング映画的な話ですよね。まあ『インサイダーズ』もそういう話でしたけどね。

もちろんその、警護室長のチャ・ジチョル、役名はクァク・サンチョンとの対立という、これ、史実的にも最も大きな動機のひとつとされてます。この警護室長との対立というのがこじれたせいだ、という風にされているんですが、少なくとも本作での扱いは、まあ「ボスに取り入っただけのカス」ってぐらいの軽さなので。やっぱりメインはボスとの関係。ちなみにこの警護室長との、ふたり銃を突きつけあっての、本当にしょうもないやりとり、みたいなのもちょっと笑えたりするんですけど。はい。

あれですね。『アイリッシュマン』でのあの子供っぽいヤクザの喧嘩、みたいのにも近いものがありますけども。とにかくその主人公・キム部長はですね、信頼し尊敬していた親分パク閣下にですね、「閣下!」っつってね、ほだされては裏切られ、ほだされては裏切られ……この「ほだされ」というところで、さっきオープニングで山本さんとお話をした、酒を飲む、というくだりが来る。ほだされては裏切られ、ほだされては裏切られ、ついに堪忍袋の緒が切れるまでの話、と言えるということだと思いますね。ちなみに実際のキム・ジェギュさん、ちょっと元々、怒りをコントロールできない面があった、とも言われておりますが。

■作品独自の映画的な解釈、見せ場で盛り上げる

で、とにかくその怒りを爆発させる、そこに至る節目として、この作品、この映画ではですね、いわゆる「コリアゲート」事件となっていく、元KCIA部長キム・ヒョンウクさん、役名はパク・ヨンガクとなっていますが、この告発というものが置かれている。これ、ちなみにこの、彼の告発を書いた本の内容をリークした日本の雑誌、映画では『サンデー毎日』となっていますが、実際には『創』です。それはいいんだけど。

まあ、彼がとうとう始末されてしまうまで……これ、現在ではキム部長の指図によるもの、ということが明らかになっていますね。それを、物語中の前半から中盤までの、大きな山場に持ってきてるわけです。で、ここでこの作品オリジナルのアレンジ、解釈がすごく効いていて。まず、その告発をした元KCIA部長。これ、クァク・ドウォンが演じているんですけど。彼はこういう、権力を笠に着た人物、あるいは権力に振り回される人物っていうのが本当にハマる!というクァク・ドウォン。

とにかく彼が演じるパク・ヨンガクとキム部長が、要するに共に、パク・チョンヒと一緒に1961年の軍事クーデターを戦った、いわば「革命の同志」、古くからの友人同士、というオリジナル設定を入れている。これによって、友を親分のために殺すことになった子分、キム部長のつらさっていうのも際立つし、それをものすごく遠回し、かつ、でもはっきり伝わる言い方でやらせておいて、自分は責任取らない……どころか、こっちを事後的に責めてくる! という親分、パク大統領の卑怯さ、非情さというのが、非常に際立ってもいる。

具体的には「私はいつもそばにいるよ。好きにやりなさい」というこの暗黙の命令。最初はこれ、パク・ヨンガクの回想として、2度目はキム部長が直接言われる言葉として、そして3度目は……という。これ、彼らが酒を酌み交わすのも3度目。そしてこの言葉を聞くのも3度目。これがポイントなんですね。後述する、やはりオリジナルのある場面で繰り返され、これがやっぱり、キム部長が完全にブチギレるポイントとなるという、そういう、非常にわかりやすい作りになってるわけです。

で、とにかくですね、「あのベラベラしゃべる裏切り者を消せ」と暗に命令されたキム部長はですね、パリで作戦を準備する。でも同時にこの、イラつく邪魔者であるクァク警護室長チームも、同じターゲットを狙って着々と駒を進めつつある、という。このですね、パク大統領を挟んだ両者の攻防を、まさに子供たちのステージを鑑賞している3人、というこの構図。それとパリでのターゲット争奪戦の、同時進行……要するに、子供たちのステージを見ている、すごくいい人ぶっているところと、人殺しの場面っていうものを、同時進行で、カットバックで見せていく。これ、やはりこの作品独自の映画的な見せ場を作っている。盛り上げ方をしている。

言ってみれば『ゴッドファーザー』クライマックス、的なことでもありますし。あと、森の木立の中を、殺されようとしている男が逃げていく、あの恐ろしくも美麗なスローショットはですね、ちょっと『ミラーズ・クロッシング』とかね、あのあたりのテイストがあるかな、なんて思いましたけど。

■本作の白眉は、晩餐会のある屋敷に忍び込んで目撃した大統領のその表情

それで、何より味わい深いのがですね、これは人っ子ひとりいないパリ郊外の街というか村というか、そこで立ち尽くすパクKCIA元部長が、足元をふっと見ると……という。この、死を目前にした人物の心理の流れみたいなものを、とても印象深く繊細に描いてるこのくだりも、本当によかったですよね。

ともあれ、この告発者が消されるまで、が前半部なわけです。で、後半部は、そうやって友を殺してまで忠誠を誓ったその親分の、あまりといえばあまりの仕打ちに、子分のキム部長が不信感と怒りを募らせて、最終的に殺意を抱くに至るまで、っていうことなんですけど。まずやはり、このパク・ヨンガク殺害を報告してみたら、パク大統領から返ってきた、意外な反応。それに対する激しい失望。これ、劇中、さっきの室長との喧嘩以外で、本当の気持ちが現れるところ……初めてと言っていいぐらい感情をあらわにして、しかし背後のボスには悟られないよう、必死でそれを押し殺す。イ・ビョンホンの、抑えつつも熱い、この表情の演技。ここがまず、グッと来ます。

そして僕はですね、これ、『週刊文春エンタ!』でもここをこそ特筆しましたけども、僕が考えるこの本作の、白眉です。大統領のその夕食、晩餐会からハブられたキム部長は、大雨の中、屋敷に忍び込んで、壁越しにその酒席を、盗聴しようとする。これはもちろん、本作の創作シーン、オリジナルのシーンです。現実じゃないですよ。ここでですね、その太鼓持ちであるクァク警護室長が一瞬、席を外した時に、パク大統領が不意に見せる、素の表情。これ、音だけで聞こえるんですけども、僕はこの『南山の部長たち』最大の味わい、ここにあると思います。

たとえばね、これはさっき言った『ユゴ 大統領有故』っていうその同じ事件を描いた作品だとーーそういう風に描くことも全然できる人なんだけどーー要は「好色で横暴な独裁者」っていう描き方、もっと単色の描き方も、全然できちゃう人なんですね、パク大統領っていうのは。で、もちろんこの映画でも、横暴で狡猾、道を誤ってしまった人物であることには間違いないんだけど。どこかこの映画のパク大統領は、権力に対する、倦怠を漂わせているんですよ。

「俺、もうこの立場、嫌だな」っていうのもちょっと……あと、どうにもならない孤独感。これを漂わせている。哀愁が漂ってるんですよ、すでに最初から。そこが本当になんというか、「ああ、実際にこうだったのかもな」っていう説得力と、豊かな風味が非常に満ちているくだりだと思うんですよね。そしてですね、壁越しにそれを聞いているキム部長も、堪らない気持ちになったところでの、「あっ!」っていう、このサスペンスフルな展開。プラス、これはサスペンスだけじゃなくて、一瞬その大統領が、「曲者!」って言うだけじゃない、「お前、なのか……?」っていうような、一瞬の感情の交錯も重なって。ものすごく味わい甲斐がある、本当にこれ、いい場面です。名シーンと言っていいと思います。

ともあれ、このくだりを境に、完全に一線を越えたキム部長の鬱憤。これがまさに1979年10月26日の酒席で、ついに表に出てしまうわけですね。これ、このくだりはやっぱり、動機のメイン解釈としては、革命の理想がダメになってしまった失望、そして、今後の韓国の民主化のために……という大義が一応、その現実よりも強調された作りにはなっています。要は後にキム部長がした陳述、後から言った陳述に寄せている、っていう感じですね。

細かいことを言うとね、ここで使われたピストル。ワルサーPPK、これは合っているんですけども。先ほど言った『朴正煕、最後の一日』の冒頭に載っている写真によればですね、フィンガーチャンネルがないタイプのマガジンでした、本当は……細かいね(笑)。後ね、この本は面白くて、2発撃った後の作動不良は、たぶん誤ってセーフティー(安全装置)をおろしてしまったからであろう、っていう。面白いね。

■イ・ビョンホンが表情の演技で見せる、キム部長という人物のある種の「限界」

ここもひとつ、見どころを挙げておくと、いろいろと不測の事態が起こって、しかし結局、やはりとどめを刺しに戻ってきたキム部長を演じるイ・ビョンホンをですね、カメラはずっと、表に出て車に乗る手前まで、ワンカットで追っていくんですけども。特にその、暗殺の舞台となったそのお座敷部屋から出ようとする、その手前の瞬間で、先ほど(金曜パートナー山本匠晃さんが)言ってましたけどね、「すってんころりん」ってね。イ・ビョンホンに、あるアクシデント……すってんころりん、ってなるわけですよ。血で滑る、っていう。

これ、アドリブなのか、計算なのか。いずれにせよ、キム部長のただ事ではない動転ぶりを示す、すごく映画ならではの奇跡的瞬間がおさえられている。これ、長いワンカットの中(で起こること)のひとつだから、すごく効いているんですよね。本当っぽいわけです。で、さらにこれ、車に乗ってからの流れも、最高に味わい深いですね。靴を履かずに来てしまった件。やおら飴を口に入れ、他の人にも勧める件。いずれも事実からの微妙なアレンジですけど、本当ではある。

特にやはり、イ・ビョンホンの抑えた顔の演技。KCIA本部に行くか、陸軍に行くか……実際ここでの判断が、彼の命運を決めたとも言えるんですけども。イ・ビョンホンの演技はどことなく……「陸軍に行きます? どうしますか? 決めてください」って言われた時に、ちょっと「諦めた」ような表情になるわけです。つまり、そもそも事後のクーデター的な政治処理、俺はちょっともうこの先は無理かな、俺そこまでやりたくないわ、もういいや、って感じの表情に……つまり、キム部長という人物のある種の「限界」を、あの表情で、物を言わず示しているわけですよ。人物像を。

本当にイ・ビョンホン、見事なこの、車の中の演技でございました。そしてですね、これね、この映画は、幕の引き方が超かっこよくて。次にトップの座につく「あの人」……ずっとナンバー3的なところ、本当はもっと順位ね、下の人なんだけど、ナンバー3的なところにいるように、クールにいるように見せかけて、彼がその部屋を出ようとする時に、振り返って、そこで終わる、っていう。はーっ! 歴史的経緯を知っていればこれ、本当にスマートです。

これ、「光秀と秀吉」的なことですね。本当にスマートな幕の引き方だと思います。はい。ということで暗殺者のキム部長を、ことさらに英雄視することでもなく、そして『ユゴ 大統領有故』のように狂人的に描くでもなく、1人の人間の、その感情の流れごと真正面から、しかしクールな距離を保って描かれた本作。その、ある種の「あとは皆さん、どう思いますか?」っていうところも含めて……このクールなスタンスを含めて、実録社会派エンターテイメントとして、非常に高いレベルに達している作品だと思います。ウ・ミンホさんの作品としても、最高傑作だという風に思います。ということで、今日はてらさわホークさんのフレーズを借りて終わろうかと思います。「マジで本当にいいので、見よう!」(笑)

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『花束みたいな恋をした』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!

◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

宇多丸、『花束みたいな恋をした』を語る!【映画評書き起こし 2021.2.5放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『花束みたいな恋をした』(2021年1月29日公開)です。

 

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、1月29日から公開されているこの作品、『花束みたいな恋をした』

(曲が流れる)

はい。これ私、先ほど(番組)オープニングで言った、大友良英さんの劇伴。これを聞くだけでちょっと、涙腺が激しく刺激されて危険! という音楽でございます。『東京ラブストーリー』『最高の離婚』など、数々のヒットドラマを手がけてきた坂元裕二のオリジナル脚本を、菅田将暉と有村架純の主演で映画化。終電を逃したことから偶然に出会った、大学生の山音麦と八谷絹。2人の5年間の恋を描く。監督は、坂元裕二脚本のドラマ『カルテット』の演出も手がけた土井裕泰さん、ということでございます。

ということで、この『花束みたいな恋をした』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「とても多い」。これ、評判がね、もう去年の試写の段階からすごく伝わってきたので。評判が広がっているんだと思います。実際、ヒットしている。賛否の比率は「褒め」の意見が8割。残りが「良くなかった」という声でございました。

主な褒めの意見としては、「ラストで号泣。今年の暫定ベスト」「これはアトロクリスナーに刺さる。とても他人事とは思えない」「坂元裕二脚本らしい特徴的なセリフ回しも堪能できた」「主演2人の演技はもちろん美術、撮影全てがよい」などございました。また多くの人が自分の話をするのも今作の感想の特徴。やっぱり自分の、自分史を投影するタイプの作品ですよね。猛然と自分のことも思い出すという。ちょっと記憶の扉を開かれたりもしますよね。

また、「出てくるサブカル的な固有名詞に愛情を感じず冷めてしまった」とか「恋愛経験に乏しいのでピンと来ない」といった声もありました。まあ、それもね。

■「ポップカルチャーによって恋愛関係を築き、労働によって恋愛関係が崩れる」(byリスナー)

といったあたりで、代表点なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「dxdxd」さん。「『花束みたいな恋をした』、奇跡のような5年間の恋愛に悶絶しました。早くも今年度ベストです。『(500)日のサマー』『ビフォア〜』シリーズ系統かと思いますが、日本映画でこのテイストはあまりない気がします。アトロク的に言えば『何かが始まる音がする、Y・O・K・A・N~予感~』で『何か』が始まった人たちの話ですね」。「何かが始まる予感がした」って言ってましたからね!

「……本作の一番のポイントはポップカルチャーによって恋愛関係を築き、労働によって恋愛関係が崩れる点だと思います。これは菅田さんが本作のPR番組で言っていたことですが、『カルチャーという部分で、現代的なあるあるで言うと、メディアも発達して『俺らはこれが好き』という小さいコミュニティーが増えて、その中の盛り上がりを描くのが今っぽいっすね』とのことでした。

本当にその通りで、今、ポップカルチャーが細分化、供給過多の中、たくさんの最小単位のコミュニティーができていて、たまたま出会った人が全く同じコミュニティーって奇跡に近いです。だからこそ、後半の展開が残酷なのです。合わせ鏡のような関係性だったのにも関わらず、次第にずれていき、奇跡のような関係が崩れていく。この2人の関係を引き裂くものこそが『労働』だったと思います。麦のイラストのギャラがもっと上がれば好きなことを仕事にできたし、心の余裕がなくなったのも『就業時間は5時まで』と求人を出して全然守らないブラック気味の会社のせいです。

個人的なことにはなりますが、自分も当時付き合っていた彼女と別れたのは同じような原因です。自分は長時間労働しているのに、彼女の方は実家暮らしで、自分は好きなことして生きるというスタンスで過ごしてるのがどうしても受けることができなかったのです。今では間違いだったと猛省しております。2人の関係性に亀裂を入れるのは、恋敵、病気、身分の違いでもなく、労働という社会のシステムそのもの、という点がこの映画を身近な物語だと感じる一番のポイントだと思います。このあたりは今まで、テレビドラマで長時間労働、児童虐待、パワハラなどの社会問題を描いてきた脚本家・坂元裕二のエッセンスがにじみ出ていたかなと思います。

そして、終盤でのファミレスでの一連のシーンに感情のダムが決壊しました。あの結論を出せなければ、『ブルーバレンタイン』『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』みたいなことになっていたでしょうね」。そうか。だから無理して(関係を)持続してもね……っていうことはあるのかな。「コロナ禍の今、明大前で終電を逃して出会うなんてことはなかなかできませんが、それでも『花束みたいな恋をした』みたいな恋をしたくなりました」というご意見でございます。

ええとね、本当に皆さん、いろんな形のメールをいただいていて。全部、ご紹介したいんだけどね。良くなかったという方もご紹介しましょう。「かずま」さん。

「今回、テレビドラマの名手、坂元裕二さんのオリジナル脚本ということで、彼のドラマ独特のセリフ回しがどう映画になるのか、非常に大きな期待を胸に劇場に向かいました」という。で、いろいろと書いていただいて。

「……本作における2人の恋は本当に花束のような恋だったのでしょうか? 趣味が共通言語となったのをきっかけに距離を縮めていくものの、結局本質的な部分では繋がりを持てていなかった2人の関係性は映画が終わってみると非常に浅いものに見えてしまいます。だからこそ、2人の関係性は現代的で逆にリアリティーのある残酷性に満ちているのかもしれませんが、こんなに残酷ならシニカルに突き放してほしかったです」という。で、またいろいろ書いていただいて。

「一見、リアリティーのあるような雰囲気があるものの、2人の生活描写は少なく、お金の話もあんまりしないので、現実感がない。リアリティラインの線引きが中途半端なところで止まっている気がします。2人の掛け合いが素晴らしい分、細かい部分がノイズになってしまい、坂元さんの脚本特有の独特のセリフ回しや説明的な部分が気になってしまいました」。お金の話はでも、麦くんのイラストのギャラのあれとか結構、「うわっ!」っていうリアルさだったように感じますけどね。そして彼がやっぱり、ある方向に舵を切ってしまうのもそこなので。意外とお金の話、労働条件問題は(背景に)敷いてある気がしますけどね。まあ、乗れなかった方がいても当然だと思いますが。

■映画史の中に「恋愛についての映画≒恋愛映画」。中でも本作は純度の高い「純・恋愛映画」

ということで皆さん、メールありがとうございます。『花束みたいな恋をした』、私もテアトル東京で……毎週ね、2回、3回と見たりするのは当たり前なんですけど、結構このコーナーでは、『スター・ウォーズ』初日とかの例外を除いて、初めて「連続で」2回見てしまいました。ということです。非常にお客さんも入ってましたね。さすが、『鬼滅』を抑えて興行収入1位だけのことはあるかなと思います。

ということでですね、これまでにも、「恋愛映画」というより、「恋愛についての映画」……つまり、「暴力映画」ではなく「暴力についての映画」があるように、恋愛についての映画。要は、僕がお気に入りジャンルとしてよく言う、倦怠夫婦物、倦怠カップル物っていうのはまさにその一部。恋愛について考察する映画というか、恋愛について思考させられる映画というか。その系譜での傑作、名作がいっぱいある。

要は、恋愛の成就がゴールになってるわけじゃない話……いわゆるラブコメ、ロマンティックコメディとかだと、恋愛の成就がゴールだったりしますけど、そうじゃなくて、むしろ「その先」の困難や、絶望を描く。ひいては、我々自身のその人生の、生の限界というか、限定性というか……でも、それが限定的だからこそ、非常に尊く、愛おしい、っていうのを浮き彫りにして描くような、そういう系譜での傑作、名作が、映画史にはいろいろあるわけなんですが。

その中でも特に、恋愛の一番いい時期と、もうダメになっちゃった時期を、ひとつの作品の中で対比させるという、まさに鬼畜の所業とも言うべきストーリーテリング技術により(笑)、我々観客の心のかさぶたをメリメリと剥がしにかかってくるタイプの傑作群というのが、ちょいちょいありまして。たとえば、僕の映画評で扱った中で言っても、やはり2010年の『ブルーバレンタイン』。あるいは2009年の『(500)日のサマー』であるとかですね。

あるいは、そうした構成……要するに『ブルーバレンタイン』とか『(500)日のサマー』みたいに、いい時と悪い時を交互に、カットバック的な感じで見せるみたいな、そうした構成のひょっとしたら元祖と言えるかもしれない、1967年のスタンリー・ドーネン監督、オードリー・ヘップバーン主演の『いつも2人で』。ちなみにこれ、パンフレットの大友良英さんのインタビューで、「オードリー・ヘップバーンを輝かせるためにヘンリー・マンシーニが曲を作るような方法じゃないな」なんてことを発言していて。これはもう明らかに、この『いつも2人で』のことを書いている。

つまり、『いつも2人で』みたいなアプローチは取れないなと思った、というぐらい、やっぱり話の構造としては近いなと思われたということだと思うんですけどね。あるいはですね、フランス映画で『ふたりの5つの分かれ路』という、これも胸をえぐるような作品であるとか。さっき言ったような、その恋愛関係の否応ない変化を、クライマックスで一気に凝縮して見せるという、本当に凶悪極まりない作りの『テイク・ディス・ワルツ』であるとかですね。いろんなそういう系統の作品、心に突き刺さって一生取れないような作品が、いっぱいあるんですけど。

今回のその『花束みたいな恋をした』は、明らかにそうした、今言ったような作品群の系譜上にありながら、まあ恋愛というものを見つめる、考察する目線の、言ってみれば純度の高さって言うか、混じりっけのなさにおいて、ちょっと突出している、意外とありそうでなかった、いわば「純・恋愛映画」……「純愛映画」ではなくて、純・恋愛映画というか、そうなっているあたりがすごいと思いましたね。

■主人公ふたりの関係性を揺さぶる外部要因は、あえて言えば「時間」だけ

つまり、ある男女が出会い、恋に落ちるんだけども、それがやがて否応なく変質していく、という話の中で、この『花束みたいな恋をした』が……これ、メールに書かれていた方も多かったし、あるいは坂元さんご自身がいろんな記事でも仰ってますけど、よくあるような、その「ドラマを起こすための外部要因」というものを持ち込まない。たとえば、第3のキャラクターを交えた三角関係になるとか、病気になっちゃったとか、事故にあっちゃったとか、事件になっちゃったとか。

とにかく、そういう何か大きめの、あるいはちょっと異常性のある荒波を起こして、2人の関係性を揺さぶる、というようなことを、この『花束』は基本的に一切せず……せいぜい「オダギリジョーが“オダギリジョー力”のみによって、不穏なある種の磁力を感じさせる」といったことだけ(笑)。といったぐらいで、あくまで、有村架純さん演じる絹ちゃんという子と、菅田将暉くん演じる麦くんという、この2人の関係性だけに焦点を絞って。あえて言えば、絹ちゃんと麦くんと、もうひとつ、社会とか時間とかっていう、もうひとつの……僕はやっぱりその「時間」が、もう1人の主役だと思うんですよね。時間が過ぎることによって社会と直面せざるを得なくなる、ということで。「絹ちゃんと、麦くんと、時間」がこの映画の3人の主人公だと思うんだけど。

とにかくこの、誰もが自分が同世代だった頃、まあ20代始めから後半にかけて、要は学生から社会に出て行くタイミング、一大変化の季節を投影し得る……特にその、パートナーとの同居、からの解消、みたいなのの経験があれば、なおさら強く共鳴してしまうような、この最高にかわいらしい、愛おしいカップルがですね、その時間の経過に伴う諸々の変化に、どう否応なく変質していくか、という。これをですね、有村架純、菅田将暉両氏の、見事に実在感あふれる、繊細で自然な……「演技」というか、もう「あり方」と表現したいような、その画面の中でのたたずまい。

そしてあるいは、彼らを取り巻く、2015年から2020年の日本、東京を実感させる、さまざまなディテールの丁寧な描き込みによって、あたかも本当に5年間を、彼らと共に、もしくは彼らとして生きたかのような、しっかりとした重みを伴う記憶のような感慨を、見る者に植えつけてしまう……だから今、俺の頭の中にはやつらが住まってしまっている、という(笑)。そんな作品になってるわけですね。

■劇中のサブカルチャー要素は具体的な「個人」にリサーチしたもの

今回、この物語ですね、主演の2人に当て書きで、オリジナルで作り上げた、先ほどから何度か名前が出ています坂元裕二さん。数々のね、本当にそれこそ20代前半から、大ヒットドラマシリーズを数々、手がけてこられたわけですけれども。特に近年はね、先ほどのメールにもあったように、社会問題を見据えた作品でさらに評価を上げてきた、という感じですけども。たとえば、僕が見ている中で……僕はちょっとそこまで、全作品を追いかけているような熱心なファンじゃなくて申し訳ないですけど、僕が見ている中でも、今回も監督として組みました、その土井裕泰さんと組んだ『カルテット』、2017年。これ、言うまでもなく私のラップパートナーである、Mummy-Dさん出演でも知られる、これまた傑作ドラマですよね。

まあある意味、だからもう私は事実上『カルテット』関係者っていう……「恥ずかしくないのか、お前?」っていうね(笑)。はいはい、まあそれはいいんだ。『カルテット』の中の、松たか子さんとクドカンさんの夫婦のエピソードがあるんですけど、あれとか。あるいはこれ、ずっとね、前から人にすすめられていて、今回遅まきながら一気見をしたんですけど、『最高の離婚』とかね。あと、考えてみたらその出世作である『東京ラブストーリー』だってそうなんですけど、さっき言ったようなその倦怠カップル物、実は非常に坂元さん、得意とされてるというか、繰り返し描いてきた、とも言えると思うんですよね。

まあ今回の『花束』にも、『カルテット』の松たか子・クドカン夫婦の、お互い共有したいところが共有できない悲しみであるとか。あるいはその『最高の離婚』における、特にやっぱり恋愛初期と今の対比であるとか。そしてその『東京ラブストーリー』の、特にやっぱりあの、ちょっと意外なまでにドライな着地っていうかな、あの感じ。などなど、ですね、これまでも坂元裕二作品で描かれてきたような……他の作品もきっと(本作に通じる)エッセンスが(含まれているはず、たとえば)、「ファミレスでの会話」とかね。あの『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』クライマックスのファミレスの会話、とかも含めて、ある種そのエッセンスが、研ぎすまされ、集約されている一作、という風にも言えるんじゃないでしょうか。ちょっと集大成的な感じもあるかな、という風に思いました。

まあ、お話の作り自体は、実は先週の『KCIA南山の部長たち』と同じですよ(笑)。ラスト近くから始まるんです。で、お話全体の行き着く先っていうのを、先に示す作りなんですね。だからね、これ、ちなみに坂元さんが、自分は映画にはあまり向かない作り手だと思っていた、要するにテレビドラマシリーズは結末、行きつく先をあまり考えずに作ることができて、それが好きだから、っていう風に仰ってるんだけども、この作品のように行き着く先が先に設定されて、そこに……っていうことであれば、これは(映画としても)上手く行った例、という風に言えるかもしれませんけども。

特にですね、この話のキモとなるのはやはり、これは僕の表現で言うと、「“自分の似姿”としての理想のパートナー」という美しくも儚い幻想、というあたりがやっぱり、一番のキモかと思います。劇中大量に登場する、その2015年から2020年にかけての彼らの興味、趣味を反映したサブカルチャー要素、というのがあるわけです。ちなみにこれ、先ほど(番組オープニングでも)言ったように、坂元さん、「具体的な個人」に対するリサーチに基づくもの、ということで。なるほど、全く嘘が感じられないというか、「たしかにこういう人、いるよね」っていう感じがする、実在感がある並びになってるんですけど。

■映画前半に現出させる「奇跡のような普通の時間」

で、当然その、そうした個々の固有名詞に対して、やいのやいの言って楽しむこともできる、そういう余地がふんだんにある作品なのは、間違いないんですが……ただ、一番肝心なのは、そうしたそのサブカルチャーへの傾倒というのはですね、絹さん、あるいは麦くん両者にとってですね、それ以外の世界、他者たちと自分を隔てるというか、自分を守ると言ってもいいかもしれないけど、自分というものの固有性を構成する、言ってしまえばアイデンティティの一部でもある、ということですよね。

だからこそ、その麦くんと絹ちゃんというこの2人……有村さんと菅田くんが演じていながら、ちゃんと序盤では「周りの人に埋もれている人」に見える、というあたり、やっぱり役者さんってすごいですよね。だからこそ、序盤、彼らが互いに共通するものを1個1個見つけては、距離を縮めていく。要するに、自分の似姿をついに見つけた、ソウルメイトについに出会った!的な喜びという。で、それをだから、その自分にとって大切な何かと置き換えつつ、観客の我々は見ることができるわけです。

だから、あのあふれかえる固有名詞たちは、全部分からなくてもいい。むしろ分からない方が、「この2人には分かっている」っていう、その2人の固有性が際立つから。むしろその方がいいくらいなんですね。というものだと思ってください。

で、彼らのその、恋愛最初期のくだり。非常によくできているのは、たとえば着ているものもですね、わかりやすいところでは2人ともジャックパーセルを履いてるとか、あとはその霜降りのパーカー、同じようなのを着て。あるいは、JAXAのエコバックを両方持ってきている、とかあるんだけども。アイテム的にも意図せずしてペアルック化しちゃっている、っていうのもあるし。

あとは、場面場面で、たとえば青と白であるとか、黄色と緑であるとか、アイテムとしては違うんだけど、トータルで見ると、色としてちゃんと対になっている、みたいなスタイリングになってたりするわけですね。このへんも本当に上手いですし。あと、その坂元裕二さんの元のシナリオと実際の映画を比べると、有村架純さんと菅田将暉さんが……あれはアドリブなのかね? だから、ごくごく自然な、本当の会話に思えるような会話感を、実は細かく足していて。それがその、それぞれのシーンに厚みというか、温かみを増しているところ。それが随所にあって、これがさらに感心、感動してしまうあたり。

たとえば、麦くんのアパートに初めてその絹ちゃんを連れてくるところ。大雨に降られてびしょびしょの服を脱ぎながら、「いやー、しかしすごかったね(雨がすごかったね)」「うん。でもちょっと楽しかった」「アハハハハハハハハ!」っていう、あれ、シナリオにないやり取りですし。あるいは、さっきの(番組オープニングで話した)居酒屋の(シーン)、「すいませ〜ん」っていうあの謝り方。あれもシナリオにはないですし。

あるいはその後、家に来てから、麦くんが作った焼きおにぎりを絹ちゃんが2つ食べる、というところで、最初、有村さんがおにぎりを頬張りながら、「もうひほふ、いいへふは?(もうひとつ、いいですか?)」って言って。それに対して菅田さんが、笑いながら「えっ、なんて言ったの?」「これ、もらっていいですか?」「ああ、どうぞどうぞ」っていう。この、ちょっとしたやり取り。本当、こういうところにこそ……そういう素敵なやり取りを、シナリオからさらに膨らませて足している、というあたり。これが本当に、この作品の魅力をさらに増している。

たしかに、こうした何気ない瞬間こそが、我々の実人生においてもですよ、本当は一番の宝ですよね。こういう何気ないやり取り。で、それを、丁寧に丁寧に、ごくごく自然にリアルに、しかしこれ以上ないほどの多幸感をもって、積み上げていく。「奇跡のような、普通の時間」というのを現出させていく。それがまずはこの『花束』、前半部の素晴らしさですよね。

■リアルでつらい口論シーン。「『またか』とは思うよ! 『またか』だからね!」

で、そうやって、「これ以上、幸せなカップルっているの?」と、我々自身も心底思い始めるところまで行ってるからこそ……だって、駅から30分の物件、不動産屋の人も「えっ、でも駅から30分ですよ?」っていう、なんかあのへんはちょっと森田芳光映画的な裏ツッコミっていう感じがしますけども、その道のりさえも、幸せ!って。もうそんなの、最強じゃないですか? なんだけど、その幸せな瞬間の、絶頂の中にも、既に終わりへ向かう予感は含まれているのだ、ということを、少なくとも絹ちゃん側は何となく意識してもいる、という。この海に行く日のくだり。映像タッチがちょっと変わりますね。あるいは音の緩急。フッと音がなくなったり、そういう緩急も効いていて。非常に胸を締め付けてくる。

その恋愛初期段階においては、さっき言ったように、「自分の似姿としての理想のパートナー、ついに見つけた!」という喜び、それはまるで自分の人生を全肯定されたような気持ちですから、それは嬉しい。それは天にも登るような気持ちですけど、問題はやはり、どんな人であれ、実は自分の似姿などではなく、「他者」であることには変わりがない、っていうことですね。だから僕はあの、「イヤホンで、同じものを聴いているつもりかもしれないけど、実は違うものを聴いているんだ、君らは」っていうのはつまり、そのメタファーだと思うんですけど。

まあ、カップル2人の関係にですね、先ほどから言っている「時間経過」という第3のファクターがどうしたって関わってくることで、その似姿というのものの幻想が、みるみる朽ちて、他者性がむしろ浮き上がってくる。要は、端的に言えば、人は誰しも変わっていく。そして、取り巻く環境も変わっていく、という。特にやはり、対社会、現実の中で生きていくということと理想を、どう折り合いつけていくか。その足並みが、パートナー同士、必ずしも合わないタイミング。これ、当然やってくるわけですね。

で、その背景にはやっぱり、日本社会のあり方……先ほど言ったように、ちょっとブラック企業的な、しかもそこに一旦、要するに昔ながらのマッチョな「俺が養ってやる」イズムみたいなところに一旦乗っかっちゃうと、それに染まっていってしまうその麦くんの悲しさもあるし。逆に絹ちゃんは絹ちゃんで、そういう意味でそういうキャリアを積むような職を、あんまり重ねられないというか……自分で資格取ったりとか、ちょっとベンチャー的な企業に行ったりとかするけど、女性側のその就職の難しさみたいなものも、ちょっと浮かんでくる気がするんですよね。

で、ここでまず菅田将暉さんが本当に見事なのは、麦くんって、学生時代は非常におっとりしたしゃべり方をする子だったんですよね。でも、ネクタイを締めて以降、しゃべりのスピード自体が、変わるんですよね。それだけでもう、別人みたいなんですよ。同じ人なのに。これ、見事ですね。そして有村架純さん演じるこの絹さん。逆に絹さんは、何でも一旦、飲み込む人なんです。その麦くんと口論してても、麦くんの言うことをかならず一旦は、「そうだね」ってかならず受けてあげる。ちょっと大人だし、優しい、「いい人」なんですよ。

でも、だからこそ、その中に溜め込んでいくものっていうのを、これは有村さんが、あのかわいらしい顔の中に、見事に……なんというか、基本優等生的な「いい人」だからこそ、内に抱え込んだ思いっていうのの(表出先としての)、その表情が、やっぱりちょっとゆがんでいく、ちょっとくすんでいく表現。本当に有村架純さんならではのバランスじゃないでしょうか。ということで、この倦怠カップル物というジャンルはですね、見どころはやっぱり、「口論シーン」なわけで。本作、これは現代日本のカップルの口論シーンとして、本当に最高にリアルで、つらい!

あれとかね、「『またか』とは思うよ! 『またか』だからね!」とかね。「『じゃあ』が最近多いんだよ!」とかっていう。「俺もこういうこと、言われたことあるわ……」みたいな感じで。で、これを見事に、やっぱり同年代の俳優であれば激しく嫉妬するに違いない、もう最高の役柄、最高の演技で、この2人が見せてくれる。それ以降、この2人のズレが、それを補正しようとする努力を一応すればするほど、大きくなっていく、という後半。

たとえばそのらアキ・カウリスマキの映画を見ても……だし。その夜のベッドでの、つらすぎる会話。「また映画とか……やってほしいことあったら言って」って、なんだそれ? 今日お前、「サービス」のつもりだったのかよ! みたいな。こういう1個1個の、一言一言の棘、ささくれが、重なっていくプロセス。まさに名匠・坂元裕二の技、といったあたりじゃないでしょうかね。

近年の日本映画でこんな見事に終わる映画、ちょっとないんじゃないかな?

クライマックス、これは坂元裕二さん十八番の、「ファミレスでの会話」です。これ私、『佐々木、イン、マイマイン』評で、「こういう普通のカップルの、“ちゃんとした別れ”を描く作品って、日本で意外とないよね」と言いましたけど。まさにここ、本作はまさにその、究極形と言ってもいいかもしれない。このクライマックス。

と、いうのはですね、ここは、恋愛初期のマジックが解けた後、さっき言った似姿のファンタジーがなくなった後、「それでも共に生きていく2人」のあり方、その可能性さえ、しっかり提示してみせる。それはそれで間違っていないのかも、悪くないのかも、という、いわば苦めのハッピーエンドの可能性も、しっかりと説得力を持って提示しつつ。絹ちゃんだって、そっちに行こうかなと思いかけつつ……やはり、あまりにもあの頃の私たちは輝いていすぎた、眩しすぎた、ってことなのかなって。

でもね、その輝きを背に生きていく、その先の人生……あの思い出があるから、これからの人生も素敵なんじゃないか、というこの着地。後味は、この種の作品の系譜としては、異例なほど爽やかです。特に、エンディングの切れ味。伏線回収としても見事そのものだし、本当に思わず拍手したくなる……近年の日本映画でこんな見事に終わる映画、ちょっとないんじゃないかな? というくらいの、最高の終わり方ですね。とにかく、先ほどから言ってるように、今、僕の頭の中、心にはですね、この映画が……そしてその中で生きていた彼らが、住み着いてしまった。

そして、きっと見た人の多くがそう感じるタイプの映画ということじゃないでしょうか。彼らに幸あれ! ……そして、我々自身の人生にもですね、たとえばその、大好きな人との時間や記憶、これから更に大切に生きていこう、という風に思える、大事に、花束のように抱えながら生きていこうと思える、そんな映画でございました。

一応、カップルで見るよりは、それぞれ別個で見て、「(お互いを)大事にしよう」という気持ちを持って帰るのがよろしいんじゃないでしょうか。若干、カップルで見終わった人は、劇場を出て気まずそうでした(笑)。ということで、これはなんというか、結構な射程を持った、名作じゃないかなと思った……『花束みたいな恋をした』、ぜひぜひ劇場でウォッチしてください。

(中略)

宇多丸:あの、「トイレットペーパーは地元で買え」問題に関して、(絹ちゃんの実家がある)飛田給は、駅前にそういう店がなくて不便なんですって(笑)。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『ジャスト6.5 闘いの証』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!

◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

宇多丸、『ジャスト6.5 闘いの証 』を語る!【映画評書き起こし 2021.2.12放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『ジャスト6.5 闘いの証』(2021年1月16日公開)です。

 

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞して評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、日本では2019年の第32回東京国際映画祭で初上映され、監督賞と主演男優賞を映画祭の中でも取りました、今年の1月16日から公開されているこの作品……『ジャスト6.5 闘いの証』

(曲が流れる)

イラン警察と麻薬組織の容赦なき戦いを描いたクライム・サスペンス。イラン警察のサマド率いる麻薬撲滅チームは、長年追いかけてきた麻薬組織の元締め、ナセル・ハグザドをついに逮捕する。しかし、それで終わるほどイランの麻薬戦争は甘くはなかった……。主人公サマドを演じるのは、アスガル・ファルハディ監督『別離』などのペイマン・モアディさん。監督は、本作が長編二作目となるサイード・ルスタイさん。この番組では2019年10月23日に、東京国際映画祭シニアプログラマーの矢田部吉彦さんがおすすめしてくれました。

ということで、この『ジャスト6.5 闘いの証』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「いつもよりはやや少なめ」。ただし、都内1館上映で、1日2回しか回してませんからね。これは結構健闘している方じゃないかな、という気がしますけども。

賛否の比率は、褒めの意見が9割。非常に評価が高いです。褒める意見として多かったのは、「イラン映画は初めて見たが、見ごたえがありとても面白かった」「派手な暴力シーンはないが、緊張感がすごい」「警察対麻薬組織の話かと思っていたら、いい意味で裏切られた」「麻薬組織のボス、ナセルが魅力的」などございました。一方、「中盤以降、話がどこへ行くのかわからず、戸惑ってしまった」といった声もありました。

■「群集の満ち引きそのものがエンターテイメントになっている」(byリスナー)

代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「空港さん」。「『最高!』と声高に言いたくなるというより、家に持ち帰り、これからも反芻していくであろう映画でした。冒頭、スラム街から始まる麻薬ルートを辿っていく流れは、全シーン緊張感がみなぎり、めちゃくちゃ面白かったです。ただ、ストーリー中盤にも関わらず、麻薬王ナセルが逮捕された時点で思わず時計を見てしまいました。『えっ、ここからどう進むの?』。そこからキャラクターたちがひたすら会話、というか舌戦を繰り広げる中盤以降、話がスピーディーに一直線、“縦”に進んでいく前半部に比例して、主要キャラを中心とした人物像の掘り下げのパートは“横”に広がっていくように進み、ますます話の展開が読めなくなり、あらゆる人物への共感も伴い、小さくずっと揺さぶられていく感覚でした」という。

で、以下ちょっとこれはネタバレ部分なので僕、ちょっとぼやかしながら言いますけど……「ナセルが最終的に行き着くシチュエーション。この映画で最も恐ろしい暴力的なシーンであると感じました」と仰っていて。「以前、シネマハスラーで扱った『ドラッグ・ウォー 毒戦』のラストで宇多丸さんが『劇中、最も暴力的に見えた』と評していたのを思い出しました」というお便りでございます。

あと、ラジオネーム「リョウ」さん。「『ジャスト6.5 闘いの証』を新宿K’s cinemaで見てきました。いやー、傑作でした。ものすごい数のエキストラが動くので、その時点で画力というか、絵力というか、スクリーンからの圧がすごいのですが。この映画のマジで素晴らしいところは群集の満ち引きそのものがエンターテイメントになっているところです。画面に収まっている人の数がだんだんと増えていき、最終的には満員電車のようにみっちみちに詰まったり……」。あの奥の、いろんな房から、囚人というか、収監されている人たちが出てきて、最終的にそれが人の津波のようにさなってグーッと押し寄せてきて、一番前にいる……「えっ、ちょっと待って? これ、だ、だ、大丈夫?」っていうあの感じとか、すごかったですよね。

「……みっちみちに詰まったり。あるいは人の群れがザーッと引いた後の誰もいなくなった空間と、そこに残る余韻であったり。空間の広さとその場における人の密度。そしてその大勢の人の流れ。これらが一体となって視覚的な面白さを脳に伝えてくるようでした」。なるほど。これ、面白いですね。この見方ね。「これだけの人を映してること自体が映画に真実味を持たせているのですが、さらにはタイトルにもあるような、現実のイラン社会における問題の説得力も高めていると感じました。イラン映画を見るのは初めてでしたが、本作で一気に興味が湧きました」というリョウさんでございます。

一方、ちょっと良くなかったという方。「アンダーキャッスル」さん。「正直、後半よくわからなくなったというのが感想です。前半はスピーディーな展開と重々しい空気が張り詰め、(ブラジル映画)『エリート・スクワッド』をはじめて見た時の衝撃を思い出しました。しかし、イラン暴力警察VS麻薬王のハイテンションな対決を期待していた自分は、中盤以降の展開に置いてきぼりにされました。ウォシュレットの水まきなど、画力は強いので退屈はしませんでしたが」。これ、だから同じことを仰っていますよね。中盤以降、ちょっと物語のモードが変わるということで。たしかにね、そこからさらにね、話についてゆきづらい人が出てくるような作りであるのは間違いないと思うんです。皆さん、同じことを仰っていると思います。ということで皆さん、メールありがとうございました。

■名匠アスガル・ファルハディ監督が生み出したトレンド「マシンガントークからストーリーが二転三転」の究極形が本作

『ジャスト6.5 闘いの証』、私も2019年東京国際映画祭でまず最初に見て。その後、K’s cinemaで、今週ね、2回見てまいりました。結構ね、K’s cinemaも、公開3週目にしては人が入ってましたね。先ほど、番組オープングでも言いましたけれども、今、K’s cinemaでは、『ジャスト6.5』と、もう1本、その『ウォーデン 消えた死刑囚』という、どちらも2019年に本国では公開され大ヒット、そして高く評価された、イランの社会派エンターテインメント映画、この2本が同時に公開されていて。

しかも、主演俳優陣も同じ、という。これも番組オープニングで言いましたけど、僕、恥ずかしながら、その『ジャスト6.5』でドラッグ売買の元締め・ナセル役を演じている、ナヴィッド・モハマドザデーさん、こっちの『ウォーデン』の主人公でもある、ということに、パンフを見るまで気づかなかったっていうね。すごい役者さんだなと思いましたけどね。なおかつ、その『ウォーデン』の方の監督の、ニマ・ジャウィディ監督さんの前作、長編デビューに当たる『メルボルン』という2014年の作品。これは今回の『ジャスト6.5』にも出ている、そしてアスガル・ファルハディ作品でもおなじみ、今やハリウッドでも活躍中のペイマン・モアディさんが主演だったりして。

要は割と人脈的に重なっているというか。日本ではなかなか見る機会が少ないけども、現代のイラン映画最前線、こんな感じ!というその一端を、一気に味わうことができる、なかなかの好プログラムだと思います、K’s cinemaさん。この機会に2本見られるというのは、非常に嬉しいことだと思いますね。ということで、今回扱うのはこの、『ジャスト6.5』の方でございます。劇中の文脈を踏まえてこのタイトル、ちょっと意訳するならば、「単に650万人になっただけ」みたいなことです。

なにが「650万人になっただけ」なのか?っていうのは、映画を見ていくと最後、終わりの方の会話でそれが明らかになっていくわけですけど。この番組的にはこの『ジャスト6.5』、先ほども言いましたけども、最初は2019年の東京国際映画祭のおすすめ作品として、プログラミングディレクターの矢田部吉彦さんに挙げていただいて。それで僕も見に行きましたし、水曜パートナーの日比麻音子さんもご覧になって。なかなか衝撃だったと。その後、番組内でもチラッと触れて、紹介したりしましたよね。

ちなみにこの2019年の東京国際映画祭で、この『ジャスト6.5』、最優秀監督賞と最優秀主演男優賞も獲得しているということでございます。で、その後に僕、2020年、昨年の東京国際映画祭配布用の小冊子『CROSSCUT ASIA』というのの中で、矢田部さんと再び対談した時に教えていただいて、これは「ああ、なるほど!」って初めて知ったことなんですけど……先ほど名前が出ましたアスガル・ファルハディさん。『彼女が消えた浜辺』『別離』、そして『ある過去の行方』などなどで、世界的にも非常に高い評価を受けている、もう今や現代イラン映画を代表する巨匠と言っていいと思いますけど。

僕も前の番組時代、タマフル時代の2017年7月22日に、『セールスマン』という作品を評したりもしました。これはみやーんさんによる公式書き起こしが今でも読めますので。アスガル・ファルハディさんがどんな人なのかというのは、こちらを見ていただくと分かりやすいと思うんですが。そのアスガル・ファルハディさんの影響で、イラン映画、まさにそのファルハディ作品風にですね、マシンガントークからストーリーが二転三転していく、というような、登場人物がしゃべりまくる作りっていうのが、ものすごくトレンドになったんだそうです。矢田部さん曰く。

そしてこの『ジャスト6.5』はですね、矢田部さんの言葉を借りるなら、「その究極形ではないかと。ガンガンやり合うところは一緒でも、スケール感が桁違い」という風な位置づけを矢田部さんはされていて。これはさすが、やっぱり最新のイラン映画の動向まで、体系づけてご覧になっている矢田部さんならではの情報というか、僕だけだったら絶対にわからなかったことなので。「ありがとう、矢田部さん!」っていう感じなんですけど。

■ドキュメンタリータッチ+アート映画的なショット+独特のストーリーテリング。そのトータルで浮かび上がってくるのは……

で、たしかにこの『ジャスト6.5』、登場人物たちがとにかくまくし立てる、激しい会話劇がメインなんですね。でも、それと同時に、先ほどから話題にしてる通り、ちょっとぎょっとするほどスケールがデカい、もはやデヴィッド・リーン的と言ってしまいたくなるほど、エキストラの数も半端じゃない、いわゆるモブシーンがですね、要所で非常に、強烈に印象に残る映画でもあって。あるいはですね、そのすごい数が集められたエキストラ。本物の麻薬中毒者の方々を集めて、その表情をひとつひとつ丹念に切り取っていくような、そういうドキュメンタリーと見紛うほどリアルなタッチ……途中で出てくるあの子供のくだりとか、あれドキュメンタリーにしか見えないんですけどね。

そういうリアルなタッチと、時折放り込まれる、非常に美しく静謐な構図の、アート映画的なショット。その両方が、等しく機能している作品でもある。そして、ここが最も独特だと思いますけど、ストーリーテリングのスタイルもちょっと変わっていて。前半は、そのペイマン・モアディさん演じる刑事をはじめとする警察側が、ホームレスであるとか末端の売人から、少しずつ麻薬ビジネスの元締めにたどり着くまで。そして後半は、ナヴィッド・モハマドザデーさん演じる、その元締め側の視点がメインになる。

要するに、途中から視点が変わるんですね。その元締め側の視点がメインになって、ついに囚われた彼が、もがきにもがく様を描いていく、という。だから、途中でその視点が変わるところで、「あれ? 刑事の話ではなかったの?」って感じで、ちょっと話がわかりづらくなるところもあるし。その間にも、たとえばその刑事同士の間にも、容易に生じる不信であるとか。簡単にお互い不信に陥っちゃって、足の引っ張り合いが始まったり。あるいは、実父の罪を負わされかけている少年のエピソード。これが本当にもうなんていうか、ドキュメンタリーを見てるみたいなすごいリアルさであったり。そういうのが入ったりとか。

もっと言えば、役名やセリフがない人々の佇まいとかも含めて、異なる立場の視点が、ちょいちょい挿入されて。しかも、それらすべてが、絶えず善悪の間を揺れ動き続けてもいる、という、複雑な群像劇でもあるわけです。その、あえて安定しない視点。その対象に対する距離感が様々であるという……すごく寄ったと思えば、すごく突き放したりもする。その、視点が一定しないというところが……要するにこの登場人物自体、すごく激しくしゃべり続けてる作品に、しかし全体としては、異様なまでにクールな、突き放した印象、非常に全体としては突き放した、俯瞰して物事を見てるような、そういう印象を与えている。

で、人によってはそれがすごく見づらいとか、何の話をしているのかよくわかりづらい、というような印象を与えるようなものでもあると思う。そういう作りでもあるとは思うんです。ただこの作りを、少なくとも僕は、とてもスリリングだと思いました。

ひとつにはですね、これはイラン、映画に対する検閲も非常に厳しい国なわけですね。皆さん、何となく分かると思いますけど、検閲が厳しい。なんだけども、この異様に突き放した目線からトータルで浮かび上がってくるのは、やっぱり現行のそのイランの体制……イラン社会とか司法の体制に対する、非常に冷徹な批評性っていうのを、浮かび上がらせる。だからこれたぶん、わかりやすく作っちゃうと、検閲に引っかかっちゃったり、いろいろ問題が出てくるところが……どうともジャッジはしていない作り、なんだけど、トータルでは浮かび上がってくる、この批評性、批判性といったところ。その意味でも、要するにこの作り……非常に突き放しているし、俯瞰したタッチというのが、有効だったりするのかな、という風に思ったりしましたね。

■「この映画はちょっと、すごいんじゃないか?」映画冒頭の圧倒的なツカミの強さ。

脚本・監督のサイード・ルスタイさん。1989年生まれ、これが長編二作目ということで。一作目の2016年のこの『Life and a Day』というのも、これは本作と同じく、ペイマン・モアディさんとナヴィッド・モハマドザデーさん、そしてパリナーズ・イザドヤールさん、このお三方が主演、という作品で。僕はちょっとこれ、予告編しか見られていなくて申し訳ないんですけど。まあ、ネットとかであらすじなどを読む限り、家族の中の末娘の結婚を機に噴出してしまう、いわゆる「家族という地獄」物っぽいですね、これ。これもすごく評価が高いので、いずれちょっと見てみたいなと思うんですけど。『Life and a Day』という作品。この中にもね、家族の中に麻薬中毒のお兄さんがいて……という話が出てくるらしくて。まあ、いずれ見てみたいんですが。

とにかくこの『ジャスト6.5』、冒頭のアバンタイトル。タイトルが出る前の、5分ぐらいだと思うんですけど、ここのですね、まずそのサスペンス演出の巧みさ。そして、これは見ている誰もが「ああーっ!」って声をあげてしまうに違いない、圧倒的なツカミの強さ。このド頭だけでも、このサイード・ルスタイさん、「ああ、これはただ者じゃないな」ってわかると思います。まずは最初の5分、ぜひ見てみてほしい。まあその警察の、いわゆるガサ入れ、からの、被疑者逃走、そして追跡、という、シーンそのものとしては、よくあるシーンなんですよね。

でもね、いろいろユニークで。まず、警察が車で来て。目当ての家に着いてから、カメラが、ドアを正面に捉えたショットになる。ドアを真正面に捉えたショットになるわけですね。これがすごく面白くて。要するに刑事2人が……そのドアを正面に捉えて、まず最初のドアを、ドーン!って、乱暴に蹴破っていく。そうすると、1枚、また1枚と、次々と「その奥」が出てくるわけですよ。ドアを1枚、蹴破ると、そこに何かがある。また乱暴にドーン!って蹴破ると、まだまだある、みたいな。

で、その行き着く先に待っていたのは……というのがですね、これは描写としてはごく軽いものなんですよ。「ああ、なんだ。そんなことか」みたいなオチなんですけど。この、ドア正面を捉えた構図の、非常に意味深な決まり方。これ、後ほど言いますけどね。サイード・ルスタイさん、ゆっくりとカメラがズームしていく、意味深なこの画づくりがすごい上手くて。

ここであたかも、要するに刑事たちの暴力的、高圧的な捜査の果てに……ドアをどんどんどんどん蹴破っていくような、高圧的、暴力的な捜査の果てに待っている、むなしい結末、という。要するにこの先のお話全体を、このドアのくだりだけで、暗示しているようにもまず見えるわけです。ここだけでも、「上手いな!」っていう感じがすごくするわけですね。

上手いし、あとは変わった見せ方をするな、っていう感じがする。で、そこから先、被疑者逃亡に、刑事の1人が気づくんですね。ここのところ、「影」を上手く使ったサスペンス演出。これも非常にわくわくさせられますし。そして何より、この逃走・追跡劇、本当にこれ、予想もしなかった結末。そのあまりにも……あまりといえばあまりにも、血も涙もない突き放しっぷり。そのドライな語り口に、僕はまずいきなり、もうまんまと掴まれて。「この映画はちょっと、すごいんじゃないか?」となりますね。

ぜひこれは皆さん、ご自分の目で。本当に「あっ、ああーっ!」ってなる見事なオープニングですから。ぜひね、この驚きを味わっていただきたいわけなんですが。

■麻薬中毒患者が急増するイラン社会を半ドキュメンタリーの手法を交えつつ描く

で、ですね。これは麻薬戦争というか。麻薬組織と警察の戦いというか、警察が捜査していく話なんですけど。実際、イランはですね、隣国であるアフガニスタンが世界有数の麻薬生産国ということもあって、実際にすごく麻薬中毒患者が、特に近年、ガンガン多くなっているという現実があるそうなんですね。

で、劇中では、その元締めを見つけるために、まずはその末端からしらみ潰しにやっていこうということで。あの土管の集積場みたいな、大きい土管がいっぱい集まっているところに、まあジャンキー率高めのホームレスの皆さんが住み着いてできたっぽい、即席のスラム街といったところですかね、そこに、大規模な手入れが入るわけです。で、さっき言ったすごくスケールの大きい、エキストラの数が半端ない、もうデヴィッド・リーン的と言っていいようなスペクタクルの、モブシーンがここで展開される。

で、なおかつそこで、先ほどのメールにもあった通りですね、人がワーッて多いそのシーンのケツはでも、人っ子1人いなくなったその土管スラムの中を、野良犬が1匹、ポツン、っていうところを、やっぱり印象的なゆったりしたこのズームで捉えるという、非常にアート映画的なショットで締めるわけです。なんともしれん、不思議な味わいがあるシーンの締めになっていたりする。そこから、「本当にこんなことやってるの?」って思っちゃうほど、ぶっちゃけはっきりと非人道的な、捕まえた人たち全員を裸にひんむいて、ぎゅうぎゅう詰めにしているという留置所のシーン。

さっき言ったように本当の麻薬中毒者の方々を集めていて、その要するに、たとえば朦朧としてる表情であるとかっていうのを……本当にこれ、たぶん演技じゃ無理だろうなっていう感じで。非常にドキュメンタリックというか……「本物」って言っているんだから、半分ドキュメンタリーなんですよね。ドキュメンタリー的な印象を与えるタッチ。これは非常に印象的ですし。あるいは細かいところで言うと、監督がこれ、インタビューで「あれはトランスジェンダーっていうわけではなく」という風に仰っているんで、恐らく安全のために、男装してその中にいる女性というか、女の子たちであるとか。

細かいところだと僕、非常に印象的だったのは、その非人道的な扱いの中で、ちょっと思うところがありそうな表情が印象的な、アップになる1人の男性がいるんですね。非常に端正な顔立ちなんで印象に残るんですけど。この方が……役名とかないんですよ。セリフもないですよ。後の方で、女性の家族たちとその男の囚われた人たちが、鉄の柵越しに押し合いへし合いしながら会わされる、という形のところで、さっき裸にむかれてちょっと思うところありそうだった人が、今度はちゃんと服を着て、妻と娘に再会し、娘のおでこにキスをする、っていう、そういう物言わぬ描写があって。これは完全に、名もなきモブキャラなんですよ。なんだけど、こうやってその人間性と物語を、ちゃんと持たせているという。このあたりもすごく、本作独特の語り口だと思うんですよね。

で、そんな感じでですね、一見、これは本当にただの人違い、冤罪なんじゃないの?っていう風に我々観客には思えてくるような、家宅捜索シーン。その、やはり非常に意外な顛末であるとか。あるいは、最重要取引先でもあるという、その日本へ向かう──日本ですよ!──日本へと向かう飛行機に乗ろうとする、これがなぜか、超大柄な4人組なんですよね。

その4人組、ちょっとユーモラスな空気も漂わせて。でもこの4人組の、実態とは……というこのくだりの面白さであるとか。とにかく次から次へと、非常に緊張感あふれるリアルな演出、あるいは観客の予想のちょっと斜め上行く展開、みたいなものが、でもさっき言ったようにある種、安心して乗っかれるひとつの固定的な視点というのはなしで、あれよあれよという感じで連なっていくので。これ、退屈をする暇はほとんどないぐらい、展開は早いですし。お話の進行自体にはですね、やっぱり振り落とされないように、しっかり考えながら見ないと……特に我々、イランの風土にあんまり馴れ親しんでないので、ボケッと見ていると、たしかにちょっと振り落とされかねないところがあって。ちゃんと見ていないといけない。

■映画後半、麻薬組織の元締めナセルの人間性があからさまになっていき、不思議な感慨・感動を呼び起こす

これは、劇中で描かれる大変に暴力的な警察の捜査、留置所での非人道的な状況、そしてものすごく早く全てが決まっていく裁判、刑の執行システムなど、要はイランの司法制度の、本当に……特に我々から見ると、非常に乱暴なスピーディーさっていうか、それもこのストーリーテリングのジェットコースター感と関係があるかな、という風に思ったりしますね。

あと、先ほどから言ってるように、そのサイード・ルスタイさん。ワーッと話が進んでいく中で、ふっとこう、ゆったりした、意味深なズーム使い。そのリズムの緩急でググッと意識を引き付ける、というのがすごく上手くて。こういったあたりもぜひ、味わっていただきたいあたりかと思います。

ともあれ、さっき言ったようにですね、末端からどんどんどんどんと遡っていって。売人、仲介人を辿って、パリナーズ・イザドヤールさん演じる元カノからついに居場所を特定されてしまうという、この元締めのナセル。ナヴィッド・モハマドザデーさんが演じる彼の視点が、後半のメインになるわけですけども。

特にですね、最初の方こそ彼、要は有り余る金にものを言わせて刑事を買収しようとしたり、周囲の人にいかにもボス然として、超上から目線でカマそうとしたり。まあ、最初の方は、いかにも悪役的にいけ好かないキャラクターだったわけです。このナセル。しかし、だんだんと……たとえば、身分詐称の工作がバレてしまったりとか、あるいは、その仲間の助けが思うように得られなかったりとか。そして、やっぱり決め手となるのは、自分の居場所を最終的にバラしたのが愛していた元カノだった、っていうのを知らされたりとか。

要するに1枚1枚、その麻薬組織のボスという鎧を剥がされていくに従って、もちろん状況としては非常に追い詰められ、憔悴し切っていくわけですけど、そうなるほどに、どんどんどんどん、彼個人としてのその人間の弱さ、彼なりの思い、要は人間臭さ、人間性が、どんどんどんどんあからさまになっていく。で、それは単に悪党が因果応報的に罰を受けてメソメソしだして「ざまみろ!」みたいな構造を越えてですね、不思議な感慨・感動を、どんどん増していくわけです。

たとえばその、やはり最後の家族の面会シーンですね。まだ幼い甥っ子に、覚えたての側転などをやってもらう、というくだりの、ナヴィッド・モハマドザデーさんの表情。そしてそのシーン終わりの、何とも言えない、シュールでもある余韻。あるいは、彼が決定的に捕まってしまうというか、身動きが取れなくなる、ちょっとドゥニ・ヴィルヌーヴの『ボーダーライン』を思わせるようなあっと驚く展開、からの、家族にもちょっと裏切られてしまう展開であるとか。

あるいは、彼が最後に……最後の最後に思う、家族の姿。それは直前に弁護士と交わした会話がキーになってるんですけど。その、何ともしれない、胸を締め付けるような対比であるとか。あれほど強引に、暴力的に彼を追い詰めたサマド刑事の胸に最終的に残った虚しさと重なるそれはですね、要はイラン社会全体の問題・矛盾を、最終的には浮かび上がらせるわけです。で、最後のショット。非常にスケールのデカい、不穏なラストショットはまさに、「これはイラン社会全体の問題なんですよ」っていうことを示すような、ちょっと不穏な、不気味なショットで終わる。

「あのショット、実際に本当に渋滞を起こして撮りました」みたいな、とんでもないことをインタビューで監督が仰っていたりもしましたけども(笑)。でね、実はこれ、社会全体を……たとえば貧困の放置であるとか、そういう問題なんだっていうので浮かび上がってくるのは、この問題提起そのものは、日本を含めて大抵の現代社会、現代国家と共通する、普遍的なものなんですよ。やっぱりね。

■サイード・ルスタイ監督、今後、さらに世界的な評価を上げていく可能性あり!

ということで、その独特の味わいを持つストーリーテリング。先ほどから言っている冒頭の、あっと驚くツカミであるとか、とにかくド迫力のスペクタクルなモブシーン。そして最終的により大きなテーマを浮かび上がらせる、そのクールな視点。特に我々にとってはね、そのイラン社会、身近なものとして味わえるっていうのもそうだけど。そもそも日本と直接関係する問題だった、っていうところも突きつけてくるあたりですよね。

ということで、サイード・ルスタイさん。今後、さらに世界的な評価を上げていく可能性、全然ある腕を持ってると思います。第2のアスガル・ファルハディになっていくかもしれないですし。ぜひ今、このタイミングでこそ、ということで、非常に見応えある作品です。『ジャスト6.5』、ぜひ劇場で、K’s cinemaでウォッチしてください。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『哀愁しんでれら』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!

◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

宇多丸、『哀愁しんでれら 』を語る!【映画評書き起こし 2021.2.19放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『哀愁しんでれら』(2021年2月5日公開)です。

 

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、2月5日から劇場公開されているこの作品、『哀愁しんでれら』

(曲が流れる)

……この音楽もね。だいたいワルツにすると、優雅さの反面、ちょっと皮肉な感じが出るって僕、いつも思っていて。なんかそれがすごく効いていている、この音楽もよかったですよね。

監督の渡部亮平さんがTSUTAYA CREATORS’ PROGRAM FILM 2016でグランプリを獲得したオリジナル脚本を、自身の手で映画化。市役所に勤める小春は、ある夜、祖父が倒れた上に実家が火事に見舞われてしまう。

不幸のどん底に落ちた小春は偶然、8歳の娘・ヒカリを男手ひとつで育てる裕福な開業医・大悟と出会う。やがて2人は結婚し、小春は幸せの階段を登り出すのだが……。主な出演は、小春役の土屋太鳳、大悟役の田中圭。2人の子供、ヒカリ役の、世界的キッズインスタグラマー、COCO。COCOさんというのは演技経験はないんだけど大抜擢、というようなことらしいですね。

ということで、この『哀愁しんでれら』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「多め」。そうですか。ありがとうございます。(公開規模的に)結構見やすいというのもあるのかな? で、賛否の比率は褒めの意見がおよそ2/3。賛の方が多いものの、最近の作品の中では賛否が分かれてる方かもしれません。

褒める意見として多かったのは、「家族という名の呪いを描いた新たな名作」「前半のブラックコメディ的なノリから一転、後半のホラー的な展開が本当に怖かった」「土屋太鳳、田中圭もそれぞれよかったが、子役のCOCOちゃんがヤバかった」などなどがございました。一方、「説明不足や描き込み不足が『あえて』というより単なる稚拙に見えてしまった」とか、映像やセットに対する意見であるとか。「ラストであれだけショッキングな絵面を見せたいのならば、そこに至るまでの流れをもっと丁寧に見せるべき」などの声もありました。

あと、中島哲也監督作品……たしかにそのテイストはあるかもね。中島哲也監督作品とか、アリ・アスターの『へレディタリー』を思い出した、といったような声もありました。

■「家族という呪いを描いている点でアリ・アスター監督作の『へレディタリー/継承』と通じる」(byリスナー)

代表的なところをご紹介いたしましょう。ラジオネーム「みつ」さん。「賛否はあるかと思いますが、私はこの映画が大好きです。個人的な話になりますが、私の家族は機能不全家族です。父、母との個々の親子関係は良好なのですが、両親同士は事実上、家庭内別居状態で数十年、会話がありません。両親が仲違いしたきっかけはおそらく私が小学生の低学年の頃に父親が母親に振るった暴力です。

家族という呪い。『家族は無条件で互いに信じ、愛し、助け合うものだ』といった社会に蔓延する空気を感じると『愛し合えていない家族で育った自分には大事なものが欠けているのだ』と思ってしまい、私の自尊心を傷つけます。また、一番苦しいのは、私も将来、結婚できて、子供ができたとしても健全な家族は形成できないんだろうなと考えずにはいられないことです。この映画は今まで、ずっと私が抱いていた目に見えない不安を、観客に不快感を抱かせてしまうほどに具現化しています。土屋太鳳さん演じる小春が最後に決断したことは、伝統的な家族観では当然とされる『我が子を無条件に愛すること』です。家族という呪いを描いている点でアリ・アスター監督作の『へレディタリー/継承』と通じるものを感じました」というね。

まあ、このテーマをちゃんと描いたことも評価しつつ、ということで。ご自分にね、そこまで重なるとね。はい。あと、ラジオネーム「ゐーくら」さん。「『哀愁しんでれら』、私の評価は賛です。冒頭、ハイヒールを履いた主人公が学校の机の上を歩く印象的な逆さまのショットから始まり、続く廊下で割烹着を脱ぎ捨てドレスになるシーンでは、『なるほど。シンデレラの物語をなぞっているのか』と思っていましたが、まさか最後のあの展開に繋がっていくとは。幸せな結婚生活のはずなのに、シンデレラ序盤のような床掃除の構図があったり。中盤、娘のヒカリがその本性を現し、小春のミスをはやし立てるシーンでは、魔法が解ける12時の鐘が後ろで鳴っていたり」。

そう、小春さんがあと、結婚を決意するところは、12時の針がちょっと手前のところ……要するに、12時にシンデレラの魔法が解ける前に結婚を受けよう、とかね。要所要所でその、シンデレラオマージュが入っていますよね。「……ラストシーンだけ切り取れば、しっかりと彼らなりのめでたし、めでたしで終わったりするところも寓話的で面白かったです。家族という地獄を描いた『へレディタリー/継承』のようでもあり、最初は異質に見えていた集団に迎合していく『ミッドサマー』のようでもある。むしろ育児に思い悩む大悟や、赤ちゃん帰りするヒカリの人間的一面が現れてからの、彼らを先導しさえする小春は『ミッドサマー』のもう一段、先を行ったように思えました」というようなご意見。

一方、よくなかったという方。「ジャイアントあつひこ」さん。「完全否定というわけではありませんが、どちらかと言えば否です。自分はジョーダン・ピール監督の『ゲット・アウト』や『アス』が大好きなのですが、話の方向性とエンディング的には似ている部分が多くあるものの、日本の中ではなかなかに発生しにくいであろう展開に進んでいる上に、最後はやり逃げ感が否めず、納得感や社会風刺感が少なかったのでどうしてもB級感以上に感じることができません。

もっと複雑に社会との交わりがあれば、童話のレベルから隣の家のドキュメンタリーになって、作品が本来見せたい方向のジャンルに近くなっていったのかなと思いました。話の展開の持っていき方として、すごく分かりやすい伏線が張られて丁寧に回収していくので、どうしてもクドくなるのと、オチの展開も容易に想像ついた部分は残念に感じました。総じてもっと社会に近い部分で描けていれば、和製ジョーダン・ピール作品になりえるポテンシャルを感じた作品だったという感じでした」とか。

あとはラジオネーム「めんトリ」さんは、かなり厳しい言葉で酷評を重ねていらっしゃったりとか。「『はい、ここ伏線ですからね。注目!』とあからさまな見せ方をしているもかかわらず、よく言えば観客に委ねる、悪く言えば投げっぱなしになっていて、あまりにも雑な印象でした」とか。本当にいろいろ書いていただいているんですが、ちょっと時間の関係で省略させていただきます。「全てがラストのあのシーンありきで、とにかくそこに至るまでのディテールが雑で違和感しかなく、物語の部分に全く入り込めませんでした。今年の暫定ワーストワンです」というような厳しいご意見もございました。

■アリ・アスター、ヨルゴス・ランティモス、ポン・ジュノといった世界の異能監督たちに挑んだ気概溢れる一作

さあ、といったあたりで『哀愁しんでれら』。私もTOHOシネマズ日比谷で、2回、見てまいりました。これね、2回見た意味がすごくあった、僕の場合は。平日昼にしてはまあまあ、男女比が3:7ぐらいで、結構入ってた方かな、と思いますね。改めて言いますと、本作、TSUTAYA CREATORS’ PROGRAM FILMという、次世代の作り手を発掘・支援する公募企画があって、それのグランプリなんですけども。で、たとえばここから実際に製作されて劇場公開された作品って、今までも結構いっぱいあって。

たとえば2015年グランプリの『嘘を愛する女』、あれとか。2016年審査員特別賞『ブルーアワーにぶっ飛ばす』とか。「あれか!」っていう感じですよね。あと2016年準グランプリ、これ、僕は『週刊文春エンタ!』で短評させていただいた『ゴーストマスター』とか、他にもいろいろあって。ということでまあ、すでにいろいろあって、プロジェクトとして非常に志が……すごくいいですよね。若手の発掘、なおかつ支援をする、というTSUTAYA CREATORS’ PROGRAM FILM。今回のその『哀愁しんでれら』は、それの2016年度のグランプリ企画ということで。ちょっと実現まで時間がかかった方かなと思いますけど。

これね、朝日新聞の監督のインタビューによれば、この間に大手映画会社から映画化のオファーもあったけど、これね、「『ラストは感動して泣けていい気持ちで劇場を出られるように』という変更を提案され、断った」っていうんですよ(笑)。まあもちろんね、後味の良さが必要なタイプの作品というのは間違いなくあると思うけど、少なくともこの話に関して言えば、そこを……そこで言うことを聞いてなくて本当によかったね!っていうことに尽きるし、その「大手映画会社」の、案の定といえば案の定な考え方のレベル、「やっぱりそんなもんか……」ってのを突きつけられた感じで、ちょっと暗澹たる気持ちになるような感じがします。

とはいえですね、逆に言えば、こうして実際に出来上がった本作は、本来のその作品としての本質、志を曲げずに作った、ということだし。それでいて、キャスティングから撮影、美術、衣装に至るまで、少なくともこの物語に求められるものとしては十分以上に、堂々たるメジャー感をたたえた娯楽作品にもなっていて。まあ正直、たぶんそんなに予算があるはずはないと思うんですよね。見た目よりはないと思います、この映画は。なのでまあ、かなり頑張っている。前述したような、旧態依然というか、硬直した思考がまだまだ支配的と言っていいらしい昨今の日本映画界の中では、かなり意欲的な……その意欲性をもって、まずはちょっと評価に値するような一作ではあるかなと思います。

つまりですね、要は「ラストは感動して泣けていい気持ちで劇場を出れる」というような作品の、ある意味正反対だ、ってことですよね。人によっては気分が完全に悪くなるような、しかし見方によってはひねりにひねったハッピーエンドとも言えるような、インパクト大にして解釈の幅があるような、なんともしれんその鑑賞後の余韻が残る……とかですね。もちろん、そこに至るまでの毒気たっぷりな、グロテスクな展開。しかし同時にそれは、アーティスティックにコントロールされた、美しかったり楽しかったりする画面で、ある種ポップに語られていって。

で、その背景には、現実の社会に対する鋭い問題意識みたいなものも透けて見える、というような。それはたとえば、本作のその音楽担当であるフジモトヨシタカさん、先ほどワルツ風の曲がかかっていましたけども、監督から「参考に」ということで勧められたという『アス』の、ジョーダン・ピール……これ、実際に監督がジョーダン・ピールをやっぱり参照してるわけです。

あるいは、アリ・アスターであるとか、ヨルゴス・ランティモスでもいいですしね。あと、この間も評したばかり、『Swallow/スワロウ』のカーロ・ミラベラ=デイヴィスさんもそこに加えていいかもしれませんし。もちろんその頂、頂点にいるのは、ポン・ジュノ、というところでしょうけども。とにかくそうした、このコーナーでも数々絶賛してきたような、そして(金曜パートナー)山本匠晃さん好みの(笑)、クセが強い、世界の異能監督たち、異能の作家たちの域に、日本からも俺たちが挑むんだ!という気概に、全編あふれた一作だと思います。この『哀愁しんでれら』はね。

■主人公の小春に土屋太鳳という配役で8割、この映画は勝っている

脚本・監督の渡部亮平さん。脚本家としてすでにいろいろと活躍されてる方なんですが、監督も手掛けられてるものとしては、2012年に自主制作映画、これ、ぴあフィルムフェスティバルで入選して、後に劇場公開を……僕はこのタイミングでU-NEXTで拝見したけど、これ、ぴあフィルムフェスティバルで入選というレベルの自主制作作品にしてはすごい、めちゃめちゃちゃんとできている、『かしこい狗は、吠えずに笑う』という。これ、すごい面白い作品でしたけど。僕もこのタイミングで見ましたけど、こっちは女の子同士の友情がどんどん行きすぎたことになっていく、っていう話なんですけど。

要は、最良の出会い、最良の関係だと思っていたその相手の、隠されていた暗い一面が明らかになっていく……しかし、共依存的でもあるその絆を断ち切ることもできず、どんどんどんどんヤミ、「ヤミ」というのは暗闇でもあり、その病気の方の「病み」でもある、そのヤミの濃度が、閉ざされた関係性の中でひたすら濃くなってゆく。で、破滅が待っている、みたいな話。という意味では、完全に今回の『哀愁しんでれら』とこの『かしこい狗は、吠えずに笑う』は、通じる作品でしたね。完全にだから作家性としては一貫しているな、という渡部亮平さん。

ただね、この渡部亮平さんにとって商業映画の監督デビューとなる今回のその『哀愁しんでれら』は、その前作の『かしこい狗は、吠えずに笑う』、とはいえやっぱり自主制作映画らしい荒削りさっていうのは非常にあるんだけど、それとは打って変わって、さっきも言ったようにキャスティングは豪華だし、あとは画面の、ルックのコントロールもちゃんとやっている。とてもメジャー感あふれる、ポップな作品にちゃんとなっている。

さっきも言ったように、とはいえそこまで予算がたっぷり用意されているというような作品でもないでしょうから、間違いなくこれは、作品に関わったスタッフとか出演者全員の、強い意志……要するに「この物語、脚本に、本当の意味でふさわしい映画にみんなでするんだ!」という、気概の賜物だと思うんですね。すごい頑張っているんだろうな、っていう感じがすごいするわけです。

最大の勝因はやっぱりね、これはキャスティングですね。特に主人公の小春に土屋太鳳!というこの絶妙さで、もう僕、8割この映画は勝っている、という風に思いますけど。日本女子体育大学体育学部、運動科学科舞踊学専攻、という。それで今、まだ在籍されてるってことですけど、というだけあってと言うべきか、とにかく皆さんご存知の通り、土屋太鳳さんの、身のこなしのしなやかさ、ダンスの上手さ。今回もね、ダンスシーンが出てきますけど。身のこなしのしなやかさ。そしてそこからにじみ出る、その人柄の真っ直ぐさ、というあたり。

■渡辺監督いわく「真面目すぎるがゆえの危うさ」を持つ土屋太鳳は、脚本を読んで3回断り、4回目に引き受けた

たとえば女優さんとしてはですね、非常に評価もされましたけど、『8年越しの花嫁』という2017年の作品。これ、まさに体当たり演技が素晴らしかった。あれもやっぱりその、「身体のコントロールが上手い&真面目」ならではの役柄、って感じでしたし。で、その彼女のそういう真っ直ぐさ、ピュアな真面目さというあたり、まさにそこを渡部亮平さんも買った上でのキャスティング、ということみたいで。これ、シネマカフェっていうところのインタビュー記事によれば、今回、そのキャスティングが決まったところで、作品に関して自信が持てたという。

「その自信が持てたのはなぜなんですか?」っていう質問に対して、渡部亮平さんがこんなことを言っている。「土屋さんが持っている普段のパーソナリティー、真面目すぎる感じからです。それがあるから大丈夫だと思った。たとえばInstagramひとつ取っても、ものすごく長文を書くようなあの真面目さ」「異常なレベルの真面目さだと思います。これは褒めてるんですが。真面目すぎるがゆえの危うさみたいなものが、小春という人物とすごくリンクするように僕には思えました」と言ってるわけです。

まさにその通り。この主人公・小春。幼少期のその体験、お母さんに捨てられたという体験であるとか。また、その社会が植えつけてくるその、「幸せ」っていうものの強迫観念。「こういうのが幸せですよ」っていうような強迫観念。そして序盤、素晴らしいテンポでたたみかけてくる、不運の釣瓶打ち……ここ、本当にダークコメディとして見事だと思いましたけど、不運の釣瓶打ち。そのあまりの不運の反動もあって、その「正しい母親」像とかですね、「正しい妻」像といった観念に、強くとらわれてしまっている人なわけです。小春さんは。

で、この小春さんは、本当に真面目な、「いい人」なだけにですね、自分の思い込んだ「正しさ」にとらわれがちだし、それにそぐわない他者に対しては、ちょっと思いの外、キツめ。ばっさりした断定口調で否定したりするわけです。それがちょっと、序盤でも、「真面目ないい人なんだけど、あれ? ちょっと決めつけが怖いんですけど?」みたいな感じも、ちゃんとする。そこにこの土屋太鳳という絶妙なキャスティング。本当にね、見事にハマっていて。これね、土屋太鳳さん自身、脚本を送られて3回断って、4回目に受けた、という。

まあ要するに、ラストの展開がどうしても受け入れ難くて……というような。これも含めて、でも3回言われて、4回目に、「この役柄が私を……小春ちゃんが泣いてる気がした」なんていうことで、この受け方もやっぱりもう土屋太鳳、真面目で最高!っていう感じだし(笑)。その、3回断られても確信を持って口説き落とした、この作り手側も、もう本当に最高! という感じだと思います。まず、この土屋太鳳のキャスティングでもう、僕は8割、親指を立てた感じですけどね。

■「一皮剥いたらクソ」な演技はお手の物の田中圭と、「記号的なロールを演じる子供」を演じるCOCOさん

また、本作における……これもいいですよね、「白馬に乗った王子様より、外車に乗ったお医者様」っていう、こういうセリフも渡部亮平さん、脚本家として活躍されてる方なんで、さすがだと思いますけど。とにかくその、小春を見初める大金持ちのシングルファーザー・大悟。これを演じる田中圭さん。まあ前半のね、非常にカジュアルな人柄。田中圭さんがすごくカジュアルにしている感じで、「ああ、いい感じの人だな」っていうのはもちろん田中さん、素でいけるわけだけど。

ただ、その中の端々に、これも本当に小春によく似た、他者への非常に……「あれ?」っていうぐらいの、ばっさりした厳しい口調。「あれ? ちょっとこれ……いい人っぽいけど、なんかちょっとこういうところだけキツいな」っていう。で、やっぱり「一皮剥いたらクソ」っていう感じはこれ、田中圭さんはお手の物ですね。こんなものはね。一皮剥いたらクソ役は全然お手の物、みたいな。特にあの、敬語を多用しての、本当に感じの悪いモラハラ演技みたいな。これは本当に圧巻でございましたね。さっき、ちょっと山本匠晃さんと言っていた、あの焼肉を巡る言い合いっていうか、怒り演技もさすがでしたし。

さらにキャスティングが素晴らしいのは、これ、大悟の娘役を演じるこのCOCOさんという方。この方は、演技経験がある子役じゃなくて、インスタグラマーなんですね。お父さん・お母さんが、ヴィンテージ物の古着のお店なのかな? そういうお店をやっていらっしゃって、その関係もあって、様々なブランド物を着こなすインスタグラマーで、世界的にも注目されてるような方らしくて。要はですね、いろんな上手い……演技的にもっと上手い子役もオーディションには来たらしいんだけど、ここで子役的な、その「自然な」上手さではなくて、「ロールを演じる子供」なりの賢さや計算に長けた存在、っていう。

つまりある種、演技であることがきっちり見えるぐらいの感じ。「賢くて、ロールを演じるために計算をしてるな」っていうことが見える存在として、このインスタグラマーであるCOCOさんをここに置く、という。これ、慧眼なんですよ。なので、「演技が子役的で記号的だ」っていう批判のメールがあったんだけど、僕はそこは半ば意図的だと思います。つまり、その「記号的なロールを演じる子供」を、COCOさんは演じているんですよね。非常に見事なキャスティングだと思います。

この役は本当に重要で、主人公・小春を通じて、我々観客にもですね、強いバイアス、つまり「この子は嘘をついているんじゃないか? 実は強い悪意を抱いてるんじゃないか?」という強いバイアスを与え、現実、事実の認知を歪ませる、非常に重要な役割なので。COCOさんはこれに、見事にハマっています。だからこの、主要3キャストのハマり方で、ほぼもう、いいんですよね。今回の映画はね。

■キャスティングの良さに加えて、色使いなどのルックもお見事

あと、キャスティングで言うと、細かい話ですけど、先ほども話題に出ていた小春の父親役の、石橋凌さん。「理想の出会い、パートナー候補だと思っていた相手のことを、実は何も知らなかった……ということから起こる、恐怖の体験」というこの話。その意味ではですね、彼主演のあの恐怖の名作『オーディション』、これがまさにそうで。『オーディション』の立場をちょっと逆にした、と言えるかもしれない。この配役、『オーディション』オマージュがちょっとあるのかな、という風に僕は思ったりしました。まあ、これは僕の想像ですが。

あと、小春のあのバンドマンの彼氏。これ、水石亜飛夢さんという方が演じていて。あの、浮気の詫び入れに作ってきた弾き語り曲をバサッと切る、あの編集も含めて、めちゃめちゃ笑えたし(※宇多丸追記:ここ、土屋太鳳が言う「切るならおちんちんだろ!」も最高でしたね)。

その彼の浮気相手、職場の先輩。綾乃彩さんが演じている。あそこでね、彼が、指を噛ませているでしょう?、その「指を噛ませている」っていうのを、あとで、ものすごくいやらし〜い回収の仕方をするんですよ。これがね、やっぱり渡部亮平さん、「性格悪っ!」っていう……これ、褒めてますけど(笑)。こういうだから、異能の作家群に加わる資質あり、っていう、「性格悪っ!」っていう感じだったと思いますが。指を噛む、というディテール。ほかにも、その「幸せ」をめぐる価値観についての議論をする、友人たち。これ、非常に、テーマをめぐる重要なポイントなので。この友人たちを演じていらっしゃる、安藤輪子さんとか金澤美穂さん。非常にこのあたりもばっちりハマった好演をされていました。

ちなみに僕、考え方としては、金澤美穂さんが演じるあの友人が言う、「そもそも夢とかなんとかのイメージを、最初に抱かない方がいい」っていう、僕はこの考え方に近いんですけども。そうした見事なキャスト陣に加えてですね、本作のもうひとつの主役と言えるのが、先ほどから言っている、ルックのコントロール。つまり、吉田明義さんのその撮影をはじめ、矢内京子という方の美術であるとか、境野未希さんの衣装なども含めて形づくられる、その画面そのものが訴えかけてくるもの、語ってくるもの、という部分。

これが、特に日本映画の中ではかなり比重が高めっていうか、ルックの作り込みが非常に……しかも、何度も言いますけど、予算はそんなにな中で、よくここまで作り込んでるな、って思ってますね。まずあの、メインの舞台となる大悟の邸宅。これ、ハウススタジオを使ってるらしいんですけど、ちゃんと『透明人間』とか『Swallow/スワロウ』の邸宅とも引けを取らないような、リッチさ、空間に、ちゃんと見えてるし。よくここを見つけてきたなとも思いますし、上手く使っているなとも思うしね。

あの、向かいが海で、土屋太鳳さんが途中、ある重要なアイテムを捨てるんですけど、あそこで──これ、シナリオを読むと、シナリオではそうなっていないんですけども──土屋太鳳さんが、海じゃない方を見て、投げ捨てますよね。あれも見事な演出でしたね。まあ、それはいいんですけども。そんな感じで、邸宅も素晴らしいし、なによりも本作で印象的なのは、色使いですね。これ、ぜひ皆さん、色使いに注目して見ていただきたい。

たとえば、小春の実家などで際立つ、ブルー。あるいは、小春の精神が揺らぎだすと増えてくる、パープル。中盤から目立ち始める、赤。そして何より、幸せの絶頂とどん底の、どちらでも印象を強烈に残す、黄色の使い方とか。とにかく全体に、明らかにある意図を持って配されたこれらの色使いが、本作にある種の寓話性を……だからね、リアリティと言うよりは、そもそも寓話的に作り込んでいる、っていうことだと思うんですけどね。現実から少し乖離したムードを醸成している、ということだと思います。

もちろん、フード演出の数々ね。さっき山本匠晃さんともちょっと話してましたけど。そこも含めて非常に面白い、というのがある。

■「シンデレラストーリー」の欺瞞性、そして本作を見ている我々に突きつけられる「バイアス」

で、ここまで、ストーリーそのものにはあえてあまり触れずに来ましたけど。いわゆるその「シンデレラストーリー」そのものの展開かと思いきや……というところから、要はそもそもシンデレラストーリーというものが持つ、言うまでもなくその、「力を持った男性の、庇護の下で生きるのが女性の幸せだ」という価値観の持つ、そもそもの欺瞞性とかいびつさ、みたいなところであったりね。もちろん性差別的でもあるし。

あとは実際、小春さんは、家族ぐるみで経済的に大悟に依存してるからこそ、どんな歪みにも順応するしか道がなくなってしまっている、という。そういう歪みですね。だから、「シンデレラって本当にいいのか?」って、あの友人が言ってましたよね。「怖くない? シンデレラ、あの話って」っていう。まさにその通りのことが浮かび上がってきたりとか。同じく、「よき母親たれ」と社会は言うけども、その「よき」とは一体何なのか……そもそも、「親の愛」幻想の危うさですよね。

「子供のためなら俺は何でもできる。社会、世界全体を敵に回しても!」っていう。それは、気持ちとしてはね、わかりますけど。でも、それってつまり、社会性と乖離しても親の愛というのは肯定されるんだ、っていう考え方はつまり、「私の子供なんだから社会と乖離してもいいだろう」っていう、これは虐待する親とか……まあモンスターペアレントと虐待は、結構紙一重だよね、表裏一体だよね、っていうことが浮かび上がるような、そういう構造であったりとか。

まあ現在の日本社会がいまだに脱却できていない、歪な女性像、妻像、母親像、ひいては家族像……そうした普遍的な問題というものが、背後から、寓話的な中から浮かび上がってくる、という作りになっている。特に、本作において重要なのはですね、我々自身が思ってること……見ていて、「ああ、こういう話だな」と思っていることは、実はさっきも言ったように、すごくバイアスがかかった見方かもしれない、っていう。ここが重要なんですね。

たとえば、ヒカリちゃんは、本当に悪い、怖い子なのか?っていうね。これに関しては、パンフレットで、監督がですね、かなりはっきりした「真意」を述べていらっしゃっていて。これ、ぜひ鑑賞後に答え合わせすると、なかなか面白い。というのは、僕自身ですね、1回目を見て、「ああ、こういう話だな」って思ってたのと、監督の真意が……「えっ、ああ、そういうことだったんだ! ああ、オレはものすごい偏見で見てて、わかってなかったわ……」みたいなことが、よくあって。

それで2度目を見ると、「たしかに監督が言ってるバランスに、全然見えるじゃん! どれだけオレ、バイアスをかけて見ていたの?」みたいなことに、気づいたりする。その、自分の中のバイアスに気づくところまでが、本作の醍醐味なんだな、って思ったんですね。なので、ぜひここから先は、皆さんご自身の目と頭で、味わっていただきたい、考えていただきたい、と思います。

ラストの一大飛躍は、ちょっと飲み込みづらいところも、たしかにある気がします。批判も多かったですけど、実際、要するに現実的な段取りとして考えると、ちょっとありえないですよね、「あれ」が成立するのは。なんだけど、個人的にはあれは、一種の比喩表現だと解釈すれば、ありかな、と思います。つまり、完全に社会と乖離してしまった……あの家族からついに「他者」が消失してしまった、というエンドという風に取るならば、バッドエンドにして、彼らからしたらひょっとしたら究極のハッピーエンド? という風に取れる。他者が消失した状態、他者を締め出してしまった状態の比喩として取るならば、ありかな、という風にも思って。ただ、飲み込みづらいのもたしかだし。現実にはありえないじゃん、という突っ込みが入る余地があるのは、間違いない。

ただ、とにかくこの渡部亮平さん。今後ももちろん脚本家としても活躍されるでしょうけども、作家性とエンタメ性を両立した、このようなオリジナル作品、どんどん作っていただきたいし。この、世界の異能の監督たちに挑んでいくんだ、という志は、本当によし! なので。僕はめちゃめちゃ面白かったし、応援したいと思いました。ぜひぜひ劇場で、ご自分のバイアスに気をつけながら、ウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『あの頃。』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!

◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

宇多丸、『あの頃。 』を語る!【映画評書き起こし 2021.2.26放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『あの頃。』(2021年2月19日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、2月19日から劇場公開されているこの作品、『あの頃。』

(松浦亜弥『桃色片想い』が流れる)

……すげえ曲だよな、これな。はい。劔樹人さんの自伝的コミックエッセイ『あの頃。男子かしまし物語』を松坂桃李主演で映像化した、大人の青春物語。うだつの上がらない生活を送っていた劔は、松浦亜弥が『桃色片想い』を歌う姿を見て、ハロー!プロジェクトのアイドルに夢中になる。やがて個性豊かな「ハロプロあべの支部」の面々たちと知り合った劔は、くだらなくも愛おしい青春の日々を謳歌するのだが……ということでございます。松坂桃李の他、仲野太賀や山中崇、若葉竜也さんなどがハロヲタを熱演。あと、ロッチのコカドケンタロウさんが、後に赤犬のボーカルとなるイトウことタカ・タカアキさんを演じられております。監督は、『愛がなんだ』の今泉力哉さんが務めた、ということです。

ということで、この『あの頃。』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「めちゃ多い」。出ました、今年最多!ということでございます。賛否の比率は、褒めの意見が7割弱。褒める意見として多かったのは、「ハロプロ好きだったので当時のことが懐かしく、またディテールの再現度にも驚いた」「アイドル好きに限らず、何かに猛烈にのめり込んだことがある人には刺さる」とか、「過去を懐かしむのでなく、今を肯定するメッセージが素晴らしい」「俳優陣はみんないいが、中でも仲野太賀がよかった」などがございました。(仲野太賀さんが)絶好調ですね。

一方、「ストーリーが貧弱。後半から退屈してしまった」とか「『あの頃。』の日々が全然楽しそうじゃなく、羨ましくもない」「ホモソーシャルな描写が強すぎて抵抗があった」などの批判の声もありました。これ、なかなか重要な指摘もあるので、後ほどしっかりと紹介しますね。

■「何かに夢中になったことがある人なら誰にでも共感できるであろう作品」byリスナー

まずはよかったという方のメール。もうすごいいっぱい来ててね、ちょっと紹介しきれない。

ラジオネーム「スルッテート」さん。「映画『あの頃。』、見ました。これは“バラ色の人生”を描いたものでも、“花束みたいな恋愛”を描いたものでもなく、まさにアイドルへの“桃色の片想い”を捧げるオタたちの遅れてきた青春を描いた物語でした。切り口こそハロプロですが、今泉監督はオタを好奇な目で描くことがなく、何かに夢中になったことがある人なら誰にでも共感できるであろう作品として昇華させていました。個人的にこの作品がうまく行ったのには、今泉監督自身があまりハロプロに関心がなかったというのが大きかったように思います。ひとつは松浦亜弥の描写。これはハロプロが好きすぎると、アイドルに敬意を払いすぎて『松浦亜弥を見せない』という手段を取ったように思いますが……」。

たしかにね。(顔などは直接には)「見せない」っていう見せ方もあったけども。「……BEYOOOOONDSの山﨑夢羽さんを起用し、正面突破を図りました。それにより、モニターを通して見るあやや。そして主人公が実際に見るあややと違いを出すと思い切った描写にし、観客がモヤモヤすることなく映画として成立させていたように思いました」。あと、山崎さんのやっぱり、あの首の角度とか、声の発声とか、もう完コピぶりもすごかったですよね。あと、いろいろと書いていただいて。「ご本人登場とかをしなかったのもよかった。他にも演技のアンサンブルの見事さなど、書きたいことがありますが、そこはお任せします」というあたり。

あと、ラジオネーム「きんぴかごぼう」さん。この方は53歳女性。「大人になっても夢中になるものがあって、一緒に盛り上げる仲間がいる彼らが羨ましくなりました。中2の放課後男子のような狭い部屋でのワチャワチャはとてもリアリティーがあり、1人1人が個性的で、劔はもちろん特にコズミン役の仲野太賀さんの演技がダメ人間を愛されキャラとする演技で引き込まれました。きっと今でも『あいつ、最低だったよな』と笑いながら言われている様子が想像できます」とか、ありました。

あと、非常に本当にご自分の、自分史というかね、そこと重ねて語っていただくメールも多くて。ちょっと全部紹介しきれないのですが、ラジオネーム「カルメン(オーイェーズ)」さん。初めてメールをいただきましたけども。この方はやはり、ヲタ友達がちょっといろいろと病気にかかられてしまって、非常に劇中と似た展開があった、という思い出を書いていただいたりとか。「ゆき」さんという30代女性の方もですね、やっぱりつらかった時に支えになってくれたのがハロプロだった思い出というのを、重ねて、非常にいろいろ書いていただいて。熱いメールでございます。ありがとうございます。

一方ですね、ちょっと批判的なメールもがっつりと紹介したいんですよね。ラジオネーム「にごう」さん。「『あの頃。』、ウォッチしてきました。賛否で言うと否です。ホモソーシャルで露悪的で、開き直りきったようなオタクイキリがきつく、そこを自覚的に見る視点がゼロではないにしても、とても類型的な描写で、最終的にはかつて所属していたコミュニティの総括を“モラトリアムからの卒業”的な生ぬるい感じで済ましていることに、『今の時代にこういうコミュニティを題材に選んで、そこか?』というがっかり感がありました」というね。

「彼らにとってはアイドルやハロプロよりも、仲間内での“このノリ”を共有するための媒介の方が大事なんだと思いました。それを象徴しているのが、とあるイベントのシーンの描写で」という。非常にこれはよろしくないというか、非常に不快であるというか、たしかに全然よろしくないことが描かれてるんですけど。「『彼女を寝取る』という発言や、それをネタにすることそのものが最悪ですし、潜在的なミソジニーやインセル的マッチョイズムをものすごく感じますが、私もアイドルファンなので、映像に映されている石川梨華さんの感動的シーンよりもそっち(仲間内でキャッキャキャッキャやる方)を楽しんじゃうんだ……と思ってしまいました」というね。

それで本当になかなか鋭い指摘があって。「アイドルがコミュニケーションの媒介になること自体は私も肯定します」と仰っていつつ、あと、彼らがなんでもかんでも面白おかしく解釈しようとするその背景みたいなものにも一定の理解を示しつつも、「でも、やっぱり彼らはそのために、自分たちの物差しで他者をジャッジし、いろんな他者を消費しているじゃないか。その行為の結果や対象に向き合わず、その暴力性にも気付かず、関係性や立場がごく自然な時の経過とともに変化しただけで、『もう戻れないあの頃』としてノスタルジックに終わったものにしてしまうことが全く信用できませんでした」と。

で、やっぱり最後の方の展開で、その仲間を明るく……その仲間内のノリというところに、やっぱり女性というものを介して面白おかしくしていくという感じが、非常にマッチョな価値観で嫌だ、ということも書いていただきつつ。あと、道重さゆみさんの引用についても「最後、道重さゆみさんの言葉が引用されますが、不適当な引用だなと思います。彼女の『常にピーク』という言葉の重みは、常に他者の物差しで自分の『かわいい』がジャッジされることを拒絶し、自分のかわいいを自分で肯定し続けてきたからこそ生まれるものです。そして30歳になり、今度は『年齢』という世間一般の物差しでかわいいをジャッジされることをも拒絶する。だからかっこいいのです。

対して、主人公の『今が一番楽しい』はどういう意味でしょうか? ずっと物事を面白おかしく消費する側で、でも今は社会的基準でも順当なステップアップを遂げている彼に『今が一番楽しい』と言われても、『そうでしょうね』としか思えませんでした。乱暴なことを言いますが、この映画を楽しめるのは、彼らのように消費する側の安全地帯に立てていた人だけで、彼らのようなコミュニティーに消費される側だったり、消耗された経験があったりする人には楽しめないのではないかと思いました。正直、私はこの映画での『もう戻れないあの頃』より、今なお決して変わらず存在する地獄ばかり見出してしまいました。見ていてとてもつらかったです」という。

これ、だからすごく「ああ、なるほど」というか。結構頷ける指摘もあるし。すごくこの作品に対していい解釈をするならば、要するにその、ある人物のものすごく嫌な一面っていうのも……すごく嫌な人でもあるよね、という見方。という風にも響く映画でもある、っていうかね。両面があることを描いてる映画だ、ということが言えるのかもしれないですけどね。でもちょっと、なかなかスルーし難い重要な指摘だと思ったので、ご紹介させていただきました。

ということで、メールありがとうございました。皆さん。本当に熱量があるメールでございました。

■原作は、モーヲタを描いた劔樹人さんの自伝漫画『あの頃。男子かしまし物語』

ということで、私も『あの頃。』、TOHOシネマズ六本木で2回、見てまいりました。入りはまあまあと言ったところでしたけど、男女比、年齢分布ともにですね、ジャンル的に特定をしづらいという感じが、非常に印象的でしたけどね。ということでまあ、モーヲタ・シーンを描いた云々に関しては、もう番組オープニングでもお話しましたので。みやーんさんの公式書き起こしもぜひ、そこからもお願いします、という(笑)。ごめんね、みやーんさん。手間を増やしてね。(編註:下に付記してあります)

で、ですね。原作があるわけですね。非常に奇妙極まりない映画企画、これがなぜ成立したのかっていうと、まずは劔樹人さんによる原作漫画というのがある。『あの頃。男子かしまし物語』というのが、2014年にイースト・プレスから出ていて。これ、漫画と文章が一緒になった……ご本人もあとがきで書かれてますけれども、杉作J太郎さんの一連の作品、特に『ヤボテンとマシュマロ』とかあたりですかね。それに近いスタイルですね。それで実際に僕、最初にこの『あの頃。』という原作本を読んだ時に感じたのは、「ああ、これは俺らの世代にとっての『卒業― さらば、ワイルドターキーメン』なのかな」っていう。これ、杉作J太郎さんの素晴らしい青春漫画なんですけども。

まあ、今回の映画でもね、松坂桃李さん、(杉作さん率いる)「男の墓場プロダクション」のTシャツやらバッジやらを身に着けていらっしゃいましたしね(笑)。あれはたぶん、劔さんの私物なんでしょうね。というか、衣装とかグッズなど、今回の映画ではかなり、実際のホンモノを用意しているあたり、すごくちゃんとしているあたりでございます。

とにかくその、劔さん。人生で非常に落ち込んでいた時期にあややに救われ、一生の仲間たちができた、みたいな、そういう話。自伝的エッセイ漫画というのが2014年に出て。まあ、この本が出たこと自体、我々的にはですね、「ええっ? モーヲタの本を出すの? モーニング(本体について)じゃなくて、モーヲタの本を出すんだ?」みたいな。あ、ちなみに今日は、当時まだ「ハロヲタ」という言葉はなかったので、「モーヲタ」で統一をさせていただきますが。非常に驚きをもって読んだわけですけども。

ちなみに劔さん。もちろんね、(バンド)「あらかじめ決められた恋人たちへ」のベーシストにして、今は犬山紙子さんのダンナさんとしても非常に知られていますが、どんな人かというのを知りたければ、一番手っ取り早いのは、入江悠監督の2011年の作品『神聖かまってちゃん』。これは僕、2011年5月15日に評しましたけど。

当時、かまってちゃんのマネージャーだった劔さん、実質これ、主役なんで。劔さんがいかにかわいらしい人柄か、あと、たたずまいとかね。もうルックスも含めてめっちゃかわいいので、ご存知ない方はですね、ぜひご確認いただきたいんですけどね。だから松坂桃李さんが、あのキュートさをちゃんと再現できるのか?っていうのがポイントだったんですけども。まあ見事なものでございましたけどもね。松坂さんもね。

■監督は、「コミュニケーション下手な挙動不審男子」の機微を切りとるのが上手い今泉力哉監督

で、とにかく劔さんの自伝的原作。インタビューなどによれば、2015年ぐらいから既に映画化の話が出ていたということで。これ、人脈的に考えると、これを映画化するという時はですね、劇中にも出てきたロビンさんとか、あと、今回の映画版では完全にオミットされていましたけども、リシュウさんとか、そして後にタカ・タカアキさんという、要するに赤犬の新ボーカルとなっていくイトウさんというあのキャラクターであるとか……要するに赤犬という素晴らしいバンドがいて、その赤犬ともつながりの深い山下敦弘さんあたりが、映画化をするとなると適任なのかな、順当なのかなって、実は僕、勝手に想像をしていたんですけども。

実際に監督として白羽の矢が立ったのは、山下敦弘さんのさらに下の世代というか、まあ師事されてたこともありますよね、山下さんにね。2019年、ご存知『愛がなんだ』で本格大ヒットを飛ばしました、今泉力哉さんでございます。当番組的にはですね、昨年5月26日に、「映画の音声ガイド」特集に、松田高加子さん、そして黒澤美花さんと共に、リモートでご出演いただきました。「公園からリモートしています」なんて仰っていましたけども(笑)。

それで、たしかに今泉監督、パンフレットに南波一海さんが寄稿されているコラムでも南波さんが仰られているように、要は「好き」という、この得体の知れない情動、理屈では割り切れないもの、それが巻き起こす日常の中の、人と人との間のざわめき、っていうのを、見事にすくい取る名手であって。その意味で、ハロプロという「好き」を見つけたことで人生が輝き出した人々……その1個1個は実に他愛もない、なんならしょうもないエピソードの連なりから、なにかかけがえのない人生のある一時期のようなものが浮かび上がる、という、この劔さんの原作の本質とすごい合っているわけでね。今泉さんのモチーフというか、スタンスみたいなものが。

あと今泉さんは、「恋愛映画の名手」みたいな言い方をされるけども、一方で、コミュニケーション下手な挙動不審男子っていうか(笑)、その、褒められたもんじゃない男性性も含めたですね、挙動不審男子。そういう男の機微みたいなものを切り取るのも、実はめちゃめちゃ上手くて。たとえば、2013年の『サッドティー』であるとか、2017年の『退屈な日々にさようならを』とか、このあたりにもそういう要素があったりもするんだけども。

この後、4月にようやく公開となる『街の上で』という作品。こちらはですね、今回西野さん役を熱演しておりました、若葉竜也さん主演。あと、萩原みのりさんがまたピリリと印象を残す好演ぶりを見せていますが。この『街の上で』。これがなかなかの傑作っていうか、僕はこれ、すでに大好きな1本になっちゃってるので。これ、公開タイミングでガチャをぜひ当てたいな、当たるといいなと思いますけども。とにかくその『街の上で』と今回の『あの頃。』は、特にその今泉監督の、さっきも言ったようにコミュニケーション下手……下手したら、傍から見たら挙動不審なボンクラ男子の右往左往を、何とも愛おしく切り取った、一種の連作的な共通性も感じさせるような二作になっているかな、と思います。

■「好き」が生まれたことが、誰かの人生に火を灯した瞬間を丁寧に捉えてみせる

というわけで、『あの頃。』の映画化、実は非常にドンピシャになっている今泉力哉監督というのと、さらに今回、座組的に面白いのはですね、冨永昌敬監督ですね。『乱暴と待機』とか、僕が大好きな『ローリング』とか、その冨永さんが、珍しく脚本のみで参加している。冨永さんご自身の監督作で言えば、2018年のあの『素敵なダイナマイトスキャンダル』。末井昭さんの……実在の人物、事象が多数登場する、自伝的群像劇であり、それぞれは散文的なエピソードの連なりを1本の映画として再構築してみせる作品として、今回の『あの頃。』に通じるものがあるのは、この『素敵なダイナマイトスキャンダル』かな、と思いますけども。

いずれにせよ、今回の脚本の冨永昌敬さんにせよ、監督の今泉力哉さんにせよ、これはさっきのメールにもあった通りですね。劔さんとか、後に「恋愛研究会」と名乗っていくあの面々であるとか、あるいはその当時のモーヲタ・シーンというものに対して、いい意味で距離があるからこそ……距離があるからこそ、敬意を持って、きっちり取材などを重ねて作品に落とし込んでいく、ということもしている一方で、過度のセンチメンタリズムとか、逆にその自意識過剰の照れによる露悪、などに陥ることなく、言っちゃえば、結構フェアな視点というかな、フラットな視点で……というのを本作に対して保つことができている、っていうあたりがプラスかな、という風に思います。

たとえば、やっぱり最大の焦点。この原作を映画化するにあたっての一番の焦点は、「アイドルファン」というものをどう描くか?っていうところですよね。これ、これまでの映画化とかドラマの作品ではですね、アイドルファンというものが出てくる時っていうのは、9割方というか、99パーセントは、全く理解も敬意もない、記号的な茶化しとして出てくることが、ほぼほぼ全部だったわけですね。もう、そんなのしかなかったわけですよ。しかし本作『あの頃。』はですね、さすが今泉力哉監督作というべきでしょうかね。「好き」という情動のその発露がですね、人生をちょっぴり、ちょっとだけ輝かせて、それでその自分の世界を広げてくれる、ということを、まずはしっかり丁寧にすくい上げて見せる、っていうことですね。

たとえば、先ほどオープニングでも山本さんとチラリと言いましたけども、序盤。松坂桃李さん演じる劔青年の、見事に最初、目の光、瞳から光が、消えてるわけです。死んだ目なわけですよ。それが、その冷めきったお弁当と同じように冷めきった目をしたその劔青年の目がですね、その名曲中の名曲『桃色片想い』、松浦亜弥さんのミュージックビデオをボーッと眺めるうちに、みるみる涙でいっぱいになり、そして輝きを取り戻していく。つまり、「好き」が生まれたことが、誰かの人生に火を灯した瞬間、というのを、この映画は、まさに映画だからこそ目撃して記録すべきものとして、まずは本当にじっくりと、丁寧に捉えてみせる。これは要するに、劔さんの原作でもできないことですから。実際、その瞬間をドキュメンタリックに捉えるということは。そしてまた、それに応えてみせた松坂桃李さんの見事な演技、ってことですよね。

そしてまた、そうやって心に灯った「好き」の熱がですね、同じ「好き」を抱えた他者によって、「お前も熱っぽいけど……その『好き』に、お前もかかってるんだろ?」って、感知されるし。あるいはこちら側も「あっ、あなたもこの熱、俺と同じ『好き』の熱だ!」ってことで、シンクロしていく。要は、自分の「好き」が他者と共有された、という、これは言っちゃえば、自分がずっと抱えてきた孤独っていうのが他者と共鳴した喜び、という言い方すらできることであって。それによって、閉じていた自分の世界が、どんどん開かれて、広がっていく。まあそんな「好き」の波及効果っていう面も、この作品は、ユーモアに包んではいるけども、茶化したり見下すことなく見つめてみせている、という風に思います。

■「好き」というものの諸相を、いい面、悪い面、美しい面、変な面、そのいろいろを描いていく

これ、実際に本当に、当時のモーヲタシーンっていうのは、まるで秘密結社のように、『ファイト・クラブ』のように、本当にそこでどんどんどんどんいろいろな人が……全く立場も、たとえば社会的地位も違う人同士が繋がって、それで今も友人である、っていう。これは全く僕らも同じですからね。しかし、それと同時にですね、決して過剰に美化などもしない。自分の「好き」っていうのが、でもそれは傍から見ると歪なものだったり、ドン引きされたり、社会的には肩身の狭いというか、認め難いものだったりする、っていうことも、これは今泉力哉監督、これまでの恋愛映画とかでもね、冷徹に描いてきた部分ですよね。「あなたのその『好き』、ちょっとおかしいよ?」っていうのは。

たとえばその本作の主人公たち、あるいはそのイベントやコンサートに集まるヲタたちっていうのは、それぞれ間違いなく、当人たちにとっての切実な「好き」っていうのに突き動かされた、一応純粋な熱の発露をしているんだけども、でも、一歩引いた赤の他人の目線から見ると、やっぱりそれは引く人は引きますよね、っていうか。まあ、それも無理からぬものですよね、っていうようにも描いている。

というような視点も、やっぱりそれはユーモアにはくるんでいるんだけども、ただそのヲタのもののあり方全体を見下したりバカにするのとも違う、やっぱりある種のフェアさっていうのをキープしながら、進んでいくわけですね。で、先ほども言いましたけども、その学園祭で、たとえばモーヲタ・トークライブイベントを開催して、「大盛況ではあるんだけど、傍から見るとこうだぞ?」みたいな。あれはちょっと、僕は自分を見るようで、頭を抱えてしまった瞬間ではありましたけど(笑)。

あと、本作で非常に重要なポイントは、モーヲタたちの応援スタンス……要はですね、疑似恋愛対象としてだけがアイドルファンのあり方ではないというか。それだけが……まあ、それが好きな人もいるけど。少なくとも当時、2000年代初頭に盛り上がっていたモーヲタ・シーンっていうのは、劇中の彼らのように、たとえば独自でイベントを開いたり、その中でああだこうだと議論をしあったり……僕個人はどちらかというと、ひいきの野球チームを応援する、というのに近い盛り上がりを見せていて。つまりその、モーヲタとかアイドルファンの非疑似恋愛的側面というのをやっぱりきっちり押さえてる、っていうのも、実はこれ、映像作品で描かれたアイドルファン像としては、非常に画期的なものだったかな、という風にも思います。やっぱりちゃんと直接、当事者がやってるだけのことはある。

というわけで、今泉力哉作品的に、「好き」というものの諸相を、いい面、悪い面、美しい面、変な面、みたいな、そのいろいろを描きつつ、今回はアイドルファン、初期モーヲタという立場を通して、時に愛らしく。そして時にグロテスクに……しかしトータルではやはり、その忘れがたい人生の一局面、否定はしがたい人生の一局面として描き出してみせる、というこの『あの頃。』という作品。ネタバレしないようにある程度、伏せながら話しますけど。

「好き」がある人生っていうのは、やっぱりそれだけで素敵じゃないか

仲野太賀さん演じるそのコズミン。まあ、本物はコツリンさんですけども。いかにそのセコい最低の人物かっていうのを(笑)散々描いておいてから……とはいえ、たとえば中盤の名シーン、先ほどもチラリと言いました。将来に不安を感じ、あややのポスターを剥がしかけるほどにまたまた落ち込んでいた、その松坂桃李さん演じる劔さんを励ますべく、シチューを作ってあげるコズミン。そこに届く一封の封筒、そしてシチューの本当のお味とは……という。これ、松坂さん、太賀さん、ご両者のアドリブも非常に存分に活かされた、というこの名シーンなどもあって、要は本当に生きた人間として作品中に息づいている、このたとえばコズミン。「最低だな、あいつ」っていうのを、(観客である)俺らも「最低だけどまあ、でも優しいところもあるんだよな」みたいなことを、生きた人間として感じるような。

その彼がですね、非常に大きな人生の岐路を迎えるわけですね。その現実を目の当たりにした時の、その太賀さんの、目の演技がすごいです。それもちょっとぜひ堪能していただきたいのですが。とにかく、これは下手な監督とか、あるいは志の低い作り手がやればですね、目も当てられないことになりかねない、愁嘆場ばかりになってしまいそうな後半の展開をですね、しかしこの『あの頃。』という作品は、やはり絶妙な距離と温度感で、いい人なんかじゃない、むしろ最低な人の人生……ドラマや映画、なんなら我々自身も赤の他人に対してなら、無視したり、軽視したり、批判したりするかもしれない、そんな人の人生の、「でも、それだってかけがえないだろう?」っていう、かけがえなさ、愛しさを、まさに目をそらさずに差し出して見せる、というか、映し出して見せる、というところに価値があるかなと思います。

「好き」がある人生っていうのは、やっぱりそれだけで素敵じゃないか、というようなことですね。そして、その「好き」そのものは変質したとしても、その先にある自分の人生っていうのも、やっぱりまた素敵じゃん、っていうことだと思うんですけどね。ということで、キャスト1人1人の素晴らしさにちょっと触れている時間がなくて申し訳ないですが。やっぱりこれ、松坂桃李さんがこの役を受けたからこそ成立した企画でしょうし。もう松坂さんのことはいくら讃えても讃えるすぎることはないと思います。あと、長谷川白紙さんによる劇伴。これまた適度な温度感、距離感を保っていて、非常にかっこいい上にクールで、よかったと思います。

■「ああ、モーヲタで自分もよかったな」って思うような1本

ただですね、先ほどの批判メールにもあった通り、正直やっぱり彼ら。恋愛研究会の、あのすごくホモソというか……まさにホモソ!という感じのノリは、たとえば東京で僕らがRECとキャッキャやってたノリともまた全然違うもので。正直、あの壇上でやる、彼女を寝取った、寝取らないとか、そのノリは正直、俺がもし自分らのイベントでやったら、それはやめろ!っていうことに当然なるぐらい、それは本当にドン引きする……まあ、その良し悪しをジャッジする場面でもないとは思いますけどね。ただ、そこはやっぱり嫌悪感の方が先に立っちゃう人がいるのは当然だと思うし。

あと、そこも含めたイベントシーンですね。要するに、部屋でワチャワチャやっているシーンは皆さん、演技達者だからいいんだけど、客を前にしたトークイベントっていうのの、ああいう面白さみたいのは、ちょっとこれ、劇中で再現するのは難しいところなのかな、それゆえになんか構造のヤダみみたいなものだけが先に立っちゃう部分がちょっとあるのかな、っていうのは……「ああ、ここは再現、難しいんだ。これだけの芸達者をもってしても」っていうのは、ちょっと思ったりしましたね。

ということで、さっきからね、「距離感とか温度感が素晴らしい」とか言って、僕自身が全く距離を取れてない評で申し訳ございませんでしたが。でも僕自身はやっぱり、「ああ、モーヲタで自分もよかったな」って思うような、「RECたちとまた飲みたいな」という風に思うような、そんな1本でもありました。あと劔さんとも飲みたいな。ロビンさんとも飲みたいな、西野さん、元気かな、とか思うような作品でもございました。全然距離が取れていなくてごめんね。ぜひぜひウォッチしてください!

【補足1】番組オープニングゾーンにて

宇多丸:……さて、そんな私が本日、ムービーウォッチメンで扱いますのは、今泉力哉監督、そして原作は劔樹人さんのエッセイ漫画というか、自伝的漫画エッセイというか、『あの頃。』というね、元の本は『あの頃。男子かしまし物語』というのが付いてますが、これの実写映画化版。劔さんを演じるのは松坂桃李さんということになっておりますが。

山本:これ、要するにアイドルに夢中になる大人の青春物語というようなことですかね。

宇多丸:そうですね。要するに劔さんをモデルにした、その松坂桃李さんの演じる主人公が、バンドをやってるんですけど。ベーシストなんですね。劔さんもベーシストで。なんですけども、なかなかいろんなことがうまくいかなくて、本当に気分的に落ち込んで……これ、実際の劔さんもそうだった時に、友人からふともらった松浦亜弥さんのミュージックビデオ。これを見ているうちに、ぽろぽろと涙が流れて……っていう。これも本当にあったことで。そこから、だんだん知り合った仲間たちとイベントをやったりとか、いろんなことをやったりして、キャッキャキャッキャとやってる日々。でも、その日々も永遠には続かず……というような話ですね。山本さんもご覧になって?

山本:見ました見ました。なんだろうな、とにかくざっくりとした感想を言いますと、すごく最後は切なく悲しくキューッと締め付けられる思いと同時に、なんかあったかい気持ちになったんですよね。それで映画館を出た後に、人が楽しそうに笑っている姿とか、友達同士でキャッキャしているのを見ると、すごく優しい気持ちになるような……。

宇多丸:本当にどうしようもない人たちですけどもね。先に言っておきます。もう、主人公たちを含めて……これ、「アイドルファンだからどうしようもない」っていうんじゃなくて、アイドルファンがダメなんじゃなくて、あんたらがダメなんだ!っていう(笑)。本っ当にどうしようもない……これ、全然褒められたもんじゃないどうしようもなさも含む、どうしようもない人たちで。なおかつこれ、完全に我々も知り合いというか、知人だったり、友人だったりする人たちをモデルにした人物だったりするんでね。俺、でも出会う前なんで。「こんなことやってたの? バカじゃない? なにやってんの?」みたいなのはちょっとありましたけどね(笑)。

山本:でも、その輪の中で楽しいことっていうのはやっぱりみんなあるよなっていうのは……。

宇多丸:そうね。あとやっぱりさ、これはちょっと後ほどもネタバレしないような感じで言いますけど、本当にほら、「あいつ、最低だよねあいつ、本当に人としてマジでどうかと思うわ……」っていう人の人生っていうか。映画とか、もちろん他人の人生だったら、そういうしょうもないあれだったらまあ軽視したりとか、無視したりとか、批判したりとか、っていうことはあるけども。でも、そういう「あいつ、本当にどうしようもないよな」って言ってゲラゲラ笑って思い出すみたいな。これってなんか、やっぱり我々の実人生は、むしろそっちの方が本当っぽいよね、っていうかさ。要するに、いい人としてみんな死んでいくわけじゃないっていうか……あ、「死ぬ」って言っちゃった。まあいいや。そんなようなことがあったりしますよね。

山本:はい。

宇多丸:それで、イート(Eat)・シーンもありましたね。

山本:イート・シーン、あったんですよ!

宇多丸:まず、松浦亜弥さんのそのミュージックビデオを見て……っていう。そこがまず、イート・シーンですもんね。

山本:あそこの、宇多丸さん。おそらく私はのり弁だと踏んでいるんですけども。本当にお米ひとかけらを食べて、その後にもう食事に手が付かないくらい夢中になっちゃうっていうことですよね。あそこのシーンはね。なんか、ああいうのを見ていると……。

宇多丸:あれも冷めきった弁当なんでしょうね。

山本:冷めきった弁当で、もう落ち込んでいて。

宇多丸:弁当も冷めきってるし。あそこでの松坂桃李さんの目も冷めきっている。ちゃんと目に光がなかったところに、涙と共に光が戻ってくる。これ、ちゃんとやりますよね。

山本:そうですね。なんか忘れられない人のあの頃の食事ってあるよなって思い出しました。僕は。

宇多丸:そうね。だからその弁当と対照的にですよ、あったかい方の食べ物もあったじゃないですか。忘れられない、食事っていう意味では。

山本:ありましたよ、シチュー! ホワイトですよ!

宇多丸:ねえ。ホワイトシチュー。

山本:ホワイトですよ! そこからまた、いい風に転がっていくわけですよね。光が差してくると言いますか。

宇多丸:あれもやっぱりさ、決して褒められたもんじゃない人っていうのと同じく、別にうまいわけじゃないっていうか、むしろマズい味っていうのとセットで、その人とかその瞬間のことを覚えてる、みたいな。で、それ自体がやっぱりなんていうか、いいとか悪いじゃなくて、もう、「そういう道を歩んできたんだな」っていう時間だったりしてね。

山本:また、あの仲野太賀さんが演じるキャラクターの性格上、そのキャラクターが作ったホワイトシチューじゃないですか。で、なんかそのキャラクターと、そのキャラクターが作ったホワイトシチューのざらつきみたいな。ざらついてるんだ……みたいな。そこのリンクっていうか。

宇多丸:「なんか粉っぽいんですけど」みたいな。

山本:その不器用っぽいところもそうなんですよね。なんかあそこもたまらなかったですよね。

宇多丸:モデルになったコツリンさんはすごく料理に自信があるってことで、ちょいちょい料理を振る舞ったりはしてたらしいんですけどね。

山本:ああ、そうですか。そうなんだ。

宇多丸:そうそう。まあ、そんなこんなでちょっと後ほど、映画の話は中でするんだけども。その中で描かれている……舞台としてはだいたい2004年から2005年ぐらいにかけてのモーヲタとしての盛り上がり、シーンとその後、みたいな感じじゃないですか。2006年ぐらいまでの。で、ちょっとそのあたりの話をしておくと、まず山本さんってその頃はおいくつぐらいですか?

山本:僕は中学生ぐらいにモーニング娘。の皆さんのオーディション番組『ASAYAN』がやっていたっていう。

宇多丸:それって、見たりしていました? 話題になっていました?

山本:なっていましたなっていました。もう、みんな盛り上がってましたよ。「『ASAYAN』で誰が受かるんだ? 受かった! デビュー曲『モーニングコーヒー』だ! なっちだ!」って言って。

宇多丸:そもそもね、シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションで平家みちよさんが優勝されるんですが、それで落ちた人たちが集められて作られたのが、モーニング娘。でね。要するに、最初からある種、「負け犬たちのワンスアゲイン」的な物語性があって。なおかつ、実はモーニング娘。って、アイドルらしからぬ……もう実はその90年代いっぱい、アイドル冬の時代で。もう僕ら自身も「絶対にアイドルがもう1回盛り上がるなんてことはあり得ないだろう」という空気感の中で。あるとしても、また違う形……たとえばアクターズスクール的なスキル中心主義的だったり、グローバルな形のアイドルだったらあり得るけども、昔ながらの日本アイドルなんてもう無理っしょ?って思ってたんだけど。

モーニング娘。はそういう意味では、安倍なつみさんはいわゆる本当に正統派アイドルイズムだけど、それ以外のメンバーはどっちかっていうと、年齢的に言ってもキャラクター的に言っても、本来で言えばアイドル的ではない人たちっていうのを、ある種メタ的にアイドルに仕立てたのが、『モーニングコーヒー』までのモーニング娘。で。そこから先、つんくさんがまた本格的にプロデュースに乗り出すにあたって、彼のすごく好きなダンスミュージックの要素であるとか……それですごく優れたアレンジャーと組むことで、もう本当にマジックが起こって、っていうあたりで盛り上がってきて。

でも、90年代いっぱいはそれでもやっぱりある意味、ちょっとB級感を背負ったグループとしていて。たとえば鈴木亜美さんとの同日発売対決で負けちゃう、みたいな。そういう、今、思えば非常にバラエティ的な勝ち負け演出があった上での、後藤真希さんが加入しての、『LOVEマシーン』、1999年にドーン!って。

山本:まさに「ドーン!」でしたよ。

宇多丸:それで21世紀に向けてガーッとハロプロ全体として盛り上がっていく、みたいなね。4期メンバーが入ったりしてさらに盛り上がりましたけどね。というのがあって。で、いわゆるモーヲタ・シーンっていうのは、普通のアイドルファン……要するに、そのアイドル冬の時代がずっと長く続いていく中で、まずはリアリティショー、『ASAYAN』というテレビ番組を通したリアリティショーで、その各人の人間性であるとか、そこから浮かび上がるグループとしての物語性、そういうところにまず最初は盛り上がったんですよね。なおかつ、楽曲もすごく面白いからっていうので、まあ大人が騒ぎ出したっていうか。そういう感じですかね。「この楽曲はすごくマニアックだ!」っていう感じですごく騒いだりとか。

で、『ASAYAN』ですごく盛り上がっていた時期があったんだけども、『LOVEマシーン』でブレイクして、プッチモニが出て、ぐらいかな? その4期メンが入る手前ぐらいのところまでで、『ASAYAN』で逐一全てを見せる、みたいなのが、一旦終わるんですよね。まあ、いろんなこと、大人の事情があったんでしょうけど。『ASAYAN』がそのモーニング娘。の主力舞台で、物語性を見せる、っていうところがなくなって。で、それによって、その欠落を埋めるが如く、ちょうどそのインターネット浸透期とかいろいろ重なったっていうのもあって、まあ2ちゃんねるとかそういうところ、そして雑誌で言えばやっぱり『BUBKA』ですよね。とかを中心に、その『ASAYAN』がいろいろ提供していた物語性っていうのを、ファンたちがもう、自分たちで補完するしかない。

曲が出たりとか、いろんな番組とか、いろんな情報の断片をつなぎ合わせて……もうゴシップから何から全部をつなぎ合わせて、「俺たちが物語を補完する」みたいな。っていうので盛り上がったのが、初期モーヲタシーン、っていうことだと思うんですね。もちろんその中には、いろんなフェイズの差があって。単純にメンバーそれぞれがすごく好きで……っていう人もいれば、俺とかは野球チームを応援するようにっていうか、プロ野球のチーム、たとえば巨人軍のファンで、「でも、今回のこの登用はどうなんですか? これ、ちょっと人選ミスなんじゃないですか? これは采配ミスでしょう」とか「この試合運びはなんなんだ?」とか、「ここには、あそこの○○というポジションにはあいつをつけるべきだ!」とか、そういうことを議論して楽しむ、みたいなのもあったりとか。

もちろん、楽曲研究があったりとか。たとえば当時だったら、当時アレンジをしていた人にインタビューしに行ったりして。それをまた、イベントでなんかやったりとかっていう。だから、わりとモーニングとかを、もちろんライブに行ってワーッて盛り上がったりもするけども、終わった後にみんなで飲みながら、なぜか俺たちがそのライブの反省会をする、みたいな(笑)。で、「あそこの使いみちが……まだちょっと5期メンの使いみちがうまくわかってないんじゃないか?」とか、「後藤のソロはどうやったらもっと輝くんだろうか?」とか。勝手に、余計なお世話だ!みたいなことを(笑)ワーワーやって盛り上がる、みたいな。

そこでやっぱり、いろんな人が出会って。たとえば、やっぱりモーニング娘。から、今までアイドルファンとかになったことがなかった人が、そこから狂っちゃった人もいるし。あとは、ずっと昔は好きだったけど、アイドル冬の時代の間はファンをやめていたけども、また復活した、みたいな人もいるし、っていう感じで。そこでいろんな人とどんどん知り合って。たとえば、そうですね。コンバットRECなんかもまさにそうで。掟ポルシェさんもそうだし。吉田豪さんもそういう流れで知り合った人だし。コンバットRECはあれですよね、僕らがいつも語り草にしている清里でのハロコン、清里の高原でやったハロー!プロジェクトのコンサートがあって(2001年9月)。

そこにみんなでバスを借り切って、前日朝までトークイベントをやった後に、みんなでバスを貸し切りにして行くわけですよ。それで俺は前日、大阪でRHYMESTERのライブだったんですよ。大阪のライブが終わった後に、その日に限って楽屋とかにすごく女の子がいっぱいいて、みたいな時に、「あ、俺、帰ります。明日、ちょっと清里があるんで」って。それで女の子は「はあ? 何? 生身の女とモーニング娘。のどっちがいいわけ?」「(即答で)モーニング娘。!」っつって。

山本:フハハハハハハハハッ! オタクの方だ(笑)。

宇多丸:あと「仲間たちが待っているから」みたいなかっこいいことを言って。その待ち合わせているバスに乗って行って。その時の打ち上げとかでRECとかとはすごい仲良くなった気がするな。意気投合して、みたいな。それ以来、すごく会ったりするようになったんですね。なんだけど、この今回の劇中で描かれる2004年というのは、だからそういう意味では、僕らがモーニング娘。ですごく最高潮に盛り上がってた時期の、結構後期っていうか。なんかその楽曲とかに関しては……いろいろあったんですよ。「ハローマゲドン」と呼ばれる……僕らが勝手に呼んでいるんだけどね。ハローマゲドンと言われる、大きな人員の異動っていうか、我々からすると非情にすぎる異動みたいなのがあって。

山本:アルマゲドンにかけているんですね。

宇多丸:ハローマゲドンと呼ばれることがあったりとか、いろんなことがあって……いろいろと、楽曲的にもちょっと乗りきれないものが増えてきたりとかで。2004年の頃、要するに劔さんがハマった時は既に、結構後期で。劇中でね、2005年の場面として描かれる、石川梨華さんの卒業コンサートっていうのが出てきますね? 実はやっぱりあの前後、いろいろあって。早い話が、矢口真里さんが写真週刊誌に……しかも小栗旬さんとの写真を撮られて。それで即日、強制脱退、みたいになっちゃって。

まあ、その処遇に対する意見の違いで、もう僕らの周りだけでも、モーヲタ論壇が真っ二つになっちゃって。真っ二つというか、もっとかな? 本当に内ゲバみたいな感じですよね。それで僕らは、「矢口さんが自分の幸せを選ぶことの何が悪いんだよ? 小栗くんって結構受け答えもしっかりしてるし、いいじゃないか!」なんて言って。それで「矢口を守れキャンペーン」とか「矢口に謝れ」キャンペーンみたいなことをして。その石川さんの卒業コンサート、日本武道館。我々もあそこにいましたよ。で、コンバットRECと矢口キャップをかぶって乗り込んで。

そしたら、その杉作J太郎さんが「いや、それは気持ちはわかるけども、宇多丸さんたち。でも、梨華っちの卒業をちゃんと、気持ちよく送り出すってことはできないんですか、あんたらは?」って言われて。それで、杉作さんは杉作さんで俺たちに怒っていたりとか。で、その「杉作さんが怒っている」っていう情報をまた俺が……それがまたネットですぐに伝わっちゃって。「杉作さん、僕のことを殺すらしいですね?」とかね(笑)。

山本:ええっ? そんな怖い言葉で?

宇多丸:とにかくそんな感じでね、でもそのぐらい熱くなってた、っていう。でも、それを境に、やっぱりいろいろちょっとこう……言っちゃえば初期モーヲタ文化っていうのは、そこで一区切り、みたいになって。なので、今回の劇中ではそこまで細かい事情とかは描かれてないけど、やっぱり石川梨華さんの卒業コンサートを境に、いろんな熱量とか、いろんなことがちょっと変わっていく感じ、みたいなのは、実はさりげなくもニュアンスとしては描かれていて。そうなんです。でも、とにかくひとつ言えるのはですね、六本木ヒルズのスクリーンで、劔さんとかロビンさんとかの話を見る日が来るとは思いませんでした!っていうね。

「どういう気持ちになれと?」っていうね(笑)。本当に、『花束みたいな恋をした』は「(登場人物たちが)頭に住みついてしまった」って言ったけど、(こちらは)元々知っている人たちなんですけど!みたいな(笑)。元々知ってる人たちの……でも俺、ロビンさんとかは、要するに赤犬っていうバンドがいて、赤犬のメンバーとしても知り合いだったんだけど、親しくなるちょっと前の話なんでね。だから、そう。「こんなことやってたの? ひどいね!」っていう(笑)。ちょっとあきれ返るところもあったりしましたけども(笑)。

山本:のぞいてみたらひどかった(笑)。

宇多丸:ひどかった、みたいなのはありますけどね。非常に貴重なっていうか、私個人としても貴重な映画体験でした。「どういう気持ちになれと?」みたいなところもありましたけどね。どんな作品なのかといったあたりはこの後、ムービーウォッチメンで扱いたいと思います。もう19分経っちゃった。こんな話、無限にできるよ(笑)。

【補足2】コーナー直前のCM前にて

宇多丸:……はい。じゃあちょっと残る時間を使って、できるだけ『あの頃。』情報というか、評に入り切らない部分もやっていきたいと思うんですけども。たとえば、びっくりというか、「ああっ!」って思ったのはね、あの学園祭で、意気込んでイベントをやるところがあるじゃないですか。で、意気込んでやった結果、傍から見たらドン引きの光景が現出しちゃって。やっぱりあの頃、いわゆるヲタ芸みたいなのが確立期で。それを象徴する曲が、藤本美貴さんの『ロマンティック浮かれモード』で。特に、サビになると(飛びはねながら頭上で手拍子しつつ)「回る」っていうね。僕らの頃は「マワリ」って言っていたけども。

あれが……でも、主人公たちのチームは、ヲタ芸を積極的に打つ側じゃない。だからそのヲタの中でも、打つ派と打たない派もいるし。でも、やっぱりみんながワーッてなっているのを見ると高揚してしまう、あの感じとかもすごくわかる……だけにちょっと、当時の自分たちを思い出すようで、頭を抱えちゃうようなところもあったし(笑)。スクリーンを見ていて、恥ずかしくてこう、頭を抱えて(笑)。

あと、この間もRECもちょっと話題にしていましたけども。「サムライ」と呼ばれる……本名は別にあるんだけども、サムライさんと呼ばれる、チョンマゲにした長身の、当時の有名ヲタなんですね。我々の友人なんですけども。友人でかつ、いろんな問題がある人なんですけども(笑)。そのサムライさんの当時していた格好。赤いつなぎに、アフリカ・バンバータがしているような細長いグラサンをして。なおかつ、俺が、風体のみならずびっくりしたのは、サムライさんの踊り方がもう、完コピなんですよ。ヲタ芸じゃなくてね。ヲタ芸を周りでやっているのに、すごい自由な……。

山本:あっ、あの人ですか? サングラスの?

宇多丸:フニャフニャフニャフニャ、独自の踊り方をしているんだけども。あ、今、本名を言いそうになったけども(笑)、「あっ、サムライさんの踊り方だ! えっ、これ、どうやってコピーしたの?」みたいな。

山本:あの髪の長い人ですよね?

宇多丸:そうですそうです。あれ、本当にそのまんま。

山本:そうなんだ。周りと違って異質な感じでしたもんね。

宇多丸:はい。いろんな意味で、良くも悪くも我が道を行きすぎる人なんですけども。それとかもびっくりしましたしね。で、だからそういう、当時の自分たちを見るようだなっていう場面も当然、あったし。あと、でも一方ではやっぱり、年齢とか立場の差もあるのかな? 東京でモーヲタ・シーンとかにいていろいろやっていたけども、ああいう男子中学生ノリでキャッキャ、みたいなこととも、俺らはちょっと違ったよね。

山本:ああ、そうなんですね。

宇多丸:そうそう。だからあんな、一緒にお風呂に入るとかは絶対にないよ。あ、ちなみにそういう風にやっていた人もいるかもしれないけども。たとえば俺とコンバットRECがやるかって言ったら、絶対にやらない。ただ、RECの家に入り浸って、新譜なんかを聞いたりとか、その入り浸り感は同じなんだけども。ノリは……だからたぶん俺らはもうちょっと大人で、お金もあったし、というところが違うのかもしれないですね。ただ、大人でお金もあって社会人だからこそできる、たとえばその、モーニングとかのインサイダー情報がそれなりに入ってくる、みたいな(笑)。

山本:インサイダー情報? モーニング娘。の?(笑)。

宇多丸:一応、音楽業界にいるし……みたいな(笑)。

山本:すごい生々しいですね(笑)。

宇多丸:そういう、社会的地位があるなりのダメさ、みたいな(笑)。とか、ラジオ局の……「これ、後藤さんが残していった落書きの団扇なんですよ」みたいな。「ごっちんが書いた落書き? ください!」みたいな(笑)。今日、持ってくればよかったな(笑)。そんなこんなで、この後はムービーウォッチメン『あの頃。』です。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『DAU. ナターシャ』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!

◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。

宇多丸、『DAU.ナターシャ』を語る!【映画評書き起こし 2021.3.5放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『DAU. ナターシャ』(2021年2月27日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、2月19日から劇場公開されているこの作品、『DAU. ナターシャ』

(曲が流れる)

そうそう、劇中にね、いわゆる劇伴的なのはない。ただ、劇伴的なのは流れないんだけど、のちほど言う、たとえばそのクライマックスにあたる密室の中の尋問シーンでは、その、空調なのか何なのか、建物全体の「鳴り」が、ずっと薄く、「ブーン……」みたいなのが鳴っていて。それがある種、音楽的な効果を醸していたりもする、というあたり。うっかり私、メモに書き忘れていたので、ここで先に補足しておきますが。そんなような効果もあったりする。

ロシアの奇才イリヤ・フルジャノフスキーと、エカテリーナ・エルテリさん……このエカテリーナ・エルテリさんは元々、ヘアメイクでこのプロジェクトに参加したんだけど、それが最終的に共同監督になった、という。はい。もう全てが異常です……(その2人が)共同監督を務め、ソ連全体主義時代を、莫大な人員と費用、具体的に言いますと、オーディション人数39.2万人、衣装4万着、欧州最大1万2000平米のセット、主要キャスト400人、エキストラ1万人、制作年数15年をかけて完全再現する『DAU』プロジェクトの、第一作。

ソ連の秘密研究所研究都市にあるカフェで働く女性ナターシャを主人公に、独裁政権の圧政の実態を生々しく描き出す……でも、こういう表現から想像されるものとも、またちょっと違うあたりがね、また異常なんですけど。

ナターシャ役のナターリヤ・ベレジナヤをはじめ、キャストたちは、当時のままに再建されたソ連の秘密研究都市で約2年間にわたって実際に生活した。ちなみに、このシリーズ全体を通しても、ある1人の女優さんを除いては全員、素人の役者さんをオーディションで選んだ、という形になっております。

ということで、この『DAU. ナターシャ』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「少ない」。まあ、公開規模がね、全然小さいですから、しょうがないですね。賛否の比率は、全面的な肯定も否定もほとんどなく、一番多かったのは「困惑した」という感想。たしかに、劇場の終わった後のムードも、「困惑」っていうのがふさわしかったかもしれない(笑)。

主な意見としては、「見ている間は『一体、何を見せられているのだろう?』と思ったが、貴重な映画体験だった」「長く陰鬱で、見終わった後にドヨーンとなった」「制作過程がすごすぎる。今作だけでは判断できない」などがありました。

■「過去への記憶喪失こそが「凡庸な悪」を招く思考停止状態なのではないかと、この映画を見て改めて考えさせられました」(byリスナー)

代表的なところをご紹介しましょう。ラジオ「あきとかわ」さん。「見てる間は退屈な気持ちと不快感ばかり感じましたが、鑑賞後にはいろいろと思うことがあり、結果的に貴重な映画体験ができて良かったと思っています。個人的に大学から大学院にかけ、ソ連に大きな影響を与えたマルクス経済学を少しかじってきたのですが……」というね。それでちょっとマルクス主義の構造の話を説明していただいて。

「共産制の1歩手前の段階と呼ばれている社会主義体制であったソ連の実情はといえば、劇中でも描かれている通り、個人の自由は容赦なく剥奪され、『平等』は均一的な思考の矯正に置き換わっていたようです。今、『劇中でも描かれている通り』との言葉を使いましたが、私がこの映画を見終わって改めて恐ろしいと思ったことは、まさにその部分です。たとえ現代人であったとしても、当時のソ連を忠実に再現した生活様式の中に約2年間ほど身をおいてしまうと、当時のソ連の人々を忠実に再現した演技が『自然と』できるようになってしまうんだなと、恐怖を感じました」。まさにこのあたりは、監督の意図かもしれませんね。

「パンフレットの中でイリヤ・フルジャノフスキー監督が『ソビエトが残した病は記憶喪失です。誰もが覚えておきたいことだけを覚えています。この記憶喪失を克服しない限り、それは何度でも繰り返されます』と語っていますが、私自身そのような不幸な過去の歴史は知識では知っていますが、自身の体感としてはなかったものとしてこれまで生きてきました。しかし、そのような過去への記憶喪失こそが(ハンナ・アーレントが言うところの)「凡庸な悪」を招く思考停止状態なのではないかと、この映画を見て改めて考えさせられました」ということですね。実際、その歴史の忘却というのはね、当然これはロシア、旧ソ連に限った話ではなく、もちろん我々日本人もね、全く無縁ではない話なわけですよね。

一方、ちょっと否定寄りの意見。完全に賛否、っていうのがないので、「否定寄り」の意見ですけども、「ありばる」さん。「賛が2、否が8。感心はするけれど、感動はしない。正直、後味の悪さが残っています。でも、この後味の悪さ、不安を抱かせることを意図されていた作品なのでしょう」と。で、いろいろとありばるさんなりの読みというのを書いていただいた後に、「それほど昔のことではないのに、自国の黒歴史を忘れないために作品に残す点は感心します。女性の髪型や下着に見られる細かなディテールの徹底ぶりも同様に。ただし、多くのところでも語られているように、私もボトルのシーン……」、これはちょっと、非常に嫌な場面なんですが。

「ボトルのシーンには嫌悪感しかないし、性行為のシーンも長すぎます。あそこまで撮る必然も感じません。この作品は娯楽や芸術映画ではなく、現代美術の一大プロジェクトであると考えると納得できます。映画作品として、評価するには残りの何作かを見ないとわからない気がします。残りの映像はサイトで公開されているようですが、劇場版になっていないのなら見ないかな? いまだ混乱のためにまとまらない感想ですいません」という。いやいや、ありがとうございます。

■「もうひとつの世界」を丸ごと造り出し、社会や世界の本質を総合的に浮かび上がらせたい

ということで皆さん、『DAU. ナターシャ』の感想、ありがとうございました。そして私も『DAU. ナターシャ』を、シアター・イメージフォーラムで2回、見てまいりました。特に1回目は、3月1日の映画サービスデーと重なっていたこともあって、なかなかな入りでございました。やはりこの作品、というかこの『DAU』という、映画史上でも稀に見る異常な規模のプロジェクト、その第一弾としての注目度が高い、っていうことなんでしょうかね。ただ、先ほどからちらりちらりと言っていますが、ここでさらに話を異常にしているのが、『DAU. ナターシャ』と題されたこの作品単体で見ると、そこまで巨大な規模を背景に作られたものであることは、少なくとも直接的には、ほとんどわかんないんですよね。

むしろ、主要登場人物も舞台も、かなり限定的。室内会話劇で、基本、劇伴や音楽などもなかったりする、非常にミニマルな作りなんですね。本当はすごい人数がそこで本当に何年も生活している、というその巨大な研究所のセットとかも、ごくたまにカメラが外に出たときに、背景として映り込んでるぐらいで。その本来の規模感、人数感を、誇示するような引きのショットであるとか、あるいはモブシーンであるとか、そういうスペクタクルな見せ方……たぶん、普通はそこまで作りこんだら、デヴィッド・リーン的な、スペクタクルなモブショットとして見せたくなると思うんだけど。そういうデヴィッド・リーン的ショットは一切なくて。

しかもこれ、今回の『DAU. ナターシャ』というプロジェクト第一弾、「他を見ないとわからない」と皆さん、仰ってますけど、実はこの一作だけじゃなくて、現状日本にいて僕が見ることができた別の『DAU』シリーズ7本分……これ、どういうことなのかは後ほど言いますけど。それらも、この7本……そこから先は知りませんけど、この7本までは、やっぱり基本、ほぼ同じような作りなんですよね。音楽に関しては実は、作品によっては例外的に、たとえばエリック・サティとか、既存曲が劇伴的に流れる瞬間っていうのがあって。「ああ、こういうこと、やるんだ」っていうのはちょっと、逆にシリーズで見てくると、そこもフレッシュだったりしましたけどね。

まあ基本は非常にミニマルで、地味な作り。つまり、この巨大な製作規模というのははっきり、スペクタクル的なスケール感のために用意されたもの、ではない。その意図のために作ったものではない、っていうことなんですね。だから、そういう画がない、「スケール感がないじゃないか」って言っても、それはそもそもそういう意図ではどうやらないらしい、っていう。では、何のためにこんなことをしてるのか?っていうと、それはですね、非常に私なりのざっくりした説明の仕方をするならば、「もうひとつの世界」っていうのを、丸ごと造り出し……まあ、これはある意味、映画というものがすべて志している部分ですけども。

もうひとつの世界を丸ごと造り出し、その中で本当に生きている人々の営みを、それぞれ顕微鏡で観察するかのように、そのまま切り取って。そしてその断片の集積によって、社会や世界のあり方の本質というのを、総合的に浮かび上がらせたい。ざっくり言えば、そのような意図、もしくはつくり手の欲望。その具現化が、この途方もないプロジェクト『DAU』である、という風に、とりあえずは言えると思いますね。ということで、この『ナターシャ』単体の話の前に、まずはこの『DAU』の「ガワ」の話がもう、あまりにも面白すぎるので。ちょっと『ナターシャ』の話の比率が少なくなっちゃうかもしれないけども、許してくださいね。

■秘密研究所をまるごと作って、その中で生活させ、ソビエト連邦時代の暮らしを丸ごと再現してみせる

この、まさに狂気的と言っていい企画を実現に導いたのはですね、イリヤ・フルジャノフスキーさんという方。これ、アニメーション作家として有名なアンドレイ・フルジャノフスキーさんの息子さんで。2004年……パンフレットだと2005年ってなってるけど、インターネット・ムービー・データベースとか他の資料だと2004年ってなっているのでこちらにさせていただきますけど、2004年に長編デビュー作『4』で高く評価された方です。ちなみに今回のが二作目です。はい(笑)。

僕はこのタイミングではその『4』はですね、予告編しか見られていないんですが。今回ね、この『DAU』についてとても詳しく書かれている、林峻さんという方が「IndieTokyo」というサイトに上げていらっしゃる『DAU』のレポート、研究シリーズが、すごくこれ、僕も今回すごく参考にさせていただきましたけど。ここの林さんの記述によりますと、この長編デビュー作、2004年の『4』。当初の『DAU』と同じように、脚本にはこれ、要するに現代ロシアを代表する作家ウラジミール・ソローキンを迎えて。辺境の村に住む不気味な老婆たちの共同生活を通して、現代ロシア社会の心象風景を描いた作品、ってことなんですね、その『4』は。

予告編を見る限り、ちょっとアレクセイ・ゲルマンっぽい感じなのかな、という風に個人的には思いましたけど。とにかく、この『4』で評価を得たこのイリヤ・フルジャノフスキーさんの、第二のプロジェクトがこの『DAU』なんですよ。一作目が2004年ですよ? 何年経っているんだ?っていうことなんですけどね。で、さっき言ったその「IndieTokyo」の林さんの記事によればですね、2006年に企画スタートした頃には、さっき言ったようにウラジミール・ソローキンを脚本として招いて、もうちょっとわりと普通に、この物理学者レフ・ランダウ……この『DAU』っていうのはレフ・ランダウ(Lev Landau)の「DAU」なんですけども、そのレフ・ランダウさんの伝記的な内容だったらしいんですけど、どんどんとその話が膨れ上がっていって。

ついにはその、ウクライナ第二の都市ハリコフというところに、このランダウさんが実際に勤務していた秘密研究所を、まるごと作って。その中で、人々に実際に生活させ、ソビエト連邦時代の全体主義というもの、その中での暮らしというものを、丸ごと再現してみせる、という。まあ先ほどのメールにあった通り、ほとんど現代アート的な試みになっていったわけですね。

実際これ、本当に現代アートでもあって。2019年1月にですね、パリのポンピドゥー・センターで、今回のDAUプロジェクトのお披露目としてやったのは、単体の映画の上映じゃなくて、この試みの全体像をいろんな形で提示するような、インスタレーションという形でやられたわけで。現代アートでもあるんで、それは間違いじゃないんですね。

で、とにかくその、映画のために街を丸ごとを作ってちゃうっていうこの試み。ある意味、映画作家であれば誰もが夢見るであろう、でもなかなか実現をしない。あるいは実際に実現しても、さっきオープニングでもチラッと言ったように、ジャック・タチのやはり狂った名作、1967年の『プレイタイム』のように、金字塔にはなっても、作家自身を破滅させかねない、そういう試みなわけですけど。

本作の場合さらに特異なのは、その中の生活まで、ソ連全体主義時代のそれを生身の人間たちで再現させた、という。で、それを様々な角度、さまざまな人の視点から、映画として切り出していく、という。そしてそれを、複数の作品として出していく、というこの発想。これ自体、やっぱり非常に特異なのは間違いないですよね。

隠し撮りではなく、特殊な照明と35ミリフィルムで撮影されている

で、これも(番組の)オープニングトークでも言いましたけど。これはでも、しかしですね、リアリティTV的なものを想像される方もいると思うんですね。「生活をさせて、そのいろんな断片を隠しカメラとかで撮って」っていう。

隠しカメラは実際、当時の暮らしをすることを遵守させるために、あったらしいんですけど(笑)。ただ、映像作品としては、そのリアリティTV的なものじゃない、全編が35ミリフィルムで撮られている。で、その35ミリフィルムで、でもなおかつ、自然に長回しとか、わりとパッとカメラを向けて自然に撮ることが可能なように、非常に特殊な照明とかをやっている。これ、詳しくはパンフを読んでください。めちゃめちゃ凝った照明とかをやって、要はそういう状況を撮ったりしてるわけで。要するに、隠し撮りとかじゃないわけです。

当事者たちの合意に基づいて、しかし即興の要素が全面的に取り入れられた撮影が、断続的に重ねられていった、ということ。で、これは後ほど、どういうことなのかも言いますけども、特に今回の『DAU. ナターシャ』におけるその性的暴行シーンが、あまりにも本当らしく、リアルに描かれて……非常に不快に描かれているため、この撮影方法そのものが、要するに素人を合意なく追い込んで撮ったものじゃないか、みたいな諸々の非難を集めたりも当初はしたんだけども、という。

これもオープニングトークでちょっと言いましたけど、それに対する当の主演俳優ナターリヤ・ベレジナヤさんをはじめ、このキャスト……概ねはオーディションで選ばれた演技未経験者たちなんですけど。とにかくそのナターリアさんご自身をはじめとする作り手側がね、さっき言ったそのヘアメイク担当からいつしか共同監督になっていたエカテリーナ・エルテリさんとか、その方々の反論が、「ちゃんと合意を得ているし、トラウマとか全然受けていないし! ちゃんと私の言うことを聞いてくださいよ!」っていうような反論をしているという。

まあ、このあたりは本当にパンフレットにも詳しく、この経緯が……やっぱりその配給するにあたって、日本のトランスフォーマーさんも、そこはすごく気をつけられてというか、実際にどういう風に撮られているのかっていうのをちゃんと検証して、配給もされてますし。パンフレットにも載っているし、さっき言った「IndieTokyo」の林さんの記事でも、非常に詳しく書かれているので。これ、気になる方、「でも実際はどうなんだ?」っていう方は、ちょっとそのへんをちゃんと読んでいただければと思います。まあ、型破りは型破りですけどね。

■700時間の映像素材で作られた他の作品はdau.comで公開中

で、とにかくその40ヶ月に及ぶ、その本物の研究施設での生活と、たまに撮影。生活と、たまに撮影、みたいな……ただ、ちなみに主演のナターリアさんとかは、毎日家からの通いで行っていた、ってことなんで。別にみんな、あそこに軟禁状態で閉じ込められていたわけじゃないらしいんですけど。まあ、その40ヶ月に及ぶ生活を経てできた、35ミリフィルム700時間分の映像素材。で、途中では、あまりにもその監督の自由すぎる製作姿勢に、たとえば最初はロシア文科省が助成金を出していたんだけど、もうそれも打ち切って。最終的には「ポルノまがいのプロパガンダ映画だ」っていう風に断じて、ロシア国内での上映を禁止にしたりとか、いろんなすったもんだも、案の定、ありつつ。

監督自身もですね、撮影が終わって一旦、所在不明になって。「何があったんだ?」って、これは要するに、ロンドンでポストプロダクションを……要するに、700時間の素材から、『DAU』の各作品を編集して仕上げる、というところに入っていたという。いちいちお騒がせ、という感じなんですけど。それで、第79回ベルリン映画祭……ここでも上映時にですね、その「ベルリンの壁を上映会場周囲に再現する」っていうので、揉めに揉めた挙げ句、却下されたり。なかなかのお騒がせがまたあった結果、この第一弾の『ナターシャ』が、銀熊賞を取った、という。

で、実はこの『DAU. ナターシャ』ともう1個、『DAU. Degeneration』という、こっちは6時間超えの第二弾も、ベルリンですでに披露をされているんですが。僕は現時点ではこの『DAU. Degeneration』は見れていないんだけど、いろんな記事を読む限り、少なくともラストの展開は、後ほど言います『DAU. New Man』というタイトルが付いているエピソード、チャプターと同じで。要はたぶんこの『DAU. Degeneration』は、おそらくだけど、わりと『ナターシャ』以外の(エピソードの)総集編的な編集をしてる作品で、だから6時間もあるんじゃないのかな、とか。ちょっとこれ、わかんないですけど。見てないので、あれですけど。

少なくとも終わりの展開は、その『DAU. New Man』という別のエピソードと同じ、という。で、なぜ僕がその『ナターシャ』以外のチャプターを既に見ているかというと、要はこのDAUプロジェクト、コロナウイルスの世界的な拡大に伴ってですね、当初は各チャプターを順次、各国の映画祭に出品して……という計画だったんだけど、それが実行できなくなったため、「dau.com」というサイトを開設して──これ、どなたでもアクセスができます──「dau.com」を開設して、そこで各チャプターを配信で、現状でもなんと既に7本、見られるようになってるし、追ってさらに5本、のアナウンスもされているという。

■1952年から1968年までの出来事で作られたDAUプロジェクト諸作の「ユニバース」感

で、僕はこのタイミングでその7本、ペイパービュー、英語字幕で見ました。で、まずわかるのがですね、今回の『ナターシャ』は、1952年の話だけど、他の話は1953年、たとえばスターリン死去直後であるとか、1956年であるとか、さっき言った『New Man』っていうのは1968年で、たぶんこれが時系列で言うと一番最後の話なんですけど、とにかく1952年から1968年の間の出来事が、しかもこれは見るべき順番みたいなのが別に示されない、要するにランダムに見ていいという、そういうシリーズで。なおかつ、ある作品で出てきた人のその後が、別の作品でちらりと示されたり、同じ人物でも明らかに年齢や立場が異なっていたりして。そういう「ユニバース」感があったりする。

で、それを何本も見ているうちに、やっぱり総合的に、その当時のソ連の空気感、全体像っていうのが浮かび上がってくる、みたいな。そういう作品ではあったりするわけです。で、それらが特に、今回の『ナターシャ』と並べて見ると、一番分かりやすく、ある種ショッキングに際だって見えるのが、さっきから何度も言ってる『New Man』というエピソード。まず1本見るなら、これがオススメです。ちなみにですね、この中に出てくる、いわゆる「新人類創造計画」みたいな……『ロッキー4』のドラゴ的なものだと思ってください。そこに出てくる、マクシムという青年がいるんですけども。

これはロシアでは有名な極右活動家の人が演じていて、これ、獄中ですでにもう亡くなられている、というのがあったりするんですけどね。まあとにかく、今回のその『ナターシャ』に出てくるオーリャさんっていうね、あの若い女性であるとか、あと、本当に元KGBで尋問のプロだったアジッポさんっていうね……先ほどの(番組)オープニングでも言っていましたけども、このアジッポさん、のちにね、本作の撮影後にアムネスティの委員になったという、『アクト・オブ・キリング』なキャリアも歩みつつ、2017年に亡くなっているという。この2人とかも、『New Man』に出てくるので。これ、ぜひちょっとどういう風になっているのか、確認していただきたいんですけど。

■DAUプロジェクトのツカミとしても納得の1本目『ナターシャ』

ということで最後、ちょっと駆け足になりますが、残りの時間で本作、一作目の『DAU.ナターシャ』はどうなのか?ってことなんですけど。さっき言ったような特殊極まりない撮影セッティングもあって、通常の劇映画に比べると、やっぱりかなりとりとめもない、しかしそれゆえに現実そのものを覗き見ているようでもある会話シーンが、大半を占めるわけです。非常にミニマルな会話劇なんですね。あまりにもとりとめもないので、正直これを退屈と感じる人がいっぱいいても、おかしくないとは思います。

ただしですね、そこから浮かび上がるものもやっぱりちゃんとあってですね。たとえば、主人公ナターシャと、その彼女の若い後輩であるウエイトレス・オーリャの、お互いに牽制しあい、時に激しく罵り合いながらも、同時に気の置けない会話が交わせる同性の友人として、なんかこう特別な親しみもやはり感じてもいる、というような、複雑にしてやはりリアルな人間関係の機微っていうのが、だんだんそこから浮かび上がってくる。あの「床拭け!」「帰る!」「床拭け!」「帰る!」のあのバトルとか(笑)、笑っちゃうんだけど。

あとですね、またこれは現実の、さっき言った物理学者、世界的な物理学者ですね、レフ・ランダウが実際にそうだったように……その、複数の女性と同時に関係を持つ、いわゆる自由恋愛主義者であることを、持論として公言してたんですね、レフ・ランダウが。それと関連して、この『DAU』シリーズは、非常に生々しい、あるいは奔放な性のあり方……でもその当時のソ連の社会規範からすると、それは抑圧されてしまうような性のあり方っていうのが、常にひとつ、メインテーマとして置かれている。つまり、社会体制と、性という個人(の領域)、というのが、常に対比として置かれるようになっている。

本作においてそれはですね、まずやはりその、フランス人の科学者リュックと、その主人公ナターシャの、酒の勢いも多分に借りた、非常に赤裸々そのものな、セックスシーン……ほとんどAV的と言ってもいいぐらい、えげつないセックスシーン(として現れる)。そしてその、性という最もプライベートで、センシティブな領域がですね……たとえばね、僕はなかなかこれは痛ましいなと思ったのは、その翌日かな?の食堂で、文字通り完全に何事もなかったかのように、そのリュックというフランス人の博士と、やっぱり「客と従業員」の関係になったまま、通り過ぎていってしまう1日。

で、ナターシャが絶望して廊下で泣いている、っていうこの残酷な……で、そういう日に限ってまたナターシャは、その男たちの、ルッキズムであるとか、エイジズム的な視線にさらされたりとかする、という。非常に現実にもありうる、残酷な視点もあったり。性と社会っていうことに関してね。そしてもちろん、その第三幕目。多くの観客にすさまじいショックとストレスを与えるであろう、尋問シーンでの……人間の尊厳を踏みにじる、というね、この場面。その「性」というファクターが、反転して繋がっていくわけですね、性的暴行のシーンに。

ただし本作の主人公ナターシャを演じるナターリヤ・ベレジナヤさん。演技のプロではない、普通の社会人にしてお母さんでもあるそうなんですが。これ、パンフレットで柳下毅一郎さんも書いているように、素人とは思えないレベルの、しかしプロではできない領域の、驚くべき演技を現出させている。で、このためにこそ、まずはあの巨大な演出装置が必要だったし、実際に有効だったじゃないか、っていう風にも言えると思うし。実際にですね、散々な目にあって帰途につく、彼女のその背後に、ぼんやりと広がっている光景、空間、世界こそ、実は彼女の苦悩の源なのだ、という。

つまり、いろんな目にあってきた、そこまでは小さい話なんだけど、彼女の後ろにあるもの……後ろには警官と犬がいて、巨大な空間が広がっている。彼女の人生を押しつぶしている本当の本質はこれ(巨大で抑圧的な社会体制)なんだ、というのを、背景として見せる……というのが、最後の方のショットで、ちゃんと出てきたりするわけです。そういう作りなわけです。スペクタクルではなく、「……という背景」として出す、という。それと同時にですね、これは……その中で、いろんなひどい目にあうんですね。嫌な目にもあうこの彼女、主人公ナターシャが、しかしどれほど極限的な、屈辱的な状況であっても、自らの尊厳を守るべく、常に胸を張ろうとはしている。

で、時折、やっぱりでも心が折れかけてしまう瞬間、その切実さも込みで、彼女がそれでも、その自らの尊厳を守ろうとする……たとえば、「ええっ? 俺と仲良くするか?」「仲良くできませんよ、こんな状況じゃ……」ってちゃんと言う、みたいなのとかね。常になにか胸を張ろうとしてる、という姿が、1人の女性の立っている姿として、感動的でもある。

そんな感じで、個人と、社会のその支配システム。人としての尊厳と、統治の論理。あるいはセックスと暴力、などなどですね。対立するさまざまな世界のその断層を、生きた人生ごと、丸ごと出して見せる、というその構造。実はやはりこの『ナターシャ』が……僕、いろいろと7つ、見てみた中では、やっぱりこの一作目の『ナターシャ』が、実は一番わかりやすく構造として示しているし。ショッキングさというツカミも含めて、やっぱりこれ、第一弾なのも納得だな、というような一作目でございました。

■現在の日本社会も無縁ではない、見ておくべき一本

決してストレートに「面白い」作品というような言い方はできませんけど。まずはこの、映画史に残る異常なプロジェクトの一端を目撃する、という意味でもそうですし、もちろん現在の我々の社会とも無縁ではない……たとえばそうですね、日本で言えばかつての特高警察がそうであったりとか、あるいは警察の苛烈な取り調べが問題にもなりました。あるいは今の、日本の入管での非人道的な扱いも同じようなものかもしれない。

全く無縁ではない、その権力の暴力的な構造というものに向き合う意味でもですね、これはやはりちょっと、見ておかなきゃいけない1本なのは間違いないんじゃないでしょうか。ぜひぜひ映画館でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『野球少女』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『野球少女』を語る!【映画評書き起こし 2021.3.12放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『野球少女』(2021年3月5日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、3月5日から劇場公開されているこの作品、『野球少女』

(曲が流れる)

韓国ドラマ『梨泰院クラス』で大ブレイクしたイ・ジュヨンが、実在の選手をモデルに、プロ野球選手を目指す女子高校生を演じた青春映画。天才野球少女と呼ばれるチュ・スインは、母の反発を受けながらも高校卒業後、プロ野球選手になるべく練習に励んでいた。しかし、女性というだけで正当な評価をされず、プロテストすら受けられない。そんな中、新たなコーチと出会ったことで事態は変わっていく。監督を務めたのは本作が長編デビューとなるチェ・ユンテさんでございます。

ということで、この『野球少女』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「非常に多い」。皆さん、ありがとうございます。なんですが、賛否の比率は、6割以上が褒める意見ではありつつ、否定的な意見もそれなりに目立つ結果となっております。

主な褒める意見としては、「圧倒的に女性が不利な野球界で、それでもプロを目指してひたむきに努力する主人公スインの姿に心を動かされた」「コーチや監督もいいが、なによりお母さんのエピソードに泣いた」。先ほどね、(金曜パートナー)山本匠晃さんともちらりとお話しましたが。「主演のイ・ジュヨンが素晴らしい」などがございました。一方、否定的な意見としては、「思いの外、地味で暗い話だった」「主人公や周りの人間たちの掘り下げが浅い」「野球のシーンにリアリティがなく、話に入り込めなかった」などがございました。

■「150キロのストレートでこちらの心に届く映画でした」byリスナー

代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「ありばる」さん。今日はどちらも女性のをご紹介しようと思いますけども。ありばるさん。「想像していたスポ根物やスター誕生物ではない、150キロのストレートでこちらの心に届く映画でした。序盤でなぜスインがここまで野球に打ち込むのか、こだわるのかが理解できず、話の後半で明かされるんだろうなと思いながら見ていました。が、チームメートのジョンホ(幼馴染)が『リトルリーグから野球を続けているのはスインと俺だけだ』と言った時に分かりました。好きなことを続けるのに理由なんてないのだと。好きの熱量がどれだけ多いか。その熱量でどこまでやり続けられるか。天才とは、その熱量が並外れて多い人のことだとスインを見ていて分かりました。

トライアウトの会場で最初は『女かよ』とスインを小馬鹿にしていた男子たちが彼女の投球を見て顔色が変わり、彼女が野球少女ではなく、自分たちと同じ野球選手なのだと気づいてエールを送るシーンが好きです。性別とか人種とか、そんなものは関係ない。好きなことだけを極めてきて、その上を目指していく人たちの一体感。チームで戦うとはこんな風に相手をリスペクトできる、長所をいくつも集めて最強の集団を作ること。

個人が自分の短所を補おうとするのではなく、1人ずつの長所を見極め、そこを磨いていく。これはスポーツだけではなく、自分が何かをやる時にも参考になる考え方だと感じました。周囲の男子に疎まれながら孤独に野球を続けるスイン。イケメンのコーチやチームメートを出しても安易に恋愛に持っていかない。ストイックに野球愛を追求し、彼らも彼女が『ガラスの天井』を突き破るのを応援する。スインは周囲の偏見を覆していく影響力のあるキャラクターでありながら、女性同士の連帯のエピソードも随所に盛り込まれている。この作品を作ったのが男性監督で長編デビュー作という点に、韓国映画の豊かさを感じます」というありばるさんのメールでした。

一方、ちょっと否定的な意見で、こちらも女性の方なんですけども。ラジオネーム「4インチのオレンジ」さん。「女性がプロ野球選手を目指すというストーリーを聞いた瞬間、『これは見なくては』と思いました。というのも私は小学生の頃、少年野球チームに入り、男子に混じって野球をしていたのです。評判もいいということで期待していましたが、感想は正直『うーん……』といった感じでした」と。で、共感するシーンもあったりするとおっしゃっていて。その劇中でスインが周囲の人から受ける……要するに、「女の子なのに野球をやってるなんてすごいね」という褒め方が、自分的にはすごく違和感がある。好きで野球をやっているだけなのに、上手くもないのに女の子だから褒める、っていうところにすごく違和感があった、という。

それでだんだん、野球の話題をすること自体が苦手になってきちゃった、というようなお話をしていただきつつ。「……このように共感するポイントはあるので、感情移入して見れるはずなのですが、序盤から気になるポイントが多く、あまり映画には入り込めませでした。まずはスインの動きです。天才野球少女と呼ばれるスインの投球フォームと走り込みで見せるランニングフォームがプロ選手を目指してる人のそれには全く見えないのです。主演のイ・ジュヨンは40日間の特訓をして撮影に臨んだとのことで、あまり否定的なことは言いたくないのですが、ぎこちなさが気になって映画に入り込めず」とかね。

その後の野球部とかの描写も、やっぱり野球をやってた側からすると違和感がある、という。これはだから、こういう「精度あるある」と言いましょうかね、「これ自体、特集になるね」と言ってるような……あるものに詳しいと、それの部分の描写が甘いだけで、やっぱりちょっと(作品全体に)入り込めなくなる、という。これは他の、僕自身も自分が詳しいジャンルでやっぱりあったりすることなので、「ああ、そうか」という感じがします。僕は気づかなかった部分ですが、4インチのオレンジさんの指摘でなるほど、と思いました。

「なによりも気になるのは、高校野球部員たちのスインに対する態度。野球部内でのスインの立ち位置です。プロ入りを果たした幼なじみの他にスインと野球部員がコミュニケーションを取っているシーンが見られず、距離感が掴めませんでした」と。これもご自身の経験と照らし合わせて、ご自身はやっぱり少年野球チームに所属していた時、最初のうちはかなりいじめられたという。やっぱり女の子であるからという理由で、かなり陰湿な扱いを受けたんだけども、だんだんと、自分が頑張ってる姿を見てか、周りが大人になったのかは分かりませんが、6年生になり、そのチームを卒団する頃には、チームメイトのいじめはなくなっていた、というような自身の経験を踏まえて、その関係性が見えなかった点というのを、マイナスとして書いていただいております。

「映画の出来としてはあまり肯定的になれないのですが、彼女を見ているとその強さを尊敬すると同時に、『当時の自分はもっと頑張れたんじゃないか』という悔しさが込み上げてきて、エンドロールでは涙が出てきました。他にも思うところはありますが、鑑賞して間もなく、まだうまくまとまっていません。これから当時を振り返りつつ、気持ちを整理したいと思います」というような。だからある意味、主人公のその歩みというのに自分を重ねて、ちょっと自分を悔しく思うところもあった、というような。なかなか切実なご意見だったと思います。ありがとうございます。

■「こんな小さな話がクライマックスの映画ってないよね」

ということで『野球少女』。私もTOHOシネマズ日比谷で2回、見てまいりました。『シン・エヴァンゲリオン』で賑わう中でもなかなか、そこそこ入っていたんじゃないかなと思います。小さめのスクリーンではありましたけどね。ということで、この番組内ではすでに、ちょいちょい話題に早くから出していて、期待が高まっていた一作なんですね。実際、本当に僕は素晴らしい作品だと思いますので、これから絶賛しますけども、ひとつ先に言っておきたいのは、少なくとも僕は、事前に勝手に予想していたような、「痛快スポ根エンターテイメント!」的な映画では、実は全くなくて。むしろ全体としてはかなり地味め、と言っていいような、月曜パートナーの熊崎風斗さんともこの表現を使いましたが、非常に地に足のついた作りが特徴的な一作で。

なんなら、語り口は割とスローモーというか、決してポンポンポンポン、テンポよく進んでいく感じじゃない。むしろ、三歩進んで二歩下がる、が繰り返される的な、人によってはもどかしささえも感じるかもしれないようなペースだし。全体にですね、はっきりとスカッとしたカタルシスがあるような見せ場もそんなに多くない上に、クライマックスでさえ、起こっていること自体はこれ、野球映画史上、スポーツ映画史上でも、最もミニマムというか、「こんな小さな話がクライマックスの映画ってないよね」っていうぐらいだったりする。そんな部類だったりする。

しかし、そうした極めて抑制の効いた語り口、構成こそが、この『野球少女』という映画の僕はすごいところ、素晴らしいところだ、という風に思っていてですね。まあ結果として、それが……要するに全体としては、非常に抑制していることが最終的に大きな感動を呼ぶという、エンターテイメントとしてのその機能というのももちろんそうだし、物語のテーマ、本作が最終的に世に問おうとしているメッセージとも、実はこの語り口が見事に一致していて。それはやはり、これが長編デビューとなる脚本・監督のチェ・ユンテさんの、優れた手腕の賜物だと思います。

たとえば、決してテンポよくことが進まない話運びとも言える、というのがこれは全て、作為的な意図、周到な意図のうちだった、ということに、エンドクレジットを見るぐらいでようやく改めて気づく、みたいな感じで。まあ、「ペーシング」っていう言葉がありますけども、その語っていくペース、ペーシングが、実は非常に見事というか、そんな感じだと思います。さっきも言ったように脚本・監督のチェ・ユンテさん。これが長編デビュー作で。

■肩身の狭いお父さんは、監督デビューするまでの監督自身の姿?

これ、プロフィールの記述からすると、2016年、韓国映画アカデミーを卒業、その年に短編を撮られているので、おそらくはこれ、卒業制作的な作品でもあるのかな? 『Knocking on the Door of Your Heart』という28分ほどの短編を作っていて。これが一応、この『野球少女』の前の作品ってことになっていて。で、これは全部YouTubeで見られるので、ぜひ皆さんも見ていただきたいですけど。

割とはっきり今回の『野球少女』に連なるタッチの、青春物で。特に小道具とか、あと間接的な言葉の表現というのを、要所で的確に機能させることで、言ってみれば人間の「伝え下手」な部分というか、言葉ではうまく伝えられないでいる部分の機微をこそ、浮き彫りにして、キャラクターやストーリーに落とし込んでいく、みたいなところ。そういう今回の『野球少女』でも非常に全開になっているチェ・ユンテ監督の資質が、既にこれ、発露しているな、という風にこの2016年の短編『Knocking on the Door of Your Heart』を見て、僕は思ったりしたんですけれども。

まあ、そこからね、長編商業映画デビューまで、なかなか時間がかかって……ということで。今回のその話も実は、監督個人の思いも重ねられてる、っていうことなんで。そう思って見ると、主人公のスインの苦労もそうなんだけど、ご家族の中で、日本で言えば宅建なんですかね、資格を取るために、ちょっと家族の中では肩身が狭い、その甲斐性なしみたいなことになっちゃっている、あのお父さんの立場も、実はこれ、チェ・ユンテ監督の、監督としてデビューするまでの数年間で味わった感じだったりするのかな、なんてね。勝手に推測したりしましたけどね。

で、とにかくたぶん、おそらくはそのドラマシリーズ『梨泰院クラス』でもう本当に大ブレイク……おいしい役でしたからね。イ・ジュヨンさん、というね。これ、岡本敦史さんの記事で僕ははじめて知りましたけども。元々は韓国インディーズ映画界ですごく注目されてきた方で。それで『梨泰院クラス』で、メジャーシーンで大ブレイク。で、おそらく彼女の主演が決まったことでこの企画そのものが形になっていったのであろう、という風には想像されるんですけど。

実際にね、そのイ・ジュヨンさんの、ちょっとジェンダーレスな存在感というかね、独特の魅力っていうのがあってこそ、ですからね。あと、もちろんそのスタントなしでね、訓練して、その「プロを目指す投手」というのを演じてみせたというその役者根性……ただ、これのね、先ほどのメールにもあった通り、野球選手の動きとしてのクオリティーの部分っていうものに関して、私はちょっと分かってなくて。そこで引っかかる人がいるって聞くと、「ああ、そうなのかな」とちょっと思ってしまいますが。はい。でもとにかく、彼女があってこそ、の作品なのは間違いないということですね。

■システムに組み込まれ、我々の中に内面化されてしまった「不公平」を「野球」をメタファーにして暴く

ではこの『野球少女』、実際どんな映画なのかというと……まず最初に字幕で、要は韓国のプロ野球界、かつては医学的に男性に限る、というような文言が決まりとして明記されていたんだけど、それが今は撤廃されてますよ、っていう字幕が出るわけです。これはたぶん、たしか日本でも、ほぼほぼ同じような感じですね。かつてはその文言があったけど、今はない。でも、これってつまり、こういうことだと思うんですよね。制度上は、性別による障壁はなくなっています……なんだけども、では実際にそれまで男性が支配的だった領域に女性が行こうとすると、そこにはやっぱり、見えない壁が、いわゆるまさに「ガラスの天井」が待ち構えている、という。要は社会全体の状況の話の、メタファーとも取れる、っていうかね。

今回のこの話全体が、そういうメタファーとも取れる。社会全体の女性進出……「いや、差別はもう撤廃されてます」って言うけども、実際は、進出するにあたってはいろんな壁とか、後ほども言いますけども、実はシステムに組み込まれている不公平があったりする、みたいなことの、ひとつこれは野球を舞台にしたメタファー、という風な読み方もできるかなと思うんですよね。

特にこの『野球少女』の場合ですね、さっき言ったように、基本、ものすごく現実に即したというか、本当に荒唐無稽なことは全くない話の作りなので。その主人公のスインが、女性として唯一、野球部に在籍しています、という。これ、パンフに載っている室井昌也さんという方の、韓国野球事情に関する解説によればですね、これは僕は初めて知ったんだけども、韓国では、高校の運動部で部活動をしているような人は、基本その道のプロを目指してる人だけ、なんだそうです。

なので、そんな中で、結局その主人スインは、プロ野球球団から指名されなかった。ただ、この「指名をされない」ということは、彼女が女性だから云々という以前に、まあ速球を投げられるかどうかという、そのプロとして要求される能力を満たしていない、という、現実のその限界の問題があったりするわけですよね。

で、一方ではですね、その指名されたスインの幼馴染……これを演じるクァク・ドンヨンさんという方の、なんかキョトンとした虚無的なイケメン、みたいな、あれがすごく役の佇まいにハマっていて、すごくよかったと思いますが。まあ、そっちは指名されて……ということで。ならばということで球団のトライアウト、いわゆるテストですよね、実技テスト、志願してやるやつをやろうとするんだけど、これはもうはっきり性差別的な視線で、「女性だから」という偏見ゆえに、事実上、門前払いされてしまう。

つまり、ここはその2つ、女性を阻むものっていうものが、2段階、あるわけですよね。そのトライアウトの門前払いするような、あいつみたいな、まあ分かりやすい性差別のせいで行く手を阻まれる、という、そういう分かりやすい善悪の構造、だけではなく。もちろん、それも厳然としてある、ということも描かれてますけど、それと同時にですね、もう一層あって。そもそも腕力とか、男性が得意とする、とされている条件……まあ、僕はそれも、全体としては本当は怪しいものだな、という風に個人的に思ってます。

たとえばその筋力云々なんて、俺よりも筋力がある女性はいっぱいいるわけで、とか、その男性の平均よりはるかに筋力がついている女性っていうのも現実にいるようになっているから、そこすらも僕は怪しいと思うけども。まあ、そこのみが……要するに、男性が有利とされる条件のみが、「能力」としてカウントされている。でも、それは本当は、後に明らかになるように、その「能力」のあり方っていうのは、本当はさまざまだし、たとえば野球は、その多様性というのを実は許容し得る競技であるもののはずなのに、現状はとにかく、そもそも資質的に不利な条件で戦わなければいけない。

その、男性が得意とされている領域のみが条件として提示されているところで、戦わなきゃいけない。本当はそうじゃないかもしれないのに……という。つまり、社会全体がだから、制度として文言上は「障壁はないですよ」って言っているけど、でもそこの選別の中にある種、性差別的なシステムが実はやっぱり入り込んでるし、なんなら主人公自身も、「どうせ剛速球には勝てないよ」なんて弱音を珍しく言うぐらい、そこを内面化してしまっている、思い込んでしまっている、という話ですよね。

つまり、こちら側もある程度、制度を内面化してしまっているからこそ、見えづらいし、突破しづらい、そのさっきから言っている社会における「ガラスの天井」というのが、ここでは野球というものをひとつの媒介として、観客には次第に可視化されていくわけですよね。「ああ、これはそもそもちょっと、条件になにか不公平が仕込んであるじゃないか」みたいのが見えてくるわけです。だから、たとえばその、選手としての自分の挫折を投影するかのように……つまり、無意識的にせよ自己正当化のために、当初はそのスインの挑戦というものに否定的な、イ・ジュニョクさん。これ、本当に見事に演じられていましたそのコーチとか。

あるいは、やはり家族を支えるために必死だからこそ、「自分の人生を諦めたのよ」っていう思いも実は抱いてるあのお母さん。これを演じるヨム・ヘランさんの、本当に鬼気迫る演技もあって非常に……その鬼気迫る演技があってバランスが取れているけど、個人的には、もうちょい彼女自身の自己実現みたいなものも物語上にちょっと用意してあげておいてよ、っていう気はするけども。なんにせよこの、お母さんの立場という部分に関しては、『はちどり』世代とそんなに変わっていない感じがちょっと、またひとつの現実かな、という感じもしましたけどね。

■テーマ的に本作に一番近い作品は、クリント・イーストウッドの『インビクタス/負けざる者たち』!

まあとにかく、そのお母さんも含め……お母さんも要するに、そういう自分の忸怩たる思いというものがあるから、主人公の自己実現っていうところに対して、どうしても肯定的な言葉をかけてあげられない、という。ともあれそういうような、それぞれに夢というものに対するちょっと忸怩たる思いを抱えた人たちが、その制度というものを内面化して……「どうせダメなんだ」を内面化してしまっているわけです、最初は登場人物たちほぼ全員が。

なんだけど、主人公のスインだけは、さっき言ったように「速球じゃなきゃダメだ」とか、その手段に対するある種の思い込み、限界イメージみたいなものの内面化、みたいなものはあるんだけども、目的に関して……つまり、「自分はプロ野球選手になれるはずだし、その方法もあるはずだ」というこの確信だけは、一貫して揺るがない。ここがこの『野球少女』、すごく芯に当たるところで。

つまり、こういうことだと思います。要は、ある1人の人物の、それだけは揺るがない信念とか理想とか、あるいは情熱といったものが、周囲の人たちに「波及」し、「伝播」していく。で、それはやがて、要するに元々みんなが内面化してしまっていたからこそ動かしようがないと思い込んでいただけの現実そのものを……その情熱の波及・伝播によって、現実そのものが、本当に変わっていく、それを変えていく、というような。1人の人間の情熱から始まったものが、変えていく。

つまり、その意味においてこの『野球少女』は……こういう風に要約できる話だと思うんだけど。要は、試合とかの勝ち負けの話ではないわけですね。これ、その意味では僕、一番テーマとして近い作品は、クリント・イーストウッドの『インビクタス/負けざる者たち』じゃん!って思ったんですよね。これは実は『インビクタス』に一番近いような話だし、作りもそれに近い話だという風に思います。さっき言ったように、人によってはもどかしささえ感じるかもしれないようなスローな語り口、決してポンポンと調子よくは行かない本作のテンポ感も、これはまずひとつ、現実のその女性の社会進出というものがそんなに調子よく行くものじゃないから、という、その現実の反映であり。

そして、現実を変えていく力というのは、『インビクタス』において「ラグビーの非直線的な構造」というものが(作品全体の語り口としても)打ち出されていたのと同じく、ある人の理念や情熱が周囲に伝播し、やがて現実をちょっとだけ変える、というこの物語のテーマを、この語り口がそのまま体現している、という。いったん横に行ってから前に進む、みたいなところもあるかな、というかね。ということで、まず最初にそのスインの情熱に感化されてしまうのは、さっき言ったそのコーチなわけですね。

しかも、これもいいのは、従来のスポ根にありがちなコーチ・選手の、主従関係ではなくて。たとえば「俺はプロになれなかった人間だぞ? それなのにコーチでいいのか?」っていうこの質問に対する、主人公スインの、しびれるほどにかっこいい返答! とかね。こういうあたりでも、全然旧来の主従関係ではない、むしろコーチ側が感化され、引っ張り上げられる役でもある。でもって、彼側からする指導もですね、さっき言ったようなその速球勝負、腕力勝負というような、言わばそもそも男性に有利にできている、男性中心的な条件に乗っかるのではなくて、スインが元々持っている資質を生かした……つまり、長所を伸ばして戦えばいいんだ、ということを言うわけですよね。

ということで、僕は……たとえば僕自身も、日本語ラップに臨む時であるとか、受験に臨んだ時とかの考え方にも近くて。これ、非常に普遍的に役立つ考え方だとも思うし。で、実際にそうやって多様な勝負の仕方がある世界の方が、どう考えたって豊かだし、楽しいじゃん!っていう風にも思えるわけですよね、これはね。野球だって、だからその速球勝負、力が強い方が勝つ、っていうよりも、そっちの方がよくない?って感じもするわけです。で、まあその間にね、一応しっかり『ロッキー』オマージュなトレーニングモンタージュとかもあったりするんだけど。

■タメにタメたラストの一球勝負だけはドラマチック! このために本作のスローな語り口はあった

さっき言ったように、とにかく語り口に抑制が効いていてですね、必殺のナックルボール!というのを身に付けた後も、たとえばその中盤の練習試合くらいまではまだ、その「勝った!」みたいなのとかは、見せないわけです。完全なカタルシスまでは味わせてくれない。引っ張って、引っ張って……そのクライマックスの、プロ球団のトライアウトをようやく受けることになった、というそのシークエンスまでは。

で、しかもこのトライアウトシーンも、とにかく「タメ」がすごいわけです。引っ張って、引っ張って……まず、スインとちょっと近い立場の、そのアメリカのアマチュアリーグにいたという設定の、女性の選手。この彼女のたたずまいがもう、完全に本物にしか見えないんだけども。その女性の選手を、先にその勝負の場に立たせて。で、ベンチは要するに男性選手が多いから……無自覚で、悪気なくではあるんだろうけども、やっぱり女性に対して冷ややかなベンチのそのムードの中で、その2人の間に、もの言わぬ連帯感を、まずそこはかとなく漂わせる。最初は本当に目線だけとか、ちょっとした表情だけで、その連帯というのを漂わせておいて……からの、ついにそのスインが、マウンドに立って。

すぐにはナックルボールで勝負に行かず、他の選手に、一旦はナメくさらせてから……いったんナメさせて、観客にも「おい違うんだよ、実力は違うんだよ!」ってやきもきさせて、さんざん高めておいてからの、さっき言った情熱の波及と伝播、それが少しずつ少しずつ、周囲の人々、さっき言った女性の選手から、だんだんとその冷ややかだったベンチのムードに、だんだんとその熱が広がっていく、という。この広がっていくプロセスの、これはささやかだけど、なんと貴く美しい光景であるか。

そしてそれを、お母さんも目の当たりにして、熱が伝播する……という、二重、三重の波及効果が描かれていく。極端なことを言えば僕はここに、「スポーツを見る」ということの意義の真髄が、このシーンに現われている、とさえ思った。ともあれ、その球団監督の指示で、なんとその現役のプロ野球選手、打者と勝負することになってしまったスイン。で、ここでまたさらに、チェ・ユンテ監督、まだまだ段階を踏んで、タメて、タメて……いったんミットを変えるとか、もうタメてタメて、からのラスト、1球勝負。ここでですね、満を持して……これまで抑制に抑制を重ねてきたこの映画、ドラマティックな演出、みたいなことをあえてしてこなかったこの映画が、この1球だけは、ドラマチック!っていう演出を、ポーンと全集中してみせるという。この鮮やかな緩急のつけ方、ってことですよね。

そしてまあ、その勝負が……文字通り「斜め上」をゆく勝負の決着の行方、とか、本当にお見事だと思います。このためにこそ、本作全体の、抑えた、スローな語り口というのはあったんだ、ということがね、ここに至ってわかるわけですね。しかも、さらにその後もですね、もう一段階、ひねりの効いた展開が用意されている。これはサービス的にも、そしてテーマ的にも、本当に見事なものですし。なにより、スインの理想、情熱の波及が、たしかにこの、ある具体的な結果を出したんだ、という。つまり、「あなたにも世の中を変えることはできますよ」というメッセージを、最後に発している。これはですね、女性はもちろんのこと、全ての「あなたには無理」と思い込まされている、思い込んでいる、全ての抑圧された人に、巨大な希望を与える結末であり。

でも、それはもちろん、楽な道じゃないんですよ。なんだけど……ということを示すことで、見事な着地になってるんじゃないでしょうか。ちょっとその、野球描写のクオリティー云々というところは残念な部分があったとしても、その監督の語り口の見事さ、そしてそのメッセージの出口の射程の長さ、という意味で、僕は本当に素晴らしい作品だと思います。心底感動いたしました。ぜひぜひ『野球少女』、劇場でウォッチしてください。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『あのこは貴族』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。


宇多丸、『あの子は貴族』を語る!【映画評書き起こし 2021.3.19放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『あのこは貴族』(2021年2月26日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、2月26日から劇場公開されているこの作品、『あのこは貴族』

(曲が流れる)

これ、あれですね。渡邊琢磨さんっていう方による音楽。これが全体をね、オープニングから最後に至るまで、1本、筋を通していて。これも素晴らしかったですよね。

山内マリコの同名小説を映画化。東京生まれの箱入り娘・華子と、富山から上京してきた美紀。同じ都会に暮らしながら、全く違う生き方をしてきた2人が、それぞれの人生を切り開こうとする姿を描く、ということです。

主な出演は、華子役の門脇麦、美紀役の水原希子。その他、高良健吾、石橋静河、山下リオ、高橋ひとみなどが脇を固める。監督は、本作が長編2本目となる岨手由貴子さん、ということでございます。

ということで、この『あのこは貴族』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「とても多い」。ありがとうございます。賛否の比率は、7割以上が褒める意見。熱量の高い絶賛メール、また女性からの感想も多かったです。

主な褒める意見としては、「今年ベスト。いや、人生ベスト。ついに日本からも女性たちの連帯を謳うシスターフッド映画が現れた」とか、「誰かを一方的に断罪するのではなく、それぞれの不自由さを認めた上で、そこからの解放を描く優しいまなざしに感動」などがございました。一方、否定的な意見としては、「お金持ちの描写がややステレオタイプでは?」とか、「田舎に住んでいる自分から見ると、主人公たちの行動や境遇も全て他人事に見えてしまう」などがございました。

■「私はこういう映画を見たかったんだ」byリスナー

というところで、代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「りんりんりんご」さん。女性の方。「私はこういう映画を見たかったんだと強く感じる傑作でした。すごく正直なことを言うと、昨今の女性を中心に据えた映画をすごくそれぞれが素晴らしいことと思いつつも、『また女性の物語が商品化されていくのかな?』と頭のどこかで思っていました。でも今作は他の作品と同じようなメッセージを抱えつつも、女も男も、そのどちらも非難するわけではなく、でも簡単に許したり、感情的にドラマティックにもしない。この距離感が素晴らしいと思いました。

あとは、田舎育ちの私としては、田舎の小さいコミュニティーも富裕層のコミュニティーも保守的で同じようなことをしているというのがとても腑に落ちるところでした。私は今、33歳で高校生まで地元にいたのですが、映画序盤の華子の親族の会食シーンでの会話が盆正月の親戚一同でも食事の時にも聞いたことがあるような内容だったからです。誰がどんな仕事をしている。誰と結婚して、誰が離婚して……話の中に出てくる仕事の階層は違えども、大人たちの会話を聞きながら『私もこの大人の中に入るの? 絶対に出ていってやる』と思っていました。好きなシーンは言い尽くせません。

ひとつひとつのセリフや目配せが雄弁にその役の人柄やその場での立ち位置を表わしていて、本当に俳優さんってすごいと思いました。東京タワーやパーティーでのマカロンのタワーなどを使って、階層やその人の立ち位置を表わしているところも好きだし、最後には華子は下でも上でもないところに自分で選んで佇んでいます」。たしかに! 階段のね、中盤のあたりに佇んでいる、というかね。「これから原作を読んで、少しずつ味わっていきたい作品でした」。ああ、だとすると原作との、このなかなかの差異もね、面白いあたりだと思いますよ。

で、ですね、いろんな……たとえばですね、「オルフェの遺言」さんはもう、ご自身の生涯と重ね合わせて。「もうこれは完全に俺の話だ!」なんていう感じになったっていう。この方も、「岨手監督の演出は悪役として描きやすい、そしてあえて弁護することで作り手の公平性をアピールしやすい彼ら貴族に対してすら、適度に距離感を保ち、それでいて優しい目線を投げかけています」なんてことを書かれています。この方は要するに、かつてそういう慶応幼稚舎出身の貴族側のお友達に親しくしてもらった時、「金持ちなんだから嫌なやつだろう」と思ったら、とてもいい人たちで(笑)、それに対していろいろと思っていた思いというのが、この作品を見て解かれた、なんてことを書いていただいております。

一方、ちょっと否定的なご意見ご紹介しましょう。「ブーブータンソク」さん。こちらも女性です。「とても丁寧に作られた、とてもいい映画だと思います。何度も彼女たちの関係に救われ、明るい気持ちにもなりました。しかし、どうも喉に小骨が刺さったようなままなのです。それは、私が東京に住んだことがないからでしょうか。あの映画の中で私は地方の同窓会に参加している1人です。美紀が馴染めなかった世界で、私は地元を出ることもできずに過ごしています。

美紀と華子が出会えたこと。それはとてもよかったのだと思うけども、2人が目を背けた人が私で、同じようにアフタヌーンティーをする人たち。華子にコンパを用意してくれる人。そこにくる男性。たしかに合わないかもしれない。合わないかもしれないけど、決して悪い人たちじゃなく、彼女たちが1歩、前に進む手段として『閉ざす』という作業しているようにも見えるのです」。合わない人たちを「閉ざす」ことで前に進んでいるんじゃないか、という。

「合わないと思っていた人の一面を見て、理解しあえなくても尊重し、それぞれの道を行く『ブックスマート』のような距離を詰めてこそ見える何かを拒否しているように思えました」。まあ、『ブックスマート』はちょっと、一種ファンタジーみたいなところもあるからね。ちょっと比べるのもあれかもしれないが、わかります。「わざわざそんなことはしなくても、共鳴しあえる誰かに会って前に進んでいける。東京はその可能性がある場所なんだなと思うのと同時に、人の数も町も文化も半分、そのさらに半分の半分しかないところで生きていると、2人の関係をどこか冷めた目で見てしまいました。あと本命と浮気相手を引き合わす女友達って、よくいる! 石橋静さんが演じているのでまだなんとか見ていられますが、『合うと思って』じゃないよ!みたいな。この話は長くなるので割愛します」というようなメールでございます。

あとね、これもちょっと割愛しながらご紹介させていただきますが。ラジオネーム「ふわふわタイム」さんは、ご自身が結構、政治家家系、それもかなり大物政治家をいっぱい輩出しているような、まさに劇中で高良健吾さんが演じていらっしゃる方のご家系に近いような事情なんだけども。劇中で描かれているような、すごく保守的でガチガチで……みたいな家風は、少なくとも自分の家は違うし、周りもそんな前時代的なのはさすがにちょっとなかったけどな、という。だから、その「政治家の家族」というのが、こうやってステレオタイプに描かれてしまうのかな、といあたりを、このふわふわタイムさんは残念に思われた、というようなことを、ご自身のあれに照らされて仰っている。

一方では、ラジオネーム「うまうま」さんは、「西日本で約200年続く商家の本家筋に男子として生まれ」……要するに、その人生がほとんど決められた状態で、というのはすごくわかる、という。こっちの方、うまうまさんは、劇中の描写が非常にリアルというか、わかります、というようなことを書いていただいております。ということで、端折りながらで申し訳ございません。皆さん、メールありがとうございました。

■「映画やドラマに出てこない文化」を描き、日本社会の成り立ちそのものが浮かび上がってくるような一作

私も『あのこは貴族』、ヒューマントラストシネマ有楽町で2回、見てまいりました。かなり人、入ってましたね。公開3週目にしてこれは、やっぱり評判が広がってるってことなんでしょうかね。

山内マリコさんの小説の映画化でございます。山内マリコさん、この番組でも若尾文子特集でお世話になりました。まあ山内さんの小説が映画化されるのは、これで3本目。最初が、2016年の『アズミ・ハルコは行方不明』。これ、「週刊文春エンタ!」の星取表でも扱わせていただきました。続いて2018年、『ここは退屈迎えに来て』という。これ、どちらもですね、作品としてのタッチはそれぞれ全然違うんだけど、やはり共通して、現代日本の地方に生きる、もしくは地方出身の、特に女の人たちの抱える鬱屈や抑圧、そしてその中で生じるゆるやかな連帯、まあシスターフッド的な連帯とささやかな輝き、といったような……当たり前だけど当然これらの映画も、山内マリコさん原作ならでは、の映画になっていたと思いますけど。

今回の『あのこは貴族』は、これはもちろん、2015年に小説すばるに連載されていて、翌年に単行本化されたこの原作からしてそうなんですけど、さっき言ったような山内マリコさん的なメインテーマ、地方に暮らす女性の話というのを、今度は東京側からも照射してみせるというような……つまり、「地方問題」とか、あるいはその「女性差別問題」というものがあるとしたら、それはそもそも、たとえば東京側の、中央集権問題、中央に集権しすぎ問題とか、当然、男性中心主義の方の問題っていう、要するに、その現に権力を手にしている、あるいはその過剰に、不当に利益を得ている側の問題であって。

ということで、この『あのこは貴族』はそういう、たとえば格差とか差別とかの構造に丸ごと、その構造全体にスポットを当てることで、現代日本社会の成り立ちそのものを……話そのものは個人の話なんだけど、社会全体の構図がちょっと浮かび上がってくるような、そういう、山内マリコさんの小説としてもちょっとネクストレベルに行ったような一作、という言い方をしてもいいかなと思うんですけども。で、特にやっぱりね、日本社会はというか、日本社会「も」というか。

とにかく格差社会というのが昨今、問題として見えやすくなってきてるのはたしかだけども、実のところは、もうずーっと本当は変わらず、日本は「階級社会」だったんですよ、実は……という事実を、まさにその上流階級側、もっと言えば、ごくごくひと握りの支配層側みたいなところに、しかし彼らからすればごくごく普通の世界でもある、ということとして描いてみせたあたりが、とても意義深いし。まして、それがきっちりと映像作品化されるっていうのは、なかなか本当に画期的なことじゃないか、という風に私は思います。

というのは、基本そういう本当の、代々の金持ち一族みたいなのは、たとえばメディアにヘラヘラ出てきたりしないんですよね。あんまり可視化されない、っていうところがあって。だからこそ、支配が続けられるのかもしれない。まあ劇中のセリフ。ほんのさりげなくだけども言っているそのセリフが……ちょっとオフ気味に、落ち気味の瞬間に言うセリフなんだけども、「映画やドラマに出てこない文化というのもあるのよ」って言いますよね。はい。まさにそれを描く作品、ということですよね。

■原作小説の構造やテーマを捉えつつ、生身の役者が起こすマジックや映像ならではの心理表現も達成

ともあれ、その原作小説の『あのこは貴族』。山内マリコさんご本人に直訴して映画化に踏み切って、その脚本・監督を手がけた、これが長編二作目となる岨手由貴子さん。自主制作映画界では2000年代半ばから活躍し評価されてきた方ということなんですけど、僕は本当に不勉強で申し訳ない、このタイミングでは、その2015年の長編デビュー作『グッド・ストライプス』という作品しか拝見できていなくて。これ、申し訳ないんですけども。

少なくとも、今回の『あのこは貴族』と並べてこの『グッド・ストライプス』を見ると、たとえば「住む世界が違う」者同士……経済的な格差だけじゃなくても、まあ「バイブス」でもいいですよ、その「ノリが違う者」同士でもいい、とにかく住む世界が違う者同士、パッとその場で会った瞬間に、あるいは一言二言、それ自体はなんてことのない軽い会話を交わしただけで、ものすごい、埋めがたい断絶がそこに横たわっていることが、直接的ではないのに、明らかにはっきり浮かび上がってきたりとか。

とにかくそういう、「それ自体はなんてことのない」「直接的ではない」日常的な描写から、なにか決定的な心理の動きだったり、その人の立ち位置だったり、キャラクター性だったり、なにか流れが変化する、っていうことを表現しきれる、という。そういう、岨手監督ならではのうまさ、みたいなものがですね、明確に、この2本を並べて見るだけでも見えてきたりしましたね。ということでこの、脚本・監督の岨手由貴子さん。山内マリコさんのその原作小説の、基本的な構造とか、もちろんそのテーマ的な展開や着地というのはしっかり忠実に映画に置き換えつつも、同時に全編に渡って、生身の、現実の役者、人間が演じているからこその化学反応、マジック、というのを生かしていたりとか。

あるいは、映像ならではの心理描写、あるいは比喩描写とか。あるいはその、実際の家屋……さっき、(金曜パートナー)山本(匠晃)さんともさんざん、話しましたけども。実際の家屋であるとか、身につけているものたち……持っている傘の種類とかも含めて、もしくはその階層の人たち、階級の人たちが本当に身にしみているであろうその所作、振る舞いであるとか、みたいなものが、もの言わずとも豊富にたたえている情報性。だからもう画面にそれが映るだけで、「はい、これはこういうこと」っていう風に、情報がいっぱい入っている。などなどですね、要は全部ひっくるめてやっぱり、「映画ならでは」の表現、アレンジっていうのをこれ、見事に成し遂げてると思います。岨手監督は。

たとえば冒頭、門脇麦さん演じるその華子という女性が、タクシーに乗っているわけです。家族との正月の会食に向かっているわけですね。これ、原作小説とも同じ始まり方なんだけど、この映画版ではですね、今言った「タクシーに乗っている華子」というのがですね、非常に象徴的に、繰り返し出てくる。

つまり、華子という人が歩んできた、受動的な、守られた、リッチであると同時に「閉じた」ライフサイクルというものを象徴する舞台として、タクシーっていうものが、要所要所に出てくる。たとえば、高良健吾さん演じるその幸一郎という、要はお見合い相手として大当たり!って思って、で、珍しく浮かれてというか、恋に落ちちゃったんでしょうね、その華子がタクシーに乗りかけた、帰りかけたところで、珍しく自らの意志で、「再会したい」という意思を伝え、快諾を得た、というところで、タクシーのドアがバタン!と閉まるわけですね。だから、あたかも彼女の人生は……すごく今、いい恋愛の始まりのはずなのに、なんか決定的に「閉じた」感じがする、みたいな見せ方をしていたりとか。

もちろん、終盤。この映画のある種のクライマックスと言っていいでしょう。その幸一郎との結婚を通して、まさしく人生丸ごと囚われてしまった状態、っていう華子。非常に絶望してるような状態の華子が、やっぱりタクシーの中から、街を傍観者のように見ていると、そこで見かけたその人は……そこから華子、タクシーの中にいる華子は、どう行動するか? やはりこのタクシーという装置を、極めて象徴的に機能させている名場面があったりするわけです。ということだったりとか。

「僕は、雨男なんだ」寂しそうに言う幸一郎から滲み出る、底知れない諦観と哀愁

あるいは同じく、映画オリジナルの要素で言うと、たとえば「雨」っていうのもありますよね。高良健吾さん演じる、実はその日本の支配層というものに属すると言っていいような上流階級の、跡取り青年、幸一郎という。これ、原作小説ではこのキャラクター、もちろん最終的な着地の本質というのはこの映画版とも同じ、近いところなんだけれども、もっとね、最初から取り付く島がちょっとない感じの、どこか冷たい、酷薄さを感じさせる人物として、割と終始描かれているんですね。原作小説では。

なんだけど、これはたぶん高良健吾さんのにじみ出る人柄、というのをむしろ生かした結果なんだと思うんだけど、なにひとつ欠けるところのない立場にいる男性であるはずなんだけど、幸一郎は、そこにはやっぱり、「自分で自分の人生を選ぶことがハナからできない存在」としての、ちょっと底知れない諦観とか、哀愁みたいなものが……そして、それゆえのチャーム、「ああ、なんかこの人、人間くさいかも」っていうチャームが、うっすら見え隠れする。

それを、「それ自体はなんてことのない」「直接的ではない」描写の中から、浮かび上がらせる。さっき言った岨手さんの得意技ですね。というのがまさに……「僕は、雨男なんだ」っていうことを、なんかちょっとそこだけ寂しそうに言う、っていう。で、この「雨」というのは繰り返し、出てくる。最初のお見合いのシーンも当然、雨。結婚式当日も、雨。そして、これはね、僕この映画のオリジナルのシーンですごい好きなシーンなんですけど、その幸一郎と水原希子さん演じるその時岡美紀さんという人が、2人だけの、おそらくは互いに気を使わずに心許せる唯一の、2人にとっては大切な場所だったのであろう、寂れた中華屋で。

特に、その中華屋が2回目に出てくるシーンで……雨水がポタポタと垂れる傘。外には降りしきる雨。そこで、たしかに何の生産性もなかったかもしれないけど、でも「何か」では(あったのであろう2人の関係性)……友情の・ようなものなのか、わかんない何か。そして、その2人の友情の・ようなものの果てにある、「最後の青春」のようなものの幕引きが、そこで行われる、という場面で。僕、特に2度目に見た時はやっぱり、その幸一郎というキャラクターのちょっと哀れさみたいなところを意識して見ていると、ちょっとここ、泣けてしょうがなかったですけどね。

ということでつまり、幸一郎、権力がある男が、一方的な搾取者としてどっちかというと描かれていた原作小説のこの鋭さとは、また違うもの……男性側もまた、その男らしさの継承というものにちょっと疲れてる、っていうか。まあ昨今のフェミニズム的なメッセージを含む作品にはわりと、「男もやっぱり幸せじゃない」みたいなことが描かれますけど。そこともちょっと共通する部分があるようなバランスになってるかな、と思います。

で、それを超えて、さらに言えば、それでもやっぱり「人と人」なんだから、ってことですね。そういう男性……その加害性を持っているけども、でも人だから、っていう。そういうたしかな人肌、生身の体温のようなもの、それがこの映画版の『あのこは貴族』の、大きな魅力になっていてですね。たとえばこれ、パンフに書かれている門脇麦さんのインタビューで、これは監督の現場での指示だったっていう風に明かされてますけど。

あのね、石橋静河さん演じる……これ、本当によかったですね。石橋さんの演技も含めて。その華子の友人のバイオリニストの逸子さんという人が、パーティーの会場で、マカロンタワーから、周りを気にしながら、1個、マカロンを取って食べつつ……っていうあのくだり。たしかにあの、そのマカロンを食べながらの、その後のちょっといたずらめいたワンアクション込みで、その逸子という人がどういう人なのか、一発でわかるし。そして、観客と同じくそれを脇からこっそり見ていたその美紀さんが、「あの人、好き!」ってなるのも、これはもう納得。これだけで飲み込ませる、っていうのも見事ですし。

■メインテーマは「自分の人生」を取り戻して、生きることができるのか?

逆にね、たとえば序盤。次から次へと登場してくる、もう出てきた瞬間に「ああ、こいつはダメだな」ってわかる男たち(笑)。その「一発でわかる」ディテール描写のたしかさですよね。しかもこれ、大事なのは、観客の視点がちゃんと華子と一致しているから、「ああ、ダメだ」と思うんですよ。たとえばあの「大衆居酒屋で愉快にしゃべる関西弁の男」って、別にシチュエーションとか視点によっては、何の問題もないんですよ。彼が悪いわけじゃないんですよ。華子の視点に(作品が)ちゃんとなっているから、ダメだ!っていうのを、ちゃんとしたバランスで描いているというね。これは見事ですよね。

もちろん、あの現代版『細雪』とでも言いたくなるようなね、あの冒頭の会食シーンから始まる、上流家庭の生活描写、そのディテール。我々は知らんけど……なそのリアルっぽさ。たとえば、あそこの会話はすごく巧みで。「毛皮っていうのはもう今はダメなんですってよ」っていうところの、要は現代の価値観にアップデートする気は一切なし! な……それを「毛皮」というワードから示す、とかも上手いですしね。あとはやっぱりその、華子が、青木家に初めて顔見せするくだり。要は、部屋に入るところから着席するまでの作法さえ、おそらくはジャッジされている、という。まさにこれ、映画ならではの緊張感の部分。

あと、個人的に感心したのは、先ほど山本さんにも言いましたけど、その榛原家という、門脇麦さん演じる華子ちゃんのお家の、台所とかの作りとかも含めた、「これはちゃんとした……いきなりの金持ちじゃない、代々の金持ちなんだな」っていう描写の細やかさ。逆に、もちろんこれは山内マリコ作品の十八番の部分ですけども、富山県のね、その実家描写、田舎の実家描写。たとえば、その美紀さんが帰宅後すぐにはきかえるジャージの……あれはもう高校生の頃のやつそのまんまのジャージ(笑)、あの実家感ね。

とか、あの同窓会でイキり倒している土建屋三代目のあの話し方。「えっ? えっ?」っていう、あのイキり(笑)。で、あれに対して……「俺みたいに正直なのは珍しいだろう?」っていう、そこに対する美紀の返しも最高!っていう感じですけども。まあ、いずれにせよ、自分たちが生まれ育った狭い輪の中で、閉じたライフサイクルを送っている……美紀さんの言葉を借りるなら、「親の人生をまんまトレースしているだけ」っていうサイクルに、地方も東京も、もっと言えば我々全体、基本的にはまあ誰もがそこで生きてるわけです。そこで頑張っている。

そういう生まれついての磁場から飛び出して、「自分の人生」を取り戻して、生きることができるのか?っていうのが、言ってしまえばこの『あのこは貴族』のメインテーマであって。これね、まずその門脇麦さん。基本、受動に徹するこの難役を、完璧に演じていらっしゃって。これが見事というのは言うまでもなくですし。その意味で対照的、要するに本来、対立しかねない立場でありながら、むしろ共鳴していく美紀役。これ、本当に水原希子さん……水原希子さん、もう完全に最高打点というか、水原希子さんの最高傑作がひとつ、出たなと。

あの化粧っ気がない状態とか、くすんだ状態さえも……っていう。あと、彼女の1人暮らしの部屋の、いろんなディテール。大学の時に持ってたトートバックがちゃんと壁にかかっている、とか。彼女が、自分の歩んできた道のりをちゃんと、ささやかながらも誇りを持って生きている感じがする、あの部屋の佇まいさえ、感動的。高良健吾さん、先ほどから言っているように、悪役になりかねないところを、ちゃんと原作にはないその弱さ、繊細さっていうものも描いて。これも本当に見事でしたし。

■万人にエールを送る射程を獲得した、これは大傑作!

石橋静河さん、山下リオさんという、要するにある意味、もう「外」に意識が最初から向かっている2人という、この2人のなんというか、いきなり「友達になりたさ」。で、ちなみにこの友達……女友達というものを示すのに、今回、すごく映画的に象徴的に使われているのが、「2人乗り」っていう。で、その2人乗りというのが最後、クロスするところで。その門脇麦さんが最初に差していた傘。フルトンのね、あの高級な傘を差していたのが、ただのビニ傘になっているんですけど。しかも傘っていうのは、さっき言った、雨というものとかかっていますよね。

それが、さっき言った女性同士の友情を示す2人乗りと……しかも道を隔てて、反対側に進む、世代も立場も進んでいく道も違う人たちと、でもなんというか、エールを送り合う、っていう。それでいいじゃない、っていう。これを、絵面だけで納得させる。テーマ性を。このね、岨手さんの手法、手腕たるや、驚くべきものだと思います。

といったところでですね、もちろん格差社会、そしてシスターフッド物など、いろんな切り口がありますが、最終的にはわりと万人にエールを送るような射程を獲得している、この映画版。正直僕、岨手さんの手腕も含めて、大傑作! という言い方をしていいんじゃないかな、っていう風に思いました。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『トムとジェリー』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『トムとジェリー』を語る!【映画評書き起こし 2021.3.26放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『トムとジェリー』(2021年3月19日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、3月19日から劇場公開されているこの作品、『トムとジェリー』

(曲が流れる)

一応これ、エンディングでかかるアンダーソン・パーク feat. リック・ロスの「Cut Em In」っていう曲をかけています。まあ、今回はこんな感じなんですね。

猫のトムとネズミのジェリーがドタバタ劇を繰り広げ、世界で愛されているカートゥーンアニメーション、『トムとジェリー』が、実写映像と融合し映画化。世界が注目するセレブのウェディングパーティーを控えるニューヨークの高級ホテルを舞台に、トムとジェリー、そして新人スタッフのケイラが大騒動を巻き起こす。人間側の主人公・ケイラを演じるのはクロエ・グレース・モレッツ。監督は『バーバーショップ』や『ファンタスティック・フォー[超能力ユニット]』などのティム・ストーリーでございます。

ということで、この『トムとジェリー』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「少なめ」。あらま。なんかちょっとね、注目感が低い感じも正直、感じなくはないもんね。賛否の比率で言うと、全体の半分が「いいところもあるが、悪いところもある」。残りは、褒める意見がややけなす意見を上回っていた。全体的なテンションはちょっと低め、ということですね。

主な褒める意見としては、「意外としっかりとトムジェリしていた」「2Dアニメと実写の融合も違和感ない」「俳優たちの演技もあえて分かりやすくしており、それが良かった」「クロエ・グレース・モレッツがかわいい」などがございました。一方、否定寄りの意見としては、「想像の域を超えない。可もなく不可もなく」とか「主人公の自業自得で話が進む」。これはクロエ・グレース・モレッツの主人公がそうなのかな。「話に乗れない。どうでもいい」「『トムとジェリー』の世界観からかなり離れてしまった」などがございました。代表的なところをご紹介しましょう。

■「“お約束”の数々は、それなりに古いファンへの接待として機能していた」byリスナー

ラジオネーム「みーちゃった、みちゃった」さん。この方、すごく長く書いていただいているんで、ちょっと、相当端折りながら(の紹介)で申し訳ございません。とにかく、『トムとジェリー』に非常に詳しく、ずっとちゃんと見てきて、大ファンだ、という前提のことを書いていただいて。「そもそも『トムとジェリー』は出自的に『子供向け』ではなくMGMの一般的な長編映画の前座の短編映画だった前提があって、それゆえの自由さやデタラメさが大きな魅力だったと思っています。食うか、食われるかの関係がありながら、根本的にトムはジェリーを本気で食おうと思っていない節があって。その面倒くさい友情のようなものにグッとくる、というような構図があったように思えます。

ただし現在、『トムとジェリー』の新作を作る上で、それはもはや一般的には余計な魅力になってしまっていて。あくまでファミリー向けに制作をすることが前提になることは承知しています。そういう期待で本作を見てみると、いや、思ったよりも悪くない。というか、支持できるというと偉そうですが、少なくとも版権を確保して有名なキャラクターで商売するという目的よりは、誠実な印象を受けました」「とにかく観客にストレスを与えないことに危惧した節があって、暴力や破壊から極力、後ろめたさを取り去った感があります」。要するにこのスラップスティックコメディならではの、付きまとう暴力性とかに対して、いろいろとちゃんと計算が働いている、という。

「一方、動物、それも同じ種類の猫やネズミすらしゃべるのに、トムとジェリーは問答無用で無言。スパイクやブッチなどのゲストの登場。オリーブを丸呑みするとその形まんまの胴体になるジェリーの、『見せないよ』からのトムの眼球殴打、などといった過去作引用のお約束の数々は、それなりに古いファンへの接待として機能していたと思います」という。あと、その実写版の俳優たちも非常に魅力的的だったし、バランス取りも非常にできている、というようなことも書いていただいております。

「たしかに邪悪な暴力が過ぎる実写版『ピーターラビット』みたいな作品だったら個人的にはめちゃくちゃ嬉しかったですが、やっぱりあれが異常なんだと思います。正直、『パディントン』シリーズの絶妙な落とし所には及ばなかったのは残念ですし、決定打と言うにはちょっと難しいですが、十分に楽しんで見ることができました」という、なかなかのヘビーファンの方。ただ、この方は大きな不満として、「音楽が不満。スコット・ブラッドリーによるテーマ曲、メロディーというのが、せめて部分的にとか、最後のファンファーレとか、1発でも鳴らしてくれなかったものか……」というようなことも書いていただいております。非常に勉強にもなるメールで、ありがとうございました。

一方、否定的なご意見もご紹介しましょう。「ドレミ仕様」さん。「画面で一生懸命動き回っても、観客の心は掴めない。実写とアニメキャラの融合。適度に立体感もあるアニメキャラで見事と言えるのではないでしょうか。ただ、ストーリーがごちゃまぜで、何が起きても観客の心が動かされていない感じ。ジェリーがトムにちょっかいを出す基本構造ですが、トムとジェリーが連帯する行動原理について、短編だと気になりませんが、長編だと原理原則に基づいた理由にしないとストーリー展開の都合に見えてしまいます」。

たしかに、ご都合主義的なストーリー運びはもう全く、その通りで。「その場の勢いまかせだったように思えました。ウエディング(結婚式)にしても、成功するかどうかは問題でさえなく、キャラを動かすための方便になっていてどうでもいい感じ」というような感じでございます。ということで、皆さんありがとうございました。否定的な意見もすごく長く、説得力があるご意見もいっぱいいただきました。ありがとうございました。

■説明不要の一大ポップアイコン、トムとジェリー

ということで、時間もあるので行ってみましょう。『トムとジェリー』、私もTOHOシネマズ六本木で……ちょっとね、今回は時間がどうしても合わず、吹替版が見られていなくて申し訳ございません。字幕版を同じ六本木で2回、見てまいりました。でもね、大きいスクリーンではなかったけどね、昼の回にしては結構入ってるな、っていう感じがありましたけどね。

ということで『トムとジェリー』。改めて言うまでもないことですけど、一応やっぱり確認しておくならば、ウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラ、いわゆる「ハンナ=バーベラ」のコンビですね。それが1940年にMGMで作り始めたシリーズ、ということですね。猫とネズミが追っかけっこしあう、スラップスティックコメディ。同じMGMのカートゥーンキャラクターで、あの天才テックス・エイヴリーの『ドルーピー』が、今回もお約束的にカメオ出演していたりしましたけども。

で、いろいろと権利の変遷を経て、今はワーナーに在籍をしている、という感じです。まあとにかく、始まって80年以上経過した2021年現在も、おそらく場所とか世代を問わず、説明不要!っていう一大ポップアイコンであり続けている、という。これは驚異的なことですよね。カートゥーンキャラクターで……「トムとジェリーみたいな関係」というような言い方が、今も普通に通用するわけですから。「ローレル&ハーディみたいな」って言ってもなかなか通じなかったとしても、「トムとジェリーみたいな」っていうのは今も、普通の人に通じるわけだから。これってすごい。

ちなみに、これはパンフレットに載っている神武団四郎さんという映画ライターの方が書かれた……「実写とアニメキャラ、夢の共演史」という、非常に勉強になるコラムを書かれていて。これは要するに、今回みたいな2Dと実写のハイブリッドの映画史。非常に実は古くから試みられているよ、っていうのをちゃんと書かれていて、これが非常に勉強になるんだけど。『トムとジェリー』は特にですね、1945年の『錨を上げて』っていう映画でジーン・ケリーと共演したのを皮切りに、わりと今回のような実写とのハイブリッドを、早い段階からやっているようなキャラクターでもあるよ、というのがこれでわかったりする。

で、まあいろいろとね、短編もずっと放送され続けてるし、あとオリジナルビデオ(OVA)の長編は一応脈々と作り続けられてはいるものの、劇場用長編映画としては1992年、これ、50周年記念作品という位置づけでしたね、『トムとジェリーの大冒険』以来となる、今回の新作というね。あれ、ちなみに『トムとジェリーの大冒険』は、ヘンリー・マンシーニのたしか遺作ですよね。でもあったりするという。なんだけど、あれはね、トムとジェリーが普通にしゃべりだす作りだったりしてね、ちょっと諸々失敗作、という位置付けにせざるをえない感じだったんですけど。

で、今回はどうかという。ちょっと順繰りに行きますね。

■ア・トライブ・コールド・クエスト「Can I Kick It?」が流れる冒頭。「今回はこのノリで行きますよ」

まず、冒頭ですね。その映画会社のクレジットが出て、こんな曲が流れだすわけですね。まあ、ある曲のイントロ。(曲がかかり始める)「ああ、ルー・リードの『ワイルド・サイドを歩け』かな?」って思う人もいるかもしれないですけども、しばらく聞いていくと、ビートが重なっていくんですね。はい。ビートが重なってくるので、「ああ、これはア・トライブ・コールド・クエストの『Can I Kick It?』だな」っていうことがわかる、っていうことですね。ビートが入ってきますよ。行ってみよう!(ビートが流れ出す)

はい来た!っていう感じでね。先日、ちょうど番組でも特集的にインタビューをさせていただきました、テイ・トウワさんがマニピュレーターを務めていた。ネタの提供なんかもしていた、ジャングル・ブラザーズのセカンド、からのこのア・トライブ・コールド・クエスト、1990年の言わずとしれた『People’s Instinctive Travels and the Paths of Rhythm』、ファーストアルバムの収録曲でございます。まさにヒップホップクラシック!っていう感じですけどね。ヒップホップが好きでこの曲を知らない人はいない、っていうような曲ですけども。

で、これがただ流れるだけじゃなくて、ニューヨーク上空……これは実景ですね、その実景のニューヨークの上を飛ぶ、3羽の鳩がいる。これは2D風……トムとジェリー側の世界観、2Dアニメーションで、その鳩たちがきっちりとリップシンクと、あと体の動きも合わせて、ミュージックビデオ風というか、この「Can I Kick It?」一番のいま歌っているQティップのパートを、まるごとラップするんですよね。要はそれによって、「今回はこのノリで行きますよ」っていうのを宣言している、っていう感じですよね。

で、そのまま、カメラがグーッと列車に寄っていくとですね、車両の間と間に、猫のトムがキーボードを抱えている。で、なにか街を歩きながらジョン・レジェンドの看板を見て、そこに自分の未来を夢見る、っていう、ちょっとかわいいくだり。これだけでセリフなしでも、「ああ、ミュージシャン志望なんだな」っていうのがわかったりする。で、このまま、「Can I Kick It?」のトラックがずっと流れ続ける中、その上に重なるように、セントラルパークでこのトムが、キーボードを弾き始める。

まあしかも、ちょっと悪質なことにね、サングラスをして、「盲目ですよ」っていう……要するにスティービー・ワンダー風。まあ、名前もちょっとそれ風でしたよね。そんな感じになっている。で、通りかかった人が、「ピアノを弾く猫だ。珍しいわね」なんて言って、チャリーンと投げ銭をしてくれたりするという、この冒頭の場面なんですけども。要はここでまず、本作における世界観というか、ルール設定を、サクッと線引きしてみせているわけですね。1988年の『ロジャー・ラビット』であるとか……僕も大好きです。

あとは『ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション』、これは素晴らしい。2003年、たぶん実写2Dハイブリッドで結構大掛かりなもので言うと、これが最後ですよね、本作の前だとね。『ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション』、2003年。ジョー・ダンテ。もう最高!っていう感じですし。あとは、これはもうちょい大人向けですけども、ラルフ・バクシの『クール・ワールド』っていう1992年の作品。もうどれも大好きなんですけども。

過去のその実写2Dアニメのハイブリッド長編映画、特にその成功をしているものは……『スペース・ジャム』とかは僕はあんまり上手くいっているとは思わないんだけども、これもなんか新作、二作目が作られるらしいですけども。上手くいってるやつは、カートゥーンキャラクターと実写の人間が絡むことに、一応きっちりと説明がつく設定が、わりとあった感じだと思うんですね。だから、「アニメキャラたちは俳優でもあって、我々が見ているこれまでの作品は、そこに出演をしていたんだ」っていう設定がつくことが多いんですけど。自己言及的な設定がつくことが多いんだけど。

今回はもうストレートに、「この世界の中の動物は全部2Dアニメーションです!」。人間的なコミュニケーションも時には取れるけど、直接会話したりはしない。だから動物同士でセリフが出てくることはあるけども、人間とは会話したりはしないし、もちろんトムとジェリーはしゃべれない、っていう。あくまでもその、人と動物の関係っていうのを保っている状態、ってことですよね。そういうその線引き。これはもう本当にサクッと……「あの、今回はそういうことなんで! ねえ。これ以上は疑問、持たないでください!」っていう(笑)。「もう、こういうことなんで!」みたいな感じで済ましておいてからの、そのトムの路上ピアノライブに割り込んでくる、ネズミのジェリーという。

■実写+2Dの「気持ち悪さ」=クラクラする異常さ。十何年に一度は見たい。

で、案の定始まるドッタンバッタンの追いかけっこ。皆さんご存知の『トムとジェリー』的な構造。で、ここも実は、『トムとジェリー』の改めての仕切り直しとして、とても実はちゃんとした手順を踏んでいる、と言えて。要はそのピアノ、鍵盤を弾くトムと、そこに絡んでくるジェリー、っていうのは、『トムとジェリー』、いろんな場面とかいろんな仕掛けがありますけど、一番定番的な、一番『トムとジェリー』らしい構図で。『素敵なおさがり』とかね、あとはずばり、『ピアノ・コンサート』っていう、要はピアノを弾いて……という、いろいろとそのエピソードがあるわけです。

だからこそ今回の映画では、そのトムとピアノ演奏、で、そこに絡んでくるジェリー、っていうのが、本当にもう最初からラストまで、繰り返し、一貫したものとして出てきますよね。しかもそのうち1曲は、Tペインがレイ・チャールズの「Don’t You Know」を歌うっていう……Tペインの歌唱でっていう、ヒップホップ時代の伝統主義、というような感じも入ってきたりもするということで。

で、その中でやっているギャグも……これ、さっきのメールにあった通りです。そのトムの手のひらの中にいるジェリーが、何か手を丸めて中を覗いている。「何かな? 何かな?」ってトムが見たがっていると、ドーン!って殴られ返す、っていうギャグは、元は『ネズミ取り必勝法』っていう1940年代のオリジナル。それの忠実な再現なんです。要するにザ・トムとジェリークラシック!っていうのをやってみせているわけです。だから、言っちゃえばサンプリングですよね。直接的なサンプリングというのを、要所でやっていて。

要はその、『トムとジェリー』としての正統性も、実はものすごく律儀に継承している作り。まあ、なんかヒップホップ世代っぽいっていうか、サンプリングをしてるっていうかね、リスペクトの表し方というのがヒップホップ世代っぽい感じ、ではありますよね。あと、メインの舞台がね、ニューヨークのその格式ある老舗高級ホテル、っていう風に設定されているのも、絶妙だなと思っていて。まずその、『トムとジェリー』的2Dカートゥーンアニメーションの持つそのクラシカルなムード。やっぱり元は1940年代から始まってますから。そういうムードともフィットするし。

実際、そのホテルの歴史っていうのがちょっと劇中で語られるのが、なんかハンナ・バーベラのキャリアとか、その2Dカートゥーンの歴史とちょっと重なるような感じになっているらしいんですけども。あと、その生身の人間による、その実写の方のスラップスティックコメディ、あるいはそのスクリューボールコメディ的なものの背景としても、ホテルってやっぱ、すごい最適ですよね。あるいは、そのさまざまな人種が行き来するのが当たり前の場……つまり、その2Dアニメの動物キャラクターも含め、いろんな人種とかが行き来してて当たり前の場。これ、要はそのポリティカル・コレクトネスが普通の常識、マナーとして前提にある場としての、現代ニューヨーク。

ゆえに、アップデート感も自然に出せる舞台立てでもあったりして。要するに、いろんな人種の人が、いろんな立ち位置でいて、全然普通。そのこと自体が普通っていう、そういうアップデート感も自然に出せるし、っていう。で、実際にまあ、そういう絶妙な舞台立ての中で、カートゥーンに負けじと、大きな表情と動きでドッタンバッタン奮闘してみせる、クロエ・グレース・モレッツ。これ、書かれている方、多かったけど、やっぱり近年のクロエ・グレース・モレッツの中では、一番かわいいっすね。やっぱりね、めちゃめちゃキュートだし、マイケル・ペーニャも、かわいい(笑)。マイケル・ペーニャ、まあとにかくスラップスティック映えする……「ボヨーン!」みたいなのが本当に似合いますよね。なんか、2Dアニメキャラクターにおちょくられるのが本当に似合う、っていう感じだと思いますけど。

というか、僕今回改めて「ああ、なるほど」と思ったのは、実写と2Dのハイブリッド作品特有のね、そのどうかしてる感……僕、最初に予告を見た時は、「うわっ、気持ち悪!」って思ったのね。どうかしてる感。まあ、異なる次元のものが同時にそこにある奇妙さ、クラクラするような異常さ。異常ですよね。その異常さっていうのは、そもそもスラップスティックコメディと、相性がいいんですよね。

だからその、2Dと実写のハイブリッドは……なんなら実写だけより、それこそ2Dアニメそのものよりも、より異常じゃないですか。よりハチャメチャ度が高いと言えるわけだから。なので「ああ、やっぱりこの手法、面白いんだな」っていうのはすごく、改めて気づかされたりもしました。まあ、ずっとそればっかりやっていると、たぶんインフレしてきちゃうけども。やっぱり十何年に1度ぐらいは見たいな、みたいな感じがあったりしましたね。

■ヒップホップ世代の監督が、サンプリングも駆使して『トムとジェリー』を現代的に仕立てる

まあ、そんな今回の『トムとジェリー』。脚本のケビン・コステロさんという方はですね、あれですね、あの『ブリグズビー・ベア』の脚本の方ですね。2018年7月27日に私、評しておりますが。そしてなにより注目すべきは、制作総指揮・監督の、ティム・ストーリーさん。今回、やっぱりティム・ストーリーさんの色がすごく強いと思います。2005年と2007年の『ファンタスティック・フォー』二作、まあこれが非常に有名ですけども。元々はラップやR&Bのミュージックビデオをいっぱい撮られている、アフリカ系アメリカ人の方で。出世作は2002年の『バーバーショップ』ですね。

もう、あのアイス・キューブが、完全にコメディ演技に徹してみせた『バーバーショップ』であるとか。やはりアイス・キューブ主演、ケヴィン・ハートと共演した2014年の『ライド・アロング』……二作目もありますから『ライド・アロング』シリーズであるとか。あと今、日本ではNetflixで見られる、『シャフト』の2019年版。お爺さんとお父さんと息子の三代のシャフトが揃い踏みする、っていうね。息子はあれですよね。『ザ・ボーイズ』のAトレイン(ジェシー・T・アッシャー)ですよね。あの『シャフト』であるとか。

要は、ゴリゴリのヒップホップ世代の、ヒップホップ畑のアクションコメディを得意とする人、みたいな感じで。『シャフト』には、メソッドマンが普通に俳優として出てたりなんかしましたから。まあそんな感じで、だからさっきも言ったように、『トムとジェリー』らしさの本質を、直接的なサンプリングを含めて忠実に受け継ぎつつ、その現代的なものとして仕上げる、っていうような、そういうスタンスでやっている方ですよね。たとえば、そのホテルの中に陣取った、ジェリーのその部屋にですね……まずその部屋で流すのがジョデシィの「Come & Talk To Me」っていう、あれを流していて。このへんのセンスも素晴らしいですけども。

まあ、そのトムが、電線を伝って侵入しようとするが、毎度同じように電気ビリビリ、ビターン!っていう、この繰り返しギャグ。いかにも『トムとジェリー』っていうような、もしくはこういうカートゥーンアニメっぽいギャグがあるわけですけど。で、ようやく部屋に入って、本格的な追っかけっこ。そこで渋く……「あっ、そういう選曲、してくる?」って流れだすのが、エリック・B&ラキムの1992年「Don’t Sweat The Technique」っていうね。これが流れ出して。この選曲の妙ですよね。「ああ、そう来る?」みたいな。

で、ここね、すごい場面としても面白くて。縦横無尽に動き回るトムとジェリー。これ、2Dアニメーションですよね。で、それに従って破壊されていく、部屋の中の実景、実際の小道具、もしくはその実際の小道具風に見せたCGIなのかもしれないけども……などが、たぶん恐ろしく複雑かつ高度に、でもパッと見には当たり前のように組み合わされて、シンクロする。全体が「そういうもの」のようにシンクロしている見せ場であって。これ、曲使いのセンスと、あとその、なんかすごいことをやっているのに、「そんなにすごく見せない」感じも含めて、ああ、これはなかなか……っていう感じで、アガりますよね。

■欲を言えば、トムとジェリーと人間がミュージカル的に絡むシーンが見たかった。

まあ、こんな感じでですね、実景、実写とその2Dの絡み、当然のことながら、どんどんどんどん複雑化、巨大化していく。そしてそれに伴って、ディザスターの度合いも──まあ、できるだけむちゃくちゃになるのが楽しいわけですから──巨大化していく。ホテルのバー、ロビーでのね、トムとジェリー、そしてあの犬のスパイク……スパイクもかわいかったね。あのコブのくだりとか、やっぱりもうおなじみですからね。それと、さらにマイケル・ペーニャ、実際の人間も交えた四つ巴の、ホテルのバーからロビーにかけての大破壊であるとか。

そこから先、もう一番大掛かりな、象とか虎とかクジャクとか蝶、これ全部2Dアニメーションですよ……まで入り乱れる、結婚式のシーンまで、どんどん巨大化していく。あるいは、前半でちょっと軽いフリがあってからの回収ともいえる、あのクライマックスの追跡劇。ちょっと派手めの追跡劇。トムとジェリーがちゃんと協力プレイするのはここが唯一の、見せ場になるわけですけど。ここではあのDJシャドウ feat. デ・ラ・ソウルのね、「Rocket Fuel」っていうね、これも選曲として非常にぴったりっていうかね、ヒップホップ選曲であったりするというあたりで。まあ、すごくバランスとして一貫したバランス、ティム・ストーリーさんらしい見せ方、っていうのがありますよね。カラーがね。

まあ、欲を言えばね、ストーリーがご都合主義云々っていうのはそういうものだとして置いておくとしても、トムとジェリーと実写人間が、ミュージカル的に絡むシーン。一緒に踊るとか。もっとそこがあるべきですよね。せっかく、それこそ結婚式の場面とか、最後のシーンでもいいんですけども、ボリウッド的なその舞台立てとかもあったりするわけだから。あそこ、もっと面白くできそうだけど、なんか時間がなかったのかな、みたいな感じも……ちょっとコロナ禍っていうのも関係していると思うんですよね。ポストプロダクション全部、在宅で皆さんやった、っていうことらしいんで。

ひょっとしたらコロナの影響もあって、そういうところが足せなかったのかな、っていう気もするし。あと、実写の人間で言うとですね、面白いんだけど、『ハングオーバー!』シリーズでおなじみのケン・チョンのキャラクター。まあ、またぞろその、「コミュニケート不能レベルでエキセントリックなアジア人」キャラクターか、またこういう役か……みたいなのもあるし。まあ、結局その彼のキャラクターだけは、フォローがないんですよね。

なんかちょっとそれは……唯一のアジア系メインキャストで、やっぱりすごく気にして見ちゃうから。他の部分がすごく現代的にバランスが取れている部分、ケン・チョンだけなんかあんまり……なんか『ハングオーバー!』からあんまり変わってないな、みたいなのが、ちょっと気になったりもしましたよ。

■不満を持つ人も理解できるが、これはこれで成功作!

でもまあ、概ね、もちろん視覚的に非常に楽しいですし、実写×2Dのハイブリッド……やっぱりこれは、さっき言った2003年の『ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション』っていうのが今のところ一番、これまではすごく一番進んだ形だったと思いますけど、そこから、見比べると分かるんですけど、さらにやっぱり複雑に、かつ自然になっていて。

そういう、目に対する驚きみたいなものも……しかも、それをあんまりすごいことをやっている風に見せない感じも含めて、スマートかな、っていう風に思いますね。なによりもやっぱり、ここまで純粋にスラップスティックに徹した長編コメディを堂々とやれるのは、ひょっとしたらこの2D×実写のハイブリッドだからこそじゃないのかな?って。2Dアニメーションだけでナンセンスなあれをずっと続けるっていうのは、たぶんもう土壌的に……ねえ。『くまのプーさん』もコケちゃったし。なかなか難しいかもしれないし。

実写でここまでめちゃくちゃは──まあフィル・ロード(&クリス・ミラー)のある種の作品はその要素があったりしますけど──難しい。だから、すごくいいのかなと思います。なによりやっぱりね、今時流行りのその、3DCGに起こして、毛のフサフサを再現しましたとか、そういう余計なこところに労力を使わなかったのは、本当に大正解だなという風に思ったりします。あとやっぱり、なんだかんだで一応、もちろん全体のストーリーは美談風に着地はしているけど、「いや、別にいい話に終わらせたいわけじゃないんで」っていうのが、エンドロール後にしっかりついていて。

あの、しっかりがっかりさせてくれるのがついてくるっていうのも(笑)、僕はあそこにも心意気を感じたりもしました。こんな感じなのでぜひ、ワーナーの『ルーニー・テューンズ』の他のメンツ、僕はやっぱりまたあのバックス・バニーと……僕が一番好きなのはダフィー・ダックなんで、それでちょっと一発、あのジョー・ダンテ級の破壊的な、もう頭がクラクラするやつをこの流れで作ってくれたら、もう言うことなしかな、という風に思いますけどね。

でも、先ほどのメールにもあった通り、たとえばそのオーケストレーションについて、「こういうところは付けてくれよ!」っていうのはたしかに……でもそれもね、コロナ禍も関係があるんじゃないかな? オーケストレーション、集められなくて……とか、関係があるんじゃないかな?っていう気もしますけどね。はい。

まあ僕はでも、まずはこれ、これ自体としては成功というか、ティム・ストーリーさんの作品としてもすごく色が出てるし、成功作じゃないかと思います。こういう試み、まだまだ続けてほしいという意味で、気軽に最高に楽しめる一作として、ぜひぜひ劇場でウォッチしてください。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『JUNK HEAD ジャンク・ヘッド』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『JUNK HEAD』を語る!【映画評書き起こし 2021.4.2放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『JUNK HEAD』(2021年3月26日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは3月26日から劇場公開されているこの作品、『JUNK HEAD』

(曲が流れる)

この音楽もね、堀貴秀さんがご自身で作られて、ということですよね。すごいことですよ。ということで、孤高のクリエイター堀貴秀が監督・脚本・撮影・編集・デザイン・声優……他にも、たとえば衣装とかデジタル処理とか音楽もそうですし。あと、たぶんこの劇場パンフもきっとこれ、手作りだよね。もうほぼ1人で担当し、7年かけて制作した本格SFストップモーション・アニメーション……これ、いかにこのいま言ってるこの2行が、めちゃくちゃなことか(笑)っていうのも、後で説明しますけど。

絶滅に瀕した人類を救う方法を探すため、1人の男が、地下世界へ調査に向かう。そこには、かつて人類が生み出し、独自の進化を遂げた人工生命体、マリガンが生活していた。男は人類再生の鍵を握るマリガンを探すため、広大な地下を旅することになる……こう言うと、なんかすごい堅い話みたいにも思えるけども(笑)。カナダ・モントリオールで開催されるファンタジア国際映画祭で最優秀長編アニメーション賞を受賞するなど、世界的に高く評価されている作品です。

ということで、この『JUNK HEAD』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「普通」ということですけども。まあ、公開規模とかを……まあ大ヒットを受けて拡大公開、なんかシネコン系でも拡大公開が決まっているようですけども、最初はね、ミニシアターだけの公開だったということを考えると、結構これはいいんじゃないですかね。

で、賛否の比率は、およそ8割が褒め。非常に評判がいいです。主な褒める意見としては、「すごい作品と出会えた。堀監督が7年かけた苦労と狂気が詰まっている」「世界観もキャラクターも魅力的。エンタメ映画としても楽しいのが嬉しい驚きだった」などがございました。一方、否定寄りの意見としては、「すごいとは思うが、音楽の使い方や中盤の展開がダレるなど、惜しいところもある」「セリフが多すぎて疲れてしまった」などもございました。ただし、全面的に否定するような意見はもちろんございませんでした。

■「ギレルモ・デル・トロやティム・バートンのような射程で活躍できる大型新人と確信」byリスナー

ということで、代表的なところをご紹介しましょう。「ロヂャー」さん。「1人の映像作家のウン年がかりの執念の力作、というのは、意欲は買えるけど諸々未熟だし、独りよがりでゴニョゴニョ……的な感想になりがちなのですが、本作は違いました。ビジュアルやデザインのクセこそ強いものの、とても明快でユーモアたっぷりに進行するメジャー志向の純娯楽映画であったことが嬉しい驚きでした。ビザールでエッジーで、時にはグロテスクでありながら、間口と射程がとても広くて、誰でも抵抗なく楽しめる内容に仕上がってると思います。『小規模な環境で1人で作って偉いね。それにしてはよくできてるね』というゲタは本作には必要はありません。

隅々まで作り込まれ、さらに奥行きとスケールを十分に感じさせるリッチな世界観と、すでに神話のような風格のある物語に身を任せているだけで115分があっと言う間の、世界中どこに出しても恥ずかしくない堂々のエンターテイメントです。堀監督は本作を絶賛したギレルモ・デル・トロや、なんならティム・バートンぐらいに世界射程で大活躍できるスケールの大型新人と確信しています」という。

あとね、いろんな褒めのメールがあって。たとえば「逆さクラゲの飼育員」さん。非常に長いメールを書いていただいたものの抜粋ですけども。「この映画を一言の感想にすると、『令和版ヤン・シュヴァンクマイエル悪ふざけバージョン』。国も作風も違いますが、根底に流れる肉グチョグチョイズムはヤン・シュヴァンクマイエルを彷彿とさせます」という。ヤン・シュヴァンクマイエルはチェコの有名なストップモーションアニメ作家ですね。あとは「愛すべきキャラクターたちが非常によかった」とかね、いろいろ書いていただいて。ありがとうございます。

一方、ちょっと否定的なご意見もね、代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「空港」さん。「アップリンク京都で『JUNK HEAD』を鑑賞してきました。平日にも関わらず、半分ぐらい埋まっていました。正直な意見として『“すごい”が“面白い”に勝ってしまった。完璧には世界に入り込めなかった』という感じです。特に一番強い感想は『ちょっとみんなしゃべりすぎでは……?』

独自の言語を話すというアイデア、またその会話のトーンもすごく面白いのですが、広がる世界の仕組みや感情などをかなりの割合で字幕で知らせるのは正直ムムム……でした。全編会話なしとまでは言いませんが、身振り手振りなどのアクションで見ている側がそれを汲み取るというのは、個人的にストップモーションアニメにおける醍醐味だとは思うので(『ひつじのショーン』とか)。作品から与えられる情報に対して受動的になりすぎてしまったのがエンジョイしきれなかった要因でした。

もっと言うと中盤、会話シーンが続く際にははっきり『長い』と感じてしまいました」という。でもまあ、「非常にキャラクターもよかったし、いろんなところが本当に鳥肌が立つほど最高だった」と書いていただきつつも、「あえてメールさせていただきました」というね。でも、「とにかく監督には尊敬しかありません。こうして多くの劇場でかかってること自体が奇跡的であることは間違いありません」といったご意見でございます。

あとですね、ラジオネーム「ヤーブルス」さん。この方もいろいろと不満……「すごい作品なのはわかるけど、不満もある」ということで。「たとえば音楽の使い方がちょっとひと昔前のサイバーパンク的で鼻白んでしまう。制作年2017年とのことで、そのへんを加味してももう少し今っぽい変化をつけてもよかったのではと思ってしまいました」というご意見があったということも一応、言っておきたいと思います。はい。ということで皆さん、メールありがとうございました。

「とんでもなく“ヤバいの”が来た!」

『JUNK HEAD』を、私もですね、3月24日にこの番組でやった「ストップモーションアニメーションの逆襲」特集に備えて、まずは拝見して。そもそもその2年前、やはりそのストップモーションアニメーション特集をやった時に、今回の長編の元になった30分の短編『JUNK HEAD1』というもの、こちらも見ていたわけですが。

でですね、劇場にも当然、行きました。アップリンク渋谷に見に行って。ちなみにこの作品、2017年には完成してね。ちょっとしばらく公開まで時間がかかってしまった作品ですけども。ようやくの今回の劇場公開タイミング、アップリンク渋谷で僕は見てきましたけど。やはりね、若い人たちを中心に、めちゃくちゃお客が入っていてですね。皆さん、ちゃんと「これは見ておかないと」というものに対して、きちんとね、嗅ぎ分けてキャッチしていらっしゃるんだな、って。とてもこれ、嬉しくなりました。はい。

でね、そのパンフも、すごい売れていて。おそらくこのパンフ自体も自主制作的なんでしょうね。これ、1500円。非常に解説が詰まったパンフも、めちゃめちゃ売れているということで。それも当然だなと思いますね。ちなみにこのアップリンク渋谷には、劇中で使われた本物の人形たち、パペットたちが、ずらりと展示してあって。これはたぶん、シネマ・ロサとかアップリンク吉祥寺もそうなのかな? はとにかく、貴重な実物が直接見られる機会でもあるということで、これは皆さん、ぜひぜひ劇場でウォッチください! もう今日はこれで終わらせていいんじゃないか、っていうぐらい(笑)、僕が四の五の言うより、とにかくちょっと、「今、見とけ!」っていう。

後々、リアルタイムで映画館で見たことを、何年も自慢できる代物なので。いいからこれは行っとけ!っていうことなんですよね。歴史的にも、世界的に見ても、ちょっとこれは非常に稀なというか、類例がないタイプの一作ですね。「とんでもなく“ヤバいの”が来た!」という言い方を私、させていただいておりますが。とにかくこの、堀貴秀さんという方のクリエイター魂。ほとんど狂気を……これ、「狂気」っていう言葉を使っている人が多いですが、その狂気っていうのは、要は狂気を感じさせるまでの、クリエイターとしての根性ですね。もう本当にただ事じゃないわけですね。

まあ、パンフに書かれているこのプロフィールによれば、「高校卒業後、バイトを転々としながら芸術家を目指し、29歳の頃にアートワーク専門の仕事で独立。商業施設に壁画やエイジング」──エイジングっていうのはだから経年変化的な塗装とかですかね──「エイジング、造形物等の施工多数」という。だから、ご自身のアート的なセンスとか技術とかっていうのを、生かしながらの手に職、というか、そういうお仕事ではあったんだろうなっていうのが伝わってきますけども。

なおかつ、いろんな創作活動とかもいろいろとされては来た、ということが書いてあるんですけども。まあ、それがひとつ、ドンという形は成していなかった、というような。少なくとも、映像作家だったわけではないわけです。映像作品は作ってないし、まして、ストップモーションアニメーション作家だったわけじゃないわけですね。で、映画はお好きだったということですけども、自分で作るという発想はなかった。そんな堀さんが変わったのは、「映画って1人でも作れるんだ」ということに気づかされた、とある一作……皆さんご存知、新海誠監督2002年の、まあ鮮烈な作品でしたね、『ほしのこえ』。度肝を抜かれました。「これ、1人で作っちゃったの?」っていう。

それでやっぱり一念発起してこの堀さんも、2009年から、その内装業のお仕事をしながら、さっき言ったその短編の『JUNK HEAD1』の制作を開始したという。

■「壮大なスケールの実写SF」を作るために選んだ手法。すべてが独学と手作り。

で、そのストップモーションアニメという手法を選んだのも、前からその手法のファンだったというわけじゃなくて、堀さんの頭の中にあるその「壮大なスケールの実写SF」的なイメージを、しょぼくない画として、しょぼくない実写映像として、現実に成立させる手段としてのそのストップモーションアニメ。あとはまあ、元から操り人形制作などはされていたということなので、まあある種、逆算的に……たとえばそのキャラクターたちに、「目」があんまりないわけですね。目がないキャラクターたち。レンズだったりしてるわけですけど。というのも、そのリアリティー表現の上で、目を作らない、目がないキャラクターであるっていうのはこれ、堀さんのはっきりした計算の上で、だったりするということなんですね。リアリティー表現的に。ということで、逆算的に今のこの方法論が選ばれた、ということらしいんですね。

だから非常にクレバーではある。なんだけど、同時にそういうストップモーションアニメーション、しかも長編映画を実際に作るノウハウ、人脈……誰か教えてくれる人とか、そういうのが全くいない状態からのスタートでもあるわけです。そういう意味では、たとえばその『PUI PUI モルカー』の見里朝希監督の、藝大に行って、伊藤有壱さんの教えを受けて……っていうルートとはかなり対照的というか。本当にストリート、野育ちの、っていう感じですね。

で、堀さんはとにかく恐ろしいことにですね、そのノウハウがない中で、人脈も何もない中で、全てを独学で……たとえばそのストップモーションアニメーション用に、まずパペット、人形を作るわけですけど、そのパペットひとつ取っても、骨組み、アーマチュアというその金属の骨格とか、それの外側を作るのは、石膏で型取りして、フォームラテックスで整形していくわけですけど、そのフォームラテックスの作り方とか、フォームラテックスの調合の按配とかまで、自分で調べて、試行錯誤してやる。あるいはその、パペットアニメーションを作っていく、動きを作っていくにあたってですね、アナログなモーションキャプチャーというかね(※宇多丸註:というよりはむしろ”手作りロトスコープ“とでも言うべきところでしたが、放送時はその言葉が出てきませんでした、すみません!)。

実際にそのライトを体の各所に付けて、自分で実際に動いた映像を撮って、それに重ねて動きを付けたりとか。そういうこともご自分でやってたりとか。あるいは、やはりこれもパンフレットに載ってるあれなんですけども、ストップモーションアニメーションを効率的に撮影するための、オリジナルの器具まで創作して、その効率を上げたりとか。あるいは、当然必要になってくるデジタルによるその画像処理、ポストプロダクション的なこと、などなど……っていう。あとは声とか、効果音とか、音楽ですね。さっきから言っている音楽などなど、もうすべて独力で学び、作り、撮って、積み重ねてきた。そして4年の月日が経った……っていう(笑)。30分の短編『JUNK HEAD 1』が、4年かけて、ようやく2013年に完成したという。

ちなみに今回の長編版ですね。頭の30分ほどがほぼその『JUNK HEAD 1』なんですけども、最初の方に出てくる、後に「生命の樹」に育っていくというあの野生マリガンっていうののくだりと、あと、主人公が地上での暮らしを回想するというくだりが、今回の長編には加えられています。要するに、「より大きな世界観を提示する要素」というのが今回、後から加えられているわけですね。

で、とにかくですね、その短編を作ったと。で、当然作品としては世界的に高い評価を得て、賞を取ったりしたんですけど、途中でそのクラウドファンディング失敗、とかですね。ハリウッドからのオファーを堀さんが断っているとか(笑)、いろんな経緯を経て、最終的にその続編というか、続きを作る資金を得て。まあ堀さんが元々仕事で使っていたという工場を改造して、撮影用の、これはなかなかでかめなセット。これ、縮尺がね、6分の1ですから。それを作って。

これ、ちなみにエンドロールでちょろっと出てきてね。「おおう……!」っていう感じがしますけども。で、そこで今度はこれ、この番組の特集でご出演いただいた時も仰ってましたが、その残りの70分とかは、3、4人体制で。2年4ヶ月、朝7時から夜9時までぶっ通しで、休みなしで作業して。ご自身はそのスタジオにした工場跡の2階に住んでいるので、もう切れ目なくやって。ついに2017年、今回の長編完成にこぎつけた、ということなんですよね。

■世界的に見ても規格外の達成。にしては内容はコテコテのエンターテインメント!

で、これ、改めて言いますけど、とんでもないことをやっているわけです。確認をしておくと、ストップモーション、コマ撮りアニメーション。1コマ1コマ、1秒間に24コマですよ?

24コマ、こうやって動かして撮る。人形を動かして撮ったりするアニメーション。それも長編。なおかつ、壮大な背景とか舞台を使った、しかもアクションシーンとかまであったりするような娯楽作品、というのはですね、もう想像してみればわかると思いますが、もう気が遠くなるような、むちゃくちゃな手間がかかる。で、手間がかかるイコール、普通の映画制作のシステムで言ったら、めちゃくちゃお金もかかるわけですよ。普通は。

だからこそ、たとえば今、定期的に長編ストップモーションアニメを作っている会社ってのはもう、ライカとアードマンの2社ぐらいですよね。だいたい、たぶんね。それももう、何年かに1度ですよ、ライカの新作なんかが来るのは。もう何百人、何千人体制で作ってそれですから。たとえば、私が昨年11月20日に評しました、ライカの『ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒』。僕、もちろん大好きな作品ですけどね。100億円かけて作ったりしているわけですよ。それでコケちゃったりしているわけですよ! それがだから、その長編のストップモーションアニメーション映画を作るということの一種、「常識」なわけですよね。めちゃめちゃお金もかかるし、手間もかかる。まして日本でとなると、これは本当に、長編ストップモーションアニメ自体が少なくて。これ、構成作家の古川耕さんもいろいろと言っていましたが、2005年の川本喜八郎さんの『死者の書』、あとはさかのぼって1979年、これ、藤井隆さんも大好きなサンリオの『くるみ割り人形』、まあ、そんなもんかな?っていう感じだし。

しかも、今回みたいに完全オリジナル企画の、SFアクションダークコメディ、壮大かつグロテスクかつユーモラスな……基本その全てを、美術、人形制作、編集、声、音楽、音などなど、ほぼ全てを全部自分でやって、独力で作りました! なんていうのはもう、規格外も甚だしい。本当に文字通り、考えられない達成なわけですよ。考えられない!

しかもこの『JUNK HEAD』、さっきのロヂャーさんのメールにも近いですけども、「1人の孤高の天才アーティストが作り上げたヤバい一作」っていうことは間違いないんだけど、それが、アートアニメ的に難解な作品、っていうことでもない。どころかどっちかというと、しょうもないギャク満載だし、ストレートにアツい展開もあったりする、あるいはものすごく分かりやすくアガるアクションシーンがあったりする、要するにエンターテイメントとしてはむしろ明快な、コテコテという言い方すらできるような、分かりやすさに満ちた一作でもあって、ということなんですね。

■個々のディテールの元ネタは親しみやすい。しかしそれらが集積した世界観は独特

で、これは監督があちこちのインタビューで挙げられている、影響を受けた作品たちっていうのがあって。たとえば1986年、これ、旧ソ連時代のカルトSF『不思議惑星キン・ザ・ザ』。あれの、SFなのに人懐っこい、オフビートなユーモア感とか。あとはもちろん、もう誰がどう見てもそれは『エイリアン』、あるいは『ヘルレイザー』もお好きだなんて(ことは推察できる)、まあモンスターの造形であるとか。あと『イレイザーヘッド』って言っていて、「ああ、なるほど!」と。要するに『イレイザーヘッド』の、生き物、生命そのものの生々しい不気味さ、キモさ……「生きるってキモくない?」みたいな、あの感じとか。

あとはこれ、漫画ですけども、弐瓶勉さんの『BLAME!』っていうSF作品。Netflixでアニメ化もね、近年されましたけど。あの巨大な階層都市、階層世界の中で、細々と、しかしたしかに命を繋いでいく者たち、的なイメージ。あと、マスクのデザインとかもちょっと『BLAME!』的だったりしましたね……とかもそうですし。あと、さっき言ったようにね、あの樹木化するマリガンっていうね、あれはちょっと、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のグルートっぽい感じもあったし、とかね。あれをどうやって撮っているかとかね、あれメイキングで見るとね、「ああ、なるほど!」っていう。見れば、タネ明かしをすれば「ああ、なんだ」っていうことなんだけども、工夫して撮っていたり。

あとは、これはIGN Japanのインタビューの中で、こんなことを仰っていて。NHKの人形劇『プリンプリン物語』。あれに出てくる「ルチ将軍」というキャラクターがいて。それを受けての「ドクター・ルーチー」、あの博士のやつ。あの後頭部がビヨーンと伸びているのはあれ、ルチ将軍オマージュなんだ、っていうね。まあ、たしかにそのデフォルメされたキャラクターたちの、異形感、ダークコメディ感。ドタバタなんだけど、社会風刺感が満ちている感じ。非常に『プリンプリン物語』っぽいかもな、って思いましたね。はい。

あと、クライマックスの3人のあのチームアクション。あれはもう(『機動戦士ガンダム』の)ジェットストリームアタックでしょう!とかね。まあ、そんなこんなで、個々のディテールそのものは、特に僕は堀さんとほぼ同世代であることもあって、「ああ、あれが元ネタかな?」みたいな感じ、意外と親しみやすいネタ感、みたいなのもあったりするんだけど……それらを集積して組み上げた巨大な世界観というのがですね、やっぱりものすごく独特な味わいで、面白いわけです。

■ドメスティックな笑いのツボも含めて、意外と「セリフ劇」的

個人的にはやっぱりですね、これは堀監督ご自身にも言いましたけど、「クノコ」と呼ばれるですね、この世界での高級食材の採取システムの、エグいユーモアセンスを含めてですね、この作品全体が、「食べ/食べられる」というそのサイクル、食物連鎖的なサイクル、それも、「排泄」まで含めて……先ほどもチラリと言いましたが。それを序盤で見せることで、要するに「食べられる」ことってどういうことなのか、消化されてウンチになっちゃうことなんだ、っていうことまで、生々しく実感させる。

つまりその「食べ/食べられる」、食がつなぐ生のサイクルというのが、非常に全編にわたって芯になっているあたりが、この世界全体に異様な実在感、生々しさを与えていたりする。これも非常に特徴的だし。あと、本作特有の面白ポイントとして、やはり劇中で話される、もごもごした架空の、複数の言語体系。その、まずは単純に語感的なおかしみみたいなもの。これもやっぱり、『不思議惑星キン・ザ・ザ』感覚ですね。「(ホッペを2回叩いて)クー!」っていう感じがあったりする(笑)。特に、日本語的な響きと微妙に重なるところが醸す、なんともしょうもないおかしみ。これが非常に印象的で。食べ物を乞う目がバツ印のあの2人の子供。最初はしおらしく、「チケチケチケチケチケ」とか言っていたのが、お恵みがないと知るやいなや……のあの感じであるとか。

でも、この場面は実は、ちょっとコワ悲しい余韻があるシーンだったりしますけどね。あと、あの「バルブ村」と言われるね、そのバルブが入り組んでいる巨大空間があるんだけど。そこの「職長」と言われるね、その上司と部下のね、「ねー職長♡」って言っているところの、なんか「パップンチョ!」みたいな(笑)、あの語感の繰り返しのおかしさとか。あと、さっき言ったその「クノコ」採りのお使いの結果、「カピカピやないか!」みたいなことを言われてる時の、「カピカピ○※△○!」みたいな。「もう“カピカピ”って言ってるじゃん!」みたいな(笑)、その感じとかも含めて、笑っちゃう。ただ、同時に非常に、たしかにドメスティックな笑いのツボではあるのかもしれない。

演出そのものは、つまりサイレント的というよりはやはり、意外とセリフ劇的な面もあって、という感じがしますかね。で、この声はもちろん、堀さんがほとんどやってる中で、一部はストップモーションアニメ作家でこのスタッフとして入られた、三宅(敦子)さんという女性の方が、女性のキャラの声を当てられたりしておりますけども。

■全体が3パート構成になっている独特の語り口。だが本作の魅力はやはりキャラクターと世界観

でですね、これちょっとこの作品全体、構成も変わっていて。本来、『JUNK HEAD1』から『10』までの連作として作る予定だったのが、結局長編三部作計画になったという、それもあるのかもしれないですけども。ちょっと、語り口も独特で。普通の三幕構成ではあるんだけど、設定上、主人公のアイデンティティーが、その三幕ごとにガラッと変わるわけですよね。もっと言えば、その最初の短編にあたる最初の30分、一幕目の中でも、その主人公の人格が、いきなりどんどん変わっていくという話なので。最初はちょっとどの視点で話に乗っかっていいのか、ちょっと乗りづらいところも、最初は感じるかもしれない。ただ、今回の長編版では、さっき言ったように主人公のバックボーン描写がちょっと足されていたりするので、一応そこの補強もされていたりはする。

とにかくね、その地上、人間世界から、地下世界へ調査のために送り込まれたはずが、記憶をなくし、子供のようなボディに改造された主人公が、更なる奈落に落ちていくまで、という一幕目。そしてそこから、さらに小間使いロボットに改造され、さっき言った「クノコ」の買い出しのお使いに出かけるも、この地下マリガン世界の様々な闇に遭遇していく、そしてどんどん散々な目に遭う、という二幕目。そしてラスト、ラスボス的な巨大生物との対決という、まあ一大アクションも用意されているクライマックスの三幕目、という。ストーリーを整理すればそういう、三幕というか、「3パート」物っていう感じですね。

なんだけども、本作の魅力はやはりですね、その物語を織りなす、キャラクターたちや世界観、その、すごくキモいしグロいけど……さっき山本さんも仰ってました、みんな必死で生きて、そして死んでいく、健気でかわいく、愛おしくもあるそのディテール、存在感そのものにある。たとえばその生き物たちの、質感。あるいは、そのモノたちの質感ひとつひとつに、「本物」の手触りが感じられる。この、こうした感触こそが、やっぱりストップモーションアニメのキモでもあるわけですよね。まあその魅力的なキャラクター、あれはよかったこれはよかったなんて言っていると、キリがないんですが。

とにかく本作は、様々に出てくるそうした「マリガン」と呼ばれる地下生物たち……どんな辺境の、底辺の場所にも、それでもたしかに根付いて、今日を生き抜こうとする人々、モノたち、生命たちとの、その出会いと別れっていう。だからこれこそが……その人類救済のための鍵探し、という大きなストーリーの柱以上に、いろんな人々との出会いっていう、そこの味わい。これがメインテーマの作品と言っていいかもしれない。そしてそれはやっぱり非常に、『不思議惑星キン・ザ・ザ』的な味わいですよね。

「いいから今、見とけ! 後々、自慢できるぞ!」

ただ、もっとも本作はですね、さっき言ったように、実は三部作の一作目。二作目は1000年前に話が遡って、物語の発端的なことをやるのかな? そして三作目は、今回の続き、そして『2』とも接続する、という、そういう計画らしくて。なので今回はあえて、まだまだ小さな話にとどめている段階かもしれない、という。当然、現実の制作条件、制約もあったことでしょうから。つまり、二作目以降を我々が見るためには、この一作目が、きっちり大ヒットしてもらわないと困る、ということなんですね。

あの、たしかに音楽とか、もっと作りを洗練する余地はある作品だと、僕も思います。ただですね、これ、たとえば音楽を外注とかしてですよ、「整えた」として……本シリーズにとってそれはプラスなのか?っていうと、僕はそれはすごく、疑問だと思います。なので僕は、このまま堀さんが信じるように突き進むのが一番……まあ、そんなことはね、たぶん堀さんは、誰が何を言おうと突き進むと思いますけども(笑)。言われなくてもやると思いますが。ぜひ皆さんね、メイキング映像なんかもセットで見るとより、このすごみ……でも、そういうゲタを抜きでも楽しいってのはもちろん、その通りだと思いますし。1粒で2度おいしい。いや、3度おいしい! という作品じゃないでしょうか。

ということで、まず最初に言ったことを繰り返します。「いいから今、見とけ! 後々、自慢できるぞ!」という一作でございます。今、「見ない」という選択はない。ぜひぜひ劇場で……絶対におすすめです。劇場でウォッチしてください。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は……『ミナリ』のカプセルが出たあと、吉田大八監督がゲスト出演した際に置いていった1万円で再チャレンジして出たカプセル、『騙し絵の牙』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『騙し絵の牙』を語る!【映画評書き起こし 2021.4.9放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『騙し絵の牙』(2021年3月26日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは3月26日から劇場公開されているこの作品、『騙し絵の牙』

(曲が流れる)

はい。これね、吉田大八監督こだわりの音楽使いというかね。LITEというインストロックバンドを起用して、非常に細かく音の指定とか場面の付け方みたいなのをLITEの皆さんと詰めまくって。また、LITEの皆さんがそれに緻密に緻密に応えまくって付けた、こだわりの音楽使いというところもぜひ見ていただきたい……なんてことを吉田大八監督、お越しいただいた時にも言っておりました。

ということで、出版業界の内幕を描いた塩田武士の同名小説を『桐島、部活やめるってよ』などの吉田大八が監督・脚本を務め映画化。舞台は出版不況の中、大改革が進められる大手出版社・薫風社。廃刊の危機に陥った雑誌「トリニティ」の変わり者編集長・速水は新人編集者・高野を巻き込み、生き残りをかけた大きな賭けに出る。原作に当て書きされた大泉洋がそのまま速水を演じているほか、松岡茉優、佐藤浩市、國村隼、木村佳乃など、豪華キャストが集結した。木村佳乃さんもよかった。いつも異常に細くて、目のギョロっとした感じが際立っている感じとか、役者陣がめちゃめちゃ、ある意味説明を省く意味でもあの役者陣のたたずまいみたいなのがすごく役立っていた気もしますけどね。

ということで、この『騙し絵の牙』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「多い」。ああ、そうですか。まあ、吉田大八監督の最新作、映画ファンならもはやね、必ず見に行くものになってると思いますしね。注目度は高かったっていう感じですかね。

賛否の比率では7割以上が褒め。好評の意見が多かったです。

主な褒める意見としては「エンタメとしてストレートに、『めちゃくちゃ面白い』!」「テンポがよくてグイグイ引き込まれた」「豪華俳優陣も見どころ十分。中でも大泉洋と松岡茉優の主演2人が抜群」「出版界の内幕物としても面白い。原作からの改変も見事だった」などがございました。一方、否定寄りの意見としては「原作からの改変が受け入れ難かった」とか「予告の印象と違う。もっと騙し合いのストーリーを期待していた」などがございました。あの予告見ると、いわゆるコンゲーム物というかね。『オーシャンズ』シリーズとか、わからないけども。そんなような感じがするかもしれない。けど、そういうのじゃないんですよね。

■「様々なテーマが盛り込まれ、劇中での『面白ければ、目玉は何個あったっていいんだから』というセリフを思い出した」byリスナー

ということで、まずは代表的なところをご紹介しましょう。褒めの方。「ゐーくら」さん。

「『騙し絵の牙』、滅茶苦茶面白いです。冒頭、松岡茉優さん演じる高野が問題となる原稿に引き込まれる様子と、リードを引く犬のスピードが上がっていく様子が編集・音楽も含めて加速していき、そのまま物語全体がハイテンポで進んでいきます。この飼い犬のリード、すなわち手綱を、社長自身が引ききれていないという描写は、この時の状況を暗に示すものであり、のちの展開を予見させるものでもあります。

今回の主人公である大泉洋さん演じる速水という男は、原作小説では大泉さん本人に当て書きされたものですが、吉田監督はあえて本人としてではなく編集者・速水として演出したそうです。そのため、確かにパブリックイメージとしての大泉さんに近いけど、はっきりと底知れぬ恐ろしさが滲んでいるというちょっと不思議なバランスのキャラクターになっていると思います。登場シーンから食えないやつだと思わされるのに、本人は平然と食ったり飲んだりしている不気味さ。やることなすことそれ自体は目的ではなく、あくまで自らの生き方の手段であるという点は、『紙の月』で宮沢りえさん演じる梨花に重なる部分を感じました。

この映画では始めと終わりにコーヒーがこぼれる描写がありますが、ラストの場面では、ああいつもの大泉さんだなと思わせておいて、ある展開があり(感情を爆発させて初めて人間らしさらしきものがみえる)ゾッとしました。

この映画は騙し合いバトルだけでなく、“作品に罪はない”論争や、この時代に出版業界が生き残っていく方策、スポンサーにより創作物が廃れていく問題など、様々なテーマが盛り込まれており、劇中での速水の『面白ければ、目玉は何個あったっていいんだから』という言葉を思い出しました」というあたりでございます。

一方、今回は実は否定的な意見の方にもすごい面白い視点のものがいっぱいあって。ちょっとこれね、紹介しきれないのが申し訳ないんですけど。代表的なところでこの番組でもちょいちょいお世話になっていますラジオネーム「本屋プラグ・嶋田」さん。ラジオネームというか、これは和歌山にある本屋プラグという超イケてる本屋さん。いろんな試みをして、まさに頑張っている本屋プラグの島田さんでございます。番組もご出演いただきました。

でですね、「観終わった後の率直な感想は、予想外にというべきか、吉田大八監督だから当然というべきか、やはり面白かった」。面白かったとはおっしゃっている。

「ただその反面、では一体何が良かったのかと振り返れば、松岡茉優さんや国村準さんなど、芸達者な役者さんたちのグルーブ感に、吉田監督のとにかくテンポの良い編集。その勢いに上手くのまれたといった感じで、そこで描かれているものに対しては、どうしても看過できない違和感や、そこからくる物足りなさも覚えました」。で、ちょっと一部省略をしながら行きますね。

「この作品のなかで登場人物たちが騙し合いながら奪い合う、薫風社の経営権や、伝説の作家・神座の原稿といったものは、映画用語でいうところのマクガフィンで、それ自体に意味は無く、それを奪い合うサスペンスこそが見物ということは理解できるのですが、ただ、あまりにもそのマクガフィンの重要性が説得力に欠け、そのために登場人物たちが、空騒ぎをしているような印象も抱いてしまいます。

また、そのマクガフィンの奪い合いの中でトリックスターとして動き回る大泉洋さんの行動原理は“おもしろさ”ですが、出版業界の片隅にいる者としては、その大泉洋が言う“おもしろさ”が、特に廃刊危機の雑誌『トリニティ』の誌面作りにおいて、“自分達が本当にしたいことをする”“意外な有名人の原稿を引っ張ってくる”といったものであるのは、あまりに表面的というか安易というか。本当に面白いものって、そういうのじゃないでしょう」という。で、「そもそも『トリニティ』という雑誌の立ち位置がよく分からない」とか。

で、実際の文芸界というのは非常にすごい頑張っている。全然アップデートもしてるし、頑張っているんだ、ということをもっと知ってほしい……ということを書いていただいて、そしてその「(現実の文芸誌の)成功の要因は、実は『トリニティ』の“おもしろければ何でも良し”の編集方針とは真逆、“何が今、読者に求められているのか”“文学を通して何を訴えるべきなのか”を、一貫して問い続けている結果です。逆に言えば、こうした視点は日本のメジャー作品に欠けているものではないか?」というようなことも書いていただいて。

「劇中の大泉洋さんの行動原理に戻れば、“新しいことが面白い”“変ったこと、意外なことをするのが新しい”という考えは、実は本屋業界においても、何となく求められているように感じられることもあり、カフェや立ち飲みを併設していたり、イベントをたくさんしていたり、何かしら新しい取り組みをしていることが、どんな本を扱っているのか、どんな発信をしているのかよりも注目されてしまう現状は、やはり口惜しさを感じてしまいます」ということでございます。これも面白かったですね。

あとはですね、これは劇中の高野という主人公の実家である高野書店。これのロケ地となった忍書房。この忍書房に行かれていた方のメールなんかも番組で紹介しましたけども。忍書房さんからメールをいただきました。「小腹が空きました」というラジオネームで。で、これもまたね、「どうせ読めないでしょう」ってすごく長く書いて。ラジオもすごく聞いていただいるなっていうのがすごくわかる文面で、嬉しかったですけど。

で、その中では、この出版不況というのがなぜ起こったか。これはグローバル化とか、電子書籍化とか、そういうことじゃなくて。取り次ぎシステムという、これはパンフの中でもね、そういうコラムが載ってるんで。これ、ぜひパンフを買って読んでいただきたいですけど。そんなような、出版不況の実態みたいなことがあったりとかね。あとは、そのいわゆる古い書店、街の本屋っていうのは地元に密着したものとして機能しているので、そういうところをもっと、ちゃんと最後に着地で見せてほしかった。生き残りのあり方としてっていう。

もちろんね、塚本晋也さんが演じるあの本屋のお父さんは子供たちにずっとね、立ち読みを許しているっていう。要するに、コミュニティーの一部として、育てていくのも含めてやっているっていうところはまあ、やんわりとは描かれてはいるけども……という。とにかくね、その高野書店さんの元である忍書房さんからのメール。これも面白かったですし。

あと、構成作家の古川耕。古川耕さんは出版業界でも長くやっておりますので。古川耕さん。「トリニティ編集部ロケの舞台はおそらく週刊文春編集部だけども、出版ネタとしてはKADOKAWAに関するものが多いと思われる」みたいなね。「劇中に登場する牙プロジェクト。これ、現実に実際には実現していますよ」とかですね。あとは先程ね、本屋プラグさんのメールにもあったように、「実際には文芸誌。時代に合わせて頑張ってますよ」というようなことも示唆いただきました。ありがとうございます。

■ポンポンと進む即物的な語り。吉田大八監督作の中では最もわかりやすい面白さ

ということで、ちょっと長くなってしまいましたが、私も『騙し絵の牙』。まず僕が最初に見たのはあれですね。本来の劇場公開の予定だった昨年の6月の直前のタイミングで拝見して。さらにこの番組、3月30日に吉田大八監督をお招きするにあたって、またもう1回見たりとかね。で、ちなみにその吉田さんがまさに「面白いから」(※劇中の速水のセリフ)って言って置いていったガチャ再まわし用の1万円を使って。最初は『ミナリ』が当たったのに、もう1回使ったらこれが当たっちゃったという、そういう流れです。それで今週、またTOHOシネマズ六本木に見に行ってきました。

なんか、『シン・エヴァンゲリオン』のヒットの煽りでちょっと興行的には苦戦しているなんて聞きますけど。僕が見た限りでは平日昼だったらまあ、そこそこいる方じゃないのっていうぐらいにはいるように見えましたけどね。

ということで、みんな大好き吉田大八監督最新作でございます。僕はですね、あの歴史的大傑作『桐島、部活やめるってよ』以降、運良くガチャが当たって。全作、扱わせていただいて。評をさせていただいていますし。2017年のこれまた歴史的怪作『美しい星』以降はですね、みやーんさんによる公式書き起こしもありますので、こちらを参照していただくと吉田大八監督、これまでどんな感じで作ってきたか、流れを踏まえていただけると思います。

でですね、今回の『騙し絵の牙』、これまでの吉田大八監督とはちょっとだけ毛色が違うような、ちょっと新機軸なところもあって。これは吉田大八さんご自身も番組にいらした時に仰ってましたけど。何かで何かを象徴するというような、象徴性の高い場面とか描写みたいなのがあんまりなくて。とにかく出来事の連続。ポンポンポンポンと出来事が連続することでテンポよく話が連なっていく。一種、ハードボイルド的っていうか、即物的な語り口が印象的で。

それもあってか、吉田大八監督作の中では最もわかりやすい面白さ。たとえばあっと驚くどんでん返し的な、一種コンゲーム物、ミステリー的なあっと驚く系のカタルシスみたいな。そういうわかりやすい面白さが前に出た、エンターテイメント性の高い一作になっているかなという風には思います。と同時にですね、何度も言ってますけどね、これは出版業界の裏側を描く一種の業界内幕物でもあって。これ、たとえば最近だと『響 -HIBIKI-』とかね。あと、それこそ同じく佐藤浩市さん主演の『大いなる助走』っていうね、筒井康隆さんの小説の映画化とか。いわゆる文学界物っていうのはちょいちょい、たまに映画であったりしますけど。

これはその出版業界物ということでね。特にこの番組を聞いてくださっているようなリスナーの方はね、本・雑誌・出版物への興味。あるいは紙の本や街の本屋さん的なものへの思い入れがより強い方、たぶん普通よりは多いと思うので。まあデジタル化、グローバル化が進む中、そういう文化がどうなっていくのかという、まあカルチャー状況論。文化のあり方をめぐる議論としても興味深く、何割か増しで楽しく見れるのは間違いないと思いますし。

で、そうした中にはですね、そういう内幕物であり、出版業界をめぐる時代の変化を描くものでありつつ、そういう中には僕が毎度言っている吉田大八監督作に一貫するそのメインテーマ……客観的にはどれだけ非合理に見えても、人はある種の夢を見ながらじゃないと生きていけないものだろうっていうような、そういうメッセージというか、思いのようなものもしっかり最終的には浮かび上がってくるというような。まあ、エンタメ性が高く、そして業界の内幕物としても面白く、そしてやはり吉田大八監督の作家性という意味でもガッツリ、やっぱり刻印されているという、そういう一作であるという風にまずは言えると思います。

■原作では速水視点。対して映画版では、松岡茉優演じる高野視点にアレンジ

原作は塩田武士さんによる大泉洋さんに当て書きされたという、これ自体結構珍しい経緯の2017年に発行された小説なんですけど。ただしですね、この吉田大八さんと楠野一郎さんという、放送作家としてコサキンなどでもおなじみの方との共同脚本で、かなり大幅なアレンジをしていて。ざっくり言えば、原作では基本、大泉洋さんがイメージされたその主人公の速水側の視点、心理から話が進んでいくし。最終的にそのとある仕掛け、視点の転換的なことが小説側にも用意されているんだけども、それも速水のその真の人間性、実像に迫るようなものだったりするということですよ。

ちなみに、描かれている時代状況も2017年に出た小説ですけど。やっぱり2021年の現在読むと、わりとはっきり古くなっちゃっているなというところもあったりしますね。それは実は、今回の映画版にもちょっと……要するにたぶん脚本を書いてる段階なのか、今から見るとちょっと古い話にも見えるかなっていうところは残ってはいるかなという気もしますが。それに対して今回の映画版、まあそもそも主人公。メインとなる視点がですね、やはり大きく原作からアレンジ、膨らませられた、高野という松岡茉優さん演じるキャラクターに移されていて。

大泉洋さん演じる速水は彼女の目から見た、一種得体の知れない人物。なんならですね、時には悪役的にすら見える、さっきのメールにもありましたが、トリックスター的な存在になっていて。まあ大泉さんが過去に演じた中で言えば、三谷幸喜さんのこれ、私は2013年11月16日に評しました。『清須会議』。あれの秀吉役。あれが大泉さんのこういう怖い面というか。だからそういう意味では三谷さんのあれね。いろいろ言いましたけど、大泉洋さんのそこをピックアップして引き出したっていうところはすごい慧眼ですよね。はい。まあ秀吉役に近いかなと。

とにかく、やはり非常にざっくりと、あえて乱暴に整理するならば、大泉さん演じる速水は時代の変化の先を読んで、いち早く手を打つ。目的のためなら手段を選ばない、したたかなやり手で。ただ、その目的ってじゃあ何?っていうところ。たとえば単にお金とかではないっていうね。詳しくは後の方で言いますけど。実は彼なりの情熱とか、一応信念みたいな。さっき言ったような、非合理かもしれないけど……という夢みたいなものがそのベースにはある。その目的っていうものに垣間見えるというところにまず、吉田大八監督らしい人物造形。あるいは吉田大八監督らしい大泉洋というキャラクター解釈。大泉洋さんの解釈というのが現れているかなと思います。

対する主人公、松岡茉優さん演じる高野は純粋なその「夢」の部分。この場合は文学とか、あるいは本屋さんとか。まあ、その理想というものの信奉者、追求者っていうことですよね。で、大手出版社に勤務しながら、いわゆるその街の本屋さんが実家でもあるという。これ、要するに、その業界の大手第一線と末端っていうの間に主人公を置くっていう。それによって、その本とか雑誌文化の全体的な状況みたいなものをわかりやすく、なおかつ身近なものとして観客に飲み込ませていくという。これは置き方がすごい上手い作りですよね。

■恐るべき松岡茉優の役柄解釈の深さ、そして演技技術の高さ

で、お話そのものはね、それこそ『アウトレイジ』みたいなことですよね。組織内の出し抜き合い、パワーゲームってことですからね。まあヤクザ映画に非常に近いというかね。楠野さんとかも「『タイタニック』の中の『仁義なき戦い』。沈みゆく中での『仁義なき戦い』だ」っていう風に……あ、楠野さんがおっしゃったことを吉田さんが言ったのかな? とにかく、そんなようなこと、コンセプトで作られているみたいですけども。

まず序盤。いろんな実在の会社を連想させる、その大手老舗出版社の薫風社の社内の権力闘争構図やら何やらをですね、当然一気にいろんな人が出てきて情報がすごく多めなんですけれども。これ、小林聡美さん演じる文芸評論家のまあ、かなりカリカチュア、デフォルメされた解説なんかも込みでですね、やはり非常にテンポよく簡潔に提示していく手際。非常に手際がいいですよね。めちゃめちゃ難しくなっちゃいがちなところをちょっとデフォルメとかもしてわかりやすくしている。

特に冒頭。やはりですね、吉田大八監督の非常にエッジーな作りという感じで、冒頭が非常にいいんですけども。先ほどのメールにもあった通りですね。犬を散歩させる薫風社社長と朝、まだ誰もいない編集部で新人の応募原稿を読む高野というこの2つの場面が交互にカットバックされていくんだけど。まずこれ、吉田さんにも直接お伝えした通り、ここで松岡茉優さん。原稿に目を走らせるその眼球。目線の動きだけで、まずその小説を読むという行為への集中度の高さ。すなわち、「ああ、読むということ、小説が本当に好きなんだな」っていうことがもう伝わってくるというのと同時に、プロならではのチェックスピードの早さ。読むポイントがピッピッピッて。止まって止まって。「ああ、ポイントでチェックしてるな」っていうような眼球の動かし方をしていて。

つまり、その情熱とプロの冷静さっていう、その両方をこの目線の動きだけで表現しているという、これは舌を巻く上手さですし。その後のコーヒーをこぼしてしまうっていうところでの、あのアドリブだという一言でさらに彼女の人柄。文学への愛と敬意。それがごくごく自然に伝わってくるというこれ、恐るべき役柄解釈の深さですし。さすが松岡茉優さん。そして演技技術の高さといったところだと思いますね。

そしてそれを松岡さんがですね、原稿に向かって読む方向とは逆の方向。右から左に向かって先を急ぐ、この犬に引っ張られていく息苦しそうな社長の姿。リードに引っぱられている。先ほどのメールにもあった通り。どんどん加速するようにそれがカットバックしていく。

まあ、それはあたかも……これも先ほど、メールで書いていただいた通りですね。時代のスピードについについていききれなくなった古い出版業界、文学界のその体質というものをちょっと暗示するようでもあるという。で、カットバックのスピードがどんどんどんどん高まっていくに従って、まるであの『羊の木』のクライマックスみたいなギターが「ギョワーーンッ!」って不穏に盛り上がってきて。ここはさすがLITEさんの音楽、よかったですけどね。

で、それがだんだんだんだんグワーーンってカットバックが速くなって、音楽が盛り上がる。それが極に達したところでブツッとその音楽が止まって。で、この静かな朝の公園を走るランナーが見つけたのは……ここで、見つけるのが倒れている社長じゃなくて、リードが手放されて所在なさげにぽつんと歩いている犬っていう、ここがまた粋ですよね。はい。ちなみにこの映画冒頭の方で印象的に出てくる1匹の犬って、これは言わずもがな、黒澤明の『用心棒』的だなって思ってたわけですよ。で、よくよく考えてみるとお話全体もちょっと『用心棒』っぽいなっていう感じがしますよね。まあ、若者を引っ張っていきながらの、その組織を内部から自壊させていくという意味ではこれはもう『椿三十郎』的という言い方もできるかもしれませんけどね。なんてことを勝手に思ったりしましたが。

■國村隼、我が家の坪倉、池田エライザ……芸達者たちの説明不要な存在感も大きい

で、そこから社長のお葬式。そして國村隼が本当に楽しそうに戯画化された大先生を演じてみてる。もうやおら、「枯れ葉よ〜♪」って歌い出すタイミングとか最高ですけどね。ベテラン作家のその何周年パーティーっていうのと、そこでさっき言った、早速その速水が仕掛けてくる罠にまんまとハマった高野が実家の本屋に帰ってきて……という。その、さっき言った出版大手の第一線から街の本屋。その末端まで。本・雑誌文化の全体像っていうのを非常に多数の登場人物のその立ち位置説明まで含めて一気に飲み込ませていく。大づかみさせていくというこの序盤。やっぱりなかなか匠の技というかね。うまいなという感じがしますね。

もちろん、演じる芸達者たちの説明不要な存在感。その人がもういれば、そこでどういう人かがある程度わかるっていうね。それも当然、大きいわけですけどね。あと、速水が送り込まれたそのカルチャー雑誌『トリニティ』のですね、現状、ちょっと気が抜けた状態というのがたとえば表紙とかロゴのデザイン。あと、実際にやっている特集とかボードに書かれた企画案などからなんとなく伝わってくるあたりも本当に……だからこそ、あの後半でリニューアルした後のすごくシャープにデザインが変わったあたり。海外ファッション誌みたいに変わった感じっていうのがすごくシャープに際立つという。このあたりもう言葉じゃなく、情報として伝わってくるところですし。

あと、これは吉田さんにも伝えましたが、編集部内の保守派というか、反速水派というか。そんな役としてこれが映画初出演だという我が家の坪倉さんですね。坪倉さん、彼が最高にハマっている。吉田大八作品においてはですね、それこそ『桐島』で松岡茉優さんがまさにそうでした。あるいは、その『紙の月』の大島優子さんもそうですけど、日常にいるなんか、なんとなく感じが悪い人役っていうのは物語世界全体のピリリとした緊張感をセットする役。言うなれば他者性を代表する超重要な役どころで。今回ではそこを坪倉さんが担っているわけです。

もっと言えば、この役柄は物語終盤、速水が真にもたらそうとしたものへの気づき。それを実際に言葉にするということでメインテーマを口にする人の1人でもあるわけですよ。だったらすごい重要。坪倉さん、今後もね、役者として活躍をしてくるだろうという感じはしますけどね。あと、これはまさに映画らしい華の部分としてわかりやすい美男美女。それぞれ違った役割で出てくる宮沢氷魚さん。『his』に続いてあのミステリアスな存在感がすごく効いてましたし。

池田エライザさん。ご本人が非常にカルチャー感度高めの方だから、やっぱり表層的な美しさ、かわいさの奥に隠された何か。非常にハマり役でした。ただ、あのあそこで交わされる銃をめぐる会話は、本当のガンマニアはあんな会話をしねえとか。あと、パンフに載っているZINEもよくよく書いてあることを読んでみるとちょっとこれ、おかしくない? とかあるんだけど。まあ、それはいいや。とにかく、彼女をめぐるとある事件。ありがちな展開だと見せかけて、もうひと仕掛け。これは彼女のキャラクターを考えれば「ああ、なるほど!」っていうことでもあるし、非常に見事だと思います。

でも、だったらその手前の会話。『シークレット・サービス』のマルコヴィッチをめぐる会話も、だったらあっちの銃の話をするべきでは……とか思ったりするけど。まあいいや。

■「“面白さ”とはなにか?」への問いかけもある。ただし最後のオチにはちょっと疑問が

ということで、いろんな展開があって、出し抜き合いがあって、非常にスリリングな展開。最終的にそこから速水の真意が浮き上がってくる。でですね、割とここ、本当にびっくりするどんでん返しがあったりするんで、それは劇場でたしかめていただきたいですが。最終的にはこれ、全てのエンターテイメントコンテンツに共通する話で。そのビジネスのあり方とかね、そういうのは年々、日々変わっていくってのはこれはもう当たり前だし。ずっとそうなわけです。問題はその中で真に大事にすべきものは何かということですよね。

権威の維持とか、会社の存続。こういうものももちろんビジネス的に大事ですけども。時代や形が変わっても変わらないひとつ、追求すべきものとして、ここでは「面白いものの追求」っていうことがひとつ、挙げられるわけです。これは先ほど、本屋プラグさん。その面白さの追求って……僕はでもね、そのプラグさんがおっしゃっている、いろんな試みも込みで「面白さ」ってあるし。この映画の面白いところは、その面白さの追求というのは、でも速水が言っているそれ以外にもあるでしょうっていうところまで、ひとひねりして提示して見せるところだと思います。つまり「バズる的なことだけが面白さなのか?」というような問いかけもあったりする。

で、もちろんこれは一種のファンタジーで。劇中の一番大きなトリック。冷静に考えて……僕、1回目は気になりませんでしたけど、2回目見ていくと、「いや、これはあり得ないでしょう?」っていう。こんなリスキーなトリックはあり得ないというものだったりするし。あとオチのひとひねりもですね、なるほど、現実の様々な試みとも重なるところがありますが、これ、劇中のこのオチは、結局既存の権威を借りていることには変わらないですよね? しかもそれを独占するって、これはいい話なのかな……?ってちょっと思っちゃったりしましたけど。

そもそもこの紙の本。あるいは街の本屋とか、もっといえば文学、出版文化。大事に思っているってことが前提の……つまり、この問題意識の共有がわりと前提の話なので。「えっ、俺、本とか別にどうだっていいんだけど?」っていう観客が見たら多少、これはさらにピントがぼけたものに見えかねないとも思うし。あと、現実の出版業界の動き。先ほどもいろんな人の指摘がありましたけど。もっと先に進んでいる部分ははっきりあるので、ちょっとだけ古い問題意識なのかなという感じもありはありました。

■エンタメ+業界内幕物としての面白さ、作家性、問題提起。これはこれで申し分ない出来!

ただこれ、わりと見て十分に面白かった上で、改めて考えてみたらいろいろ浮かび上がってくるっていうことであって。ひとまずエンタメ+業界内幕物という部分で面白さの担保、そして問題提起の部分。さらには吉田さんの作家性の刻印という意味で、こういう作品としては申し分ない出来ではないかという風に思います。ガン会話のどこがダメかっていうのは今度、吉田さんに会った時に言います。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『21ブリッジ』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『21ブリッジ』を語る!【映画評書き起こし 2021.4.16放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『21ブリッジ』202149日公開)。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、49日から劇場公開されているこの作品、『21ブリッジ』

(曲が流れる)

『ブラックパンサー』『マ・レイニーのブラックボトム』、まあこれが遺作になってしまいましたね……などのチャドウィック・ボーズマンが主演と製作を務めた、タイムリミットサスペンス。マンハッタン島で警察官8人が殺される強盗事件が発生。調査に乗り出したデイビス刑事だったが、事件の真相に迫るうち、自分の正義が試されることになる。

その他の出演は、シエナ・ミラー、ステファン・ジェームズ、テイラー・キッチュ、JK・シモンズ。いずれ劣らぬ名優たちですね。監督は『ゲーム・オブ・スローンズ』などを手掛けてきたブライアン・カークさん。テレビ畑で活躍されてきた方。また製作には、『アベンジャーズ』シリーズの、アンソニー&ジョー・ルッソ兄弟が名を連ねている。チャドウィック・ボーズマンは20208月にこの世を去りましたので、本作が最後の劇場公開主演作品となりました。

ということで、この『21ブリッジ』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「普通」。まあね。賛否の比率では、7割以上が褒め。残りは、「面白いが、そこまででもない」という意見。まあね、めちゃめちゃ新しい、変わったことをしているっていうわけじゃないですからね。

主な褒める意見としては、「派手さはないが、銃撃戦はリアルで見応えあり。最後に残る苦い余韻も含め、これは思わぬ拾い物」「昔よく見たタイプのアクション映画だが、きちんと現代版に味つけされている」「チャドウィック・ボーズマンはやはりよい役者だった」などがございました。一方、否定寄りの意見としては「悪くもないが、よくもない」「展開が読めすぎ。既視感のある場面も多い」などがございました。

「良いアクション映画を観た、という充足感のある映画だった」byリスナー

代表的なところをご紹介しましょう。「ブリジット林田(リンダ)」さん。

「まずは鑑賞後の、この苦み。正に70年代の刑事アクション映画の様な後味が嬉しい! 終盤の「ガントレット」の様な追い込み展開! ルメットやフランケンハイマー、フリードキン、マメットらの作品を思わせる、街と物語と一体に感じられるような映画になっているのも嬉しい! しかも、最近はNYを舞台にしながら、実景のみをNYで撮り、ドラマの大部分はカナダなどで撮る映画が本当に多いのですが、本作ではNYでの撮影に出来る限りこだわった、という点にもスタッフの気概を感じます。

強盗犯が使用する銃器も、ライフルやカービンではなく、9mmのサブマシンガンで、アメリカアクション映画らしからぬ抑制が利いていて嬉しい! しかも襲撃犯のステファン・ジェームズはフルオート発砲なのに対し、「ローンサバイバー」などで軍人役を経験済み、かつ劇中でも腕がいいと評されるテイラー・キッチュが、指切りによるバースト射撃でセミと点射を使い分けていた点に感激」と。で、いろいろとアクション映画の歴史みたいなものを書いていただいて。

「決して大傑作ではないかもしれないけれど、いやー拾い物だったなぁ、ちょっと地味かもしれないけど良いアクション映画を観たなぁという充足感のある映画でした。それがまた嬉しい」ということでございます。

一方、ちょっと否定寄りの意見。ラジオネーム「赤目長耳」さん。「率直な感想は、普通です。とても面白い、というわけでもないが、つまらないというほどでもない。激しい銃撃戦や追走劇でアガるところもありましたが、厨房を抜けて裏口へ、とか、既視感のあるシーンも多く、USBに入った秘密も、その後の人物たちの行動も予想通りで、現代ならではの目新しさを感じられなかったのが残念。

とはいえ、終盤にある人物が語った、『NYの警官はNY市民に嫌われながら市民を守っている』などの内情には、今も警官の待遇は変わっていないのか……と愕然となりました。主人公にしても、父親を殺された過去から、バットマンを彷彿とさせるような振り切った正義感の持ち主であり、そこまでの心情でなければ正義の側に立っていられないのか……と、切なくもなりました。もっとスカッとする楽しい映画かと思っていたのに、意外な感想になりました」といったところでございます。

ということで、皆さんメールありがとうございます。

■ジャンル映画としての定石を手堅くまとめつつも、しっかり現代的。堂々たる娯楽映画!

21ブリッジ』、私もTOHOシネマズ日比谷で2回、見てまいりました。まあ正直ね、私が見た平日昼にしても、やや空き気味かな、という感じではありましたけどね。こんなにしっかり面白いのに!という。ということで、アメリカ本国では201911月に既に公開済みで、実際にはちょっと前の作品になるわけですね。まあひょっとしたらこれ、日本ではこの、硬派な、言い換えればちょっと地味めでもある作品の雰囲気から、ひょっとしたら本来だったら劇場未公開とかになりかねなかったところが、このコロナ禍で、劇場にかける作品のタマ、特にアメリカの大型娯楽作が少なくなってる中で、「じゃあ……」ってことで引っ張り出してきた、だからこんなに時間がかかった……とか、そういうことなのかな?って、ちょっと邪推してしまいますけど。

だとしたらでも、この機会に劇場で見られた我々観客にとっては、これは非常にラッキーなことだったと言えると思います。結果としてチャドウィック・ボーズマン生前最後の劇場公開作となった、という点を置いておくとしても、これはめちゃくちゃ満足感の高い一作だと、私は思います。アメリカ刑事アクション映画の伝統、系譜を、かなり意識的に受け継いで、一種定番的な、ジャンル映画としての定石をしっかり手堅く抑えつつも、実はしっかり現代的な視点や語り口、それゆえのフレッシュな面白みや味わいを独自に盛り込んで……実は丁寧に見ればそこらへんがわかってくる、というあたり、「映画館って元々、こういうのを見に行くところだったよな。こういうの目当てに、こういう拾い物をしに行くところだったな」っていうのを思い出させてくれるような、僕は堂々たる娯楽映画だ、という風に思いましたね。

まあ製作のアンソニー・ルッソ&ジョー・ルッソ兄弟。もちろん今となっては、マーベル・シネマティック・ユニバースを代表する、つまり世界のエンタメの頂点に立つ、メガヒット量産チーム、という立場なわけですけど……そもそも、彼らが一躍名を挙げた、MCU屈指の傑作とされている2014年の『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』にしてもですね、思い返してみれば、その高評価のポイントのひとつはですね、『大統領の陰謀』オマージュなロバート・レッドフォードのキャスティングにも明らかなように、70年代アメリカ映画、特にその、ポリティカル・サスペンス物ですね。そういう硬派なリアルさ、薄暗さみたいなものを、現代版エンターテイメントに見事落とし込んでいた、という。そこだったわけですよね。

あるいは、さらに遡って2002年の『ウェルカム・トゥ・コリンウッド』という(ルッソ兄弟が脚本監督を手がけた)長編映画なんですけど。これ、言っちゃえばタランティーノ、あるいはそこから発展してのガイ・リッチー風のクライムコメディなんですけども、やはり、60年代後半から70年代初頭的ないなたさ、っていうのがひとつの味になっていた作品だったと思うし。あるいは、昨年ね、Netflixで公開されて大評判となった、クリス・ヘムズワース主演の『タイラー・レイク 命の奪還』っていう(ルッソ兄弟プロデュースの)長編作品も、あっと驚く肉弾アクションは確かに最新のスタント技術を駆使したものではありましたけど、やはり全体のざらつき、汚れ、くたびれた風情……最後のなんか虚しさが残るような風情っていうのは、70年代アメリカアクション映画のそれを、やっぱりしっかり彷彿とさせていたりとかして。

要はルッソ兄弟、最新の技術やセンスとか、あるいはその最新スターを起用するっていうところで、もちろん現代のスター監督たちではあるんだけど、同時に実は、アメリカ映画にですね、70年代アクションのテイストっていうのを蘇らせようとしているような、そういう意図があるような人たちである、と言えると思います。

■マイケル・マン、ウィリアム・フリードキン、ドン・シーゲル……アメリカ刑事アクション映画の手触りを意識的に継承

で、今回監督に抜擢されたブライアン・カークさんという方もですね、テレビドラマシリーズですでに大活躍されてきた方で、『ゲーム・オブ・スローンズ』とか『ボードウォーク・エンパイア』とか、あとは刑事物としてはイドリス・エルバ主演の『刑事ジョン・ルーサー』シリーズとかありますけど、とにかく、今回抜擢されたこの方は、今回の『21ブリッジ』を監督するにあたって影響を受けた対象として、これはもうあちこちのインタビューではっきり、マイケル・マン師に影響を受けた、と公言しているわけです。言うまでもなくマイケル・マン師……「マン師」っていうのは私の呼び方です(笑)。70年代の硬派な陰鬱さみたいなものを継承しつつ、主に80年代以降から2000年代までのアメリカ・クライムアクション、特にガンアクションを革新してきた、この分野の、まさに名匠ですね。

ちなみに今回の『21ブリッジ』、撮影監督はマイケル・マン、2004年の『コラテラル』もやっているポール・キャメロンさん。このポール・キャメロンさんは他にも、『60セカンズ』とか『ソードフィッシュ』とか、なんというか、色気のある現代犯罪都市映画みたいなものの、非常に名手ですよね。みたいな感じがあったりする。で、話を戻しますけど、この本作の監督ブライアン・カークさんは他にも、『フレンチ・コネクション』、これは言うまでもなく1971年、ウィリアム・フリードキンの、狂った刑事アクションの金字塔ですね。そこにオマージュをはっきり入れてますよ、なんてことを言ってたりするわけです。

まあ、どこかといえばたぶん、序盤のあの車を飛ばすところ……高架線の下でね、車を飛ばす。地面すれすれにカメラを固定して、恐ろしいスピード感を演出するあのショットとか。あの主人公と対立する、ちょっと太った黒人刑事のしている、アンクルホルスター。あれがやっぱりね、(『フレンチ・コネクション』でジーン・ハックマンが演じる主人公の刑事)ポパイっぽい、っていうね。そのあたりかなと思いますけど。で、個人的にはやはり、アメリカ刑事アクション、犯罪映画、50年代後半から70年代にかけての名匠、みんな大好きドン・シーゲル風味も、すごく感じる感じでございますね。

たとえばあの、タタキに入ったところが思った以上にデカい、ヤバい組織が金庫代わりにしているところで、追われることになってしまう小悪党チーム、というこの発端は、『突破口!』という作品っぽいですし。当然『ダーティハリー』テイストもそこかしこにあったりとか。もちろん、70年代刑事アクションとかドラマとしては、1973年、汚職警官物の大傑作『セルピコ』とか……それはね、後にまた、たとえば『トレーニング・デイ』とか、近年でも『ブラック アンド ブルー』に至る、警察組織の腐敗と対立する正義漢の刑事、という、こういう映画のジャンルの系譜でもあるし。

あと、チャドウィック・ボーズマンの、すごく優等生的なアフリカ系アメリカ人刑事っていうたたずまいはやっぱり、『夜の大捜査線』のシドニー・ポワチエ的でもあるな、とかね。あるいは、そもそもこの『21ブリッジ』というこの、「数字+単語」っていうタイトルのつけ方からしてですね……これ、元々のタイトルはちなみに17 Bridgesで。実際にニューヨーク、マンハッタンに、実際にかかっている橋の数は17本なんですけど。それにトンネルのルート4つを足して21 Bridges、ということになったみたいですけど。それはいいんだけども。

で、まあその「数字+単語」っていうのは、近年の犯罪映画の、ジャンルもののひとつの型になっていて。それこそですね、2006年のリチャード・ドナー監督『16ブロック』。これは、ニューヨークのマンハッタンというある種の限定空間設定とか、仲間であるはずの警察たちもまた……という展開であるとか、追われる側の犯罪者、これはラッパーのモス・デフが演じていますけども、その追われる側の犯罪者にも完全に感情移入させる作りでもあることなど、非常に僕は今回の『21ブリッジ』との共通項が多いと思っています。『16ブロック』。

あと、同じく限定的な空間、距離での攻防戦である『マイル22』という2018年の作品、これはマイケル・マンの門下生であるピーター・バーグ監督の作品ですよね。とか、あとはまあ、あれも一応刑事アクションということで、21ジャンプストリート』と『22ジャンプストリート』(笑)。それもあったりすると思います。とにかく、最初の方でも言った通り、アメリカ刑事アクション映画、犯罪映画のかつてあった硬派な手触り、苦い味わいみたいなものを、かなり意識的に継承しようとしている一作、ということはまず、言えるわけです。この『21ブリッジ』は。

■先が読める展開ながらも、「面白みの密度」が現代娯楽映画の密度になっている

で、わかりやすいところでは、もう冒頭というか、夜のシーンになってからさっそく、先ほどこの(映画時評コーナーの)時間が始まる前に(番組内のフリートークで)ちょっと解説しましたけど、律儀に、実に美しく路面が、常に濡らされている、という。まさにこれはノワールの王道的な演出、ということをちゃんとやっている。その時点で、「ああ、ちゃんとやってるわー!」という感じがすごくするわけです。非常に画面も美しいし。

でもその意味で、これは言い方を変えれば、手堅いと言えば手堅いんですけども、映画を見慣れた人だったら、かなり先が読める話であることはこれ、間違いないと思います。非常に先が読める。けども、この作品がとても偉いのはですね、これは最初の方でも言った通り、ちゃんとそこに、独自の現代的な視点、語り口を、さりげなくも織り込んでいるところ。丁寧に見ていくとそれが分かる、という風に僕は思っています。

まず大きいのはですね、その手軽なタタキのつもり──強盗ですよ──手軽なタタキのつもりが、予想をはるかに上回るデカいヤマであることが判明。結果、文字通り街中から全力で追われ、殺しにかかられることになる、小悪党の2人組。彼ら側の視点を、追う側であるそのチャドウィック・ボーズマンに演じるアンドレ・デイビス刑事たちの視点と、ほぼ同等の比重で描いていること。

彼らにしっかり感情移入をさせられるから、そっち側のシークエンスになれば本気で、「ああこれ、どうかうまく逃げ切ってくれ!」という気持ちで、自然にハラハラ見られるし。もちろん、主人公の追跡劇もスリリングに見られる。まあ単純にこれ、「1粒で2度おいしい」作りですし。あと、「どちらもうまくいってほしいけど、これ、どうすればいいんだ?」みたいな、引き裂かれるような感情っていうのも堪能することができる、という。つまり、面白みの密度っていうのが、やっぱりこれまで……70年代のこういう、この手のジャンル映画より、面白みの密度が、ちょっとやっぱり濃いんですよね。現代娯楽映画らしく、ちゃんとやっぱり濃くしてあって。

これはやっぱり、ルッソ兄弟というね、これは伊達に世界のエンタメの頂点に事実上いる人たちではないですよ。やっぱりそこはね、現代エンタメにちゃんと合うように、密度がちゃんと調整されている。また、その2人組にですね、きちんとそのキャラクター的な深みを表現できる芸達者を、ちゃんと配役していること。これも当然、大きいわけです。

まず序盤。このブルックリンのレストランに隠されているコカインを強奪すべく、口にマスクをして武装した、この2人組が行くわけです。

ステファン・ジェームズ演じるマイケル・トルヒーヨというアフリカ系の青年は、フォアグリップとサプレッサー付き……消音器というか、音を減らすやつですね、フォアグリップとサプレッサー付きの、ウージープロという銃を持っている。一方、テイラー・キッチュ演じるレイというキャラクターは、CZスコーピオンEVO3-S1という、やはりこれもサプレッサー付きのを持っている。ちなみにサイドアーム用、バックアップ用に持っているピストルは……みたいなのもあるんだけども、そこは置いておいて。

で、その銃の構えであるとか、店に侵入していく身のこなし。明らかに素人ではない。恐らくは元軍人であろう、というのがもう、見事な身のこなし方からも伝わってきますし。そのテイラー・キッチュ演じるレイ側。これ、先ほどのメールにもあった通りです。このレイ側は、バースト射撃をして、弾を無駄撃ちしていないわけです。一方、マイケルはやっぱり、ことが起こると、やっぱり無駄にフルオートで弾をばらまくような撃ち方をしていたりする。ここで2人の力量とか、あるいは戦いに対する向き・不向きというか、みたいなものが見えてくるというのも、ガンシーンとして見事なものですし。

あと、やっぱりこのCZスコーピオンEVO3-S1とウージープロ、っていうこのチョイスが、プロ的なチョイス……なんというか、「公的機関に属していない元プロが、頑張って揃えた」っていうか、そういう感じかなというね、このあたりもよく出てるなと思います。で、実際に彼らは、アフガンに従軍をしていたことが後から明かされるわけですけど、そこで簡単に……非常にセリフ上は簡単に語られる、彼らの生い立ち、っていうのがあって。で、これをですね、それぞれの俳優の見事な演技によって、これははっきりと生身の人生として、セリフで語られる以上のニュアンスで、非常に浮かび上がってくるんですね。

■追われる2人組を演じたテイラー・キッチュとステファン・ジェームズ、ふたりの見事な演技

たとえば、そのテイラー・キッチュ。非常に荒れた土地で育った、その中では少数派だった白人だったと。で、テイラー・キッチュ自身が、かつては陽性主役級スターだったわけですよね。本当にね。だったのが、まあそれらが軒並みコケちゃって。で、いつの間にか、わりと脇役専門になってるんですけど。特にやっぱり、さっきも言ったピーター・バーグの『ローン・サバイバー』あたりから、非常にいい感じに汚れた、くたびれた脇役が似合うようになってきてですね。今回とかちょっと顔つきとか、ちょっと太ったっていうのもあって、ジョン・ヴォイトっぽい顔つきをしているな、と思いましたけども。

まあ要は、暴力に頼ることでしか生き残ってこれなかった、もうハナから出口のない人生を送るしかなかった男の悲哀が、特にやっぱり彼の出番の終わり際……本当に数分というか、数十秒ですかね? そこのテイラー・キッチュの演技に、ギュギュッと……あと、セリフも泣けてしょうがないセリフを言っているんですけども、ギュギュッと集約されていて。客観的に見れば最低の、本当に迷惑野郎、犯罪者なんですけど、しかしそれに同情し、観客は涙してしまう。これぞ映画のマジックだな、ということを彼は見事に体現していましたし。

さらに輪をかけて素晴らしいのが、このマイケル・トルヒーヨ役の、ステファン・ジェームズ。彼は、『栄光のランナー 1936ベルリン』っていう、これでジェシー・オーエンスっていうオリンピックの伝説的な選手を演じていたりとか。あとは、『グローリー/明日への行進』で、学生運動家のジョン・ルイス役……まあ、要はちょっとチャドウィック・ボーズマンのキャリアとも重なるような、アフリカ系アメリカ人俳優として非常に意識の高さを感じさせるような役柄を、ずっと歩んできた方ですけど。個人的には今回の『21ブリッジ』で、一番連想したのはですね、やはりバリー・ジェンキンス監督の、『ビール・ストリートの恋人たち』でした。

要は、本来は知的で、穏やかな資質の青年が、環境の悪さの方に巻き込まれ、絶望的な状況に追い込まれていく。その時の、「なぜこんなことに……と観客側に問いかけてくるような、訴えかけてくるような目線。ステファン・ジェームズさんは、これがとてもニュアンス豊かに表現できる人なんですね。それこそ今回の『21ブリッジ』でも、冒頭、口元にマスクをしていてさえ、その目元で人柄が伝わってくる、という、見事な感じ。で、途中で語られる彼の生い立ち……その「マイケルなら(賢いから)何にでもなれたんだ。この街に生まれてさえいなければ……っていう。もう、このセリフの時点でちょっともう、涙くんじゃうような切なさがありますけども。

この『21ブリッジ』が、実はやはりとても考えられて、うまく、深く考えられて作られているなと思うのは、このセリフが後半で生きてくる……これは僕の解釈です。彼が後半、ホテルで、宿泊客の部屋に押し入ります。で、その客の青年が、そのコンピュータのパスワードとして、「エイトクラップ・ワン」だって言うわけです。この「エイトクラップ(Eight Clap)」っていうのは、UCLA伝統の、公式応援スタイルなんですね。なので、この青年の風体からして、恐らく彼自身がそのUCLAの、名門大学の学生なわけですよ。

で、マイケルは、彼のスーツと眼鏡を借りて、ヒゲを剃って、変装をするわけです。つまり、逃亡犯然としていた先ほどから打って変わって、エリート青年風に変身するわけですね。つまり、さっきのセリフとこれは、対になっているわけですよ。本当はマイケルは、「こっち側の人」にもなれたのに、なのに……っていうことが、このエリート学生の服を借りて、シュッとした青年に変身する、でも実際は、最低最悪の状況になってるわけです。その状況とのギャップで、またこれが、さりげなくも悲しみが増す作りになっていて。本当にこれは上品で、うまい作りだなと思いました。

■定番ながらフレッシュな地下鉄シーン。脇を固める俳優陣の存在感。そしてその中心にはチャドウィック・ボーズマン

で、そこからね、やはりニューヨークを舞台にしたアクションなら、やはり出ました! やっぱり地下鉄へとなだれ込んで行く、逃走・追跡劇。これ、出発しかけた列車に、乗るの? 乗らないの? ドアが閉まる間際に、降りるの? 降りないの? みたいな、その瀬戸際ですったもんだする、みたいなのは、もちろん皆さんね、過去にも映画でたくさん見てきたと思います。もうさんざっぱら、星の数ほどありますよ。

ただ、この『21ブリッジ』のこの描写はですね、逃げる青年と追う刑事、どちらもアフリカ系青年の2人が、車両を挟んで対峙するこのシークエンス、これまでちょっと見たことないような、言ってみれば2人の関係性がより強まって見えるような顛末になっていて。すごくさりげないんだけど、非常にフレッシュだし、よく考えられていて、そして極上の演技も堪能できるという……これ、ぜひこの場面、どういうことなのか、見てください。さりげないんだけどね。こんな風に(列車に乗る乗らないという本来かなり定番的な見せ場を)使った映画はないですよ。

そして、ここから続くクライマックス。静かな、しかし厚みとスリリングさ、意外性もある、非常に本当に見事なクライマックス。名場面になっていると思います。この、移動していく地下鉄の、この舞台立てが本当に見事だ、ということですね。他にもね、チャドウィック・ボーズマンが自ら、そのギャラアップ分を出してあげてまで共演を望んだ、シエナ・ミラー。その臨時相棒役であるとか。

背後でさらりとベテランの重みを醸す、『ゼイリブ』でもおなじみの、キース・デイヴィッドであるとか。そして、あのJK・シモンズ演じる警部……やはり、この作品全体の重みを、最後の最後でもう1個重くする、あの堂々たる大演説まで、誰もが要は、「単色ではない」キャラクターの掘り下げというのを、セリフやストーリー的展開じゃなくて、各々が「体現」してみせる。これによって、往年のジャンル映画的な、キビキビした無駄のない語り口っていうのもこれ、実現できてるわけですよ。だから、言葉で語られている以上のものが、もう表現できちゃってるわけです。この映画はね。

そして、なんと言ってもですね。その全てを、中心でキリリとまとめあげてみせる、チャドウィック・ボーズマン。まさに気迫の力演ですね。これ、疑心暗鬼がストーリーを駆動していく作りであるため、彼自身の足元がいつすくわれるか……つまり、下手すりゃ背中から撃たれるんじゃないか、あるいはバッジを掲げて表に出ていっても撃たれちゃうんじゃないか、みたいな、そういう危うさが最後までつきまとう。そして、この危うさ感っていうのはやっぱり、とてもBLMBlack Lives Matter以降の我々観客の目線……だから図らずも現代性を持ってしまった、という部分でもあるし。

■シリーズ物の「映画」として定期的に見たかった……!

しかし、それでも最後まで、彼が信じようとした、守ろうとした矜持とは何か? 『ダーティハリー』で、たとえばクリント・イーストウッド演じる暴力白人刑事、警官であるダーティハリーが、ラストで投げ捨てたバッジを、本作の彼は、そしてこの映画は、どう扱うのか?っていうところ。刑事物の歴史、系譜から見てもですね、この2019年にはこの着地、というのが、非常に味わい深いという風に思います。

これ、「アンドレ刑事」物、実はシリーズでも全然見たい、ぐらいの感じでしたね。とにかく私的には、こういう映画が定期的に作られ、そして更新されていくような、そういう「映画」であってほしい、という風に、改めて切に思いました。日本では配信のみ、とかじゃなくて本当に良かった。ということで、ぜひぜひ劇場でウォッチしていただきたい一作でございました!

(ガチャ回しパート中略 来週の課題映画は『ノマドランド』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『ノマドランド』を語る!【映画評書き起こし 2021.4.23放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

宇多丸:山本さん、この残りの時間を使って、『ノマドランド』の評の中に、ちょっと入りきらない話をしていいですか? どうしても話したいことがあって。これね、TOHOシネマズ。僕は今回、日本橋と六本木で2回見てきたんですね。で、日本橋の方は日曜日に行って。日曜日の昼の回なのもあって、すごい入っていたんですよ。で、一瞬場内で、ある場面になって、「はっ!」って声が上がるぐらい、なんかすごいいい雰囲気で見れて。まあよかったんですね。なんだけど、驚くべきことにこの日曜の時点では、劇場用パンフの発売はない、っていうことだったんですよね。『ノマドランド』

金曜パートナー:TBSアナウンサー山本匠晃:あっ、そうなんですか?

宇多丸:まあ、近年わりとサクッと公開される、なんていうの、ジャンル映画系とかだと、たまにそういうのがあったりするんだけど。これは一応、本年度アカデミー賞主要部門の最有力候補作でしょう? なおかつ、原作がノンフィクションなのもあって、現代アメリカ社会、要するに現実の社会問題を描いた作品で。なおかつ、これはまさにクロエ・ジャオ監督独自のスタイルなんだけど、詳しくは後ほど言いますけども、とにかく、まあまあ変わったやり方で作られている一作なんですよ。つまり、要は特に我々日本に住む一般観客には、結構説明がいるっていうか、鑑賞後にパンフを読みたいタイプの作品じゃないですか、どう考えても。なので、なんで作らないの?って思ったんですよね。

で、そもそもその、本作を製作しているサーチライト・ピクチャーズ、元はフォックス・サーチライト・ピクチャーズの日本での劇場公開作品はね、毎作品、「サーチライト・ピクチャーズ・マガジン」というタイトルでナンバリングされたシリーズで、非常に充実した内容のパンフがあったわけ。かつて、そのミニシアターごとに統一フォーマットでパンフが出ていたことがあるんだけど、そういう……シャンテだったらシャンテとか、シネ・ヴィヴァンだったらシネ・ヴィヴァン、っていう様式であったように、統一フォーマットのパンフが毎回出ていて、すごい充実していてよかったのに。「なに、20世紀フォックスがディズニーに買収されたら、それもやめちゃうわけ?」みたいに思って。

なんかちょっと、何だかな、って思っていたら、その僕と同じ不満を持った人が当然、『ノマドランド』なので、結構いたはずで。たぶんみんな、パンフ、ありますか? パンフ、ありますか?って聞いたんだと思うんだけども。今週になって、「やっぱりパンフを作ります。金曜から各劇場で売ります」というアナウンスが、これはサーチライト・ピクチャーズの日本の……ディズニー傘下ですけど、そこから発表があって。で、まあ「遅いよ!」とは思ったんですけど。だって、もう映画館には行っちゃっているわけだから。俺は2回も3回も行くからいいけど、普通の人で一番熱心な人はもうね、買い逃しちゃっているよ!って思いつつも。でも、出ないよりはいいかなとは思って。

それで私もね、映画評もあるし……映画評の「お布施」の意味もあるんで。今朝の一番の回で俺、六本木に行ったわけですよ。そりゃあ六本木にはあると思うじゃん? 東京でさ。

山本:ああ、今日からパンフレットが置いてあるということだから。

宇多丸:で、「パンフ、ください」って言ったら、「いや、こちらの作品、パンフのお取り扱いはしておりません」って……「ナニー!?ですよ。で、「いや、そんなはずはないです。そんなはずはないんで、ちょっと調べていただけますか?」って食い下がって。そしたら、「これは各劇場の管轄なので、ちょっとうちではどこで売っているのかもわからないです」とか言い出して。「えっ、それって……ひどくない?」って思って。「じゃあ、買えないじゃない?」って思って。

「いくらなんでもそれは不親切すぎるでしょう? TOHOグループの中でどこで売ってるかぐらいは確認ができるんじゃないですか?」っていう風に食い下がって、ようやく上映後に、「日比谷と新宿に置いてある」って言うんだよ。まずさ、その置いているところと置いてないところがあるって何なんだよ?っていう感じだけど。5億歩譲って、「だったらアナウンスしておけ」っていうことじゃん? 「ここで売っています」っていう風に。

で、もう仕方ないから、その足でさっき日比谷に行って買ってきたよ、バカヤロー! なんなんだよ、本当に。とにかく、この対応全体、東宝が悪いのか、日本のディズニーが悪いのか、はたまた両方が悪いのか、わからないけども。不親切すぎる……というか、もうちょっとナマの言葉で言うと、マジでクソすぎ!

山本:ちょっと映画を愛するがゆえにね……

宇多丸:というか、『ノマドランド』という作品をナメてるんじゃないのか?って。はっきり言って。で、なんでナメているのか?ってね、わかる気もするよ、それは。なぜなら、でもね……っていう話は後でしますけどね。ちなみに最初に対応してくれた方は、「私も『ノマドランド』はいい映画だと思います。映画は楽しんでください」って言ってくださって、フォローはしてくださいました。

山本:この後、映画評です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、326日から劇場公開されているこの作品、『ノマドランド』

(曲が流れる)

『ファーゴ』『スリー・ビルボード』でオスカーに輝いたフランシス・マクドーマンドが主演を務め、アメリカ西部に暮らす車上生活者たちの姿を、美しい自然と共に描いたロードムービー。原作はジェシカ・ブルーダーのノンフィクション『ノマド 漂流する高齢労働者たち』。監督は、『ザ・ライダー』で高い評価を集めて、MCUの大作『エターナルズ』の監督に抜擢された、新鋭クロエ・ジャオ。77回ヴェネツィア国際映画祭、第45回トロント国際映画祭で最高賞に輝き、第93回アカデミー賞では作品、監督、主演女優、そして編集など、主要6部門でノミネートされております。クロエ・ジャオさん自身が編集をやっていますからね。

ということで、この『ノマドランド』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「多い」。そりゃそうですよね。こんだけね、アカデミー賞の発表も近いですからね。(アカデミー賞の結果発表は)来週ですよ。賛否の比率は褒めが6割以上。その他は「期待していたほどではなかった」とか「よくわからなかった」という意見が残り3割ちょっと。

主な褒める意見としては、「雄大な自然と、その中で誇り高く暮らすノマドたちの暮らしぶりに圧倒された」「実際のノマドたちが登場しているのもすごいが、その中に混ざったフランシス・マクドーマンドもすごい」「人生について考えさせられた」などがございました。一方、否定寄りの意見としては「ノマドの生活が理想的に描かれすぎている。このような存在を生み出した社会構造への批判がないのは問題」とか「あまりに淡白すぎて退屈」などがございました。

■「人の営みがすべて相対化された世界で、どう人として生きていくのか?」(byリスナー)

代表的なところをご紹介いたしましょう。ラジオネーム「コーラシェイカー」さん。

「この作品、アマゾン等への批判的な目線が欠落しているとの批判があるようですが、この作品の視点を考えると、そういう形になるのは必然に思います。なぜなら、この作品の世界観は、諸行無常で、盛者必衰だからです。何回か出てくる、いつからここに横たわっているのだろう、この大きさになるまで何百年かかったのだろう、と思わせる大木や岩といった、自然のアート。それらの悠久とも思える時間は、一人の人生、企業の反映、アメリカの歴史という人間の営みすべてを相対化してしまいます。

そして、人の営みがすべて相対化された世界で、どう人として生きていくのか?

これは哲学的な問題です。大切な人が死に、自分のキャリアも価値のあるものとして社会にみなされなくなった、流転する人の世界を生きるフォーンは、自分の「外」の世界ではなく、自分の「中」に意味を見出しています」。

これ、ちなみに冒頭の方でね、あのアマゾンで働いてる女の人で、手にそのザ・スミスの歌詞を入れ墨している。そのスミスの歌詞もね、実はほぼ、頭の方でそういうことを言ってるんですよね。「ホーム(家)は心の中にあるものだ」っていうね。

「国立公園のガイドの解説を離れるフォーンが印象的でしたが、あれは『人の営みの<外>の世界』へ旅行していることを強調しているのだと思います。ただし、フォーンは人の世界で生きてきた人間であり、自然にとってはゲストでしかありません。

これはあくまでこの作品世界の価値観の話ですが、人の世の中では人間は、何を残すこともできません。残せたとしてもそれはすぐに消える儚いものです。友達の葬儀が印象的でしたが、人が死んだ後に残るものは何もありません。摩耗していく車、皿、自身の生命をなんとかごまかして維持しながら生きていくしかないのです。

しかし、これは必ずしも悲観すべきことではないと思います。自分の人生の意味を、目的(何かを築くとか残すとか)のための手段とせずとも、自分の人生自体を目的とし、人は生きていけるからです。彼女にとって「自分の人生を目的とする」とはどういうことなのか。かけがえのない思い出を大事にし、自然へのあこがれを堪能することだと思います。これらは彼女にとって揺るぎのない確かなものです。貧困は嫌ですが、こういう生き方も素晴らしいのかなと思いました。だって、この映画の自然の描写、あまりに素晴らしい!」

というね。だから、もちろん貧困は貧困で問題だけど、単色で描いているわけではない、という部分もありますしね。その読み解きとして素晴らしいものがありますね。コーラシェイカーさん。

一方、多少否定寄りの意見。LALALANDさん。「非常に複雑な感想を抱きましたが、賛否で言うと否の方です。自分は、アメリカの高齢労働者、特に“ノマド”と呼ばれるワーキャンパーたちの労働の実像をどれだけ描いているのかに興味を引かれ、鑑賞を楽しみにしていました。

しかし、作品では労働描写はさらっと見せられるだけ。しかも、Amazonの物流センターという、劣悪な労働状況で知られる現場の様子ですら、そこに従事している労働者たちが何もキツい素振りも見せず、淡々と仕事をしているという記号として置かれていて、労働描写は、あくまで主人公ファーンの心情の解放に向かう旅路や、同じワーキャンパーたちとの交流の背景として機能していて、正直悪い意味で驚きました。

苛烈な肉体労働の描写やコミュニティ外のワーキャンパーの存在をオミットし、それをロマンティックで雄大な景色と共に表現しようとするのは、観客に“ノマド”に対するある種の幻想を抱かせてしまうのではと思ってしまいました。

そもそも、この作品が描きたかったことがアメリカの現代社会、及び車上生活への問題提起ではないことは十分理解しているつもりです。ですが、負の部分をもっと強く描いてこそ、この作品の“社会から疎外された人々の生き方の選択の主体性“というテーマに、より一層重みと厚みを与えてくれたのではとも思ってしまうのです」という。

まあ、先ほどのコーラシェイカーさんの読みとも矛盾はしないけど、まあひとつ、見方としては全然妥当性があるような見方だな、という風にも思います。といったあたりで皆さん、メールありがとうございます。

■金銭に還元しえない、世界の本質的な豊かさに満ちた「リッチ」な映画

私も『ノマドランド』、先ほどもね、この時間の前に、何の話をしたんですっけね……TOHOシネマズ日本橋とTOHOシネマズ六本木で、見てまいりました。六本木にはパンフは置かないのかな? 置くところと置かないところがあるってどういうなんですかね? はい。で、とにかくでも、パンフが最初に作られていなかったとか、その置いてるところと置いてないところがあるとか、「なんかちょっと、アカデミー賞有力作にしては扱いが軽くございませんか 配給さん、もしくは東宝さんよ」みたいなところはあるけれども。

たしかにまあこの『ノマドランド』、主演のフランシス・マクドーマンドと、デイブという役柄、要するに旅先でちょっと、その主人公とちょっとだけ何て言うか、恋愛まではいきませんけどね、ちょっとだけ惹かれ合う感じのデイブ役、デヴィッド・ストラザーン以外は、実際にそのノマド的生活をしている、元のノンフィクションにも出てきている本物の「本人」たちばかりだし……ということなんですよね。要するに、ちょっと地味ではある。

ちなみにそのフランシス・マクドーマンドにしても、あくまでやっぱりその、市井の人の目線に寄り添えるというか、その中に溶け込める強さ、っていうのがあってこそのキャスティングだし。そのデイブ役のデヴィッド・ストラザーンの方もですね、主人公が軽く惹かれ合う相手だけがプロの俳優っていうのは、かっこいいとかなんとかっていうよりは、僕が思うに、いわゆる本物のノマドの人たちをキャスティングしてる中で、一目で「ここは通じ合う、ここは何か特別な絆がある」っていうことを、説明抜きで納得させる存在感ということで……そこがキャスティング的に対になってるっていうか、プロの俳優を置く、っていうことをしているという程度のことで。

なおかつ、そのデヴィッド・ストラザーンのね、その実際の息子さんが、息子役で出てきて。しかも息子さんとの距離感も、彼の実人生を反映しているということで。なので、ある種「本人」キャスティング、っていうところには、やっぱり変わりはあんまりないわけです。で、ちょっと地味でもあるし、当然きらびやかさとは正反対の、言ってみれば貧困層の暮らしが、特に派手な事件とかも起こらず……ちょっとこれ、ネタバレになっちゃうかもしれないけども、たとえばなにか痛ましいことや怖いことが起こるとか、そういうのでもなく、あくまでも淡々と描かれていく、言っちゃえばもう、はっきり地味な映画でもある。「小さな」映画に見える。

都内の東宝チェーンにしても、まあシャンテで単館上映とかが、本来の感じではたしかにある。しかし同時にこの『ノマドランド』。わかりやすいところではね、皆さん、メールに書いていない人はいないですけども、あの雄大な自然の景色。その美しさとかもそうだし、その、どれだけお金を積もうとも、これには敵うまい! というような、本当に世の中で価値のあるもの、豊かさ。たとえば、先ほどから言ってきましたが、美しい風景……それもただの美しい風景ではなくて、先ほどメールですごくちゃんと書いてありましたね、その時間経過、人間のサイクルを超えた、雄大な「時間」も含めたその風景の大きさ、みたいなことであるとか。

あるいは、それぞれにかけがえない人生を生きた人々との交流……これもやっぱり、実際にその人が生きてきた「時間」ですよね。その場面に映ってるよりもっとある、時間。つまりそれって、コスト還元できないじゃないですか。みたいなこと。とにかく、コスト還元できない、金銭に還元しえない、世界の本質的な豊かさに満ちた、とても「リッチ」な映画、というような言い方もできてしまう作品だと思うんですね。この『ノマドランド』は。

■原作ノンフィクションからクロエ・ジャオ監督はアメリカの本質そのもを外部の視点から浮かび上がらせる

そしてその、地を這うような、地味な、貧しい人の話でありながら、同時に、お金がいくらあっても、作り物で再現してどうこうっていうもんじゃないような、世界の豊かさ、美しさみたいなものに満ちてもいる、というこのバランスは、まさにこの本作の、テーマそのものでもある。作品のあり方がそのままメッセージにもなっている、っていう、これは表現のひとつの理想ですよね。要するに、表現されている形態がそもそもメッセージになっている、みたいな。そういう理想を、ひとつ達成している作品、という風にも言えると思います。

しかも、そこから最終的に浮かび上がってくるものは……というところで。もちろんですね、これは特にその原作のノンフィクション、日本では先ほども言いました、春秋社というところから『ノマド 漂流する高齢労働者たち』というタイトルで出ていますけども、そのジェシカ・ブルーダーさんというジャーナリストが自ら、その車上生活者たち、ノマドたちと生活を共にしながら浮き彫りにしていく、現代アメリカ資本主義の問題点、矛盾、みたいなことですよね。

まあそういった、要は社会の歪みに対する鋭い問題提起、みたいな面。特にその原作ノンフィクション、あと、それを元にした短編ドキュメンタリーがあって。実はこれが最初の映画化じゃないんですよ、この『ノマドランド』は。このジェシカ・ブルーダーさんがプロデューサーになって、短編ドキュメンタリーで『CamperForce』というのが作られていて。これはYouTubeでも見られるんで。短いんで皆さん、ぜひ見ていただきたいですけども。

そちらももうはっきり、そのアマゾンの職場、それでどういう労働条件であるか、みたいなところが中心に描かれていて。非常に社会批評的側面が色濃い……当然これ、長編映画版の『ノマドランド』も、背景のなんというか、大前提、現実的な大前提として、それはもちろんあるはあるんです。ただそこで、それこそケン・ローチ的なと言うのかな、社会批判みたいなところにいく、そっちが色濃くなっていくのではなくて(※宇多丸補足:社会批判が前面に出てくるタイプの映画作家の代表格としてここではサクッとケン・ローチを挙げましたが、言うまでなく彼はイギリスの監督です、念のため)。これはやっぱりクロエ・ジャオさんが、元はもちろん中国の方で、アメリカというものに対して一種、外からの視点というか、「アメリカってこういう国だよね」っていうちょっと引いた目からの……まあ憧れも批判的目線も、ちょっと引いたクールな目線というか。

だから僕らにも近いですよ。「アメリカ……ああアメリカだよね。アメリカ、よくも悪くもアメリカ」みたいな、そういう距離感。だから「うちの国がこんなになっていて恥ずかしい、許せん!」みたいなケン・ローチ的スタンスと違うのは、そういうクロエ・ジャオさんの立ち位置もあるのかな、と思うんですが。最終的にはアメリカという国の本質そのもの、魂そのものを、言っちゃえば外部の視点だからこそ、鮮やかに浮かび上がらせてみせてしまうような。

で、最終的には、もっと言えば僕は、この映画を見終わって感じたのは、さらにアメリカとかも超えて、その資本主義文明のその果て、その先、未来の行く末、みたいなところまでを見据えてしまうような、そういう実は途轍もなくデカく長く広い射程、普遍性を持った……これは結構やっぱり映画として、すごくとんでもないものができているんじゃないかな、という風に僕は考えております。

そして、そこまでの領域に本作を持っていったのはやはり、脚本・監督、そして編集のクロエ・ジャオさん。これの才能……割と独特の才能ですね。独特な作風、というところによるところが大きいんじゃないかと思います。当番組的にはですね、201965日に、映画ライターの村山章さんが、クロエ・ジャオの長編二作目……フランシス・マクドーマンドもこれを見てヤラれたという、2017年の作品『ザ・ライダー』を、当時はアマゾン・プライムで見られたというね、今はネットフリックスとかにも入ってますけど、それをご紹介いただいたのが最初で。

これはね、やっぱりS・クレイグ・ザラーといい、村山章さんの目利きぶり、もう間違いない! ちょっと村山さん、最近映画の話を聞いてないから、聞かないと。早く村山さんを呼んで。これね、この『ザ・ライダー』はどういう話かというと、頭に大怪我を負った、ロデオ・ライダーなんですけども、ロデオへの情熱を諦めるかどうかの瀬戸際に立たされた青年が、生まれ育ったその西部の風土に色濃い、言わばその「男らしさ」の圧力から、自ら「降りる」決断をする、という……しかしそれでも残る、真のアイデンティティーを再発見しようとする、というような、そういう話で。これもプロの俳優ではない、その人「本人」たちがですね、半ばドキュメンタリー的に、彼らが生きる世界を本当に生きてみせる、というその独自の演出、ストーリーテリングのスタイル。

しかも、それをサポートし、実現してみせるカメラマン、ジョシュア・ジェームズ・リチャーズさん。このコンビネーションも、実は一作目と、一個前の作品『ザ・ライダー』、今回の『ノマドランド』で、全部一貫してると。ちなみにパンフでは、このカメラマンのジョシュア・ジェームズ・リチャーズさんのところが、「原作」ってなっていて。これは誤字ですね。急いでパンフ、作ったのかな?(笑) あるいはやはりね、アメリカ中西部、そのそれまでの暮らしから「降りる」ことを余儀なくされた人々が、それでも現代のフロンティアとして、「その先の世界」を生きていこうとするという、まあ「ビヨンド西部劇」とでも言うべきスタンスというか。

アメリカ論的なその視点みたいなところまで、やはりこのクロエ・ジャオさん、2015年の長編デビュー作『Songs My Brothers Taught Me』という……これ、僕はこの現時点では予告しか見れてなくて、申し訳ない。ちょっと予告とあらすじしか把握してないんだけど、それと、さっき言った2017年の『ザ・ライダー』、2020年の『ノマドランド』と、本当にもう完全に一貫した、明白な作家性というのを持っています。(MCUの新作となる)四作目は、はっきり変わることがもう明らかになってるわけなんですが。

たとえばこの『ノマドランド』主演のフランシス・マクドーマンドは、ごく小規模な撮影隊と共に、実際に州を跨いで、車中生活やその短期労働もね、お仕事なんかも実際にやったという。原作のノンフィクションにも登場する、定住地を持たず、その車中で暮らす高齢の労働者たち……これはだから、原作に出てきた人、特にリンダさんっていうメガネをかけた方、リンダさんは、原作では彼女の人生の変遷がメインに描かれている、まあ言っちゃえば原作における主人公的存在だったりするんですけど、まあそのリンダさんであるとか。

あの「話しかけるな」マークっていうかさ、「話しかけるな」っていうのを示す、「Don’t Disturb」を示すあのドクロの旗とか、あれを本当に掲げていたというあのスワンキーさんっていう方……彼女が話す言葉がまた、作品全体に、大きな大きな意味を持ってきたりもしますが、その彼女であるとか。あとはやっぱりね、あのボブ・ウェルズさんっていう、要するにラバー・トランプ・ランデブーっていう車中生活者たちのコミュニティーの、リーダー的な存在であるとかという。

ちなみにこれ、そのノマドたちが、この劇中でも1人だけ黒人の女性が出てきましたけど、基本的に白人ばかりでしょう? で、それがなぜなのか?っていうのも、原作に書いてあって。これはまあ、考えてみればなるほどっていうか。言っちゃえば、この暮らしができるのは、白人の特権のうちなんですよね。つまり、分かりますね? Black Lives Matterで何が問題になっているか? あんなことをやってたら、黒人はとてもじゃないけど、生きていけないわけです。はい。

というような、実はだから、ああいう暮らしができる人は、それでもやっぱり恵まれてる、という言い方ははっきりできたりもすると思うんですけども。まあいいや。

そんな感じでね、彼らのコミュニティーに、フランシス・マクドーマンドは実際に馴染んで、その一員となって撮影を進めていったと。で、どれだけフランシス・マクドーマンドが馴染んでいたか、というと、これはインターネット・ムービー・データベースのトリビアに出てた話で、「本当かよ?」と思ったんだけど、あのボブ・ウェルズさん、さっき言ったそのおひげのサンタクロースみたいなおじさんが、後半、そのフランシス・マクドーマンド演じるファーン……このファーンという名前からして、実質「本人役」の一種なんですよね。さっきのデヴィッド・ストラザーンが「デイブ」っていうのと同じで。

やっぱり本人が投影された役なんだけど、そのファーンが後半、それまでの人生にあった、ある吐露をするわけですよ。心情の吐露を。「こういうことがあって……」って吐露をする。そのシーンの撮影まで、ボブ・ウェルズさんは、彼女が俳優だと本当に知らずにいた、っていうんですよ。どんだけ知らなかったかというと、そのカメラが回った後、その告白のシーンを撮った後に、個人的に、「いやー、こんな大事な話をしてくれて、本当に……まあ、でもきっと大丈夫だからさ」って、心配してフォローしてくれたっていう(笑)。で、慌ててフランシス・マクドーマンドが、「いや、実はあの、私、俳優で……あの、旦那も元気で生きていまして」みたいな(笑)。という話があるぐらい、っていうことらしいんですね。

なのでこれは、414日のカルチャートークにお越しいただいた俳優・片桐はいりさん、最近の「演技のプロではない、本人キャスティング物」の演技の質をどう判断したものか──まさにこの『ノマドランド』もそうだけど──という問題を提起していただきましたけど、それに対する、ひとつの回答ではあると思うんですよね。つまりクロエ・ジャオ監督作、特に今回の『ノマドランド』はそのトーンがすごく、より今までの二作よりも強めなんですけど、半ばドキュメンタリーでもあるような、そういう撮影の進め方をしてるわけです。

つまり、そこにはひょっとしたら、社会的な弱者とされる人々にスポットを当てる際に、そのプロが、そういう人たちの「マネ」を仕事としてやっておしまい、という構図を、あんまりしたくなかったとか、そういう矜持があるんじゃないか? 一種、ドキュメンタリー作家的な矜持があるじゃないか、みたいな気もするんですが。まあとにかくですね、せっかく買ってきたんで活用しないともったいないんで……買ってきたパンフにもある通り、その「クロエ・ジャオの即興的とも言える演出・撮影・編集を経て作られていった」というこの『ノマドランド』。ただし、「じゃあ、ハナからドキュメンタリーとして撮ればいいじゃん」っていう意見も出てくると思うんですけど、それとも違うんですよね。

意外と実はしっかり、物語構造があるんです、この『ノマドランド』は。それを持ってもいて、それはおそらくクロエ・ジャオさんの、そのドキュメンタリー的素材をストーリーとして再構築していく、作品構築力の的確さ、すごさ、っていうのがあるんですよ。なのでその意味で、彼女が編集賞にノミネートされてるのは、マジで納得、ってことなんですよね。編集がすごい映画でもある。

とにかく、それゆえにそういう、要するにドキュメンタリー的素材を使って、でもそれを物語として再構築して、その構築度が高い、という構造ゆえに、さっき言ったような現実的、直接的社会批評、社会批判と同時に……いわゆるドキュメンタリー的側面と同時に、一種神話的と言っていいような、普遍性を感じさせる物語、要するにフィクション的な側面を両立させてもいる、という、なかなかすごいことを、クロエ・ジャオ的なやり方でしでかしているわけですね。

■一見散文的ながら、実は緻密に組み上げられた物語

なのでこれ、皆さん最初にね、たぶん特に1回目を見ると、序盤とか、要するに一見散文的な、直線的に進んでいくストーリーがないような映画に見えると思うんですよね。「なに、なに? これ、どこに行くのかな?」って。まさにさまよってるだけ、のように見えるのかもしれない。そういうエピソードの連なりがあったりする。あるいは、登場人物たちの、取り留めもないやり取りが続いているようにも見える。ところが、そういった11個のエピソードの連なり、登場人物たちのさりげないやり取りが、実は長い目で見ると、つまり映画が終わってみると、たとえば主人公ファーンの目を通してのその、現代ノマドライフ案内……つまり、しっかり飲み込みやすく、要点が整理されて順に提示される現代ノマドライフ案内にも、当然なってるし。

だから最初にノマドライフ、何も知らない状態から入っていく、というその目線が必要だったわけですよね。だし、それと同時に、映画冒頭でね、その2011年に実際にあった、要するに街が丸ごと消失してしまうほどの……企業が1個撤退したら街が丸ごと消えてしまうほどのそういう不況のあおりを食らって、全てを失った彼女。これ、ちなみにその全てを失って、タイトルが出る直前の、あのシーンのあの寄る辺なさ……と同時に、どこかユーモラスで人間臭くもあり。まさにあれはね、フランシス・マクドーマンドならではのオープニングですよね。あれが、あのバランスでできる人は、他にいませんよね。やっぱりね。

ということで、それは同時に、映画冒頭で示される、彼女が全てを失った状態……で、ノマドライフを通した様々な経験から、自分の人生を再び自ら選び直す、という、まあパンフにあるそのクロエ・ジャオの言葉を借りるならば、「あなたを定義しているものを失った時、あなたは自分を取り戻せますか?」という、そういう問いに自ら答えてみせるまで、という、まあもう、すごいちゃんとしたその心の旅。要するに、全てを失った後に、それでも残るもの。真のアイデンティティーにたどり着くまでの心の旅という、大変普遍的な物語としても、実ははっきり、意外と緻密に……まあちょっとしたセリフ、それと呼応した後の展開、まあ言っちゃえば要は伏線回収的なところまで含めて、意外と緻密に組み上げられていて。二度見ると、すごいそれがよくわかるんですけど。ああ、すごい物語としても緻密だ、みたいな。

たとえば、ラスト近く。まさしくその、資本主義文明の残骸、あるいは彼女のそれまでの人生の名残とでも言うべき、人気の全くない廃虚、廃屋。そこから彼女が、踏み出していく先とは……という、まさにこの映画の着地、行く先というのがですね、実はそのずっと手前の方のとある会話としっかり呼応しあった、お話としても実に筋の通った展開なんですよ。二度見ると、「ああ、だからこの終わりなんだな」っていうのすごくよくわかるようになっている。

■ローカルでありながら普遍的。リアルでありながら神話的。悲劇でありながらユーモラス。

言うまでもなくですが、フランシス・マクドーマンドの、先ほどのね、タイトル手前のシーンもそうですけど、頑固なようでいてお茶目、な個性っていうのが、ノマドたちの中にドキュメンタリー的に溶け込みつつ、実はやっぱり映画全体を終始、言っちゃえば「楽しい」ものにしているっていうのも、間違いない。ちゃんとエンターテインしているのは、フランシス・マクドーマンドのおかげ。たとえば序盤ね、なんか主人に置いていかれた、かわいそうなワンちゃんがいますね。で、それは当然、その企業に去られて生活基盤を根こそぎ失った、ファーンたちの姿と重なる。

あのワンちゃんはファーンたちそのものでもあるわけだけど、そのワンちゃんを、ファーンが一瞬だけフッと撫でて、パッと横に……飛び跳ねるように、フッと撫でて、パッと横に行くわけです。もうこれだけで、なんかおかしいし、この人物のチャームみたいなのが見えてくる。これはやっぱりね、これはさりげないところだけど、こういうところにやっぱり、フランシス・マクドーマンドのうまさであり、彼女だからこの作品が成り立っている、っていう感じが出てるんじゃないですかね。

要所要所ですごくクスッとなったり、笑っちゃったりするところがいっぱいある。これはもう本当にフランシス・マクドーマンド力。あとはね、ここぞ! というところで流れ出す、ルドヴィコ・エイナウディさんという方の劇伴も、まさに「適温!」という感じで素晴らしいんじゃないでしょうか。ローカルでありながら普遍的。リアルでありながら神話的。悲劇でありながらユーモラス。非常に豊かな幅を持った世界であり、映画ということ。

アカデミー賞の先行きは読めないけど、そういう意味で作品賞にふさわしい……特にやっぱり「アメリカ映画論」、もっと言えば「アメリカについての映画」として、突出したものがあると思います。クロエ・ジャオ、次に撮るのはマーベル・シネマティック・ユニバース最新作『エターナルズ』。想像つかねえわ!(笑) そういうのも含めて……あとね、これはちなみに風景の中に、「その只中にいる」感じを体感すると、やっぱりよりグッとくる作品なので。これは絶対にスクリーンで見るべきですね。ちなみにパンフが現状売っているのは、新宿と日比谷ですってー(笑)。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 来週の課題映画は『街の上で』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『街の上で』を語る!【映画評書き起こし 2021.4.30放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、49日から劇場公開されているこの作品、『街の上で』

(曲が流れる)

下北沢を舞台に古着屋で働く荒川青と、彼を取り巻く4人の女性による青春群像劇。青に別れを告げる川瀬雪、青の行きつけの古本屋の店員・田辺冬子、青を自主映画に誘う監督の高橋町子、青と親しくなる映画スタッフ城定イハ。彼女たちと出会ったことで、青の日常にささやかな変化が訪れる。出演は若葉竜也、穂志もえか、古川琴音、萩原みのり、中田青渚などなど、若手俳優さんが揃った上で、友情出演で成田凌さんなども出ております。監督と脚本を務めたのは『愛がなんだ』『あの頃。』などの今泉力哉さんでございます。

ということで、この『街の上で』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「普通」。まあ、でもこれ今、緊急事態宣言になって、いろいろ上映館とか限られつつある中では、健闘している方だと思いますけどね。賛否の比率では圧倒的に褒めるが多数。否定的意見はごくわずかでした。

主な褒める意見としては「今泉力哉監督の最高傑作! 登場人物たちの実在感がすごい」「下北沢に行きたくなった」「良い悪いではなく、とにかく好きな映画」などがございました。一方、否定的な意見としては「ドラマが薄くて盛り上がりに欠ける」などがございました。

■「変わりゆく街を舞台に描かれるのは、コミュニケーションという普遍的なテーマでした」(byリスナー)

ということで、代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「タレ」さん。

「今泉監督の作風は、低予算ほどかがやいて見えるのがすごいな、と思いました。これならずっと撮りつづけられるし、無敵じゃん。今作は、ご自身がカウリスマキとジャームッシュの名前を挙げていたのも納得。市井の人々のいとおしさと、なにげない日常に宿る人生の豊かさが詰まっていて、『パターソン』を思い出したりしました……ああ、『パターソン』に近いところ、あるかもね。

……まずは、本当に下北沢に実在しているとしか思えないキャストの息づき。さらに、自分でも言ったことなかったっけ? と思うようなせりふや、思わず脳内で返答してしまうような会話の妙、真剣さゆえのおかしみに、にんまりしっぱなしでした。

映画ならカットされてしまうような瞬間でも、見つめてくれているひとがいる、というやさしい目線には、胸がいっぱいになりました。思えば、全編がそんな瞬間でできているような映画。そんな中に、ひっそりと変わっていく街の風景や人の死の匂いも忍ばされていて、郷愁も誘われました。大好きな作品です。」とか。

あとね、ちょっと省略しながらご紹介しますけど。「モンゴリアンチョップ」さんは「大傑作でした」と書いていただいて。「本作は、コミュニケーションについて描かれた映画ではないかと思いました」という中で、ちょっと省きますけど、要するに登場人物同士の距離感……たとえばテーブルとかカウンター越しに会話するのか、向かい合って話すのか、横になって話すのか、そういうような位置関係演出というか、そういうところも丁寧に読み解いていただいたようなメールでございます。「変わりゆく街を舞台に描かれるのは、コミュニケーションという普遍的なテーマでした」ということです。これも絶賛メール。

一方、ちょっといまいちだったという方もご紹介しましょう。「YSM」さん。「初めてメールします。世間ではどうやら好評らしい『街の上で』。残念ながら私は乗れませんでした。下北沢を舞台にした青春群像劇。市井に暮らす若者たちの日常を慈しむような眼差しで丁寧に切り取って……とやりたいことはわかるのですが、その自然なやりとりに感心するより先に、あざとさが鼻についてしまい、最後まで作品に入り込めませんでした。そもそもこれって映画ではないといけない話だったのでしょうか?」。これ、まさに裏表の話ですけどね。

「それぞれに起こるドラマも交流ももう少し踏み込んでほしいというところで止まってしまうし、さりとて会話劇として楽しむにはセリフの妙味に欠ける。魅力的なキャストを揃えたはいいが、それを生かしたドラマを用意できなかったという印象を持ちました。これが110分ぐらいの連続ドラマだったらまた印象が違ったかもしれないけど。でも下北沢の切り取り方はよかったです」というようなご意見でございます。

「すでに失われてしまったが、確かにここにあった」街並み。それがさらに愛おしく映るタイミングでの公開

はい。ということで『街の上で』、私もですね、これはちょっと今回は……今週はユーロライブで見てまいりました。劇場公開タイミングではね。

あの、緊急事態宣言とかの中で上映館がどんどんどんどん休館になってしまう中、見られる場所が限られてる分、というのもあるんでしょうけども、ユーロライブ、僕が見た回はわりと、昼の回にしては入ってましたね。はい。といってもユーロライブ、ちゃんと1席ずつ空ける予約システムでやってるので。まあ、ちゃんとディスタンスをしっかりと取った状態で入っていた、ということですけども。

で、このムービーウォッチメンで、『街の上で』をついに取り上げる日がやってきた。この「ついに」というのは、実は昨年、20205月に公開が予定されていて。で、まあ言わずもがな、コロナウイルスの感染拡大を受けて、ご多分に漏れず公開延期になり……本当に1年ぐらい公開延期になってしまい。で、監督の今泉力哉さんは、この番組にはちょうどその頃、2020526日に、「映画の音声ガイド特集」でゲスト出演していただいた際に、僕もそのタイミングで実は一足早く拝見していて。

で、もうこの時点で「うわっ!」って……今泉さんの作品、今までもすごいいいなと思っていましたけど、『愛がなんだ』とかも素晴らしいと思いますけども、もう、大好きになっちゃってですね、『街の上で』がね。そんなテンションで。なので先月、今年の413日に、この番組に再び今泉監督をお招きして、この『街の上で』についてお話を伺った際も、普通にキャッキャキャッキャ、「あそこがよかったです。ここがよかったです。ここが楽しかったです」って語る感じになってしまった次第でございます。

その時にも出てきましたが、この作品は元々ね、下北沢映画祭でお披露目するために、下北沢を舞台にした映画を撮ってくれませんか?ということで、今泉力哉監督にオファーが行って、2019年に撮影され、完成した作品ということで。だから結構前に撮られて、完成している作品ということですよね。プロデューサーの髭野純さんという方のインタビューとかによれば、やはりその、ここ数年で急激に再開発が進んで、もう今となってはわりと根こそぎ風景が変わっちゃったところも大きい下北沢……東京の若者の街です。下北沢の2018年、19年時点での、その元の姿というのかな、それを切り取った映画を作っておきたい、という思いがやはり、そのプロデューサーの髭野さんにははっきりあったということらしいんですね。

実際に今泉監督ともそのお話をしましたけど、この作品、映っている下北沢の風景のそこここに、割と工事中とか、そういう様子が映り込んでいるわけなんです。それっていうのはすなわち、劇中で描かれる人々の、そういう取るに足らないといえば取るに足らない、でも不思議と心に残るやりとりとか営み……まさに、冒頭のナレーションで言われている通りですね。

「誰も見ることはないけど、たしかにここに存在している」暮らしや人生の痕跡が、しかし遠くない未来には……というか、もうすでに現時点、2021年の4月の時点ではそれはすでに「今」なんですけど。いずれ、跡形もなく消えてしまっているのかもしれない、というような、どこか儚く切ない予感みたいなものを作品全体に常に漂わせることにもなっている、というかね。いずれ変わっていってしまうものだ、というような感じがある。

そして、その失われゆく街そのものが主役でもあるような作品として、たとえば全然作品のトーンは違いますけども、僕は、ジョニー・トーの2008年の『スリ』という作品があって、あれなんかは失われゆく香港の、古き良きというのかな、古い香港の街並みの風景を、そこを押さえることもジョニー・トー的には大きなテーマであったという……街が主役、失われゆく街が主役、の系譜上にも置けるなという風に僕は、この『街の上で』を思っていたりするんですけど。

その、「すでに失われてしまったが、たしかにここにあった」街並みと人々の営み、というこの感じ。公開が1年延びて、その間に我々の生活、社会そのものが、コロナウイルスの影響によって、それ以前とはもう今は完全に、断絶したものになってますよね。より、それが増幅されているわけですよ。この映画に映ってるものって、ものすごい尊い、愛おしい時間だったってことが、非常に増幅されるようなタイミングになってますよね。

■「人と人とのコミュニケーションって、うまく行っても行かなくても、やっぱり面白いよね」

と、言ってもですね、劇中で何か、それこそ劇的なことというかね。なにか感動的なことが起こるとか、そういう作品じゃないんですよね。別に何も感動的なことは起こらないっていうか、主人公を含め、登場人物全員が、我々自身が実際にそうであるように、ふらふらしていたり、人に対して時に失礼をしてしまったり、自分でもうまく説明できない言動を取ってしまっていたりとか、要は一定量のしょうもなさを抱えていて。で、最終的にしかもそれが、劇的に変わるとか、物語的に要は明瞭な、成長というゴールが用意されているわけでもない。

「ここに来たからこの話は終わりです」みたいなゴールが用意されてるわけでもない。何分にも渡る長回しを多用したそれぞれの場面も、それ自体はごくごくありふれた、特に意味とかドラマ性があるようには普通思われないような、淡々とした会話が続くという……でも、長回しでずっと捉えてるからこそ、時折フッと、アップというか正面から顔を捉えたりとか、急に音楽が始まったりする時に、わりとフッと温度が上がる感じがまた、効果的だったりするわけですが。

とにかく、それそのものは全く劇的ではないように見えるものを捉えている……なのに、むちゃくちゃ笑えて面白い!というね。で、同時にちょっとグッと来たりもする、というところが不思議なもんですよね。まあ映画の系譜で言うなら、やっぱり僕が連想するのは……なんてことないやり取り、そのおかしみ、「ニュアンス」だけで映画って面白くなる、これを最初はやっぱり僕が感じたのは、森田芳光ですよね。とか、アキ・カウリスマキであるとか、ジム・ジャームッシュ。

ただ、今挙げた3人は、割とそれらを人工的にやる面白み、みたいなところが強みなので。一番本当にテイストとして近いのはエリック・ロメールとかなのかな、と思うんだけど……まあ今泉さんはね、「エリック・ロメールみたいですね」って言われても、見たことなかったのでキョトンとしてた、っていうんだけども(笑)。まあ、要するにその資質として近いものがあるのはエリック・ロメールとかなのかな、とは思うけど。

とにかく、一応ね、その「彼女に振られた。新しい相手って誰?」とか、「映画に出てくれって言われたけど、さてどうしよう?」とか、一応のお話上の起伏的なものは置かれているんだけど、それをストーリー的に掘り下げて「面白く」するっていうことは……大抵のもちろん娯楽作品は「えっ、その相手って誰?」とか「映画出演をたのまれた。それ、どうするの?」とか、そっちのストーリーの方を掘り下げて、面白みを掘り下げていく、それが普通の娯楽映画なんだけど。この『街の上で』という作品はですね、その、それぞれの人がそれぞれに抱えている思惑とか背景が、時に完全にすれ違ったり、時にちょっとだけ共鳴し合ったりっていう、そういう「それぞれ」同士の関わり合いが起こす、その感情や関係性のささやかな、しかしたしかなさざ波、みたいなもの。

たとえば、これはもう本当に今泉力哉監督、毎回描かれてますけど、「好き」という感情、この得体の知れなさ、なんなら共有できなさっていうか……ある人の「好き」っていうのは、他の人から見ると理解不能な何かに見えたりしたりする、というような感じであるとか。あるいは、まだ名前を付けようもないような気持ちとか関係性、みたいなもの。でも、そこに何か……「あっ、今……名前はなんだかわからない、恋愛でもない、別に友情と言っていいかもわからない、でもなんか今、生まれたな」みたいな、こういう感じをすくい取っていくという。それが醸すおかしみや気まずさ、温かみ。

要は、人と人とのコミュニケーションって、うまく行っても行かなくても、やっぱり面白いよね、それ自体、愛しいよね、っていう。そういうのを味わい尽くして、堪能していくという、そういうような作品なわけです。

で、もちろんそれは今泉力哉さんの作品全てに共通してあることなんだけども、それが本作、この『街の上で』では、ひときわ研ぎ澄まされたっていうか、純度が高い状態で提示されているように思います。コミュニケーションについて……先ほどのメールにもあった通り、「コミュニケーションについての映画です」という部分がすごく純化されてるっていうのかな、ゆえに、「今泉力哉監督最高傑作」的な言われ方をするのもまあ、わかるなという感じがします。

■若葉竜也さん演じる受け身な青年・青は「観客の感情移入の容れ物」

特に今回はやはり、若葉竜也さん演じる主人公の荒川青。彼の、言ってみれば「ダメかわいい」魅力っていうのがこれ、非常に半端なくてですね。これ、226日に(このコーナーで時評を)やったその今泉力哉監督、実際作ったのはこの(『街の上で』の)後になる『あの頃。』という作品の評の時にも私、言いましたけど、今泉さん、これまでも実はですね、「コミュニケーション下手な挙動不審男子」というものを描かせたら、本当に絶品の作り手でもあるわけですね。これは要はつまり、さっきも言ったように今泉力哉監督、要は恋愛を最たるものとする、そのコミュニケーションの齟齬とか共鳴とかが引き起こす波紋、っていうのをすくい取る名手なので。

当然この「コミュニケーションが下手でついギクシャクしがちな人」ってのは、もう格好の登場人物なわけですよね。で、特に今回の主人公の青というのはですね、言ってみれば基本、非常に受動的なキャラクターで。起こる事態に対して、その都度彼なりに対応していくしかない……まあでも、起こる事態に対して受動的なキャラクターっていうのはすなわち、観客にとっての、感情移入の容れ物になりやすいですよね。(劇中で)起こることっていうのは、我々が初めて知ることなわけだから。それに対して素直に反応する青、っていうのは、非常に感情移入の容れ物、乗り物として最適でもあるし。そしてこの、「彼なりに対応する」というところの、この「彼なり」っていうところに滲むおかしさとか愛らしさ、というのが、本作全体を引っ張る大きなキモになっているわけですね。

これ、演じる若葉竜也さん。当コーナー、前の番組時代から、ムービーウォッチメンの中でも、たとえばやはり最初に知ったのは2016年『葛城事件』の、あの次男坊ですね。葛城家の次男坊。「なんてすごい若手俳優がいるんだ!」と、我々も愕然としましたし。その後、たとえばね、2017年の吉田大八監督の『美しい星』でもやっぱり、一発で……もう二言、三言発しただけで、「ああ、こいつヤバいっしょ」っていう感じがわかる、もうバッドバイブスを発散するというね、本当に鋭いハマりっぷりを見せていましたけども。

要は、間違いなく目下最注目の俳優さんの1人、若手俳優の1……というか彼自身、現実の彼、若葉竜也さん自身が、今や本当に『おちょやん』で、「朝の連続テレビ小説の出演俳優」なんですけど、っていうことなんですよね。これ、どういうことかというと、友情出演……というわりには重要な役割で出ている成田凌さん、まあ『愛がなんだ』でもおなじみの成田凌さんが、ちょっとだけデフォルメして体現してみせる「若手人気俳優」のたたずまいと相まって、非常にこれ、劇中のトップクラスの爆笑シーンとも関わってくるところなので。これ、「朝の連続テレビ小説に出てる俳優」という、ぜひこれ、ご自身で皆さん、見ていただきたいところなんですけど。

とにかくこの、若葉竜也さん演じるキャラクターとしては、これまでにないほど素直で、さっきも言ったように基本、物事に対して受け身な青年、青というね。これ、要はこれから女性といろいろ関わっていく役柄の中で、バランスを間違えると、要は若葉さんが元々得意としているような、「一発でヤバいやつ」みたいな、超キモい役にも見えかねないわけなんだけど……若葉さんがすごいのは、こういう(キモく見えるかどうかの)境界線上だけど、結局「キュートだな」「いい人だな」って方にどっちかっていうと振れるような見せ方が、全然自然にできちゃうんだ!っていう。やっぱり改めておそるべし、って思いましたね。あの、テンパッた時のひきつった顔のかわいらしさとか、本当に最高なんですけど。「ええっ、本当に!?」みたいな時の、かわいいな、こいつ……「本当に青はバカだね」って言いながら、かわいくなっちゃう。

■フラれた直後に発生する「いろんな女の子の魅力に対してオープンになってる状態」=YOKAN発動期

でね、この青というのがですね、穂志もえかさん演じる彼女・雪っていうね……まあこの、ここの2人の関係性も、この穂志もえかさん演じる雪が、明らかにもう全てにおいて主導権を握ってる感じ、ってのいうのがなんとも微笑ましかったりするんですけど。わりとその彼女に、身も蓋もないフラれ方をしたこの青がですね、未練たらたら……未練たらたらなんだけど、突っ張ってる、っていう(笑)。この、しょうもないんだけど、この矛盾に満ちているあたりがかわいらしいというか、そんな青の態度もすごくおかしかったりするんですけど。

でですね、そこから先、要するに彼女に振られた状態。未練たらたらな青。これ、正直僕もですね、20年ちょっと前にそういう状態だった時期があるので、非常にわかるんですが。この、彼女に振られた後、未練もあるんだけど、同時に、要するに「いろんな女の子の魅力に対してオープンになってる状態」というんでしょうか? 一応、フリーだから。あの、会う女の子、見る女の子全員が、いつも以上に魅力的に見えてしょうがない時期、っていうのがこれ、たしかにあってですね。わかりますかね、これ(笑)。要するに、女の人のそれぞれの魅力にオープンになっているんですよ。こっちが。いろんな人の魅力に気づきやすい時期なんですよ。

今泉力哉監督、そして共同脚本の漫画家・大橋裕之さん、そうした、要は宙づり期間、一種のモラトリアム期間ゆえのふわふわした気分、みたいなものを、見事にこれ、切り取ってると思います。たとえば、ライブハウスで見掛けた非常にきれいな女性がいて。勝手に一瞬、感じてしまう。これ、まさしくこの番組でやっていたコーナーそのもの、YOKANですよね。その感じであるとか、あと、たとえばTシャツカップル……もう爆笑シーンです。とあるTシャツをその青が勤めている、古着屋さんに買いに来るカップルがいて。でも、その女の子の方にやっぱり青が感じる、その何とも知れないもどかしさ。これはやっぱりね、彼が「オープン期」だからなんですよね。オープン期だからより感じる、というのもありますし。そんな感じもある。

■「名前は付いてないけど、なにか素敵な関係が今夜、生まれたな」

ということでですね、今泉監督作品はいつもそうですけど、女性陣全員それぞれに、非常に素敵で……何よりも「実在感が非常にある素敵さ」というのかな。あのね、「古書ビビビ」の顔見知りの店員でもあるという、この古川琴音さん演じる田辺さんとの、一旦生じた気まずさを超えた先の、そこから先は一歩、心の距離が近づいた、というようなあの関係のニュアンスであるとか。そしてやはり、萩原みのりさん演じるこの自主制作映画監督・高橋さんのですね、さすが萩原みのり!と言うしかない……かわいらしいし、別にそんなに変なことを言ってるわけじゃないんだけど、にじみ出るピリリとした空気感。いやー、萩原さん、出しますねー!(笑) ピリリとしてますねー! ピリッとしますね!

あと白眉はやはりね、その中田青渚さん演じる城定イハ。「城定秀夫監督と同じ城定です」なんつって。城定イハさんというこの関西弁の、兵庫弁が非常に効いている……その途中から兵庫弁全開にして話しだすこの感じがやっぱり、彼女の人との距離感というか、コミュニケーションの取り方っていうのを示してるし。その彼女と、要は「一気に誰かと意気投合した夜」の特別さっていうか。しかもそれを、なんというか、作り物とは思えない……長回しの自然な会話で捉える、この一夜の演出の、見事な感じ。その、この2人はまだ名前も付いてない関係……「友達になろう」って言うけど、友達に「なる」っていうことは、まだ友達ではないんだけども。あと、男女っていうわけじゃないけど、でもそれがゼロかっていうとそうとも言い切れない、ちょっとドキドキする感じ。このでも、名前は付いてないけど、なにか素敵な関係が今夜、生まれたな、っていう。

で、「今夜、やっぱり飲み会に行ってよかったな。この人と会えたから」って思えるこの感じ、みたいな。本当に見事なものでございます。そこからね、先ほども言いました元カノの雪さんというのも交えて、もう怒涛の人間交差点、群像劇ならではのその大団円に突入していくクライマックス。これね、今泉力哉監督にインタビューした際にはですね、ここはやはり大橋裕之さんが共同脚本として入ることで、やっぱりこの、「面白みにストッパーをかけなかった部分」というかね。だから、今泉監督作としては……毎回、群像劇なんでね。今泉さんご自身も、「自分の映画は群像劇なんで、最後、全員集めがち」とか言って笑ってましたけど。

にしても、ここのこの笑いのたたみかけというか、たたみかけるようなドライブ感、どんどんどんどんね、「あっ、この人も来ちゃった。この人も来ちゃった!」みたいなドライブ感、もう本当に、超楽しいあたりでございます。とかね、これはもう、とにかくこの作品に関しては、そこに至るまでのね、各場面のディテールというのをとにかく、「あそこが良かった」「ここは良かった」って、キャッキャキャッキャと喜ぶ作品です。

■「『の・ようなもの』のように」これからも繰り返し見返す1本になる

もちろん、さっきのTシャツカップルのところも最高ですし。僕が感心したのは、行きつけのバー。「行きつけのバー」特有の人間関係ですよね。特にあのマスターとの……要するにお店とお客の関係なんだけど、ちょっと友人的な関係でもある。でも、全ての情報を握っているのは常にお店の人側、っていう。

で、そのマスター側も、その優位性を分かった上で接してくる感じ、っていうか。あれ、(行きつけのバーの人間関係の)独特なこの感じをよく出しているな、と。あと、もちろん警官とのやりとりもいいですし。あと、主人公と直接関係ない、あの漫画で読んだ聖地巡礼に来てるあの女の子と店員さんの、あの感じとか。あれもやっぱり、誰の記憶に残るわけじゃない、でもなにか素敵なその瞬間、というものをすくい取ってますよね。全体にでも、ひとつ共通しているのは、下北沢というやっぱり「カルチャーの街」ゆえの話。たとえば、その警官の話っていうのも、舞台の話が出てくるとか……聖地巡礼も、漫画の話であるとか。そしてその、映画を撮る話であるとかっていう、カルチャーの街の話、ということで共通している。

で、「誰も見ることはないけど、たしかにここに存在している」ものを捉えて、残すことこそが文化の仕事なんじゃないか、っていう風にこの作品で今泉さんは……今泉さん流の映画論というのかな、作品論として言ってる気がする。つまり、終盤でね、「映画ってそういうもんだから」っていうあの問答の中で、やっぱり僕は今泉さんの、「俺はそこから切り落とされたものを、すくい取る作品を作るんだ」という、その今泉さんなりの宣言みたいなものも感じる。だからそこはすごく、実は熱いところなんですね。

みたいなところも、グッと来ました。そしてですね、この映画に映っているその光景のいくつかは、もう2度と戻ってこない光景でもあるし。この人間関係の濃密さというのも、いつ帰ってくるものかわからないものなわけです。それだけにはやはり、尊さが非常に増すようなタイミングじゃないでしょうか。だからちょっと、しょうもないくだらない話をしてるんだけど、なんかこうジーンと、ホロリとしてしまう、そういう作品になっています。ということで、私はですね……僕にとってはこれ、最上限の褒め言葉なんですけど、青春群像劇として、「『の・ようなもの』のように」これからも繰り返し見返す1本になるような気がしてなりません。ぜひ皆さん、このタイミングだからこそ得られる感慨が多い作品です。劇場で……やってる劇場でね、ウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 来週の課題映画はSNS –少女たちの10日間です

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。


宇多丸、『SNS -少女たちの10日間-』を語る!【映画評書き起こし 2021.5.7放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、423日から劇場公開されているこの作品、SNS 少女たちの10日間』。

(曲が流れる)

成人女性が、未成年という設定、「12歳の少女」という設定のもと、SNSに登録するとどういったことが起こるかを検証した、チェコのドキュメンタリー作品です。18歳以上の3人の女優……女優というか、オーディションで集められた女性、プロじゃないですね。オーディションで集められた女性が、「12歳の少女」という設定で、SNSで友達募集をする。その結果コンタクトを取ってきたのは、2458人もの成人男性……だけじゃなくて、340人は女性もいたということみたいですけどね。

彼らの未成年に対する欲望の行動は徐々に……徐々にか? いきなり!っていう感じもあるけど、エスカレートしていく。監督は、ドキュメンタリー作家のヴィート・クルサークさんとバーラ・ハルポバーさんでございます。チェコでは大ヒットを記録するだけではなく、児童への性的搾取の実態を捉えた証拠として警察を動かし、あるいは、一部の行政機関が動いて、このリテラシー教育みたいなところに力を入れるというような動きがあったりして、現実をわりと、どちらかといえばポジティブな方向に変えた、というような実績もある作品でございます。

ということで、この『SNS 少女たちの10日間』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「少なめ」。これね、緊急事態宣言下で都内で2館しかやっていませんし。これはしょうがないですね。賛否の比率では、「褒める」というよりは「見てよかった。この映画が作られてよかった」というニュアンスの肯定的意見がおよそ半分。「これはダメ」と明確に否定してる方が3分の1ぐらいはいらっしゃいました。全体的には「内容、もしくは映画の手法にモヤモヤした」と割り切れない意見も多かったです。

主な褒める意見としては、「見終わった後には心底げんなりしたが、こうした問題にみんなが向き合うきっかけになればよい」などがございました。一方、否定的な意見としては、「中盤に出てくる青年の扱いや終盤の展開、とある仕掛けなど、ドキュメンタリー映画としての手法に大いに疑問がある」とかですね、「問題の原因や解決には向かわず、上辺をなぞるだけ」とか、「この映画自体が性的虐待の二次加害なのでは?」といった意見までございました。また「ネットリテラシーを学ぶための映画として、万人が見るべき」という意見と、「人に勧めるには注意が必要」と相反する声も多かったという感じでございます。

「見終わった後に嫌でも考えさせる時点で、この映画を作った意味が大いにある」byリスナー

代表的なところをご紹介しましょう。「タイガーます子」さん。

「映画が終わった後のトイレで、『やだー気持ち悪~』と女子トークが炸裂してました。実際に鑑賞すると、予想以上のゲスな内容に、12歳の少女を演じている女優同様、観ているこちらも疲弊してきます。私は女子校出身で、近所の変態オヤジが昼休みに下半身モロ出しで現れたり、学校近くで追いかけられたりしたこともありました。なので、今回の作品に出てくる変態野郎共も、そういう類なんだろうと思っていましたが、見終わる頃にはちょっと違うような気もしました。

どなたか評論家の方が書いていたと思うのですが、これは小児性愛ではなく、『支配欲』なのではないかと。よく聞く『弱い者が更に弱い者を叩く』といった構図と考えた方が個人的には腑に落ちます。どうしたら社会の歪みから子供たちを守ることができるか、見終わった後に嫌でも考えさせる時点で、この映画を作った意味が大いにあると思いました。所々、あまりの間抜けさに吹き出してしまう場面もありましたが、とにかく体と気を張りまくった3人の女優さんの勇気ある演技に拍手を贈りたいです。この問題作、全国の学校で上映すべし!」といったご意見。

一方、「名無し猫」さん。

一生分のモザイクを見た気がします。想像以上にキツく、気分が悪くなりました。上映後の女性トイレで明らかに吐いている音が聞こえて、『ひょっとして映画のせいか?』と心配になりました。

監督のインタビューで『政治家がサーバ環境の犯罪取り締まり強化を決定した』『文部省が性教育のカリキュラムを改定した』などとあった通り、大変意義のある映画だし、カフェも含めてあれだけのセットを作り上げたのは素晴らしいとは思ったのですが、疑問点もいくつかあります」……ということで、この方が挙げていらっしゃる疑問点は、まさに私も抱いた部分なので、これは私の評の中で後ほど挙げさせていただきます。

一方で、こんな意見もございました。ちょっとこれは一部抜粋というか。省略しながらのご紹介で申し訳ございません。

ラジオネーム「ヴァンダム」さん。

「初投稿です。池袋シネマ・ロサで鑑賞しました。感想は否です。SNS上での児童虐待をテーマにしているのにも関わらず、12歳役を演じる3人の女優やスタッフ、監督、誰一人としてSNS上での児童虐待問題を深刻に捉えていない、最悪の映画でした。チャットをする男たちが彼女らに要求してくる事に対して、女優の3人や監督達がしっかりと対応ができている様には全く見えませんでした。

僕自身、幼い頃に虐待を経験しているので、監督やスタッフたちが事態が悪化していくのを楽しんでいるように見え、殺意を覚えるほどに怒りを感じました。SNS上での児童虐待をテーマにしていますが、被害者側が受けた恐怖を監督たちが理解しているとは思えないし、自分たちの薄っぺらい正義感で加害者を断罪したいだけで、その結果が被害者側を傷つける事になっても構わないと監督たちは思っていたんじゃないか、とすら感じました。確かに劇中に出てくる加害者側の男たちは最低最悪ですが、僕には監督たちが、被害者側も加害者側もどちらも笑い者にしてしまう、その無神経さが加害者側と同じか、それ以上に被害者側の人たちを深く傷つけているかも知れないと、しっかりと理解するべきだと思います。僕にはこれは、偽善ですらない、ただの自己満足的な映画としか思えませんでした」

という、大変厳しい意見ですし、その当事者のお一方としての意見ていうのは、やっぱり僕らはそう簡単にね、「わかった気」になっちゃいけない部分でもあって。そうか……という感じがいたしました。ありがとうございます。皆さん、メールをいただきました。

■見るに堪えない出来事の連続。万人におすすめはできない

さあ、ということで私も『SNS 少女たちの10日間』、キネカ大森で2回、見てまいりました。緊急事態宣言下、そもそも営業してる映画館自体が少ない中、本作の上映館は、ここと池袋シネマ・ロサの2館だけだったということもあるのか、非常に僕が行った回、さまざまな客層、老若男女、ほぼ満席でした。もちろん本作が、日本とも無縁ではない問題を凄いやり方で切り取ってみせた、社会的にも非常に注目度の高い話題の一作である、ということも一番大きいんじゃないかと思います。

構図は極めてシンプルで、先ほどから言ってる通り、12歳の少女という設定のアカウントを各種SNSに作り、そこに性的な目的で群がってくる大人たちが、どのように子供たちへアプローチしてくるのか」を、実際にはもちろん成人している女性3人と、子供部屋を模したセット、そして当然の如く、出演者側への専門家のケアという体制を整えた上で、つぶさに記録していく、という。まあ、カジュアルな言い方をすれば、リアリティショー的なつくり。しかし、そこから浮かび上がってくるものの巨大な深刻さからすると、一緒の社会実験と言ってもいいような試みをしている。そんなドキュメンタリーなわけですよね、この『SNS 少女たちの10日間』は。

なんのためにこれをするのかといえば、もちろん大義としては、インターネットを使うこと自体はもちろん避けえない現代の子供たちが、今、現にさらされている性的虐待のリスクに注意を喚起するため……という言い方ができると思います。ただですね、この映画の本題の部分でもありますが、本当にね、言葉を失うような、まさしく本当に見るに堪えない出来事の連続。これ、作り手たち自身も、ここまではっきり犯罪性の高い連中がぞろぞろ出てくるとは予測してなかった、というようなこともインタビューなどで答えていて。ゆえに、後ほどどうなったのか、詳しく言いますけど、最終的には警察の捜査が入って、一部は起訴され、判決が出るというところまでは行ったりした、ということなんですけど。

まあこれ、どう考えてもチェコ固有の現象なわけがなくて。世界中で同じ試みをすれば、同じように……それか、もっと酷いことになることは間違いない。無論、日本でも、もっともっと酷いことになってしまう気もする、という。要は、まったく他人事ではない件ですよね、間違いなくね。ということだけに、非常に映像的に、えげつない映像……要するに出てくる男たちが最悪なんだけど、それにしても、ここまで映す必要があるのか?というレベルでえげつない映像も映るので。そういう意味では、万人におすすめはできないですね。

特に、やっぱりそういう性的虐待であったり、嫌がらせとかに対する経験があるという方には、安易におすすめできない部分がある。そういう意味では、大抵の女性であるとか……まあ、女性に限らずなんですが。というところはあるんですけれども。あと、これは後ほど言いますが、手法とかやり方に関して、疑問もやっぱり、僕自身もあります。ちょっと後ほど、これは言いますが。ただですね、僕はやっぱりこの作品を見てよかったという部分が、私側の立場の見方からひとつ、あるなとは思っていて。

性的搾取の主体としての「普通の男たち」こそ、目をそらさず向き合うべきものがここには映っている

それはやはり、先ほどTBSアナウンサーの山本匠晃さんも仰っていましたけど、特にやはりその性的搾取というものの、現状の社会における「主犯」たる我々男性こういう言い方をさせてください。まあ今回の映画の試みで言えば、あの12歳の少女にコンタクトを取ってきた2458人の成人たちのうち、女性は340人だったという。まあ、同性愛者の方も含む、という。で、劇中でもね、クライマックスで実際に会うというシークエンスで、1人ね、男女のコンビっていうのが出てきたりしますけども。でも、とにかくやっぱり現状の社会では、その性的搾取側になることがやはり圧倒的に多いことはもう明らかな、我々男性こそ、その性的搾取の主体としての男性こそ、目をそらさず向き合うべきものが、僕はここには間違いなく映っている、という風に思いました。

実際この作品は、女の人が見て間違いなく不快になるようなもの、言動が山ほど出てくるわけですけど、それは同時にですね、要は我々男性観客に、自分たちの中の最も醜い部分、恐ろしい部分、卑劣な部分、とにかく自分たちの中の最悪の可能性を、最悪の形で鼻先に突きつけられる、というような体験でもあってですね。正直これはだから、たぶん女性とはまた違った意味でもう、いたたまれないような、キツい映画でもある、という言い方ができると思いますね。映画.comのビート・クルサークさん──こちら、男女の監督、2人のコンビなんですが、その男性の方の監督──のインタビューでも、「同じ男性としてとても恥ずかしく思います。映画館でこの作品を見た知人からは『見終わってトイレに行って自分の性器を見てドキッとした。恐ろしくなった』と言われました。まさに私も同じ気持ちです」って言っている。これ、僕もまさに、キネカ大森のトイレで「うわっ……って。なんかこう、自分の性そのものに対する嫌悪というか、そういうものが湧いてくるぐらいの感じが、やっぱり実際にあったんですよね。

で、もちろんその、映画に出てくる連中というのは本当に、僕を含め大抵の男性が見ても、もちろん言うまでもなくはっきりおぞましい、最低のやつらで。「あんなのと一緒にするな!」で終わらせたいのは山々なんですけども。やはりですね、その彼らを、特別な、異常な、怪物的存在として「別枠」にくくって済ませては、それこそがダメだという風に思う。しかも、それは実際に違うわけなんですよ、彼らは。というのは、劇中、性科学者の女性が指摘していて「なるほど」と思ったのは、その自称12歳の少女に、性的アプローチを特に恥じもせずしてくる主に大人の男たちというのは、意外にもと言うべきか、いわゆる小児性愛者(ペドフィリア)の特徴には、当てはまらない。要は割とこれ、「普通の男たち」ですよ、っていうことが出てくるわけですね。

ではなぜ彼らが、その少女にわざわざ群がるのかといえば、これはこの実験が始まって……つまりその本題が始まって、劇中で、次から次へと出てくる男たちの、本当のそのクソみたいな言動から嫌でも分かってくることなんですけど、要はどいつもこいつも、やっぱりと言うべきか、女性から性的に搾取すること、あるいは女性を支配することしか考えてない。なんなら、搾取したり、支配することにこそ性的興奮を覚えているようですらあるような、そういう了見の連中で。

その意味で、思春期の少女……判断は未熟だが、好奇心と、あと親とか先生が押し付けてくる規範に対する反発だけはめちゃくちゃ旺盛という、要するに非常に危なっかしい存在だからこそ、彼らにとってはコントロールしやすいし、自分の都合のいい方に導いて搾取しやすい、格好の対象という。だから少女に行く、っていうことであって。つまり、本質として、女性を内面がある1人の人間としてちゃんと考えようとしない、捉えようとしない。そういう考えが根本にある。つまり、大きく言えばやっぱり、根本にあるのは女性蔑視視点だ、という風に思います。少女に限らず、っていうことだと思う。

人を性的搾取の対象としてしか見ない男たち、彼らの顔面を覆う「ぼかしマスク」の効果

次々と登場する男たち……要は、実際全く、「会話になっていない」わけです。少女側が何かをしても、全然実は会話になってなくて。そのやり取りからも明らかなんですね。二言目には、自分の性的欲望の方に誘導しようとする。二言目には、「服、脱げ」。二言目には、「僕のも見る?」って。で、「見ねえよ!」って答える間もなく……場合によっては最初から、とにかくその、局部を即座に見せたがる男ばかり。こんなに多いもんかと、正直本当に中盤のそこのつるべ撃ちには、心底げっそりしますけども。

で、思い通りにならないと、対話をね、ブチッとネットを切っちゃうっていうのは、まだそれはマシな方で。やっぱりすぐ、今度は脅迫とか、恐喝の類が始まってくる、ということで。まあ要するに、騙すか、脅すか、あるいはすぐに「お金を出すよ」って……500コルナ、出すよ」とか「2000コルナだすよ」とか。その500コルナとか2000コルナとかっていう単位を調べたんですけども、結構な金額でしたけどね。まあ、日本とその向こうの通貨単位の差もあるんですけど。たぶん、物価とかのね。

とにかく、騙すか脅すか買うかしかないのか?っていう。そういう、要するに性というものの捉え方っていう、そこの根本の大きな問題があるとしか、思えなくなってくるわけですね。特殊な人が出てくるというよりは、この我々男性社会側の性の捉え方、女性というものの捉え方そのものに、なにか根本的な問題があるように思えてならなくなってくる、ということですね。で、ここで本作の大きなポイントとなってくるのが、ご覧になった誰もが強く印象に残ったと思います、その男たちの顔にかかったぼかし、そのぼかしのかけ方で。非常に特徴的なかけ方として、目と口だけ、目出し帽みたいな感じで見えているわけです。

で、これがまた、要は男たち側が、その人間を性的な搾取の対象としてのみ、まさに品定めするように、文字通りなめるように見るという、その男たちの目線のおぞましさというものも際立てるし。同時にそれは、こうやって我々に、客観的に見返されているわけですよ。こうやって「ウヒヒ……」って、自分が一方的に「ウヒヒ……」って見てるやつが、見返されている。見返されていると、なんと間抜けで滑稽で、そしてやはり醜いものであるか、というのも際立つという、そういう仕掛けになっている。

なんにしても、さっき言ったようなその男性性の、特に有害、かつしょうもなさの部分を、ギュギュッと凝縮してカリカチュアしてみせるみたいな、そういう効果が、このぼかしマスクにはあるわけですね。で、ちなみにこれ、第3幕、実際にその連中と会うことになるクライマックスに突入する、その手前のところ、要するに第2幕目の締めくくりの近くあたりにですね、このマスクぼかしが実に劇的に機能する、とある「感動的」なくだりがあったりする。

ただこの「感動的」を、なんで私、カッコ付きで言ってるのか?っていうのは、後ほど説明しますけど。とにかく基本は、次から次へと出てくる男たちの、卑劣で下劣な言動、やり口の数々に、まあ呆れるやら怒るやら、っていうね。もう、それはもう、見れる人は見てください、としか言いようがないです。本当にゲス。これが人類の行きついた果てかと思うともう、げっそりとしますけども。そして、さっき言ったようにその第3幕、クライマックスにあたる部分。実際に彼らと会う展開に突入していく。

■溜飲を下げる「エンタメ化」の仕方でいいのか? という疑問も湧く

この部分は特に、まあ一番近いのは『ボラット』ですかね。やっぱり、どっきりカメラ性というか。言っちゃえばその、「悪役」を罠にかけてギャフンと言わす、という、多少溜飲を下げる部分なんですね。まあね、異様にデカい(スマホの)呼び出し音が鳴って、一律みんな、その連中がギョッとして。「あっ、電話だ!(ギョッ!)」ってなって。「パパ、今ここに来るって」「帰ります!(バタン!)」みたいな。そういうちょっと滑稽なくだりがあったりするっていうね。そういう人目があるところでの(男たちの)小心さ。でも、自分で(これから何がしたいかの)段取りを説明してみせるくだりの、本当に間抜けさ。

そしてやっぱり、自らの欲望のみを満たすために人を見るという、この人間のあり方のおぞましさみたいなのも……「こういう人か」っていう。でも、街中の、普通の人たちですよ。はい。まあ、最後の最後ね。あの、ずっと偉そうで、最も悪質なあの脅迫を繰り返してきた若い男。イキり散らかした若い男。彼が、恐らく最も嫌だったであろう形……つまり、自分の言いなり用に使うはずだった少女が、あろうことか「自分をどう見ていたか」をぶちまけだす。文字通り「頭から」ぶちまけられる、というね。まあ、ざまあみろなくだりなんですけどね。でも、そこで急に態度が小さくなって、「自分に自信があるっての?」「いや、ない……」「自分の人生に満足してるっての?」「いや、してないっす……みたいな。

まあ、哀しいけども、だったら最初から自分よりも弱いものを見つけてイキってるんじゃないよ!っていうくだりで。ここは多少溜飲を下げるところではありますが。果たしてこれ、こういう「エンタメ化」の仕方をしていいのか?というモラル的な疑問も、当然湧く部分です。そして本作は、更にそこから踏み込んで、ラスト。偶然にも途中、そのスタッフの、知ってる人物が出てきちゃうわけですね。

で、なおかつその人は、子供と接する仕事してる!ということで。これは作り手たちがちょっと、要するに普通に座視していると実際に危険が起こりかねないから、緊急性もあるということで、その中年男にアポなし直撃をする、という。ここはマイケル・ムーア調と言っていいでしょうね。で、ここでその彼が、逆ギレしてまくし立てる、その「俺は悪くない」っていうクソ理屈がですね、まさに彼が象徴している立場、何者かというのを、非常にことごとく集約していて。

まあその、「少女たちが危ない目にあうとしたら、それは親が悪いんだ。育ちが悪いんだ」とか、「それよりもお前、大事な問題があるだろう? ジプシー(ロマ)が生活保護を受けている問題とか、取り上げろよ!」みたいな。これ、どこかの国でも似たようなことを言い散らかすやつら、いるな、っていう。要するに、そういう根本にある、ある種の差別主義であるとか、社会の見方みたいなものを、ご丁寧に露呈したという。とにかく責任転嫁。「悪いのは俺以外の誰かだ」というような、そういうあり方みたいなのを露呈する、というね。あと、「実際に手を出さない代わりだ」みたいな、すごいことも言ってましたけどね。

まあとにかくそんな感じで、「警察が動き出しました」というクレジットがあって。実際にですね、その映画のクレジットは「警察が動き出しました」で終わっているんだけど、実際に警察が動いて、52人の男性と1人の女性に捜査が入って、8人は裁判で起訴され、判決が出た、というところまでは行った。あるいはそのチェコの公的機関、社会が動いたりとか。実際に動かした、ということもある。そういう意義はある本作なわけです。

■途中で出てくる、ある「感動的」な展開。あれは「いい話」扱いをしていいのか?

ただ、個人的にはというか、これを指摘している方は多くいらっしゃいましたが、やり方と語り口に、一部かなり強い疑問を抱く部分もありました。

まずやはり、コラージュ、合成しているとはいえ、ヌード写真を実際に作って相手に送って、それがまんまと悪用される。それを引き出すためのものなんだけど。もちろんね、実際に少女たち……まあ少年もだけど、彼ら、彼女らが、そういう風に促されて、後先を考えずにそういうことをやってしまう、という事例があって、それに対して警鐘を鳴らす、という意図があるのはわかるけども。あの、演じていらっしゃる女性の顔がくっついたヌード写真が、ネットに出回ってしまった、ということは本当だし。そこは取り返しようがないことだし。それってどうなの?っていうのは、ちょっと思わざるを得ない部分ですし。

もっと安全なやり方で検証しようはなかったのか?って、やっぱり思わざるを得ない部分ですし。あと、さっき言ったその、2幕目終わり近くの、ある「感動的」な展開。いや、たしかに、それまでがあまりにもひどすぎる事例のオンパレードだったし、その流れで見るとね……音楽もね、そこまではジャンボジェットの轟音みたいなのが「ゴォォォォー」ってなったりして、すごい嫌な感じ、男の性のあり方、そのおぞましさを象徴するように、「ゴォォォォー」って要所で鳴り響いていたのに対して、そこで初めて、優しいメロディーが流れて。

で、さっき言ったマスクぼかしがフッと……要するに、「人間」がそこにいる、っていう。非常にこの、演出は上手いんですよ。演出がめちゃくちゃ上手いんです。それも相まって、劇中に出ていた皆さんと同様、僕も初見では正直、ホロッときちゃった。ちょっとここ、涙が出ちゃったんですけど。ただ、冷静に考えてですね、この程度の「普通の人」……普通の人っていうよりは、そこまで悪い人とは言い切れない、一応まともに会話はできるっぽい、っていう程度の人というだけで、ここまで「感動的」になってしまうっていうのは、逆に言えば我々男性にとっては、大問題ですよ。このレベルで感動されてるって、どういうこと? むしろ、恥ずかしいことだよ?

だし、もっと言えば、あの彼、とはいえ大学3年生で、見知らぬ12歳少女をネットで探して話したがるって、無条件で「いい話」扱いをしていい件なのか?って、やっぱりちょっとモヤりますよね。そこはね。なんにせよ、だからあそこの過剰な感動演出に、なにか「いや、これはやりすぎじゃないのか?」っていう感じは抱きました。

■「俺は関係ないから」という男性こそ見る価値がある

ということでですね、まあネットリテラシー喚起であるとか、実際の社会を動かしたっていうその実績の部分、意義の部分。あるいは、僕もまさにそうですけど、そこまで問題意識を持ってなかった者に問題を喚起するっていうところは、本当に意義は認めざるを得ないし。

あと、先ほど言ったように、やはりその男性性の醜さっていうところを突き付けてるくるというか、「他人事でないものとしてちゃんと受け止めろよ」というものとして……僕はやっぱり、「俺は関係ないから。俺は問題ないですから」っていう男性こそがある種直面すべき何かとして、という意味では、見るべき価値がすごくあると思います。ただ、先ほどから言ってるように、非常にショッキングな映像。ちょっと過剰にショッキングというか。

そういったところも含むので、決して万人に安易におすすめできる作品ではないですし、というのはあります。これ、ただ、やり方のバランスをもうちょっとちゃんと考えた上でなら、世界中の国版、特に日本版をやったらどんなことに……オエッ! ちょっともう、考えるだに吐き気がしてくる恐ろしさですが。という、でもこういう問題提起として、そういう吐きそうになるところまで考えさせられたという意味では、僕は見た意義がありました。万人にはおすすめはしませんが、そんな作品です。いつか、見る気があったら見てみてください……

(ガチャ回しパート中略 ~来週は、都内の映画館の多くが休館中ということで「配信限定映画ムービーウォッチメン」に企画変更。課題映画は、Amazonプライム・ビデオの『ウィズアウト・リモース』です)

 

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『ウィズアウト・リモース』を語る!【映画評書き起こし 2021.5.14放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

 

宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今週は配信映画を評論する特別企画、配信限定ムービーウォッチメンです。今夜扱うのは、430日からAmazonプライムビデオで配信されているこの作品、『ウィズアウト・リモース』

(曲が流れる)

トム・クランシーのジャック・ライアン・シリーズのスピンオフ作品。原作『容赦なく』を、『クリード』シリーズのマイケル・B・ジョーダン製作・主演で映画化。海軍特殊部隊員のジョン・ケリーは、あるミッションに参加したことをきっかけに武装集団に襲撃され、妊娠中の妻を殺されてしまう。復讐を誓ったケリーは、犯人を追ううちに恐ろしい陰謀に巻き込まれていく。共演はジェイミー・ベル、ガイ・ピアースなど、でございます。

監督と脚本を務めたのは『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』の監督・脚本コンビ、ステファノ・ソッリマ監督と脚本のテイラー・シェリダン。あともう一方、実は脚本の方がいるんですけども。それはちょっと後ほど、お話ししますね。

ということで『ウィズアウト・リモース』、もうAmazonプライムで見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「普通」。まあ、でもみんながみんなAmazonプライムに入ってるわけじゃないという中でね、見ていただいて送っていただいて、ありがとうございます。

賛否の比率では、褒めの意見が3割ちょっと。残りが普通といまいちで半々ぐらい。主な褒める意見としては、「現代の娯楽アクション映画として申し分ない出来」「トム・クランシー原作作品にしてはダークな雰囲気がよい」「マイケル・B・ジョーダンの肉体美がすごい」などがございました。一方、否定的意見としては「テイラー・シェリダン脚本、ステファノ・ソリマ監督ということで期待していたが、あまりの凡庸さに拍子抜け。」「どこかで見たようなシーンや展開の連続」「今どき、あの国際感覚ってどうなの?」などがございました。

■「洗練された高低の演出と、原作者の思想がうまく融合した快作」byリスナー

ということで、代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「コーラシェイカー」さん。

「抑制的な音の演出が冴えるアクションと、主人公のタフさに十分に説得力を持たせる、少し鍛えすぎじゃないか?と思わせるほどのマイケル・B・ジョーダンの肉体美を楽しめる快作でした。そして、縦軸の移動が印象的な映画でした……これ、非常に面白い読み解きをしていただいて。

「この映画は、タールのように黒い水の底から主人公たちが出てくるところから始まります。それは、彼らが汚れ仕事を請け負っていることともに、のちに判るのですが、彼ら兵隊が、国家の重要度では下層に位置するということも表しています。この映画、主人公たちが高いところに移動すると、とにかくろくな目に合いません。飛行機に乗れば。ビルをのぼれば。自宅の二階に上がれば。まるでなにかの力で叩き落とされるかのように悲惨な目にあいます。逆に『下に降りてくる』ことで信頼を勝ち得るという描写も多いように思います。冒頭、主人公は見捨てられそうになる仲間を、更に下層に降りて助けることで、この人物が紛れもない主人公であることを観客に証明します。中盤以降、共に上空から落ちた仲間同士では、コードネームを解除するほどの信頼ができあがります。ちなみに上空から落ちた際、一番下層まで移動するのは主人公です。

このように、この映画は高低という縦軸になんらかの意味を込めて作られていると思います。最後のシーンになりますが、高みでたかをくくってる奴を下層に引きずり込む、そしてその下層は、個人の尊厳を知る場です。名前を知ることで個人を信頼し、名前を知ることで自分がないがしろにした命を知る。一貫した名前に対する演出がみてとれます。この映画、洗練された高低の演出と、原作者の思想がうまく融合した快作だったと思います」ということで。非常に面白いし、実際この演出意図って全然、本当にその通りだと思います。そういう風にやっていると思います。この読み解きは見事なものだと思います。

一方、ダメだったという方。これもね、気持ちはわかるんですよね。「Mr.ホワイト」さん。

「映画を観始めた90年代、ジャック・ライアン・シリーズは私の楽しみの一つでした。原作も何冊か読みました。そのジャック・ライアンのスピンオフ・シリーズで、かつ、マイケル・B・ジョーダン主演&テイラー・シェリダン脚本となると、否が応でも期待が上がります。劇場に掛からないと知ったときは怒りすら感じました。

で、配信日に早速見ての感想………あれ? 面白くない……

本作は「復讐」が目的という内容上、ポリティカル・サスペンスよりはアクションの色合いが強いです。しかし、そのアクションに面白味がない、むしろ退屈とさえ言えるのは最大の弱点だと思います。アクションが盛り上がらない大きな理由として、敵の設定をあやまっていることが挙げられます。

ロシアでの脱出戦において、主人公ジョンは次々と敵兵をほふっていくのですが、後半は陰謀とは無関係の国内治安部隊の人達が相手であり、どう見ても悪いのは、自己都合で国内騒乱を起こしているジョンたちです。これではカタルシスの得ようもありません。マイケル・B・ジョーダンについては、確かに刑務所の肉体披露シーンは喧嘩の準備も含めて面白かったですが、全体的には借りてきた猫のように世界観に馴染まず、ただそこにマイケル・B・ジョーダンが居る、という感じでした。演出の問題だと思います。

私は『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』でのステファノ・ソッリマ演出はそこまでとは思っておらず、今回で大幅に評価を下げました。サスペンスとしても、黒幕は配役と台詞で一目瞭然という安易さ。黒幕をトイレで……って配信アクションで何度も見た気がします。既視感が有りすぎです。結論、55点」というね。まあでも、55点は取っている、という言い方もできますけどね。

「午後のロードショー」感覚で観たら意外と光るところがあったよ的一本

ということで『ウィズアウト・リモース』。皆さん、メールありがとうございました。私もアマゾンプライムで配信開始されて早速見て、そしてまた何度か見ております。でもね、ちなみにこれ、最初からAmazonが作った作品じゃなくて。元々はパラマウントの製作配給映画として、本来は普通に20209月劇場公開する予定だったのが、ご多分に漏れず、コロナウイルス感染拡大に伴う劇場の休館、公開延期を重ねた挙句、Amazonに配給権が売却されたという。そういう意味ではちょっとかわいそうだった作品ではある。

ただね、これちょっと先ほど(番組6時台)も言いましたけど、僕は結果的にはこれ、(テレビ東京の)「午後のロードショー」感覚と言いますか。テレビでたまたま……まあタダじゃないんだけども、タダ同然で見れたジャンル映画が意外と豪華だったよとか、意外と光るところがあったよ的な、トクした感じに、ちょうどよくはまっているところもあると、個人的には思ってます。はい。Amazonは今、ドラマシリーズでジョン・クラシンスキー主演の『ジャック・ライアン』もやっているから、いずれそことのクロスオーバーも見込んだ上での買い取り、というような目論見も、ひょっとしたらあるのかもしれないですね。

ということで、ジャック・ライアン・シリーズでおなじみトム・クランシーの、日本では『容赦なく』というタイトルで上下巻、新潮文庫から翻訳が出ているやつ。現在は絶版でね、私も古本で取り寄せましたけど。93年に出た小説が原作。要は、ジャック・ライアン・シリーズに登場する、ジョン・クラークという、元の名前はジョン・ケリーなんだけど、ゆえあってジョン・クラークと名乗るようになる……映画化されたものだとですね、たとえば1994年の、フィリップ・ノイス監督の『今そこにある危機』で、ウィレム・デフォーが演じた役。

あとは2002年の『トータル・フィアーズ』で、リーヴ・シュレイバーが演じていたあのキャラクターですね。要するに、元は白人キャラクターなんですけど。で、そのジョン・クラークの前日譚。時系列的にはそのジャック・ライアン・シリーズ、原作小説の中でも、一番前にあたるスピンオフなんですね。ものすごくざっくりした要約の仕方をするならば、ヴィジランテ物、自警団物ね。要するに、ある人が復讐のために自ら暴力を、公権力の力を借りずに振るうという……復讐物とヴィジランテ物、だいたい重なりますけども。ヴィジランテ物、復讐物という要素と、ぶっちゃけまあ、『ランボー』な要素ですよね。

そのベトナム戦争の時に取り残されて、いまだに囚われの身になっているアメリカ兵を救い出しに行く、という『ランボー2』な要素を合体させた話。ヴィジランテ物+『ランボー2っていう、そういう話。そこにジャック・ライアンのお父さんの刑事が絡んできたりする。で、ちなみにこの元の小説だとジャック・ライアンは、1歳ですから。

まあジャック・ライアンが、最終的にはですね、大統領にまでなる人なんですね。「日米開戦」って小説とかで。ジャック・ライアンは大統領にまでなるような、基本そのお堅い、陽の当たる場所にいる、割と「公」性が高い人物なのに対して、このジョン・クラーク、元ジョン・ケリーさんは、元々もちろん特殊部隊、シールズの隊員だっていうこともあって、要するに直接的に手を下す立場、なんなら積極的にダーティーワークというか、手も汚していく立場……要はダークヒーロー的なニュアンスがジャック・ライアンよりも強い、という。だからそういう意味では、むしろ動かして面白いのはこっちの方、っていう感じもしますけどね。

■原作者のトム・クランシーは今やビデオゲームの原作で有名。ところどころゲームっぽい描写も

で、この『容赦なく』というその原作小説。アメリカでの刊行直後から、これはもう当然のことながら、映画化の話はガンガンあって。最初に脚本を書いたのはやっぱり、ジョン・ミリアスなんですよね。ジョン・ミリアスはやっぱり、思想的にはたぶんトム・クランシー本人と一番近い、まあゴリゴリの右派というか、反共主義者で右派、という感じなので。まあ、その脚本版というのもあって進んでいたりとか。あるいは、2010年代になってからかな? 今やトム・クルーズの相棒として定着しちゃいましたけど、クリストファー・マッカリーさん版の話があったりとか、いろんな話が浮上しては消え、2018年に、今の形になった。マイケル・B・ジョーダンが主演で、『容赦なく』と、あとは『レインボー・シックス』という、この二部作構想というのが発表された。ちなみにこのジョン・クラークさん率いる『レインボー・シックス』という、この多国籍特殊部隊というのはですね、今やトム・クランシーという名前はこっちの方の原作者としての方がね、むしろ今の若い人とかには絶対知られてると思うんですけど、要はビデオゲームのシリーズ、ゲームのシリーズが大変有名で。

特にこの『レインボー・シックス』シリーズはですね、数あるFPSシューティングゲームの中でも、ひときわシビアなことで知られています(笑)。私がやってる『マイゲーム・マイライフ』でも度々、話題になってます。とにかくもう、弾が当たると終わりです! で、とにかく今回のジョン・クラーク二部作構想というのをですね、エンドクレジットが始まってから、いわゆるMCU型のね、ちょっと今後の匂わせおまけシークエンスが付いたりするんですけど、そこでも明らかなように、『レインボー・シックス』に続く、っていうのが明らかにされるわけですけれども。

まあ現在のビデオゲームシリーズとしての『レインボー・シックス』ファンの取り込みを狙っている、ということが間違いなくあってですね。で、実際に、これからお話ししますそのテイラー・シェリダンさんと並んで、脚本にクレジットされているこの、ウィル・ステイプルズさんという方がいて。これ、インターネット・ムービー・データベースによれば、これまでテレビゲームの脚本をずっと手がけられてきた方なんです。近いようなラインで言うと、2011年の『コール オブ デューティ モダン・ウォーフェア3』をやっていたりする方なんですね。

なので、割とゲーム人気ありき、そこを当て込んだ企画、っていうのは明らかだと思います。たとえばですね、そういう意味ではちょっとゲームっぽいところが多々あって。その銃器描写も、本当の意味でリアルか?っていうと、ちょっと……っていうところがある。たとえば序盤、あの狭い廊下の向こう側から敵が現れて、RPGをドーン!と撃ってくるっていう。これ、あんな狭いところでRPGを撃つのはありえない描写なんですけど。でも、ゲーム的な、敵が急に出てきて、なんかをドーン!って撃つとかは、ゲーム的と考えるんだったら、これはたしかに「っぽい」かもな、っていう感じがするような、そういうリアリティーラインだったりしましたね。

■トム・クランシーの原作小説とは全く違う、そしてテイラー・シェリダン脚本作として観ると……

でですね、一方その映画ファンとしてテンションが上がる部分では、みんな大好きマイケル・B・ジョーダンの主演、っていうのはもちろんなんですけど、やはり何と言ってもね、先ほどから何度も名前が出てます……『ボーダーライン』『最後の追跡』『ウインド・リバー』という通称「フロンティア三部作」、この3つとも、いずれ劣らぬ傑作でした。我々の心を鷲掴みにした、テイラー・シェリダンさんの脚本と、イタリアの監督さんです、『バスターズ』『暗黒街』、そして、テイラー・シェリダン脚本でその世界観を、前作にあたる『ボーダーライン』のドゥニ・ヴィルヌーヴから受け継いだという……で、また独特の熱いテイストの『2』、「こういう『2』もいい!」っていうね、『フレンチ・コネクション』に対する『フレンチ・コネクション2』もいい、という感じの『2』、『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』を撮り上げた、監督のステファノ・ソッリマさん。このコンビが、本作『ウィズアウト・リモース』で再タッグを組んでるっていうのも、映画ファン、特にハードなアクション映画、バイオレンス映画好きとしては、非常にアガれる座組でもあるわけです。

で、ちなみにその『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』。僕は20181123日にこのコーナーで評しているんですけど。これ、公式書き起こしがあるので、ぜひ皆さん読んでいただきたいですが。その中でね、パンフレットに書いてあったこととして、「このステファノ・ソッリマさん、『コール オブ デューティ』の監督として非常に有力視されているらしい」なんてことを言ってるんですね。まあ、たぶんそれが今回の『ウィズアウト・リモース』なんですね。『コール オブ デューティ』じゃないっていう。

で、このテイラー・シェリダンさん、ウィル・ステイプルズさんのコンビ、共同脚本が今回の映画用の脚色なわけですけど。ただ、これがですね、原作小説ファンはそれなりに激怒するのは、まあそうでしょうね、っていうぐらい、復讐物×敵地潜入というお話のぼんやりした骨格と、一部キャラクター名に名残りがあるぐらいで、トム・クランシーの原作小説とは基本的に全く違う……ほぼ跡形も残ってない、ぐらいのものではあって。もちろんね、今時そのベトナムに取り残されてるアメリカ兵を救いに行くって、これは『ランボー2』だから、そのまんまの映画を作るわけにはいかない。これは当たり前のことだし。

ちなみに今回の出来上がった『ウィズアウト・リモース』を見ると、でも『ランボー2』要素はあるんですよ。『ランボー2』要素はつまり、敵地に潜入して苦労していくんだけど、国っていうか、実はその指令そのものに騙されている。で、「無事に帰った暁にはテメエ、仕返ししてやんぞ!」っていう、ここは『ランボー2』要素、あったりするわけですけど(笑)。でもとにかく、『ランボー2』をそのまんま今どきやるわけにはいかないし。

前述したように、そもそもビデオゲームとしてのその『レインボー・シックス』シリーズの人気を踏まえた企画である以上、そのトム・クランシー……トム・クランシーっていう人の思想そのものも、今時の感覚からすると、結構問題があるところもいっぱいある作家さんでもあるので。その90年代の小説を、まんまやるわけがなくてですね。当然、今風にめちゃくちゃアレンジして作る、っていうのは想像がつくことではあるんだけれども……でもまあ、もちろん当然の如く原作小説ファンは、アメリカとかでも本当に激怒しまくっていてですね。

まあそもそもトム・クランシー、生前もですね、自作の映画化作品に対して、割と不満を漏らしまくり、っていうところもあったんですけどね。ただ、そういうこととは別にですね、たしかに、特にテイラー・シェリダン脚本作として考えると、過去作と比べると、かなりアレなところが多いのは間違いない。まあ、雑だったり、あまりにも不自然だったり、何より類型的な、あるいは表層的な人物造形や展開が際立っている、という感じは、正直あるとは思います。

『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』のレベルを期待するとがっかりするのもわかる

たとえばですね、復讐劇なわけですけど、奥さんの描写って、すごい薄いですよね。だから、その後の主人公の怒りっていうのもやっぱり、「まあ、そうであろう」っていう、一種観客の忖度に大きく頼ったような展開にもなっているし。あるいは、先ほどのメールにもあった通り、「黒幕」って割と、そのまんまですね。意外性は全くない感じですしね。「あの人」がそういう役をやりすぎている、っていう問題もあると思いますけど(笑)。あと、もちろんロシアに潜入、そして脱出……まあドッカンドッカン、すごく派手なことは起こる割に、「あっ、そこはスルッと行けちゃうんだ。そこは行けるんすか?」みたいな感じで、割とご都合主義が過ぎたりとか。そういうのがいっぱいある。

で、これも先ほどのメールにあった通り、そもそもカタルシスが起こりようがない物語構造を持っていたりして。というところが、だからモヤモヤするし、「面白くない」と感じる人がいるのも、無理からぬ部分はある。明らかにテイラー・シェリダンの過去作、あるいは『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』のレベルっていうものを期待すると、ぶっちゃけがっかりするところがあるのも、非常にわかります。

しかしですね、僕はそれはもう重々分かった上でなお、本作『ウィズアウト・リモース』、最新の技術などを使ったアクション大作として、忘れがたい、キラリと光る瞬間がいくつもある、そこをこそぜひ皆さん、味わってもいただきたいという……「全てがよく出来た」作品ばかりが「面白い」映画というわけじゃないんじゃないか、ということをお伝えしておきたい。

「この映画、好きっ!」となる場面がいくつか

たとえば……僕はもうこの1点があるだけで、「この映画、好きっ!」ってなってしまったんですよ。もう、この場面で。グッと来たポイントがございまして。主人公ジョン・ケリーの自宅に、深夜、プロの殺し屋たちが侵入してきて。で、わけあって気づくのが遅れたジョンと、暗闇の中で彼らが撃ち合いになるという、そういうくだり。その中で、最後に残った1人。この最後の1人は、物語上も大きな役割を果たすことになるわけですが、その敵の男とジョンが、図らずも互いに、うまく動かない身体を引きずりながら、お互いに向き合い、対峙することになる。これ、後の展開を考えれば、この構造自体が非常に象徴的ですよね。要するに、彼らはまあ鏡像関係でもあるわけです。

なんですが、何よりも僕がシビれたのは、ここでのフラッシュライト、懐中電灯の使い方ですね。床の上をコローン……ライトが醸し出す、この異様な緊張感。特に敵の男は暗視カメラをつけているので、これ、光が回ってくると何も見えなくなるので、たまらずカメラを含めてマスクを取る。そこにまた、ライトがクルッと当たる。そこで目が合う2……! 起こっていること自体はとても小さい、ミニマルなことなのに、演出としての効果は絶大。少なくとも僕は、こんなライトの劇的な生かし方は初めて見ましたし、こういうフレッシュなアイデアがひとつあれば、もう僕はね、こういうジャンル映画は「合格!」っていう風に、僕はなるんですよね。なんなら、こういう瞬間に出会うためにいろんな映画を見ている、っていうところもある。「ライトをこう使う? うわっ!」っていうね。

あるいは、まさかの燃えさかる車の中に自ら乗り込んでの超アッパー尋問、っていうね(笑)。それはもう、アッパーですよね。燃えさかっている車で、「オイッ! オイッ!」っていう。まあ、あそこもびっくりしたけども。そこから、一旦警察に捕まった主人公が、ジェイル……プリズンじゃなくてジェイル、郡立刑務所の中で、彼の命を狙っているに違いないロシアマフィア、の息が掛かっているのであろう、その防護服を着た職員たちが、自分の房内に突入してくるであろうことを予感して、戦闘準備をする、っていう場面があります。

これは多くの人が……ここは褒める人がやっぱり多かった。この、刑務所内で、完全に四面楚歌。勝ち目などあるわけがない。だって周り、刑務所だし。向こうは、たとえばその刑務官たちとかは武器を持ってるわけですから。絶対に勝ち目などなさそうなその状況下で、主人公が、でもはっきりと意図を持って主導権を握ろうとする、という。単純にこれ、要するに「どうなるの、これ? 主人公、どうするつもりなの? どんな作戦があるの?」って、単純にワクワクするようなこういう展開。個人的にはこれ、S・クレイグ・ザラーのあの傑作『デンジャラス・プリズン 牢獄の処刑人』2017年)。あれっぽさをすごい感じたんですよね。で、実際にちょっと影響がないかな?っていう風にね……テイラー・シェリダン、S・クレイグ・ザラーを見てないわけがないと思うんだよな、っていう風に、両方のファンとしては夢想してしまうあたりでありますけども。

■娯楽アクション映画としてのケレンがたっぷり贅沢に味わえる

ここね、そのシンクからあふれ出てくる水、そして手に巻くTシャツ、という……テンションを少しずつ高めていく、水の音自体が音楽になっている、みたいな、非常にテンションを高める演出もすごくいいし。更にここ、これももうね、言わずものがございます。本作最大の見せ場。マイケル・B・ジョーダンの、とんでもなく美しいフォルムにまで鍛え上げられた、パンパンの肉体美。

もうドッカンドッカンやるよりも、この肉体美が本当に見せ場として用意されている、というあたりですね。もちろんね、もっとはっきりした見せ場、大掛かりな、お金のかかった見せ場……たとえばジョンたちを乗せた、旅客機に偽装したジャンボが、そのロシア領内でミサイルにガーン!って当たっちゃって。で、海上に着水して沈んでいく、という一連のシークエンス。さっきも言いましたように、ここなどまさに、本当に荒唐無稽の極みだし、ご都合主義がすごく、すぎるところもあるんです、たしかに。ミサイルで落とされて着水して、そこにたとえば何も調べにも来ないで、ゴムボートでこっちに普通に行って上陸、とかってどういうこと?って思うけど。それはちょっと置いておいて……そこは「容赦して」(笑)。

でもここね、たとえば、バーン!ってミサイルが当たりました、「ベルトを締めろ!」ってなって、ガーンって着水して、そのまま機内にドーンって(水が)流れてくるまでを、ワンカットで捉えているんですね。ここのショットのド迫力であるとか。だいたい僕、飛行機墜落シーンは結構好物なんですけど、その中で「ああ、またひとつ、新しい見せ方をしてるな」って。水がバーンって入ってくるところをちゃんとド迫力のショットで撮っているし。その沈んでいく機内を、ジョンが潜水して進んでいく、豪華かつ非常にスリリングな水中撮影。

しかも、先ほどのメールにもあった、その物語的な読み解きとしても非常に味わい深いですね。どんどんどんどん、最深部に入っていく。水中撮影としても非常にスリリングだし、やっぱりあれ、丸ごと……やっぱりジャンボジェットのセットがないと無理ですから、豪華だし。わずかな気泡を吸って先に進んでいく、っていう、やっぱりそのサスペンス描写としての面白さも含めて、要するに娯楽映画としての、ケレンですね。ケレンがたっぷり、贅沢に味わえる場面ってことも、やっぱりこれ、たしかにあると思いますし。

■「現代のプログラムピクチャー」感覚で楽しむ分には十分に満足できるはず

あとね、そのクライマックス。そのロシアの街角、そのビルの中での籠城戦も、特にその主人公たちがいる、街の角っこにある建物を起点とした、やっぱりその空間の見せ方の、リッチさというかな……見た人は全員、あれ(舞台の地形)が思い浮かぶわけですよね。角にビルがあって、そこに広場があって、向かいのビルに狙撃者が2人いて。この空間の見せ方のリッチさとか、その空間感覚の(観客の脳内への)入れ方みたいな、やっぱりすごく映画っぽい楽しみにあふれてるし。加えて言うならば、この「ある地点にとどまって、一定時間耐えろ」っていうのは、やっぱりそれ、ゲームっぽいですよね。

実際、『レインボー・シックス』のゲームでもそういう展開があったと思いますけど。っていうところでもあって、まあ「らしい」あたりかなと思います。あとは、たとえば細かいことを言うと、何気に前半、ある人が車に轢かれるところ。車に轢かれるっていうのはよく映画に出てくるけど、たぶん画角の取り方とかがうまいのか、すごくやっぱりショックが倍増してたりして。僕、ステファノ・ソッリマ、やっぱりこういうところ、腕はあると思いますけどね。

ということで、もう僕がいま挙げたような要素で、すでにジャンル映画としては、十二分のサービスだと思うんですね。結局、その期待のレベルをどのぐらいに置くか、ということなんですが。先ほど言ったように、「午後ローでたまたまやっていたやつを見たら、これ結構すごくいい」みたいな感覚で、要はやっぱり「現代におけるプログラムピクチャー」感覚で楽しむ分には、忘れがたい部分がいっぱいあって、十分に満足できるはずだと思います。まあ、「お前、超容赦してるじゃないか」っていう話かもしれませんけども(笑)。でも僕はやっぱり、その光るところがあれば、評価が高くなっちゃいますね。

もちろんその、ステファノ・ソッリマの演出の腕、そしてもちろん、そのテイラー・シェリダンの筆力を考えれば、本来ならばさらに高いレベルを期待したい、というのもこれは当然、わかります。それは次作『レインボー・シックス』が、もしあるならば、そちらに期待したいあたりかなと思います。でももちろん、Amazonプライムにもし入ってるんだったら、これは見ないという手はないと思いますよ。ぜひぜひウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 来週の課題映画は『ファーザー』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『ファーザー』を語る!【映画評書き起こし 2021.5.21放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

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宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、514日から公開されているこの作品、『ファーザー』

(曲が流れる)

名優アンソニー・ホプキンスが認知症の父親役を演じ、2度目のアカデミー主演男優賞に輝いた人間ドラマ。ロンドンに暮らす81歳のアンソニーの視点で、老いによる混乱と喪失、娘アンとの揺れる絆を描く。共演は、『女王陛下のお気に入り』などのオリヴィア・コールマンや、『ダークシティ』のルーファス・シーウェルなど。監督を務めたのは、原作となる戯曲の作者でもあるフローリアン・ゼレールさん。第93回アカデミー賞で主演男優賞のほか、脚色賞も受賞いたしました。

ということで『ファーザー』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「やや少なめ」。まあ、都内ではBunkamura ル・シネマのほぼ単館上映なのでね、しょうがないんですが。賛否の比率は全てが褒め。けなす意見はゼロ、という状態でございました。それもむべなるかな、という感じでございます。

主な褒める意見としては、「大変見事な映画。脚本、舞台となるフラット(アパート)、小道具や衣装による伏線など、全てがよくできている」「見ていて悲しくつらい映画だったが、それでも見てよかった」「アンソニー・ホプキンスのアカデミー賞主演男優賞受賞も納得」などがございました。代表的なところを一部、省略しつつご紹介しますね。

■「認知症という、この切なすぎる世界への理解が広がった様な気がする」byリスナー

ラジオネーム「空港」さん。

「ポスターで受けた印象の『感動作』や、一部で評されている『一種のホラー』のどちらでもない、ある意味『体感型ムービー』でした。というのも、派手なカメラワークなどは皆無にもかかわらず、めちゃくちゃ乗り物酔いしてしまったような感覚を覚えたからです。」クラクラする。

「タイムリープのように反復されるシーンや会話、ほんの少し前の過去と自分がいる現実が、すぐに結びつかなくなることが、波のように絶えずこちらを襲い続けるから、酔ってしまったんだと思います。それは主人公のアンソニーも同じで、混乱と不安と恐れが入れ替わり、彼を飲み込みます。アンソニー同様、私の祖父母も、認知症が進むにつれ、攻撃的な言動が増えていきました。ただ今回、スクリーンを見ながら、『あぁこんな風に世界が見えていたから、祖父もあんな風に気を張っていたんだろうな。必死に自分を保とうとしていたんだろうな』と思い、少し祖父母の気持ちがわかったような気になりました。認知症がテーマの作品でいえば、スペインのアニメ映画『しわ』(これが最高峰だと思います)」。私もね、ちょっと後ほど言及しますが。

……や、『アリスのままで』など多くありますが、鑑賞後の印象として、フランスの『潜水服は蝶の夢を見る』が一番近いような気がしました。あちらも重いですが、素晴らしい作品でした。誰にでも気軽に勧められる映画とは思いませんが、ほんの少し、認知症という、この切なすぎる世界(病とはあまり言いたくないのです)への理解が広がった様な気がするので、間違いなく見てよかったといえる映画体験でした」という空港さんのメール。

もう1個、ご紹介しましょう。「やすあにぃ」さん。

「結論から言いますと、今年一です。生涯でも数本の中の一本になると思いました。

僕は年齢的には娘であるアン側に近いのですが、アンソニー側に共感と言う恐怖を感じました。というのも、僕は最近物忘れが激しく、脳ドックにいった結果、軽微な異常が発見され、現在は診断をうけています」。あら、お大事にね。これ。

「そんな事もあり、これは単なる映画ではなく、程度の差はあるとは言え、確実に訪れてくる現実として認識しました。自分は頭の良い人間なんだ、子供みたいに扱わないでくれ、とか、泣きだしたり甘えたくなるところなど、見ていて自分自身の老化や衰えを強く再認識させられました。2015年、山崎努主演の『長いお別れ』も年老いたアルツハイマーの父親と娘の話でしたが、全く違うアプローチというか。

ことのほか凄いのは、アンソニー側の理路整然と整理されていない感覚を、映画として整理して計算して作っているところです。自分の目の前で起きている、自分の記憶とは違う世界。朝訪れる、『ここはどこ? 私は誰?』という恐怖。聞いている話を論理的に組み立てられない感覚を、映画を見ている一人一人に味合わせる、正に映画的な映画だと思いました。」というやすあにぃさん。あの、お大事にね。治療、うまくいくといいですね。という感じでございます。

■原作は監督フローリアン・ゼレールさん2012年の戯曲『Le Père 父』

ということで、私も『ファーザー』、Bunkamura ル・シネマで2回、見てまいりました。1個空けシフトではありますが、ほぼ満席。作品そのものの注目はもちろんだけど、やってる映画館自体が少ない……要するにこの作品のみならず、(営業している場所に)お客が集中しがち、というのもやっぱりあるのかな、という感じはしましたけどね。

ということで、第93回アカデミー賞主演男優賞、脚色賞を取ったこの『ファーザー』。脚色というぐらいなので、元になったものがありまして。本作が劇場長編映画監督としてはデビューとなる──驚きですね。フローリアン・ゼレールさんによる、2012年の『Le Père 父』という、非常に高く評価されて、賞もいっぱい獲って、世界中で上演された戯曲。日本でも、2019年に橋爪功さんがこのお父さんを演じて、賞を取ったりとか。これ、劇場で売っているパンフにはですね、その日本公演に翻訳で関わられたという、齋藤敦子さんの解説が載っていたりして。これ、非常に舞台版のあれとしても、勉強になりました。

とにかく、その名舞台『Le Père 父』を、作者であるフローリアン・ゼレールさん自らが、クリストファー・ハンプトンさんと映画用脚本を作り直して、自ら監督した、という作品なわけですね、この『ファーザー』。で、僕はその元の舞台の方は、日本公演を含め、現状は未見の状態でございます。本当に不勉強で申し訳ございません。ちなみにインターネット・ムービー・データベースによれば、元の舞台は主人公のその薄れゆく記憶というのを表現するために、家具とかその部屋に置かれている物たちが、徐々に取り除かれていって、最終的に何もなくなるっていう、そういう演出をしているらしい。これはこれでね、「ああ、なるほど!」っていう感じがしますね。

もちろんそれが、今回の映画版『ファーザー』では、映像作品ならではの仕掛けに置き換えられていて。詳しくは後ほど言いますけど。なんにせよポイントは……その主人公の老いたお父さん、認知症の症状が出始めていて、娘がずっと面倒を見ているんだけれども、「いよいよこれはホームなり何なり、施設に入れた方がいいのかな? お父さん、かわいそうだけど私にも自分の人生があるし……」みたいな、これがこの「客観的な現実」の状況だとするならば、フローリアン・ゼレールさんによるこの戯曲『Le Père 父』と、それをイギリスを舞台に映画化した……これ、なんでイギリスにしたか?って言ったら、これはもう監督が答えています、100パーセント、アンソニー・ホプキンスが主演してくれるからイギリスにした、という、そういう理由だと言っていますけども。

まあ、この『ファーザー』、そういうような、今言ったような客観的な状況というのがあるんだけど……ある「らしい」んだけど、基本、そのお父さんの主観的な視点からずっと描く、という。ここがまあ、特徴になってるわけですね。

■認知症の人が見ている世界を主観的に描く、その視点の徹底ぶりが突出

もちろん、この認知症の方が見ている、感じている世界を「主観的に」描く、というこの手法自体は、特に近年、他の作品でもちょいちょい見られるものでもあって。僕が真っ先に連想したのは、先ほどのメールにもあった通りです、元はね、スペインのパコ・ロカさんという方が書かれたグラフィックノベル、これを映画化した2011年のアニメーション作品、『しわ』というのがあります。

特に、これの冒頭の描写ですね。初めて見た時は、結構びっくりしましたけどね。イグナシオ・フェレーラス監督の『しわ』という作品。これは割と本作『ファーザー』の手法とも重なるところが大きいと思うので、ぜひこのアニメーション作品『しわ』も見ていただきたいんですが。これはちなみに日本でも、元の原作のグラフィックノベルが、2011年の第15回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を取っていたりとか。2007年にフランスで刊行されて大変な話題になった、ということらしいので、ひょっとしたら実際にフローリアン・ゼレールさんも、同作を読んだり、見たりして、多少影響を受けてたりする可能性がある……っていうか、結構大きいんじゃないですかね。同じテーマを扱おうっていうんですからね。はい。

他にも、やはり2011年『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』。これね、主演のメリル・ストリープが、やはりこれでアカデミー賞を獲ったりしましたけど。あれの特に後半部分、やっぱりサッチャーが認知症であることを「主観的に」描く部分であるとか。日本でも、『ペコロスの母に会いに行く』っていう2013年の映画版があったりしますし、昨年の『おらおらでひとりいぐも』とかね、いろいろあったりするわけですけど。ただやはりですね、その一連の中でもこの『ファーザー』は、たしかにですね、その認知症の方の主観的視点の徹底ぶり、という点において突出したものがありまして。

つまり、客観的状況、客観的な現実っていうのを示す視点があんまりないまま、ほぼないまま、要は何が本当かが分からないまま、主人公も観客も、どんどんどんどん、自分がいま見ている世界に対して、懐疑的になっていく。まさにさっきのメールにあった通り、酔っちゃうような感覚っていうかね、そうなっていく。たとえば、さっき言った『しわ』の冒頭。自分が現実だと信じ込んでいたものが、足元から崩れ去るような感覚を、観客は疑似的に味わされて、グラグラッとする。これが『しわ』の冒頭で、僕もすごく驚いたんですけど、本作、この『ファーザー』という映画は、そういう、さっきまで現実だと思っていたことが次の瞬間にはもう疑わしくなっているというこの仕掛けが、何重にも、連続して絶え間なく、ほとんど全シーン、いや、全カットに仕組まれている、という、そういう作品なんですね。

■「ニューロティック・スリラー」的な面白さに近い

たとえばもう後半になると、視覚的な認知のみならず、時制の認知まで、グルグルグルグル混乱しだす。だから本当に余計に「はっ、へっ? あれ? どういうこと? どういうこと?」って。でも、この「どういうこと?」っていうのは、主人公の感覚そのものでもあるから。「どういうこと? どういうこと?」ってなっていく。で、そんな中からしかし、だんだんと主人公、すなわち観客はですね、自らが真に置かれている状況、本当の現実、真実に、少しずつ近づいて行き……という、こんな構造になっているわけです。

これ、映画のジャンルとしては、いわゆる「ニューロティック・スリラー」と呼ばれてきたような作品たち……たとえばポランスキーの『反撥』とかね、そういうポランスキーの一連の作品とか、あとは『ブラック・スワン』でも何でもいいですけど、そういう、語り手自身がちょっと信用できないタイプの映像作品、スリラーに近い。そんなスリラーに近い構造を持っている作品と言えるわけです、この『ファーザー』は。だから、「ハートウォーミングなホームドラマ」的なものを予想している方がもしいるとしたら、これは全然違うよ!というのは言っておかないといけない。

まあとにかくそういう意味で、これは扱っている題材に対して不謹慎な表現ではあるかもしれないけども、まあスリラーとか、ミステリー的な「面白さ」っていうのが、実はすごく味わえる作りになっているのは、これはもうたしかですし。僕が行った回の劇場では、ところどころ自然にクスクス笑いが漏れていたりしたぐらいで、ひねったユーモア、ダークコメディ的な要素も、はっきりある作品であって。たとえば、イモージェン・プーツ演じる若い介護士を前に……またイモージェン・プーツがね、すごくいい感じで、常にピリッとした空気を出してくれるんですね。

あのHBOドラマの『ある家族の肖像』の、マーク・ラファロの恋人役とかでもそのピリッとした感じをうまく出すんですが。イモージェン・プーツ演じるその若い介護士を前にですね、そのアンソニー・ホプキンス演じるアンソニー……これ、フローリアン・ゼレールさんが改めてね、アンソニー・ホプキンスに当て書きし直したという、この「アンソニー」というキャラクターが、まあ年甲斐もなく、はしゃいじゃっているのかな? 若い女の人を前にして、はしゃいじゃっているのかな? なんて一瞬、微笑ましい気分になったところでの、あまりにも無情な、バサーッ!っていうハシゴの外しっぷり(笑)。あまりにもひどすぎて、僕、一瞬これを見て、「ハッ!」って息を飲んだ後に、思わず苦笑い、みたいなね、そんな感じ。

■際立つ「青」の使い方のうまさ

でですね、そんな感じで非常に、言っちゃえば娯楽性もちゃんと、きっちり高い作りになってるわけですが。特に僕がスリリングに感じたのは、舞台となるそのフラット……アパートですね。要するに、そのアパートのフロアで、キッチンとか寝室とかが、フラット、同じフロアに並列に置かれているからフラット、っていう言い方をイギリスではするみたいなんですけども。そのアパートの見せ方の、非常に微妙に、しかし決定的に変容していく、この部屋のあり方、見せ方そのものが、そのまま主人公の主観的世界を表している。だからつまり実質メインというか、実質の主役がこの部屋の中の様子、っていう。そういう風に言っていい1本だと思うわけですね。映像作品としてのこの『ファーザー』は。

その意味で、このプロダクションデザイン、美術監督のピーター・フランシスさんが果たした役割が、非常に大きい。あと、撮影のベン・スミサードさんと、衣装のアナ・メアリー・スコット・ロビンズさんなどとの、見事な連係。撮影とか、衣装をどういうものを着せるかという、その見事な連係。そしてもちろん、それを見事に統合、コントロールしたフローリアン・ゼレールさんの、初監督とは思えない技量……諸々が、要は映画作品としての質が、あらゆる角度で、やはり非常に高いわけです。中でも際立っているのはですね、これ画面内での、先ほどもチラッと言いましたけども、「青」の使い方ですね。

なんならこの『ファーザー』という映画、「青」っていう部分だけに注目して一周見る、みたいなことをしても、間違いなく意義深い体験になる、そういう一作だったりします。たとえばですね、皆さん覚えてますかね? その主人公が暮らしている、アパートのキッチン。キッチンが結構出てきますけど。キッチンの壁に、タイルが貼ってあるわけです。最初の方では、所々青が目立つ、モザイク状にタイルがあるわけですね。なんだけど、あるところからそれが……同じ場所なんですよ? 同じキッチンのはずなのに、変わるんですね。

あるいは、オリヴィア・コールマンが演じる娘アンが、いくつか衣装を着てますけど、劇中で一番印象的なのはやはり、青いブラウスですよね。あるいは部屋の中に置いてある、あの青い猫の置物であるとか。あるいは、先ほども言いました、そのキッチンでね、ノソノソノソノソ、買い物袋からいろんなものを出しているというその場面の、青いビニール袋であるとか。で、「非常に青がキーになっているな」っていう目で僕ね、青だけに注目して一周、っていうのを、実際に自分でもやったんですけど。そうやって見ると実は、アンソニー・ホプキンスが登場した瞬間に、「あっ!」って思うんだけど……アンソニー・ホプキンスの瞳自体が、すごい美しいブルーなんですよ。

つまり、アンソニー・ホプキンスの、そのブルーの美しい瞳から見た世界は……という発想から来る、逆算的な演出としてのこの「青」使いなんじゃないか、って思うんですけど。これは本当に、フローリアン・ゼレールさん、僕がインタビューする機会があったらぜひ、ちょっと聞いてみたいあたりですけどね。とにかくそのように、要所に配された、非常に何と言うか人工的な、作り物感が強い、バキッとした青。青って僕ね、以前あれ、『TRANSIT』という雑誌で、「映画の中の青」というところだけに注目して論じた時があって。青ってやっぱり、すごく人工的な印象を強める色なんですけど。

今回もすごく、ちょっと……もちろん自然な描写をしているはずなのに、なんか不自然感が漂う色だったりする、青。その色づかいがもたらす、根本的な不安感、現実感の頼りなさ、みたいな部分。というと、じゃあ青がこれだけ際立っているということはですよ、逆に言えば、青が全く使われていない画とか場面は、じゃあ何を示すのか?とか。最終的にその主人公が行きつく果て……たしかに最後ね、主人公が行き着くある場所というか、ある状況があるんですけど、たしかに青は青なんだけど、さっきまでのエッジが立った、バキッとした青とは、また違うんですね。というあたりであるとか。

とにかくこの、計算され尽くした色の演出。あるいはですね、その部屋、建築物。基本的には「不動産」と言うぐらいで、本来、揺るぎないものですよね。なのに、それがカットが変わったり、場面が変わるたびに、間取りとかは同じはずなのに、「あれ? なんか違う」とか、「あれ? なんか、こうだったっけ?」みたいな風になっている。つまり部屋・建築物という、本来揺るぎない現実を最も象徴すべきものが、根本的な不安定性をたたえているように見える、まさにその、純映像的な語り口の効果ですね。

■アンソニー・ホプキンス一世一代の名演、そしてそれに匹敵するオリヴィア・コールマン

たとえば冒頭、娘のアンが、お父さんが住んでるそのフラットに訪ねてくる……外側を歩いているんで、ロンドンの街並みを歩いているんで、まあここは普通に考えれば、紛れもない現実、って思いますよね。で、階段を上って、ドアをコンコンッて叩いて入っていくわけですね。ところが中盤、全く同じドアの画角で、同じような階段を上がったところのドアの画角で、でも違う場所の設定で、その画が映されるわけです。オープニングの……その場面も実は、一旦外に出てる、っていう設定なので。語り口なので。紛れもなく現実だ、って観客も思ってるわけですよね。外に出てるんだから。

でも……「えっ、ええっ? いや、おかしい。えっ? これ、紛れもない現実だと思ってたものが……」っていう。その、同じ画角で同じドアを見せる、という映像的な演出もしていたりするわけなんですね。そんな感じで、その純映像的な語り口の効果というのが、非常に計算され尽くしているし。それが本当に、存分に堪能できる映画なんです。映像ならではのマジックが堪能できる映画なんですね、この『ファーザー』は。まあ他にね、たとえば音楽使い。これ、ビゼーのアリアがどういう意味を持つのかといったあたりの、音楽的な読み解きに関しては、これはもう本当に、(音楽ライターで番組出演者の)小室敬幸さん案件です! 小室敬幸さんに、「この『ファーザー』のビゼーのアリアはどうですか?」なんていう話はね、いずれ聞いてみたいもんだなと思いますが。

まあこれね、演技に関して。もちろんあの、アンソニー・ホプキンス一世一代の名演ぶり。これに関しては、僕がここで言葉を足すまでもないことだと思います。もう、演技ですからね。本当に映画を見ていただくのが一番なんですが。特にやはり終盤。要するに、自分を保とうとして……元々は非常に、自分は知的な人間である、インテリであるというような自負が高い方だったからこそ、突っ張っていて。先ほどのメールにもあった通りです。人に非常に攻撃的になりがちだった、アンソニー・ホプキンス演じるアンソニーが、ラストで急速に、もう本当にボロボロボロボロッて感じで、崩れていく。その、人間が「崩れていく」瞬間。この不憫さ。その涙腺刺激度。やっぱりただ事じゃないですし。

あと演技で言えば、僕は改めて、オリヴィア・コールマン、これはすごい役者だなと思いましたね。あの『女王陛下のお気に入り』のね、女王役でもそうでしたけども、彼女の上手いのは、口には出さない、表情にもそんなには露骨には出さない、でも、たしかにものすごく強く、「思うところあり!」みたいな。それがね……この感じをしかもね、観客にだけ、他にその場にいる人もいるんだけど、観客にだけ伝わってくる感じで演じるのが、本当に上手いんですよね。

ということで、オリヴィア・コールマンはやっぱり、アンソニー・ホプキンスに匹敵する上手さだと思います。あの、演じている娘さんのアンもね、たしかにお父さんを大事に思ってるし、実際に大事にもしてるんだけど、そりゃ思うところもあるよね……長年、育ってくる間中、ずーっと「あんなこと」を言われ続けていれば、それは思うところはあるわけですよ。この「思うところあり」っていうのを、オリヴィア・コールマンはすごく演じるのが上手いわけですけども。

つまりこれは、「家族という地獄」「家族という呪い」っていう話でもあるんですよね。彼女にとっては、実はお父さんとの何十年は、地獄だったかもしれないんだよ。だからようやく今、自分の人生を歩く、っていうのは、彼女にとっては解き放たれたラストかもしれないわけ。だからこそ、個人的にはオリヴィア・コールマン、「この人、すげえな」って思ったのは……さりげないところですよ。最後、タクシーの中にいる彼女が、一瞬だけ、一瞬自分に言い聞かせるかのように、ほんの一瞬だけ、クッって、うなずくかのように、ちょっと首を、縦に振るんですよ! 「すげえな、これ! なんだ、これ!」って思ってしまいました。

■認知症への理解、気づき。さらには生きる意味まで見つめ直す射程を持った一作

ということでね、もちろんその、認知症というものに対する理解というかな、その当事者にはこう見えているのかもしれない……だから要するに、外側の人間、この外側の人間たちを、外側の人間のたとえばイラつきであるとか、社会側というものを象徴するような、男たち2人。マーク・ゲイティスさんとルーファス・シーウェルさんの2人が象徴する、その外側の視点っていうのがいかに、その内側の人にとっては攻撃的なものに見えるか。非常に無慈悲なものに見えるか。

それを疑似的に体験させていただくことで、たとえば我々が、認知症的なというか、そういう症状の方に会った時に、やっぱり1個、気づきとして……たとえば「この人にはこれが現実なのだから、それを頭ごなしに否定したり、ましてや、それを怒ったりしてはダメだな」っていう、そこのひとつ学び、気づきにもなるような作品であるのはもちろんだし。最終的にはこの映画、認知症に限らずとも……つまり認知症じゃなくても、我々全員に、最終的には絶対に待ち受けていること。それはなにかと言えば、これまで何十年と生きてきた人生が、すべて無に帰す。これは避け得ないわけですよね。

で、その全てが無に帰す、というその生のサイクル……じゃあ、なぜ生きるのか? 生きるって何か? みたいなところまで、最終的に射程が、グーッとラストで、特にあのラストの会話とラストカットで、グーッと射程が伸びるんですね。また最後にいきなり。これも含めてですね、これはすげえ映画だな!っていうね。しかもそれを、1個も言葉で説明していない。映像的に伝わってくるものになっているわけで。これはちょっと文句が付けようがない、上質な映画である、と言わざるを得ないのが現状ではないでしょうか。

ということで、ぜひぜひ……これ以外の言いようがないんだよね。本当に、ぜひぜひこれ、劇場の集中した環境で……しかも何周もする価値がある作品だと思いますよ。ウォッチしていただきたいと思います!

(ガチャ回しパート中略 来週の課題映画は『くれなずめ』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『くれなずめ』を語る!【映画評書き起こし 2021.5.28放送】

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宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、512日から公開されているこの作品、『くれなずめ』

(曲が流れる)

『アズミ・ハルコは行方不明』『バイプレイヤーズ』シリーズなどの松居大悟監督が、自身の体験を元にした舞台劇を映画化。友人の結婚披露宴で余興をするために、5年ぶりに集まった高校時代の6人の仲間たち。披露宴と2次会の間に高校時代の思い出を振り返るが、仲間の1人、吉尾はある秘密を抱えていた。これ、ちなみにその「秘密」の部分なんですけど……予告とか宣伝でも全然出ちゃってるところなんで、これ、評論中では途中から言います。という感じですね。

主人公の6人を演じるのは成田凌、高良健吾、若葉竜也、浜野謙太……ハマケンさん、藤原季節。目次立樹さん。さらに城田優さん、そして前田敦子さんなどが脇を固める、ということでございます。

ということで『くれなずめ』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「普通」。まあでもね、そんなに公開館数が多くないっていうか、今ね、本当に映画館そのものがあんまりやってない中でね、結構健闘している方じゃないですかね。

賛否の比率は、褒める意見が4割ちょっと。残りの6割が「好きなところもあるが、乗れないところもある」や「自分にはダメだった」という意見で半々。なかなかね、クセの強さとか、後ほども言いますが、ある種のこう、エグさの部分もたしかにありますよね。主な褒める意見としては、「後半以降、涙が止まらなかった。個人的にとても大切な映画になった」「悲しい過去を自分の中でどう折り合いをつけていくのか? そうしたテーマをユーモアで包みながらゆっくり丁寧に描いている」などがありました。

一方、否定的な意見としては、「内輪受けの強いホモソーシャルなノリや女性、外国人の扱いが見ていてキツい」「終盤直前のある突拍子もない展開で完全に置いていかれてしまった」などがございました。またラジオネーム「ムラカミ」さんからは映画の熱い感想と共に、非常に熱くなってしまったということで、劇場で売られているイラストTシャツを2着も送っていただいて。ありがとうございます! お気遣い、ありがとうございます。

■「引きずったり、ごまかしたり、カッコ悪くても生きていきたい」(byリスナー)

といったあたりで、代表的なところをご紹介しましょう。まず、褒めてる方。ラジオネーム「どんぐり」さん。

「映画『くれなずめ』、副音声つき上映含め2度観てきました! 最高に爽快な気分で劇場を出る久しぶりの経験をしました。『ヘラヘラしろよ』『引きずることから逃げんじゃねえよ』など、聞いたことのないダサい決め台詞に悔しいくらい泣かされましたし、きっと今後も忘れられないパンチラインになるだろうと思います。

特に私が好きなのは、メンバー1人1人の回想の中で成田凌さん演じる吉尾のキャラクターが変化しているところです。辛辣なことを言われる関係性の人も、男同士でじゃれあって好きな女の子の話や馬鹿話した思い出ばかりな人も、一緒にいた日の思い出が出てこない人もいました。人は関係性の中でどんなふうに人に映るのかが変化するもので、それが特に故人であった時、自分がここに存在していてほしいと思うところにその人を置いてしまうことが人にはあるなあ、と思うのです。その都合のよさや、何かに折り合いをつけないままにも生きていくことについて、こんなに肯定されることがあるんだ!という驚きさえありました。好きなシーンはたくさんありますが、藤原季節さん演じる大成(ひろなり)が、作中の死者に線香をあげに行った帰り道、駅で『なんか、お菓子もらいに来た人みたいになっちゃって』と言った顔が忘れられないです」。あそこの藤原季節さんの顔は、素晴らしかったですね。

……思いっきり泣くことも強がることも選べていないような、自分に湧いてくる気持ちに戸惑っているような、どこにもいけないすごい表情をしていました。高校生の頃、親友のお父さんのお通夜に行った日にどんな顔をすればいいか分からなかったが自分が救われるような気持ちになりました。引きずったり、ごまかしたり、カッコ悪くても生きていきたい。人生で何度も見返したい一本です」というどんぐりさんのメールでございます。

一方ですね、ちょっと否定的な方もご紹介しますね。「ロバート・マコマッコール」さん。「感想は『否』です。私は男性ですが、全体に流れる品の無い『ホモソ感』に乗れませんでした。ギャグも身内ノリで、引いた目線で見てしまい……」。もちろんね、身内同士でキャッキャキャッキャってやってる話だからね。「……全然笑えませんでした。劇中で若葉竜也演じる舞台役者が、先輩に向かって『コメディ作る方が大変なんだ』みたいな啖呵を切っていましたが、だったらもっと笑えるコメディを作ってくれよ、と思いました。役者陣の実年齢や見た目の年齢がちくはぐで、同級生や後輩だとわかりづらく、また高校時代を回想しているのに見た目に変化を付けてないのに違和感がありました(「変わらないな」と言われてたのは成田凌だけなのに)」。まあ、これはちょっと後ほど、こういうことじゃないかな、というようなのは言おうかなと……入るかな?

……また前田敦子が演じる同級生もステレオタイプの「ヒステリックな女性」みたいな描き方で、まだそんな認識なの?と思ってしまいました。後半のテイストが大きく変わる展開も、登場人物を好きになれていれば意表を突いた演出として受け入れられたかもしれませんが、そうでは無い私には、ただただ冷めていく一方でした。旬なキャスト陣から期待は大きかったのですが、個人的には今年ワーストです」という非常に厳しいご意見。厳しい人の意見が(いつも以上に)厳しいんですよね。

和歌山の本屋プラグ嶋田さんもね、ちょっとこれ、メールを読むのは省略しますけども、やはりロバート・マコマッコールさんと同じような観点で、非常に厳しい批判メールをいただいております。で、そういう言葉が出てくる、評が出てくるのもまあ、わかるっていう。そういう面も全然ある作品かな、というのもあるんですけどね。まあ、私はどう見たか、お話していきましょう。皆さん、メールありがとうございます。

■自然主義的な演技から突然、超常的な場面にスコーンと振り切るバランス感覚を持つ松居大悟監督

『くれなずめ』、テアトル新宿で私も2回、見てまいりました。

平日昼としてはまあまあ、結構入ってる方かなと思いましたけどね。あと、その東京テアトルチャンネルというインターネット上のページで、出演者の皆さんによる「ネタバレありのバックステージトーク」っていうのの配信が、今日の10時から始まっていて……31日までやっていて、それもチケットを買ってさっき、見たんですけど。脚本・監督の松居大悟さん。大学在学中から劇団ゴジゲンていうのを立ち上げられて。2012年に『アフロ田中』っていうね、元は漫画の映画化の監督として抜擢されて以降、劇場用映画、ドラマ、ミュージックビデオなどなど、本当に多数手がけられていて。何気にものすごい売れっ子ですよね。松居さんね。

最近だとね、先ほどもありました、『バイプレイヤーズ』とかもそうですね。私、今年公開された最新の劇場版はすいません。ちょっと見逃してしまっておりまして。見れていないんですが。そんな感じで、全部が全部ではなくて申し訳ないんですけど、気づけば結構な割合で松居大悟さんの、少なくとも長編映画は2本を除いて全部見てる、ぐらいではありますね。

で、松居さんね、得意としているのは、今回の『くれなずめ』もまさにそうですけど、先ほどからね、ちょっと本当に焦点になってますね、男友達同士のワチャワチャしたじゃれ合い描写、まあ、ホモソーシャル的なワチャワチャ描写。ただ、2015年の『私たちのハァハァ』ではその女の子たち同士……女の子たち同士でもやっぱりこういう、ワチャワチャ描写だったんで。まあ、それを非常に見事に切り取っていたんで。いずれにせよ、その友達同士のワチャワチャみたいなのものをね、ほとんど本当の友人関係をそのまま映しているだけなんじゃないの?って見えるぐらい、自然に描き出す、という。そういう名手であることは間違いない松居大悟さん。

と同時に、そういう一見ものすごく自然主義的な、要するに「本当に友達なんじゃないの? それをそのまま撮っているんじゃないの?」みたいな自然主義的な演技、演者のテンション、演出のテンションはそのままに、時折そのリアリティラインが、突然スコーンと、フィクション側にガーッと振り切る。突然、超現実的なところにボーンと抜けていったりする。あるいは、実はその現実と妄想、空想の境が非常に曖昧だった、ということが明らかになったり。そういうちょっと突き抜けた展開、構造というのも、松居大悟さんの作品ではしばしば見られる。

たとえば2015年の『ワンダフルワールドエンド』と今回の『くれなずめ』、どちらも文字通り、「お花畑」ですよね……よく「脳内お花畑」なんて言い方をしますけど、文字通りお花畑に、スコーンと抜けたりする部分があったりする。で、これはたぶんひょっとしたら……要するに、すごくそのままを撮ったような自然主義的な演技と、その超常的な場面にスコーンと抜けるって、これは先ほどから言ってるように、演劇も同時にずっとやってこられた方ならではのバランス感覚なのかな、という感じがしますね。

■ホモソーシャルなワチャワチャが「もはやそこまで無邪気なものではなくなってしまった」地点から語られる物語

あとですね、これも重要だと思うんですが、今言った『ワンダフルワールドエンド』という作品、あと『私たちのハァハァ』。あと、2016年の山内マリコさん原作の『アズミ・ハルコは行方不明』。この三作は、大きく言ってシスターフッド物でもあるわけですね。特に『アズミ・ハルコは行方不明』は、山内マリコさん原作でもあるから、割とはっきりフェミニズム的な問題意識を持って、たとえばさっきから言ってるようなその男たち、男同士のワチャワチャ、いわゆるそのホモソーシャルなノリっていうのを、はっきり批判的に相対化もしてたりするわけです。

なので、少なくとも松居大悟さん、その「男子中学生の日常」とか、そういう前のやつじゃなくて、ある時期から……やっぱりこの、いま挙げた三作ですね、そのシスターフッド物三作ぐらいから、そのいわゆる得意としてきたホモソ的なワチャワチャ描写みたいなのが、そこまで無邪気なものじゃなくなってるっていうか。たとえば2018年『君が君で君だ』っていうね、これもね、だから非常に見る人によっては、もう嫌悪しか醸さないような男同士描写があるんだけど。

それがもう、客観的にはっきりキツいっていうか、見てられないし。まあ全く正しくもない、というようなものとして基本的には扱われていたりして。ある種、扱い方のバランスがどんどん変わってきてると思う、ある時期から。その意味で今回の『くれなずめ』は、まさにそうした男同士の、本人たちは楽しそうなワチャワチャ……完全に身内ノリですよ。だから、その中でやってるギャグが面白いか面白くないかで言えば、面白くないよ、そんなの。あの「笑ってんのかーい」とか、そんなの面白いわけないんだけども。でも、その本人たちは楽しそうなワチャワチャが、「もはやそこまで無邪気なものではなくなってしまった」地点から語られる話ですよね、今回の『くれなずめ』は明らかに。

つまり、その「もうこういうのが楽しい時期じゃない。こういうのが楽しめるわけじゃない」っていうところから振り返った話であり……それを意識的にむしろ、構造化してるような話というかね。そういう構造を元々、打ち出している話とも言える。

■自身の青年期と区切りをつけるような、たぶんターニングポイントになる作品

元になったのは、2017年に、先ほどから言ってるその松居大吾さん主宰の劇団ゴジゲンが舞台でやられていたもので。ちなみに僕、これは拝見できていなくてですね。先週の『ファーザー』に引き続き、元の舞台が見れてなくて申し訳ないんですが。なんでもそれ、やっぱり松居さんご自身の大学時代の友人、劇団に誘ったけど断られて……っていうような方。まあ劇中の吉尾っていうキャラクター、成田凌さん演じる役柄のモデルになった方が、実際にいらっしゃったということで。

まあ、その今日配信のさっき言った「バックステージトーク」っていうのの中でも、最後、すごい声を詰まらせていらっしゃいましたけど。つまり、その松居大悟さんご自身にとって、かなり個人的な意味を持つ作品……であればこそ、この『くれなずめ』、さっきも言ったような意味で、松居大悟監督のこれまでのいろんな要素が入った集大成にして、ターニングポイントっていうか、たぶんその、男同士のワチャワチャ物みたいなのに、ひとつケリをつけるような作品というか。自ら青年期、青春期に区切りをつける……わかりませんよ? ここから先、何を作るのかわからないから俺が勝手に言っていることだけども。かもしれないけど、たぶん、ターニングポイントになる作品。その青年期、青春期との区切り。

それはまるで、まさに夕暮れ……くれなずむ夕暮れのような、ファジーなグラデーションではあるんです。いきなりバコン!って変わるというよりは、ファジーなグラデーションだけども、でも確実にそっちに向かっている、みたいな。そういうものとして、松居大悟さんのフィルモグラフィーとしてもたぶん、非常に重要な一作になっているんじゃないかという風に思います。僕個人の結論を言ってしまえば、まだ二作ほど見逃している状態でこれを言うのもどうかと思うが、松居大悟さん現状の最高傑作、ということは言ってもいいのかな、っていう風に思うぐらいです。

■回想シーンは主観的にデフォルメされ、現在パートは特定の解釈を入れずに長回しで撮る

まず冒頭、その友人の結婚式で見せる余興のために会場を下見する、その6人の主人公の男たち、その長回しという。この長回しがまず、結構すごいですね。5分ぐらい続くのかな? さっき言った、その配信された「バックステージトーク」によれば、15から16テイクぐらい撮ったって言っていましたね。しかもこれ、うまくいったように見えても、「うまくいきすぎた」テイクは……要するに、5年ぶりに会うという距離感、ちょっとしたギクシャク感がこれは出てないとかでダメってなったりとか、そういうこともあったりしたみたいで。

とにかくそんな感じで、それぞれ微妙に年齢や学年が違う……つまりこれ、明らかに部活じゃねえな、っていうこのゆるいつながり。部活じゃないし、サークルじゃない、この上下関係がルーズすぎるっていう感じ。「こいつら、帰宅部だな」みたいなね。そんなつながりであるなっていう感じだとか。あるいは、そういうやり取りから透けて見える、各々の現在の人生とか人柄。たとえばその、藤原季節さん演じる彼が、妙にカリカリしていて。わかります。俺もどっちかっていうとああいうタイプです。「もう迷惑、かかっているから!」みたいな感じなんだけども。

彼の、要するに「今、お前、どういう会社に勤めてんの? ちょっとお前が心配なんだけど?」っていう感じの雰囲気とかが透けて見えてきたりする。要するに、それぞれすでに全く異なる人生を歩いていて、こんな機会でもなければ、もうほぼほぼ疎遠になりかけだった、っていうようなことも匂わせるような、そういうニュアンスが出てきたりとか。そしてもちろん、会場の係の人が「5人」って言ったそばから「6人」って言い直したり、少しだけそのリアリティーの基準がぐらつくような描写が、ちょっと入ってきたりとかしてですね。諸々が、このぶっ通しの5分間の長回しで、その物語上必要な情報というのが、決して直接的な説明ではなく、きっちり提示されていくという。このへん、上手いですね。やっぱりね。

これ、パンフのインタビューとか、「バックステージトーク」っていうさっき言った配信で監督が仰っていたのは、それぞれのキャラクターが、そのふとしたきっかけで思い出す……この後、回想エピソードが少しずつ入ってくるわけなんですね。なんだけど、これ、実際の記憶というものがそうであるように、断片的な出来事を、その思い出してる本人の視点に寄り添うようにその回想シーンは編集してみせている、という。なので、その回想シーンの中の描写は全体に主観……まさに先週の『ファーザー』じゃないけども、ちょっと主観的に偏った描写なので。たとえば、後ほど言うその前田敦子さんの女性キャラクターが、あれはデフォルメされてるんですよね。「そういう風に見えていた」っていう。「記憶の中ではこう」みたいな。

だから、その中の人物の年齢の感じがギクシャクしていたりするのも、そういう記憶の書き換えの話でもあるということで。回想の方はそういう感じで見せている。で、一方対照的に現在パートは、起こっていることそのままを、特定の解釈を入れずに捉えたような長回しをしている。要するに、見せ方の違いをみせている。そんな感じで、舞台版とは違う、その映像作品ならではの見せ方っていうのを、きちんと考えられてやられているわけです。

■「結婚式の2次会までの時間」という「くれなずめ時間」を舞台にしたところがさすが

で、元々のその舞台版にはない今回の映画版ならではの大きな要素として、もうひとつ、場所の移動ですね。要するに移動が入る。舞台版はずっと1ヶ所、その結婚式場の裏手のところでずっと話が続くみたいなので。そもそもこれ、その「バックステージトーク」の中で、ネジ役の目次立樹さん……目次さんは劇団ゴジゲンの立ち上げの時からいたメンバーで、このコーナーだと『アルプススタンドのはしの方』の先生役でおなじみ、って感じですよね。その目次さんも仰ってましたけど、そもそもこの、結婚式の2次会までの中途半端に空いちゃった時間、という、ここを舞台にするっていう目の付けどころがまず、そもそもさすがですよね。

これ、要するに、友人同士の再会の場っていうのもこれ、もちろんだけど。なんだけど、その宙ぶらりんな、一種モラトリアムっていうのを象徴する時間でもあるし。同時に、モラトリアムなんだけど、結婚式ですから、要するに「これを区切りに大人になります会」でもあるわけですよ。というセッティング。モラトリアムなのに、確実に……まさにだから「くれなずめ時間」というか、グラデーションをもって大人になっていく、「あいだ」の時間っていう。これ、ここの狙いどころが、非常に絶妙でもある。なおかつ、この映画版の『くれなずめ』ではですね、その移動という要素、あてどない移動っていうのを付け加えることで、言っちゃえばすごく小さい、ロードムービーにもなっているわけです。

しかもそれが、最終的には現実とも象徴的描写ともつかない、なんていうか、まさしく文字通り「心の旅」になっていく、みたいな。より劇的な盛り上がりがあって、みたいな作りになっているということです。ただ、もちろんそこで話されていること自体は、披露宴で大スベリした、まさしくザ・ホモソなノリの余興天気だから、あれ自体はもちろん面白くないですよ。その余興を2次会でまたやるかどうかっていう、まあもう「どうでもええわ!」っていうしょうもないやり取りを、ずっとしているわけですけども。

ただ、それがなぜ、その回想だの、最終的には心の旅だのに各々つながっていくか、といえば、それはもちろん……これ、改めて言います。開始早々、開始5分で明らかになることですし、予告編など宣伝でも打ち出されてる部分なので……これ、ちなみに成田凌さんは、「絶対、この部分が予告に使われると思って演じていた」っていう風に、さっき「バックステージトーク」の中でも言ってましたけど。なので、言っちゃいますけど、その6人の中の1人、成田凌さん演じる吉尾というのは、まあ5年前にどうやら、すでに亡くなっているらしいという。

ただしこれ、登場人物が実は死んでいた、っていうのを、サプライズ的に、それこそどんでん返しな的なオチとして使っているパターンではない。だったら僕、言いませんけど。そうじゃなくて、これは僕なりの解釈と表現で言うならば、亡くなってしまった身近な家族とか友人って、でもその人の、それも割としょうもない話、エピソードトークみたいなのを繰り返しゲラゲラ笑って話していたりするうちは、まるでまだ普通にそこにいるようでもある、みたいな感じ。たとえば僕らだったら、MAKI THE MAGICがしょうもなかった話、みたいなのはいまだに定期的にしていて。「マキくん、しょうもねえなー! ゲラゲラゲラッ!」って。

で、やっぱりそのたびに「全然いる感じ」っていうか。死んでいるのはわかってるけど、それを認められない、っていうのともちょっと違って。死んでいるんだけど、そこにいるも同然、みたいな。こっちにとってはね。という、そういう感じを、松居大悟さん一流の、さっきも言ったような自然主義的なワチャワチャ×超現実性の同居みたいな、そういうタッチで表現してみせた、それがこの「そこに普通に吉尾がいる」という描写なんじゃないか、という風に私は解釈したわけですけども。

■終わりの予感があるからこそ、褒められたものじゃないホモソノリもちょっと切ない

ちなみに、その今日配信された「バックステージトーク」によると、この冒頭、カラオケボックスでその吉尾が、「ああ、俺、死んでいるんだ」っていうことをちゃんと意識するあたり。舞台版と映画版だと、割とニュアンスの微妙な違いがあって。なおかつ映画も、撮影後にさらに微調整まで加えたっていう。この話はめちゃくちゃ面白かったので、これ、興味ある方はここ、さらに突っ込んだ話、31日まで配信で聞けるそうなので、ぜひこれをお勧めしたいですけれども。

とにかく、この吉尾というのはもう死んでるし、そのことは吉尾本人も、そこにいる全員も分かった上で繰り広げられる、「いい歳した大人たちのしょうもないワチャワチャ」なので。要は、彼ら自身がすでにそのノリを相対化してる年頃、立場だし、吉尾との時間のために生じてるこのワチャワチャのノリでもあるので。なんならもう、これが終わればたぶんもう2度とこれ、やらないかもしんない、という終わりの予感をも含んでいるため……なので、そのやってることそのものは、それこそ嫌悪を感じる人がいてもしょうがない、男同士のワチャワチャ、ホモソノリなんだけども、そこにやっぱり全瞬間、ちょっととてつもない哀切みたいなものも満ちていたりして。

それが褒められたもんじゃないということは分かった上で、それでもある種のかけがえのなさみたいなものはやっぱり、たしかにあったりする。また、そのそれぞれの記憶の中にいる吉尾。これはさっきのメールにもあった通りです。それぞれの回想シーンでの成田凌の見え方が、また全然違う、っていうのもすごくやっぱり興味深いあたりで。たとえば、舞台版では松居さん自らが演じていたという、映画版では高良健吾さん演じる欽一っていうのが、仙台で会った時。おでん屋さんにいる時の吉尾……その時の吉尾くんも、明らかにもう昔のような、童顔の吉尾くんじゃないんですよね。

良くも悪くも、もう大人の厳しさをすでに身に着けてるっていうか。要は、言っちゃえば批判メールであった「外部がないじゃないか」っていうのがありましたけども、吉尾はもう、あの仙台の吉尾は「外部を知ってる人」っていうか、そういう人として……しかもその向こう側には、やっぱり震災の傷みたいなものの影が見えたりする、というようなことで。だからそこがすごく……要するにもう自分たちのノリみたいなものを、吉尾は相対化できちゃっているわけですよ。その視線がちょっとピリピリするというか、そういう感じ。

ただね、ここね、批判メールにもありましたけど、滝藤賢一さん演じるおでん屋さんの、あの片言外人ギャグみたいのは、今の感覚ではちょっとアウトっていうか、これ、ちょっとノイズですね。なんでこんなことを入れる必要があったのか……あれはちょっと、せっかく重要な場面だし、いい場面なのに、こんなディテールはいらないよ、って思いながら見ていましたけども。

でもね、ただ、いま言っているようなことは、決して「昔がよかった」みたいなことでもなくて。たとえばその前田敦子さんが、極上の声裏返しキレ芸を見せる、ミキエとの再会のくだり……だから(このキャラクターに付加された)デフォルメっていうのは「彼らから見た彼女」だからなんだけども。ちなみにそのミキエの高校時代パートに出てくる、あの四千頭身の都築拓紀さん、あのベソかき演技も、もうパーフェクトでしたけどね。あと、藤原季節さん演じるあの年下の大成に、告白されたと勘違いする一連の流れとか、本当にコメディエンヌとしてのあっちゃん、最高!っていう感じでしたけども。

とにかく、そのミキエとの再会シーン。大人になること、死をも含む時間の経過を受け入れながら、それでも前に進み生きていくこと、本作の根幹に関わる重要な話を、やっぱりその基本的には笑えるシーンとして仕立てているあたり。要するに、彼女だけが明らかに一歩、進んでいるし、今を生きているし、大人だし、ってことなんだけど。そのあたりもやっぱり、松居大悟作品ならではのバランスで、すごく良かったと思うし。

23度と見ることで、味わいが変わり、また増していくような1

まあ、主演陣の芸達者ぶりっていうのも言うまでもなくですけども。それぞれ、あの吉尾の訃報を聞くくだりのリアクションというのが、すごかったですよね。特にハマケンさん。あの引きのカメラ、引きのショットだから泣ける、っていう。そんな引きの名ショット、泣きショットに、1個また素晴らしいのが加わったんじゃないかと思います。

クライマックスでは、吉尾を彼らなりに弔う展開が何段階か重なり、なおかつ現実と超現実がさらに入り交じるという……ちょっと僕は正直、くどいというか、やりすぎ感がたしかにあるかな、という感じがしましたね。これ、演劇だったら効果的な超次元への飛躍が、こう何個も続くと……個人的には、あの『サニー 永遠の仲間たち』的なあの展開よりも、やっぱり最後の「記憶のリフレイン」シーンに焦点を絞った方が、より良かったんじゃないかなと。

ただまあ、そういうバランスを取ってどうこう、っていうタイプの映画じゃないのかもしれないですけどね。最終的に、その昼と夜のあわい、全てが影を失ってひとつに溶けゆくような、マジックアワー。つまり生と死、あるいは青春と大人、そのファジーな狭間を、まあなんとか「へらへらしながら」歩いていこうとする彼らの姿。生きていくことそのもの、っていうものを象徴している。だから、『くれなずめ』というタイトルが最後にドン!と来るような感じ、これも素晴らしかった。

あと、これも。劇中で言及されて、使用もされている、あのウルフルズの「それが答えだ!」。これ、エンドロールで流れる「ゾウはネズミ色」っていう新曲は、ちょうどその「それが答えだ!」のセルフアンサー的な内容になっていて。映画全体としっかり呼応する主題歌になっていて。これもすごくよかったと思います。

ということで、2度、3度と見ることで味わいが変わり、また増していくような1本でもあるかと思いますし。松居大悟さん、ここでひと区切りつけるのかどうか、わかりませんけどね。私の見立てで言うと、ここから以降、さらに次の段階に行くんじゃないか、ということで。いよいよ楽しみな作り手になってきたと思います。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 来週の課題映画は『ペトルーニャに祝福を』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『ペトルーニャに祝福を』を語る!【映画評書き起こし 2021.6.4放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

 

宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、522日から公開されているこの作品、『ペトルーニャに祝福を』

(曲が流れる)

北マケドニアを舞台に、女人禁制の伝統儀式に偶然参加してしまった女性が思わぬ騒動に巻き込まれていくドラマ。北マケドニアの小さな街に暮らす32歳のペトルーニャは、ある日偶然、地元の伝統儀式に遭遇。思わず儀式に参加し、幸せが訪れるという十字架を手にするが、女人禁制の儀式に参加したことで、周囲から猛反発を受けてしまう。ペトルーニャを演じるのはゾリツァ・ヌシェバさん。監督は本作が長編五作目となる女性監督テオナ・ストゥルガル・ミテフスカさんです。

ということで、『ペトルーニャに祝福を』をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「少ない」。まあ、これはしょうがないね。都内は岩波ホールのみの上映ですからね。

なんですが、賛否の比率は、およそ8割が褒める感想。主な褒める意見としては「女性差別や抑圧的な母親、警察などに対し立ち向かっていく主人公の姿がいい。爽やかなラストに拍手!」「テーマは重いがユーモアがあり、日本人でも共感できる普遍的な映画になっている」「終盤、ペトルーニャの目に宿る強い光。ゾリツァ・ヌシェバさんの演技がすごい」などがございました。

一方、否定的な意見としては、「やりたいことが仕事にならないからと、32歳まで無職でいた主人公。物語の発端となる行動も含め、共感できなかった」とか「女人禁制の宗教儀式と女性差別とを一緒くたに語っており、論点がずれていると感じた」などがございました。

■「今の日本で起きていることとまるで同じような社会の有り様を映し出している」(リスナー)

代表的なところをご紹介しましょう。「これからお迎え」さん。

「賛否でいえば<賛>です。世界の今をしっかりと切り取った佳作、意欲作でした。驚いたのは、旧ユーゴのマケドニアという、遠く離れた国で撮られた作品が、今の日本で起きていることとまるで同じような社会の有り様を映し出しているところです。

主人公の人物像はとても身近なものですし、娘の行く末を心配する両親のたたずまいも、世界共通のものなのだと思い知らされます。『十字架を取ることができるのは男性だけ』という、深く考えると理由の分からない『決まり』も、今の日本社会を生きる中で何度も目にしたものです。ですので、原題となっているGOD EXSITS, HER NAME IS PETRUNYAの真意が解き明かされる終盤には、はっとさせられました。神の代名詞にHISではなくHERを当てるという発想自体、これまで考えもしてこなかった私自身の凝り固まった『決まり』に気付かされたからです。

ところで、私は報道の仕事をしており、これまで日本各地の数多の警察署にお邪魔したのですが、マケドニアの警察署の雰囲気が日本のそれと全く変わらないことにも驚きました。また、女性記者が子どものお迎えを巡って夫と押しつけあいをする光景には、思わず苦笑いしてしまいました。自分自身も経験がありますし、悲しいかな、周囲でもよく見かける光景です。なお、岩波ホールの初日で、上映前に支配人の岩波律子(いわなみ・りつこ)さんがご挨拶され、簡単な作品紹介をしてくださったのも(それに拍手が起きたことも)『映画館での体験』という感じがして良かったです」。

ああ、やっぱり岩波ホールならではですね。これね。もう1個、褒めメールをご紹介させてください。「おれにゃん」さん。

「本作、自分にとっては、「娯楽としては期待外れ、でも一見の価値がある映画」でした。というのも、私は本作に対して、「女性についてのシリアスなテーマを扱いながらも、コミカルさやテンポの良さで楽しく見られる作品」を期待していたからです。序盤はその期待どおりだったのですが、中盤からは警察署内での会話が続き……」。まあ、膠着状態だからね。

「何度か眠気におそわれました。では、見て損したかというと、そうは思いません。遠い国で作られたこの小さな映画に強い普遍性を感じたからです。ペトルーニャに対する各年代の男性たちのからかい、罵倒、セクハラ、マンスプレイニングは、日本のSNSで毎日目にする発言する女性への反応にそっくりだと思いました。最も印象的だったのは、ペトルーニャの内面に起きる決定的な変化が、主演俳優によって体現されていた点です。

自分には尊厳がある、誰にもおとしめられるいわれはない。そう自覚したペトルーニャの眼差しの強さ、漂う気高さが心に残りました」というご意見でございます。

■縁遠い北マケドニアの映画ながら……「これ、うちの国でも起こりうる話かも」

ということで、皆さんメールありがとうございます。私も岩波ホールで2回、見てまいりました、『ペトルーニャに祝福を』。岩波ホール、本当にね、申し訳ないけど超久しぶりでね。下手したら85年の『ファニーとアレクサンデル』以来かな?っていうね。すいませんね。なんかちょっと、あれだけ90年代、神保町に入り浸っていながら、なんかちょっと一時期、お堅いイメージで敬遠しがちだったという。まあダメな食わず嫌い映画ファンでございました、って感じなんですけどね。

ともあれ2019年、北マケドニア映画というね。正確には北マケドニア、フランス、ベルギー、クロアチア、スロベニア合作ですけど。まあ、舞台も含めて北マケドニア。旧ユーゴスラビア、バルカン半島のちょっと上の方の内陸部、って感じですね。で、1991年にマケドニア共和国として独立したんだけど、ギリシャと国名を巡って……皆さんもね、アレクサンドロス大王とかで「マケドニア」っていう土地の記憶があると思いますが、国名をめぐって大モメして。まさに2019年、だからこの映画が作られた年に、「北マケドニア」という風に正式名称を改めた、という国ですね。

……なんてことも、恥ずかしながら僕はいまいちよくわかってなくて、今回このタイミングで、それこそ劇場で販売されているパンフにもそういう情報が載っていて、ようやくちょっと知った程度なんですけども。いずれにせよ、日本にはあまり馴染みがない国、というのは間違いないかな、と思うんですけど。

この『ペトルーニャに祝福を』という映画、我々日本の観客にとっては、もちろん異郷の地の風景や習俗、物珍しく見れる、という部分もあるにはあるんだけど……それ以上に、これはもう本当に皆さん、メールで書かれている通りですね。「これ、うちの国でも起こりうる話かも」「同じような構造や体質、全然普通にすぐそこにあるかも」とか。なんなら、実際に起こったある具体的な事件さえ想起させたりとか。

要は、全く他人事ではなく響くところが多い、という。非常に普遍的な射程を持った作品である、と言えると思いますね。つまり、言っちゃえば父権主義的というか、男性優位主義的、すなわち翻って性差別主義的なもの、考えが、まだまだ根強い社会であったりとか。女人禁制の伝統っていうのも、根強くあちこちに残っていますよね。

「伝統」や「宗教」は何のために、誰のためにあるわけ?

で、一番それのあまりよろしくない例で言うとやはり、相撲の土俵上で、具合が悪くなった人を救命救助するために土俵に上がった女性に対して、降りろ、降りろってアナウンスをした挙句、最後に塩をまいて終わるっていう。この「塩をまく」っていう時点で……伝統は伝統でもちろんそれは結構なんだけども、その「塩をまく」っていうのははっきり、要するに差別的な、「穢れ」の思想ってことですよね。そういうところまで無批判に受け継ぐ……無批判ですね。非常にね。自動的にやってるわけで。救命のために土俵に上がった人に対して「穢れ」として扱うっていう。

何のために、誰のためにその「伝統」や「宗教」というものはあるわけ?って思わざるをえないような、そういう数年前のあのひどい事件があったりとかしましたしね。まあ、劇中でもね、「女は穢れている」なんてことをわめく男性がいっぱい出てきました。しかも、その男性に、あえてちょっとキリスト教の……「キリストの絵」風の風体をさせているあたりにもまた、挑戦的なものがあったりしますけども。あるいは、そもそも女性がその社会の構造の中で甘んじなければならないように仕向けられている、というか、なっている、不当に弱い立場、軽んじられている立場とか。

とにかく諸々が、この映画で描かれている2018年の北マケドニアと……ねえ、「2018年の北マケドニアはまるで中世の暗黒時代です」なんて言ってたけど、我々が暮らすこの2021年の今の日本も、残念ながら非常に共通点が驚くほど多い、ということがわかる映画でもあってですね。そしてこのペトルーニャは、その理不尽な、アンフェアな抑圧に対して、強烈な一撃を……特にラストのラストで、「お見事!」っていう感じで食らわしてくる、というね。実はやっぱり、非常に痛快な作品でもあると思います。

■なぜペトルーニャはかくも捨て鉢になっているのか?

順を追ってお話していきますけども。まずはド頭。ファーストショットからして、かなり攻めてるというか、挑戦的ですね。非常に引いたカメラで、水の入っていないプールの真ん中に立っている主人公。これ、監督の弁によれば、水の上を歩いたというキリストとの、対比でもあるようなこの意味深なショットに、これは映画.comの監督インタビューで、テオナ・ストゥルガル・ミテフスカさん、監督インタビューによれば、DERKAというパンクバンドによる、すごい激しい攻撃なロックが重なって。それでタイトル、先ほどから言っているように原題『神は存在する、彼女の名はペトルーニャ(God Exists, Her Name Is Petrunya.)』が、ドーンと出る。

この時点で結構、ちょっとキリストと対比するような立ち位置とこのタイトル、非常に攻めている。ちなみにこのタイトル、舞台となったその地方都市、シュティプという、そこの地元教会に撮影協力のために連絡を取ったら、「全然協力はできない。なぜなら神は男だからだ!」と返答が返ってきたという、このタイトル。さっきも言ったようにですね、このタイトルがラストのラスト、もう1度出るところで、ものすごい深い意味を持ち直すというか、深い問いを観客にガーンと投げかけてくる、というのがこの映画のまさにキモの部分だと思いますが。それについてはまた後ほどね、ちょっと言いたいと思います。

とにかくこの主人公のペトルーニャ。これを演じるゾリツァ・ヌシェバさんという方。コメディなんかにも出られているような方らしいんですけども、長編映画は初めてで。ふてぶてしさの中に、どこかこうユーモアも漂う雰囲気が、個人的にはやっぱり、『ブックスマート』主演の、ビーニー・フェルドスタインを連想させて。勝手にちょっと親しみを感じていたりしたんですよね。だから、言っちゃえば『ブックスマート』のあの主人公たちが、北マケドニアに生まれていたら、こういう立場だったかもしれないよ、というような見方。

とにかくそのペトルーニャ、最初はその、シーツの中に寝転がったまま、母親が差し出してくる、パンなのか何なのか、まあカリカリ音がするあれをむしゃむしゃ食べたり……まあ、どこか捨て鉢な態度なわけです。ただ、さっきの山本匠晃さんのあれも面白かったですね。でも食べ方そのものは品がいい。つまり彼女は、後ほども言いますけども、ちゃんとインテリなので。なんだけど、ちょっとどこか捨て鉢な様子。なんで捨て鉢になっているのか?っていうのが、その後、だんだんと明らかになっていくわけですけど。

ざっくりと言ってしまえば、やっぱり自己肯定感が非常に地に落ちている……というか、もっと正確に言えば、寄ってたかって自分をおとしめようとしてくるかのような、自分の価値をハナから認めようともしないような、世の中のあり方全体にウンザリしてるから、ってことですよね。でもそこに対峙しなきゃいけないから、ウンザリしてる、という。で、途中で明らかになるわけですけど、彼女にはもちろん、しっかりした学歴があって、成績も優秀だった。にも関わらず、ここまで定職には就けなかった……っていうのはもちろん、その北マケドニア全体の若年失業率が高いという、実際の社会問題があるみたいで。それも向こうに透けて見えますよね。

あと、やっぱりその大学を出ても、ちゃんとした学歴があっても、就職がもはやままならない世代、という意味では、やっぱり日本もだいぶそういう問題もね、ちょっと通じちゃったりしてますけど。

■資本主義的な「生産性」に寄与するものだけにしか社会の居場所が与えられない

その後、縫製工場の就職面接に行くんですけど、そこに至る一連のシーン。「年齢を若くサバ読んどけ」ってアドバイスするあのお母さんも含めてですね、ひとつそこから浮かび上がってくるのは、やはりルッキズム、エイジズム、あとはごりごりのセクハラまで含めた、まあ女性の社会的位置づけにそもそも組み込まれた、差別の構造、ってことですよね。

差別的なところに乗っからないと、受け入れてもらえない、っていう、そもそも不利なルールっていうか、そもそも不公正なルールっていうところが浮かび上がってくる。これ、『装苑』に掲載されている鈴木みのりさん、火曜日もお世話になりました鈴木みのりさんによる、テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ監督インタビューによれば、この縫製工場のシーンについて、監督はこんなことを言っています。「男性と女性の不均衡さを際立たせるため、ボスのガラス張りの部屋を作りました。その中でリラックスしている彼の周りには奴隷のように働いている人たちがいるという画にすることで、この街における女性たちの経済的なポジション、立ち位置について示唆したかった」とおっしゃっている。

で、実際にその北マケドニア、収入にやっぱり性差による格差がはっきりある、というようなこともおっしゃっている。そのへんも完全に日本ともね、残念ながら通じてしまっているし。あとは僕はここの場面で感じたのは、資本主義的な「生産性」に寄与するものだけにしか社会の居場所が与えられない、という構造。で、学問や知性、わけても女性のそれというのは軽視される。だから、「ああ、歴史なんか学んじゃったの? ああ、そう」みたいな……「で、なに? 君はそんな歴史なんか学んでもなんにもならないし。別に性的にも魅力がないし」みたいなところでジャッジする、というような。ひどい話なんだけども。

なのでこれ、(リスナーメールの一部に)散見された、この主人公に対する否定的な意見には、主人公が置かれた、もっと言えば女性全体が置かれた全体の構造としての不公正、というところに、もうちょっとその、俯瞰した視点があってもいいんじゃないか?みたいな風に、僕は正直、それらのメールを読んでいて思ってしまったあたりなんですけどもね。そんなことをもう1回、考え直していただきたいな、なんて思いましたけど。

■女人禁制の伝統行事と言いつつ、最初は司祭は常識的な反応をしている。それが……

とにかくですね、このもう最低最悪の、しかも残念ながら確実に我々も見覚えのある現実の反映である、この面接シーン。本当に最悪なんですけど。でですね、そもそもその、さっきから言ってるように、ハナから勝ち目のないルールを押し付けられている中で、負け犬とされてきた主人公ペトルーニャの絶望と怒り。これが観客の頭の中にも共有されているからこそ、ここが本当にひどい場面だからこそ、その後のですね、「私にだって幸せになる権利はあるはず!」という、そこからの咄嗟のジャンプ……つまりその、東方正教を信仰する東ヨーロッパ全体で広く行なわれているという、その司祭が十字架を川に放り投げて、それをバシャーンと川に入っていって、最初に取った人に福が訪れますよ、っていう伝統行事。

これは日本のね、たとえば神社仏閣とか、そういう仏教とか神道とかでもありそうな、なんか裸の男たちがどこか入っていって、ワーッ!って、「福男だ!」みたいな、まあ、ありそうな感じなんですけど。それ自体はまあ、伝統行事として微笑ましいもの、としてもですね。そこに思わず飛び入りしてみたら、ラッキー! 十字架、ゲット!っていうこのくだり。先ほどから言っているように、やっぱり彼女は、「あんなひどい目」にあった後なので。観客としても共感がわくようになっているわけです。まあせめてもの「福」……あんな目にあった後なんだから、こんな救いを求めても、文字通り「バチは当たらない」でしょう?って気持ちになってるわけです。

しかしその行事は、実は女人禁制で……ただ「女人禁制」って言うんですけども、このペトルーニャが十字架をゲットしたっていう、その直後にはですね、そのイベントを仕切っている東方正教の司祭もですね、それを横取りして優勝者ヅラしている悪そうな青年とその取り巻きに対して、「彼女に十字架を返しなさい! 恥知らずだ!」なんて呼びかけていたりもして。その程度ではあるんですよね。だから「女人禁制だ! ギャーッ!」っていうよりは、「いやいや、取ったのは彼女だから。横取りしちゃダメでしょ?」って、その司祭自体が言っている程度ではあるわけですよね。

で、またこのバランスが……直後には全然常識的な反応をしていた人が、っていうところも、実はリアルだな、っていうか。その場ではみんな、比較的フラットだったのに……みたいなのは俺、現実でもあるかな、と思うんですね。すごくこのへんが上手いなと思いましたけど。

で、その、女性が十字架を取ったということを認めようとしない男たちの、あまりの暴力的な剣幕……これ、まずこの時点で、どれだけ伝統行事であろうとも、その非常に暴力的な剣幕で女性にこうやって押し寄っているという、その時点でもう、醜悪なものに成り下がってしまっている、ということは明らかだと思うんですよね。

だから、この時点で司祭が、圧倒的に叱って止めたりしなきゃいけないんですけど。やはり本来の責任者である司祭が事態を収拾しようとしない中、できない中で、ペトルーニャが逃走、帰宅してしまうのも、これはまた無理からぬっていうか。あんなところにいたら……でも、悔しいし!っていう。そういう風に思えるわけですけども。家に帰っても、お母さんが……これはお母さんは、おそらくその共同体の同調圧力に背くことが、どれほど危険、苦難を招くかということを、肌身で知ってるから。つまり、非常に、今以上に旧態依然とした社会の中で、制度を内面化することでかろうじて生き残ってきた身、世代だからこそ、娘の行動を非常に、完全否定してしまう。

で、警察を呼んできてしまうことで、さらに状況がこじれていく、ということになるんですね。

■「羊」から「オオカミ」へ変貌するペトルーニャをふたつの視点で切り取る

で、ここから舞台は警察署に移って、ペトルーニャは法的根拠がないまま勾留され、尋問されることになる。で、これは要するに、事態そのものは膠着状態なんだけども……様々な角度からのハラスメント、時には直接的な暴力にさらされるという彼女に、しかし誰1人として、十字架を返上すべき合理的説明ができず。ちょっと言い返されると逆ギレしたり、話を逸らしたり、逃げたりするばかり、という。で、そのたびに彼女は、自分の信念をむしろ強固なものにしていく。

つまり、冒頭のですね、非常に受け身な体勢だった、捨て鉢なだけで、社会に対しての被害者なだけだった彼女が、どんどん能動的な……つまり「羊」から「オオカミ」へ変貌を遂げていく、成長していく、というそのプロセスをですね、このテオナ・ストゥルガル・ミテフスカ監督は、タイトルのその『神は実在する。彼女の名はペトルーニャ』という……このタイトルそのものが二段構えですよね。「神は実在する」「彼女の名はペトルーニャ」という。この二段構えそのままに、大きく言って2つの対照的な視点から、これを切り取ってみせる。

ひとつは、彼女の顔に極端に寄ったアップですね。言うまでもなくそれは、彼女の主観的な心情に寄り添ったもので。特に、彼女がやはり精神的圧迫を受けている時に、非常に効果的に使われる……この彼女のアップのところは、画面の外側から、男たちの罵声が聞こえたり、グーッと、ただでさえアップなのに、ものすごい顔を近づけてすごまれたり、という。挙句の果てに……というような感じの場面に使われる。

もうひとつは、これは「ぴあ」のインタビュー記事の中で語られていたことですけども、監督、こんなことを言っています。「カメラを引いた構図を多用したのは、本作がペトルーニャを『聖人』のように撮りたいと考えていたからです。宗教画やフレスコ画では聖人は絵画の真ん中にいます。また宗教画は繰り返し、三位一体の要素が登場することにも留意してフレームを決めて、ペトルーニャを画面の中心に配置し、3つの要素が画面の中に並ぶようにしたのです。私はこの映画で彼女が起こす変化が<個>を超えたものとして観客を受け取ってもらいたい。そう思って宗教画のようなフレームとアップの構図。この2つのコンビネーションで映画を構成してきました」ということをおっしゃっている。

この「ぴあ」インタビューでの発言を意識して改めてこれを見てみると、たしかに、非常に計算され尽くしたショットと編集の流れでできた映画であることが、よく分かります。先ほど言ったようにね、構図。その三位一体を意識した構図取りっていうのもそうですし。たとえば警察署内の中で、これは後半の方で出てくるものなんですけど、ガラスで仕切られた3つの部屋があって。一番奥には、イキり倒している輩たちがいるわけです。「十字架を返せ!」って言っている輩が。

真ん中には、全く無力に、事態を収拾することもできず、そしてペトルーニャに向かい合うこともせず、ずっと、たぶん組織の上の人に電話している司祭が、ウロウロウロウロしている。で、その手前にペトルーニャがいる、っていう。このレイヤーですね。3層になったあれっていうので、このいま起きている事態を構造化して見せる、というこの構図の見せ方とか。非常に上手い構図があったりする。

■ラストシーン、ペトルーニャが歩いていった先に我々が生きるこの世界は続いている

でですね、先ほど監督が言っていた「個を超えた話である」という点はですね、終わり近く、立場や年齢の異なる女性キャラクターたちを、主人公の、先ほどから言っているその聖人的な引きのショットから、並列して見せていく、その部分で、より明確なメッセージとして打ち出されていると思います。要するに、立場は違う、意見もちょっとずつは違う、でも彼女たち全体が、やはりこの北マケドニアの社会の構造の中に置かれて生きてきた女性なんだ、ってことが見えてくる。

またその単純な男VS女の二項対立にならないよう、まさにこれは鈴木みのりさんに教えていただきました、「インターセクショナリティ」を意識しているような、その各キャラクターの配置というのもですね、非常に周到なものがあると思います。そんなこんなの騒動の果てにですね、辛うじてというか、いろんな嫌なことがあった果てに、でもちゃんと自己肯定感をだんだん取り戻して……その果てに彼女、最後の最後にペトルーニャが胸を張ってする、ある決断。

これがですね、劇中ずっと見ている間……やっぱり見ている僕らも、疑問なわけですよ。もう浮かんでしょうがない。伝統とか、宗教とか、もっと言えば神って、じゃあ何のために、誰のためにあるわけ? こんな、人にすごんだり、暴力を……理由も説明できない不公正を人に押しつける。何のためにあるわけ?っていうように疑問が、ずっとあるわけですけど。その根源的な問いに対する、鮮やかな、しかし痛烈な回答が、最後の主人公の選択によって、バーン!ってあるわけですね。再びここでタイトル『神は存在する。彼女の名はペトルーニャ』。この言葉が、より重い意味、重い問いとなって、こちらに響いてくる。

ここはもちろん、さまざまな解釈が可能だと思います。彼女こそが本来のキリスト教の教え……これこそが、彼女の振る舞いこそが、本来のキリストの教えに近いものなんじゃないの?というような解釈もできるし。自分こそが自分の神だ、自分が選び取った行動、生き方をする自分こそが自分の神なんだ、という風にも解釈できる。いろんな解釈ができます。ちなみに今年、セルビアでですね、同様の儀式があった時に、女性がその十字架をゲットして、ここでは見事、そのまま祝福された、ということがあるらしいです。

まさに、つまりこの映画の先……ラストでペトルーニャ、向こうにね、雪の上を歩いている。この雪っていうのもね、冒頭のその、水のないプールとの対比で考えるならば……とか、いろいろと考えちゃいますけど。雪の上をこうやって1人、向こうに晴れやかに去っていった、そのペトルーニャが歩いていった先に、世界は続いている。我々が生きるこの世界は。ということが現実に起こってるんだな、っていう風なことがわかるかなと思いますね。

ということでですね、非常に僕は……ストレートに面白かったですし。そのコミカルな部分、嫌な気持ちになる部分も含めて面白かったし。特にラストの切れ味は、忘れがたいものがある。

そのラストによって一段、「ああ、これは実はすごい映画なんじゃないかな?」なんてことを思ったりしました。そしてもう1回見返すと、やっぱり監督の周到な演出に、改めて舌を巻いたりしました。明らかに、残念ながら現在の日本とも地続きであるこの作品、ということで、ぜひぜひ岩波ホールで、ウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 来週の課題映画は『茜色に焼かれる』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『茜色に焼かれる』を語る!【映画評書き起こし 2021.6.11放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、5月21日から公開されているこの作品、『茜色に焼かれる』

(曲が流れる)

この(美しいメロディの)曲が、本当にいい場面と、全然「よくない」場面にも流れるというね。ここがすごくまた独自の音楽演出というか、バランスだと思いましたけどね。『舟を編む』『生きちゃった』などの石井裕也監督オリジナル脚本による人間ドラマ。コロナ禍の日本を舞台に、理不尽な交通事故で夫を亡くした母と息子が、世の中の歪み、不条理、いじめなどに翻弄されながらも、たくましく生きる姿を描く。主な出演は母・田中良子役の尾野真千子。息子・純平役の和田庵。その他、片山友希さん、オダギリジョーさん、永瀬正敏さんなどが脇を固める、といったところでございます。

ということで、『茜色に焼かれる』をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「少なめ」。あら、そうですか。

賛否の比率は褒めの意見がおよそ6割程度。でも、途中でシネコンの営業のあれ(自粛期間)を挟んだりしてね。ちょっと、そういう見づらい時期が続いちゃったのもあるかもしれないかな。

主な褒める意見としては、「コロナ禍の今からだからこそ作られた現在進行形の映画。身近にある女性差別や貧困が描かれ、何度も心が挫けそうになったが最後の後味は意外とさわやかだった」「役者陣がいい。主演の尾野真千子さんはもちろん、その友人・ケイ役の片山友希さんもよかった」などがございました。片山さんの演技、皆さんね、尾野さんはもちろんのことですけど。絶賛されてる方が多かったですね。

一方、否定的な意見としては、「いわゆる悪役的な振る舞いをする人物たちの描き方が一面的で、全体的に薄っぺらく思えた」「社会の様々な問題に対して何かを変えるようなヒントもなく、取ってつけたようなラストに失望した」などがございました。

■「やるせない物語なのに、何故だか心がじわじわと温められる様な感覚」byリスナー

代表的的なところをご紹介しましょう。「ヤーブルス」さん。

「久しぶりに『現実を突き刺す映画』を喰らった気がします。主人公・田中良子と息子・純平、そしてケイちゃんを通して、以前からマグマのように地中でトグロを巻いていた社会システムの歪み、不条理が、コロナ禍において噴き出し、これでもかと喰らわせられる訳ですが……。かといってケン・ローチ作品の様な、救いのない悲哀ばかりを感じさせられる訳ではなく、むしろその怒りや悲哀を突き抜けた先にある、“人間・田中良子なめんな!!”というむき出しで不器用な<生>から発せられる、ある種の希望すら感じさせられ、こんなにやるせない物語なのに、何故だか心がじわじわと温められる様な感覚でした。

田中良子の行動や言動は、誰の目から見ても“奇異”に映るし、あまりにも不合理で腑に落ちない…けど、実のところ誰だって多かれ少なかれそんな不合理なところを抱えて生きてるのではないでしょうか。白か黒か、○か✖︎か、そんな単純に割り切れない人間の不合理さ、曖昧さこそが、きっと人間の人間らしさであり、愛おしさなのだ、という事がビンビンに伝わってくる傑作映画でした。

ちなみに本作はまごうことなき『田中良子』の物語ではあるのですが、同時に同じくらいのウェイトで『ケイちゃん』の物語でもあり、特に彼女が繰り出す言葉の“フロウ”がどれも最高…演じられた片山友希さんがとにかく素晴らしかったです。こんな時だからこそ多くの人に観てもらって、何かを感じて考えて欲しい。一人ひとりが、隣に住んでいるかも知れない『田中良子=生身の人間』に思いを馳せて欲しいです」といったところ。

一方、ダメだったという方、ご紹介しましょう。「タレ」さん。女性の方です。

「前半ただただ不快で、ずっと『この映画どこから巻き返しがくるのかな?』と思いながら観てしまいました。これが弱者に寄り添った映画と言えるのか……? クソや不幸の解像度は高いのに、救済ルートやカウンター策の解像度が異常に低くて、本当に状況を善くする気があるのかな?と疑問に思ってしまいました。むしろ『コロナ禍だから飲食店はつぶれる』『お金に困っている、もしくは生い立ちやメンタルに問題がある女は風俗勤務するしかない(そして風俗業は「ふつうの人」ならやりたくない仕事にちがいない!)』etc……という決めつけに近い絶望の刷り込み。

か〜ら〜の〜、愛や精神論への着地も含めて、総じて思考放棄して弱者の出口を塞いでしまっている物語に思えてしまいました。『ルール』に裏切られてばかり、という強調が続くけれど、救済ルールについての扱いがフェアじゃないと感じました。何が信念や幸せなのかがいまいちつかめない、暴走するお母さんがこわかった。あんなの子どもおかしくなるし、『大好き』なんて言わせないでくれよ……。

ケイちゃんについては好きになれたし、片山友希さんの佇まいがすばらしくてファンになってしまったのだけれど、『嬢』への偏見がもう…。ちゃんとリアルな知り合いや取材あってのアレなんですか? 同じ境遇の子が観たらどう思うんでしょう。『トランジェンダーとハリウッド』で問題になっていたような、絶望の刷り込みと似た空気を感じてしまいました」

たしかにね。その、ある種の誇張の方向っていうか、ステレオタイプを強調しているところもあるから。そこに対して……だから、「いい」って言ってる部分と裏腹の批判ポイントっていうのもまあ、頷ける部分はやっぱりあるかな、という気もしますけどね。ということで、皆さんメールありがとうございます。

■クソな社会の中で弱い立場の人間がどう尊厳を保って生きていくか? それを描き続けている石井監督

『茜色に焼かれる』。私もTOHOシネマズ日比谷で今回、2回見てまいりました。席は1個空けシフトではありますが、どちらも、2回見て、両方とも満席に近いくらい入っていて。特に2度目、平日の昼に行った時に、やっぱりね、年配の方がはっきり多かったですね。尾野真千子さんファンってことなのかな? ということで、脚本・監督、今回は編集も手がけていらっしゃる、石井裕也さん。僕はこの映画時評のコーナー、取り上げさせていただくのはなんと、製作年としては2009年の商業映画デビュー作『川の底からこんにちは』。これを2010年5月29日、シネマハスラー時代に、当時はサイコロが当たって取り上げていて。

その後、なかなかサイコロとかガチャが当たらなくて今に至る、ということだったんですけども。もちろん、この間に石井裕也さん、まさに押しも押されもせぬ日本映画のトップ監督になられて、ずっとご活躍、成長を重ねてこられたわけで。それらをね、1個1個、この場で細かく振り返っている時間はないんで申し訳ないんですけども。ひとつ言えるのはですね、石井裕也さんの作品、ざっくり言えば、本当に一貫して、「このクソな社会の、このクソな世界の中で、特にナメられがち、負のしわ寄せをくらいがちな弱い立場の人間が、それでもギリギリ尊厳を保って生きていくためには……」みたいなね。そこでクソに染まって腐ったりせずに、尊厳を保って生きていくためには……みたいな。

それを非常に、ある種突き抜けたパワーを持つ人物に象徴させていく、みたいな。そういうメッセージを常に基調として発し続けてきた、とは言えると思うんですよね。石井裕也さんという作り手はね。近年それが、恐らくはその日本社会、あるいは世界の状況がより悪く……この場合の「悪く」ってのはつまり、具体的に言えば、立場が弱い人たちに対して、どんどん優しくない社会であり世界に、前以上になっていく中で……日本は明らかにその傾向はあるかなと思うんですけど。それとシンクロするように、石井裕也作品、前述したようなテーマが、よりストレートに、怒りと切実さをもって、正面から叩き付けられるようにどんどんなっている、という風にも思いますね。ポイントとなったのはたぶん……2017年の『夜空はいつでも最高密度の青色だ』あたりから、どんどんストレートなって。

その前が2014年の、これは本当に堂々たる歴史大作、「巨匠」っていう風格さえあるような、これはこれで素晴らしかった2014年の『バンクーバーの朝日』、そこをやり終えた後に、割とグッとストレートな感じになって。あと、基本ファンタジーというかフィクショナル度が高い2019年の『町田くんの世界』でも、やっぱりさっき言ったようなテーマ的な根幹の構造っていうのは、やっぱり通じていたりして。特にそれが決定的になったのが、2020年、去年の『生きちゃった』。あと、既にもう出来上がっていて、7月に公開待機中というね、『アジアの天使』という作品。そして今回のこの『茜色に焼かれる』。監督曰く、「自由三部作」なんておっしゃってますけども。とにかくこのあたりから、よりその色が決定的になっている感じもある。

■コロナと真正面から向き合った、非常に重要な意味を持つ作品になるかもしれない

もちろん、『アジアの天使』は僕、まだ見られてないんで。7月公開、非常に楽しみしておりますが。公開順で言うと、前作にあたるその『生きちゃった』の、もはや「表現にオブラートをかけないぞ!」とでも言ったような覚悟みなぎる、その剥き出しぶり……ちょうどその石井裕也さん、2005年の最初に広く評価された16ミリ作品、タイトルが『剥き出しにっぽん』というやつなんですけども、そのタイトルそのままに、さまざまな負の側面を見て見ぬふりしてやり過ごしてきた日本の我々が、剥き出しにされ。それでもなお、まさしく「生きちゃった」という、その今の状況というのを、一切のかっこつけを脱ぎ捨て、叩きつけてくるような、その『生きちゃった』という作品。

まあ、いろんな他の作品にも出てるような若手実力派。それこそ仲野太賀さんであるとか、若葉竜也さんとか出てるんだけど、最近の、なんて言うのかな、ミニマルな話、そんなにあんまりいろんなことが起こらない……今泉力哉さんとか、そういうののある種、真逆っていうか。もう「うわーっ!」って、最後に感情を「うわーっ!」って爆発させる、っていうところまでの作品だったんで、『生きちゃった』は。で、その『生きちゃった』からの、より明確になったそのヒリヒリしたモードというのは、まあ「コロナ」という巨大な理不尽を、前提にというか、むしろ真正面からそれを「食らって」みせた……「コロナ、俺、食らっちゃった」っていうのを、真正面から食らってみせたというこの『茜色に焼かれる』という作品で、より決定的な意味を持った、持ってしまった、と言えると思う。つまり、その意味で本作は、石井裕也作品としてもそうだし、日本映画全体としても、決定的にそのコロナというものに対して、正面から向かうというアプローチ。ちょっと一段階、次に行ってるっていうか。ちょっと一線を越えた、決定的な、非常に重要な意味を持つ作品に──好き嫌いは別にしても──そういう作品であるんじゃないか、という風に思います。

順を追って話していきますけども。まずド頭ね。黒い画面の中の隅に、白い書き文字で、「田中良子は芝居が得意だ」と出るわけです。この田中良子というのは尾野真千子さん演じる主人公で、物語上この言葉がどういう意味を持つか、っていうのはだんだん分かってくる。それこそエンディングとも呼応する言葉なんですけど、とにかく、その最初にこの言葉、「田中良子は芝居が得意だ」っていうこれが、書き文字で出るわけです。で、この映画ね、全体にちょっと変わった語り口をしているところがいくつかありまして。そのひとつが、要所要所で主人公たちが払ったりとか、あるいはペイされたお金、関わったお金の金額が、字幕で出るんですね。香典がいくら、この仕事の時給がいくら、食費がいくら、とかって出るわけです。

で、それはまずは、一番表面的には、その主人公家族の厳しい経済状況っていうものを端的に伝える、という効果がありますし。あるいはその、全てが金に還元されていってしまう資本主義の、これだけつらい思いをして稼いたお金がこれっぽっちで、こっちのお金はこんなで……みたいな。その資本主義社会のある種の非人間性っていうかね、ただの数字に還元されてしまうという、それも感じさせもするし……ただ、それと裏腹に、同じただの金額の表示なのに、そこにこもった気持ちによって、全く違う思いも出るんだなっていう、そういう瞬間も実は、終盤には用意されているんですけどね。いくらって出るだけなんだけど、この300いくらは、全然意味が違うじゃん!っていう。なんて素敵な300いくらなんでしょう!みたいな。そういうのもちゃんと用意されているんですが。

■映画全体で使われる「赤」が象徴する意味とは

まあ、とにかく全体としてはその金額の表示、というのが演出になっている。いずれにせよ、基本的にはそういう無味乾燥な数字としての……要するに、現代で最も「価値」が還元される、数字としてのそのお金を示す、この字幕。あるいはですね、この冒頭。オダギリジョーさん演じる良子の夫、陽一というのが、事故にあってしまうわけですね。ちなみにこの事故にあう手前のオダギリさん、なんかビートを口ずさんでて。なんか「ああ、音楽やってる人なのね」感がすごく自然にわかる感じも、すごくよかったですけど。

まあ、オダギリジョーさんが事故にあってしまう。で、そこで非常に不思議な演出が出てくるわけです。実際の車と自転車、という画だけではなく、あれはニュース番組とかで使用される、あの事故再現のCGですよね。それみたいな映像が、急に出てくるわけです。つまり、これもやはり要するに、人の死でさえも無味乾燥に記号化されている映像として、それが出てくる。その冷たいタッチであるとか。あるいは、その石井裕也監督作、特に近作で、さっき言ったやっぱりその『夜空はいつでも最高密度の青色だ』ぐらいからすごく時折出てくるようになった、あえてものすごく乱暴にグーッとやっている、ズーム画面。それがすごく不安を誘うんですけども。まあ、そういうのが差し込まれたりして。

要するに、そうした感じでですね、社会やその世界の無情さ、冷たさ、あるいは得体の知れなさっていうのを醸すような、諸々のその変わった語り口、というものがあるわけです。で、それに対して、さっき言ったド頭の「田中良子は芝居が得意だ」っていう言葉は、ド頭で出てきて、なおかつ人肌を感じさせる、誰かが書いた、人が書いたのであろう「書き文字」であることによって……要するに物語でいろんな語り口の水準があるんですけど、「この言葉だけは信用していい、真実ですよ」っていう宣言として、作品全体に静かな影響を及ぼし続けるっていう、そういう効果を持っている。

で、ともあれその事故にあってしまったオダギリジョー演じる夫・陽一。で、この時点で、事故にあった場面から既にですね、本作全体のキーカラーとなる「赤」っていうのの反復が始まっていること、ここもぜひ見逃さないでいただきたい。オダギリジョーさんが倒れている。その手前で「なんなんだ、この赤は?」っていう赤が、ワーッと手前に、ピントもよく合っていない感じで映っているんですけど……7年後、その事故現場にたたずむ、尾野真千子さん演じる田中良子。その手前にある、今度は赤い柱がアップで強調されたり、っていうね。なんかさっきから赤が強調されているな、っていうところから始まって。

劇中、セリフとしても言われますけど、「勝負の時は赤をワンポイントに入れる」というその言葉そのままにですね、この映画全体の語り口が、映画全体でも……たとえば尾野真千子さんが着るカーディガン、ドレス、口紅。これはもちろん赤ですし。夫が残したその蔵書たちがあるんですけど。それを照らす赤いランプ。部屋もなんか赤で照らされているし。しかも、そこに遺影もありますからね……であるとか、赤い自転車とか。まるで、その夫・陽一の魂が、この母子の暮らしのそこかしこに偏在しているかのように、ワンポイントの赤が要所で効いているわけです。

で、その極めつきがもちろん、タイトルにもなっている「茜色」の夕空、っていうことですよね。最後は赤に全体が包まれるという。で、ともあれ、事故がありました。で、その顛末というのは、いやが上にも2019年、東池袋自動車暴走死傷事故を連想させるようなことがあったりとか。あるいは、その義父の介護施設費がかかる、とかですね。そして、どうやらやはりコロナ禍による飲食店経営の行き詰まりから……これ、別にコロナ禍だから全ての飲食がダメになってるわけじゃないけど、でも、要するに僕らが数字としては知っている、あるいは「そうだろうな」とは思ってるけど、それによって本当に「食らってる」人っていうのを、やっぱり突きつけられるわけです。

■マスク越しの会話のよそよそしさと冷たさ。弱者が弱者に強く当たる地獄の構図

まあ経済的に苦しい立場に置かれている主人公母子。まさにその弱い立場であるがゆえに、さらに、作中の言葉で言う「ナメられる存在」に、もうナメていい存在になっちゃっている。社会の負のしわ寄せを、より受けることになっていく。で、それがしかもですね、劇中で……要するに、僕はここまでマスクをする生活がデフォになった暮らしっていう、そこを前提に描いてる(映像作品)っていうのは僕は初めて見たんですけど、その普通のやり取りをしていても、そもそもマスクとかフェイスシールド越しのコミュニケーションというのが、悪い意味で全てをオブラートに包む、ただでさえよそよそしく冷たい感じを、強調してもいるわけですよね。

そもそもがなにか、ちょっと感じ悪いわけですよ。で、そこで延々と描かれていく、その日本社会の冷たさ、醜さの諸相。たとえばですね、そのセックスワーカーに対する、客の男の最低な差別的目線。客で来てるくせに、っていう。それは『生きちゃった』でも描かれていたところですけど、今回のそれは……『生きちゃった』はなんかちょっとやっぱり異常な人物のそれとして描かれていたけど、今回は「ああ、よくいるはいるんでしょうね、こういう客って」っていう、異常者描写ですらない、というつらさもあるし。

ただね、このセックスワーカー描写はそれでも、そこで、後に語りますけど、ある種の連帯が生まれる場なので。実はそこは本当の地獄じゃないんですよね。一番地獄なのは、良子がバイトをするもう1個の、「真面目な職場」とされるであろう、スーパーの花屋での、まさにその社会の負のしわ寄せが弱者へ弱者へと向かっていく、地獄のような構図で。俺、この映画で一番の地獄はここらへんかなって……まあ、もう1個あるんですけどね。これ、店長役の笠原秀幸さんという方が、よくこんな役をちゃんとやられたということ、見事に演じられている、ってことなんだけど。

要は、上から言われた理不尽な指示っていうのを、自分の中で自己正当化するために、余計に弱い立場の者に強く、つらく当たってしまう、という、人としての小ささ、弱さ。でも、我々はこの彼が無縁であると言えるだろうか?っていうような。そこが本当に悲しいし、腹立たしい、というね。デフォルメはされてますけど、ああいう人、ああいう事態はあるし、たぶん僕らの中にも……たとえば自分が受けたイライラを人にぶつける、みたいなこと、あると思うんですよね。

■前半はとにかくつらい。しかし中盤以降は……

で、さらに悪質でキツいのが、これは陽一のかつてのバンド仲間、わけても芹澤興人さん演じる自称親友のですね、結局は一番最悪の形で弱者を搾取・利用することしか考えない……しかも本人は、悪気がないどころか、善意だとすら思っていかねない、という。もうマジでクソ……もうね、俺は芹澤興人さんが嫌いになっちゃいそう(笑)。そのぐらいにね、まあ見事に見事に演じられてるんですが。その構図みたいなものを。

そんな感じでとにかく、主にやっぱりクソ男たちによって構成される、このクソ社会のクソっぷりを、主人公がですね、これでもかとばかりに食らう、というこの前半。とにかくつらい。僕はあまりにもつらくて、ずっと「ううっ……」とうなっていましたけども。しかし、主人公・良子はですね、このつらすぎる状況を、この前半部では、「まあ頑張りましょう」みたいな……腐らず、前向きに受け止めているように見える、という。あるいは、嶋田久作さんがいかにも憎々しく演じる弁護士との会話。もしくは、永瀬正敏さん、こちらは非常にハードボイルドなたたずまいの風俗店店長との会話。

本当だったら「これ、怒っていいでしょう?」っていうような会話で、笑ってみせたりする。ここでやはり効いてくるのが、冒頭の言葉。「田中良子はお芝居が得意だ」っていうのが、やっぱり響いてくる。「そんなわけはないだろう?」と。で、実際にですね、その前作『生きちゃった』というのが、溜め込んだ感情を吐き出すまでの話、吐き出せるようになるまでの話だったように、本作はですね、中盤、片山友希さん演じる風俗店の若い同僚ケイさんとの、ある種の連帯によって、実はやっぱり当たり前だけど、良子も平気なわけがなかった……怒るし、感情を明らかにしてもいいんだ、という風に、大きく展開していく。

あそこがすごいですね。「それでもなんで生きてるの?って言うけど、なんでまだ生きているのかなんて、わかるの?」っていう。あの「お前、“生きる意味”なんてわかるのかよ?」っていう、あれはすごい説得力がある。尾野さんの演技も含めて、すごい説得力がありましたし。社会から、世間からナメられ続け、傷つけられてきた者同士が、それでも繋がり合うことで、連帯して、なんとか救いを見出していく。

僕はだからこの中盤以降は、多少つらいことがあっても、彼らの連帯があるから、前半の孤立した状態、そして抑え込んでる状態よりは、やっぱりちょっと見てて楽になってくる。ここが特に重要だと思うのは、作中でも言われてますけども、誰でも、「自分のことだとちゃんと怒れない」……そうですよね? 自分のことだと……そうなんだよ。だから、助け合うんだよ! 支え合わなきゃいけないんだ、っていう、これはとても大事な真理を言っていると思いました。

■石井監督の新たな最高傑作。ここから先、他の作品たちはどう回答をしていくのか?

あと、もうひとつ本作の大きな希望となっているのは、先ほど(番組18時台に金曜パートナーである)山本さんとも楽しく語らいましたが、和田庵さん演じる息子・純平の、とにかくまっすぐな、理想の思春期少年ぶり、というね。みるみる体もたくましくなって、というあたりも非常によかったですけどね。まあここは、彼の存在というのが、一種フィクショナルなというか、一番ファンタジックなところではあるかもしれないけども。

尾野真千子さんの、まさに魂を削るような一世一代の熱演については、言うに及ばず。特にやはり後半。信じようとしていたその善意めいたものに、やはり裏切られる場面。さぞかしこれ、削り取られたことでしょう。ちなみに「あいつ」は、最初から言ってること、ちょっとずつ微妙にアレでしたからね!(笑) でも、そこもちゃんとバランスが、やっぱり脚本とかがよくできてるんですね。ちゃんと見てれば「こいつ、ヤバいよ」ってわかるようにはなっている。

だから僕はもう終盤、「もう話はいいから、お前ら、幸せになってくれ!」っていう風に心底思っていましたし……作中の人物の死というのに、ここまで本当に近しい人のように悲しい気持ちになったのは、久々かもしれません。まあ、そのある種の石井裕也さんのですね、振り切った人物造形、デフォルメしてるところで、まあなんというかガッと強引に……その強引さこそが、石井裕也作品のある種の味でもあるので。たとえば、「強き母」っていうところに救いを見て落としこむのでいいのか?っていうような問い、疑問の立て方は当然あると思いますが、やっぱりその、細かいことを吹っ飛ばしてゆく、こういう1人の人間が突き抜けていくこともあるでしょう、っていう、それは石井裕也作品の特徴……だから、その好き嫌いが分かれるところではあるけども、石井裕也作品のやっぱり「特長」だと思いますので。私はそこがですね……そのコロナ禍、より剥き出しになった日本の社会の負の側面をこれでもかと叩きつけながら、やっぱり胸を張っていて生きていこう、というのを示す意味で、石井裕也さんなりの作品の向かい方という意味でこれ、すごく意義深い作品になっているのは間違いないと思いますし。石井裕也さんの新たな最高傑作。尾野真千子さんの新たな代表作。

そしてやっぱり日本映画……じゃあもう既にこの『茜色に焼かれる』が、コロナという事態に対して、こうやってやってるんだぞと。ここから先、他の作品たちはどう回答をしていくのか? もはや、そこはないことにしながら、その前の時代っていうのを懐かしがってるだけでも、もはや済まされない。そういう突きつけ方をしてくる、非常に好き嫌いは別にしたところでも、やっぱり重要な一作になっているのは間違いないと思います。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 来週の課題映画は『アメリカン・ユートピア』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『アメリカン・ユートピア』を語る!【映画評書き起こし 2021.6.18放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、528日から公開されているこの作品、『アメリカン・ユートピア』

(曲が流れる)

元トーキング・ヘッズのフロントマン、デイヴィッド・バーンが2018年に発表したアルバム『アメリカン・ユートピア』を原案に作られたブロードウェイのショーを、スパイク・リー監督が映画化。デイヴィッド・バーンが様々な国籍を持つ11人のミュージシャンやダンサーとともにパフォーマンスを通じて現在の様々な問題について問いかける。

ということで、『アメリカン・ユートピア』。そもそもリスナー推薦メールでしたしね。それも複数の方から、まあ熱い熱いメールをたくさんいただいておりまして。大評判でもありますからね。それで見事、山本さんがガチャを当てていただいた、ということでございまして。

この『アメリカン・ユートピア』をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「多い」。賛否の比率は、褒めの意見が9割近く。圧倒的ですね。主な褒める意見としては、「今年のナンバーワン。デイヴィッド・バーンやトーキング・ヘッズを聞いたことがなかったが、それでも十分に楽しめた」。RHYMESTERのマネージャー、小山内さんも「全然知らなかったけど、そんなの関係なかった」って言ってくれてね。

「ちゃんとスパイク・リー監督の映画になっている」なんて声もありました。「唯一の欠点は座って見なければいけないこと」。これ、だからご時世がご時世ならね、ああいう声出しライブ上映みたいなのもね、まあ、いずれはできるでしょうからね。「興奮のあまり初投稿」という方も多かった。一方、否定的な意見としては、「ショーとしては素晴らしいが、映画の出来としては普通では?」とか、「スパイク・リー監督・演出が余計に感じた」などがございました。「パフォーマーとしての宇多丸さんの意見が聞きたい」という声も多かったということで、まあ後ほどね、ちょろっと話したいと思います。

■「過去の様々な『至らなさ』を乗り越えた先にあるこの映画。震える」byリスナー

ということで代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「これからお迎え」さん。

「賛否で言えば、賛、絶賛です。この映画でのデイヴィッド・バーンの振る舞いは、過去の様々な『至らなさ』を乗り越えた先にあるものと映り、そのかっこ良さに、私は震えるしかありませんでした」。デイヴィッド・バーンさん、トーキング・ヘッズの昔からのキャリアをよくご存知の方。

……私が考えるトーキング・ヘッズの『至らなさ』は大きく2点。技術的な稚拙さと、黒人音楽の引用が招いたばつの悪さです。トーキング・ヘッズはデビュー当時、ニューヨークパンクの一角として紹介されており、お世辞にも演奏のうまいバンドではありませんでした。ただ、そのヘタウマの妙味と、デイヴィッド・バーンの特徴的な歌い方が独特の魅力を放っていた、という印象です。ところが、この映画のバーンは、20代の頃と同じ声色、歌い方でありながら、『ヘタ』の要素は皆無です。同じ人、同じスタイルなのに、圧倒的に進化したボーカルとパフォーマンス。まずそのことに驚かされます。

そして、黒人音楽の引用についてです。かつて、『ヘタウマ』の白人4人組が、ゲストミュージシャンに手練れの黒人ミュージシャンを引き連れて、アフロビートを奏でる、というスタイルは、革新的でありながらも、どこかバツの悪さを感じさせ、一部の音楽評論家に批判もされました。そうしたスタイルで完成させた代表曲が、映画でも披露された『イ・ジンブラ』と『ボーン・アンダー・パンチズ』だと思います。

映画でのこの2曲は、前半のハイライトになっていると思いますし、当時の音源よりも圧倒的に洗練されていて、かっこいい! そして、こうしたテーマの曲を作った意味、伝えなければならない理由が、はっきりと表現されています。『ボーン・アンダー・パンチズ』を直訳すれば、『殴られる(抑圧される)運命』。後半のジャネール・モネイのプロテストソングカバーへと連なる流れがくっきりと浮かび上がります。

黒人音楽への敬意、多様性への問い、過去の表現のアップデート……60代後半で、これらの思いや問題意識を見事に消化し、結実させたバーン、及び、その舞台を見事に切り取ったスパイク・リー監督の手腕に、ただただ拍手を送りたいです」

中でもね、デイヴィッド・バーンが、すごいひょうひょうとした調子ではあるけども、冗談っぽい流れから、「なんかみんな笑ったり拍手したりしているけど、いや、違うんだ。僕自身も変わらなきゃいけないんだ」みたいなことを強く言っていて。これはすごい、この作品の重要な部分でしたよね。というようなことで、「これからお迎え」さん。ありがとうございます。

あと、ちょっとこれは部分的に紹介しますけど。ラジオネーム「空港」さん。こちらも絶賛メールなんですが。

「あれだけパーフェクトなステージングにも関わらず、不思議と『一矢乱れない』、という感覚は持ちませんでした。ミニマルなステージのほか、『皆お揃いのスーツ、だけど裸足』……」。これ、実は裸足っていうのが、なかなか実は大変でね。なんかそれ用の動き方の訓練をしたらしいですね。要するに、ジャンプをしたりした時に、体にダメージを受けやすいんですよ、裸足は。

……や『全員演奏しながら動き回る、でも配線なし』など、マスゲームに生じる緊迫感を上手く回避し、風通しの良い印象を与えたのかと思います。もちろんDバーンの持つユーモアやボーカル、歌そのもののキュートさも大きかったのでしょう」という「空港」さん。

あと、そうですね、ラジオネーム「六本木」さんは、このライブに用いられたワイヤレスの音響の技術に関してメールをお寄せいただいて。これ、この件は後ほど私も触れますんで。ありがとうございます。

あと、いまいちだったっていう方。たとえば「ジャイアントあつひこ」さん。「ショーとしてはこれ以上ない素晴らしいもので、映像作品としても心に刺さる大好きな作品でしたが、映画という意味では、否かなと思いました」という。まあ、映画作品としての独自の魅力という点ではどうなんだ、というようなご意見でございます。

■最初に言っておくと……これは絶対に今、映画館に行っておいたほうがいい!

ということで、皆さん、ありがとうございます。『アメリカン・ユートピア』、私も渋谷シネクイント、そしてTOHOシネマズ日本橋で、2回、見てまいりました。どちらも平日昼、引き続き座席1個ずつ空けモードではありながら、かなり入っていましたね。特にシネクイントの方は、先ほどね、番組オープニング6時台にも話した通り、僕とほぼ同世代、1985年に『ストップ・メイキング・センス』をまさに当時の渋谷ジョイシネマなどで見た世代なのかな、というような趣の方々と共に、同時にしっかりやっぱり、若い人もめちゃめちゃ入ってて。すごいいい雰囲気ができている劇場でしたね。

なにしろ本作『アメリカン・ユートピア』、アメリカ本国では、HBOマックスの配信公開になってしまった作品なんですね。それに対して日本では、無事、劇場公開され、あまつさえ昨日まではシネクイントで、さっきから、6時台から話している『ストップ・メイキング・センス』の、レイトショーリバイバル上映も同時にやっていたり。とにかく、非常に恵まれた状況なわけです。先にもう、1度、言ってしまいますけど、これ、絶対に映画館、大画面、大音量、そしてここが大事だけど、「他の人たちと一緒に見る」という……「繋がり」がテーマのライブでもありますから、一緒に見るという、要はライブ的な環境で体験した方がいいことはもう、間違いない作品なので。映画館で今、見に行けるうちに、絶対に行っておいた方がいいです! これは保証しますから。

ということで、改めて概要を説明しておけば、元トーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーンが2018年に出したアルバム『アメリカン・ユートピア』の、まずは作品でもMCで言ってましたけど、コンサートツアー、要するに、ここまでシアトリカルな演出じゃないコンサートツアーがあって。それをさらにブロードウェー公演用に、シアトリカルな、舞台パフォーマンスとして演出を加えて、さらにアップグレードした『David Byrne’s American Utopia』という、2019年に上演された出し物があって。それをご存知、映画監督スパイク・リーが長編映像作品として仕上げたのが、今回のこの『アメリカン・ユートピア』なんですけれども。

■1984年につくったライブ映画の金字塔『ストップ・メイキング・センス』を2020年、自ら超えてきた

デイヴィッド・バーンが率いていたトーキング・ヘッズ。先ほどのメールにもありました。1974年に結成して1991年まで活動した、ニューヨークベースの、ニュー・ウェイヴロックバンドですね。で、そんな彼らがですね、1983年にロサンゼルスでやったライブを、1984年に、後に『羊たちの沈黙』などで巨匠となる映画監督ジョナサン・デミが長編映像作品にした、これも6時台、オープニングで散々話しました、名前が出ている『ストップ・メイキング・センス』。日本では1985年に公開されました。とにかくこれが、いわゆる音楽ライブ映画……まあ『ラスト・ワルツ』とかいろいろとありますけども、音楽ライブを記録した映画、ライブ映画として、割と金字塔というか、歴代トップ的な評価を長年、維持し続けてきた作品で。私もそれに同意、という感じなんですけれども。

まあ、どこがどうすごかったという話も6時台に先にさせていただきました。6時台を聞き逃したという方、『ライムスター宇多丸の映画カウンセリング』という本で、「ライブの魅力を教えて」みたいな項目があって、そこで詳しくというか、同じようなことを書いていたりするので、そちらを読んでいただきたいんですが。まあ、とにかくですね、今回の『アメリカン・ユートピア』、その『ストップ・メイキング・センス』を1984年に作ったデイヴィッド・バーンが、60代後半になった2020年の作品で、自ら達成を更新してきた、という。まずはそういうところで、すげえ!という作品でもあるわけです。

もちろんデイヴィッド・バーン、この間もずっと作品を出し続けていたし、いろんな試みのライブもやっているんですね。もちろん割と普通の感じのライブもやっています。こんな凝りに凝ったライブばっかりじゃないですよ。もちろん普通に演奏するライブもいっぱいやってますし。そうじゃなくても、たとえばその中にはイメルダ夫人を主人公にしたミュージカル『Here Lies Love』とかですね。あとは、ブライアン・イーノと共作で、ダンサーをすごく前面にフィーチャーしたステージングの『Ride, Rise, Roar』っていうのとか、まさにシアトリカルな試み、当然たくさんあって。今回も振り付けで参加している、アニー・B・パーソンさんとの共同作品、という言い方もできると思います。

だから今回に至るような試み、つながるような試みは、全然この間ももちろんやってきたんです。急にこれが出てきたわけじゃないんですけど。

■『ストップ・メイキング・センス』が普通に見えるほど驚きの仕掛けが施されている本作

ただ、それでもやっぱり今回の『アメリカン・ユートピア』、特にやっぱりさまざまな面で、『ストップ・メイキング・センス』と比較したくなるような作品であるのは間違いなくて。まずやっぱりね、極限までミニマルにそぎ落とされたステージ演出、ということですよね。

非常に要素が……要するに出演者と楽器、楽器って言ってもその出演者が持って歩いてるんで、まあほぼほぼだから、その出演者の体ひとつ、みたいな感じに見えるような演出なんですね。最初、このデイヴィッド・バーンが1人で出てきて歌い始めて、だんだんメンバーが増えていき、パフォーマンスの熱が増していく、というこのこの全体の構成も、もちろん『ストップ・メイキング・センス』と同じですけど。

それでいて、その11曲に、全く異なる照明や小道具、舞台の使い方のアイデアが凝らされていて、最小要素しかないのに、異常に豊かに感じられるというか、何もないはずなのに、めちゃめちゃ豊かな舞台空間に感じられるというのもこれ、『ストップ・メイキング・センス』に通じるあたり。というか今回は、後ほど言います、先ほどもね、メールでもいただいたんですけど、新たなテクノロジーの導入もあって、なんならあの『ストップ・メイキング・センス』がそれでもまだまだ普通のライブ映画に思えてくるほど、シンプルであるが故の驚きの仕掛け、というか。

しかも、その11曲に凝らされた仕掛けが、ほとんど絶え間なく用意されてるので。もう当然、退屈する暇はない、という感じなんです。「えっ?」っていう瞬間がいっぱいある。

さらに言えばですね、これも『ストップ・メイキング・センス』と同様、数日、数回に渡って撮影された素材……本作では2日半ということで、まあ明らかに客席の顔ぶれがカットごとにちょっと変わってたりもしますしね。2日半のこの「半」はたぶん、後ほど言うけども、寄りの別撮りショットを撮るためじゃないかな?っていう気がするんだけども。

とにかくそれらを、それぞれが別個の素材を、改めてひとつのライブとして再構築した、言ってみればその「純映像作品ライブ」というか。この作品の中にしか存在しないライブでもあるわけですよ、この『アメリカン・ユートピア』は。そういう意味でも『ストップ・メイキング・センス』と同様、という。だから、他のそのデイヴィッド・バーンのライブ作品とかとは、ちょっと違う作りになっていて。

当然、そのライブ作品としての再構築というか、先ほど言ったようにフィルムの中にしか存在しないライブ作品としての再構築というのは、これは監督の視点というのが反映されてもいるもいるわけで。本作のスパイク・リーはですね……スパイク・リー、(彼についての説明は)いいですね? スパイク・リーの説明は、一番最近でも『ブラック・クランズマン』を近々で評していまして、書き起こしもありますから、スパイク・リーの説明は省きますが。

エンドロールでね、そのスペシャルサンクスに、その『ストップ・メイキング・センス』の監督であるジョナサン・デミさん……亡くなられてしまいましたが、まあ同じニューヨークベースのインディー映画作家として、非常に近いところにはいた、というぐらい、刺激を与え合っていた、ぐらいの関係らしいんですけども。そのジョナサン・デミが『ストップ・メイキング・センス』でやったような……先ほども(番組)オープニングで話しましたけどね。

■監督スパイク・リーがもたらした映画的技巧の数々

まずはステージ上で起こっていること、あるいは演者の動きや表情の機微まで含めて、まずはそのライブそのものの魅力を丁寧に捉えて、抽出するというか。そういうスタンスは受け継ぎつつ……基本的なステージそのものを生かす方向という、そのスタンスはもちろん受け継ぎつつ。スパイク・リー、今回のはですね……全体が、鎖がたらされていて、それがたまに上下したりするんですけど、鎖の壁で、シンプルに四角に仕切られたステージがあるわけです。

その中で、その演者たちの見事に美しい動きのフォーメーションを非常に効果的に見せるために、パッと、真上からの俯瞰ショットを入れる。これが非常に効果的。しかもこの真上からのショットが、図らずもなのか、まあスパイク・リーのことだからそれは計算ずくなのか、結果的にバスビー・バークレー的な、その伝統的なミュージカル映画の特徴的な画とも絶妙に重なる、っていうか。バスビー・バークレー、調べてください。要するに噴水とかで、女の人が、シンクロナイズド・スイミングじゃないけど、ワーッとすごく幾何学的に踊るようなミュージカルの形式を作った人ですけど。それを思わせるような画とも、絶妙に重なってですね。

そういう画を非常に的確に挟み込んできたりとか。あと、これは間違いなく別撮りだろうっていう、要するにいかにもスパイク・リー映画的に、カメラがグイーンとダイナミックに動いてグーッと近寄っていってのアップショット、みたいな。これはいくらなんでも、ライブをしながらは無理だろう、っていう寄りのショットがあったりして。そこはすごくスパイク・リー印だったりするし。

さらにはですね、極めつけはここですね。やっぱり後半、この評の中では名前はあえて伏せておきますが、デイヴィッド・バーン、これまでも度々女性シンガーのカバーというのをやってきたんですね。ちょっとカバーすることに、ギャップを感じさせるようなカバー、というのを割と何度もやってきていて。たとえばホイットニー・ヒューストンの『I Wanna Dance With Somebody』とか、あとはミッシー・エリオットとか、そういうカバーをやってきているんですけど。

その中でも、おそらく最も感動的、かつ、最も彼がやるということの意味のギャップが、非常に挑戦的ですらあるような意味を持つような曲をカバーするんですけど、ここで、もはやそのスパイク・リー、ライブ映画という枠組みからも軽々と飛び出して、まさにスパイク・リー映画的、そしてもっと言えば、やっぱり「今の世界」に向けた映画であることを、文字通り真正面から宣言してみせるかのような、そういうある種、本作の非常に最重要シークエンスみたいなものも配されていたりする、というね。

■デイヴィッド・バーンと同じニューヨーク・インディー派として、スパイク・リーにとっても重要な一作

スパイク・リー、これまでも……普通の劇映画はもちろんね、皆さんご存知の通りいっぱい撮ってますけども、これまでも、たとえばネットフリックスで見られるあの『ロドニー・キング』ってやつだとか、あとはこれはアマゾンプライムで見れる『パス・オーバー』っていうやつだとか、舞台作品、それもまさにやっぱり今回のね、とある展開でも通じるところですけども、まさにBlack Lives Matterムーブメント的なメッセージど真ん中の作品の映像化を、いくつか手がけてきてるんでね。そういう意味ではまあ、慣れている人ではあるんだけど。

今回の『アメリカン・ユートピア』はもちろんですね、やっぱりスパイク・リー、『ドゥ・ザ・ライト・シング』をはじめ、その音楽の使い方みたいなところが非常に特徴的な人なわけで。やっぱり音楽との、思わず体が動いてしまうような相乗効果というのに加えて、そのデイヴィッド・バーンという非常に自らの立場に自覚的な、それこそかつては「植民地主義的」と評されたこともあるような黒人音楽との距離感の取り方みたいなところにも非常に自覚的な、白人男性アーティストとの共同作品である、という点でですね……つまりデイヴィッド・バーン自身も、「私自身が変革していかなきゃいけない」という意識の下に作られた作品で、あの戦闘的なスパイク・リーと、でも同じニューヨーク・インディーシーン派、アートシーン派として、手を繋いだ、という。スパイク・リー作品としても、非常に重要な位置を占める一作となったとも言えると思います。

■ライブのプロから見ると、「どうやってんの、これ?」の連発

あとはもう何しろ、これは本当に、「ライブ」映画なので。ストーリーの説明をするっていうわけにもいかないし、皆さんご自身がですね、ライブ会場、即ちこの場合は上映館に、足を運び、音と映像を本当に体に直接浴びながら、意味を考えたり、意味を考えるのをやめたり……『ストップ・メイキング・センス』したりしていただく、という以上のことはもちろんないわけなのでね。もう1回、言っておきますよ。映画館でやってるのがラッキーなんだから、行っとけって、だから!という感じなんですけどね。

なので、ここから先はですね、僕自身、言わせていただくと、まあ音楽ライブのプロとして、一応30年選手にしていまだ余裕の現役と言わざるを得ないのが現状の立場として、特にすげえ! と思ったところを挙げていきたいと思うんですけども。

まずはやっぱりこれ、ひとつ目。「どうやってんの、これ?」の連発。まあ、演出がすげえ! わけです。たとえばですね、これはコンサートツアー版からこの仕様らしいんですけど、とにかくすべての楽器が、ワイヤレスなんです。ワイヤレスだけじゃなくて、たとえばドラムセットとかは当然(地面に)置かないので、そのドラムセットが本来だったら叩いてるような要素を全部、要するにビート要素を全部、分解しているので、太鼓だけで6人かな? いるわけですね。パーカッションとか太鼓系だけで。

で、それらの全てがワイヤレスで。要するに、普段だったら置いてある楽器とかも、首に吊るしたりしているわけです。キーボードとかも。その全ての楽器がワイヤレス。だからこそ、演者たちは縦横無尽のフォーメーションで動き回れるし、ダンス・振付とのシンクロもすごく複雑になっていて、それが非常に楽しいし、見てて気持ちいいあたりなんですけど。あとは最終的に、演奏しながら客席側を練り歩いたり。それもやはり非常に、超愉快そうではあるんですが。

やはりですね、これは音楽ライブをやっている人間からすると、やってればやってるほど、「えっ? いやいや、なんでこんなことが可能なの? なんでまず、こんなに音がよくて、安定してて、そして移動しても遅延もないの?」って。ワイヤレス、電波で飛ばしているものですから、離れたりするとやっぱり多少の遅延が起こったり、雑音が入ったりとか、いろんなことが起こりやすい。安定性がなかったりするんですけど。(本作では)非常に音がよくて、あまりにも安定しているので、僕は正直序盤は、「ああ、これは当て振りってこと?」って思って見ていたぐらいなんですよ。

そしたら、そういう感想を持つ人が多いということを、中盤でデイヴィッド・バーン、その疑惑を見越したかのように、「全て生の演奏です」というのを、11人、そのメンバー紹介を兼ねて見せていくくだりがあったりして。「えっ、あっ、そうなんだ!」みたいな。でですね、これはだから要するに、プロから言わせると非常に不思議です。「なんだ、これ?」っていう感じがするんですけど。だからこそ、「とか言って、本当は録音を流しているんでしょ?」ってしつこく聞く人がいて、とか(笑)。

本当にそれぐらい、なかなか不可能と思われるようなことをやってるんですけど。それをどうやって実現してるかというと、音響メーカーSHUREの新機材でAXTデジタルっていう技術があって。これ、要するにワイヤレスの電波をデジタルで飛ばす新技術らしくて。あれを導入したことで初めて、これだけ自由に動いたり、場所を離れたり、あとは、すごいチャンネル数ですよね。あの数の楽器数がありながら、それが非常にそれぞれクリアな音で、きれいで安定してて遅延もないという、そういうのを実現したらしいと、いうことで。だからAXTデジタルありきなんですね。

で、これが面白いのは、要するにその、人間そのもののむきだしの魅力を際立たせたい、というのがもともとの意図なわけですよ。要するに、ライブにおいて必要最小限の要素だけ残したらどうなるか、という試みとして、なんですね。最もプリミティブな、人間そのもの、ライブそのものの魅力を際立たせるために、最新テクノロジーを活用する、というこの構図は、このライブ全体のメッセージ……人々の間に元々はあったかもしれない、失われた繋がりを取り戻そうとする。

それをその、自らが変わっていく、自らの内部から変革していくことで、自分たち自身が変わっていくことで……これ、『アメリカン・ユートピア』って僕、すごく皮肉でつけてるタイトルかと思ったら、そうじゃなくて、アイロニーやシニシズムにおちいることなく、自分たちなりのユートピアを目指してゆこう、という本作の意外なほど前向きなスタンス、メッセージと、このテクノロジーを使うことでむしろ人間そのものが際立ってくる、というこの構造は、完全に一致するものという風に言えるわけです。

なのでこれ、AXTデジタル。非常にうちらも使ってみたいという気持ちが……RHYMESTERのライブスタッフ、これ、聞いてるかな? 音響スタッフ、カクちゃん、カンダくん。これ、見といて(笑)。

■ミュージシャンやダンサーの総合的なパフォーマンススキルが半端ない

ねえ。あともうひとつ、これ、どうやってるの?っていうのは、照明との見事なシンクロ。本当に全編に渡って、照明ってこんなこともできるのか!っていう。照明がもうひとつの主役と言ってもいいぐらい、瞬時に場のムードや、空間感さえもパッと変えてしまう、照明のすごさっていうのが炸裂しているライブでもあるので。これはライムスライブ照明チーム、カサハラくん。これ、見ておいて!っていう感じなんですけども(笑)。

舞台上、よく見るといくつか中心点らしきものを示す「バミり」、いわゆる目印、あと縦のラインがちょっとだけ、目立たないように入ってたりするけど、でもほぼほぼまっさらに見えるそのステージ上で、たとえば序盤のですね、「Don’t worry about the government」という曲。これ、今後ろで流れています。チェス盤のように当てられた照明の位置に、ぴったりとこの動きが合っていくわけです。

これも不思議なんだけど、これはどうもですね、全員が着ているグレーのスーツ……そもそもこのグレーのスーツが、照明によってまた全く色合いを変えていく「舞台装置」にもなっているあたりが、またすごいんだけど。そのスーツの両肩に、センサーがついていて。これ、ラストでその場内を練り歩くくだりで、肩が光っているのが見えますけど。照明と同期して、演者の位置に合うようになってる、ってことらしいんですね。

で、その照明と合わせたフォーメーションもそうですけど、本作、ミュージシャンやダンサーの、総合的なパフォーマンススキルが半端なくて。ミュージシャンも踊るし、ダンサーも歌う。しかも、さっき言ったその完全ワイヤレスモードのため、要するにこれまで習熟してきたパーカッションとかドラムのスタイルは使えない。全く違うことを要求されているわけです。それを完璧に習得しなきゃいけない。特にその、マーチングバンドをイメージしたというパーカッション/ドラムチーム。あとキーボードですね。それは全然違うことをやらなきゃいけないんだけど、なのに音も動きも、まさに完璧な安定ぶりを見せていて。もちろん、公演をすでにかなりの数、重ねている結果でもあると思うけど、まったくもって驚異的な総合パフォーマンス力、と言わざるを得ない。

■常に独自のやり方でアメリカを批評してきたデヴィッド・バーン、一世一代の大傑作!

しかし本作で一番驚くべきは、ここまで完璧に構築されたショー、ガチガチにやらなきゃいけないことが決まっている出し物のはずなのに、まさに『ストップ・メイキング・センス』、「意味を考えるのは止めろ」じゃないけど、その(『ストップ・メイキング・センス』から感じられる)感動と重なるんだけども、ちゃんと一緒に音を鳴らし、声を合わせることの喜び、楽しさ、ワクワク、要は、音楽というものの喜び、高揚感、熱狂を、ちゃんとパッケージングしている。たとえばこの「I Zimbra」という曲のところで、12人、ついに出揃って。ビートが入ってくる瞬間の、問答無用に気分が上がるところ。

非常に知的な、言ってみれば頭でっかちになってもおかしくない、アート的な思想の持ち主なのに、同時にデイヴィッド・バーン、まさに『ストップ・メイキング・センス』な、理屈抜きの衝動、感覚、あるいは肩の力を抜くしかないユーモアを必ず入れてくる、というあたり。特にそのトーキング・ヘッズ時代の、会場の全員が「待っていました!」な曲、要所要所で外さない入れ込み方をしてくるあたりっていう、そのセットリストの流れも見事ですしね。

エンドロールと対になっている「Everybody’s Coming To My House」。その非常に重要な意味を持つMCを含めて、本作の要となるパート、からの、(トーキング・ヘッズの代表曲のひとつである)「Once in a Lifetime」がボーンと出てくるあたり。しかもこの「Once in a Lifetime」がね、ちょっとBPMを落としめなんだよね。(今のデイヴィッド・バーンの)年代なりの、なのかわからないけども、この歌の歌詞が、もうアイロニーよりは、すごく切実な、彼が歌うそのリアリティーとかも得ていたりして。そんなセットリスト、曲の流れも完璧ですし。

常にアメリカを非常に批評してきたというか、独自のやり方で批評してきたデイヴィッド・バーンの、これは本当に集大成にして、まさに一世一代、ネクストレベルに行った傑作。よくこれを、ここまでの完成度で作り上げたと思います。今、映画館に行かないのは損だと思いますよ! ぜひ、劇場でウォッチしてください。

(ガチャ回しパート中略 来週の課題映画は『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。


宇多丸、『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』を語る!【映画評書き起こし 2021.6.25放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:
さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、6月18日から公開されているこの作品、『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』

(曲が流れる)

音に反応して人類を襲う「なにか」によって荒廃した世界を舞台に、過酷なサバイバルを繰り広げる家族を描いたホラーの、パート2。前作で夫と家を失ったエヴリンは、3人の子供を連れ、新たな避難場所を求めて旅に出る。やがて偶然逃げ込んだ廃工場で別の生存者に出会うのだが……ということで、エヴリン役のエミリー・ブラントをはじめ、ミリセント・シモンズ、ノア・ジュプなど前作の主要キャストが続投。

新たにキリアン・マーフィー、ジャイモン・フンスーなど……そうそう、ジャイモン・フンスーとかがね、後半に思わぬ豪華キャストとして出てきますけどね、出演しております。監督・脚本は前作に引き続き、ジョン・クラシンスキーが務めました。今回も部分的にね、ちょっと出てくるわけですが。

ということで、この『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「多め」。

賛否の比率は、褒めの意見が7割弱。主な褒める意見としては、「続編なんて作らなくても……と期待せずに見に行ったら面白かった。前作よりいい」とか「ツッコミどころは多いものの、演出の手法は確か。子供たちの成長を描いたストーリーの盛り上げも見事」役者陣も全員上手い」などがございました。

一方。否定的な意見としては、「ツッコミどころが多すぎて、作品に入り込めず」「こじんまりとした話にまとまり、蛇足感は否めず」などがございました。

■「コミュニケーションの中で、人間の成長を丁寧に描くことにも成功している」(リスナー)

ということで、代表的なところをご紹介しましょう。まず、褒めの方。ちょっと抜粋しながらいきますね。ラジオネーム「OL二等兵」さん。「面白かったです!! 1は自宅で鑑賞していて、正直普通だなという印象だったので……」。これね、やっぱり映画館で見た方がよかったと思いますよ、OL二等兵さん。

「……なので2はスルーの予定だったのですが、評判が良く、また大好きな俳優キリアン・マーフィーが出ていると知り見に行きました」「エメット演じるキリアンは今までマッチョな役やヒロイックなものが少ない印象だったので、今回の役はすごく新鮮でした。決して強くないし、疲れ切っているけれど、でも……と、とあるシーンは泣いてしまいました」「『1』の時から、音を立てられない世界=感情やコミュニケーションが抑圧された世界というは何かの比喩なのかな、とずっと思っていましたが、コロナ下だとなんだか遠くない世界のように感じます。」というOL二等兵さんのご意見。

あとですね、「コーラシェイカー」さん。『ウィズアウト・リモース』の時とかも見事な読み解き評をいただきましたけど、今回もすごかったですね。ちょっと長いので、これも部分的に端折って紹介しますけども。

「この映画で興味深いのは、姉リーガンと途中から彼女のパートナーとなるエメットの物語が、ゲーム『ラスト・オブ・アス』の設定と非常に似ていることです」。これはたしかに!

「人間社会が崩壊し植物の楽園となったアメリカの風景、音に反応する敵、疑似的な父と娘が希望を求め目的地へ向かうロードムービー的側面、そして<大切なものを守れなかった自分>を克服しようとする疑似的な父の物語、とたくさんの類似点があります。この映画は、多分にこのゲームから影響を受けているだろうなと推測できます」。ちなみにリーガンが駅舎のところで寝て起きるところの、陽が差し込んでいて、埃が舞っているんですけども、あの空間表現も僕、『ラスアス』っぽいな、ってすごい思ったんですよね。だからこのコーラシェイカーさんの指摘は、たぶん合っているんじゃないかなと思います。

「ただ、ラスアスでは疑似的な父ジョエルが疑似的な娘エリーに対して、前作クワイエットプレイスの父リーのように一貫して庇護者の立場をとっていたのに対し、今作ではリーガンとエメットはお互い主体性を認めたパートナーとして描かれている点が、影響を受けながらも歩を進めていて見事だと思いました。

この映画は、冒頭からエメットが手話ができないことを強調します。リーガンにとって手話のできないエメットは意志を伝えるのがとても苦手な人と同義の存在です。リーガンは音を聴けないので、この二人はコミュニケーションの成立に双方とも不都合を抱えていると提示されています。この描き方はとてもフェアです。

そして二人はお互い歩み寄り、配慮しあうことによってこれらの不都合を攻略します。ただ、意見が伝われば解決するのではなく、その上での交渉が描かれます。その交渉の中でお互いの意見を否定しあうという過程が含まれているのは特筆すべきところではないでしょうか。お互いを個人として尊重する関係を成立させるためには、お互い「NO」と言い合えるという条件が絶対に必要です。この過程を踏んだことでこの二人は、互いの主体性を認めたパートナーたりえるのです。

そして手話のできない相手とのコミュニケーションを達成することはリーガンの成長を意味します。前作でも、今作の冒頭でもリーガンがそのようなコミュニケーションを成した描写はなかったからです」とかね。あと、たとえば、一直線に伸びる鉄道の線路が、視覚的に進むか戻るかという二択を強調します、とか。

最年少の弟・マーカスは、赤子を除いては家族の中で特に庇護される存在だったのが、そのとある設定によって更に彼の成長を描いていく。一方で、子供たちが達成するるコミュニケーションの難易度の違い……「子供たちが達成するコミュニケーションの難易度の違いが、性別ではなく年齢の差に応じて設定されているのは好感が持てるだけでなく、現実的でありスマートです。見事です。

ただ、ハラハラドキドキの演出が凄まじいだけでなく、コミュニケート不能な異形の敵に対して、コミュニケーションで対抗する構図になっているこの映画において、以上のように、まさにそのコミュニケーションの中で、人間の成長を丁寧に描くことにも成功している本作は、傑作といってもいいのではないでしょうか」というコーラシェイカーさん。

ただ、そのコーラシェイカーさんも、後半部分では非常にちょっと気になる部分みたいなのを書いてたりします。

いまいちだった方も紹介しましょう。「ナリタユカリ」さん。

「賛否で言うと否です」「期待はずれというより残念でした。前作でもかなりツッコミ処が多めな作品でしたが、今作でもそこのツッコミ処がかなり目立ってしまったように思います」とか。

たとえばラジオネーム「ものはためし」さん。ハウリングのノイズを使うというのが一作目でも出てきましたが、それをたとえばラジオに乗せたりとか、いろんな形にすると、もうそれは(音として)変わっちゃってるから(同じ効果は見込めないはず)、という非常に一種、科学的なツッコミであるとか。

「南向きの鳩」さんも非常に1個1個、細かくですね、「ここはおかしいだろ?」ということを突っ込んでいただいていて。まあ、そういうご意見もわかる気がします。ということで、皆さん、メールありがとうございます。

■「あの一作目の続きってそんなに見たいか?」

『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』、(原題は)『クワイエット・プレイス パート2』ということで、私は今日(原題で)統一しますが、TOHOシネマズ日比谷のIMAXで2回、見てまいりました。

ただ、公開週の週末に行ったんだけどね、それにしてはちょっと余裕がある入りだったかな、と。ひょっとしたら先週、私がですね、山本匠晃さんにガチャを回してもらって、1回目、まずその『クワイエット・プレイス パート2』が当たって。で、「あの一作目の続きってそんなに見たいか?」なんてね、わかったようなことを言っちゃってですね。で、1万円出してもう1回、ガチャを回したら、またこれが出ちゃって、なんていうくだりがありましたけど。

要するに、どれだけ一作目がうまくいっても……というか、一作目がうまくいっていればいっているほど、「ヒットしたから、ハイ続編」みたいなのはどうなんだ?っていうね。まあ僕も含め、今時の観客はタカをくくっちゃっているところがあると思いますし。特にこの『クワイエット・プレイス』はですね、音を立てると襲ってくる、その「何か」……先ほども言いましたけど、一応宣伝の大筋の方針に従って、今回も「何か」で通しますけど。ただ、その説明で何の問題もない作品だと僕は思っています。何か、ぐらいしかわからないわけですから。

とにかくその「音を立てると即死」っていう設定と、それを見事に生かした鮮やかな結末……ある意味、反転させるというかね。というところが一作目のキモだったわけで、あの続きって言っても、正しく蛇足にしかならないんじゃないかというのは、もう見た人ほどそう思って無理がない作品だったと思うんですね。この一作目の『クワイエット・プレイス』。

ちなみに僕は、このコーナーでは一作目を2018年10月5日に、ガチャが当たって取り扱っておりますので。いつも言ってますけど、公式書き起こし、あるいはポッドキャスト、音源の方でもですね、今でも読んだり聞いたりできるので、ぜひそちらも参照していただければと思います。ちょっと一作目の評のポイントをおさらいしておきますね。ちょっと僕なりに、3つのポイントに整理して。

■前作の良かったポイント3つを改めて解説

その1。無音の生かし方が、特にハリウッドのこういう大ヒットしたような娯楽映画としては異例なほど、大胆ですごい!という。中でも、主人公一家の娘・リーガン。これを演じているミリセント・シモンズさんご自身が聴覚しょうがいがある方で、今回も前作以上にほぼメインという、非常に大好演、素晴らしい演技を見せていらっしゃいますが、彼女、リーガンの視点になった時の、「二段階の無音」ですね。特に補聴器をつけていない時の、完全無音状態というのが、特に劇場で見るとまさしく、観客全員が身動きもできないような異様な緊張感を醸し出して、ここがすごい!というお話をしました。

あと、すごかったポイントその2。音を立てちゃダメ、声を立てちゃダメ、ゆえの、その持続する緊張感。これを、溜めて、溜めて、溜めて溜めて、溜めて……この「溜め」が長いわけですね。溜めて、溜めて、溜めて、溜めてから、息止めて! からの、満を持して、ギャーッ!!っていう大絶叫。すなわち「大解放」でもあるわけですけど、それとその物語展開のですね、ある種の非常に、ドーン!と景気のいいセレブレイト感というのが相まって、中盤に、あるものすごいカタルシスがある……僕はもう名場面だと思いますけど、素晴らしい場面が1個あってですね。ここが本当によかったです。

僕が当時の映画評で言ったことを言いますね。「ああ、もう我慢できない、我慢できない、我慢できない、我慢でき……ああっ、おしっこ漏らしちゃった〜! でも……気持ちいい〜!」みたいな、こういう感じだ、と言いましたけどね(笑)。ちなみに、一作目はそれ以外にも、全体で絶叫する人物というのは3人いるんですよ。3人いるんだけど、それぞれに意味が対照的に置かれているのとかが、本当に上手い作りで。命を産む者、命を諦めた者、そして命をバトンタッチしていく者。それぞれが絶叫する、というこの3つの絶叫。上手いですね。とか、ありました。

あと、3つ目。一作目のすごかったところ。全体的な雰囲気が、アメリカ開拓家族物、フロンティア物の雰囲気……『大草原の小さな家』とか『アドベンチャー・ファミリー』とか、なんでもいいですけど。特に、ホラー演出を研究し尽くして作ったというその監督・主演のジョン・クラシンスキーさん、彼の過去の監督作とも通じる、「家族という存在に改めて向かい合うことで、真の意味で成長していく」というようなテーマ性、今回のパート2もやはりそうですけど、そういう話を本質的にはしている。要するに、実質ホームドラマでもあるところ。だいたいそのようなことを、僕は2018年10月5日のムービーウォッチメンで、一作目の『クワイエット・プレイス』評として言ったわけですね。

■一作目が「親が子を命がけで守る話」だったのに対して、今回は「その子供が親の庇護から巣立っていく話」

で、さっき言ったようにですね、音を立てると襲ってきて、まず何をやっても歯が立たないその「何か」に対して、なるほど! というその鮮やかな決着がついて。「ここから先は皆さん、想像ができますよね?」っていうところで、スパン!と終わるという。90分、時間的にも非常にタイトに、スパン!と終わるという、あの鮮やかな幕引き。これもやっぱり一作目、印象的だったわけですから。ヒットしたからって……しかも一作目は、アメリカのああいう映画にしては低予算作品だったのに、低予算にしてはものすごいヒットして、非常に利益率がいいヒット作だったので、映画会社として、その続編を作りたくなるのはわかりますけど。

まあ、蛇足にしかならないのでは?と実際に我々も思いがちだったし、そう思っても無理がないところもあったし。なんなら、製作・脚本・監督・出演をしているジョン・クラシンスキーさん自身も、様々なインタビューで、「続編には相当難色を示したんだ。あんまりよくないじゃないか?っていうことはずっと言い続けてた」っていう風に言ってるぐらいで。本人が言ってるんだから、間違いないですよね。だからね、俺の先週の1万円もゆえなきことではないわけですけど(笑)。

しかし、逆に言えばですね、「これなら続編、ありじゃん」っていう風に彼が思える道を見つけたからこそ、こうして作られてるわけですね。で、実際、ここでちょっと一旦、僕なりの結論を言ってしまえば、一作目の設定や物語を一段階、先へ進めた、もしくは一段階、広げてみせた、これはなるほど非常に納得度が高い続編、パート2というものに、見事になっていまして。なんなら、本作がある前提で一作目を振り返ってみると、前作はまだこの『2』の物語のための、「セッティング」じゃん、みたいに思えるぐらいですね。「こっちの方がいい」という人がいるのもわかりますけどね。『2』の方をね。

ざっくり言えば、一作目が「親が子を命がけで守る」という……そこにこそ、生きる意味を見出していくという話だったのに対して、今回のパート2では、その子供が、親の庇護から巣立っていく話。まあ親離れ、子離れの話でもあるわけですね。

もっと言えば二作とも、このシリーズ全体が、大きく言えば「人って何のために生きるのか?」っていうこと、それをそれぞれの立場に問うているような、そういう話。だから、「ただ生きていればいいんですか?」っていう、そういう問いを投げかけている話でもあって。実は非常に射程が長い話をしている、とも言えるわけですけど。まあ、ちょっと順を追っていきますけどね。

■日常が崩壊していく「Day 1」から始まる

まず冒頭、映し出されるのは、前作と同じアメリカの小さな街のメインストリート。まあ、今回はセリフで「アパラチアの方から来た」って(言っているし)……あとは鉄工所跡があったりするんで、まあいわゆるラストベルト地帯というか、たぶんロケしてるのもそこで、ペンシルベニア州ですね。たぶんね。ペンシルベニアの小さな街なんですけど、一作目同様、ひとけがないんですね。一作目は要するに荒廃した状態から始まるんですけど、一作目同様、ひとけがないんだけど、まあ街並みはきれいだし……ここがポイント。一作目で朽ち果てていた信号機がオープニングにあったんですけども、それと同じように信号機が映るんだけど、こっちは普通に機能してる。

ただ、これが、青、黄色、赤……って、要するにこれからね、どんどん危機的になってきますよ、っていうのを示すように。で、そこに1台やってきた車を降りてきたのが、ジョン・クラシンスキー演じるリー・アボット。主人公一家のお父さんが出てくる。そこで暗転して「Day 1(1日目)」って出るわけです。だから一作目を見ている人は、「ああ、お父さんが出てきたし、街並みもこの感じだから、前だな」って分かる。前の話。それで「Day 1」って出るから、「ああ、(事態の)発端を描くんだ」っていうことがここでわかるわけですね。一作目の冒頭は「89日目」だったのに対して、今回は「1日目」からやりますよ、っていう。

で、ここですね、ちょっとご愛嬌なのは、アボット家の子供たち。さっき言ったミリセント・シモンズさん演じるリーガンも、ノア・ジュプくん演じるマーカスも、明らかに一作目よりも、ムクムク育っちゃっていて。一作目よりもデカいでしょう?っていう感じもあるし。もっと言えば、末っ子、あのボーくんを演じていた、ケイド・ウッドワードくんという子かな? あの子の、本当に文字通りボーッとした感じがすごい絶妙だったんだけども、今回は違う子役が……要するに、彼(ケイド・ウッドワードくん)はもう育っちゃっているから、たぶん。あんまり顔は映さない感じになっていて。まあ、そこは大したことじゃないんですけどね。ご愛嬌なところですけども。

とにかく、一作目冒頭に出てきた、あのお薬とかが置いてあるお店に、「あのおもちゃ」が置いてあったりとか。あるいは、そのお父さん、リーが通りを歩いていくと、あちこちからやっぱり、いろんな声や音が、普通に聞こえてくるんですよ。そこでようやく……それが強調されて、「ああ、これは普通の日常なんだ」ってことがわかってくる。で、もうここだけでも一作目を見てる人には、非常に鮮烈な対比にすでになっているんですけども。

その後、そのマーカスくんが参加している少年野球の試合シーン。まあ、巧みな……感動的なまでに非常に映画らしい、ある仕掛けが、実は仕込まれていたりして。やはり、さり気なくも非常に周到な描写が積み重ねられていって。で、そこから徐々にというか、一気に、日常が崩壊していくパニック展開になっていくんですね。そこで、まあ疑似的な、ワンカット風シーンの連なりも非常に効果的なパニックシーン。一番近いのはやっぱり、スピルバーグの『宇宙戦争』。先ほどもね、ちょろっと前の時間に言いましたけど、ここは『宇宙戦争』。

で、後半、またまた出てくるパニックシーン。こっちはポン・ジュノの『グエムル』を思わせるというか、おそらく具体的にジョン・クラシンスキーさん、その二作を研究した結果だと思います。この2つに共通しているのは、日光の下で、割とはっきりその「何か」というのを見せている、ということですね。もちろん2作目だから、っていうのもあるし、日中それが襲ってくるからこそ、日常全体がもう根本から破壊されたような、寄る辺ない怖さ、というのがより増してもいて。

映画としてのリズム感、テンポ感がとにかく優れているジョン・クラシンスキー監督

で、それは、そのアボット一家の視点のみにあえて絞られていた一作目に対して、その外側の世界を、しかしあくまでやっぱり一家の日々を生きていく視点から目撃していく、そのパート2の物語というものに、非常に合った見せ方、語り口なんですね。

その、世界そのものを見せるために、日中のところをメインの舞台にするという。で、もちろんこのパートで、登場人物それぞれのキャラクター性であるとか、その「何か」の特性であるとか、一作目を見ていない観客にも必要な情報を、全て自然に入れ込んでくるとか、ここも抜かりないですし。そして何より、僕がこのオープニングにうなったのは、この前日譚パートから、前作の物語、472日目。1日目から472日目に飛躍して接続する、その手際の鮮やかさですね。僕、今回、バーン!ってタイトル『クワイエット・プレイス パート2』って出た瞬間に、劇場でちょっと小さく拍手してしまいました。「見事! 上手い!」っていう。

前作も今作も、ジョン・クラシンスキー監督、とにかく映画としてのリズム感、テンポ感が、とても優れている作り手だと思います。タイトルが出るタイミング、幕切れのタイミング、あるいは、さっき言ったような音の出し入れの上手さ、などなど、本当に優れてると思う。

で、とにかく驚くほど前作の、本当に「続き」なんですね。前作の続きでもあることが判明するこの本作。もはや、そのジョン・クラシンスキーさんが演じていたお父さんもいないし、納屋も焼けてしまって。で、生まれたばかりの赤子もいるし……赤子は当然、泣きますから。

ということで、助けを求めてその谷間の家を出て、まさしくその未知の領域に足を踏み出していくアボット一家。その「踏み出した足」が、あんなことになるとは……一作目で、そのエミリー・ブラントさん演じるエヴリンがですね、さっき言った本当に中盤のもう最高の盛り上がりに向けて、次から次へと食らいまくる受難という、それをある意味上回る、とんだ目にあってしまう、このマーカスくんを演じるノア・ジュプくん。

そのノア・ジュプくんが、あるひどい目にあうんですけども、その「ギャーッ!」ってなる直前に、「ううっ、ぐっ!」って絶妙な……あのうなり声が、「ああ、本当に痛いとこうなるよね」というような感じというか。あの演技の上手さも含めて、本当に劇場全体、観客みんなが息を飲む音が、本当にマジで聞こえるような瞬間でしたけどね。

■「息を潜めて生きていくしかない」と諦めていた人々が、コミュケーションを通じて生きる意味を取り戻していく話

で、そんなこんなでですね、命からがらそのキリアン・マーフィー演じるかつての知人のエメットのもとに、廃工場に身を寄せたアボット一家なんですけど。このね、キリアン・マーフィーというキャスティングがやはり、先ほどのメールにもありました、すごく絶妙で。要は、悪役をやることも結構ある人ですから。いい人とも悪い人ともつかない、グレーな存在感。それがそのまま、そのアボット家が知らなかった、外の世界の現実の反映でもあるんですよ。つまり、彼は現実の外の世界を見てきている。だから、そのグレーな感じになっている。

つまり、どういうことかというと、一方にはその「救う価値がない」っていう風に彼が言うぐらい……言っちゃえば『マッドマックス』的な、ポスト・アポカリプス状態になっているわけですね。それはもう要するに、エメットのいるところの……明らかに「対人用」の用心をしているわけです、彼は。人が来る用の用心をしているわけで、そこからも明らかなわけですね。ちなみにその、ポスト・アポカリプス要素が明らかになるシーンで、『バットマンvsスーパーマン』とか『アフターマス』とか、いろんなああいうのでおなじみ、僕の大好きなスクート・マクネイリーさんが実は出てるので。ちょっと見逃さないようにしてくださいね。

で、そういう風に、要するに非常にダークなというか、人間という存在が本当に下の下(になりさがってしまっている)、みたいなところもある一方で、リーガンが信じようとしている、そのラジオから流れている「Beyond the Sea」というあの曲に象徴されるような、人類文明の希望の側面……で、その間に、キリアン・マーフィー演じるエメットというキャラクターがいるわけですよ。

だからある意味、今回のその『クワイエット・プレイス パート2』は、彼やマーカスくんのように、文字通り「息をひそめて」生きていくしかないと半ば諦めていた……「こういう風に生きていくしかない」という風に諦めている人々が、主にやっぱりそのリーガンの希望や未来を信じる力、もっと言えば、コミュニケートへの意志ですよね。コミュニケートへの意志、人々に伝えていこうとする意志っていうので……それはまさにお父さん譲りの意志の強さでもあるわけですけど、それに感化され、生の意味というのを取り戻していくまでの話、とも言えるわけですよね。

で、特に今回、際だっているのがですね、途中で物語が、大きく2つに分かれるわけです。要するに、先に進んでいこうとするお姉さんのリーガンと、留まる弟のマーカスの、2つのルートに話が分かれるわけです。で、片側が危機的状況に陥っていくのにシンクロして、もう一方もまた別のその危機一髪シチュエーション、状況になっていく。で、お互いにシンクロするように、相乗効果的に状況がどんどんどんどんとヤバさを増していって……で、それが映画的に同時に極に達した瞬間に、バンッ!とある展開になってくる。

まあ、いわゆる「クロスカッティング」手法という。グリフィスがあの悪名高き『國民の創生』で発明したと言われる、クロスカッティング手法。それ自体はもちろん、目新しくも何ともないですし、下手にやると両方のシーンが興ざめになってしまうことも結構多い、このクロスカッティング話法ですけど。『クワイエット・プレイス パート2』は、これがすごく上手くて。

これ、もちろんさっき言ったジョン・クラシンスキーさんの監督としてのテンポ感、リズム感のよさ……あと、編集のマイケル・P・ショーバーさんという方。この方は、『ブラックパンサー』や『クリード』など、ライアン・クーグラー組ですけども、彼の手腕も大きいんでしょうけど。とにかく、このクロスカッティングが最上級に上手く行っている例だと思います。

大きく言って、中盤とクライマックスがあるんですけども。中盤は、さっき言った、周到に張られた伏線の回収が、なにしろ気持ちいいし、感動的だし。クライマックスは、そのリーガンとマーカスの、離れていてもシンクロしていること、隔てられていても繋がっていること、それ自体がテーマ的な意味も持っていて。このクロスカッティングという手法そのものが、テーマと一致していて。画角とかもあえて同じ画角を多用したりして、それがすごく意味を……大きな物語的な感動をも産む作りになっていて。非常に見事です。

皆さんがおっしゃるようなツッコミポイント、たしかにありますし……ただね、そのね、『28週後…』とかにもありますけども、「お前らが悪いんじゃないか?」って感じられる展開すらも、このコロナ禍に見ると、それって人類が生きていく上での業、みたいな。要するに、コミュニケートに伴うリスクっていうのも、「じゃあ、コミュニケートしないでそれぞれ息を潜めて分断していくしかないのか?」という問いにもなっていて。まあこれは、図らずも、な部分でもあるでしょうが。

ジョン・クラシンスキー……監督として腕、あるわ!

僕はそのツッコミ以上にやっぱり、グレーな問いかけの部分というのに、大人っぽさも感じましたし。はい。

まあ、その細かいツッコミポイントはちょっと置いといて、と思えるぐらいに、ジャンル映画としての精度、もちろんそのホラー映画としての精度と、コミュニケーションを遮断されてしまった人類が、しかしそのコミュニケーションへの強い意志によってそれを克服していく、というテーマの深い掘り下げ……もちろんそれは、具体的な技術とか演出力、演技力とか込みだったりしますが、それを見事にやってのけている。ジョン・クラシンスキー、この人は、監督として腕、あるわ!と改めて思いました。

三作目ね、ジョン・クラシンスキーが降りて……でも、バトンタッチする相手がなんと、ジェフ・ニコルズ!というね。この、バトンタッチ相手すらも間違いない!っていうね、このあたりも含めて、ニクい!っていう才能です。ということで、ぜひ皆さん……先週のガチャ、私はナメてました。一作目に続いて、やっぱり映画館でみんなで息を詰める瞬間というのが、本当に何倍かで面白くなる映画なので。ぜひぜひ劇場で、ウォッチしてください!

(ガチャ回しパート略 ~ 来週の課題映画は『夏への扉 ―キミのいる未来へ―』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『夏への扉 キミのいる未来へ』を語る!【映画評書き起こし 2021.7.1放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、625日から公開されているこの作品、『夏への扉 ―キミのいる未来へ

(曲が流れる)

僕はね、このLiSAさんの新曲『サプライズ』、これに文字通り本当に、驚きまして。どう驚いたのかは、最後に言いますね。

ロバート・A・ハインラインの名作SF小説『夏への扉』を、舞台を日本に移し映画化。1995年、ロボット開発に従事する科学者の宗一郎は、恩人の娘・璃子と愛猫・ピートに囲まれ、研究の完成を目前に控えていた。しかし、周囲の裏切りにあい、2025年までコールドスリープにかけられてしまう。全てを失った宗一郎は、大切なものを取り戻すため、1995年にタイムトラベルする……主な出演は、山崎賢人さん、清原果耶さん、藤木直人さんでございます。監督は『ソラニン』や『思い、思われ、ふり、ふられ』などの三木孝浩さん、ということです。

ということで、この『夏への扉キミのいる未来へ』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。

メールの量は、「多め」。ああ、そうですか。やっぱり『夏への扉』を映画化とか、そういうポイントなんですかね。賛否の比率は、褒めの意見が4割弱、否定的意見と中間の意見が過半数を超えました。まあ、どっちにしろ、どっちかに極端に振ってる、っていう感じでもない感じですかね。

主な褒める意見としては、「予想よりずっといい。目新しさはないが、それゆえに安心して楽しめた」とか、「原作の改変もちょうどよかった」とか、「清原果耶さん、山崎賢人さんが魅力的」などがございました。あと、やっぱり当然、藤木直人さんがよかったという方は多いでしょうね。あと、夏菜さんもよかったですよ。『マイゲーム・マイライフ』に来てPSVRをやってびっくりしてガツン!ってテーブルに足をぶつけていた人とは思えない悪役ぶりで(笑)、見事でしたけどね。

一方、否定的な意見としては、「SFとしても恋愛物としても中途半端。盛り上がりに欠けるし新鮮味がない」「原作から時代設定を変えたことでSFとしてのワンダーが失われてしまった」。そして……ああ、これはちょっと取っておこう。僕と同じ意見があったりしました。

■「なるべく上品にまとめようとし好感が持てたのだが……」byリスナー

ということで、褒めの方から行きましょう。「アヤノテツヒロ」さん。

「『夏への扉キミのいる未来へ』ウォッチしてきました。賛否で言うと賛です! 全体的に物語としてはシンプルな形に納めており、難しく構えなくても見られるのが魅力だと思います。原作が古典SF小説ということもあってか、映像として見せてしまうと物語冒頭でその後の展開がほぼ見えてしまい、伏線回収はただの答え合わせになっているので、そこに物足りなさを感じる人もいるかもしれません。

ただ、その部分を押しのけた上で、『大切な人を救うために過去へと旅立つ』というシンプルな構造がワタシにはダイレクトに伝わりました。三木監督らしい鮮やかなライティングで、ある意味SF映画らしくない、明るめな画面構成は見易いと思いましたし、主人公たちが迎える爽やかなハッピーエンドに、晴れやかな気持ちで劇場を後にすることが出来ました。大傑作!というわけではないですが、素直に見れる良い映画だと感じました」とかですね。

じゃあ、ダメだったという方もご紹介しましょう。「Suggy-MO’」さん。

「『夏への扉』観てきました。観終わってまず浮かんだのがBUNAN(無難)という言葉でした。原作は未読ですが、『タイムトラベルものの古典』とされている名作を現代日本を舞台にして実写化するのであれば、もっと野心に溢れたアレンジをしてほしかったなあ、というのが正直なところです。

1956年に発表された原作では、1970年から2000年にジャンプするという時代設定なのに対し、2021年公開の本作は、1995年から2025年にジャンプします。つまり原作では、発表当時の読者にとって、『未来』から『さらに未来』へと飛ぶことにSF的な面白さやワクワクがあったのではと推測しますが、この映画では我々にとっての『過去』から『それほど遠くない未来』にタイムトラベルする設定になってしまったため、センス・オブ・ワンダーが失われているように思います。

また、SF作品では設定の説明に時間をかける必要があり、登場人物たちが『ストーリーを進める駒』でしかなくなる傾向が強くなる気がするのですが、本作も、登場人物の厚みのなさ、動機の弱さが気になりました。特に脇役にあたる人々は、『主人公に異常な理解を示し、全面協力をする親切なキャラクター』か、いまどきどうかと思うほど『非道な悪玉』かのニ極に分かれてしまっています。

また、清原果耶さんや夏菜さんは好演していると取れなくもないですが、『身の回りの世話まで焼いてくれる、主人公に献身的なヒロイン』と『セクシーさを武器に男を騙す、金にしか目がない悪女』というのは、女性キャラクター像として今どきどうなんでしょうか。なるべく上品にまとめようとしている気がしたので、そこは好感が持てましたし、VFXとか頑張っているといえなくもないですが、私としてはイマイチ乗り切れなかった作品でした」」という。これ、ちなみにSuggy-MO’さんが言っている諸々の「ここがどうなんだ?」っていう、特にキャラクターに関する部分は、ほぼ原作です。原作の問題です、それは。ちょっと後ほど言いますけど。

あとですね、これ、「さにわ」さんという方。ちょっと部分でしか紹介しませんけども、この方が言っている部分で僕、笑っちゃったんですけど。冒頭でホーキング博士の言葉が引用されるんですけど、「この話に対して、ホーキング氏のこの言葉は全然合っていないよね」っていう指摘で。全くおっしゃる通りです。なんか、ホーキング博士のセリフがかっこいいから引用したのか知らないけど、『夏への扉』は全然こういう話じゃないというか、むしろ反しているから!っていう感じがする。というのはこれ、「一本道タイムトラベル」話なんで、ということですけどね。後ほど、私も言いましょう。ということで皆さん、メールありがとうございました。

■超有名な古典的名作ながら、「『夏への扉』、今やんの?」という危惧もあり

『夏への扉』、私もTOHOシネマズ日比谷で、同じ場所になっちゃいましたけどね、2回見てまいりました。入りはね、まあぼちぼち、って感じでしたけどね。今、ちょっとね、ご時世がご時世なんで、単純比較できないけど。どちらかというと、僕と同世代以上、中年以上の方が目立っていました。たぶんだけど、やっぱり原作小説を元々読んでいた世代のSFファンが、どんなもんかな?と見に来たっていう感じなんじゃないかな、と思いますが。

ということで改めて、とにかく原作小説が超有名なわけですね。ロバート・A・ハインライン。『宇宙の戦士』……まあ、『スターシップ・トゥルーパーズ』ですね。『宇宙の戦士』とか、『月は無慈悲な夜の女王』であるとか、『人形つかい』であるとか……などなどで知られる、アメリカの超大御所SF作家。まあとっくに亡くなられていますけど。が、1956年に発表した、タイムトラベル物の今や古典的名作とされている……あとは、「猫物」の名作なんて言われてますけど。

もちろん僕も、初めて読んだのはたぶん中学生の頃で。最初はね、なんで中学生かって覚えているかというと、竹宮惠子さんの同名漫画とか、あと松田聖子の『夏の扉』とか、そういうのの諸々と混同して、「ああ、これSFなんだ。こっちが元の……って、全然違うじゃないか!」みたいな、まあそんな出会い方をしたんで覚えてるんですけど。ただしですね、非常に有名な作品なんだけど、世界でも初の映画化となるその今回のタイミングで出た、ハヤカワ文庫の新版というのがあって。

巻末の高橋良平さんによる新たな解説によればですね、ここまでその『夏への扉(The Door into Summer)』という小説の人気が圧倒的に高いのは、正直、日本特有の現象でもあるらしいんですね。で、それは多分にやっぱり、福島正実さんによる名訳の文章……すごく文章が魅力的で。その猫の描写であるとか、最初と終わりが対になって響き合ってる感じがすごく粋で。それはやっぱり、訳がいいから、っていうのも影響してるのかなという気もしますが。

とにかく、その原作小説に長年魅了されてきたという、1963年生まれ、ご自身でも「オタク第一世代」と自認されているプロデューサーの小川真司さんという方がですね、10年ぐらい前から念願の企画としてトライし続け、ついに実現した、というのがこの『夏への扉』実写化、ということみたいなんですね。ただ正直、僕は最初にこのニュースを聞いた時。火曜でしたかね? それこそ宇垣さんもいらっしゃって、宇垣さんももちろん読んでいるんで、2人とも「えっ?」っていうか。「えっ? 『夏への扉』、今やんの?」っていう危惧をちょっと隠せなかったんですね。宇垣さんもそれをすごく言っていたんですけども。それは、どういうことか?

もちろん、日本映画でSFは難しいという通念……近年、そこはだいぶ様々な形でクリアした例は増えていると思いますけども、もちろんそのハードルもあるけれども、それ以上にですね、やっぱりその『夏への扉』という小説、あれをそのまま今、映画化するには、いろいろ問題がある内容を多々含んでいるんじゃないかなと、そういう懸念がやっぱりあったわけです。僕個人はね。でも僕が「えっ?」って言ったのに対して、宇垣さんも「えっ?」って言ったから、「ああ、そうですね。やっぱり思いますよね」って思ったんだけども。

■タイムトラベル物のアイデアが出まくったあとに楽しめるかしら?

まず、タイムトラベル物として、もちろん『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか……まあこれ、監督の三木孝浩さんも、その『バック・トゥ・ザ・フューチャー』的な気分というのを意識されているとインタビューでもおっしゃっていますし。あと、日本はね、特にやっぱり『ドラえもん』ですね。とか、要は『夏への扉』が切り開いた領域の影響下で出てきた……『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は本当に近いね。そんな作品が、むしろすでにクラシック化している。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も古典化してるような状況なわけですよね、この2020年代現在というのは。

で、僕なりの解釈で言うと、そのタイムトラベルっていう……要するに、その気で掘り下げていくと、いくらでもディープな世界にまで行ってしまう設定なわけですよ。それを、そういうその世界とか宇宙全体に関わるような大きな話にはあえて広げずに、あくまで卑近な、そのタイムトラベル技術を事実上占有している主人公、個人の問題の解決のために使う、という……言っちゃえば元の『夏への扉』は、復讐譚というか、『巌窟王』的な話でもあるんでね。いったん取られたものを取り返す、という、『巌窟王』のSF版、みたいなところもあるので。

あくまでも「自分」の話として、基本「小さな話」である点に、『夏への扉』から『ドラえもん』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に至る系譜のその特徴、っていうものがあると僕は思っているんですね。で、特にその元祖たる『夏への扉』は、「もう、タイムパラドックスとかそういうのは、心配する必要全くないから!」っていうね。もう全て一本道で、「なるようになるようになってる」し(笑)、もう人類の精神がへこたれない限り、未来も絶対によくなっていくんですよ!っていう、いかにもロバート・A・ハインラインらしいというか、強烈な楽天主義に貫かれていて。まあ、もちろんそこが魅力の小説ではあるんだけど。

もう、ちょっとバカっぽいぐらいなんですよ、今読むと。「ああ、タイムパラドックスとか、そんなのはないから!」みたいな。なのでとにかく、その『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でさえ古典となった今ですね、そのタイムトラベルということに関して、アイデアがもういろいろ出まくった後……一本道物ですら、『テネット』みたいな複雑極まりないものが出てきたりしているわけで。

その現在にですね、『夏への扉』みたいな、ものすごく単純な構造と思想のタイムトラベル物を……過去に1回こっきり、一本直線構造なので、タイムパラドックスも気にする必要がないし、みたいな。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でさえ、そこは考慮してるわけですから。今さらそれを新鮮に楽しめるのかしら?っていう懸念がまずひとつ。

■現代の感覚からするといろいろアウト感の強い原作をいかにアップデートするか?

で、もうひとつは……こっちの方が大きな懸念なんですけども、『夏への扉』は一種、非常にコメディ調にデフォルメ、もっと言えば物語やキャラクターが、かなり分かりやすく単純化された小説なんだよね。たとえばその、悪役のキャラクターのデフォルメもそうだし、企みがちょっと幼稚っていうか、雑過ぎて、「いや、これは別に主人公が動かなくても、お前らどっかで失敗したと思うよ?」みたいな程度の感じの悪役感だったりして。

要は、その意味でやっぱりちょっと、ジュブナイルっていうくくりにはなってませんけど、僕はかなりジュブナイル寄り、っていう印象も持ってたりするような小説で。なので、たとえばその一番の悪役に当たるベル。いわゆる「悪女」ですよね。悪女キャラクターに対する、非常に悪意に満ちた描写の数々。これ、今の感覚から読むとですね、まあセクシズム、ルッキズム、エイジズムがてんこ盛り。女性に対する差別的な視線てんこ盛り、という感じですし。

それと対照的に置かれる女性キャラクター、主人公ダンにとって、妹同然……と同時に、最終的には「理想の恋人」扱いになっていく、という。気持ち悪いね、話しているだけで。リッキィという少女……本当に少女ですよ? 原作だとゴリゴリの少女。その、とことん主人公に都合がいいロリータ、というね。これ、「今の感覚からすると」っていうくくりもいらないほど、いろいろ非常にアウト感の強い、でも物語の根幹には関わっているキャラクターの置き方などですね、「あの話を今、やるの?」って正直、ちょっと思ってしまうポイントが多々あるように、僕は思うわけです。原作の『夏への扉』自体が。

でも、もちろん今回実写化するにあたって、作り手の皆さんも、その現代の日本で作られる映画として原作をどうアップデート、もしくは補正していくべきか、ということに関して、当然のことながらいろいろ考えられていらっしゃるわけです。たとえば、脚本に菅野友恵さんという女性……これ、長編デビューがそれこそ、2010年の実写版の『時をかける少女』(※宇多丸補足:言うまでもなく日本におけるタイムトラベル物の古典中の古典、の何度目かの映像化)という、仲里依紗さんが細田版から持ち越しで主演した、というあれだったりして。まあ、あれも僕は以前、この映画時評コーナーで扱いましたけども。ちょっとあれはあれで、言いたいことがいっぱいありますけども。

あとは、その菅野さんが同じく脚本で、三木孝浩監督とのコンビで言うと、2013年に『陽だまりの彼女』っていうのがあって。まあ、一言でいえば猫の恩返し、みたいな話ですけど。あれも、特にオチの部分、「本人の意識できる記憶としては失われてるけども、でも気持ちには何かが残っていて……」みたいなこの感慨は、完全に『時をかける少女』的な感慨の作品でしたよね。特に大林版とか、そこに近い感じ。

なので、この脚本・監督コンビによって、なるほど。「ある奇跡的な飛躍によって、悲恋に終わりかけたカップルがハッピーエンドを迎える、爽やかラブストーリー!」という面を強調するというのは、今の日本映画として『夏への扉』を作るという時のひとつの正解、言っちゃえば彼らにとっての(たったひとつ開かれているかも知れない可能性としての)『夏への扉』、というのはまあ、わからないでもないかな、という風には思います。

こっちをカバーするとこっちに不都合が出てくる

じゃあ、実際に出来上がったこの実写日本映画版、そして世界初の『夏への扉』、どういう風になっているかと言うとですね……まず冒頭、主人公の生い立ちを説明するくだりで、古いテレビの映像と共に、これを見せていくんですけど。これ、冒頭。僕はこのド頭が、一番ひょっとしたら感心したかもしれない。1968年、3億円事件の犯人が捕まった年に」……って言うわけです。この1点だけでまず、我々が知る現実の日本の歴史の流れとはちょっとだけ違う世界なんですよ、というのを、これだけで端的に伝えることができている。僕はだからこの一発目で、「ああ、面白いじゃん! いいじゃん、いいじゃん!」って、SF的にもすごくワクワクさせられた。

正直こういう、「微妙に現実と違うニュース映像」とかみたいなのが、もっと見られればよかったな、と……たとえば、「平成」って出すのが、小渕さんじゃなくて竹下登、だとかさ(笑)。なんかそういう一工夫、二工夫が、もうちょっと見れたらよかったけども……正直、こういうのは3億円のところだけなんですけども。で、ともあれ、その瞬間移動実験だの、民営のコールドスリープ会社だの、いろいろSF的なガジェットがあるという1995年。つまり、2021年の我々からすれば過去、という……過去だけど、ちょっとSFガジェットがある、という、よく考えると入りくんだ設定。

それのおかげで、その後もそのテクノロジーの進化的に「うん?」ってなる部分が仮にあったとしても、「まあ、パラレルワールドの話なんで」ということで、一応スルーはしやすくなっている、という仕掛けでもありますよね。

まあ本当は、「僕らが見てる現実とちょっと違う今」が描かれていると、それこそ小川プロデューサーがパンフでおすすめSFに挙げている『高い城の男』じゃないけども、そこにもなんらかの理由がちょっとほしくなってはしまうところなんですけども……そういうタネ明かしも、ひょっとしたらどこかでしてくれたりする?と思ってたらね、そんなのはありませんでした。そんな話じゃないんです。

というのは、そういう考え方ほど『夏への扉』という話から遠いものはないからです。ロバート・A・ハインラインは、そういうの嫌い!って言ってますから(笑)。そういうゴチャゴチャしたこと、嫌い!っていうね。この実写版ならではの設定アレンジで言うと、山崎賢人さん演じるその主人公の宗一郎に対して、原作で言うそのリッキィというのを、璃子──リッキィを璃子に置き換えている──演じる清原果耶さんがですね、だいぶ年齢が引き上げられている上に、まあ清原さんご自身が、非常に大人っぽい雰囲気を出す時は出せる人で。非常に知的で、意思的に決定している、というのが出せる人なんですよね。

で、なおかつ山崎賢人さんは逆に、ちょっと若めに、爽やかに見える方ですよね。20代後半だけど、まあ全然10代と絡んでいても嫌な感じがしないバランスなので。まあさっき言ったような、原作のですね、もう明らかにロリコン的な危うさっていうのは、かなり中和されては、いるかな?と。あとはその、璃子のキャラクターが自ら技術者として(活躍してゆく)、っていうような描写もある上に、あとはその、終盤のオチになる部分で、彼女の意思で……まあ言っちゃいますけど、コールドスリープします、っていうのがあるから。まあ、よりそこはよくなっているとは言える。

ただしですね、そのリッキィこと璃子の年齢が上がったことで、今度は後半、その主人公が仕掛けていく計画の中で……彼女の人生が、根こそぎ書き換えられてしまうわけなんですね。その重みというか、歪みというか……要するに彼女に事前の相談なく、いろいろと彼女の人生全体に関わるような重大事が決定されていく。それってどうなの?っていう感じが、ちょっと増してしまってもいる、という。だから、こっちをカバーするとこっちに不都合が出てくる、みたいな。他の部分にもちょっとあるんですけど、それは後ほど言いますね。

■原作からのアレンジでプラスになっているところ、マイナスになっているところ

原作からのアレンジで最も大きく、そして概ねプラスになっていると言えるのは、藤木直人さん演じるアンドロイドのピートというのが、コールドスリープ後の未来世界で主人公・宗一郎をサポートする、まあ一種、バディとなっていく。この部分が本当に原作にはない部分なんですね。で、三木孝浩監督もインタビューでおっしゃってますけども、これは完全に僕、パッと映った時に、「ああ、これはランス・ヘンリクセンだ」っていうね。

要するに、「『エイリアン2』でランス・ヘンリクセンが演じていたアンドロイドのビショップ」感を直接に連想させる、藤木直人さんの、お顔立ちそのものもそうですし、佇まいもそうですし、そして見事にコントロールされたその立ち振舞い、というのがですね、特にやっぱりその、単調かつ説明的に陥りかねない前半の真相調査パートにですね、非常にユーモラスな、エンターテインメントの味わいをもたらしていて。これはすごくよかったところだと思います。

ただ、それによって失われたものは、主人公の、無一文で何も知らない世界・時代に放り出された絶望感、孤独感。これはめちゃめちゃ薄れましたけどね。なんかお前、大丈夫じゃない?っていう感じがするようになってきちゃいましたけどね、はい。あと、「いかにもアンドロイド的」な振る舞いと、「らしからぬ」振る舞いのギャップで生み出す笑い、というのがあるわけですけど。場所によっては、ちょっと踏み越えてないかな? 「それ、アンドロイドはしないでしょう?」っていうのが、僕個人的にはあったりもしましたけどもね。

まあ、原作だとその、ベルに当たる……ここでは白石「鈴」と置き換えられていますけども、夏菜さん。本当に見事に悪役を演じられていたと思いますが、あの未来の姿……さっきね、ルッキリズム、エイジズム、トータルでのその性差別感がすごく原作は強いと言いましたけども、結局やっぱりこれ、特殊メイクで太らせちゃってるんで。そういうことをやることで、主人公に「ああ、こいつじゃなくてよかったわ」と思わせる、みたいな……そんなこと、(今、作られる作品として)いります? 太らせる必要、ある? しかも、そこまで太っているわけでもない感じとかがまた、なんだかな……って、僕は正直、思ったりしましたけど。今、作る映画としても。

ともあれ、2025年。我々からすればちょい未来の、しかしパラレルでもあるその社会の描写、というのがある。主人公が95年の人であることから生じるカルチャーギャップを、我々はどちらかというと、2025年側から見る構造になっているんですね、今回は。自動運転であるとか、完全キャッシュレスとか。なので、SF的に楽しいっていうよりは、どっちかって言うとその、未開人が文明に戸惑う描写、みたいな面白みになっていて。SF的にどうか、っていう感じにもなってはいる。

ただ、なぜそうなったかの説明はないけど、金の価値の変化を利用して資金作りをするとか……で、それによってタイムトラベル技術を作るその博士、田口トモロヲさん演じる博士が主人公に協力する経緯に、比較的、原作より無理がなくなっている部分もある。ただ、それによって逆に、「この博士は、主人公のためだけに、タイムマシーンを作ったの?」みたいになっちゃっていて。そのためだけに30年間待っていて……そしてこれ、お役御免になったらどうなるの?みたいな。なんかちょっと納得できないところも浮上しちゃっていたりする、という。

■ラストで「あの曲」が流れないのが近年で一番の「サプライズ」!

加えて、さっきも言ったようにですね、タイムトラベル物、様々なアイデアが出まくっている今、ただでさえ、その単純な構造と思想を持つ『夏への扉』。話として今、どうなんだ?っていう部分に関して言うと……ぶっちゃけ現代の観客の大半は、前半で謎かけ的に登場する「黒幕」的な存在の正体、最初っからわかると思いますよ! 少なくともタイムトラベル物だと知って来ている人は全員わかるし、そうじゃない人にとっては、逆にタイムトラベルが急に出てくるから、ご都合主義的に見えるんじゃないかな、という風に思いますが。

とにかくそのタイムトラベルとしての構造は、すごく単純。しかしその割に、主人公があれこれ手を打つんですけど、「これはなんで必要なのか?」っていうのを、あんまりちゃんと飲み込ませてくれないんですね。これ、いちいち挙げてるときりがないので、ちょっと省略しますけど。なんというか、タイムトラベル物ならではの、パズルのピースが1個ずつあるべきところに収まっていく、ような知的カタルシスを、あんまり味あわせてくれないんですね。

じゃあ、何があるか?っていうと、強調されるのはやっぱり、「主人公とヒロイン璃子の思い」的な、情緒の方なんですけど。しかしその、情緒演出という意味でも、僕は本作には、決定的に不満が残りました。それは何かというと、劇中で何度かキーポイント的に出てきては、途中で「あえて」という感じでブツッと切れる、Mr.Children93年のヒット曲「CROSS ROAD。当然のように、クライマックスかラストでこれが高らかに流されて、気持ちいい~! ベタだけど、気持ちいい~!みたいな感じになるんだと思って、見ているわけですよ。

で、最後。主人公が未来に帰ってきた。そこには、愛するあの子もいる。もちろん「CROSS ROAD」はその愛するあの子が好きだった曲ですから。「なんか曲が流れだした……キター!」って、ベタではあるけども、待ってました!とばかりに「CROSS ROAD」が流れるのか、と思いきや……『鬼滅の刃』でおなじみ、LiSAの新曲『サプライズ』!  びっくりしたー!っていうね。「CROSS ROAD」じゃないんかーい!っていうね。エンドロールまで待っていたんですけども、「CROSS ROAD」は結局流れない。僕、近年で一番の「サプライズ」でしたよ、悪い意味で。いやー、がっかりしたわー。

あとね、「猫演出」は難しいんだろうなと思いました。「あっ、猫が動いてるように(見せるために)、夏菜さんが動いている」みたいな(笑)。

一応フォローをしておくと、1から10まで全くダメ、なんてことは言ってません。演者の皆さんは本当に素晴らしいと思います。特に主人公の2人と藤木直人さんは本当に素晴らしかったと思いますし、さっき言ったように原作からのブラッシュアップ、アレンジも、うまく行ってるところは行ってるかなと思います。

それによる不都合が出ていたとしても、まあわからないわけじゃない。日本製SFとして問題なくも見られるし、そもそもの話が持つ、要は『巌窟王』的なカタルシスの部分、そういう普遍的な面白さの部分は、あるはある。ただ同時に、ここまでやっているのに……という惜しさは残るというか、諸手を上げて、とはちょっと言い難い感じ。そもそも『夏への扉』というチョイスがもしくは悪かったのか、というあたり。そのへんは、皆さんご自身の目で、たしかめていただきたいと思います。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 来週の課題映画は『RUN/ラン』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『RUN』を語る!【映画評書き起こし 2021.7.9放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、6月18日から公開されているこの作品、『RUN/ラン』

(曲が流れる)

「走る、逃げる」の「RUN」ですね。2018年の『search サーチ』で注目を集めたアニーシュ・チャガンティ監督によるサイコスリラー。生まれつきの病気により車椅子生活を余儀なくされているクロエは、献身的に支えてくれる母・ダイアンと、郊外の一軒家で2人暮らしをしていた。しかしある日、ダイアンが「新しい薬」と称して緑のカプセルを差し出したことから、クロエはダイアンに不信感を抱くことになる。

母・ダイアンを演じるのは、『オーシャンズ8』『ミスター・ガラス』などのサラ・ポールソン。あと最近はね、『ラチェッド』というNetflixのドラマもやってますけどね。あの役柄にもちょっと近い、サイコみあふれる役。娘・クロエをオーディションで抜擢された新人のキーラ・アレンさんが演じる、ということでございます。

ということで、この『RUN/ラン』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。

メールの量は、「普通」。まあ、そんなに回数とか館数とか多くないからね。ありがとうございます。賛否の比率は、褒めの意見が8割強。主な褒める意見としては、「期待をはるかに上回る出来。現代型のスリラーとして文句なし」「サラ・ポールソンの鬼気迫る演技も良いが、娘役を演じたキーラ・アレンも素晴らしかった」「ラストの切れ味もよい」などがございました。

一方、否定的な意見としては「全体的にはよかったが、ラストが好みじゃない」。これ、たしかに好みが分かれるラストではあるんだけどね。「サラ・ポールソンの演技が大げさに感じた」などがございました。

■「チャガンティ監督『俺は斬新な演出だけじゃなくてクラシックな映画も作れるんだぜ』」byリスナー

代表的なところを紹介しましょう。まずはね、「真夜中のゴア」さん。いろいろ書いていただいて。

「チャガンティ監督は『いわゆる“普通の映画”も作れると自分自身に証明したかった』と語っているようですが、たしかにタランティーノにおける『ジャッキー・ブラウン』のように、『俺は斬新な演出だけじゃなくてクラシックな映画も作れるんだぜ』とその真の実力を見せつけられた気分です。今回、特にフレッシュだと思ったのは、主人公クロエの車椅子アクションの数々です」ということで。主人公にそういう身体的なハンデがあるタイプの映画っていうのはこれまでもあるにはあるんだけど……。

「クロエ役のキーラ・アレンさんが実生活でも車椅子を使っているということもあってか、薬局に向かって猛然と車椅子を走らせるシーンには、疾走感やユーモラスさがあって観ていて楽しいいだけでなく、車椅子に乗るこの主人公が『庇護されるべき人物』だとか『か弱い人物』ではなく、『力強く自走できる人物』なんだと観客に印象づけることにも成功していると思います」。たしかに! たしかにそうですね。素晴らしい。ここの目の付けどころ。

「見事にこの役を務めきったキーラ・アレンさんは驚異の新人と言って過言ではないでしょう。そして白眉はなんと言っても屋根を伝って部屋から脱出するシーンだと思います」これ、いろいろと書いていただいて。「本当によくできています」と書いていただいています。

「……親からの自立、つまり文字通り『自分の足で立つ』ということがさりげなく示されたクライマックスとエンディングには、『いいストーリーを観させてもらった』」という感動でいっぱいになりました。ワシントン大学のポスターの伏線もベタといえばベタですがうまく機能していました。自分は『自分の足で歩けない』と思い込まされているだけなのではないか?ということが物語中盤からキーになっていきますが、自分で自分のチカラを閉じ込めていた人物が、自らのチカラでそのリミットを解除していくストーリーという意味では『キャプテン・マーベル』に近い精神を感じました」。

たしかに。「お前にはできない、お前にはできない」って言い続けられた人が、「いや、できるんだ!」っていう風になっていくっていうのは、たしかにそうかもしれない。まあ、もちろん『37セカンズ』とかもそうですよね。はい。

ダメだったという方もご紹介します。あのね、全面的にダメだったという人は全然いないんです。「空港」さん。「基本的には楽しく観ました。ただし、後半の展開は、見る人によっては『なるほど!』と面白がられると思いますが、私は一気に話がチープになってしまった気がして、『あ、こういう話ですか』と結構テンションが下がってしまいました」という。この、ひねりとかがない方がよかったと思いますという理由もいろいろ書いていただいて。ちょっとネタバレになるので、これは伏せますけども。

「それに加えて、あのラストで『あぁそうなりますか…』ともうひと段階、気持ちが盛り下がってしまいました。話にツイストをかけ、キャラクターや設定をシンプル・単純化することによって、この作品自体が、積極的に「<ジャンル映画>の枠に収まろうとしている気がして、そこが非常にもったいなく感じました」という空港さん。

あとはですね、これは結構最近ね、いっぱい紹介させていただいています。「コーラシェイカー」さん。コーラシェイカーさんは今回もね、評とかいろんな読み時がすごく丁寧かつ、非常にフレッシュというか。プロの評論家になれると思います……というか、プロの評論家が名前を隠して書いてるんじゃないかな?ってぐらいの。素晴らしいものだと思いますが。そのコーラシェイカーさんもやっぱり、最後のひとひねり……全体としては絶賛をしながらも、最後のひとひねりが気になる、ということを書いていただいてます。まあ、要するに主人公の劇中での展開というところに対して、このラストはちょっと裏切りではないか、というような感じの視点ですかね。

でも皆さん、それぞれにありがとうございます。基本的に、全体としては褒めつつ、やっぱりラストのひねりとかの部分に関して意見が分かれた、という感じでしょうか。ありがとうございました。

ヒッチコック型スリラーという「規定演技」で満点

ということで私も『RUN/ラン』、渋谷ヒューマックスシネマで2回、見てまいりました。入りはまあ、ボチボチっていう感じでしたけどね。はい。ということで、本作。きっちり90分というタイトな尺感を含めてですね、とてもシンプルなジャンル映画なので。この映画時評もですね、まずは先に、シンプルな結論を言ってしまいますけど。

言ってみれば、サスペンスの神様であるヒッチコック、そのヒッチコック型スリラーという「規定演技」の中で、かなり満点に近い得点をたたき出している、割と万人に「あれ、面白いよ」とストレートに勧めやすい、本当によくできた娯楽作です。ぜひぜひ劇場ウォッチしてください! はい、終わりでーす!……っていうね。全然、これでいいと思うんですけどね。もう概ねのストーリーとね、なんとなくの出来の感じだけ聞けばもういいんじゃないかな、と思うんだけど。

ただですね、本作は、2020年の製作作品なんですが、かわいそうに、ご多分に漏れずと言うべきか、コロナウイルスの感染拡大のあおりで、アメリカ本国では結局、劇場公開されず終い。Huluが買い取って、昨年11月にアメリカでは配信開始。で、他の国ではNetflixとかでも配信していると。

で、Huluで配信開始してから、かなりの視聴数を記録したらしいですけども。で、日本では木下工務店、キノフィルムズ。いろんな意味で日本の映画文化への貢献度が非常に高い会社だと思いますけども、キノフィルムズ。そのキノフィルムズが配給して、見事、劇場公開となったということで。つまり、先々週の『アメリカン・ユートピア』とかもそうだけど、これがスクリーンで見られてる日本っていうのは、実はなかなかレアっていうか。結構、ありがたいことなんだ、っていう状況があるわけです。

まあとにかく、さっき言ったようにヒッチコック型スリラーという、いわば規定演技ですね。「はい、ヒッチコック型スリラーです。皆さん、どうやりますか?」っていうね、規定演技という枠組みの中で、しかもね、これはかなりその中でも、オーソドックスな作劇に徹していて。奇をてらったようなことは全くやっていないにも関わらず、ここまで今の、その今見るジャンル映画として、しっかり……というか、かなり面白い!っていうことになってるのは、これは結構正直、並みの技量ではできないことだと思います、これを作った人は。「ああ、これを作れる人なら、本物だ」っていう風に思わざるを得ない感じだと思います。

■「最小限の情報で最大限の効果をもたらす」という意味では、監督の前作『search サーチ』と本作は同じ

脚本・監督のアニーシュ・チャガンティさん。あるいは共同脚本と製作のセブ・オハニアンさん。この方は『ユダ&ブラック・メシア』、日本では結局劇場公開されないで、9月3日にレンタルリースとなったみたいですけど、あれの製作総指揮なんかもされてる方ですけども。製作のナタリー・カサビアンさん。あるいは編集のニック・ジョンソンさんとウィル・メリックさん。このお二方、後ほどまた名前を出しますけど。あとは音楽のトリン・バロウデイルさんなどなど、要はですね、先ほども紹介でも言いました、2018年の『search サーチ』という映画のチームによる、長編二作目、ということなんですけどね。

その『search サーチ』。ガチャが当たらなくて、結局このコーナーでは取り上げなかったですけど。『たまむすび』でね、町山智浩さんの紹介。「娘を持つお父さんにとって最悪の悪夢」っていう紹介が、めちゃくちゃ面白かったですけど。とにかく、「パソコンの画面上に映るもの」だけで、しかしかなりしっかりしたサスペンスや謎解き、人間ドラマ、アクションまで描かれていく、という、なかなかに斬新な作品で。

もちろん、その「パソコンのデスクトップ上に映るものだけで全てが進行する長編サスペンス映画」という試み自体は、たとえば2014年のイライジャ・ウッド主演、ナチョ・ビガロンド脚本・監督の、日本タイトル『ブラック・ハッカー』。原題は『Open Windows』という作品。これ、僕もそのナチョさんの手がけた『シンクロナイズドモンスター』評、2017年10月18日、この中でちょっと触れてますけど。まあそういう『ブラック・ハッカー』みたいな、先行する試み自体は、あったはあったわけです。

なんだけど、そのアニーシュ・チャガンティ監督による2018年の『search サーチ』は、そういうガワのギミック、全部がPCのデスクトップで展開されるという今っぽい奇抜さ、以上にですね、これはそのさっき言ったニック・ジョンソンさんとウィル・メリックさんというこの編集のお二人が果たした役割も非常に大きいんだと思いますけど、必要最小限の情報を、しかし的確な順番、タイミングで観客に提示していくことで、最大限の、非常に豊かな効果をもたらす……最小限の情報で最大限の効果をもたらす、というのが非常にうまくできてる作品でもあって。

特に今回の『RUN/ラン』の、さっき言ったように極めてオーソドックスな、要するにそれほど多くの要素や展開があるわけではないシンプルかつタイトな作りから、振り返って一作目の『search サーチ』を見返してみると、その単にデスクトップ上という表面上新しいシチュエーションに置き換えてるだけで、やってることの本質は『RUN/ラン』とある意味同じっていうか。「要素は少なくても、シンプルでムダのない的確な表現によって最大限の効果を生み出す」という、まさに正統派の映画的ストーリーテリングを、『search サーチ』でもちゃんとやってるし、できていた人たち、っていうことがよくわかったりもするわけですね。このアニーシュ・チャガンティ監督をはじめとする作り手の皆さんは、ということで。

実際にインタビューなどでも、先ほどのメールにもあった通りですね、要するに「自分は奇をてらうスタイルだけではなくて、オーソドックスに徹することもできるのだということを証明したかった」ということを、あちこちのインタビューでもお答えになってますけども。ということで、前作『search サーチ』の評価も逆に上がるというか。そういう感じの方だと思います。

■身近な人が一番怖いという前半の恐怖から、その人に囲い込まれる後半の恐怖へ

またその前作『search サーチ』がですね、親が子供に感じる不信というか、「外で何をやっているのか、わかんない」みたいな感じとか、あるいはその、親離れしていくことの不安、みたいなことを描いた作品だとするならば、今回の『RUN/ラン』はですね、子供、特にやっぱりその、精神的にも社会的にも親離れしつつあるティーンの子供が、親に感じる束縛感であるとか、不信感、みたいなことが描かれていて。

その意味ではもちろん、非常に極端な展開・物語ではあるんだけど、ベースになっているものは、すごく普遍的な家族関係の話ですよね。その点でもこれ、『RUN/ラン』は、前作の『search サーチ』とちょうど対になる作品というか。親子関係を裏返した感じというか。そう言えると思います。

もちろんですね、「最も近しい相手が自分に害をなしているのではないか? たとえば今、まさに毒を飲ませようとしているのではないか?」という恐怖に取りつかれてるというのは、モロにこれは、1941年の『断崖』という作品があって、まさにヒッチコックなんですね。まさにヒッチコック的な話だし。プラス、お母さんの異常な束縛、お母さんの異常な愛情、という意味ではもちろん、『サイコ』でもありますし。

あと本作が、さりげなくもはっきりとオマージュを捧げている『ミザリー』という1990年。スティーヴン・キング原作の怖さもあるし。あとは、たとえば高橋ヨシキさんがね、映画評の中で挙げていらっしゃった、『何がジェーンに起ったか?』とか。そういうところもあると思いますけど。大きく言えば今回、そのサラ・ポールソンが、『ラチェッド』同様のサイコパス演技を見せる……ちなみにその『ラチェッド』も、ヒッチコックオマージュがバリバリのドラマでしたけどね。そのお母さん・ダイアンの狂気が、はっきり「確定する」瞬間がちょうど中盤に来るわけですね。

はっきり確定するまでの前半部が、さっき言ったヒッチコックの『断崖』的な、「えっ、大丈夫? すごく身近で信頼しているのに、ひょっとしたらその人が一番怖いの?」っていうこの恐怖。『断崖』的な恐怖。で、それ以降は『ミザリー』的とか、もしくは『何がジェーンに起ったか?』的な、その囲い込まれる恐怖、というかね。という言い方ができるかもしれませんけども。

まずその前半。信頼する仲良しの、大好きなお母さんに対して生じてしまった疑念が、心の中でどんどんどんどんたしかなものになっていってしまう、という、その娘・クロエの非常に複雑な心情。というか、この主人公クロエの感情っていうのは、最初から最後まで、どんどんどんどん複雑さを増していくくらいなんですよね。途中、主人公がある「あっ、私、これできるんだ」ってわかる瞬間があるんですけど、そこって喜びの瞬間でもあるけど、同時に「と、いうことは……?」っていう悲しみでもあり、恐怖でもあり、っていう。すごく複雑な感情を同時に表現しなきゃいけないキャラクターなんですけど、とにかくこれを演じていらっしゃるキーラ・アレンさん、初主演にして、文句のつけようもない名演であること、ここは異論の余地がないあたりではないかなと思います。

■エリザベス・モスに通じる可能性を感じる主演のキーラ・アレンさん

先ほども言った通り、ご自身も実際に車椅子で生活されている方であり……こうした、そのしょうがいを持つ役柄というのに、当事者をしっかりキャスティングしているという点。ハリウッド映画、ひいては映画作りの新時代、というのを感じさせて、本当に素晴らしいですし。実際、日常生活における、そのテキパキした動きね。ちょっとカーブを曲がるピッとした動きとか、なんか物を取る時とか、別にそこはもうプッと(簡単に)やる感じとか。

あるいは後半待っている、ハードな一大アクションであるとか。あとは、さっきのメールの目の付けどころ、素晴らしかったですね。薬局にバーッと急ぐ時のあれ。たしかに、人の手の助けがいる人に見えないところって、すごく素敵ですよね。あれはね。キャラクターとしてもすごく大事なところだと思いますけど。という部分であるとか。なにより、さっきも言ったように、幾重もの感情が同時に押し寄せるようなこのクロエというキャラクターの立場を、これ以上ないほどのナチュラルさで体現しきった、このキーラ・アレンさん。

僕、個人的にはエリザベス・モスに通じるテイストというか、可能性を感じましたね。『透明人間』とか『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』とかのエリザベス・モスさんに通じるような可能性も感じました。彼女は結構これから女優として活躍してほしいし、していくと思いますけども。

■ヒッチコック型スリラーとして抜かりない美術演出や衣装演出

まあとにかく、その彼女が演じる娘のクロエがですね、ある「緑とグレーのカプセル」をきっかけにその疑念を膨らませていくわけなんですけど。本作、さっきから言ってるようにヒッチコック型スリラーとしての作りを、話としても作りを持ってるし……ヒッチコック型スリラーと言えばですね、やはり美術演出であるとか、あるいは衣装演出、こういうところでも実は非常に抜かりがないものがあったりするわけなんですけど。

具体的にはこの本作の場合、「縁」を中心とした色の演出……色の演出といえば、最近では、ここの映画評でも言いました『ファーザー』の青の使い方っていうのが非常に強烈でしたけど、今回は緑と、それに対しての黄色と、あとは紫……その中間に置かれるような色と、そして要所で、がやはり非常に効果的に、印象的に使われているという、これが特徴になっていますね。要はですね、これはもうアバンタイトル、その病院のシーン……そのダイアンが赤ちゃんを産んでいるというか、産んだ後のシーン、この病院のシーンからしてもそうなんですけども、深めの緑っていうのが、このサラ・ポールソン演じるダイアンの一種、テーマカラー的に使われてるわけです。だから、その問題の薬も当然、緑ベースだし。

で、この「薬の色」をめぐるそのクロエの調査が、ある結論に達した瞬間……「緑色の薬。これは何なんだ?」って調べていって、それが何かを確定する瞬間の、それはそれは鮮烈な、まさにもぎたてフレッシュ!な色のショック演出、これ、本当に見事でしたね。僕、ここでカットがパッと変わった時に、やっぱり思わず小さく拍手、「上手い!」っていうね。あるいは、これは第3幕目、舞台が割とパブリックな場所に移って、少なくともダイアンの束縛、監禁状態からは、主人公が脱出、できたのか?っていうその場。その色はやはり、まだグリーンなんですね。全然まだ逃げられた感がしない、みたいなところも、やっぱり色の演出として使われている。

あと、これは第3幕のクライマックスのところですけど、その後、病室のシーンで、いま言った緑と黄色と赤が全部揃った上での、「ええーっ!」っていう間接ショック描写。これもね、「ああ、色の演出、そう使う?」みたいな。非常にうならされました。ということで、お母さんが深い緑色で、対するクロエのテーマカラーは、淡い黄色なんですね。優しい感じの黄色。

だからクライマックスの決着後。もう最後の最後、決着した後ですね。さっきまでと空間としては同じ空間なんだけど、緑の光があって、まだ逃げられていない感じがするのに対して、クライマックスの決着後、彼女の後ろに天井が見えるんですけど、そこで照らされる光は……? そういうですね、本当に細部まで非常に行き届いた仕事がされている、というね。もちろん撮影のヒラリー・スペラさんとか、美術のジャン=アンドレ・カリエールさんが非常に見事な仕事をされていると思いますし。

あと、衣装デザインのヘザー・ニールさん。これ、パンフを読んで「ああ、そうか」と思ったんですけど、あの主人公のクロエが、ボーダー柄ばっかり着ていますよね。これはやはりですね、「囚人」を示唆しているということなんですね。「ああ、なるほど!」と。事程左様にもう、行き届いているわけなんですね、配慮がね。

■「規定演技」の定型をちょっとだけ破っているところが効果的

示唆といえば、中盤でクロエとダイアンが映画館に行くところ。これ、見ている映画そのものは架空の映画なんだそうですが、劇場のあの入り口にかけられてるタイトルは、『Break Out』、つまり「脱出」とか「脱獄」みたいなことと、『Fake News』っていう……もう何をか言わんやですけどね。まあ、それがなにかその先行きを示唆していたりとか。

その後の、あの薬局でのちょっとイライラするようなやり取り。これもね、やっぱりすごくヒッチコックっぽいところです。その前の見知らぬ男性と電話で会話するところも……あそこ、『スパイダーマン』のフラッシュ役でおなじみ、トニー・レヴォロリさんがキャメオ出演をされているということみたいですけども、ああいう、ちょっとヒッチコックっぽい、ちょっとイライラするユーモラスなやり取り、みたいなところの後で、さっき言ったその緑と灰色のカプセルの本当の正体が、ついに確定!というその瞬間。その絶望をですね、やはりヒッチコックが『めまい』という作品で発明したことでおなじみ、ドリーズームという。

まあ、要するにズームと絞りを同時にうまく変えることで、背景の奥行きだけが変わったように見える手法。『ジョーズ』とか、そういうのでも使われてますけど。そのドリーズームという手法が、でも他の作品に比べるとやや控えめに、ちょっとキュッとなるぐらいになっていて。その控えめな使い方も、「ああ、ドリーズームをちょっと控えめに使うっていうのもあるんだ」みたいな感じで。これも逆に新鮮味を感じましたね。はい。

新鮮と言えば、そのクロエの監禁部屋からの脱出シークエンス。これ、先ほどからもう皆さん、絶賛されているシークエンスです。もちろんキーラ・アレンさんの熱演。あとは的確な引きのショットですね。ずっと今まで、割と家の中であったのが、家からバッと離れたこの引きのショットで。「ああ、こういうことか!」っていう感じがするという。それを含めた、非常に堂々たるサスペンス演出。後半の大見せ場になってるわけです。

やってることはめちゃめちゃ小さいことなのに、めちゃめちゃ巨大なスペクタクルというか、サスペンスになっているあたり。これも見事なあたりですし。特にあの、窓から再侵入する際のアイデア。皆さんも「そうか! 頭いい!」ってうなられたことじゃないかと思いますね。

他にも、そのキャスト。メインキャストの2人、サラ・ポールソンとキーラ・アレンさんの2人が素晴らしいのはもちろんですけど、たとえば、パット・ヒーリーさんという俳優さんが演じる、あの郵便局員さん。ああいう、よくあるキャラクターですよね。途中で「ああ、この人が助けになるのかなと思いきや……」みたいなキャラクター。ホラー映画ではすごく定番的な置き場ですけど。

あの彼の対応っていうので、要するにすごく今っぽい、ちゃんとした対応をするっていうか。今の基準が……昔だったらたぶん、あそこで簡単にほだされちゃったりしてダメになるところで、ちょっと今までの過去のこういうホラー映画の定形を、ちょっとだけ破ってみせるわけです。彼が今の基準で言う「NO」をちゃんと貫くので。「ああ、この人はちゃんとしている」みたいな感じで、すごく嬉しくなるわけです。主人公もすごく嬉しそうな顔をするわけですよね、「病院か、警察か」って聞かれて。「ああ、わかってるじゃん!」っていう感じがする。

ゆえに……というのも、非常に大変効果的に生きていたりとかですね。だから、こういう細かいところですけど、ちょっとだけアップデートしてあって。で、それが効果的に使われていたりして。こういうのもやっぱりね、さっき言った「規定演技」として、素晴らしいアレンジだと思いますね。

求めらる範囲の中で103点ぐらい出している

あとはですね、序盤。「ワシントン大学に入りたい」なんてやっている時に、いろんな動画を主人公が見てるわけです。その中の画像、バナーの1個がこれ、前作『search サーチ』を見た方は全員がニヤリとするもので。ひょっとしたらこれ、アニーシュ・チャガンティさん、これを毎作のイースターエッグ、隠しの目配せにする気なんじゃないかな、みたいなのもすごく面白いですし。

あと、ダイアンが、先ほど(番組18時台に金曜パートナーの)山本さんともチラッと話しましたけど、ダイアンがいよいよヤバくなってきてから作る、あの不気味な薬。もう作り方の雑さ込みで、「こんなの注射されたら……本当に本当に勘弁して!」みたいな。要するに、その「注射される」という恐怖ですよね。得体の知れないものを注射されるって、本当に怖い。そこを本当に見事にやっていますし。

あと、そのダイアンが狂気に陥った背景みたいなものを、匂わせるだけにとどめているのも、僕はこれ、すごくよかったと思います。はっきりした因果関係で語られたりすると、またいろいろモヤモヤしてくることも出てきちゃうので。ここは匂わせる程度にしておいたのは、非常に正解だと思う。

なんと言ってもクライマックス。主人公・クロエの自立。先ほどもメールにありましたが、自立への意思が示される、出来事としてはとても小さいのに、巨大な感動を生む、本当に見事な対決シーンですね。これは本当にもう拍手物だったし、本当に感動してしまいました。

そして最後に、さらにもうひとひねり。意外と、文字通り毒っ気に満ちたラスト。まあ、ここは好みが分かれるのは非常にわかりますけどね。ただ、まあ僕はこの「規定演技」の中で、最後に今までにないお土産を1個、つけますね、みたいなところは全然ありだし。あと、先ほどのメールにはちょっと反しますけども、要するにやっぱり主人公・クロエが抱いている複雑な気持ちっていうか……復讐心もあるだろうけど、それだけなのかな? ちょっとこう、何とも言えない……だから僕は、あれがつくことによって、ちょっとだけジャンル感からはみ出る気もするんですよね。

で、僕はそれはね、ちょっと好ましいものっていうか、やっぱり好ましいツイストに僕は思いました。ここは結構、好みの部分かもしれませんけどね。はい。といったあたり。でも、これがあることでその全体の流れがちょっと阻害されているという意見も、非常に理解はできます。

あと、そうだ。終わった後のエンドロール、エンドクレジットの出方も、やっぱりヒッチコック映画でおなじみのソール・バスが出すタイトルとかの感じに……その音楽と(文字が)パンパンッて変わっていくのがソール・バス風味なのも、きっちりやっぱり「ヒッチコック型スリラーという規定演技」の中で、きっちりとやってきている、ということで。なんというか、こういうジャンル物としては僕は、僕が求める範囲の中では103点ぐらい出してるっていうか。100点以上、プラスアルファを出していて。僕は結構もう十分っていうか、最高に面白かったですけどね。

少なくとも今、(映画館に)かかってるもので何かお勧めを、って言われたら、『RUN/ラン』って迷いなく言う程度には、お勧めです! ぜひぜひ……劇場でかかっているのは非常に貴重なことなんで。劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『ブラック・ウィドウ』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

宇多丸、『ブラック・ウィドウ』を語る!【映画評書き起こし 2021.7.16放送】

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TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

宇多丸:
さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、7月8日から劇場公開。そして9日からはディズニープラスで配信公開もされているこの作品、『ブラック・ウィドウ』

(曲が流れる)

マーベルコミックの人気キャラクターがクロスオーバーする、マーベル・シネマティック・ユニバース24本目となる映画。24本目にして、「フェーズ4」と言われるものの一作目だよね? (フェーズ4の)最初、始まりっていうことです。凄腕のスパイで暗殺者、ブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフは、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』の戦いの後、逃亡生活を送っていた。ある日突然、妹と再会したことをきっかけに、自分たちが所属していた組織「レッドルーム」の陰謀に巻き込まれていく。

主演のスカーレット・ヨハンソンのほか、フローレンス・ピュー、レイチェル・ワイズ、デヴィッド・バーバーがナターシャの「家族」を演じる。監督は『さよなら、アドルフ』などのケイト・ショートランドが務めた、ということでございます。

ということで、この『ブラック・ウィドウ』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「とても多い」。今年最多クラス。まあね、MCUの新作となると、今やもう本当にそのたびにお祭りというかね、外せないというところは本当にありますからね。

でですね、賛否の比率は、褒めの意見が6割強。あらまあ、そうですか。残りの意見は、「悪くはないが、MCUにしてはいまいち」というようなテンションでした。主な褒める意見としては「単体のスパイアクション映画としても普通に楽しい。フェミニズム要素や家族愛などテーマ性もいい」「フローレンス・ピューがよかった」。フローレンス・ピュー、やっぱり誰がどう見てもいいですよね。などなど、ございました。

一方、否定的な意見としては、「悪い映画ではないが、MCU映画にしては平凡。盛り上がりに欠ける」とか「黒幕のキャラも弱く、カタルシスもない」「アクションに切れがなく、シーンも見づらい」などがございました。

■「ほぼ完璧なスパイファミリーアクション映画」byリスナー

代表的なところをご紹介しましょう。「ケンボー」さん。

「率直な感想は、めっちゃ最高でした! 事前にケイト・ショートランド監督の過去作は全て鑑賞していたのですが、はっきり言ってその段階では少しばかり疑問というか、不安というか、完全に期待値100%ではありませんでした。しかし、ウォッチしてみると、そんな不安な気持ちはすぐに吹っ飛びました。ちゃんとケイト・ショートランド監督作品だったからです。これまでの監督作品では一貫して『家族愛』『愛への渇望』『女性の強さ』という要素が印象的に表現されてきたと思いますが、本作『ブラック・ウィドウ』もその全てがふんだんに盛り込まれ、かつちゃんとMCU作品でもあるという、個人的には、ほぼ完璧なスパイファミリーアクション映画でした。スパイ映画というジャンルの中でも上位に来る作品だと思います。そして『家族愛』の描かれ方は、むしろこれまでよりもパワーアップしているんじゃないでしょうか。その大きな要因はやはり『キャラクターの良さ』でしょう」

ということで、いろいろ書いていただいて。

「……偽りの『ロマノフ家』は実はちゃんとそれぞれが愛し合って信頼しあっているということを、会話のやりとりやコミュニケーションの取り方などできちんと表現しているケイト・ショートランド監督の手腕はやはり素晴らしい。今作の起用も超納得です。疑ってごめんなさい。改めて本当にMCUの制作陣はすげえなあと思いました」というご意見。

一方ですね、ちょっとダメだったという方もご紹介しましょう。「こてこてポエマー」さん。

「初投稿です」。ありがとうございます。

「私の感想を一言で言うと、『こんなに盛り上がらないMCU映画は初めて』。ブラックウィドウがいかに屈強な精神を持つヒーローなのかは伝わってきますが、ビシッと敵を倒してカッコよく決めるシーンは一箇所も無かったのでは無いかと感じました」。ええ、言われてみればそうかもね。

「例のポーズをイジるシーンや、麻酔薬は効かん!からの大量に打ち込まれるシーンなど、ヒーロー映画のカッコいい流れを茶化したり外したりするのは勝手ですが、その後にこの映画ならではのキメるシーンが感じられなかったので、『いや、あなた達が茶化した映画の方がカッコいいんだけど…』と思ってしまいます」。反感を感じちゃったというね。あと、ちょっとこれ、省略しますけども、悪役の描き方もちょっといまいちじゃないか、というようなことを書いていただいて。

「何よりもレッド・ガーディアンですよ!」。これ、要するにお父さんにあたる役というか、デヴィッド・バーバーさん演じる、要はロシア版、旧ソ連版のキャプテン・アメリカ、みたいな感じ。「何よりレッド・ガーディアンですよ! あんなに美味しいキャラクターを出しておいてまともに敵を倒すシーンが一箇所も無いなんて、正気の沙汰とは思えません! その駄目さが愛おしいキャラクターではありますが、だからこそ『ここ!』という活躍が一箇所でもあればそこだけで数億点出せるシーンになっていたのに!
賛否では『否』でカウントお願いします」。たしかにね、言われてみればね、そういう超おいしいシーンみたいなのが、ないといえばないかもね。はい。ということでございます。

■大手シネコンでは未上映という本作。ディズニープラスでの配信のクオリティには疑問あり

ということで、皆さん、大量にメールありがとうございました。私も『ブラック・ウィドウ』、今回はですね、109シネマズ二子玉川のIMAXレーザーで……ちょっとね、普段は違うモードで2回見たりするんですけども、今回はどうしてもIMAXレーザーでもう1回見たくなっちゃって。2回、見てまいりました。あのブダペストのカーチェイスシーンの一部、あと、その親父のレッド・ガーディアンの脱獄シーンの一部、そしてクライマックス、空中にバッと降りてから……そこからIMAX画面にバーッとなったりするということで。すごかったですよね。これ、ちょっと後ほどもそういう話をしたいと思いますが。

まあ本来、『ブラック・ウィドウ』はね、2020年5月1日に劇場公開予定だったのが、ご多分に漏れず、コロナウイルスの感染拡大を受けて延期を重ね、ついに公開……ただし、MCU作品としては初めて、配信サービスディズニープラスとの、日本では1日差での同時公開になった、ということですね。ただし、日本ではですね、全国興行生活衛生同業組合連合会、略して全興連っていうんですかね、そこが事実上、要するにこの「同時配信」という形に反発を示すという格好で、TOHOシネマズや松竹、あるいはT・ジョイといった大手シネコンでは、実はこの『ブラック・ウィドウ』がやっていないんですね。

で、東京だとシネクイントとか、新宿のEJアニメシアター新宿とか、要は大きな街の中だと小さい劇場中心でしか公開されていない、という、ちょっとイレギュラーな状態の公開になっちゃってるわけです。だからこそ、特に都内で言えば池袋のグランドシネマサンシャインのレーザーIMAXとか、あとはやはりレーザーIMAX、私が2回見た109シネマズ二子玉川あたりに観客が集中する、というのも当然だと思います。

特にですね、これはいっつも文句を言ってすいませんね。日本のディズニープラス、いっぱい見てますよ? ディズニープラス、もちろん入って見てますし、コンテンツとしてはいいと思うけども、docomoを通してるからかどうか知らないけど、いまだに4Kになっていないどころか、画面とかはHD仕様、音とかは2チャンネルで、要する非常にあんまり……特に『ブラック・ウィドウ』とかは3000円とかだからね。特別料金を払ったりするんだけど、ちょっとそれに見合った仕様とは言い難いんじゃないか?っていう、そういう状態なのもあって、っていうことですよね。

まあ、なによりも、そのディズニープラスで今、見られる、本来なら『ブラック・ウィドウ』公開後に展開されるはずだった、MCUフェーズ4のテレビシリーズがありますよね。要するに『インフィニティ・ウォー』と『エンドゲーム』の二部作の、その巨大な一区切りの後のテレビシリーズ。『ワンダヴィジョン』、そして『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』。そして先日、シーズン1が一旦終わった『ロキ』というこの3つ。今のところ。まあ元々そのMCUっていうのは、テレビシリーズ的要素が強いエンターテイメントでありましたけど、それがよりテレビシリーズならではの、なんなら、テレビシリーズでしかできない……特に『ワンダヴィジョン』は明らかにそうですけど。

そういう作品群にしっかりなっていたわけですね。テレビシリーズをやるならば、もうテレビシリーズでしかできないことをやる、という作品群になっていて。で、本来はその前に公開されているはずだった、つまりフェーズ4なんだけど、フェーズ3とのブリッジ的な位置も担っていると言っていい、この『ブラック・ウィドウ』はですね、たしかに話としては『シビル・ウォー』と『インフィニティ・ウォー』の間、なおかつ、その『エンドゲーム』でこのブラック・ウィドウというキャラクターがあそこまで自己犠牲的な行動に出たという、その根本の理由……要は、ある種彼女の行動は全て、贖罪行為だったということなんですけど。

なども、より理解しやすくなっている内容だし。あとはその、シリーズをずっと見てる人はニヤリとできたりとか……たとえばブダペストで何があったか、みたいなこととか、合点がいったりする目配せ的ディテールも、そこかしこに配置されていたりしてっていうね。まあ、要はそのさっきから言っているMCUのテレビシリーズ的な要素というか、続きで見ていないとわからなくなったりもするような要素というのは、たしかにあるんだけど。

■単体作品として成り立っている、「映画らしい映画」

でも、仮にそういうのを全部すっ飛ばして見たとしても……それこそ、MCUはあんまり見たことないし、詳しくないんですけどっていう人。RHYMESTERマネージャーの小山内さんもそうだって言ってましたけど、そんな人が見てもほぼ全く問題ない程度には、単体としてきっちりと成り立っている、楽しめる……要は、すごく本来の意味で「映画らしい」1本になっている、という。さっき言ったMCUのテレビシリーズが、すごく「テレビシリーズ的」だったのと、恐らくは表裏一体なものとして……テレビシリーズを始めたことで、MCUの中のテレビシリーズ的な要素はテレビシリーズでやり、映画をやるならば、ものすごい「映画っぽい」ことをやろうよ、っていうようなモードになってるんじゃないかという1本だと思うんですね。

まあスカーレット・ヨハンソン演じる、おなじみブラック・ウィドウ。でも、このブラック・ウィドウも、要は今までのMCU作品でもですね、「元スパイで暗殺者、いろいろ後ろ暗いこともしてきました……でも、ようやくアベンジャーズという家族に出会い、救われました」みたいなことが口で語られるだけで、あんまり詳しくバックボーンが描かれているキャラクターじゃない、謎めいているキャラクターだし。他に出てくる人たち……まあ、見ればどういう役回りかは子供にもわかるあのウィリアム・ハート以外はですね、ほぼ全員もう、初登場なわけです。

で、原作のアメコミからも大幅に設定を変えているし。大抵出てくる話は、MCU的には初耳だったりすることが多いので。要は、最近は事前知識のハードルが非常に上がる一方だったんですね。『シビル・ウォー』とかもう、本当に訳がわかんない、みたいなところまで来てたわけですけど。そのMCUの中では、かなり一見さんにも入りやすい1本、比較的単体としてしっかり成り立っている、「映画らしい映画」になっているということだと思いますけどね。

■インディペンデント映画風のホームドラマとシリーズ物のブロックバスター超大作。そのふたつがシレッと同居している

まあ、そのMCU。ざっくり言えば大きく2つの流れがあって。そんなに厳密に2つにぱっかりっていうわけじゃないけど、大きく言えば2つの流れがあって。ひとつはスペースオペラ、SF色が強めのライン。もうひとつは、現実の社会や社会問題を色濃く反映した、ポリティカル・アクション風味的なライン、という。まあ、本来だったらね、全然違うこの2つのジャンルが、混在し得るってところに、やっぱり今のMCUの、なんていうか……成り立たせちゃってるけど、これは異常だよね、本当はね、っていう懐の広さがあると思いますが。

で、この『ブラック・ウィドウ』は、明らかに後者、ポリティカル・フィクション的な風味、まあ『ウィンター・ソルジャー』からの系譜、ということが言えると思いますけど。言ってみれば「旧ソ連、ロシア側のウィンター・ソルジャー」的な、人間を殺人マシーン化する計画の話という。だからウィンター・ソルジャーをそっちに置き換えた話、という面もありつつ、同時に、特に今回の『ブラック・ウィドウ』にはですね、児童虐待とか人身売買とか、ひいてはその女性全体を搾取、抑圧、コントロールしようとする男性中心的システムという、現実世界の問題の明らかなメタファー、というのが描かれている作品でもあって。

その意味では、『キャプテン・マーベル』に続いて、非常に明確なフェミニズムメッセージを打ち出した作品でもあるわけです。なんというか、社会に対するアップデートされた意識っていうのを、ブロックバスター超大作として一足早く積極的に盛り込んでいく、という姿勢においても、MCUはやっぱりちょっと際立っているな、っていう感じがしますけどね。で、特に今回、私が非常に感心したのはですね、今言ったようなそのメッセージ性などが盛り込まれた、人間ドラマとしての側面を、MCUがやはりものすごく……なんなら優先順位一番高めで、本当に大事にしている、という点ですね。そこが僕、他のフランチャイズと一番違うところだと思います。

キャラクターを描く、そのキャラクターのドラマを描く、というところをプライオリティーのかなり上の方に持ってきている、というところが、やっぱりMCUはすごい!というところと、にも関わらず、ブロックバスター超大作としてのスペクタクル性……超大掛かりなアクションやVFXなどの要素、そしてもちろん、マーベル・シネマティック・ユニバースの中の一作としての、整合性ですね。これらがですね、シレッと当たり前のような顔で、同居している、という点です。

特にそれが現れているのが、やはり監督の人選で。先ほどのメールにもありましたけど、ケイト・ショートランドさん。オーストラリアの方ですけどね。これまでに長編としては、『15歳のダイアリー』『さよなら、アドルフ』『ベルリン・シンドローム』というような作品を撮ってきた方で。たしかにたとえば『さよなら、アドルフ』、主人公が両親を含めた体制の呪縛から自らを解放していく、されていく、という話ですね。これはナチスなんだけども。ナチスが負けた後、少女が自分たちを開放し、解放されていく、という話。

あるいは、『ベルリン・シンドローム』も、男性の暴力的支配から脱出、サバイブしていく女性の話、という点であったりとか。たしかにテーマ的には、今回の『ブラック・ウィドウ』と重なるところ大の作品を、これまでも手がけてきた、非常に優れた監督なんだけども。でも同時に、そのアクション超大作的なものは、やった経験はないわけですね。当然ね。全くないわけです。

で、そういう風に、インディペンデント映画で高い評価を得た人材を、ブロックバスター超大作、しかもそのシリーズ物っていうところにいきなり大抜擢、っていうのって、ちょっと前にすごく盛んになりましたね。2010年代っていう感じかな? 盛んになりましたけども……作品によってはやっぱり、いろいろうまくいかない例というのが、結構出てきて。まあ降板したりとか、実質的には他の人が大半を撮りましたとか。あと、手がけたはいいけど、ファンが怒っちゃいました、とか。いろんなことになって、非常になかなか厳しい面もあるな、というのが近年は見えてきた、という感じでもあると思うんですが。

この『ブラック・ウィドウ』だと、たとえばですね、冒頭しばらくの間、そのナターシャたちの少女時代、オハイオで普通に暮らしているところの描写が、結構続くんですね。結構「あれ? これ、何を見に来たんだっけ?」ぐらいの感じで続くわけですよ。手持ちカメラ、非常にナチュラルな画づくりで、どっちかって言うとやっぱりインディペンデント映画風の作りが、最初結構続くわけですね。

で、それが、あれよあれよという間に、後ほども言いますがまさに『007』のアバンタイトルさながらの、大アクションシーンへとなだれ込んで行き、そこから「ああ、真相はこうだったか!」っていうのがわかってみると、恐ろしくハードでダークなポリティカル・フィクションなタッチに移行していく。そこでタイトルが出て。久々にMCUでタイトルバックの曲が流れると思いますけども、ニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」の、ものすごく陰鬱なカバーが流れて、というのがあって。

つまり、このトーンの変化というのはですね、主人公たちにとっての家族との日常、人生というのが、常にその巨大な暴力性と隣り合わせになっていて。で、その手持ちカメラでナチュラルで優しい画づくり、このインディペンデント映画風のホームドラマが、瞬時に崩壊して暴力化していく、アクション化していくという、そういう形になっていて。要はこの映画……映画としては根本から元々異なるタッチが共存している、というこの構造そのものが、ブラック・ウィドウのこの物語のあり方、この主人公家族のあり方と、うまく一致してる作りになってるわけですよね。

■攻めた監督をチョイスしつつも、MCU作品としての整合性も損なわない。その完成形となる一作

彼らからすれば家族という日常なんだけど、でもそれは暴力にすぐ転化しうるもの、という構造になっているわけです。これ、パンフに載っているスカーレット・ヨハンソンの言葉がちょうどそれを言い表していて。「この映画は見ていると突然、脇から別の映画が激突してくるって感じ」「そのバランスを整える役割をケイト・ショートランド監督に委ねた」という言い方をしていて。これはまさに今、言ったようなことですよね。プラス、もちろんMCUサイドのチーム。たとえば脚本のエリック・ピアソンさん。この方、今公開中の『ゴジラvsコング』の脚本も手がけられてますけど、基本的にはMCUの脚本チーム。そういうところとうまく整合性を取って作っていると。

つまりMCUは、個々のキャラクターのドラマを、それにふさわしくしっかり描ける監督をまずはチョイスしておけば、アクションやVFXは、チームとして一定以上の水準に持っていけるノウハウ、すでに蓄積があるから、後はその両者をスムーズに共存させる作りをしっかり考える……しかもこれはMCUの、MCU生え抜きのチームが、MCU作品としての整合性も含めて考えればいい、という。そういうやり方をですね、特にこの『ブラック・ウィドウ』で、ちょっと掴んだんじゃないか、という感じがする。

だからこそ、『ザ・ライダー』とか『ノマドランド』の監督のクロエ・ジャオを、そのまま『エターナルズ』に起用する、という、一見無茶なことを……これはでも、たぶんはっきりと勝算があるんですね。「こういうやり方でできる」っていう勝算がある、っていう。その意味で、MCUの強みと、今後更にですね、攻めているけどもきっちり面白い、そしてそのMCU作品としての整合性も取れている作品たちを送り出していく、その体制の完成を見る一作というか。『ブラック・ウィドウ』によって、「ああ、ここから先、MCUはさらに強くなっていくんだ」っていうことがわかる一作だと思うんですよね。

ざっくり言っちゃえば、そのケイト・ショートランドさんの『さよなら、アドルフ』系譜の、ゆがんだ体制、家族の呪縛に向き合うことになる、という、まあある意味現実社会の反映でもあるようなシリアスなドラマと、劇中で目配せ的に出てくる……『007 ムーンレイカー』をナターシャが見てるというシーンが出ますけども、要するに『007』映画的な大仕掛けですね。特にやっぱり『ムーンレイカー』。隠された敵の要塞、そしてラスボスのネーミング、あと、超強くて手強いんだけど、共感も呼ぶ敵キャラ。そしてその敵キャラと一緒にボーンと(空中に)出ていく……やっぱり『ムーンレイカー』といえば、ノーパラシュート落下シークエンスですから。それの系譜ということで、明らかに完全に『ムーンレイカー』オマージュな、そういう非常に愉快痛快なスパイアクション。

だからその、非常にシリアスな人間ドラマと、愉快痛快スパイアクションっていう、その両者の奇妙な同居……でも、その「奇妙な同居」こそが、ナターシャの家族の在り方そのものなので。まあ非常に『ブラック・ウィドウ』という映画には合ってるんですよね。この2つの奇妙な同居というのが。

■特筆すべきはやはりフローレンス・ピュー

当然のように、そのナターシャ……この場合は要するに、さっき言った人間ドラマ、キャラクターの掘り下げこそがこの映画の、そしてMCUという、そのなんでMCUがこんなに面白いのか?っていうところのキモでもあるので。当然このナターシャの「ファミリー」「家族」の、役者陣のアンサンブルこそがキモであり。実際、そこが最高にうまく行ってる作品でもあるわけですよね。

特にやっぱりこれ、誰もが言及するところでしょう、フローレンス・ピュー。ふてぶてしくも繊細、感情の揺れとユーモア、皮肉さみたいなものを自然に醸し出す……強さと弱さを同時に感じさせるような、見事な演技。まあ本当にね、この世代の中でも頭ひとつ抜け出た存在だな、というのが改めてわかりますし。あとですね、これまでで言うと割とバイプレイヤーとして活躍してきた方……たとえば『レボリューショナリー・ロード』の、あの主人公夫婦の隣人ですよね。ケイト・ウィンスレットとちょっと浮気しちゃうあの人ですよね。だったりとか。最近だと、アメコミ物で言うと新しい方の『ヘルボーイ』のヘルボーイ役とかやってますけど、デヴィッド・バーバーさん。ものすごくいい味出してる。たとえばあの、最初のムショでの腕相撲をやってるところでの、あの顔ね。顔芸(笑)。「ウエーイッ!」って。あれこそまさに「イキリ・ゲンドウ」という感じのね(笑)、その極みというような顔芸も素晴らしかったし。

ただですね、まあメールにもあった通り、たとえば、あえて言えばラスボスね。演じているレイ・ウィンストンさん。非常にいい味を出している。最高にいい味を出しているし、この役柄としては別にいいんだけど、文句があるわけじゃないんだけど、ここはやっぱり『007』の黒幕キャスティングばりに、あるいは、やっぱり『ウィンター・ソルジャー』の「あの人」ばりにですね、「この人がやるのか!」っていうキャスティングを、ちょっと期待しちゃうよね。『007』映画風というならば。

それこそ「デ・ニーロが!」ぐらいの感じでもいいぐらいだと思うんですけどね。後はですね、それこそルッソ兄弟が手がけた一連のシリーズのような、真に独創的なアクションシークエンス構築、みたいなところはやっぱり、ちょっと期待しようもない。そこまでは行ってなくて。どっちかというと、アクションシークエンス全体が一種の象徴性を帯びたものとして扱われるという、その色が濃いと思います。まあその、ナターシャとエレーナが再会してすぐ格闘になるわけです。そこが鏡像関係的になっている……もちろん、敵役のタスクマスターとの戦いも鏡像関係、お互い鏡像関係なんだけども、同時にこの姉妹のバトルは、単純に「なんだかんだで息が合っている」ムードを醸す、という役割もあって。

これは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の序盤の、奪い合いなんだけど、なんか息が合っている感じにも見えるという、それにもちょっと通じる。アクションシーンをそういう風に使ってる、という演出で、まあこれはこれで今作の方向性でもあるかなと思います。

IMAXフレーザーでの鑑賞を絶対にお勧めします!

少なくとも間違いないのは、ブラック・ウィドウというキャラクターに対する思い入れは、これまでより数倍増すのは間違いないんじゃないでしょうか。あの『アベンジャーズ』のロキ尋問シーンで見せた、ナターシャならではの見事な技量というか、それがちゃんと今回もクライマックスで、生きてましたよね。ナターシャならこれをやってくれる!っていうことをちゃんとやっていて。

だからこれは『アベンジャーズ』のロキの場面の痛快さを連想させることで、「ああ、やっぱりナターシャは間違いない!」っていうのが出る感じですね。「ご協力、ありがとうございます」っていう、あのくだりですね。素晴らしいと思いますけどね。まあ、さかのぼって彼女のMCU登場シーンを見返したくもなるし、さっき言ったように、一見さんが非常に入りやすい作りなので、じゃあここからナターシャが過去、どうだったのかをさかのぼる人も絶対いっぱいいるわけだから。そういう意味でも、非常に周到な作りですよね。

さっき言った通りですね、ブダペストでのカーチェイス、あとレッド・ガーディアンの脱獄シークエンス、そして『007』の敵アジト攻略にあたるクライマックス、からの落下シーン、それぞれ一部が、IMAX仕様になっていて。特にクライマックスの空中格闘シーンはこれ、マジでそこだけIMAXでガッと……特にレーザーIMAXで、もう画面の隅々の、1個1個のディテールがバキバキに見える環境だと、そっちこっちで爆発やら物が落ちたり、いろいろとしているシークエンスで、しかも画面的な広がりがガッとある中で、もうね、「うわーっ!」って引き込まれる感じがあって。IMAXフレーザーでの鑑賞、マジお勧めします!

ということで、これは本当に、『ブラック・ウィドウ』はすごく「映画らしい映画」と言いましたけど、もう「絶対に」って言っちゃいますけど、大きい、いい条件のスクリーン、そして音で見るべき! これはやっぱり紛れもない、「映画」だったんですね。ということで、ぜひぜひ……こればっかりは、1発目は劇場で見ることをお勧めします。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週はお休みして、再来週の課題映画は、『竜とそばかすの姫』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。





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